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「表現」という概念をめぐって

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(1)

ジル・ドゥルーズにおける

「表現」という概念をめぐって

大 山

I.「もつJという動詞

ガブリエル・タルドは『モナドロジーと社会学Jにおいて,次のように 述べている.

これまであらゆる哲学は「存るJ(Etreという動詞に基づいてきた.

この動調の定義は,発見されるべき賢者の石であったように思われる.

断言できるのは,もしそれが「もつ」 Avoirという動詞に基づいて いたなら,実に多くの不毛な議論や精神の足踏み状態は避けられてい たであろうということだ.あらゆる巧綴さをもってしでも,我在り,

というこの原理から引き出せるのは,私の存在以外の存在ではない.

そこから,外的現実が否認されることになる.しかしまず次の公準 を立ててみよう.つまり,根本的事実としての「私はもっ」,もたれ るものともつものは分離不可能なものとして同時に与えられるという

公準である I)•

この「我在り」というデカルト哲学の原理は,「私は〜として存在するん

「私は〜である」という 主語一繋辞一属詞 という帰属の形式によって 表わされる.この形式は,主語が定立され,その性質としての属性が当の 主語に帰属するということを示すものであり,「〜とは何であるかJとい う本質規定を求める西洋哲学の一般的な思考形式である.デカルトがコギ トという概念を創造することで中世哲学と決別し,全く新たな思考を切り 開いてみせたことは紛うことなき事実であるが,私の存在(我在り)を規 定するものとしてのコギト(我思う)自体は依然として「私は思考するも のである j という帰属の形式に繋縛されたままであることをタルドは指摘

しているのである.

では,なぜこのように「存る」を挺子にした帰属の形式はタルドにおい 19 

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て否定されることになるのか.なぜ「在る」に代えて「もつJという動詞 が称揚されることになるのか.主語が設定され(ある Xが存在する),

様々な性質がその属性として貼りつけられていき本質が規定される(X は〜である) ...・...こうした思考においては,主語と属性が分離されてい るがゆえに,主語の本質規定はあくまでも外的なものに留まることになり,

さらには主語を「〜として」固定させてしまうことにもなる.論理的に考 えて,主語の本質を外側から規定するためには,主語に属詞を繋ぐ作用者 の存在が必要となる.つまり,「Xとは〜である」と判断する存在者が必 要となるのだ.この存在者はあくまでも主語と属詞の外側に立ったニュー トラルな視点から本質を規定せねばならず,規定後はこの存在者が何者か として考慮されることがあってはならない.なぜならば,本質とは普遍的 なものでなければならず,ある特定の存在者にとっての本質ということに なれば,それはあくまでも特殊な判断にしかならないからだ九しかし,

このような形式では認識論の観点から何がしかの真理に至ることができた としても,存在論の観点から主語の実在そのものを捕らえきることはでき ない.というのも,・主語 繋辞 属詞 という図式による対象(主語)

の把握は,世界の外側からの視点を担保にして成り立った虚構の形式であ るからだべ「Xは〜である」という本質が規定されても,それはあくま で媒介者が透明な存在として世界の外側に立って判断した結果に過ぎな い.主語は虚構的な視点から本質とされるものを単に与えられているだけ なのだ.内部観測の問題を持ち出すまでもなく,本来このような媒介者自 身も世界のなかに実在していなければならないはずで,そこを無視した本 質規定は結局のところ世界の実在に根ざすことにもならなければ,主語の 実在そのものに到達できるわけでもないめ

さらに述べるなら,世界に主語として実在するものはすべて特異なもの として実在するのであり,絶えず生成変化に曝されているのであってみれ ば,「Xは〜である」として固定したところで, Xそれ自体は常にそうし た規定を逃れていく可能性を苧んでおり, 主語一繋辞一属調 という図 式において主語と世界を存在論的に十全に捕捉することはやはり不可能で あるのだ.したがって,聞いは次のようになる.

①世界の実在に根ざした形で虚構の媒介者を介さず,主語を外的視点から ではなく内在的に掴まえるにはどうすればよいか.

20 

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ジル・ドゥルーズにおける「表現」という概念をめくおって

②絶えず生成変化する特異なものの存在様態をいかにして記述するか.

この間いに答える最初の手がかりとして,本論旨頭にヲ|いたガブリエル・

タルドの「もつj という動詞が召還されることになる.そして,私たちを

「もつ」ことへと差し向ける者こそ,ジル・ドゥルーズその人である.『襲J

における次の記述を見てみよう.

