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富 山文 学 の会
十 年の 軌跡
―― 二〇
〇 九年 から 二
〇一 八年 ま で―
― 富 山 文学 の 会
富 山文 学 の 会が
、 十 周年 を迎 え た
。 これ を 機に
、 この 十 年 の活 動 を振 り 返っ て みた い
。
そ の前 に
、 参考 と し て、 この 十 年 を 具体 的 にイ メ ージ で き るよ う「 読 者が 選 ぶ 県内 10大 ニュ ー ス」
(『 北 日 本 新 聞
』12
月) の 1位 を 挙げ て おこ う
。
① 一年 目 二
〇
〇九 年
(平 成21 年)
「お く りび と
」米 ア カデ ミ ー賞 外 国語 映 画賞
② 二年 目 二
〇 一〇 年
(平 成22 年)
ク マ 出没
人身 被 害相 次 ぐ
③ 三年 目 二
〇 一一 年
(平 成23 年)
「え び す」 食 中毒 で 5人 死 亡
④ 四年 目 二
〇 一二 年
(平 24成 年)
新 湊 大橋 が 開通
⑤ 五 年 目 二〇 一 三 年( 平 25成 年
)
富 山一 が夏 の 甲 子園 8 強
⑥ 六 年 目 二〇 一 四 年( 平 26成 年
)
富 山第 一高 サ ッ カー 全 国制 覇
⑦ 七 年 目 二〇 一 五 年( 平 27成 年
)
北 陸新 幹線 が 開 業
⑧ 八 年 目 二〇 一 六 年( 平 成28 年
)
田 知本
・登 坂 選 手が 金 メダ ル
⑨ 九 年 目 二〇 一 七 年( 平 成29 年
)
「 富 富富
」新 富 山 米の 名 称決 定
⑩ 十 年 目 二〇 一 八 年( 平 成30 年
)
奥 田交 番襲 撃 2 人死 亡 一 夜 明け 前
◎富 山 文学 の 会 前 史
富 山 文 学の 会が 発 足 した の は、 二〇
〇 九年 の 秋で あ る。 が、 も う 少 し遡 っ た時 点 から
、 い わば そ の前 史 か ら書 き 留め て お く こと に しよ う
。こ の 時 期の こ とは 会 員 であ っ
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も 含 め、 富 山 文学 研 究 者の 研 究発 表 の 場を 確 保し よ うと 努 め てき た
。 それ に よ り富 山 文学 の 存 在に つ いて
、 他地 域 の 研究 者 に も認 識 を 深め る こと が で きた の では な いか
、 と 思 って い る。
こ のよ う に 富山 文 学 研究 の気 運 が 高 まる な か、 私 の富 山 文 学研 究 の 対象 は 小 寺菊 子 に向 か う よう に なっ た
。小 寺 菊 子は
「 大 正の 3 大 閨秀 作 家」 と 称 され て いた が
、ほ と ん ど忘 れ ら れた 存 在 にな っ てい た
。 私は さ まざ ま な出 会 い によ り 菊 子を 知 り
、そ の 作品 を 読 み進 め
、菊 子 の文 学 作 品の 重 要 性に 気 づ くよ う にな り
、 紹介 や 研究 を 進め た
。 幸い 新 聞 や金 沢 文 学館 な どで 菊 子 が取 り 上げ ら れる よ う にな っ た
。菊 子 の 3巻 本 の作 品 集 を桂 書 房で 出 版し て い ただ い たの も
、う れ しい こ とで あ った
。
私 のも う ひと つ の夢 で あっ た 富山 の 文学 館 建設 も
、「 高 志 の 国文 学 館
」の 建 設 によ り 実現 す る こと が でき た
。こ れ か ら各 種 資 料の 収 集 が進 み
、富 山 文 学研 究 の拠 点 とし て 重 みを 増 して い くこ と を期 待 して い る。
本 誌「 群 峰
」も 号 を 重ね
、富 山 文 学 研究 の 深化 を 感じ さ せ る研 究 論 文や 資 料 紹介 が 多く
、 こ れか ら の富 山 文学 研 究 の峰 々 の一 層 の高 み を期 待 する こ と大 で ある
。
森 鷗 外 は、 青 鞜 社同 人 であ る 尾 竹紅 吉 が新 た に 発刊 す る「 番さ 紅 花
ふ ら ん
