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現象学的感性論序説 : フッサールの感覚概念をめぐって

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(1)

児象学的感性論序説

― フ ッサ ールの感覚概 念 をめ ぐって 一

勝 (昭和53年5月30日受理) われわれは常識 的 には見 るとか聞 くとか嗅 ぐとかとい う感覚がどうぃ うことであるかとい うこと を

,反

省す るまで もな くよ く分 かっていると思いこんでいる。 ところがわれわれが常識的経験 にお いて感覚的 なもの につ いて

,何

ごとかを語 ろ うとす るときには

,た

とえばわれわれが「赤色 をみた」 とい うときには

,そ

こで語 られている体験 は赤色の感覚体験 そのものではな く

,感

性的に知覚 され た対象 としての赤色 の知覚体験 なので あ り

,あ

るいはたとえば「視覚的 なもの とい うのは眼で もっ て捉 えられるものの ことで ある」 とい うよ うな場合 には

,そ

こでは感覚的 なものはそれが依存 して いる生理的・客観的諸条件 を介 して語 られているのであり

,

したがってそのよ うな知覚対象や生理 的・客観的諸条件 をはなれて

,純

粋 に感覚的なものその ものが何であるかを問 うとい う段 になると, われわれは途端 に窮地 に陥 ち入 って しまう。 われわれがその さい なるかつ感覚 とい うものについて

,ど

のよ うなもの を糸屯粋 に思いえが くこと がで きるかといえば

,そ

れはせいぜい「たとえば眼 をとじた とき, わた しのまわ りを間近 かにとり かこんで くる灰色 とか, うとうとしてい るとき くわた しの頭の中で〉 ブー ンと鳴 っている音」 とい つたような,(わた し自身の意識状態の体験〉であろう。(1)ロ ック以来の伝統的感覚主義 (S ensuaト

ismus)は

,そ

の よ うなわれ われの原初 的 な意識体験 と しての純 粋感覚 を「未分化 で点的 な瞬 間的 衝撃」 と して捉 え

,そ

の よ うな純粋F「象 と しての純粋感覚 こそがわれ われの意識 を構 成す る (究極 的要素

)で

あ る と見倣 して きたので あ る。 したが って感覚主 義的経験 心理 学 は

,意

識 生 の全体 につ いては、あたかも自明の ことで もあるかのように

,そ

れをは じめか らそのよ うなタト的感覚の与件 あ るいは内的感覚の与件 の複合体 として解釈 して きた し,(鋤しかもそれ らの感 覚与件 そのものは

,も

つぱ ら感官 に対す る外的刺激 によって惹 き起こされるものであると見ていたのである。 したがって 世界の個々の事物 につ いてのわれわれの表象 について も

,そ

こではそれは「意識 とい う板の上 に与 件 が書 きこまれることによって形成 されたものである」 と見倣 されて きたのである。(3) フ ッサールの現象学的感覚論は

,19世

紀後半 に至 るまで心理学的意識論のみならず哲学的意識論 をも圧倒的 に支配 して きた このような要素論的感覚主義 に対す る激 しい批判の前戦基地 において構 義 一品

(2)

想 され

,展

開 されている。は)フ ッサ

_の

批判 の矛先 はまず何 よりも「与件 が書 きこまれる板」 とし ての意識の解釈 に向けられる。彼 にとっては意識 は決 してただ単 に外的刺激 を受動的 に受 けとるだ けの板ではあ りえない。「 この意識 とい う『板』 は板 としての 自己 自身 を意識 し

,世

界の うちにあ り

,世

界 を意識 している

,つ

ま り世 界の個 々の事物 をわた しの関心 を惹 き

,わ

た しを動 か し

,わ

た しを妨 げるもの として意識 してい るので ある。」

(Kr.254)超

越 論 的 自我 としてのわた し自身 を, その完全 な具体相 において

,つ

ま りわた しの中に合 まれているすべての志向的相関者 とともに解 明 す るとい う普遍的課題 を担 う現象学的記述的意識論 を展 開 しよ うとす るフ ッサールにとっては

,出

発点はつねに意識作用 (cogito)と 意識対象 (cogitatum)と ぃ う意識の志向的 な両極的構造であ り, したがってわた しの原初的意識体験 としての感覚の意味や本質への間いも

,根

源的現象 として の「われ思 う」の意識体験 の構造 の解明 との連関 において

,す

なわち志向的対象 をその現 出の相 に おいて解明す るとい う普遍的 な意識分析 との連関においては じめて正当 に立て られ うるもので あ り, したがって どのよ うな形で あれ

,す

で に出来上 がっている独立的 な究極的要素 とい うよ うなもの を 意識論の出発 において前提 にす るとい うことは容認 されえないと

,フ

ッサールは主張す るので ある。 (Vgl,CM.§ 16) 感覚主義的心理学が

,意

識論の出発 において導入す る究極的要素 としての純粋感覚 とい うのは, いわば「 わた しが感 じられたもの と区別 されなくな り、その感 じられたものがもはや客観的世界の うちに占め るべ き位置 を有 しな くな り

,そ

れがわた しに対 して何 ごとも意味 しな くなった

,ま

さに そのかぎりでのみ体験 されるで あろ う」(5)と想定 されるよ うな

,未

分化 で瞬 間的 な純粋即象で ある。 しか しそのよ うな感覚概念 はわれわれの経験の どのよ うなものにも照応す るものではない し, した がってそのよ うなものはただ単 に経験 の うちに見いだ されえない とい うだけで な く

,知

覚す ること もで きなければ

,知

覚の契機 として も考 えられえないよ・うなものであろ う。 フ ッサールは感覚主義 的心理学 がまさにそのよ うな暖味 な

,単

なる仮説 としての感覚与件 を直接的 な所与性 として見ftaし, しかもそれをたえず対象構成的素材 としての「感性的性質」 ととりちがえて きたために (Kr,27f・

Anm.1),結

局 は感 覚的体験 の精神物理的囚果性や制約性の発見のみ に気 を取 られることにな り, 感覚的体験 そのものをあるがままに捉 える視点 を洞見す ることがで きなかったのだ と批半Jするので ある。

(Kr.248)

ところでフ ッサール自身の感覚概念 については

,そ

の感覚主義 に対す る終始変 らぬ激 しい批判 に もかかわらず

,最

晩年 においてす ら伝統的 な感覚主義的感覚概念の影響 か らぬけきれないでいると い うのが、批評家たちの一致 して認 めているところである。(6)フ ッサ

_ル

の固有 の現 象 学的感 覚概 念の基本的構想 がほぼ完成 した と目されている『論理学研究』7)や『イデー ン』

Iの

時期 の「 そ れ 自体 としては無意味で

,い

かなる志向性 も有 しない素材」偲)と しての感 覚与件 の概 念 には

,感

覚主 義的感覚概念の影響の色 は濃い し

,

さらにまた『イデー ン』 Ⅱ(鋤における身体的体験 としての感 覚 の構想や時間構成的問題体系の展 開 における感覚概念の修正やさらには後期発生的問題体系の連合

(3)

的構成論 における感覚概念の見直 し等 があったにもかかわ らず

,最

晩年の『危機』書 において さえ, 感覚主義的感覚概念の名残 りは消 えていないので ある。10 しか しいず れにせ よ

,フ

ッサールが原初的意識体験 としての感覚 を現象学の根本概 念 として捉 え ていたとい うこと

,特

にその構成論 における「内在 と超越」 をめ ぐる困難 な問題の解決の鍵 を握 る 最重要概念 と見ていた とい うことは確 かであ り、 それゆえにこそ彼 はその思想的境位 の重要 な転回 の局面 において

,つ

ねに感覚概念 に立 ち退 り

,そ

の根本的見直 しを試みているので ある。 その意味 ではフッサールの現象学 はまさに感覚概念 を基盤 に して展開 されていると見 ることもで きるであろ う。 われわれは以下の考察 において

,さ

しあた り伝統的感覚主義の感覚概 念 に対す る激 しい批判 の過 程 において

,次

第 に際立て られて くるフ ッサールの固有の現象学的感覚概念の基本的構造 を概観 し, 次 にそれを「感覚 が志向的脈絡の中で 占める位置やそこか ら出発 しては じめて規定 されるその意味 を問 う」 とい う

