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ゲーテ『アレクシスとドーラ』-謎の詩行と嫉妬をめぐって-

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(1)Title. ゲーテ『アレクシスとドーラ』-謎の詩行と嫉妬をめぐって-. Author(s). 大木, 文雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 46(2): 69-79. Issue Date. 1996-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2045. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第46巻 第2号 i i i t t l t Jownalof Hokkaido Univels on 胎) Vo on(Sec yof Educa .46 .2 , No. 平成 8年 2月 Februaけ,1996. ゲ ー テ 『ア レク シ ス と ドー フ』 - 謎 の詩行 と嫉妬 を め ぐっ て - 大. 木. 文. 雄. 北海道教育大学釧路校ドイツ文学研究室. Fumi o OHKI German l i i t to e ra ry Labo ra Iy r o Campus , Kush , Hokka i do Un i i i t t ve s r on yofEduca Kush i ro 085. Goethes A を工 禽 “7 2d Doγα - Um die Verse des Ratsel fer s und di e Ei sucht -. L 序. 論. ゲー テ の 日 記に よれ ば牧 歌 『ア レク シス と ドー ラ』 は 1796年 5月12日か ら14日ま での 3日間に集中的に , 執 筆 され, 5月14日の 日 記 に は, ”A1 i exs und Dora geendigtぞ. 1 ) 「ア レ ク シ ス と ドー ラ 終 了 ( ‐一. と 書か れ る こと に よ っ て, こ の 作 品 の原 稿 は こ の 時 ほ ぼ 完 成 した‐ ゲー テ47才 の 時の作 品 である 予 て か ら . 雑 誌 『ホ ー レソ』 (Di lmanach) に, 文学 作 品 を寄 稿 してく れ る よ う e Hor en) ある い は 『年 鑑 詩 集』 (Musena に, 編集 主 幹 シラ ーか ら切望 されて いた ゲー テ は や が て この 『ア レク シス と ドー ラ』 をそ の 『年 鑑詩 集』 , に 載 せる ことを 考 える‐ しか しこ の作 品 は ゲー テ がフ ンボル ト宛 の 手 紙 (an Humboldt 27‐5.1796) の 中 , , で書 い て い る よ う に, ゲー テ にと っ て は極 め て 愛着 の ある作 品 であ り 彼 自 身 そ れ を と て も 大 事 に して い ,. た‐ だから印刷に回す前にこの作品についての評判, あるいは批評を知りたいと思い 早速その原稿あるい , はその原稿の写しを, 彼の知人や友人に回覧したり, あるいはゲーテ自身が彼らの前で朗読したりした . この物語は愛し合う二人の間に, 突如として入り込んでくる 「嫉妬」 を中心に展開する アレクシスは商 . 人の青年である‐ 彼は海外にでかけて沢山の指輪や宝石を買い付ける商業取引のため 今船に乗ってふるさ , と を 離 れて い こう と して い る‐ 彼 は出港 した 船 の甲 板 に ひ と りたた ず ん で 遠く に な っ て 行く ふる さと を 眺 ,. めながら, たった今別れて来たばかりの愛すべき娘 ドーラのことを 熱い思いで考える 幼なじみではあっ , ‐ たが, 彼はこれまで ドーラに対して特別な愛を感 じていなかった‐ 船が出航しようとして慌ただしさを増し ているとき, そして丘の上の家でアレクシスが両親に別れを告げ, 走って坂道を駆け降りて来たとき 彼は , ドー ラ に 出会 う. 「私 にも 小 さな 首 飾 りをも っ て 来 て」 と ドー ラ は願 う そ して船 の上 では 食 べ れ ないか らと ‐. 言って, 庭になっていたオレンジやイチジクを取って来て, ミルテの花咲く 四阿屋の中でその果物を篭一杯 に積 ん でく れる. この と き初 め て ア レク シス は ドー ラに 真剣 な 愛 を感 じる‐「君 は ぼく の も のだ ね」 と 叫ぶァ 69.

(3) . 大 木 文. 雄. レク シス. 「い つま でも」 とそ っ と さ さやく ドーラ. 二 人の愛 の 陶酔‐ しか しア レク シス はいつ ま でも そ こに と どま っ てい る わ けに はい か な い. ア レク シス は後 ろ 髪を 引 か れ る 思い でそ こを立 ち 去 り, 船 に乗 っ て 出航 して きた. 甲 板に 立 っ て 熱 い 思 い で ドーラ の こ とを考 えるア レク シス‐ しか しそ の 思 い は 突 如 と して 「嫉 妬」 に変 貌 す る. ほか の男 もま た ドー ラ に誘 わ れて, ミ ルテ の 花 咲く 四 阿屋 に行く の ではな いか‐ 「あ れも 女. ・だからまたすぐ, 次の男へと向きなおるのだ. 」 嫉妬はアレクシス を絶望に追い込む. ドーラに対する不実を嘆くアレクシスは, 絶望して自分を海豚の餌食にしてくれるよう にと, ゼウスの神に絶叫する. 物語はここで途切れ, その後に詩人 (語り手) が介入し, いわゆるエ ピロー の 子‐ ざ っ と ひ と りの 男 にな びく. …. グと して, 詩神 ミ ュ ー ズが 賛 美 され る. 詩神 ミ ュ ー ズ は二 人 の傷 口を治 す こと は で きな いが, 痛 みを和 らげ る こと はで きる と. 2 ) ( 以上 が牧 歌 『ア レク シス と ドー ラ』 の 梗概 である‐ この 物語 は, 前 半の幸 せな 二 人 の牧 歌 的気 分 と, 後半 の 「嫉妬」 に よ っ て引 き起 こされ る 激 しい情念 と の 二 つの部 分 に 大 きく 分 け られ る のだ が, 果 た して この 作. 品はゲーテが 「牧歌」 の典型, 模範として描こうと試みたその典型的牧歌に相応しい作品であるのか, それ ともこの作品は批評家たちが指摘したようにいくつかの 「不一致」, 「違反」, 欠点を持った作品であるのか‐ たしかに ゲーテにとってこの牧歌は自信作 であった. しかしこの作品が公にされてから現代に至るまでのこ の作品の受容史を展望すると, 前半部分に 「小さな不一致」 を感じさせる 「謎の詩行」 が挿入されていると か, 後半部分では突然 「嫉妬」 の場面が出ている, といった批評が中心を占めているのが判る‐ そのために この作品は, ゲーテの代表的牧歌 『ヘルマンと ドロテーア』 のような好意的歓迎を受けずに現代にまで至っ ている‐ 果たしてそうであろうか. 本論ではこれまでの受容史を展望しつつ, 最終的にはその中で問題とし て 浮 か び上 が っ てく る 「謎の 詩行」 が, これま で行 われ る こと の なか っ た, ス イ ス の 詩 人 ザ ロ モ ソ ・ ゲス f ) と 比較 され る こと によ っ・て, 従 来と は違 っ た 新 し ) の 牧 歌 『嫉 妬』 (Di ナー (Salomon GeBne er sucht e Ei r. い解釈が提出される.. 2. 同 時代 人た ち によ る 解 釈. rた と ヘ ばフ 原稿が回覧されたために, この作品は印刷に付される前に もう既にかなり有名になっていた‐ リ ー ドリ ヒ ・ シ ュ レー ゲ ル は兄 の アウ グス トに宛て, 『ア レク シス と ドーラ』 を感 嘆 して 読 ん だ と い う 意 味 の こと を 次の よ う に書 いて い る‐. 「昨日はす ばらしい日でした. 僕はあの牧歌を読んだのです二 一度だけ, そしてこれからまたそれを読む機 会 が たと ヘ な い と して も, あの 牧 歌 は 決 して 忘 れ られ ないも の に なる で しょ う. 僕 は悦惚 と な りま した‐ あ ! ) とい う言 葉 は, 心の 底 か ら僕 を 揺 り動 か しま した‐ 歓 喜の 涙 が原 稿 の 上 に落 ちま の “と こ しえに“ (Ewi g も っ て い る こと で しょ う. ゲー テ が これ ま で愛 を題 材 に して 詩作 し した. あ の娘 の 語 り口 はな ん と 愛情 が こ‐ ・と ころ で この作 品を 牧 歌と 彼 が名 づ けたの は正 し て きた も の の どれ よ りも僕 はこの作 品 が 好 き です. ・ ・. い と 思 いま す‐ この作 品 は シラ ーの 言 う意 味に おいて 現 代 的 である だ け でなく, ギリ シ ャ 的 でも あ りま す. 3 { ) こんな ふう に詩 作 できる 人 は神 様 の よ う に幸 せ です二 J. …. シ ュ レー ゲル は この作 品を こ.のよ う に絶 賛 して いる が, しか しな が ら多 少 不満 が残 る場 面 の ことにつ いて ドーラ に 対す る 思 い を語る 独 白の も 言 及 してい る. それ は甲 板に立 つ ア レク シス の, 今別 れて きた ばか りの‐. 途中に, 突然, その流れとは違った, 異質な詩行が語られていることに対する指摘である‐ その詩行に対し ne kleine て シ ュ レー ゲ ル は, ア レ ク シ ス の 独 白 の 流 れ に 逆 ら っ た, あ る 種 の 「小 さ な 不 一 致」 (Ei 70.