」に 寄 稿 を 求め られ た 際 に、
「 サフ ラ ン
」と い う巻 頭 文 を書 い た
。植 物 のサ フ ラ ンと 自 らの 関 わ りを 幼 年期 か ら たど っ た 内容 で ある が
、 結末 は 次の よ う にな っ てい る
。 宇 宙 の間 で
、 これ ま でサ フ ラ ンは サ フ ラン の 生存 を し て ゐた
。 私 は私 の 生存 を し てゐ た
。 これ か らも
、 サ フ ラン は サ フラ ン の生 存 を して 行 く であ ら う。 私 は 私 の生 存を し て 行く で あら う
。
「 番さ 紅 花
ふ ら ん
」 な ら ぬ「 群 峰」 の 一 層の 成 長 を祈 り
、こ れ から も 遠 方の 地 か ら応 援 して い き たい と 心か ら 思 って い る。
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金 子 幸代 で あ った
。 金 子の リ ーダ ー シ ップ と カリ ス マ性 に は 大き な もの が あり
、狭 義 の 研究 教 育の 枠 に収 ま らず
、 富 山 の文 学 研究 を 牽引 し
、多 く の足 跡 を残 し た。
富 山県 内 で は『 北 日 本新 聞』 の
「 越 中文 学 館」 と いう 連 載 が好 評 を 博し て も いた
。 この 連 載 は、 二
〇〇 七 年八 月 か ら〇 八 年 九月 ま で 四十 七 回に わ た り、 朝 刊の 文 化欄 に 掲 載さ れ
、 最終 的 に は、 北 日本 新 聞 社編 集 局編 著
『越 中 文 学館
』( 北 日本 新 聞 社、 二
〇
〇八 年 一〇 月 一七 日 発行
) と し てま と め られ た
。 二〇
〇 八年 一
〇 月一 七 日に は
、い わ ば メデ ィ ア・ イ ベ ン トと し て「 越中 文 学展
」お よ び「 越 中 文 学の 魅 力 シン ポ ジ ウム
」 が北 日 本 新聞 社 本社 で 開催 さ れ
、富 山 市 出身 の 直 木賞 作 家・ 源 氏 鷄太 を 中心 と した 展 示 など に より
、 文学 館 建設 の 機運 が 高ま っ た。
こ のよ う な 流れ の 中
、富 山県 も 文 学 館建 設 へと 積 極的 に 動 き出 し て いる
。 ま ず、 生 活環 境 文 化部 文 化振 興 課が 県 内 の有 識 者 を集 め
、 ふる さ と文 学 魅 力推 進 検討 委 員会 を 設 置し た
。そ の目 的 は
、「 富 山 県ゆ か りの 文 学を 広 く紹 介 し
、ふ る さ との 愛 着 心を 醸 成す る な ど、 富 山の 文 学振 興 を 図る た め の方 策 を 検討 す るた め
」 であ る
。二
〇
〇八 年 六 月二 日
、 富山 大 学 学長
( 当時
) の 西頭 德 三を 座 長と
し、 そ の 初会 合 が 開か れ た。 こ の 席に は 八木 光 昭
、木 下 晶、 近 藤 周吾 も 出 席し て いた
。 会 合後
、 八木 と 近 藤は 初 対面 に も かか わ ら ず、 今 は閉 店 し てし ま った 喫 茶 店「 ロ ニア ン
」( 教育 文 化会 館 の裏
)に て 富 山文 学 研究 の 将来 に つい て 熱 く語 り 合 った と いう
。 二
〇〇 九 年二 月 三 日、 同 委員 会 は 五回 の 討 議を 経 て「 ふ る さと 文 学の 振 興 に関 す る報 告 書
」を 富 山 県に 提 出、 文 学 館建 設 の方 向 性 とそ の 具体 像 を 明ら かに し た
。
県 外 に 目を 向 け ると
、 神奈 川 近 代文 学 館で は 二
〇〇 八 年一
〇 月 から 堀 田 善衞 展 が行 わ れ てい た
。こ こ で も富 山 に文 学 館 があ れば と い う話 に なっ て いた
。( この 堀 田展 は 結局
、 二
〇一
〇年 に 高 岡市 美 術館 に て開 催 され た
。)
と も あ れ、 以 上 のよ う な背 景 の 中、 富 山文 学 の 会も ま た胎 動 し つつ あっ た
。 二
〝 創業
〟 の第Ⅰ
期―
