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長田新の教育学説史研究一戦後教育論の 展開と構造に関するノートー

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長田新の教育学説史研究一戦後教育論の 展開と構造に関するノートー

高 橋

課題の設定

 長田新の晩年の著作であり,長田自身「私の教育哲学 研究が到達した帰着点」と評価するr教育哲学一教育学 はどこへゆく一』(1959年)において,自己の教育学が「理 想主義の立場から,ディルタイ学派の生命哲学の立場へ,

その生命哲学の立場からさらに社会科学の立場」へと発 展してきたと述べ,さらに社会科学の立場をとらなけれ ば「人間が歴史によって作られて歴史を作る」という教 育的営為の「真に具体的な,現実的な,生命的な把握」

はできないと結論づけた1).この結論は,戦前に新カン ト派としての自由・合理主義にもとづきファシズムに対 して一定の精神的抵抗を試みつつも,それを理論化・実 践化できずに国家主義へと迷い込んでしまった自己の教 育論を,戦後においてこれまで依拠してきた諸家の教育 学理論(たとえぽカソト・ナトルプ・ディルタイ・シュ プランガー・リット等)をひとつひとつ「否定による肯 定即ち止揚」2)による模索的な作業を経てようやく到達

した,長田の教育学研究の方法論的前提であった.

 ところでこの長田の戦前と戦後の教育学における断絶 あるいは転身とも思えるような違いについて先行研究で はどのように言及されているであろうか.そもそもこれ まで長田教育学の究明に本格的に取組んだ砥究は少な く3),わずかに没後に編集されたいくつかの追悼録や記 念誌に収められた文献などがあるにすぎない4)。このよ うな研究状況にあって,船山謙次,矢川徳光および五十 嵐顕の三氏が戦後長田教育学の発展のモメントとして次 の諸点を指摘しているのは注目に値する,

 船山は長田が「みずからの観念論的傾向を克服し,社 会科学的認識を基礎とする教育哲学の創造を主張せられ たことは,きわめて重大である」と述べ,この「コペル ニクス的転回」ともいうべき背景には,生涯長田の教育 思想を貫いていた「歴史的理性」を基礎に,戦後あらた に社会科学的立場と方法が導入されたことによると指i摘 している.長田の言う社会科学を基礎とする教育学に は,社会科学を経済学や政治学に限定するという対象規 定の仕方や社会科学と教育学の独自性との関係,社会科

学としての教育学の体系性においてなお不明瞭さと究明 すぺき課題を残しているが,この「教育思想の転回」が 平和・階級・民族等の諸問題を教育学の課題として設定 することを可能にさせ,戦後の長田教育学を大きく発展

させたという5).

 矢川も長田の社会科学としての教育学の規定には「い ささかの単純化の危険をおかしていると思われる」が,

長田が労働・勤労者階級の解放の立場から「社会科学的 ヒュ 一一マニズム」ないし「社会主義的ヒューマニズム」

を提起し,それを自己の教育哲学の中で教育学的価値つ

けをし理論化を試みた点では「長田氏の理論体系のいっ そうの発展と深化との芽はたしかにあった」と評価す

る6).

 五十嵐は船山・矢川とは視点を異にして,長田のr原 爆の子一広島の少年少女のうったえ』の編集をはじめと する一連の平和教育論の執筆こそが戦後の長田教育学の

「転身・変革」を可能にしたモメソトであると説く.す なわち「長田にあっては,平和のための教育は理想ない し観念化された現実から出立しているのではない.そこ には戦前における教育学の観念性はいささかも見られな い.(中略) 戦前の教育学者長田新の戦後におけるそも そもの発足において,最高の科学の研究成果が一定の諸 関係のもとでは最高度に悲惨な人間殺鐵に利用されたと いう現実の深刻な矛盾をかれは背負っているのである.

平和教育はこの矛盾を克服するために,この矛盾を必然 化する社会的諸関係をくつがえすほどの革命的性質をふ くんで出発しているのである」と.そして長田の平和教 育論の意義を長田の教育学の展開の枠組みの中だけに限 定せずに,戦後日本の教育科学の発展とその質を吟味す る際にも十分注意を払うべきことを提起している7),

 上述の三氏の指摘は必ずしも十分に展開されているわ

けではないが,いずれも戦後長田教育学の本質把握にか

かわっての重要な問題提起である.しかしいくつかの問

題点もある.それは社会科学を基礎とする教育学なり平

和教育論が,戦前の長田教育学のどのような欠陥をどの

ような過程で克服する中で創造されたものなのかについ

ての十分な検討がなされていないために,戦後の長田教

(2)

