粗忽長屋の存在論
─ ハイデガー哲学理解の手掛かりとして ─
発表者:青 木 孝 介
AOKI Kousuke
コメンテーター:林 みどり 司会者:佐々木一也 1.はじめに
今回,落語の演目である「粗忽長屋」で展開される「死」の在り方と,マル ティン・ハイデガーの『存在と時間』における存在論,特に「死」にまつわる 問題とを接触させ,「粗忽長屋」の存在論的問題性を,ハイデガーの存在論と関 連させて論じていきたい,と言う事が,私の発表の趣旨である.
哲学と落語は一見,まるで関連の無いものであるかのように見える.哲学的 探求の素材として,何故「落語」が選ばれ得るのか.
それは「落語」という芸能が,あくまでも我々の日常の生に基礎を置き,な おかつその基礎から逸脱していく性質を持っているように思われるからである.
その逸脱が,すなわち「笑い」となって観衆に作用していくのではないか.こ こには,ある種の「噛み合わなさ」,或いは「ずれ」が生じていると考えられ る.例えば,今回私が題材として挙げた「粗忽長屋」では,「自分自身が死ん だことに気づかない」という事態が起こっている.これは,一見荒唐無稽な,
「馬鹿馬鹿しいお笑い」である.しかし,なぜその事を我々は「馬鹿馬鹿しい」
と思うのか.ここにおいて,すでに一つの「了解」があるのではないか.その
「了解」があるからこそ,我々はそこに「ずれ」を見出し,「ありえない」とし て「笑う」のではないか.そこで我々は確かに.落語によって,我々のよって 立つところを揺るがされてしまっているのではないか.すなわち,落語は我々 へと,様々な日常性を揺るがす「ずれ」を突きつけているのではないか.
我々の日常的な在り方に根ざしながら,その在り方から距離を取るのが「落 語」という芸能の基本姿勢なのである.そしてその「ずれ」は,落語自身によ る,我々への問いかけでもあるのではないかと私は考える.もちろん,今回取
り上げる「粗忽長屋」,ひいては「落語」というものが,「哲学的芸能」などと いうつもりはない.これは,あくまでも私個人の解釈であり,しかし,その日 常性からの「落差」において,私は「哲学性」を見出す.
他方,私が取り上げるもう一つのテキストである『存在と時間』において.
ハイデガーは次のように述べている.
現存在へ近づきこれを解釈する様式は,むしろ,この存在者がおのずから にそれ自身の側からおのれを示してくることができるような形でえらばれて いなくてはならない.すなわち,この接近と解釈の様式は,その存在者をそれ がさしあたり0 0 0 0 0,そしてたいてい0 0 0 0 0 0 0(zunächst und zumeist)存在しているありさ まで,すなわちそれの平均的な日常性0 0 0(die durchschnittliche Alltäglichkeit)
において,示すことが大切である.(Heidegger [1927]1967=1994a: 57)
はたして「存在する」とはどのような状態であるのか,また,どのような意 味を持っているのか.これらの事を考えるとき,そこで我々は非常な困難に立 ち向かわねばならない.
すなわち,「存在」というものをそのままで捉えるには,我々はあまりにも手 がかりを欠いている状態にあるのである.そこでハイデガーが着手するのは,
正に我々が「さしあたり,そしてたいてい」そのような在り方をしているよう な,「平均的な日常性」の中にある存在者,すなわち「現存在」の分析である.
ハイデガーの出発点もまた,我々が普段生きて行動する在り様にあり,かつ そこに留まらない.
ハイデガーはデカルトの議論における存在論的不徹底を批判した上で次のよ うに述べている.
われわれがデカルトについて重ねてきた考察があきらかにしようとした ことは,世界の事物から出発するという一見当たり前な態度も,また,存 在者についてのもっとも厳密な認識と思われる認識を手引きにする態度 も,世界や現存在や内世界的存在者の身近な存在論的構成と現象的に出会 うことのできる地盤の獲得を保証するものではないということであった.
(Heidegger [1927]1967=1994a: 225)
ただ目の前の事物にかかずらっているのではなく,目の前の事物のさらに奥 に潜むもの,すなわち「存在」を解明する事がハイデガーの目指した地平であ る.このようにして,常に日常性にある我々の在り方を「問う」仕方で行われ るハイデガーの議論と,落語の在り方とが「同じ」ものであると言うつもりは 毛頭ない.