(4) . ゲー テ 『ア レク シス と ドー ラ』. Ungeschi i ), t ck互chke. i l i ある いは 「小さ な違反」 (e t nk e ne r ver s oB). 除」 (das G1ei l ) chniB vom Ra thse. を感 じる と 書いて, そ れ は 「謎 の比 4 { )ア レク シス の独 白の途 の よ う なも の である と 述 べ て いる‐ 中に 突然 出. てく るそ の 異質 な詩 行 と は次 のよ うなも の である.. Sol in Ratse l egt der Di chtere , Kunst l i i t VVor ten ver t der Ver ch 立1 schrankt sam mlung 血s 0hr ‐ ,of i Jeden f i l i reut d e seltne Verschndpfung derz er chen Bader , Aber noChfeh 1 ヒ et das v▽oh e Bedeutung verwahrt; , das di 1 i i ter ts st es end互ch gefunden ch jedes Gemat auf , dann he Und erbl i l f i t er cktim Gedi cht doPPe reul chen Sinn‐. そ の よ う に 詩人 も,. 言葉を巧みに組み合わせた謎めいたものを, よく聴衆に聞かせる‐ 優美な形象の不思議な結び付きは, 楽しいものだが, 意味を明かす言葉は, まだ欠けている. ついにそれが見つかると, 人々の心は晴ればれとして, 5 { ) そ の 詩 の 中 に, 二 重に楽 しい意 味 を 知 る. と ころ で シラ ーも ま た ゲ ー テ宛 の 手 紙 の 中 で 『ア レク シス と ドー ラ』 に対 する 批 評を 書 い て い る が ‐ シ , , ラ ー も ま た シ ュ レー ゲ ル 同 様, 称 賛 の 中に も この 作 品に 対 する 批 判 を加 え る こと を 忘 れな か っ た しか しシ ‐ ラ ー の 批判 の箇 所 は, シ ュ レー ゲ ル の 不満 の 箇 所 と は違 っ てい た 私 は こ こに おいて シ ュ レー ゲ ルの 不満 . ,. の箇所と, これから述 べようとするシラーの批評の箇所とが, この作品解釈にとって極めて重要な問題性を 学んだ箇所であることを特に指摘しておかなければならない‐ というのもこの二人の指摘した場面を正確に 解釈することが, その後のこの作品研究の大きな課題になったからである. さ て 問題 の チク・ リ と刺 す よ うな 批 評を 含 ん だ シラー の 手 紙 は1796年 6月18日に ゲ」 テに 宛 て 書か れた 長 ‐. い引用になるが, 重要な内容を含んでいるので, 全文引用しなければならない‐ 「この牧歌を読んだのは二度目になりますが 私は心から感動しました いやそれどころか最初に読んだ時 , ‐ よ りも っ と 感 動 しま した. 確 か に こ の 牧 歌 は あな た が 作 り出 したと ころ の 最も 美 しいも の に属 しま す こ れ ‐. は情感のくみ尽くし得ない深みにおいてとても純真です. 筋の運びは 船人たちがアレクシスを待ち受けて , い る と い う 事 情が ある ため い っ そ う 荒々 しさ を 増 しま す そ の た め に愛 しあう 二 人の 舞 台 は狭ま り 事態 は ‐ , 切 迫 し, 意 味 深く な っ てゆ きま す‐ そ う して この 瞬 間は 本 当 に 生全 体 の 内実 を 持つ に至 てし・ま す ひ と っ , ‐. つの対象からかくも純粋に, かくも見事に詩の花を摘み取っているような場面をさらにもうひとつ考え出す こと は 困難 であ りま しょ う‐. あなたはすぐ次に嫉妬を登場させ, 幸福がたちまち怖れに呑み込まれていくように話を仕組んでおられま すが, 私としては何らまともな反論はできぬものの, 気持の上でまだ完全にこれを是とすることができませ ん. こ う私 が 感 じま す の も ひと え に ア レク シス が 娘 の もと を 離 れ 乗 船 す る 時 に ひた り き て い た あ の , っ , , 6 ( ) 幸 福 な 陶酔感 を いつま でも引 きと め て お きた いか らな の です 一 ‐. シラーの批評はこの牧歌の前半部分, すなわちアレクシス とドーラの二人が出港寸前になって初めて愛の 契りを結ぶところの部分までは絶賛しているのだが, 後半部分, すなわちアレクシスの嫉妬の場面は 「幸福 , 71.