,フ

ッサール自身の現象学的基本構想 に照 らして内在的 に批判検討 し、 そ して さら にそのことを通 して現象学的感性論の究極的 な展開の方向をさぐってみたいと思 う。 (一 ) 感覚与件 をもっぱ らその志向的体験の脈絡の中で記述 しよ うとす るフッサールはその意味規定の 存立 を

,ま

ず第一 に感覚与件 を実在的 に経験 される物体 の知覚 される「感性的性質」 か ら具体 的 に 明確 に区別す ることの うちにみる。 フ ッサールによれば,「意識 の性 質 的要 素」 としての感覚主義 的感覚概念は現実的 に経験 される物体 の感性的性質

,す

なわちその物体 の属性 として知覚 され る色, 手 ざわ り

,匂

,温

かさ

,重

さなどをたえず「感覚与件」 ととりちがえて きたロ ック以来 の心理学 的伝統の悪 い遺産で あ り

(Kr.27f.Anm.1),そ

のような混乱 した概念 に無批判 に依存 してきた と ころに

,古

典的感覚主義的心理学 が原初的意識体験 としての感覚現象 を捉 えそこなった要因がある とみ るので ある。 メルロー

=ポ

ンテ ィが指摘す るよ うに

,感

覚与件 を意識の性質的要素 と定義づ ける古典的感覚主 義 は

,確

かに

,分

析すべ き対象 をあ らか じめ意識 のなかに移 し入 れるとい う「経験錯誤 (experi― ence error)」 をぢ巳している。つ ま りわれわれが事物のなかに在 るとい うことがわかっているもの を

,そ

の事物 についての自分の意識 のなかに在 るもの として一挙 に想定 して しまうとい う過失 を犯 してい る。こりなぜ な らたとえば一定 の性 質づ けられた内容 としての赤や緑 について考 えるならば, そもそもそれが二つの色 として互 いに区別 され うるためには

,そ

れ らはすで にわた しの前 に描 がか れていなければならないのであ り, したがってそれ らはもはやわた し自身で あることをやめている わけで あ り, したがって当然 それ らはもはやわた し自身の意識の要素 などではあ りえないか らで あ る。(19

(4)

なるほどフ ッサール自身 も初期 の主著である『論理学研究』 においては,「通 常 の狭義 の感覚 と は外的知覚の呈示的内容 (darstellende lnhalte)」 である」(LU.Ⅲ /2,79)と い う一見まぎらわ し

い定義づ けをしている。 しか しこの場合で も

,彼

は決 して

,素

朴 な感覚主義 が主張す るように

,感

覚 その ものが現 出す る事物 の対象的性質 を呈示す る内容で あると言お うとしているのではない。 フ ッサールにとっては

,感

覚 はあ くまで も知覚体験 における実的 な (reel),す なわ ち内在 的 に体験 される諸契機 と見倣 されているのであ り (LU.Ⅱ /2.234), したがって体験 流 の 内在的契機 として の感覚与件 とそれに対応 して現 出す る感性的対象 その ものの性質 とは明確 に区別 されているので あ る。外的知覚 において現 出す る事物の諸性質が

,た

とえばその事物の色 や形 が感覚の側 に存立す る 内容 (感覚 される色 や形

)の

類 にどんなに類似 しているとして も,「色 の感 覚 と現 出す る物体 その ものの色 を混同 した り

,形

の感覚 と物体 そのものの形 とを混同す ることは許 されない」(LU.Ⅱ/2. 234)と フ ッサールは強調す るので ある。 感覚現象の現象学的分析 においては

,知

覚 された事物 においてそれに属 す る成素あるいは諸契機 として現 出す る感性的性質 はもっぱ ら志向的に思念 された ものの側面 に

,す

なわち現象学的 に退元 された意識 のノエマ的存立 に属す るもの として見いだされるのに対 して

,感

覚 は知覚作用

,想

像作 用等の作用 と同様

,ノ

エ シス的存立 に属す るもの として露 わにされる。「意識 が自己の うちに見 い だすものは

,す

なわち意識 の うちに実的 に存す るものは知覚や判断の諸作用で あ り

,そ

してそれ ら の諸作用 には変動す る感覚的質料

,統

握内容

,措

定性格 などが伴 っている。」(LU.Ⅱ/1.352)っ ま リフッサールにとっては

,実

的呈示 内容 としての感覚 は内在的知覚 において直接的 に体験 され るも の とみ られてい るの

0あ

り, したがってそれは

,そ

こで は感覚的 に体験 されたもの と感覚的体験 そ の もの とがもはや区別 されえないよ うな原初的 な意識体験 と見倣 されているので ある。「感 覚 さ れ たものは感覚作用 その もの にほかならない。」(LU.Ⅱ/1,352) したがってそのよ うな内在的体験 の諸契機 としての感覚与件 は

,事

物 その ものの諸性質のよ うに, 現出す る諸性質 として意識 の うちに呈示 され

,超

越的 に思念 され うるとい うよ うなものではあ りえ ないのである。(LU.Ⅲ

/2.234)し

か しフッサール においては

,そ

れが超 越 的 に思念 され うるもの ではない とい う限 りでのみ

,実

的 に内在的であると言われ るのではない。それは意味倉J造的作用の ように決 して超越的 に思念 を指示 しないとい うこと, したがってそれが自己の うちにいかなる志向 性 をも担 っていない とい う限 りで実的 に内在 しているので あると言 われるので ある。

(Id.I.208)

それでは「外的知覚の呈示内容」 とい うフッサールの感覚概念の定義づ けは何 を意味す るので あ ろうか。 これまでみて きたような意識体験の実的契機 として規定 される感覚与件 がそもそもいかに して対象呈示的機能 を果た しうるのであろ うか。彼 は「本来の意味での性質は

,す

なわち現 出す る 事物の性質は感覚 された赤ではな く

,知

覚 された赤で ある。感覚 された赤 はただ暖味 に赤 といわれ

ているだけであり」

10,「

感覚与件 としての感覚された赤そのものは事物の性質ではありえない」

(Zb。

7)と

いう。そしてそのさいの両者を区別する根拠は

,つ

まり内在的感覚与件に対象呈示的内容と

(5)

しての機能 を与 える根拠 は

,内

在的感覚内容 に付加 される統握

(Auffassung)の

うちにあ るとみ るのである。「感覚 された赤 は統握 されては じめて事物の性質 を呈示す る契機の価値 を得る」(Zb.

6f),っ

まり「 これ らの(感)内容 はそれに付加 される統握 によって

,そ

れ らの内容 に明確 に対応 す る対象の諸内容 を一義的 に示唆 し

,そ

してそれ らを知覚的 な射映 によって呈示す る直観的諸作用 の諸内容 にな りうるので ある」(LU.Ⅱ /2.78)と ぃぅ。 したがってすべての知覚領域 には

,必

然的 にた とえば色 の射映や形 の射映 などの形で

,一

定の内容 が属す るが

,そ

れ らは知覚の具体的統一 に おいて統握 によって活性化 された (bescelt)感覚与件で あるとい うことになるので ある。(LU.Ⅱ /1,75) ところで感覚内容 が統握 され

,活

性化 されるとはどうい うことなので あろ うか。フ ッサールはそ れは意識 が感覚 を視向 し

,感

覚 それ自身 を知覚や知覚 によっては じめて基礎づ けられる解釈の対象 とす るとい うよ うなことを意味す るものではないとい うこと

,

したがって感覚内容の統握 は記号の 理解的統握

(verstehende Auffassung)や

その解釈のよ うなもの と混同 されてはならないと注意 している。(LU.Ⅱ

/2.75f)記

号 の解釈 における客観的統握 においては

,た

とえば(midori nO kゆ とい う語音記号の客観化的統握 においては

,体

験 される感覚複合 を媒介 に して

,外

的対象 としての (緑の木〉の直観的表象 (知覚

,想

,模

写等

)が

生ず る。(LU.Ⅱ /1.74)と ころがどのよ うな知 覚的統握 も感覚与件 その ものにはかかわることはない。なぜなら「感覚複合が活性化 されることに よって

,知

覚 された対象 は現 出す るが

,感

覚複合 そのものは知覚 された対象 を構成す る作用 と同様 現出 しは しない」(LU.Ⅱ /1.75)か らで ある。つ まり知覚的志向 がかかわ りうるのは感覚与件 を介 して現 出す る対象的事物 で あ り