育学の発展という評価やその発展のモメントの析出の方 法と内容にやや性急さと不十分さがみられることであ る,具体的には次のような問題と研究課題があるだろ う.①船山と矢川は主に1959年のr教育哲学』を典拠に 長田の社会科学としての教育学の到達点と課題について 言及しているが,この視点がそれ以降に執筆された論文 においてどのように展開され,どのような新しい教育概 念を生み出したのかについて検討していないこと.②五 十嵐は長田の平和教育論には「戦前における教育学の観 念性はいささかも見られない」と評価するが,初期の平 和論は戦前からの文化国家論との連続で展開しており,

相当の観念的傾向をもっていて,その評価は再検討を要 すること.また長田の平和教育論が自己の教育学の中で どのように構造化され,発展のモメントとなりえたのか について明らかにされていないこと.③矢川は「長田氏 の『教育哲学』はたんなる書斎の思弁の産物ではなく て,いわぽ老躯をひっさげての社会的実践のなかでうみ だされたものであ」8)るとの重要な指摘をしているが,

この社会的実践とは何であり,どのような国民的教育諸 課題を長田につきつけ,彼の教育学研究の中に取り込ま れていったのかについて検討されていないこと.

 さて本稿では研究蓄積の不足もあって,まずは従来の 研究に欠けていた戦後の長田教育学の展開過程(1945−

61年)の特徴を浮かび上がらせることに力点をおいて,

後続の研究に便宜をはかることを意図とした.しかしな がら上述の①〜③の先行研究上の課題にはできるだけこ たえていくことにしたい.なお長田教育学の展開過程の 時期区分を,長田自身が述べている 理想主義→生命哲 学→社会科学の立場 への変化をひとつのメルクマール としつつ,さらに平和教育論・新教育批判・特設道徳教 育批判等の時代の要請にコミットさせた執筆活動,また 教育運動・平和(教育)運動等の社会的実践の推進も考 慮しながら次の5期に区分した(末尾の戦後長田新略年 譜も参照されたい).

 〈第1期〉一終戦から矢内原忠雄・天野貢祐・森戸辰 男らとの共著r恒久平和論』(1948年8月)の刊行を経 て,49年3月論文「文化国家」の執筆まで(刊行は50年 9月).戦後教育の再建および平和国家の建設の道筋を,

主にカント・フィヒテ・ヘーゲルらの文化国家論に依拠 して構想した時期.

 〈第2期〉−50年1月に論文「新教育の基本的なるも の一その叙述と批判一」の発表から,51年10月のr原爆 の子一広島の少年少女のうったえ』の刊行前後まで.新 教育批判や平和教育運動への参加にみられるように,現 実の社会的・教育的課題に対応していこうとする姿勢が

形成され,また『原爆の子』を編むことによって戦争と 平和の問題を教育学の課題として鋭く問題提起していく 道筋を獲得した時期.

 〈第3期〉一一52年5月の論文「教育作用の社会史観」

の発表から55年5月のソ連・中国の視察前まで.平和運 動・平和教育運動を積極的に推進しつつ,教育的思惟の 立脚点ではドイツ理想主義哲学から離脱して実存主義へ と向い,主に「歴史的理性」の形成に焦点をあてて教育 学研究をすすめた時期.

 〈第4期〉一日本学術会議の派遣によるソ連・中国の 視察を経て,57年11〜12月の論文「教育学の基礎として の社会科学」「社会科学とヒューマニズム」の発表まで.

社会主義国視察を直接の契機として,また教育の反動化 による教育運動・平和教育運動の弾圧の状況下にあっ て,実存主義から離れ,教育学研究の方法論をマルクス 主義に基づく社会科学的立場から再構築することを提起

して学界に論争をまきおこした時期(長田・石山社会科 学論争,56〜57年).

 〈第5期〉−4期以降,61年4月18日に没するまで.

自己の教育学を「民族の独立と自由解放」と「国際理解 と世界平和」を追究する「民族解放の教育学」ととら え,その実現をめざす人間像を.歴史的・社会的諸関係 を変革する政治主体の形成に力点をおいてとらえた時

期.

 以下,この時期区分にしたがって各時期の長田教育学 の基本的特徴を明らかにし,あわせて先の研究課題を検 討していきたい.

1.第1期:戦後教育の再建と文化国家論

 広島で被爆し,生死の間をさまよった後に戦後を迎え た長田は,その出発に際して「教育の戦争責任」ないし

「教育学者としての戦争責任」という問題をどのように 認識していたであろうか.子息の長田五郎には日頃から 戦前の行動に対する厳しい自己批判を語り聞かせていた という9).また後年,ソ連・中国の視察に先立って矢川 徳光と会い,彼にも「第二次世界大戦前および,大戦中 に,自分の力でできるかぎりの抵抗は試みたが,はなは だ不十分であったという反省」1°)を率直に語ったという.