(5) . 大 木 文. 雄. がた ちま ち怖 れ に呑 み込ま れて いく よ う に話 を仕 組 ん でい る」 か ら, 「完 全 に こ れを 是 と す る こ と が で き ま せん」 と 書く こと に よ っ て, チクリ と 針を刺 す よう な批 評 を下 して いる の である‐ 愛す る ドー ラ か ら別 れ て 来 た ばか りの, 船 の 甲 板の 上 に立つ ア レク シス の心 の 叙述 は, 二 人の 愛 が これか らも と こ しえ に続く と いう. 「幸福な陶酔感」 について, 書かれるべきであって, 嫉妬についての叙述な ど書かれるべきではない, とい うのである‐ なるほど宮廷顧問官という肩書の称号しか持たないシラーにとって, 枢密顧問官 ゲーテは身分 i 〉 を使う間柄であり, 手紙の表現も非常に丁寧であるが, その意味するとこ が上であり, それ故敬称の くS e ろのものは, かなり辛抹な意味内容を含んでいる‐ そしてまだ 『年鑑詩集』 に印刷されず, 原稿のまま回覧 されていたこの作品は, 修正の余地を残したものであり, シラーはゲーテにこの嫉妬の場面を修正できるな ら修正 して も らいた いと 望 ん でさ えい る よ う に思わ れ る. そ れ に 対す る ゲ ー テ の 返 事 は ど の よ う な も の で あ っ た か‐ ゲーテ は次の よ う に書 いた.. 「作中最後の嫉妬については二つの理由があります‐ 一つは自然の理というものです. つまり, 思いもかけ ぬ身に余るような恋の幸福は, それを失いはすまいかという怖れと瞳を接しているものなのです‐ そしてい ま一つは芸術上の理由です. すなわち, この牧歌は終始パセティックに展開しており, したがって大詰めま ぎわまで情熱は高められてゆ きます‐ そして結びの段に至ってようやく, 話は作者の懲惣な別れの挨拶で何 7 } ( と か 耐 え得 る ほ どの 明 る い調 子 を取 り戻 す と いうわ け です‐ 一. ゲーテは, シラーの, いわゆる嫉妬は不必要であるという批判に対して二つの理由を以 っ て反論 してい る. 一つは恋の情熱のすぐ後には, 不安とか嫉妬というものが入らざるを得ないからであり, 二つ目は最後 まで感情のこもった状態が維持され続けなければならないから, どうしても嫉妬の場面は必要 であるという の である. シラ ー は嫉妬 の 場 面 は必 要 な いと 思 っ て いる の に 対 して, ゲー テ は必 要 である と 主張す る. さ ら. にゲーテは, シラーの批評に対する反論だけではなく, これまで約一ヶ月半ほ ど回覧した結果出て来た色々 な人からの批判に, まとめて答える手紙を, 7月 7日 シラ ー に宛て 書いて いる. 、そ の 中 で ゲー テ は, これま でいろいろな評判を耳にして来たが, 総じてそれらの判断は間違っている, もっと注意深くこの作品を読む べ き である, と い う意 味の こ とを 次 の よ うに書 いて い る‐. 「私は前に牧歌を回覧してもらうようにクネーベルに預けていましたが, 彼が私の家にもって来た幾つかの 牧歌についての所見, 並びにあなたが知らせてくれた所見, それらは新たにまた次のようなことを私に確信 させております‐ すなわち絶対に必要な作品が要求している注意深さを, 我々の聞き手や読者は見逃してい る とい う こ とを‐ 彼 らはよく 分 か る も の は喜ん で受 け 入れま す. 何 で も 彼 ら は 彼 ら の や り 方 で 踏 み 倒 した. り, あまりにも早く有罪の判決を下したり します. 彼らは前を読んでみたり, 後にも どったりもしないし, その意味とか連関を見ることもしません. そして本来詩人に, なぜ彼 があれやこれをそのように書いた の. 8 ( ) 一 か, ある い は別 な形 に 書 か なか っ たの か と 問い かけ な けれ ばな らな い はず の ことを考 慮 にも 入れま せ ん‐ i n obロgates Werk> である が, ここ では, 「厳 ここ でいわ れる 「絶対 に必 要 な作 品」 と は ドイ ツ 語 で は くe 『 しく 法則 づ け られ, しかも 技巧 的に 高度 に 構 想 され た作 品」 とい う意味 に 解 され る‐ だ か ら ア レク シス と ドー ラ』 を 読 む場 合 に は, そ の よ う な 「注意 深 さ」 を持 っ て読 む べ きである と ゲーテ は言 うの で ある‐ そ う. いう意味からすれば, たとヘば嫉妬の場面はもっと注意深く読まれるべきであり, 同時にシラーの主張する ような嫉妬の場面不要説は再考されるべきであるということになる. さらにシュ レー ゲルが手紙の中で不満 を 述 べ た あの 「謎 の詩 行」 につ いて も, 彼 の 言 う よう な 単な る 「小 さな不一 致」 とか 「謎 の 比除」 と い っ た 72.

(6) . ゲー テ 『ア レク シス と ドー ラ』. 表現では済まされない, もっと高度に構造化された詩行であるはずである. いずれにせよゲーテは, 自らの 作 品 を 修正 しよ う と す る の で はなく, 逆 に深 い読 みを 要 求す るの である‐ かく して 牧 歌 『ア レク シス と ドー lmanachf鯖 das Jahr ラ』 は, 最初 の原 稿の ま ま変 更 され ず に1796年11月 『年 鑑 詩 集1797年 号』 (Musena 1797 ) の 巻 頭 を 飾 る こと にな る.. 3‐ 諸家の解釈 この作品についての研究は現在に至るまで, 色々な形で行われて来たが, この作品は, ボルヒマイヤーの 言 う よ う に, 「高 い評価 を 受 け た にも かか わ らず」 ( t t t t zung), 他 の ゲ ー テ の作 品に 比 r o zderhohen Wer scha 9 ( )で あ り続 け そ れ ほ ど多く の 研 究論 文 は書 かれ な か べ る な ら ば, 「目立 た な い 花」 ( i b l umchen) e n Maue r っ ,. た. だからこの作品は他のゲーテの作品に比べればまだ研究し尽くされておらず, これからもさらに研究さ れ 続 ける 作 品 で ある と 言 える‐ さて 現 代 に 至る ま での 『ア レク シス と ドーラ』 の 解釈 の 流 れ は, 大 きく 二つ に 分 け られ る よ う に 思わ れる‐ 一方 がア ル ブ レヒ ト・ シ ェ ーネ の 論文 を 代 表 とす る流 れ である とす れ ば, 他. 方はディ ーター・ボルヒマイヤーの論文を代表とする流れである. そして前者シェーネの流れの範噂に含ま i れ る と 思わ れる 研 究者 た ち は, 特 に F‐P‐ ピ ッ ケリ ソ グ (F‐ P‐ Pi cke r ng), ピ エ ー ル ・ ベ ル ト - (Pi er ・ e l o 1 1 ( Ber inz schl 、イ ソ ッ . シ ュ ラ ッ フ ァ ー (He fer )()と い っ た 人 達 で, 後 者 ボ ル ヒ マ イ ヤ ー (Di taux), af eter 2 1 ( ) Borchmeyer inr ) i の 流 れ の 範 瞭 に 含 ま れ る 研 究 者 た ち は, ハ イ ン リ ヒ . デ ュ ソ ツ ァ ー (He ), フ ch Duntzer lst ラ ン ツ ・ シ ャ ル レ ー ソ (Franz schaUehn), エ ー ミ ル ・ シ ュ タ イ ガ ー (Emi i ) と い っ た 人達 である‐ a ger. この二つの流れは, 互いに対立する流れであり, それぞれの解釈を厳 しく批判するという研究の立場にあ る. と ころ で こう い う 対立 の そ も そ も の始 ま り は, あの シラ ーの,「幸 福 が た ちま ち怖 れ に 呑 み込ま れ て いく よ うに」 嫉妬 の 場面 が 組 み込 ま れて いる こと に対 する 批判, ある い は シ ュ レー ゲ ル が, ア レク シス の 独 白の. 