私がここに見いだすのは,「粗忽長屋」に見られる「問い」と,ハイデガーの
「問い」とが,互いに関わり合い,新たな見方を提供し合うのではないか,その 可能性である.この可能性において,私はハイデガーを手掛かりに,「粗忽長 屋」の分析を行っていきたいと考える.そしてそれによってまた,ハイデガー 哲学の新たな論点もまた,明らかになっていくのではないだろうか.
2.粗忽長屋
まず,落語「粗忽長屋」のあらすじを述べる1.
住人が皆粗忽者ばかりという長屋に住む八と熊.ある日,八は人だかりに遭 遇する.聞けば行き倒れだという.行き倒れの顔を見て驚く八.その顔は,ま ぎれも無く熊なのである.しかし,周りの者が八に話を聞くとどうもおかしい.
聞けば,行き倒れが見つかったのは昨晩の事であるのに,八は今朝出掛けに熊 の顔を見ているのだという.しかし八は,あいつはうっかり者だから死んだ事 に気づかないのだ,と譲らない.八は長屋へ戻ると,熊に「お前が死んでるぞ」
と言い聞かせ.行き倒れのところへ連れて行く.その死体を抱き上げて熊がい うことには,「ここで死んでる俺は確かに俺なんだが,抱いている俺はいってぇ 誰だろう」.
自分自身の死体(と思われているもの)と対面する奇妙極まりない本演目に おいて最も重要な点は,「落ち」に当たる熊の上記のセリフである.眼前に「死 んだ自分」が存在し,なおかつ,「死んだ自分」がその死体を眺めている,とい う絶対的に矛盾した状況に対する問いかけによってこの演目は幕を閉じる.
まず,そのような状況に至るまでの物語の展開を整理しよう.この演目に登 場する「八」も「熊」も「粗忽者」,すなわち「うっかり者」という前提条件が ある.「熊の死体」を「発見」するのは,熊自身ではなく,八である.そして,
八は行き倒れ(熊)を取り囲む人々に,「これは自分の友達の熊」であると主張 し,「熊はうっかりものだから,死んだことに気がついていないのだ」と説明す
るのである.当然この時点で,すでに観客と八の見解には「ずれ」が生じてい る.周囲の制止も聞かず,八は長屋へ戻って熊を呼び出す.この場面では,八 が熊を「説得」しようとする.初め熊は,八に「死んだ俺がここでお前と話が 出来るわけがないだろう」と反論する.この時点では,熊と観客との間に「ず れ」はない.しかし,八が熊に「熊自身の死」を「お前はうっかりしているか ら」と,「筋道だてて」説明した結果,熊も「自分が死んだ」との結論に至って しまう.八と連れだって死体を確認した熊は,ここでも「顔が俺より少し長く ないか?」などと違和を表明するものの,八に説き伏せられて,目の前の死体 が自分であると納得してしまう.そうして,「やい,俺め」と「自分自身の死」
を悼み始めるのである.ここではすでに,観客と八・熊との「ずれ」は決定的 なものになっている.「己の死」という,奇妙な状況に対面している熊は,混 乱し,「己の死体」を抱きかかえる段になって,ある問いを発する.すなわち,
「ここで死んでる俺は確かに俺なんだが,抱いている俺はいってぇ誰だろう」.
この問いこそ,今回私が問題にしようと考えるものである.私は,この問い がすぐれて「存在論的」な問いではないか,と考えている.なぜならば,ここ ではすでに,「死んだ自分」を認識する自分というものは在り得ないという,一 個の了解が現れているのではないかと考えるからである.そしてこの了解は,
とても重要な可能性を秘めているのではないか.この可能性を,これから検証 していきたい.
さしあたり,現時点で言えるのは,この「ここで死んでる俺は確かに俺なん だが,抱いている俺はいってぇ誰だろう」という問いを以てこの演目は観客と 決定的に「ずれ」てしまうと言う事である.故に演目のクライマックスが訪れ,
物語自体の幕が下りる.この「ずれ」の意味をどのように考えたらよいのか.