この所属あるいは所有をめぐる変化は,哲学的にみて実に重要である.

あたかも,哲学が新しい構成要素の中に入札存在の要素を,所有の 要素でおきかえたかのようだ.……フッサールよりもはるかにガブリ エル・タルドは,この変化の重要性を十分に把握し,存在という動調 の不当な優位性を糾弾した町

では,タルド自身は「もっ」という事態をどのように説明しているのだ ろうか.例えば,「私の腕が熱い」は「私の腕が熱さという属性をもっ」

ことを表す.また「メートルは長さの単位である」は長さの単位がメート ルを含んでいることを表す.これは,含むものと含まれるものとの関係で あり,つまるところ主語(含むもの)が何らかのもの(含まれるもの)を

「もつ」という事態である.したがって,タルドによれば,「存在(である)」

は「もつ」に還元されることになる.また,「存在」における命題の形式 は,つまるところ「Xは〜である」(存在)か「Xは〜でない」(非在)

かの二者択一に切り詰められるものであるが,「もっ」においては,主語 がある属性を多くもったり少なくもったりするという事態を表すことが可 能である(たとえ「Xはかなり〜である」ゃ「Xはあまり〜でない」と いう「存在」に基づいた命題を立てたとしても,結局それはXがその属 性を多くもっているかそうでないかという事態に還元されるにつまり,

「もつ」においてこそ無限の度合いや質やニュアンスを表すことが可能な のである.

さらに,「もつJものは同時にもたれるものでもある.例えばひとつの 分子が物理的,力学的属性として「もつ」のは延長や固有運動性といった 言葉ではなく,他の分子たちである.分子中の原子が化学的属性として

「もつJのは原子数や親和力ではなく,同じ分子中の他のすべての原子で ある.つまり,何かを「もつ」ものは他のものによってもたれるものでも あるしもたれるものは何かをもつものでもある.そして,生成変化する 21 

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この世界においては「もつーもたれる」の関係は絶えず変化していくこと になる.こうして「もつ」において,能動と受動が無限に展開されていき,

質的多様態としての世界の連続性が主語の「もつーもたれる」を通して掴 まえられることになるべここにおいて重要なのは,もはや世界の外側か ら主語に属性を貼り付けて判断する媒介者の存在は想定されることはない ということであり,また,能動 受動の無限の展開において主語が「〜と してj固定されたままでもないということである.主語が主語自身に含ま れているもの(主語がもつもの)を自ら表現し,また自らがそこに含まれ ているもの(主語をもつもの)によって表現されることによって,先ほど 提起した問いに対する解答が得られることになる.つまり,「もつ」とい う動調にシフトすることで私たちは世界の実在に根差しながら,外的視点 からではなく内在的に主語を掴まえ,なおかつ絶えず変化する特異なもの として主語を,そして世界それ自体を把握することができるのだ.

ここから, ドゥルーズがなぜガブリエル・タルドを援用しながら繋辞で はなく「もつ」ことに着目するのかが見えてくる九 ドゥルーズ哲学が,

超越を忌避し徹底的な内在に身を持そうとすることは周知の通りである.

そうした内在の哲学を錬成していく上で鍵となったのが,「表現」という 独自の概念である. ドゥルーズは,デカルトの本質主義を乗り越えてスピ ノザとライブニツツの哲学を表現の哲学として再創造することで新たな存 在論を立ち上げる道筋をつけようとしたのである.上に見てきたように,

「もつj という動詞は 主語自身における表現 に接続するものであり,

したがって, ドゥルーズの思考の系列に組み込まれる概念として考えられセり

てよい.

「表現」というドゥルーズ独自の概念は,『スピノザと表現の問題Jとい う書物で正面から論じられることになる.以下に,まずスピノザとライブ ニッツという三人の哲学者における「表現」の概念の特徴をドゥルーズが どのように捉えているかを示す.次に,この概念が錬成された後に,それ がドゥルーズにおける他の概念とどのように切り結ぶことになるかを素描 する.表現という概念を導きの意図として, ドゥルーズ哲学全体に対する

とりあえずの見取り図を提出することが本論の目的である.