途中に突然語られる 「謎の詩行」 に対して, ある種の 「不一致」 の不満を感じたこと, に源を発している. す な わ ち ボル ヒ マ イ ヤ ー の 流 れ に あ る 研 究 者 た ち は, シ ラ ー と シ ュ レー ゲ ル に 左 右 さ れ る の に 対 して,. シェーネの流れにある研究者たちはゲーテの隠した意味を説き明かそうとする‐ 3 1 ( )1896年 に 書 い た 論 文の 中 で この 謎と は ア レク シス が た と ヘ ば 前者 の ひ と り デ ュ ンツ ァ ー は, 何 故, こ , , れま で美 しい ドー ラ に 恋 心 を抱 か なか っ たの か, と い う こと であ り,「ア ーモ ル」 がア レク シス に 目隠 しを か けて いた か ら であ り, そ の 目隠 しが 外 され る こと に よ っ て, ア レク シス は ドー ラ が 好 きに なる の だ, と 書 い て い る. そ して 「謎 の 詩 行」 を シラ ー と 同 じよ う に, あく ま でア レク シス の独 白そ の もの である こ と に疑 い. を抱かなかったのである. 1 4 { )1958年 「謎の 詩 行 に注 目 して そ れ はア レク と こ ろ が ピ ッ ケリ ン グが 初 め て 論 文 の 中 で, シス の 語 る 」 , ,. 言葉ではなく, 詩人ゲーテの語る言葉がアレクシスの独白の途中に挿入されたものである, と書き, その詩 行 を 「置 き換 え られ た プ ロロ ー グ」 Ver l t t se z erPr o og で ある, と い う新 しい解 釈を 提 出 したの である‐ す な. わちこの作品の中には色々な 「優美な形残さの不思議な結び付き」 があるが,「その意味を明かす言葉は」 書か れていない, だからどうぞその意味を探してください, それが見つかると,「この詩の中に, 二重の楽しい意 味」 を 知る こと が で きま す よ, と 詩人 ゲー テ は読者 に 謎 解 きを 勧 め て い るの だ と ピッ ケリ ン グは主 張す る , の で ある‐ そ して ピ ッ ケリ ン グ自身, そ の 謎 の 解 明 を 次 のよ うに行 っ た‐ 彼 は, ま ず シラ ー の嫉 妬 不 必要 説. に対して答えたゲーテの手紙の言葉, すなわち 「思いもかけぬ身に余るような恋の幸福は, それを失いはす ま い か と いう 怖 れ と 鍾を 接 してい る も の な の です‐ 」 (6月22日 シラ ー 宛) と いう 言葉 に着 目 し, それ を 謎 を 解 く 鍵 と 見 る‐ そ して 「幸 福」 と 「怖 れ」 と が 瞳 を 接 し て い る, と い う 姿 の 中 に, 「機 会 の 女 神」 (d i e G6t in der Ge l i t ) と いう ア レ ゴリ ー の 具 体化 を見 る. つま り出 港 寸前 に 幸 福 を 掴 ん だ ア レク シス は t egenhe. , 73.

(7) . 大 木 文. 雄. しかしながら旅に出なければならない故に, その好機を逸してしまい, くず ぐず して愛の幸福を捕らえる チ ャ ンス を これま で逃 して い た ことの 後 悔 に苛ま れる の だ と い うの で あ る‐ 機会の女神とは, 前髪はある が, 後ろ髪はないので, 出会った瞬間にその前髪をうまく捕まえなけれ ばならず, 急いで立ち去らなければ な らな い者 は, つ る つ る の後 頭部 を 捕ま えれ な い とい うア レ ゴリ ーの 表 現なの だ が, ドー ラ がま さに そ の機 会 の女神 である と い うの で ある. な る ほ ど ピ ッ ケリ ン グの 解釈 は, この 作 品の 表 面上 の筋 と は違 っ た, 機 会 の 女神 の ア レ ゴリ ー と いう別 の. 意味を探し当てたという点で, あの謎の詩行に書かれてある 「二重の楽 しい意味」 の謎解きに成功 してい る‐ そして謎の詩行に重点を置いたこの解釈は, 今までになかった新しいもので, ピッケリング以後の解釈 の流れを, この謎を解くことへと方向づけた点において大きな功績があった‐ しか しな が らこの ピッ ケリ ソ グの 解釈 には 大 きな欠 陥 が ある こと が 分 かる‐ そ れ はこの機 会の 女神 のア レ ゴリ ーを 指示 す る よう な 言葉 が この作 品 自体の 中に は見い だ さ れな い とい う こと で ある. ピ ッ ケリ ン グはこ の ア レ ゴリ ー の ヒ ントを, ゲー テの 手 紙か ら見 つ け 出 して きた の であ っ て, 作 品の 中か ら で はない‐ た とヘ ばこの 機会 の 女神 の特 徴 である髪 の毛 の こと につ いて はこの作 品の どこ にも 書か れ て い な い. ドー ラ の う な じ, 胸, 肩, 頭 と い っ た 表 現 は ある が, ドー ラ が 機 会 の女神 である な ら, そ の特 徴 である 髪 の毛 の こ とが 書 か れて いて しか る べ き である‐ だ か ら ピッ ケ リ ン グがそ の 謎解 きの 鍵を この 作 品の 中 ではなく て, 外 に, つ. まり機会の女神という作品以外の神話に関係させたという点で, この謎解きは推測の域を出ていないように l 思わ れる. ピ ッ ケリ ン グの この よ う な証 明 の仕 方 を シ ェ ーネ は 「無 軌道」 h司t osと か 「大 胆」 kuhnと いう 言. 葉で批判 した‐ しかしながらこの作品の中心は 「謎の詩行」 の解釈にあるという ピッ ケリ ングの立脚点に は, シ ェ ーネ は異 論 を 挟ま ず, 彼 もま た 「謎 の詩 行」 を解 明 する 論文 を 書 いた の である‐ だ か らシ ェ ーネ も ピ ッ ケリ ン グも 謎の 詩行 を 中心 に して い る とい う点 で は同 じ流 れ に 入る と いう こと にな る. 1 5 ( )彼 は ピ ケ リ さて シ ェ ーネ は, I981年に 論文 を公 に した が, ッ. グの 流 れ に 沿 っ て, 彼 自身 の・「謎の 詩行」. の 解 明を 行 っ た‐ しか しシ ェ ーネ の 特 異 な と ころ は, シラ ーか ら発 して, シ ャ ル レ ー ンや デ ュ ン ツ ァ ー を. 通って, シュタイ ガーに至る解釈の流れを鋭く批判し, 自分の論文以外にこの作品を正しく解釈した論文は ないと 断言 した とい う と ころ に あ る. シ ェ ーネ にと っ て, この 「謎の 詩 行」 は 「置 き 換 え ら れ た プ ロ ロ ー グ」 で あ る か ら, こ の 謎 は 読 者 に 与 え ら れ て い る の に 対 して, 一 方 の シ ラ ー・ シ ャ ル レー ン, デ ュ ン ツ ァ ー, シ ャ タイ ガー にと っ て は, こ の 「謎の 詩行」 はア レク シス の独 白そ の も の である 故 に, そ の謎 は読. 