,感

覚与件 そのものではあ りえない とい うわけである。「わた し は 色彩感覚 を見 るのではな く

,色

のついた事物 を見 るので あ り

,音

の感覚 を聴 くのではなく

,歌

手の 歌 を聴 くので ある。」(LU.Ⅱ /1,374)しかも感覚与件の この非対象的存在性 とい う性格は実的内容 としての感覚与件 その ものの本質的規定性 なのである。 とい うのは知覚的統握 がまさにもっぱら対 象的契機 に向 けられているとい う限 りで

,そ

の志向的体験 の実的契機 としての感覚与件 は必然的 に 自己忘却の状態 におかれ ざるをえないか らである。1。したがって『イデー ン』

Iで

,感

覚 は志 向 的統握 の基盤ではあるとして も

,そ

れ自身は志向 されるものではない として

,一

貫 して非志向的体 験 として定義づ けられているのである。「志 向的体験 の具体的統一 においては

,ど

のよ うな実的契 機 も志向性の根本性格

,つ

ま り或 るもの についての意識 とい う性質 を有 していない。 このことはた とえば知覚的事物直観 において非常に重要な役割 を果たす感覚与件 にあてはまる。」(Id.I.81) ところで このよ うな内在的 な非志向的体験 としての感覚与作の本質構造がそもそも現象学的反省 によって

,い

かに して また どの程度露 わにされ うるのであろ うか。 もとよリフッサールにとっては , 意識体験 の実的契機 とい う内在的所与性 として規定 される感覚 は

,決

して 自然主義的感覚主義 が素 朴 に想定 しているよ うな

,実

在的 な精イ申物理的囚果性や制約性 に帰せ られるよ うな直接的内在的所 与性 としてみ られてぃ るのではない。確 かに感覚与件 は精ネ申物理的 に囚果づ けられている面はある

(6)

として も

,そ

の因果性 その ものは体験 の固有の本質 に属す るものではない と

,フ

ッサールはみ るの である。 (Ido I.107)し たがって現象学的概念 としての感覚概念は

,フ

ッサールにとっては

,ま

ず 何 よりもそれ らの 自然的因果性 の排除の後 に

,す

なわち現象学的還元の残余 としては じめて純粋意 識の うちに見いだ されるよ うな内在的所与性 として考 えられているのである。「通 常 的 な外的知覚 において

,感

覚 によって媒介 されたもの としての現象学的残余が狭義の感性(Sinnlichkeit)を表示 す る。」(Id.I.209) フッサールは感覚与件 は非志向的体験ではあるとしても,糸屯粋 に心的 なものへの現象学的還元 に おいて

,体

験の実的な具体的成素 として見いだされて くるとい う。「 この白い紙 の知 覚体 験 におい て

,す

なわちもっと厳密 にいえばこの紙の白とい う性質 にかかわるその体験 の構成要素の うちに, われわれは適切 な視向 を通 しての純粋 に心的 なものへの現象学的還元 において

,感

覚与件 としての (白

)を

見いだす。 この感覚与件 としての白は具外的知覚の本質 に不可分離的 に

,

しかも実的 な具 体的成素 として帰属 している。」

(Id,I.81)と

ころがこのよ うな実的意識体験 としての感覚はまさ にその ようなもの として

,疑

いな く自我機能 に帰属す るもの としてのみ見いだ されるもので あ りな が ら

,同

時 にそれがどんな場合で もcogttoの形式 を有 さないとい う限 りで

,そ

れ自体 としては本来 的意味での 自我関係性 を有す るものではない とされるのである。(Id.Ⅱ .214f) したがって『イデー ン』

Iの

うちにみ られる「 ヒュレー (Hy16)」 とい う感 覚 規定 の うちには, 感覚がただ単 に客観化的統握綜合 に対 して

,そ

の質料 あるいは素材 としての機能 を果たす とい うこ とだけが意味 されているので はな く

,ま

さにその意味付与的統握 がは じめて その質料的与件 を活性 化す るとい うこと

,つ

ま り素材 としての感覚与件 に身体的 に知覚す るもの としての生 きた 自我への 関係性 を付与す るとい うことも語 られているとみ るべ きであろ う。10したがつてわれわれの自我 は対 象的 なものへの顕現的志向関係 においてのみ生 きい きと作動 しうるとい う現象学的前提 か ら考 える ならば

,非

志向的 な感覚与件 とい うのは生気のないもの として

,す

なわち精神 を付与 されていない 素材 (Hy16)と して しか見 られない とい うことなので あろ う。 (二) ところで これ までみて きた『論理 学研 究』 と『 イデー ン』Iにお いて得 られた「実的呈示 内容」 とい う一見 した ところ等質 にみ えるフ ッサ ールの感覚概 念 には明 らか に内的緊張 が伏 在 して い る。 意識流 の実的契機 と しての感 覚 が ど うして同時 に意識 の非志向的 ・非 自我 的成素で もあ りうるの か。 非志向的 で

,非

対 象 的 ヒュ レー と して の感 覚 が ど うして呈示機 能 を果 た し うるの か。 フ ッサ ー ルの 感覚概 念 の これ らの 内在 的 問題 を解 明す るため には

,さ

しあた りこの概 念 が現 象 学 的反 省 にお いて どの よ うに して獲 得 された もので あ るか とい うこ との新 た な考察 か ら出発 しなければ な らない。す で にみ た よ うに

,フ

ッサ ー ル は『 イデ ー ン』Iにおいて

,非

志 向 的体 験 と して の感 覚与件 が適 切 な

(7)

視向 を介 しての現象学的還元 において

,体

験 の実的 な成素 として見いだ され うるとい うことを示 し ている。 しか しその限 りでは当面のフ ッサールの感覚概念の内的問題 は解決の方途 を見いだ しえな い。 ここで はわれわれはさらにフ ッサールが『イデー ン』 Ⅲにおいて,「感覚的 に与 えられる対象」 をその純粋 な構造 において捉 えるために試みている独特の遡源的分析 (Id.Ⅱ .§

10)に

注 目するこ とにす る。 そこではフ ッサールは感覚 を根源的 な「受動的先所与性 (pass e vorgegebenheit)」 の領野 と して捉 え

,そ

の構造 をその純粋 な相 において解明 しよ うとす る。その さい彼 は自然の実在的統一体 としての感覚的事物 を手引 きに して

,そ

の基体的囚果的統一性 としての意味 とその質料的実在性 を 捨象す ることか ら出発 し, さらにそれに随伴 している既知の性質や親 しみ深 さとい ったよ うな自我 的関係性 をも一切捨象す ることによって

,事

物 の原初的所与性 としての空間的 フ アン トム (Phan―

tom),す

なわちもはやいかなる実在的因果的規定性 も有 しない事物図式 に達 し

,そ

して最後 にその 空 間的規定性 を捨象す ることによって

,は

じめて感覚 をその純粋 な相 において獲得す ることがで き るとみている。(Id.Ⅱ .22)「 最後 に空 間的統握 が遂行の外 におかれる。 したがって空間的 に鳴 り響 いている音 のかわ りに

,単

なる感覚与件 としての音 が獲得 される。」(Id.Ⅱ 。

22)こ

うして フ ッサ ー ルは感覚的対象の遡源 的分析 の終極 において

,そ

の究極的要素 としての感覚 に達す ると信 じている のである。 しか しこの ように結局 は感覚与件 を感覚的事物の究極的成素 として捉 えるとい うフ ッサールの感 覚論 は,「フ ッサールはその表 向 きの感 覚主義 に対す る激 しい批判 にもかかわ らず

,結

局 はやは り 伝統的 な感覚主義的感覚概念 に固執 してお り

,

しかもその感覚概念 も十分 な現象学的反省 を介 して 獲得 されたものではな く

,す

で に構造的 に規定 されているものである」 とい うよ うな批判 をゆるす ことになる。アゼ ミッセ ンは,『フ ッサール現象学 における知覚の構 造 分析 的 問題』10と い う鋭 い 論文 において

,感

覚問題 を現象学的知覚分析 における最 も根本的 な事象的問題 として捉 え

,フ

ッサ ールの感覚概念 を徹底的 に現象学的方法の理念 に照 らして批判的に吟味す るとい う試みを展開 して │ヽる。 その さい彼 は何 よりもフ ッサールが感覚 をそれ自体 としては対象呈示的性質を有す るものではな く