1

I .「表現jをめぐる思考

折り聞く(expliquer)とは展開することである.包含するとは折り畳

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ジル・ドゥルーズにおける「表現」という概念をめぐって

む(impliquer)ことである.二つの語は対立的なものではない.そ れらは表現の二つの側面を示しているにすぎない.一方で表現は折り 開きであり,自らを表現するものの展開であり,「多」のうちに「ー」

を表示することである.……しかし他方では多の表現はーを包含する.

ーはそれを表現するもののうちに包含され,それを展開するもののう ちに刻印され,それを表示するすべてのものに内在している.この意 味で表現とは包含である8).

見られる通り,「表現Jは「ーと多」を巡る存在論に関わる概念である.

「ー」とは存在そのものとしての無限実体としての神であり,これは世界 において自らを表現する(「多Jの統一).そして,「多」はそれぞれが自 らを折り開くことで各々の存在の度合いに応じて「一」を表現する(「一」

の現実的多様性).では,表現の哲学はいかなる点で反デカルト哲学であ るのか.その骨子を『スピノザと表現の問題jを手がかりにドゥルーズが 提起する観点を二つ取り出して整理してみよう.

1.神の存在:デカルトは.無限の完令実体としての神の観念が有限な私 たちのうちにあるから神は存存する(神の存存証明).また.神はその 本質として最高に完全な存在者であるゆえにその本質と存在は分離さ れることはあり支ず.したがって神は存在する(神の存在論的証明).

という形で証明を行う.

表現の哲学にとって,この証明はあまりに性急なものと映る.なぜなら ば,有限の存在のうちに無限の観念があるから無限も存在するという論法 は,実在性や完全性の量に基づいた因果関係によるものであるが,これは あくまで与えられた結果から原因を憶断するア・ポステリアな証明に過ぎ ないからだ.つまり,実在性や完全性がそもそもどのように発生するのか,

いかなる原理の下で産出されるのかという力動的原理を捉えていないので ある. ドゥルーズによれば,スピノザのデカルト批判のひとつは,「実在

ピュイサンス・

性の量の議論の代わりに の議論を置き換えることを目的としてい るり)」のである.また,そのように絶対的な作用因である力動的原理を無 視して考慮された神の本質とは,実際は神の特質のひとつにすぎない.特 質とは性質であり,つまりは「Xは〜である」の「〜」にあたる.

23 

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神の特質はそれゆえ単に「形容詞」であり,それはわれわれに実体的 に何ものも認識させない.神はそれらなしには神ではありえないであ ろう.だがそれらによって神であるのではない川.

スピノザにおいて,神は無限に多くの属性から成り立つ唯一の実体であ り,自己原因でありすべての被造物の産出の原因である.この絶対無限と しての実体こそが完全性という特質の根拠となるのだ.無限に多くの属性 はそれぞれが唯一の同じ実体の本質や実在性を表現する.つまり,「実体 は自らを表現し,属性は表現であり,本質は表現される11)」のである.デ カルトにおいては,実体は精神と延長として考えられていたが,スピノザ にとってみればそれらは無限の属性のうちの三つにすぎない.あくまで実 体は唯一つであり,したがってそれを各々に表現する無限の属性も数的な 区別を被るのではなく,形相的に区別されるのみである.ここから,表現 としての属性の質的多様性を通じて,デカルト哲学に欠如していた被造物 を発生させる力動的原理として神を捉える端緒が聞かれることになるの

このことは質の観点から積極的に解釈されねばならない.質の観点か らすれば,属性によって一つの実体が存在するが,量の観点からすれ ば,あらゆる属性にとってただ一つの実体しか存在しないのであ 12).

ドゥルーズは, ドゥンス・スコトゥスースピノザ、 ニーチェという思考

セリー

の系列に沿って「存在の一義性」を織り直すことで独自の 内在的存在論 と言えるものを提起するのだが,その核となる概念のひとつは紛れもなく この表現の概念である.表現という概念に「存在の一義性」を接続させた

ドゥルーズの戦略は,『スピノザと表現の問題』で何度も繰り返される次 のような表現の特徴に依っている.

実体の本質はそれを表現する属性の外には存在しない.……表現され るものはその表現の外には存在しないし,おのおのの表現があるのは 表現されるものの存在としてである!九

「 ~J としての実体は「多j としての属性においてしか存在しない.つ

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ジル・ドゥルーズにおける「表現」という概念をめぐって

まり,「ー」を捉えるには「多」の表現内部からでしか不可能である.私 たちが「もつ」という動詞において見たように,表現においても外在的な 視点に立つことが忌避されていることが確認されよう.