そこで,この演目における「ずれ」を,「熊の死」についてどのように考え るべきであるかを中心に整理したい.一つには,八や熊の「粗忽者(うっかり 者)」というキャラクターと,観客側の常識的(論理的)視点との「ずれ」が 考えられるだろう.この演目の常識的な解釈としては,八や熊が,赤の他人の 死体を「熊自身の死体」であると勘違いしてしまっている,という見解がまず 穏当であろう.すなわち,「粗忽者」であるところの八や熊が,ひたすら「見 ず知らずの誰かの死体」に振り回されるというストーリーとしてこの演目を捉 えることは可能であるし,むしろ妥当でもあるだろう.この場合,観客はいた って冷静に,ストーリーのなかで繰り広げられる出来事について突き放して考
えていることになる.起こっている状況を誤認し,どたばた騒ぎを繰り広げる 八や熊の姿を観客たちは,「離れたところで」見て笑うのである.サゲ(落ち)
のセリフも,単にパニックに陥った熊の発した,いわば「シュールな」セリフ としてしか意識されない.ここにおける「ずれ」は,奇妙な勘違いを続けるお かしな登場人物たちへと観客の関心が向けられたことによるものである.
他方,「死」というものに対しての我々の観念と,この落語で繰り広げられて いる状況との「ずれ」に焦点を当てることも出来るだろう.この場合,熊は本 当に「死んでいる」のであると考えることになる(熊が幽霊であるという想定 はここではしない).であるにも関わらず,彼はそのことに気が付いておらず,
八によって「己の死」と対面することになってしまうのである.熊は,それを 客観視しながら,人ごとでは在り得ない,「自分自身の死」に向かい合ってしま っている.この解釈をした時,観客の感ずる「ずれ」は,正に「己の死」とい う状況へと向けられる.ここにおいて,先の解釈とは異なる意味を,この「ず れ」は持つのである.すなわち,観客は熊と同じように「己の死」という不可 解な状況に直面する.どう考えてもおかしい,在り得ないはずであるのに,し かし,それがどうしてなのか,と言う事については答えることが出来ない.こ のような事態において,サゲ(落ち)のセリフもまた,別の意味を帯びて来る ように思われる.すなわち,それが存在論的な意味ではないか.私は,このよ うな見通しに基づいて,この「粗忽長屋」という噺を捉えていきたい.ここに は,我々の,「死」なる事柄についての重要な示唆があるのではないか.その可 能性を探るために,次節からはハイデガー『存在と時間』の「死」にまつわる 議論を参照していきたい.
3.『存在と時間』における「死」の問題
ハイデガー『存在と時間』において,「死」は,現存在の存在に関わる重要な 要素として分析されている.
死ぬこと(Sterben)において,死(Tod)とは存在論的に各自性と実存と によって構成されているものであるということが,現れて来る.(Heidegger [1927]1967=1994b: 40)
むしろ,現存在は存在し続けている間はたえず,すでにおのれの未然を存0 在して0 0 0おり,そしてそのように,またいつもすでにおのれの終末をも存在0 0 して0 0いるのである.死という言葉が指している終わりは,現存在が終末に 達していること(Zu-Ende-sein)をいうのではなく,この存在者が終末へ臨0 0 0 0 んでいること0 0 0 0 0 0(Sein zum Ende)をいうのである.死とは,現存在が存在す るやいなやみずから引き受けるあり方(存在の仕方)である.(Heidegger [1927]1967=1994b: 50)
……死とは0 0 0,ひとごとでない0 0 0 0 0 0 0,係累のない0 0 0 0 0,追い越すことのできない可0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 能性0 0であることがあらわになった.かような可能性として,死は際立った0 0 0 0 0 0 意味で0 0 0差し迫っているものである.(Heidegger [1927]1967=1994b: 61)
「死」とは,我々一人ひとりがあまさず持っている,「存在」の可能性であり,
これは,何よりも確実な可能性として我々が引き受けているものであるとハイ デガーは言う.「死」においてこそ,我々の個々の存在はその特異性をあらわに する.そのようなものとしての「死」における在り方を日常的に行う事は非常 に困難である.日々の生活の中で,我々が「死」を己に関わりのあるものとし て捉える事は稀である.むしろ,我々はそれから目をそむけていることを常態 としている.ここにおいて現れるのが,現存在たる我々の,一つの在り方であ るところのdas Man(世人,世間)である.