者 で はなく, ア レク シス に与 え られ た 謎 で ある, と は っ き りと 対立 して 考 え られ た の で ある. だ か らシ ラー は, ドー ラ の 語 っ た 「いつ ま でも (Ewi g)」 と い う言 葉の 中 に, 「心の秘 密 が 無 限 の結 果を伴 いつ つ ほと ば し り出てく る」 も の を読 み取 り, そ れ が ア レク シス に 与 え られ た 謎の答 え である と 解釈 した の で ある‐ そ して デ ュ ンツ ァ ー は, そ の謎 の 答 えを 「ア ーモ ル」 である と 解釈 した‐ さ ら に デ ュ ン ツ ァ ー の 次 に 提 出 さ れ た 1 6 ( }ア レク シス が ドー ラと 交わ した 「キス の 中に 謎の 答 え が見 いだ され た シ タ シ ュ タイ ガー の論 文 で は, 」 ‐ ュ イ ガー に と っ て, ア レク シ ス が 交わ した 「キス」 は, ア レク シス の 「幼 年 時代 の一 切の 予 感 と 青年 時代 の一. 切の追憶とを完成させるだけのものではなく, この瞬間はまた, 自然が人間という現象に恵み与える” 最も 崇高 な極 点”」 である‐ かく して シラ ーも, デ ュ ンツ ァ ーも, そ して シ ュ タイ ガーも, ア レク シス が ドー ラ. に愛を感じたその瞬間を人生の最高点として捕らえ. そ れ を 謎の 答 えと して 解釈 した の であ る‐ そ して そ の. 後に続く下降して行く場面, いわゆる嫉妬の場面は, 絶望で終わっている故に, 断片であり, それはこの作 品の 欠 点 であ る と言 っ て いるの である‐. それに対してシェーネは激しく彼らを批判する. シラーが最初にこの作品を誤解したために, その後のい ろ いろ な解 釈も す べ て これ に 吊 られ るよ う に して そ の 誤解 を 踏 襲 して しま っ た の だ, と いうの である‐ そ し i i k)-の 理論 をも 批判 す る the t て そ の 批判 に続 けて, あの ヤ ウス の 「受 容 美学」 (Rezept ‐ onsas ‐ す な わち ある 文 74.

(8) . ゲー テ 『ア レク シ ス と ドー ラ』. 学作品の意味解釈は, 時代時代の受容美学の判断によって次第に進歩させられ, 深められて行く, というの が受容美学の理論なのだが, 最初にシラーが間違った解釈をしたために, その後の解釈, たとへばデ ュ ソ ツ ァ ー や シ ュ タイ ガー の 解 釈 も 間違 っ て しま っ た と いう 事 実 に よ っ て, 受 容 美学 はま さに誤 解の 歴史 であ っ た, と シ ェ ーネ は批 判 す る‐ だ か らそ う いう 誤解 の 歴史 を この作 品 解釈 はた どっ て きた た め に, これま でい わゆ る 「置 き換 え られた プ ロ ロー グ」 と して・の 謎 の 詩 行 につ い ての 解釈 が な さ れて 来 なか っ たの だ とい うわ け で ある.. さてシェーネはそういった批判の後, 彼自身いよいよこの読者に与えられた謎の詩行の謎解きに取り掛か る. 彼 は 「ミ ルテ の花」 の詩 行 に 注 目す る‐. i Und di the bog, blahend, darubers ch hin, e 公4yr. 1 7 { } ぼく た ちの 頭 の上 に は, 花 盛 りの ミ ル テ の枝 が 懸 っ て い た‐ 《Myr the》 が大事であることを示すように, この詩行には 《u》 の音が意識的に3回も書かれている‐ だ i i か らこの 詩行 に は 「並 外れ た 意 味 深 いも のの ア ウ ラ」 (d ch‐Bedeutsamen) を 感 ぜ ざ e Aurades Ungew6hnl. るを得ない‐「ミルテの花」 は, ゲーテがよく利用した18世紀の神話学辞典の中には, 非常に香しい匂いをも つ花であり, 海から裸で現れた愛の女神ヴィ ーナスにとても好まれ, 愛の肉体的行為のときに, この花は役 に 立 っ た, と い う 意 味の こと が 書 か れ て い る が, 『ア レク シス と ドー ラ』 の 作 品の 中 でも, 「ミ ルテ の花」 は. そのようにセックスの象徴としての役割を演じている‐ だから二人が抱き合う四阿屋の上にはミルテの花が 美 しく 咲 き乱 れて い て, 二 人のそ ばに は ゼ ウス と 共 に 彼 の 娘 である 「愛 の 女神」 が 付 き添 っ て いる‐ ドー ラ が 摘 み取 っ て ア レク シス に あ げる 「熟 れ た オ レンジ」 や 「白いイ チ ジク」 は, 女性 の 肉体 を 象 徴 して い る の. であり, この果物を入れた篭の上にはそっとミルテの花が飾られるために, その肉体の贈り物は愛の女神に よって神聖にされている. ドーラはそういう意味からすれ ば, 誘惑する女なのだが, そこには罪の意識は存 在 しな い. エ デ ンの 園でリ ン ゴを 食 べ て, 神 の 前 に 自 らの 肉 体 を恥 じる よ うに な っ た あの エ ヴァ と は違 う. この 時の ドー ラ は, ギリ シ ャ ・ロ ー マの 古典 古 代 に生 きた, ある が ま ま の 姿を 賛 美す る 女 で あ り, そ の 意味 で新 しい エ ヴァ である‐ 以上 が シ ェ ーネ の 謎 の 解釈 の 概 略 である‐ そ れ 故, シ ェ ーネ に あ っ て は, この 「ミ ル テの 花」 の 解 釈 が,. すなわち読者に与えられた謎の詩行の答えとなる‐ 「優美な形象の不思議な結び付き」 は, 「ミルテの花」 に 隠 されて い る セ ッ クス の 形 象 であ り, これ に気 が つく こ とに よ っ て, 読者 は あの 「謎の 詩 行」 に 書か れて あ る 「二 重 の楽 しい 意 味」 を 知 る と い う わ け である. しか しシ ェ ーネ の 場 合 「ミ ル テ の 花」 と 関 係す る形 象だ け が, 謎 の 答 えなの で はな い‐ この作 品の後 半 に 出てく る 「イ ル カ」 の 形 象 の 中 にも シ ェ ーネ は 謎の答 え を 見 てい る‐ す な わ ち 嫉 妬 と 絶 望 に 苛ま れる ア レク シス が, 神 々 に 「ぼ く の 身 は海豚 の 餌食 に して下 さ い. 」と. 叫ぶ場面があるが, この言葉の中に, シェーネは 「二重の楽しい意味」 を見ている‐ つまり表面上では, こ の 言 葉 は, 自 ら を海 豚 の餌 食 に さ せる こと によ っ て, ア レク シス の 絶望 した, 死 を望 む姿を 描 いて いる 言 葉. になっているが, 他方, 表面下では, この言葉は, 海豚が海に落ちたアレクシスを背中に乗せて, ドーラの いるふるさとの町まで連れていってくれる, という意味を学んだ言葉になる. 地中海の伝説には, 難破した と き海 豚 に救 わ れる 話 が よく 見 い だ さ れ る が, ゲー テ はこの こと を 良く 知 っ て い た‐ ゲ ー テ は真剣 に な っ て. アレクシスを海豚の餌食にさせようなどとは思っていない‐ 表面上は絶望的な, 情熱の叫びでありながら, 表面 下 に はそ の よ う な 海豚 の 背中 に 乗 せ られ て ドー ラ の いる ふる さと に 帰る こと が で きる と い う 楽 しい意 ,. 味が込められているのであり, その楽しい意味を読者が認めたとき, あの謎の詩行で言われるように 「その と き, 全 て の 心 が 晴 れ ばれ と してく る」 の で ある. シ ェ ーネ は謎の 詩行 を 「置 き換 え られ た プ ロ ロー グ」 と 75.