,そ

れが統握作用 によって活性化 され ることによっては じめて呈示的機能 を果た しうるものであ ると規定 しているにす ぎない とい う限 りで,「外的知覚 の呈示 的内容」 とい うフ ッサールの感覚概 念は、 それにとっては本来非本質的機能で しかないものによって定義づ けられてい るだけであると い うこと, したがってフ ッサールは感覚 を感覚 そのもの として考察す ることを怠 っていると非難す る。10「フッサ

_ル

は知覚 が問題 で ある限 りで,その志向的体験の固有の仕方 を理解す るために

,吟

味 されていない感覚概念 を使用 してい る。 しか し感覚 その ものは

,す

なわち彼の理論 においてはや は り問題 の多い非志向的体験 の固有の在 り方 はそもそも問われていない。」10そ して さらにフ ッサー ルが感覚 を空 間的性格 を捨象す ることによって得 られる実的内容 として規定す るとい うことによっ

(8)

,ぬ

きさ しな らない ジ レンマ に陥 ち込 む こ とにな ると

,ア

ゼ ミッセ ンは指摘 す る。 なぜ な ら『 イ デー ン』Iにお けるフ ッサ ールの考 えによれば

,色

彩感 覚 や形 態感 覚 とい うよ うな感覚与件 や あ る いは一般 に射映 (Abschattung)と して体験 され るすべての感覚 にはその内在的本質 と して

,必

然 的 に「拡 が り (Ausbreitung)」 が属 す るとされて い るか らで あ る。(Ido I。 197)そもそも この よ う な感覚 の空 間的規定性 がいか に して純 粋意識 の実的 内容 と しての感覚概 念 の規定性 と合致 しうるの で あろ うか。意識 は非空 間的 で あ り

,空

間 は意識 の志向的相 関者で あ る とい う現象学的前提 の も と で

,こ

の場 合考 え られ うることは

,感

覚 は純 粋意識 の実的 内容 と して

,空

間的規定性 を有 し得 ない とい うこ とか

,そ

れ とも感 覚 は空 間的 に規定 されて お り

,

した が って それは実的意識 内容で は あ り えない とい うことかの いず れかで あろ う。 したが って アゼ ミッセ ンは「 呈示 的体験 内容」 とい う一 見 した ところ等質 に思 われ るフ ッサ ールの感覚概 念 の規定 は現象学的意味 においては

,「

実 的 体 験 内容」 と「呈示 的感性 的質料」 とい う二つ の両立 し得 ない異 質 の規定要 素 に分裂 せ ざるを得 ない と い うこと

,

した が って フ ッサ ールの感覚概 念 はまった く別種 の二つ の類 に分 け られなければ な らな い と主張 す るので あ る。10「 た とえば色 彩 与 件 は呈 示 的

,感

性的質料 で あ るが

,そ

れ らは現 象 的 に は もっぱ らノエマ的側 面 に属 す る。 したがって それは もはや実的体験 内容 で はあ りえない し

,ま

た 実的 に分析 す る反 省 において は体験存立 の構 成要 素 と して は見 いだ され得 ない。事実色 彩与件 には よ く知 られて い るよ うに心理 学的過程 が対応 す る。 しか しその よ うなもの は感 覚 され ない。………・ 現象的 には体験 の側 面 には知覚 された色 に夕↓応 す るもの は何 もない。」10しか もアゼ ミ ッセ ン は、 フ ッサ ールの感 覚与件 と しての赤 や 白 と知覚 された対象 的性 質 と しての赤 や 自 との区別 は決 して現 象学的 に十分 に吟味 された もので はな く

,理

論 的 に構 造化 されて い るもので あ ると非難 す るので あ る。20 (三) 「 実的呈示 内容」 とい うフ ッサ ールの感覚概 念 の定義づ けには内容緊張 が伏 在 して い るとい うこ と

,ま

た彼 が強調す る対象呈示 的 内容 と感覚与件 との区別 も決 して現象学的方法 によって十分 に基 底 づ け られた もので は ない とい うアゼ ミッセ ンの批半」は,『 論理 学研究』 や『 イ デ ー ン』

Iを

み る 限 りで は当 を得 た もので あ るよ うに思 われ る。 しか しアゼ ミッセ ンは フ ッサ ールの後期著作 におい て頭著 に現 われて くる感 覚概 念 の構想 の変移 を見 て はい ない。た とえば彼 は『 イデー ン』 Ⅲの身体 的 自我体験 と しての感覚 の構 想 や『内的時 間意識 の現象学』(1928)の うち に 明 らか にみ られ る感 覚概 念 の4多正 には何 もふ れてい ない。 われわれはい まや フ ッサ ール後期 の感覚概念 を吟味 す るた め に

,こ

れ らの問題 圏 に立 ち入 らなければな らない。 なるほ どアゼ ミッセ ンも

,フ

ッサ ー ルが実的 内容 と しての感覚 を「純 粋 意識」 に還元 して い る と い う問題性 を指摘 した あ とで

,感

覚 を身体 的体験 と して規定 しよ うと試 みてい る。9うしか しフ ッ サ

(9)

―ル が『イデー ン』 Ⅱにおいて感覚 の構 成的制約 と して分析 しよ うと してい る身体 は

,ア

ゼ ミッセ ンが解釈 して い るよ うな

,ノ

エ マ的 に構 成 されて現 出す る身体 で は な く

,み

ず か らが超越論的 に構 成 す る身体 で あ る。2Dフ ッサ

_ル

は『 イデー ン』 Ⅱにお ける「′

b的

領域」 の考察 (Id.Ⅱ.§§

36)に

おいて

,自

己 の身体 が他 の物体 と同様 に客観 的 ・物 質的事物 と して現 われ る「 外的態度」 に対 して, 身体 が感覚的 に性格 づ け られた人 間的身体 と して現 出す る態度 を「内的態度」 と して際立 て

,そ

し て この「内的態度」 において感覚与件 と身体 との独特 の内的関係 を顕 らか に しよ うと してい る。 フ ッサール によれ ば 自己の身体 は

,こ

の内的態度 において は じめて固有 の意味 での身体 として, す な わ ち感 覚 の局 所づ け (LOkalisation)の領 野 と意 志 器 官 (Willensorgan)と しての身体 と して 体験 され るこ とに な るとい う。 ここで は感覚 はただ単 に外的世 界 の物体 に対 す る呈示的 内容 と して 機 能 す るだ けで は な く,「感 覚態 (Empfhdnis)」 と して身 体 的 経 験 に対 す る独 特 の構 成的機能 を も果 た してい るとい うこ とが示 され る。 フ ッサールは感覚 が身体 に定位 されて い る現象 を (局所 づ け

)と

呼 び

,そ

の よ うに局所づ け られてい る感覚 を (感覚態

)と

呼 んで い るので あ るが

,彼

は その 感 覚 態 には感覚 の二重化 の現象 がみ られ るとい うことを指摘 す る。90た とえば一方 の 手 の冷 た い, なめ らかな指先 で他 方 の手 の温 かい

,ざ

らざら した 甲 をなで る とい う場 合

,わ

た しは一方で は冷 た い

,な

め らかな感 覚 の流 れ を手の 甲の感 覚態 と して

,つ

ま り手 の 甲 に局所づ け られた感覚 と して経 験 しなが ら

,他

方 で は温 かい

,ざ

らざ ら した感 覚 の流 れ をも指先 に局所づ け られた感覚 として経験 す る。 (Id.Ⅲ

.119)こ

の場 合

,冷

たさ

,な

め らか さとい う手 の 甲 に局所づ け られた感覚 がまさ に そ の客観化 を介 して

,同

時 に指 先 に局 所づ け られた温 か さ とざ らざらした感 覚 を経験 す るとい う感覚 の二重化 が起 って い るので あ る。 そ して

,こ

の よ うに局所づ け られた感 覚 と しての感覚 は もはや純 粋 な意識 の体験流 にで は な く

,感

性 的 に内的 に体験 され る身体性 の機能 に帰 せ られ なければな らな い とい うこ とは明 らかで あ る。つ ま り感覚 はただ単 にその機能 の場 を意識 流 の うちに有 してい る と い うだ けで な く