その『誰れ0 0か』は,特に誰ということもできない中性的なもの,世間
(das Man)である.(Heidegger [1927]1967=1994a: 276-7)
……世間はあらゆる判断と決断をすでに与えていると称するので,世間 は各自の現存在から責任を取り去る.……だれでもきまって,それは世間 の仕業だったと言うが,また,それをしたのは,だれのせいでもない,と も言うことができる.(Heidegger [1927]1967=1994a: 278-9)
さしあたって0 0 0 0 0 0『存在している』のは,自分の自己という意味での「私」
ではなく,世間というありさまで存在しているほかの人々なのである.
(Heidegger [1927]1967=1994a: 282)
das Manという在り方は,日常において我々がそのようにして存在している 在り方として,我々を規定するものである.その在り方において,我々は日常 の様々な決定から責任を免れることができる.我々は,das Manとして生きる ことで,固有の「私自身」として現存在することから逃避することができる.
そしてそこにおいて,存在にとっての「死」の問題が浮き彫りになってくる.
das Manにとって,「死」とは何であるのか.ハイデガーは次のように述べる.
……死は絶えず発生する『事例』として話題にされる.その話は,死を,
いつもすでに『現実的なもの』として言いふらし,可能性としての死の性 格をつつみかくし,そしてこれと同時に,死にそなわる二つの契機 ─ 係 累のなさと,追い越すことの不可能さ ― をも蔽ってしまう.(Heidegger [1927]1967=1994b: 66)
……世間の無言の布告によって『然るべきこと』としてふれられることは,
《人は死ぬ》という《事実》に対する平然たる無関心である.(Heidegger [1927]1967=1994b: 68)
das Manという在り方においては,「死」は,何か第三者的な,リアリティ を欠いた,他人事としてしか意識されない.das Manにとって「死」とは,確 かに存在するものの,その可能性において,我々からは排除されているのであ る.ここにおいて,我々は「死」に対して無関心でいることができる.我々は,
「死」に向き合わないことによって,事もなく日常的に存在することができるの である.
しかし,ハイデガーは,「死」においてこそ,我々の「存在」が最も明確に 意識され得るのであると主張する.ここにおいて,我々の現存在における「本 来的」な在り方が現れてくるのである.そのためには,我々は各自の「死」と いうものに向き合わねばならない.その為に我々は「死の可能性」の中へ「先 駆」せねばならないと,ハイデガーは言うのである.
……《死へ臨む存在》として可能性へむかう存在は,この存在におい て,かつこの存在にとって,死が可能性として0 0 0 0 0 0あらわになるというありさ
まで,死へ向って関わり合う0 0 0 0 0 0 0 0 0 0はずのものである.このありさまで可能性へ むかう存在を,われわれは術語的に,可能性の中への先駆0 0 0 0 0 0 0 0 0(Vorlaufen in die Möglichkeit)と言い表すことにする.(Heidegger [1927]1967=1994b:
84)
……先駆とは実は,ひとごとでない0 0 0 0 0 0 0もっとも極端な存在可能を了解する ことの可能性なのであり,とりもなおさず,本来的実存0 0 0 0 0の可能性なのであ る.(Heidegger [1927]1967=1994b: 85)
ここにおいて,ハイデガーは一つの結論を導き出す.すなわち,「本来的」と いう言葉のもとに,自己の究極の存在可能性であるところの「死」を自覚し,
それと関わっていくことで,das Manという在り方を脱却していくことができ ると説くのである.その際に重要なのが,「死」への「先駆」に伴う「覚悟性」
という在り方である.この覚悟性において,人は「実存」することができるの であるとハイデガーは論じる.
この際立った本来的な開示態は,ひとごとでないおのれ自身の負い目あ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 る存在へむかって0 0 0 0 0 0 0 0,沈黙のうちに0 0 0 0 0 0,不安を辞せずに0 0 0 0 0 0 0,おのれを投企するこ0 0 0 0 0 0 0 0 0 と0である.この際立った開示態を,われわれは覚悟性0 0 0(Entschlossenheit)
となづけることにする.(Heidegger [1927]1967=1994b: 156)
おのれ自身への覚悟性こそ,共同存在するほかの人びとをひとごとでな い彼ら自身の存在可能において《存在》させ,この存在可能を率先的=解 放的な待遇において共同開示するという可能性のなかへ,現存在をはじめ て引き入れるものなのである.(Heidegger[1927]1967=1994b: 158-9)
このようにして,われわれはわれわれ自身の存在の可能性を引き受けること で,おのれ自身や,他者の存在へと関わっていくことができると,ハイデガー は我々の在り方に対する見解を明らかにするのである.