そうした表現を介した内在的思考を, ドゥルーズはスピノザと違った形 でライプニッツのうちにも見出している.ライブニッツにおいても,神の みが原初的な「一」つまり始源的な単純実体とされる.神は,内的統一性 をもった相対的で派生的な単純実体としてのモナドを創造し,これにおい て自らを表現する.モナドは神によって創造されるのだが,そのとき神は 前もって最善の世界を選び出しこれをそれぞれのモナドのうちに同じひと つの世界としておく. ドゥルーズ後期の「袋」という用語を借りるなら,

主語=モナドのうちには世界としての無限に多様な系列と襲がすべて折り 畳まれ,各々の観点からそれを折り聞くことで「この世界jを表現するこ とになる.主語=モナドは神よりも低次であり,派生的とはいえ単純実体 であり「ー」として機能する.この「一」において「多Jとしての世界は

「~J へと集中されることで表現されることになるが,そのすべてが完全 に展開されるわけではない.つまり,「−Jのうちにはつねに暗く混雑し た「多」の部分がなお包摂されているのだ.「多から一」と「ーから多」

の折り聞きと折り畳みが同時に生起しているのである.したがって,神に よって創造されたモナドによるこの表現の外で神によって選ばれた「この 世界」が存在することはない.ここにおいて,表現されるものは表現の外 には存在しないという,スピノザにおいても見られた表現のあの特鍛が示 されることになる.

もちろん,ライブニッツとスピノザの表現の哲学には大きな違いがある.

例えば,「存在の一義性」に連なるスピノザの思考においては,実体とし ての神(「一」)を形相的区別しかっけられない無限の属性(質の多様性)

が表現しているのであって,あくまでもすべては実体それ自体の質的な変 様として世界t 自然が捉えられている(神即自然).それに対して,ライ ブニッツの思考においては,「世界はそれを表現するモナドの外に存在す るのではないが,神はモナドよりもむしろ世界を存在させることが理解さ れる.これら二つの命題は決して矛盾するものではない.むしろ二重の運 動を示している14)」.つまり,神によって創造されたモナドに世界は包摂 されるのであるが,その世界を生み出し選ぶのもまた神なのだ.したがっ て,派生的な単純実体としてのモナドと世界は一義的ではなく,神を介在 した二重性として捉えられることになる.さらにここから,ライブニッツ 2

(8)

の神の位置が,絶対的内在因としてのスピノザの神と異なり,ある種の外 部性を帯びることが予想されもするl

しかし,そうした違いがあるにせよ,二人の表現の哲学は実在性や完全 性の力動的原理としての神=実体を表現において内在的に掴まえ一一スピ ノザにおいてはいわば直接的に,ライブニッツにおいてはいわば間接的に

Jと「多」の存在論を提起する点では共通しているのである.

2.真理の基準についての明断判明な観念:「明断判明に認識するものはす べて真である|一一一デカルトはこのように明断判明件を認識の真理主主 準に設定する.

ドゥルーズによれば,「明断・判明な観念それ自身は真の認識を構成し ていないし,また同様にそれ自身のうちにその固有の理由も含んでいな 16)」.さらに,「明断・判明な観念はまだ非表現的であり,折り開かれな いままである1リと述べられる.これはどういうことか.

スピノザにおいて,個々の存在者(被造物)は決して実体ではない(実 体は神のみである).被造物は神の様態(発現)なのだ.では,被造物が 神の様態とされる根拠は何か.被造物と神が接続されてよいのは何による のか.というのも,被造物と神はその存在においても本質においてもまっ たく異なっているからだ.すなわち,神は自己原因として絶対無限で必然 的な存在そのものであるのに対して,被造物は有限で、絶えず生起と消滅に 曝されているのだ.それを解決するのが表現としての属性である. ドゥル ーズによれば,無数の属性は神の本質を表現しているのだが,「諸属性は 被造物と神に共通する,つまり,様態と実体に共通に存在する形式として 直接にとらえられるのであるJR)」.また,「諸様態は諸属性を包含し折り畳 んでいる,しかも諸様態は神の本質を構成するかぎりの諸属性に固有な形 式のもとで諸属性を折り畳んでいる川」のだ.つまり,属性は変様して様 態となり,属性において表現されていた実体は様態的変様として様態に発 現する.注視すべきは,ここでも,実体の変様としての「様態的変様は,

おのおのの属性において本質を表現している様態の外には存在しない20 という表現のあの特徴が来り出されることになることである.