,身

体 において局 所づ け られて い るもの と して も現 出す るとい うこ とがここで は示 されてい るので あ る。 ラ ン ドグ レーベ は先 きに引用 した論文 において,『 イデー ン』 Ⅲ にお け るフ ッサ ールの この感覚 の身体 的構造 の分析 に依拠 しなが ら,『 論理学研 究』以 来 の フ ッサ ールの感 覚 概 念 が結 局はそ こに 根 をお ろ して きた伝 統 的感 覚主義 の感覚概 念 の内在的 問題 をあ くまで も現 象学 的地平 の内部で克服

しようとする注目すべき試みを展開している。ランドグレーベは 〈

感覚するということ

(Empfin―

den))を

現象学的 に問 うことの意義 を

,感

覚 をもっぱ らわれわれの意識構造の契機 として捉 えると い うこと

,つ

ま りそれをあ くまで もわれわれがわれわれ自身 を意識す る仕方 として捉 え

,そ

の感覚 的意識体験 をその志向的脈絡 においてあるがままに記述す るとい うことの うちにみ る。90 古典的心理学 も従来の哲学 も感覚 をいつ もそれが対象意識 の発生 に対 して どの よ うな機能 を果 た すか とい うことに関 してのみ間 うて きたために

,感

覚 をせいぜ い高次の綜合的能作 (統握

)に

対す る受動的 な素材的契機 として しかみ ることがで きなかった。 しか しそのよ うな感覚の対象構成的意

(10)

味への問いには

,実

は自己自身の意識の契機 としての感覚への問いが先行 しなければならないと,

ラン ドグレーベは言 う。90とい うのは 〈感覚す るとい うこと

)に

は,それが運動感覚的意識 (kirtus―

the sches Bewuatse

)で

あるとい う限 りで

,す

なわちそれがそれ自身の うちに「 わた しは動 く」

とい う意識 を内包 している意識であるとい う限 りで

,必

然的 に自己自身 を 〈感覚す ること

)が

属す るからである。90したがって彼 は われ われ が身体的 に受 けとる感覚的印象は決 して単純 に与件 を受 動的 に受 けとるとい う仕方で得 られるものではなく

,そ

れはすで に頭現的 にであれ

,潜

在的 にであ れ,「わた しは動 く」 こととして能動的 に遂行 される運動感覚的運動 の成果 として得 られるのであ るとい うのである。90 この ラン ドグレーベの大胆 な主張 は実験的にも裏付 けられている。彼 が引証 しているカッツの報 告側は

,触

覚的性質は瞬間的F「象 においてではなく

,運

動 において (た とえばさわる指 がさわ られ る表面の上 をなでてい くとい う場合のよ うに

)は

じめて開示 されるとい うことを証示 しているし, さらに特殊 な方法で微小眼球運動 を相対的 に静止 させることによって

,網

膜 に うつ る外界の像 を静 止 させ ると

,数

秒後 に視像 が消 え

,視

野全体 が白っぽい一様 な状態 になって しまうとい う

,Ro W.

ディッチバー ン等の報告90は視 覚 的 に即象 を受 けとるとい うことの可能性 その ものがすで に感覚的 に動 く (眼球運動

)と

い う能動性 を前提 にしているとい うことを証明 している。

この画期的洞察は 〈

究極的構成要素としての感覚

)や

受容的能力としての感性)と いうような

伝統的感性論の基本概念の根本的修正を迫ってくる。なぜなら運動感覚的自己運動が感性的刺激を

受 け とることの可能性 の根拠 と して前提 に されてぃ なければな らない とす るな らば

,伝

統 的感性 論 の よ うに

,運

動感覚的運 動 が究極 において感性的刺 激 によって操作 されて い るとみ るの は背理 だか らで あ る。 ラン ドグ レーベ は

,も

しも意識 の構 造 をその最底層 において構 成 し

,

した が ってすべて の他 の要 素 がそ こにおいて基底 づ け られ る契機 と しての意識 の究極的要素 が問われるべ きで あると す るな らば

,そ

れ は もはや旅屯粋 に感性 的 な性質 を与 える意識 と しての感 覚 の うちにで は な く

,対

象 の情動的印象性 質

,す

なわ ち惹 きつ けた り

,突

き放 した り

,驚

ろかせ た りす る性 質 の うちにこそ求 め られ るべ きで あ るとい う。99こ の主張 は

,フ

ッサ ール後 期 の感 性 論 において も支持 され うるもの で あ る し,GOま た メル ロー

=ポ

ンテ ィの 引 いて い る多 くの具体 的証言 によって も

,そ

の正 当性 は裏 付 け られ るもので あ る。 メル ロー

=ポ

ンテ ィはた とえば あ る対象 の青や赤 とい う性 質 は

,そ

れ が ま さにその よ うな客観 的 な色 の性 質 と して現 出 す るま えに

,ま

ず 最初 はわれ われを惹 きつ けるもの

,あ

るいは突 き放 す もの 等 と して現 出す ると強調 す る。「 カ ンデ ィンスキーは

,緑

色 は『 わ れ わ れ に な に も要求 しない し, なにご とをせ よとも促 さない』 と言 い,00ゲ ーテ は青色 は『 われ わ れ の注視 に屈 服す る』 よ うにみ えると言 う。 そ して さらに, これ に対 して赤 は『眼の中へ突 きささって くる』 とゲーテは言 う。39・…・…一般 的 に言 って

,人

は一 方 で は赤 と黄色 で『引 き離 され るよ うな体験

,中

心 か ら遠 ざけ られ るよ うな運動 の体験』 を し

,他

方 青 と緑 では『休息』 と『集 中』 の体験 をす る。00し た が って 「 色

(11)

の性質は

,客

観的光景であるまえに,その本質 に対応す る或 る行動の型 によって認識 される」enと

,メ

ルロー

=ポ

ンテ ィは言 うので ある。 そ うい う意味で

,

ラン ドグレーベ も (感覚す ること

)の

可能性 の前提 としての能動的 な自己運動 の意識 はただ単 なる運動感覚的 自己意識ではな く

,む

しろ「(自己が

)或

る状態 にある (sich be― finden)」 ものとして 自己 を感 覚 す る意 識 で あ る とい うこと

,す

なわちそれはいわばハ イデ ッガー の「′い境 (Befindlichkeit)」 の基磯的構造契機 とで も言 うべ き自己意識で あるとい うので ある。90し か しその さい彼 はその心境的意識 としての自己運動の意識 を単 なる状態的意識 にとどまるものとし て もみているので はなく

,さ

らにそれは同時 に

,そ

こにおいて (その 自己運動 を介 して

)感

性的刺 激 が与 えられ うる運動空 間 (Spね lraum)を 有す るとい う意識で もある,と見倣 してい るので ある。00 そ して彼 は自己運動のアプリオ リな意識の相関者 としてのその運動空間こそがわれわれの経験的世 界 としての直接的 な周囲世界にほかならない と言 うのである。 したがって思惟す る主観性の独立性 の表象 としての自我意識 の可能性 には

,こ

の よ うに「 わた しは動 く」 とい う自発性 の意識 が不可分 的 に属 してお り

,

しあもこの 自己運動の 自発性の意識 がその「世界」 としての運動空 間の意識 を内 包 しているとす るならば

,自

我意識 は同時 に世界意識で もあるとい うことになり, したがって 自我 意識 がそのよ うなもの として感官の刺激の可能性 の根拠で ある

,と

い うことになるので ある。00 ラン ドグレーベはこのよ うに感覚 を「世界内存在」 として捉 えるとい う方途 においてのみ

,真

に 現象学的 に実証可能 な感覚411念が獲得 され うるとみ るので ある。そ してまた彼 はそ うす ることで,

すなわち感覚の機能を単なる「呈示機能」としてではなく,(世 界機成〉の機能と見倣すことによ

って

,伝

統 的 な感 覚主義 的感覚概 念 の内在的 アポ リアも克服 しうるとみ るので あ る。 しか しここで も「感覚 それ 自身 は何 で あ るの か」 とい うわれ われ にとっての肝心 な問題 は解決 さ れて はい ない。確 か に

,(動

くこ とがで きる

)と

い う自己運 動 の心 境 的意識 において は じめて「感 性 的刺 激」 が賦与 され うるとい うこと

,つ

ま り受容性 には一定 の能動性 が先行 しなけれ ば な らない とい うことは明示 された。 しか しその「感性 的刺激」 その もの,「 感 性 的 受 容 性」 その もの が何 で あ るか