ここまで,ハイデガーの「死」と言う事にまつわる一連の議論を,引用を中 心にして参照した.次節からは,ハイデガーの議論から,「粗忽長屋」の存在論 的問題について考察する.
4.粗忽長屋の存在論
ここで再び,「粗忽長屋」へと戻ることにする.これまで見てきたハイデガー の「死」にまつわる議論を踏まえると,この演目からは一体何が見えて来るの だろうか.
まず,熊は「己の死」に向かい合っていると先に述べた.より具体的にいえ ば,「自身の死体」が現前しているのを,「死んでいる自分」が見る,という状 況に熊は置かれている.この状況の「奇妙さ」をまずはハイデガーの議論をも とに考察していきたい.
まず,「落語」は日常性の中にある人々の物語であるからして,八や熊が,ハ イデガーが言うところのdas Manである,と言い得る存在である.das Manで ある以上,彼らは普段「死」というものを意識せず暮らしている,日常的,平 均的な有り様をしていると思われている.
それは例えば,熊の,「己の死」への態度を見ても明白である.彼の有様は,
「先駆」や「覚悟」とは程遠い.彼は,あくまでもdas Manとして「死」へと 向かい合っていると考えられる.しかし,これは「態度」という点においてで あり,熊の死は,やはり「己の死」なのである.「粗忽長屋」における「死」の 在り方は,我々の日常感覚や,ましてやハイデガーのそれとは全く異なってい る.
ハイデガーによれば,「死」とは「ひとごとでない可能性」なのであった.
この時点ですでに,「粗忽長屋」の異常性が現れている.熊にとって,「死」は
「己の死体」という形で現前していること,言い換えれば,熊にとって「己の 死」は,ひとごとのように認識できる,目の前の現実として現れてしまってい るのである.死んでいる当事者としての熊と,「己の死」を外から眺める熊が,
同時に存在することは,ハイデガーの「死」の存在論的・実存論的分析では在 り得ない事態である.「死」はあくまでも現存在の側から,「いまだそうでない こと」として意識されなければならないはずのものである.しかし,この噺で は,「もうすでに起こってしまったこと」になってしまっている.ここにおいて
「死」は,「存在」を知るための決定的な契機ではなくなってしまっているので はないか.
すなわち,「死」というものが明らかにするはずの各自の「存在」が,「死ん だことに気づかないこと」によって,ここではより不明瞭になってしまってい
る.このことが,この噺の奇妙さの根底をなすように思われる.ハイデガーに おいて各人一人一人のものであるはずの「死」によって,却って自己の「一人 性」までもが否定されようとしているのである.
「死」とは,「存在しなくなること」だからこそ,「存在」をより明瞭にすると 言うのがハイデガーの論理である.しかし,das Manとしての熊は,「己の死」
を,「先駆」的にではなく,「既成事実」的に認識している.すなわち,「死」と いう存在可能性を通り越してしまっている.起こったことに対して「覚悟」す ることは出来ない.しかも,「死んだ熊」は,八が訪れるまで「己の死」に気 が付かず,あまつさえ,目の前の「自分の死体」と同時に存在してしまってい る.このような状況においては,ハイデガーの文脈において,「先駆」や「覚 悟」を見出すことは難しいだろう.それらにまつわるハイデガーの議論は,「粗 忽長屋」においては無効化されていると言ってよいのではないか.それは,「落 語」の,日常から「ずれ」ていく作用によるものであると考えられる.すなわ ち,八や熊が「粗忽者」であること ― それも,通常在り得ない位過激な ― に由来するものであると考えられる.
しかし,そのような「並はずれたうっかり者」としての熊たちの在り方の中 に,「先駆」や「覚悟」とはまた異なった仕方で,われわれが「本来的」な「存 在」へ向う契機があるのではないか.ここに図らずも,das Manからの脱却が あるのではないか.その発露を,私は熊の問いに見いだしたい.そして,その
「粗忽者」の問いによって,われわれもまた拠って立つところを揺さぶられ,「わ からなくなる」のであり,そこからまた,「わかる」ための問いが始まり得るの ではないか.それが,ここでは存在論の契機なのではないだろうか.