このように実体一属性一様態が共通の形式を通じ合わせることで,存在 の一義性が完成することになり,様態の次元から実体へ至る認識の通路が 確保されることになる.スビノザにとってみれば,神の観念にまで行き着 26 

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ジル・ドゥルーズにおける「表現」という概念をめぐって

いてこそ認識は真の認識と言える.それゆえ,スピノザにとって,デカル トの明断判明性は真の認識には全く不十分なのである. ドゥルーズが提起 する論点を三つあげてみよう.

①明断・判明さとは観念の特質,観念の外在的規定でしかない.「彼は真 理が明断かっ判明な観念の中に現在することをわれわれに教えるが,真 の観念の中に何がいったい現在するかについては何も教えてくれな

②デカルト哲学は,原因について明断・判明な認識に至る前に,結果につ いての明断・判明な認識を有する.しかし,「スピノザによれば,われ われが結果の明断な認識から出発することは可能で、あるが,このように しては原因の明断な認識にしか到達しないであろうし,決して十全な認 識を得られないだろう……22

デカルトの明断判明性は,心的意識(「私」)が観念の表象内容の真偽を 判断するための基準であるが,結局のところ「人が明断判明なものにとど まっているならば…観念の外在的な性格のみを取り扱うだけで,人が存在 において捕捉するものは,ただその外在的な諸性格そのものにすぎないお)」

のである.私たちが Iで見たように,こうしたデカルトの図式は「X

〜である」と判断する媒介者の外在的判断と同じであり,実体を内在的に 掴まえることができないのである.

スピノザの場合,属性はその本性上他の属性と質的に異なるので,観念 と物体=身体(事物)も本性において異なる.そこから,観念は観念相互 が連結する論理的形式を形成し,それと独立して事物は事物相互の秩序を 形成するという絶対的な平行性を有することになる.しかしこれら二つ の様態は表現を通じた共通の形相によって(存在の一義性),唯一の同じ 実体をそれぞれ自らの原因とすることができる.

原因によって認識することは本質を認識する唯一の手段である.原因 は主語と述語の連結を基礎づける媒概念として,事物に帰せられるあ

らゆる特質がそれから生じる原理あるいは根拠である241.

すなわち,実体としての原因が存在してはじめて,明断判明さに基づい 27 

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た外在的特質を規定する認識が可能となるのだ.そして,原因としての実 体の認識に至るために,私たちはここでも「表現」という概念に出会うこ とになる.上の②における引用で「十全な認識」と言われているが,それ は「十全な観念」を有することによって達成される.スピノザは,明断判 明な観念の代わりに十全な観念を真の認識へ導くものとして呈示するの だ.そして,この十全な観念こそが表現的観念である.「……絶対に十全 な観念がわれわれによって把握され形成されるのは,それが一義性の厳密 な統制の諸条件を受け入れるかぎりにおいてである.つまり,十全な観念 とは表現的観念であるお)」.

では,ライブニッツの表現の哲学はいかなる点でデカルトの明断判明性 に対抗するのか.主語=モナドは神の視点に応じて無数に創造される.始 源的な単純実体としての神よりは低次の存在であるが,モナドも「ー」と しての実体である(この点においてスピノザとは異なる).モナドは内的 統一性を備え精神と身体を有した存在である.そして,これらモナドの内 部に「多」としての同じ世界が包摂されることになる.それぞれのモナド は,自らに折り畳まれた無限の襲(世界)を折り聞くことで,その世界を,

つまり他のモナドたちとの連閣を表現する(予定調和).各々のモナドは,

その完全性の度合いに応じてしか世界を明断に表現することはなく,残り の部分は暖昧で暗いままである.つまり,「……各々のモナドは,混乱し た全体的表現の根底の上に,その部分的で判明な表現を描くことにな 26)」.すなわち,唯一の同じ世界は,無数のモナドの度合いやニュアン スによって無限に表現されているのだ.ここには,絶対的な相対主義とい ったものが見受けられる.つまり,どれほど明断に世界を表現しているよ うに見えるモナドにも,必ずや暗く混乱した部分を有し,各々のモナドに

ースベクテイブ

特有の視 点から唯一の世界を独自に表現しているということだ.モナ ドの明断判明さは暗い底と繋がっているのであって,デカルトが主張する 認識の明断判明性は結局のところ幻想にすぎないのである.