,そ

れがい か に して構成 され るの か とい うよ うな根 本的 問題 は ここで はふ れ られて い ない。 その意味 で は

,フ

ッサ ー ル が『 イデ ー ン』 Ⅱにおいて

,新

しい運動感覚的意識論 を展 開 して い るに もかか わ らず

,感

覚 を依 然 と して意識体験 の究極 的要素 と して扱 ってい る00の と同様

,明

らか に こ の理 論 に依拠 しなが ら議論 を発展 させ よ うと してい るラン ドグ レーベ も結局 は伝統 的感 覚主義 的感 覚概 念 その もの には

,根

本 的 には手 を加 えて い ないので あ る。 この よ うに,『 イ デ ー ン』 Ⅱ に お け る (感 覚 の身体 的構造 の分析

)は

確 か に感覚現象 の新 しい地平 の可能性 を示 して くれ る と して も, これ まで みて きた限 りで は,「 それ 自体 と して は無 意 味 な非 志 向 的 な感覚的 ヒュ レー が どうして対 象呈示 的機能 を果 た しうるのか」 とい う

,わ

れ われの当面 の問題 は ここで もその明確 な解 決 の糸 口 を見 いだ しえないので ある。

(12)

(四) そこでわれわれはここで もう一度,「実的呈示 内容」 とい う『論理 学研 究』以来 のフ ッサールの 感覚概念の定義づ けに立 ち還 り

,そ

の内的緊張の糸 をときほごす ことか ら新 たに出発 しよ うと思 う。 すで にみたよ うに

,フ

ッサールは感性的内容 を意識 の実的契機 として捉 え

,そ

れは統握能作 によっ て活性化 されることによって対象呈示的機能 を果たすのであると見倣 している。 しか しそ うだ とす れば

,そ

こでは少 な くともその機能 においては

,こ

の一定の感性的内容 がこの一定の対象の感性的 代表物

(RepEsentant)と

しての役割 を果 た しているとい うことが主張 されていることになるの であるが

,い

ったぃある感性的内容がこの一定の対象 を呈示す るとはどうい うことなのであろか。 そもそもいかに してある感覚与件 が一定の対象の呈示機能 をひきうけることがで きるのであろ うか。 たとえばある感覚 を一定の赤の感覚 として性質づ けるものは何 なのか。要するに実的契機 としての 感覚的 ヒュレー と客観的 な対象的意味 との連関がいかにして動機づ けられるのかとい う難問がここ には伏在 しているので ある。 先 きにみたよ うに

,ア

ゼ ミッセ ンはフ ッサールの「実的呈示内容」 とい う感覚概念は

,現

象学的 意味 においては「呈示的感性的質料」 と「実的体験内容」 とい う全 く別種の二つの類 に分 けられな ければならない とい うこと

,そ

して感覚的 ヒュ レー としての感覚与件 は体験の実的契機 にではな く, もっぱ らノエマ的成素 としての「呈示的質料」 に帰せ られるべ きであるとい うこと

,そ

して まさに そうす ることによってのみ,「感覚与件 がいかに して一 定 の対 象 を呈示す る機能 を果た しうるか」 とい う問題 も解決の方途 を見出 しうると主張 している。00確か にフ ッサール後期の著作で ある『経 験 と判断』 において も

,感

覚概念の分析はもっぱ ら色彩与件 と音与件 に定位 されてお り

,

しかもそ こでは一貫 してそれ らの与作の対象的体験の側面への帰属性 が語 られている。たとえばそこでは色 彩与作 はすでに一定の構造

,濃

淡 を有す る

,様

々に分節 している感性的所与の統一体 としてみ られ てお り

,そ

れ らは対象の抽象 を介 して

,い

つで も具体的事物の色

,表

面の色

,あ

る対象の「斑 点」 として統握 され

,そ

のよ うなもの として主題的 に女寸象 にな りうるとみなされているのである。30 したがって ここでは感覚与件 はもはや これまでみ られて きたような,「それ 自体 と して は無意味 な

,非

志向的素材」 としてではな く

,す

で に何 らかの仕方で対象的 に構成 されたノエマ的統一体 と して捉 えられているとい うことは明 らかである。 しか しこのように感覚与件 をすでに対象的に構成 された統一体であると見 るとして も

,対

象的統一体 としてのその感覚与件 その もの1まさらに先行 的 に存在す る感覚与件の統握能作の所産 として発生 したものではないのか。 したがってその場合で も 究極 においては「無形式的 な

,非

志向的藷材」 としての感覚与件 は前提 にされているのではないか。 したがつて その場合で も,「ある感覚与件 がいかに して一 定 の対 象 を呈示す る機能 を果た しうるか」 とい う問題 は依然 として残 ることになるのではないか。 われわれはこれ らの問題 を解 く手がか りを, さしあた リフッサールが『論理学研究』 において試

(13)

みている (対象知覚の具体的 な記述分析

)に

求め ることにす る。 た とえばわた しがいまある木の まわ りを回 りなが ら

,そ

れをそのつ どこの規定 された本 として持 続的 に知覚 しているとす る。 その場合 そこにおいてそのつ ど現 出 してい る木 はつねに一面 からのみ 呈示 され

,射

映 されてい るにす ぎないとい う限 りで

,そ

こで そのつ ど統握 され

,体

験 される感覚内 容 はつねに異 なった感覚内容で なければならない。 しか しそれにもかかわ らず

,そ

の さいわた しは つねに同一の対象 としての本 を知覚 している。つ まりそこではそのつ どの局面 において

,そ

れに対 応 して多様 に射映す る感覚内容がこの木 とい う同一の対象的意味 として統握 されているので ある。 そ してフッサールにおいては

,ま

さにその意味の上 か ら「統握 は 〈わた しに対す る対象の存在〉 を は じめて形成す る一つの体験性格で ある」 (LU.Ⅱ

/1,383)と

称 され るので ある。 ところでわた し がこの木のまわ りをまわ りなが ら

,そ

のつ ど体験す るあらゆる感覚 がまさにこの本 とい う (意味〉 の上 から統握 されてい るとい うことは

,換

言すればその多様 な感覚与件 には

,つ

ねにその統握 にお いて意味の上 か ら同一化 されている同一の志向的対象 が対置 されているとい うことを意味す る。 し か しもとよ りこの ことは一定の感覚 がいつ も同一の仕方で

,つ

ま り同一の意味の上 か ら統握 されね ばならない とい うことを意味す るのではない。む しろ異 なる作用 が同一 の感覚 を異 なる意味 におい て統握 しうるとい うのがフ ッサールの基本的考 えである。10 ところで そもそもこの (意味

)と

は何 なのか。 フッサールは志向的体験 の実的内容 としての感覚 体験 そのものがその統握の意味 を決定す るものではないとい うこと

,す

なわち感覚内容 はそれがど のよ うなもの として統握 されるかとい うことを決定す るものではな く,「感 覚 をい わば活性化 し, そ してそれ自身の本質 に基づいて

,わ

れわれにあれこれの対象的 なもの を知覚 させ るのは作用性格 で ある」(LU.Ⅱ

/1.385)と

強調 す る。す なわち「対象 を特定の この対象 としてのみ妥当せ しめ, それ以外のもの としては妥当せ しめないのは

,…

Ⅲ……対象的統握の意味であ る」(LU.Ⅲ/1.416) とい うのである。 そ して彼 はその特定の (対象関係

)を

賦与す る対象的統握の意味 内容 を作用の質 料

(M aterie)と

呼 び

,そ

れに対 して様 々な く対 象的関係の仕方

)を

与 え る もの を作 用 の性 質 (Qualitht)と呼 んで

,そ

れぞれを統握の本質契機 と見倣 してい るので ある。 質料 は

,そ

れを介 して或 るものへの特定の対象的関係 が打 ち立て られ るものであるとい う限 りで, 志向的内容

,あ

るいは志向的対象 とも称せ られる。 しか しその ことは

,質

料 が作用 にとって超越的 に志向 されているもので あるとい うことを意味す るのではない。 それが志向的対象 と称せ られるの は,「特定の性格 の志 向 を伴 う作用が存在 し