ここにおいて,熊の在り方から,私はハイデガーの存在論へ向けて,次のよ うに問いたい.すなわち,「もしもここで死んでいる俺が存在するならば,それ を抱いている俺は存在すると言えるのだろうか」と.
5.おわりに
ここまでの議論において,ハイデガーの論ずる「死」の在り方と,「粗忽長 屋」で表象されている「死」は,どこか噛み合わないものである事は明白であ る.その噛み合わなさにおいて,「粗忽長屋」は,ハイデガーとは異なる視座を 我々に提供しているのではないか.
ハイデガーの『存在と時間』においては,「存在とはなんであるか」という問 いと,「存在とはどうあるべきか」という問いの,二つのレベルが存在している ように思われる.一見,この二つは重なるようでいて,実はその向かうところ はまるで異なるのではないだろうか.後者の議論は,容易く相対化され,或い は,誤った解釈の可能性が常に付きまとう.
「死」というテーマを扱う時,ハイデガーのような「重い」仕方の他に,「粗 忽長屋」のような「滑稽な」,しかしそれゆえに本質を突くような仕方もまた在 り得るのだと言う事を,私はここで主張したい.
「落語」という在り方において,我々が普段意識しない我々自身の在り様が,
意外な形で明らかになる.それは,「落語」という芸能の持つ力であると私は信 じる.我々は,八や熊の姿を見て笑うが,その「笑い」は,絶えず我々自身の
「存在」へと向かう契機となるのではないだろうか.
注
1 主な音源は,五代目柳家小さん,2010,『東横落語会 五代目柳家小さん《三》』小学館
(CD)に拠った.
参考文献
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註解』日清堂書店.)
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和辻哲郎,[1934]1978,『人間の学としての倫理学 改版』岩波書店.
質疑
司会者 この発表の手がかりに採用された話は,落語を知る人には有名な「粗 忽長屋」という演目です.自分が死んでいるということを生きている自分が認 めてしまって,おのれの死体を抱いて,俺って何なのだというふうに問う,在 り得ない状況が可笑しい話です.この問い方は,落語では,生きている自分が 抱いているこの死体は一体何だということと,俺は誰だ,という問いになって いますけど,発表では,これをハイデガーの考え方,「死へ向かう存在」,おの れの本来性,そして覚悟性といった概念を使って,死に直面することによって おのれの本来の存在様態に気づくこと,また,存在の意味が時間性であるとい うことを認識していくという議論を援用して,最後のところで問いを変えてい ます.ここで死んでいる俺が存在するならば,それを抱いている俺は存在する のかという,存在論的な問いに転化しています.これは重要なことだと思いま す.この落語をこのように見直すことができるということで,この落語は日常 生活,つまりdas Manの生活をしている人間が,図らずも自分で意識しないま ま,覚悟もしないまま,自らの本来的な存在の問いへと落ちてしまう,そうい うことを表していると見立てた発表だと私は理解しました.それでは早速,林 みどり先生のコメントをお願いいたします.
コメンテーターのコメント:
意外な組み合わせが非常に面白かったです.ただ,私はまずこの落語自体を 知らなかったこともあって,分かりづらいこともありました.司会者がおっし ゃったとおり,「死に向かう存在」というような位置づけにおいて,ハイデガー
と連ねることはある意味可能だとは思うのですが,やや唐突に思います.それ は論旨の内容というよりもむしろ論の構成の仕方に問題があったのではないか と思います.最後の問いを最初に立てた構成になおすとよいかもしれません.
また,最初と最後に落語の話を持ってきて,中央にハイデガーのテキストを たくさん引用し,パラフレーズして説明をしているのですが,その際ハイデ ガーの考えと,前後に語られている「粗忽長屋」の話と,どうつながるのかが 少し分かりにくいです.落語の説明とハイデガーの説明の往復関係がもう少し あるとよかったです.例えばdas Manという概念です.これは,最初のほうで 触れられた観客の常識と八っつぁんや熊さんのうっかりとのずれみたいな話と 結びついてくるということは,漠然とは予想できるのですが,最後まで両者の 結びつき方が明確に示されないままに推移するので,聴衆は宙づりのままの状 態を余儀なくされてしまいます.この点の改善には,ハイデガーの引用とパラ フレーズでつなげるのではなく,もう少し自分の言葉でそれを言いなおして,
「粗忽長屋」の話,八っつぁん,熊さんの問いに何度も触れなおすというような 形で,ハイデガーの概念との有機的な結びつきを往復して語ると,もっとよい と思いました.ラジカルな提起だったと思いますので,説明の仕方で伝わり方 がずいぶん違ってくるものです.