(9) . 大. 木 文. 雄. 考えた ピッケリソグの解釈方法を踏襲し, 謎を 「ミルテの花」 と 「海豚の餌食」 の中に見て, その言葉の背 後 に 隠 れて いる, 「セ ッ ク スの 象 徴」 と 「絶 望 的な 中 での 救済 の 望 み」 を 謎の 答え と して 取 り 出 し た の で あ る‐ シ ェ ーネ の 謎解 き は, 胸 を すく う よ う な 明快 なも の であ っ た た め に,『ア レク シス と ドー ラ』 研 究 も ほ ぼ. これで終わったかに見えた. 1 8 ( }会 た ばか りの 人 が どう して シ ー ネ の と こ ろ が ボル ヒマイ ヤー が, シ ェ ーネ の 解 釈 を批判 す る. 言 二 ェ っ う よ うにセ ッ クス をす る こと が で きる の か, できる はず はな い. さ らに 「海 豚 の 餌食」 の 問題 に して も, ア レク シス の 背 後 に は絶 えず ゼ ウス と ゼウ ス の 娘 である愛 の 女神 が, 守 護神 と して いる のだ か ら, ア レク シス は決 して破滅 な どしな い し, 神々 は, ア レク シス の否 定 的 自殺 か ら, 彼 を 守 っ て く れ るだろ う, と ボル ヒマ イ ヤ ー は主 張す る. ボル ヒマイ ヤー は, あの 謎の 詩行 を読 者 に 向け られた 謎 と 取る の で はなく, ア レク シス に 向 け られた 謎 と取 る べ き である と 主 張す る‐ そ う して その 謎 はア レク シス が 何 故 幼 い こ ろ か ら ドー ラ を 知 っ て いた にも か かわ らず, よ りに も よ っ て 出港 する 直 前 にな っ た と きに, 彼 女 に愛 を感 じる よ うに な っ た の か, と いう こ とに 対 して 向 け られ る べ き である. 幼 い ころ のア レク シス は ドー ラ の 姿を, カ ントの 意 味に. おける, 純粋に美的な態度によって, 無関心の満足をもって認識していた. そこには ドー ラを 「所有 した い」 と い う欲 求 は全 然 な か っ た. つま り隣人 の 娘 ドーラ の美 は, ア レク シス に と っ て, エ ロー ティ ッ シ ュ な. 美ではなく, 純粋な美にすぎなかった‐ ところが出港寸前になって, ドーラに声を掛けられ, 庭に招き入れ られ, たく さん の 果物 を プ レゼ ントさ れ, 目の前 に ドーラ の 「うな じ」 や 「あたま」 を見 た と き, 初 めて ア レク シス は愛 を感 じた の である. だ か らこの ドー ラ の 美 が, ア レク シス に と っ て 謎 で あ り, 後 に な っ て ドー ラ か ら 「い つま でも」 と愛 を告 げ られる ことに よ っ て, 謎 は解 け 「二 重 に楽 しい意 味」 を ア レク シス は感 じ. るのである. カント的な美の世界では,「嫉妬」 などは決して起こり得ず, 情熱的に愛する者であるからこそ 「嫉 妬」 は現れ る しか しボル ヒマイ ヤー の 解 釈 は多 少の 差 はあれ あの シラ ーや デ ュ ンツ ァ ーや シ ュ . , , ,. タイ ガーと同じ流れに属している. しかも 「嫉妬」 に対する彼の解釈は 「情熱的に愛する者である」 から生 じた も の と いう, 従 来 か ら一 般 に考 え られて い る 平凡 な 解釈 に終 わ っ て いる‐ 果 た してそ う であろ う か, そ. の 「嫉妬」 の背後には, 「情熱」 だけでは解決できない別の何かが隠されていないだろうか.. 4. ゲスナーの 「牧歌」 との比較解釈 さて 私 はこれま で 『ア レク シス と ドー ラ』 研 究 に は大 きく 二 つ の流 れ が あ る こ と を 述 べ て 来 た. 一 方 は シ ェ ーネ を代 表 とす る流 れ, 他方 は ボル ヒ マイ ヤ ーを 代 表と す る流 れ である. しか しこの 両方 の 流 れ とも 作 l dyue ) という 品そ れ 自 体を 解釈す る と いう こと に の み力 点 を置 いて いて, この 作 品 が 属 して いる 「牧 歌」 (. ジャ ンルの歴史的な流れの方から, この作品を解釈する論文は提出されないできた.「牧歌」 というジャ ンル の歴史的な流れの中から見れば, この作品はまた新たな光が照射されるはずであるが, それが行われなかっ l dyue〉 研 究 が盛 んに な っ た の はつ い最 近 の こと であ り, 今ま でほとん ど顧 み られ な か っ た た‐ と い う のも <. 牧歌詩人が ドイツ本国で脚光を浴び出し, 文献が次第に整理され, 大学のゼミナールでも取り上げられ始め たの はつ い最近 の こ とだ か ら である‐ 「牧 歌」 という ジ ャ ンル の 歴史 は 特 に ギリ シ ャ の詩 人 テ オク リ ッ ト (Theokr i ) か ら始 t .300‐260 ,V‐Chr , l ま り, ス イ ス の 詩 人 ザ ロ モ ソ ・ ゲ ス ナ ー (Sa ) を通 っ て ゲ ーテ に至る 長 い歴 史 を omon Ge ssne r ,1730‐1788. ゲス ナー も っ て い る が, ゲー テ が 若 い 頃, .牧 歌 と い う ジ ャ ンルに か な り関心 を 抱 いて いて, テ オ クリ ッ トや. の牧歌を愛読し, ゲーテ自身もまた彼らのような 「牧歌」 を書いてみようと思っていた, という事実はあま り知 られ て いな か っ た‐ しか しそ れ は彼 らと 同 じ構 造 をもつ 「牧 歌」 で は勿 論 な い‐ ゲーテ 自身 の 生の あ り よ うを 盛る 器 と しての 「牧 歌」 は彼 らの そ れ と は異 な る‐ そ れ 故1772年 に ゲス ナ ー の 『新 牧 歌 集』 (Neue 76.