― シン ポ ジウ ム 時代
①二
〇
〇九 年 富 山 文学 の 会 誕 生
二
〇
〇 九年 九 月 三〇 日
、富 山 文 学の 会 の第 一 回 の会 合
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て も 知ら な いこ と が多 い と思 わ れる か らで あ る。
こ れま で の 富山 県 は
「文 学不 毛 の 地
」と 言 われ
、 文学 研 究 にお い て も「 後 進 県」 と 目さ れ て いた
。 たし か に事 実 と して 文 学 不毛 の 地 であ っ たと い う 面も 否 めな い だろ う が
、し か し
、そ れ 以 上に 文 学研 究 の 遅れ の 方が よ り深 刻 で あっ た
。 富山 県 は 他県 に 比べ て 高 等教 育 機関 が 少な く
、 ま た産 業 県で あ る こと か ら実 業 志 向が 非 常に 強 く、 文 学 研 究の プ ロパ ー が 極端 に 少な か っ たこ と が その 最大 の 原 因 であ っ た。 も ち ろん
、 一般 の 愛 好家 や 読 書家 は少 な く な く、 熱 心に 活 動 して い たの だ け れど も
、 その こと が か え って 文 学研 究 を 必要 と しな か っ たと い う 皮肉 な結 果 を も たら し た。 富 山 県の 多 くの 人 々 にと っ て
、文 学と は 教 養 であ り
、趣 味 で あり
、 それ 以 上 のも の で はな かっ た
。 な るほ ど
、富 山 県 に文 学 研究 者 が まっ た く いな か っ た と い うわ け でも な い のだ が
、な か な か定 着 し ない し
、 絶 対 数 も少 な か った の で、 大 きな 動 き を生 む に は至 らな か っ た。 ま た
、当 時 の 人文 科学 に は 共 同研 究 とい う 発想 が な かっ た こと も 災い し た。
そ のよ う な 状況 に あ って
、富 山 文 学 の会 が 誕生 す るこ と に なっ た 背 景に は
、 二つ の 出来 事 が あっ た
。一 つ は日
本社 会 文 学 会の 富 山開 催
、も う 一 つが 文 学館 建 設 の運 動 で あっ た
。
二
〇
〇 七年 一 一 月一
〇 日か ら 一 二日 の 三日 間 に わた り
、 富山 大 学 で 日本 社 会文 学 会の 秋 季 大会 が
「文 学 に 見る 環 日本 海
」 の テー マ のも と 開催 さ れ た。 文 学の 全 国 学会 が 富 山県 で 開 かれ た のは 非 常に 珍 し く、 日 本社 会 文 学会 の 大 会に 限 って い えば
、 これ が 初の 開 催と な った
。
幸 い
、こ の 研究 会 は好 評 であ っ た
。『 社 会 文学
』第 29号
(二
〇
〇 九 年二 月 一七 日 発行
) の 特集
〈 環「 日 本 海」 文 学の 可 能 性
〉に 結 実し た
。成 田 龍 一「 環 日本 海 文 学」 の 可 能性
―
― 地域 文 学史 を 書き 換 え る試 み
」を 巻 頭 論文 と し
、金 子 幸 代「 小 寺( 尾 島
)菊 子 と「 女子 文 壇
」・
「 青 鞜
」」
、 今 村郁 夫
「 小泉 八 雲の ヘ ルン 文 庫
」を 含 め た七 本 の特 集 論文
、さ らに は 紹介 欄 に逸 見 久美
「 父 翁久 允 と移 民 文学
」、 エッ セ イ 欄 に黒 﨑 真美
「 社会 文 学 者横 山 源之 助 と 富山
」、 丸山 珪 一
「 孫蔵 の 肖像 と 日本 近 代
―中 野 重治
『 村 の家
』 のひ と つ の問 題
」な ど が掲 載 され た
。
こ こ に 富山 文学 の 会 の萌 芽 があ る こと は
、確 かで あ る。 この 大 会 を 運営 し
、こ の 特集 号 の 編集 委 員長 を 務 めた の が、 後 に 富 山文 学 の会 を 興し た 富 山大 学 人文 学 部 教授 の
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