,そ

して この特定の志向が

,ま

さにその特定性におい てわれわれに対 して この対象への志向 と呼 ばれているもの を形成 している」(LUo Ⅱ/1,412f)と い う限 りにおいてで ある。 したがってフ ッサールはここでは二重の意味での「志向的対象」 につ いて 語 るのである。「作 用 の対 象 と解 される志向的内容 に関 しては,志向 されているがままの対象(der

Gegenstand,sO wie er intendiert ist)と 志向 されている当の文↓象 その もの(schlechthin der Ge―

(14)

われわれは

,作

用の性質 が変動 して も

,質

料 は同一不変で あるよ うな事態 を容易 に想定す ること がで きる。たとえば「『火星 に人 間 がいる』 と表象する者は,『火星 に人間 がいる』 と言表す る者 と も

,さ

らにまた『火星 に人間がい るだろ うか』 と質問す る者や,『火星 に人 間 がいた らなあ』 と願 望す る者 などとも

,同

じことを表象 しているので ある。」(Lu.Ⅱ

/1.412)こ

の場 合

,作

用 の性 質 は違 って も

,そ

れ らの作用 において志向 されている対象は同一的 に統握 されているのである。その さいの作用の性質は

,特

定の仕方で既 に (表象 されたもの

)が

,願

望 された もの

,質

問 された もの, 判断 によって措定 されたもの などとして

,志

向的 に現在 してい るかどうかを規定す るにす ぎないの であ り

,

したがって作用の中にあって固有の意味での対象的関係 をは じめて作用 に賦与す るものは , 対象統握的意味 としての作用の質料で あると

,フ

ッサールは主張す るので ある。(LU.Ш/1,415) しか し実際の具体的 な志 向的体験 においては

,作

用の質料 はそのつ どの志向的性質 と不可分 に統 合 されては じめて

,ま

さにその志向的体験の志向的関係 を打 ち立て ることがで きるので ある。そし てその ように質料 と性質 とが志向的作用 における必要不可欠の成素であるとい うことは

,換

言すれ ばそれぞれの作用成素 その ものは 〈完全 な作用

)の

一部分で しかない とい うことを意味す ることに なるのである。 そこで フ ッサールは

,そ

れ らの作用の成素 に対 して, さらにそれ らの統一 としての (完全 な作用

)の

概念 を導入 し

,そ

れを志向的本質 と呼ぶのである。(LU.Ⅱ/1,417) 対象の知覚 においては

,そ

の対象 はわれわれにとっては

,感

覚的 にはその存在の特定の射映 とし て しか与 えられないとして も (たとえばその対象の前面の射映 として

),そ

の さい われ われはその 対象 をただたんにその存在の

,そ

のひ とつの射映 としてのみ知覚 してぃるわけで な く

,そ

の対象 を 全体 として も知覚 している。す なわちその知覚意識 には

,本

質的 にその対象 は

,わ

た しがそのまわ りをまわれば

,知

覚す ることので きる裏面 を有 しているとい う意識 が共属 しているので ある。 しか しその さい対象は

,ま

さに感覚的 には原理的 に特定の射映 において しか与 えられないとい う限 りで, 質料 において表象 される志向的対象の意味 も

,感

覚的 にはつねに不完全 に しか代表象 されえない と い うことになるのである。 したがって質料 と性質 との統一 としての志向的本質 とい うのは

,質

料 に おいて表象 されるすべての ものが感覚的 にも完全 に代表象 されるとい う

,い

わば認識 の理想的段 階 として想定 されてぃるもので あるとい うことになろう。10 したがってフ ッサールにとっては

,完

全 な具体的 な志向的作用は意味の上 か ら統握す る志向的作 用 とそれによって統握 される感覚 との統一 によって形成 されるとみ られているとい うことなので あ る。(LU.Ⅱ

/1,383)し

か しその さいの感性 的 内容 の対象呈示的機能 はいったいどのような仕方で 遂行 されるのであろ うか。対象呈示的機能 としての感性的内容が具体的 な志向的作用の形成 にとっ て不可欠の成素であるとして規定 され るとき

,そ

こではそれが対象的意味 の存立 に何 らかの仕方で 必然的 に関与 しているとい うことが言吾られているのであろうか。 したがって感覚存立の変化 がつ ね にそれに対応す る対象的意味の変化 をももた らす とい うことも

,そ

こでは並行的 に語 られているこ とになるのであろ うか。いずれにせ よ

,こ

こで もやは りわれわれは「意識の実的契機 としての感性

(15)

的 内容 がい か に して 自己 を超 出 して

,一

定 の対象 の呈示機能 を引 き受 けるこ とがで きるの か」 とい う根 本 問題 につ きあた るので ある。 フ ッサ ールは この問題 を,『 イデー ン』

Iに

おいて

,注

意 変 更 や 明 瞭 性 や定位 の相違 あ るいは照 明変化 等 に対応 して現 われ るノエマ的変化 を考察 す るさい に

,主

題 的 に扱 って い る。はかそ こで 問 題 に されて い るの は,「 充実の様相」 において現 われ る対 象的意 味 と しての ノエ マ的 様 相 にお け る対 象 で あ るが

,そ

こで はその よ うな対象的意味 の変化 がその所与性 の仕 方 と しての現示 的 内容 の変化 に対応 して現 われ るとい うこ とが

,明

確 に表 明 されている。た とえば現 出 してい る対 象 その もの (の 意味

)に

属 す る色 彩的表面 を例 に挙 げれば

,そ

の表面の ノエマ的様相 その ものは代 表 象的 ヒュ レー の変化 に従 って

,そ

のつ ど別様 に現 われ るとい われ る。

(ld.I.412)し

か しこの こ とは, ヒュ レー 的 内容 その ものの変化 が直接 ノエマ的 内容 の変化 と して現 われ るとい うことを意味 す るもので はな い。 なぜ な らフ ッサ ールに とっては

,そ

こで は ヒュ レー的与件 は あ くまで も意識 の実的 内容 と見微 されて い るので あ り, した が って それは決 して単純 には ノエ マ的 内容 には還 元 され えないか らで あ る。(二

d.I,412)し

か し「 ノエマ が ヒュ レーの統握 の所産 で あ るとい う限 りで

,そ

れ は ヒュ レー に 由来 す る構 成要 素 とノエ シス に由来 す る構 成要 素 を内包 して い る」

(Id.I.412)の

で あ り

,

した が って その限 りで「作動 しつつ あるヒュ レー的与件 のすべての変化 には

,そ

れ を統握 す るノエ シス的 機能 を介 して, ノエ マ にお ける変化 も文↓応 す る」

(Id.I.412)と

いわれるので ある。 しか しその よ うにノエ シス が ヒュ レー的 内容 の変化 をノエ マ的 内容 に移 し入 れ るこ とがで きるため には

,ノ

エ シ ス その もの が何 らかの仕 方で

,す

で にその ヒュ レー的変化 にかかわってい るので なけれ ば な らない。 した が って ここにはノエ シス的機能 がい かに して ヒュ レー によって動機 づ け られ うるの か

,す

なわ ちそれ 自体 は無意味 で

,非

合理 的 な所 与性 と しての ヒュ レー的 内容 が ど うして ノエ シス的機能 (統 握

)を

制約 しうるの か とい う困難 な問題 が残 るので ある。 (五) われ われは

,フ

ッサ ール がすべ ての もの に先 だ って根 源的 に与 え られ る感覚 内容 をまず第一 に想 定 し

,次

にそれが統握 能作 を介 して活性化 され るこ とによって

,は

じめて対 象呈示 的機能 を果 た し うるよ うにな る と見倣 してい るとい うこ と

,そ

して その さい ノエ シス的統握 には固有 の志 向的′性格 が帰 せ られ るの に対 して

,感

覚 的 内容 その もの にはいかな る志 向的性格 も拒否 されて い る とい うこ とはすで にみて きた。 しか しこのような く内容―統握

)の

図式的解釈の もとで

,そ

もそも「 それ自 体 としては無意味で

,非

志向的 なヒュ レー的内容 がいかに して ノエ シス的機能 を動機づ けることが で きるか」 とい う当面の問題 はその解決の方途 を見 いだ しうるのであろ うか。 われわれは ここで, この難 間の解明に着手す るにあた り, さしあた リフ ッサールが『論理学研究』 において詳細 に呈示 している