さらに,粗忽性にかんして,ハイデガーの概念との有機的なつながりを強調 するとすれば,時間性の話が出てこなければならないのかもしれません.先ほ ど司会者から時間性の問題が指摘されましたが,私も時間性はハイデガーの中 ではとても重要な意味を持っていて,それと「粗忽長屋」の話は,多分つなが ってくるだろうというのはおおよそ分かりました.しかし,時間性について,
八っつぁんや熊さんの粗忽性とどのように絡み合っているので,粗忽長屋の笑 い話が,表面的な笑いでなく,人間の存在の真相にかかわる深い笑いなのだ,
というような自分の言葉での説明が落ちてしまっていたのが残念でした.
総じて意欲的な発表だったと思います.今後これをもとにした論文を発表す る際には,今指摘したことなどを活かしていただけたらと思います.
発表者の応答:
ありがとうございます.構成については全くご指摘のとおりと言うよりほか ありません.私自身がまだまだ未熟で,「粗忽長屋」の読解を通して取り組んだ ハイデガーという巨大な哲学者の前に,ここでは打ち破れてしまったというの
が実感です.これからどうやってハイデガー哲学とつき合っていくのか,その ためには何をしたらいいのか,ということが少し見えてきたかなと思います.
論文作成や発表などの技術的なところについては,これから勉強させていただ きたいと思います.
フロアとの質疑:
司会者 それではフロアからお願いいたします.
フロア 1 ハイデガーの死の捉え方について.笠井潔の『哲学者の密室』とい う小説の中のレヴィナス理解に関連して意見を言います.笠井はその小説の中 で,レヴィナスという,アウシュビッツで無数に人が死んだという事実を見た 人と,ハイデガーの死の哲学を比べるということをしたときに,むしろハイデ ガーが言っている死というのは,何か違うのではないか,と言っています.だ からハイデガーの死の議論こそが,実は死からの逃避なのではないかというわ けです.要するに,死とはもっと無残で,自分のものではなく,偶然襲い掛か ってくるもので,たまたまユダヤ人で,たまたまそこに行ってしまったから,
たまたま隣の人が殺されてしまうというような感じのものなのです.むしろ本 来の生とは,ハイデガーが言っているのとは全然違う「無残さ」にあるのであ って,ハイデガーの議論のほうがは逆に逃避的になっているのではないか.だ からハイデガーの議論こそは頽落(Verfall)であって,世人,ダス・マン,das Man的であるというわけです.私はこの議論に寄り添っているので,ハイデ ガーの「死の覚悟」がどれくらい妥当なのかとずっと考えたりしています.こ の議論と「粗忽長屋」の話はつながると思います.その際,落語における滑稽 の可能性は,果たして滑稽だけで見ていいのかどうか.「粗忽長屋」の中にある この感触を滑稽という言葉でくくってしまったときに,むしろ何か落ちてしま うものがあるのかもしれない.つまり「粗忽長屋」の死の可能性が,本当に滑 稽なのか,という問いがあります.そのあたりをどのように考えますか.
発表者 落語での死の扱われ方を全体的に見ると,「粗忽長屋」以外で,例え ば「らくだ」という演目があります.これはすごく嫌われ者の男がいて,この 男の死体を後ろから担いで踊らせるシーンが出てきたりしまして,落語におけ る死というのは,ある意味で無邪気で,そこに死体がごろりと転がっていても 何とも思わないような,それをdas Man的と呼んでよいかどうか分かりません が,そのような残酷さめいたものを含んでいることは確かにあると思います.
しかし,その死の扱われ方や,死が話題になる様を見ますと,そこは笑いどこ ろであることが結構多いのです.「らくだ」の例でも,死体を踊らせるところが 笑いどころだったりします.そこから考えますと,今度は観客と演目の内容自 体とのかかわりを考える必要があると,今お話を聞いて思いました.
フロア 2 四つ質問があります.
第一に,この発表を通して,ハイデガーの存在論をあえて扱った意義という のは何なのでしょうか.