(10) . ゲー テ 『ア レク シス と ドー ラ』. l l l dy ) を 読ん だ ゲー テ が, 雑 誌 に次 の よ う な批判 的書評 を 公 け に した のも 理 解 で きる‐ en. 「ゲス ナーは本来風景画家としての才能があり, 石や草を絵のように正確に細かく描いている‐ しかしそこ 1 9 ( ) には行動する人物が描かれていない‐ 一 面 白い こと に, そ の ゲーテ が 批判 した ゲス ナーの 『新 牧 歌 集』 の 中 に, ゲーテ が 後 に 書く こと になる 『ア レク シス と ドーラ』 と そ っ く りの作 品 が入 っ て い る の を, 私 は ここ で強調 しな け れ ば な らない‐ そ の作 品の 2 0 ( }登場 人物 にも ア レク シス と い う 青 年 が 出て 来る 娘 の名 前 は f ) で ある. タイ トル は 『嫉 妬』 (Di eEi e r sucht ‐ ダフ ネ で, あの ド」 ラ と は違う が, 物 語の 内容 は ゲー テの 『ア レク シス と ドー ラ』 に酷 似 してし・る‐ あ れ だ. けのゲスナーに対する批判的書評を公にしたゲーテであるから, 彼は彼でゲスナーの牧歌とは違 っ た 「嫉 妬」 の内容を持つ牧歌をいずれは書かね ばならないと思っていたことは容易に察しがつく‐ 「絵のように正 確に描く」 ゲス ナーの牧歌と,「行動する人物」 に注目するゲーテの牧歌の対比が, どのようにこの二人の作 品の 中 に 具 体 化 して いる であろ う か. ゲ ス ナ ーの 『嫉妬』 は次 の よ う な 内容 で ある‐ ア レク シス と ダ フネ は愛 を 誓い 合 っ た仲 である‐ 女神 ヴィ ー ナス と愛 の神々 が, 守 護神 と して 二 人 を守 っ て いる. ある 日父 に言 わ れ て 二 日の 旅 に 出る が, ア レク シス に と っ て は この 二 日 が 無 限に長く 続く よ うに 思 わ れる‐ 早く 帰 っ て ダ フネ に 会 いた い と 思 うが, 帰 り道, 足 に刺 を さ し, 熱 を出 し, 近 く の庵 で治 る ま で-. 週間ほど滞在せ ざるを得なくなる. 熱に浮かされて, アレクシスはダフネ が他の男と会っているのではない か, 他の男を好きなのではないかという嫉妬に駆られる‐ 熱が下がるや否や飛ぶように ダフネのもとに帰る が, 夜 に な っ て や っ と ダ フネ の 家 の 前 に到 着す る‐ 丁度 そ の と き家 か ら ダフネ と ひ と りの男 が 出て来 る‐ ア. レクシスは嫉妬に駆られながら, 二人の後をつける‐ 二人はヴィ ーナスの神殿にたどりつく‐ やがてその男 は ダ フネ の弟 で ある こと, ダ フネ は弟 を お供 にア レク シス が 無 事に 帰 っ てく る よ う に神 殿 にお 参 りにや っ て 来 た の だ と い う こと が 明 らか に なる‐ ア レク シス はそ れ を知 っ て ま すま す ダ フネ が 好 きに な り, ヴィ ー ナス. の神殿の前で二人はしっかりと抱き合う‐ 以上 が ゲス ナ ー の牧 歌 『嫉 妬』 の 梗 概 なの だ が, ま さに こ の作 品 は, ゲーテ の 『ア レク シス と ドー ラ』 に. そっくりであることに驚かざるを得ない‐ 両方の作品とも, 青年と娘が激 しく愛 し合う. どちらの作品で も, 青 年 ア レク シス は, 愛す る 娘 か らも ぎ離さ れ る よ う に して 旅 に 出て 行か なけれ ば な らな い‐ そ して 両作. 品にもその結果として嫉妬が登場してくる‐ しかしこの二つの作品の中で決定的に違うところは, 場面の中 での 「嫉妬」 の取り扱われ方である. ゲスナーの嫉妬は, 二人の愛を深めるために効果的に使われている‐ 女神 ヴィ ー ナス と 愛 の神・ 々 が, 守 護 神 と して 二 人 を見 守 っ てく れて いる 故に, た と え 嫉 妬 がア レク シス の心. の中に現れよう ‐とも, 二人の愛は決して崩れない‐ むしろアレクシスが嫉妬を抱いたが故に, かえって二人 の愛 は強め られ る の である‐ だか ら ここ での 嫉 妬 はア レク シス の愛 をま す ま す 強く す るた めの, ある種 の免. 疫強化剤として, 守護神の方から, 意図的に送り込まれた嫉妬に外ならない‐ ところがゲーテの嫉妬は, 守護神から意図的に送り込まれて来た嫉妬では決してない‐ そうではなくてそ れ はア レク シス が 商 人 で ある か らこそ 出 てく る 嫉妬 である‐ ゲー テ のア レク シス は, 世 界各 国で商 業取引 を す る ため に, ま さ に ドー ラ か ら別 れて 港か ら船 出 しょ う とす る‐ た っ た 今激 しく 愛 した ドー ラ のも と か ら離 れ, 船 に乗 り, 次 第 に船 が 陸地 か ら遠 の い て 行く と き, 商 人 と して の 仕 事の こ とが ア レク シス の 心 の 中 に ,. 知らず知らずのうちに忍び込んで来る‐ 商人としての仕事とは, 金で品物を買う自由市場の世界, いわゆる 資本主義の構造をもつア レゴリーの世界である‐ それが無意識のうちにアレクシスの心に忍び込んでくるの である‐ そ してそ れ は 「不 安」 と い う形 を と っ て ア レク シス の 心 の 中に具 体 化す る‐ そ れ がす なわ ち ゲ ーテ のア レク シス にお ける 「嫉 妬」 である‐ だか ら 「他 の 男 が 来 た‐ そ いつ のため にも 実 は落 ち る し イ チ ジ ク , 77.