確かに,ライブニッツの思考とスピノザの思考はその方向性が異なる.

スピノザが,存在の一義性に徹底的に根差しながら表現を通じて全ての属 性と様態を唯一の実体へと収束させているとするなら,ライプニッツは,

無数のモナドによる同じ世界の表現という形で世界を多様化,多義化させ る.しかし,二人の哲学者は「明断判明な観念」を忌避する反デカルト哲 学,つまり表現の哲学を呈示した点において, ドゥルーズは彼らに共有さ れていた聞いを見出しているのだ.

28 

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ジル・ドゥルーズにおける「表現」という概念をめぐって

m.「表現」という概念の展開

ここまで私たちは,「もつ」という動調をめぐる考察から始め,「表現」

というドゥルーズ哲学における特異な概念を『スピノザと表現の問題」を 参照としながら大まかな形で論じてきた. ドゥルーズは,スピノザとライ ブニツツに見出した「表現」という概念を織り直し,徹底的に内在に身を 持しながら「ーと多jを巡る存在論を創り出そうとしていた.そして, ド

ゥルーズはその試みに十分すぎるほどに成功したと言ってよい.表現の概 念は,この著作において見事なまでに練り上げられている.もうそれ以上 さらに展開しょうもないほどに.では, ドゥルーズは後の著作において

「表現」という概念について論じることはないのかといえば,当然そんな ことはない.この概念自体の理論構成をさらに深めるのではなく(それは,

fスピノザと表現の問題』で尽きている)他の鍵概念に接続させることで,

自身の哲学をさらに豊かなものにしているのだ.例えば,『意味の論理学j では次のような記述が見られる.

現動化するということは,表現されるということでもある.ライブ ニツツは,それぞれの個体的モナドが世界を表現しているという,有 名なテーゼを唱えている27).

『スピノザと表現の問題Jにおいて, ドゥルーズ哲学の鍵概念である

「現動化/潜在性」についての議論は皆無である.ただ,この著作が「潜 在性とその現動化」について大いに論じた『差異と反復』の副論文として 提出されたものであったことを勘案してみるなら,直後に出版された『意 味の論理学Jにおいて,二つの概念が接続されるのは自然な成り行きのよ

うに思える.さらに,次のような記述を見てみよう.

表現される世界が個体においてのみ存在し,また個体において述語と して存在するということが事実であるとしても,それは……出来事も しくは動詞として,まったく異なった仕方で存在しているのであ 28).

ここでは,「表現」は述語一出来事一動詞の系列に連なる形で捉えられ ている.そして,この系列こそ,「潜在性とその現動化」に加えて,後期 の『襲』において大きく採り上げられる論点のひとつである.私たちは,

29 

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本論冒頭で「もつjという動詞を 主語 繋辞一属詞 には還元できない 事態を捕捉するために導入した.そうした事態こそが出来事であり,これ もまた『スピノザと表現の問題Jにおいて扱われることはなかった概念で ある.

述語とは「旅の実現Jであり,一つの行為,運動,変化であり,旅す るものの状態ではないのだ.……述語が動詞であるということ,そし て動詞が繋辞と属詞に還元できないこと,これこそはライプニッツの 出来事の概念の基礎なのである 2

世界は潜在性として主語=モナドに包摂され,モナドはその無限の襲を 折り聞くことでその世界を表現する(現動化).そうした「ーと多Jにお

ける表現の運動は,無限に多様な度合いにおいて絶えず生起しつづける.

表現するモナドも表現される世界も常に生成変化の途上にある.主語とし てのモナドが自らに包摂された述語を一つの動詞として生きることで,世 界は生起する.それはどんなに些細で凡庸でも絶対的に特異な出来事の開 示である.そのような特異な出来事は,差異と反復の運動,あるいは永遠 回帰の運動において無限に生起しつづける.

「表現」から「出来事」へ.あるいは「表現としての出来事」へ.この ように, ドゥルーズの思考は,様々な概念たちが折り込み合いながらます ます豊かに聞かれていくのである.

1)  Gabriel Tarde, Monadologie et sociologie, PUF, 1999, p. 86. (以下λ1S).

2)デカルトにおいては,それは普遍的な理性を分有した存在者という形を採る ことで解決が図られることになる.

3)もちろん,その虚構がプラグマティックな観点から,私たちの生にとって有 効に機能するかどうかという点はまた別の問題である.