第二に,途中でdas Manという概念が出てきて,最初の問題提起につながっ たような気がしました.ですが,das Manを持ち出すことについて,das Man という概念と落語との関係,あるいは,それの積極的な意味,言い換えますと,
登場人物がdas Manという在り方をしていますと表示する以上の積極的な意義 は何なのでしょうか.
第 三 に, ハ イ デ ガ ー の 存 在 論 に お い て 先 駆 的 覚 悟 性(Vorlaufende Entschlossenheit)という概念は,死に向かう(zum Tode)ものです.死に向 かう在り方はやはり重要ですよね.というのも,死が現存在(Dasein)の最も 固有な可能性で,そこから生ずる時間性(Zeitlichkeit)を帯びて覚悟が行われ るという意味で,時間性がかなり問題になってくると思うのです.粗忽な登場 人物たち,つまりdas Manの時間性はどうなっているのでしょう.
第四に,発表者自身のハイデガー哲学に対する理解がどうなっているのか,
聞いた限りでは分かりませんでした.大量にハイデガーの文献の参照は引いて あるものの,それに対する発表者自身の受け取り方は何なのか.ハイデガー哲 学と「粗忽長屋」のつながりに,発表者自身がどのようにかかわっているのか,
お話しください.
発表者 第一の問いについて.ハイデガー哲学を使ったことの意義ですが,存 在を考えるという仕方を最も影響力のある形で示したのがハイデガーだと私は 理解しています.そこで私自身がこれまで「粗忽長屋」という演目に漠然と感 じていた存在にまつわる問題性みたいなものをより明確化させるために,ハイ デガーの力を借りました.
第二の問いについて.世人,das Manというものはそもそも我々の一つの在 り方,現存在としての我々の一つの在り方ということだと思っています.この das Manという在り方の中から,また何か新しい可能性が出てくるのではない
かというのが私の今の考えでして,das Manという概念を出してくる一つの意 義なのではないかなと考えています.
第三と第四の問いについて.これについては,やはりまだ私自身のハイデガー 理解はハイデガー哲学を理解するというレベルまで達していないということを,
今回の発表では痛感しています.
フロア2 das Manという概念を見た上で違った在り方の可能性を見るというの は,それはハイデガーとは違った方向性ということですか.それとも,現存在 の本来的な在り方における死への向き方とは違った在り方ということですか.
発表者 ハイデガーの言う現存在の在り方の中で考えています.
フロア 2 本来的なものとは違う在り方ということですか.
発表者 その「本来的」という言葉にまだひっかかりがあるというのが私の現 状です.das Manがdas Man性(非本来性)を脱して本来性に向かっていくと いうのがハイデガーの論だと思うのですが,では,本来性では何を目指してい くのか,その目指す先が果たして本当に妥当なのかという点についてはまだは っきりしないというのが正直なところです.
フロア 2 結構です.ありがとうございました.
司会者 ハイデガー哲学研究の常識から申しまして,「先駆的覚悟性」はいろい ろ問題のある概念で,何に対して覚悟をするのか,何がきっかけで覚悟をする のか,分かりにくい,不分明だということで,批判されてきた概念ではありま す.ですから,先ほどの笠井潔の捉え方もそのような批判の一環になるだろう と私は聞いていました.これは発表者の今後の課題でしょうか.もう一人どう ぞ.
フロア 3 死の問題といえば,3.11 の津波がありましたよね.NHKがドキュメ ンタリー番組で何度も報じていますが,人は津波が襲ってきてもなかなか逃げ ないのです.防災心理学者によると,人には正常バイアス(どんな大地震を受 けても大丈夫と思い込む)や同調バイアス(みんなと一緒にいれば大丈夫)が あります.人間は死なないと思い込んでいる存在なのです.だからdas Manと いうのは,自分が死ぬとは思っていないのです.
発表者 死というものに対して,自分としてどのように考えるのか,課題です.
フロア 3 考えることよりも,現実の人間がどのように死と向き合っているか が大事なのではないでしょうか.例えば,韓国の地下鉄で火が回って,煙が全
Beyond Boundaries: Comparative Civilizations Now 14(Feb. 2014)
Copyright © The Comparative Civilizations Society of Rikkyo University
部回っているのに,椅子にずっと座っている写真が残っているわけです.だか ら考えることではなくて,人間の具体的な死を観察するべきです.
発表者 ありがとうございます.