,(感

覚 的 内容 と統握 との根本的相違

)の

現象学的分折 を追遂行することによって

,志

(16)

的体験 の構 造 を再吟味 す ることか らは じめ ることにす る。 別 々の人 間の意識 の うちに同一 の感覚 内容 が存 在 して いて

,

しか もそれがそれぞれ において異 っ た仕 方で統 握 されてい る とい うこと

,つ

ま り同一 の感 覚 内容 にもとづ いて それぞれの人 間 が まった く別 々の対象 を知覚 す る とい うこ とはあ りうる。 また同一 の人 間 が同一 の感覚 内容 をあ ると きは こ の よ うに

,あ

る と きは それ とは別様 に解 釈す るとい うこともあ りうる。 ところで その場 合 の統 握 あ るいは解釈 それ 自身 は作 用性格

,す

なわ ち (意 識 の仕 方

),(心

理状 態 の仕方

)で

あって

,そ

れ は決 して新 しい感覚 の流 れ に還元 され うるもので は あ りえない。(LU.Ⅱ

/1.381)フ

ッサ ー ル は その よ うな く意識の仕方

)の

もとでの諸感覚の体験 を当該対象の知覚 と呼ぶので あるが

,そ

の さい感覚 さ れた内容の存在 とその内容 によって現示 されてはいるが

,

しか し実的 に意識 されてはぃない知覚 さ れた対象の存在 とがまった く区別 されるべ きで あるとい うことは明証的である。 (LU.Ⅱ /1.382) フ ッサールはそのよ うな志向的諸体験

,す

なわち (対象的志向がそれ らの中で

,

しかもそのつ ど の体験の内在的性格 によって構成 される志向的諸体験

)と ,そ

うではない諸体験

,す

なわち (諸作 用の素材 としての機能 は果た しうるが, しか しそれ ら自身は作用ではない諸内容

)と

の区別 をいっ そう判明 にす るための好都合 な例 として

,知

覚 と記憶 を比較 した り

,さ

らにそれ らを物 理 的 形 象 (絵画・彫刻等

)や

記号 による表象 と比較す ることなどを挙 げているので あるが

,そ

の さいその も っとも適切 な例 として挙 げ られているのが「表現 (Ausdrdcke)」 である。(LU.Ⅱ

/1.383f)た

と えば何 らかの図形やアラベスクが

,わ

れわれに対 して最初 は純粋 に審美的 な影響だけを与 えていた のに

,突

然 そこへ それ らが何 らかのシンボルあるいは文字記号 かもしれないとい う考 えがひ らめ く とい うよ うな事態 を考 えてみよ う。いったいこの相違 はどこにあるので あろ うか。一般 にわれわれ が具体的事物Aを単純 に直観す るか

,あ

るいはそれを (任意の

A)を

表 わす (代表物

)と

して統握 す るかどうかの相違 をな しているのは

,い

ったい何 であろ うか。 フッサールはそこでは作用性格 に 変様 が生 じているので あるとい う。 (LU.Ⅱ

/1,384)彼

は その作用性格 を統握 あるいは解釈の性格 とも呼 び

,そ

れは体験 の記述的内容の うちに

,感

覚の生の存在 (rOhes Dasein)│こ 対 して見いだ される付加物 (Uberschuら

)で

あり,そ して まさにそれがわれわれにあれ これの対象的 なもの を知 覚せ しめ る機能 を果た しているのであると見倣すので ある。「た とえば われ われ にこの本 を見

,あ

のベルの音 を聞 き

,花

の香 りを嗅 ぐなどのことを可能 にせ しめるのは作用性格である。」(LU.Ⅱ/1。 385) この志向的体験 の構造的分折 によって

,た

しかに具体的な体験流 には二つの異種の体験契機 が内 包 されているとい うこと

,つ

ま りひとつの統一的体験流の うちには作用 と内容

,志

向 と非志向 とい う二つの異質の体験契機 が対峙的 に存在 しているとい うことは明示 される。 しか しその二つの異 質 の体験契機 が一つの体験流 においてどの程度統一的 に体験 されるのか

,あ

るいはその二元論 が統一 的体験流 において どの程度存立す るのかといった問題 は

,こ

れまでみて きた問題圏か らは明 らかに なって こない。 しか しいずれにせよ

,あ

る体験 が (内容 ― 統握〉 とい うフ ッサールの構成理論 を

(17)

基づ けている根本図式 によって

,統

一的 に解釈 され うるためには

,少

な くともその体験 に内包 され ている二つの異種の体験契機 が何 らかの仕方で

,そ

の一つの体験流 において統一的 に綜合 され うる とい うことが

,す

なわち意識 の呈示的内容 としての感覚体験 とそれ らの統一 を志向す る作用性格 と が綜合 され うるよ うな統一的事態 があらか じめ前提 にされているのでなければならないであろう。 したがって当面の課題 は とりあえず

,二

つの異質的体験契機 が綜合 され うるとい う

,そ

の可能的 な 統一的事態の解明に向 け られなければならないとい うことになろ う。 ところがフ ッサールは感性的体験の綜合に関 しては

,要

素的 なもの とそれ らの統一 との間にはい かなる異質性 も存 しない とい うこと, したがってその統一 はそれ らの諸要素の直接的融合から成立 す るのであるとい うことを明確 に述べてぃるのである。「感性的 な知覚 の場合

,わ

れわれが外的事 物 に視線 を向 けるや否や

,そ

の外的事物 は一挙 にわれわれに現出す る」(LU.Ⅱ/2,147),「 事物 は, あとか らの個別的考察 がは じめて区別す るような

,無

数の個 々の諸規定の単 なる集合体

(Summe)

として現出 してぃ るのではなく

,

したがってそのような個別的 な考察 も事物 そのものを個々の諸部 分 に分解す ることはで きな く

,っ

ねに完成 した統一的 な事物 としてのみ注視 しうるの と同様

,知

覚 作用 もまたつねにその対象 を単純 かつ直接的に現在化す る同質的 な統一体 なのである。 したがって 知覚の統一体 は,……・・固有の意味での綜合作用によって成立するのではない。」 (LU.Ⅱ /2,148)す なわち知覚の統一性 は端的 な統一性 として

,部

分的 な諸志向の直接的融合 として

,新

しい作用志向 が付 け加わることなく成立す るのであるとい うのである。(LU.Ⅱ/2,148) 『イデー ン』 Ⅱにおいても

,純

粋 な感覚的対象の対象的意味 は決 して固有の意味での綜合 によっ て構成 されるものではな く,連続的融合 から成立す るものであるとい うことが表明 されている。(Id.

.19)そ

してフ ッサールはそのよ うな連 続的融合 か ら成立す る糸屯粋 な感覚的対象の対象的意味 こ そが感性的事物 を構成す る究極的 な感性的徴表 (sinnhches M erkmar)で ぁると称するのである。 (Id.Ⅱ .19)ァルメイ ダは『イデーン』 Ⅲにおける

,こ

の連続的綜合の相関者 としての感性的徴表 の 概念の導入 によって

,フ

ッサールの感覚概念 に重大な変化 が起 っていると指摘す る。すなわち 〈感 覚す ること

)と

ぃ う意味での感覚 そのものが

,こ

のよ うな連続的綜合 と解 されることによって

,感

覚はもはや非本質的 な呈示機能 によってではなく

,本

質的 に固有 な機能 によって定義づ けられるこ とになるとい うこと

,そ

して さらにその感覚の相関者 もすで にそのような綜合の相関者 として構成 された意味的形成体で あ り, したがってそれはもはや実的 な素材的内容 なぞではなく

,ノ

エマ的存 立であるとい うことが明確 に規定 されることになると見 るのである。80そ して彼 はこの ことによって , 「実的呈示内容」 とい うフ ッサールの古い感覚概念の内的アポ リアも解消 されることになるとい う のである。つ ま り「無形式的素材」(Id.I。 209)と しての感覚与件 をこのよ うにもはや究極 的な要 素的所与性 としてではな く

,連

続的綜合 を介 して成立 したノエマ的統一体 と見倣すことによって , す なわちその無形式的素材 としての感覚与件 をもともと志向的な

,意

味的形成体で あると見倣す こ とによって,「無意味 な

,非

合理的徴表 としての呈示内容」(Id.I。

213)と

しての感 覚与件がいか

参照

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