4)こうした外的規定批判に対する反論としては,主語概念を分析することで性 質としての属性が抽出される,というものが考えられるだろう.しかし,これ は主語に属性を繋ぐ作業の逆のプロセスでしかなく,つまりは予め属性を繋が れた主語からその属性を取り出してみせる作業である.いずれにせよ,属性を 主語から分析する媒介者の存在が必要であることに変わりはない.

Gilles Deleuze, Le Pli  Leibnez et le  baroque, Minuit, 1988, p. 147.  Plil.邦訳『髪一ライブニッツとバロックJ宇野邦一訳, i可出書房新社,九 30 

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ジル・ドゥルーズにおける「表現」という概念をめぐって

八年,一八八頁.

6) MS, pp. 87‑88参照.

7)『袋』において, ドゥルーズは「もつ」を「モナドが身体をもつこと」とい うテーマでも大きく採り上げている.さらにまた, ドゥルーズは「もつ」とい う動詞だけでなく,「差異と反復Jの捉え方に関しでもタルドを高く評価してい る.例えば次のような記述を参照.「真の反復とは,それと同じ度にある差異に ダイレクトに対応している反復である.差異と反復との徐々に完成されてゆく 適合を創始するための秘密の努力が,自然と精神のなかにあることを発見する ことによって,ひとつの新しい弁証法を仕上げるということを,だれもタルド 以上にうまくはできなかったのである」 Wiffirenceet repetition, PUF, 1986,  p. 39.邦訳『差異と反復』財津理訳,河出書房新社,九二年,五三頁).

8)争inozaet le probleme de !'expression, Minuit, 1968, p.  12. (以下SPl. 訳『スピノザと表現の問題』工藤喜作/小柴康子/小谷晴勇訳,法政大学出版 局,九一年,六頁.

9) Ibid., p. 74.同前,七九頁.

10) Ibid., p. 41.同前,四O頁 11) Ibid., p. 21.同前,一六頁.

12) Ibid., p. 30.同前,二七一二八頁.

13) Ibid., p. 34.同前,三一頁.

14) Ibid., p. 310.同前,三五五頁.

1 ドゥルーズは『袋』において,諸系列の因果関係自体を決定する「十分な理 Jの外部性に触れている.「系列全体は確かにモナドの中にあるが,系列の理 由はそこになく,モナドはその特殊な効果を受け取るだけ,またはその一部分 を実施する個体的能力を受け取るだけである.限界は外在的にとどまり,モナ ドの,モナド聞に予定された調和においてあらわれうるだけである」 Pli,p. 68.  邦訳,八八頁).さらに,この箇所に対するドゥルーズの注も参照.「系列の理 由が系列の外にあるということ,ここでこのことは文字通りに理解しなければ ならないように思われる.この点についてだけ,われわれはミシェル・セール に同意することができない…」.

16) SP, p.  137.邦訳,一五三頁.

17) Ibid., p. 138.同前,一五四頁.

18) Ibid., p. 37.同前,三六頁.

19) Ibid., pp. 3839.同前,三七頁.本論では触れられないが, ドゥルーズは様 態を自らの哲学の鍵概念である強度という観点から捉えている.「したがって,

有限者は実体的でも質的でもない.だがそれ以上に仮象でもない.それは様態 的,すなわち量的である.おのおのの実体的な質はそれ自身で無限な,様態的一 31 

(14)

強度量をもっている.そしてその量は無限に多くの内在的な諸様態に現実に分 割されるのである.これらの内在的な諸様態はすべていっしょに属性のうちに 含まれて,属性自身の強度的な部分となっている.まさにこのことによって,

内在的諸様態はそれらを含む属性のもとで,神の力の諸部分となる」 bid.,p.  181.同前,二O三頁).

20) Ibid., pp. 9798.同前,−o七頁.

21) Ibid., p. 301.同前,三四四頁.

22) Ibid., p. 141.同前,一五八頁.

23) Ibid., p. 301.同前,三四四頁.

24) Ibid., p. 143.同前,一六O 2 Ibid., pp. 307308.同前,三五一頁.

26) Ibid., p. 349.同前,三四九頁.

27) Logique du sens, Minuit, 1969, p. 134.邦訳『意味の論理学』岡田弘/宇波 彰訳,法政大学出版局,一四一一一四二頁.

28) Ibid., p. 13ラ.同前,一四二一四三頁.

29) Pli, p. 71.邦訳,九二頁.

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参照

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