(11) . 大. 木. 文. 雄. は, 元気 づ け に なる 蜜 を, 奴 のた め にも出す. 」 と い うよ う に, ア レク シス は, ドー ラ を 「金 で買 う こ と が で きる女 ではな いか」 と 疑 う の である. そ れ はア レク シス の 中 に, 守護神 か ら意 図 的に送 り込ま れ て きた 嫉妬. ではなく, 資本主義の構造を持つ, 外部の自由市場の世界から無意識のうちに忍 び込んで来た嫉妬である‐ ア レク シス が, この 自 由市場 とい う世 界 に 関わ る 限 り, この 嫉 妬 は彼 の 中に忍 び寄 っ て 来 る‐ そ れ 故自 由市 場 へ と 船 出 を して い こう とす る ア レク シス に は決 して 救 い はない‐ あるの は絶 望 のみ である‐ しか しゲーテ. ‐文学の世界で救済可能にしてみせる. それ は, 現実の世界ではこのように救済不可能なことを, 詩の世界, がすなわちあのシェーネが解き明かしてくれた 「海豚の餌食」 の場面である‐ 「船を木葉微塵に吹き飛 ばし, 積荷は荒れ狂う波にほうり出せ」 とは, すなわち自由市場へ船出しようとすることを , はっ きりと否定する . こと で ある. そ の よ う に否 定 す る こ と によ っ て初 めて, ア レク シス に はも はや 嫉 妬 が忍 び 込 ん で来 れ なく な る. そ して ア レク シス と ドー ラ の 愛 は復 活す る‐ かく して ア レク シス の 「海 豚の 餌 食 に して 下 さ い」 と いう 絶 望 的な 叫 び は, こ こ で180度転 回 して, 「海豚 よ, 私 を背 中 に乗 せ て ドー ラ のい る と ころま で連 れ て行 っ て. おくれ!」 という救済の意味に変貌する. l ta ), い わ ゆ る ア ゲーテの 牧 歌 は, あの ゲス ナ ーの 牧 歌 に見 られる よ う な, 黄金 時代 (das goldene Zei ter. ル カ ディ ア の 世 界をそ のま ま 表 現 したも の ではな い‐ そ う で はなく て ゲー テ の 『ア レク シス と ドーラ』 は, シラ ー が, 『素朴 文 学と 情 感 文学』 の 「牧 歌」 の 章の 中 でいみ じく も言 っ て いる よ う に, 「も はや ア ルカ ディ ア に帰る こと の で きな い 人 間 を エ リ ュ シ オ ソに ま で 導 く よ う な」 (den Menschen, der nun einmal nicht 2 1 ( } ′ 1 i ) mehr nach Arkadi en zuruckkam, bi s nach E um fuhn- ys 、 牧 歌 である. た だ しシラ ー自 身 は, 皮 肉にも. ゲーテの牧歌のそういう世界に気づかずに, 嫉妬の場面を不必要であると手紙に書いたのである. かくして ゲーテ の 牧 歌 は, ゲス ナ ーの牧 歌 の よ う に, 幸 福 な, 常 に神 々 に見 守 られ てい る アルカ ディ ア の 世界 をも は. や書けなくなってしまった詩人が, 書かざるを得なかった世界である‐ その意味ではゲーテの牧歌は, 伝統 的な牧歌を突き抜けてしまった牧歌と言える‐それ故ゲーテがこの作品を最初に印刷した 時,その副題 (U止 i ldyne i l ) に して い た が, そ の 後全 集に この作 品を 収 める 時に は 「悲 歌」 (E1 ) を 「牧 歌」 ( t t t eg en) と いう er e ジ ャ ンル の 中に 加 えて いた と い う 事実 も よく 理解 できる こと である. す なわ ち ゲー テ の 牧 歌 は, 過去 の 黄 金. 時代をなつかしみながら, 現実ではそのアルカディ アの世界の構築は絶望的であることを認めつつ, しかし なんとかしてその絶望的なものを救済しようと未来に向かう, 希望の文学なのである.. 〈註〉 43 168 1) Goethe : Tageb日cher . . . ,1963 Munchen ,S ,dtv Gesamtausgabe Bd. i 2)《A1 a》 のテ キ ス ト は Go鑑脳s Wの発e β〆.ヱ, Hamburger Ausgabein 14 Banden,i974 ex sund Do r Munchen (C 9東京 潮出版社, に拠った‐ ) と, ゲーテ全集第1巻197 ‐H.Beck l 2 i i i l t t von Wi l he l印 Bode, 3 Bde t彫れoss v 3) Bode e e”. Zusammenges efe” s e 〃勿 Ze : Goの 彰 す れ ひen焔 〆たね鎚 βγ . . . . , neu hg , Bd [ unchen 1 1 f f Reg i t ーGe enz a ne ot ound Pau rha rd wア ・ ,S・65 ,1982 M 4) Ebd ‐ ‐S‐65 i 5) Goe the 2d Doγ偽 V.25一30 : AZ裟ご s“ 7 ‐ i1796 147 l vo l lme i l l ) the 24 Go舛 膨, Munchen(Emi r 6) Schi :Deγ βr g手wec脳〆 z 2 Ui 7 e rund Goe sc膨れ Sぬ 濯げ “ .Jun .S . . , Am i8 i1796 7) Ebd ‐ Am 22 ‐Jun .S.151 . i1796 8) Ebd .S .171 . ‐Am 7‐Jul ″ i d Doγd’ i i the te 9) Di nem neuen Goe te : Baus s“ 7 z n ne zu e e : D鱒 尺筋彫Z r Bo rchmeyer s Lds“れg 綱 Go艦庇s A 恋ご , 1987 ,i Fr ta ankfur .M.(Athenaum) . 1 l i l i l i t目eb ta ) t dが zu Goethes sP taux nse ankfur e 10 ) Pier e e sP eri ch mi : AZ e2i s *d Doγα i n : Ga rschane sP re Be r ‐M・( ,1986 Fr S ‐204冊21L l l d d Aγ旋法 Go fer ta i l f ankfur n : Der Burge ra s He t彰s′β捕獲igα鎚 ず 11 ) He eも8“ 7 2 nz Sch af :Poe s e“れd Pγosα e . M. .Li ,1973 Fr ,i. 78.

(12) . ゲ ー テ 『ア レク シ ス と ドー ラ』. (Suhrka )S.51-85 L i n np ‐ d β鷲群eん“ l the-Gese l l f i 12 ) F1anz Schal tBd :Uγsか“7 f “ EZ eg e “AZ ezi 2d Doγ〆’ ehn z 2 2 s“? r Goe :Jahrbuch de 7 7 scha n g“ gd ‐16 ,i ,1930 S‐166一182 . i i 13 ) 日e t ze r : E″透泌解m7 sc膨れ Kに蟹”虎劣れ Abth ch Dunt z z nr g伽 z“ deれ 霞蛇 .1 .Bd ・24 .S‐164f ・ ”AZ ’-ヱ796 i i i hg G 毎 ; ご 声 α D 内 〆 髭カメ“ 1958 f“産後多力βfはげ Ve戒7 14 ) F‐P‐Pi )S t 2 2 on 52( cke r :Deγz o e s β 2 7 :Euphor “ 7 o g ‐341一351 ‐ , ,n ’ ” 〆 R畝 Z i L i i 1 b h h d D h f h i h F A 6 C 功 Aを 土 ! 15) i i f i d tesgesc c t t tfqr R 舵, n : ter aturwssensc at und Ge r ec tSc ne : og es e 2 oγ ‐ s schr ch鑓 r s“7 . es Br i i nkmann ngen l981 S.201-351 . , Tab i i burgi ISt i f 1 6 ) Emi ch/Fre a r : Go死んe ge ‐2 ‐1956 Zar ‐Br ‐S ‐223f ‐ , Bd ZDOγ仏 V-84 ) Goethe 17 : AZ ご声 綿 7 2 c . te 18 ) Di ) e r Bor chmeyer(Anm‐9 lmutJ i de i 19 )S.i70 ← ÷ t ) Hrsg.von He r :De“t r N捌 r r sc脳 ′d鱗左戒 厳oγ誇れfm ヱ8 7 z叱り ngen(Gunte .Schne ‐ノα彫れ“ ‐1988 T6b . l dy l l l tga t(Rec feな綿ごたち i 20 ) Sa omon GeBne r :Di e βi n :l en r am)S .129‐136 . ,1988 Stut i i i l l l i ke Bd‐5,1972 Munchen(Winkler 21 ) Fr ≠di )S.488 edr ch Sch e r : ひゎ E け れαi ve“れd s emimeれ sc庇 Di che We c編“ 7 z n :Samt r g . ,i. この論文は, 1 992年7月18日旭川で行われた 「北海道 ドイツ文学会第3 5回研究発表会」 で発表した原稿を 加筆修正したものである.. 79.

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参照

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