これらの証言から少なくとも長田は教育学者としての戦 争責任には一定自覚的であったことがうかがえる.

 では戦後初期の長田の教育学理論の基本的枠組みは戦

前に比してどのように変化したであろうか.戦前長田教

育学の致命的欠陥は、r国家教育学』(岩波書店,1944年11

月)に端的に示されているように,国家を絶対的な価値

主体としてとらえ,国家と個人の相互媒介的な関係を指

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摘しながらも最終的には個人の国家に対する奉仕と犠牲 を説くという枠組みの中で,人間形成論および教育立国 論を構想した点にある11). 結論から言えば戦後初期の 論,とくに文化国家論には依然戦前の残津が色濃く残っ

ていた,

 戦後の文化国家論自体は教育の再建と日本の民主化の 方向を憲法・教育基本法の精神を敷彷しながら展開しよ うとしたものである,しかし,長田は文化国家の生成と 発展の過程を,「(原爆という)新武器の出現に依って国 境は自然に消滅し全世界が一つの世界になることが必 至」なるが故に, 「権力国家の時代が文化国家の時代に 推移するのが世界史発展の必然的過程でなくてはならな い.かうした世界史の推移こそ正に人道の実現として人 類の新生を意味する」12)(傍点引用者)と,人道上の見地 から,また文化国家形成の原動力を原爆という外在的要 因に求めながら説明する.ここには社会の発展について の深い洞察はみられない.また教育の課題を「歴史に依 って作られつつ歴史を作る人間を作ることでなくてはな らない」と述べているが,その人間と歴史の関係を「歴 史における内在と超出,それが人間存在の構造であ る」13)ときわめて観念的に捉えている.そして人間の存 在にかかわっては「ドイツ的な内的自由・精神的自由乃 至文化と英米的な政治的自由・経済的自由乃至文明」の 2つの自由があるのだが,この2つの相互媒介と自己否 定によって形成:される「内的緊張(inner spunnung)

乃至収敏(konvergenz)」の中に「歴史的現実としての 国家の生きゆく立場」と「国家永遠の基礎」があり,ま た「そこに国家の再建を企図する新教育の指標」もある と述べて14),人間的自由と教育の課題を直接的に国家な いし政治的観念に収敏させてしまう問題性を孕んでい

た.

 このような国家に従属させた個人と教育の捉え方の根 底には,「歴史主義」が長田の思想を貫いていたと思われ る.これは戦前から連続しているもので,たとえば『国 家教育学』では国民学校発足の意義にふれて次のような 記述をしている15).「吾が国の政治及び教育の理念は現代

日本の歴史的使命において考へる外ないと思ふ.今日吾 が国の政治及び教育の理念は東亜並びに世界の新秩序建 設にあると言はれてゐるやうに,現代日本の歴史的使命 において考へられなくてはならない」と.教育をそのも つ固有の意義や役割から把握するのではなく,国家ない し政治から規定される「歴史的使命」によってとらえる のである.また「教育の理念は政治の理念と共に歴史的 現実的に時代時代に依って変じて行くが,併しそれ故に 永遠の価値がないとは言ふことが出来ない.歴史は永遠

の今の自己限定としてそれぞれの時代において独自な仕 方で永遠なものに触れ永遠なものを形成」と述べている が,ここには歴史現象を各時代に特有なものであると捉 え,その特殊性をあるがままにつかみそこに永遠の価値 を発見することが,歴史に忠実であり教育学的にも意義 のあることだという,「歴史主義」的主張がうかがえる.

 しかし戦前のカソト・フィヒテらの理想主義哲学,デ ィルタイらの生命哲学に基づいた,また「歴史主義」に ひきずられた教育学を継承しつつも,この時期に長田 は,この鎖を断ち切って新たな教育学を構想しようとす る試みを開始させていた.

 そのことを示しているのは,戦後初期の文化国家論と は区別されるところの,49年3月に執筆した論文「文化 国家」である.この論文で長田は,従来カント・ヘーゲ ルらが構想した文化国家論は「独逸的世界観の必然の所 産」であるがゆえに観念的で,「権力国家乃至は特に彼の ヘーゲルの極端な国家主義と独自な関連を取」らざるを えなかったと批判し, 「筍くも文化国家も歴史的現実で ある以上,そこには自然や物質や経済や政治のやうな実 証的の力が働かなくてはならない」こと,また文化国家 が擁護し育成する文化は「一部少数の支配階級のみの與 かるべきもの」ではなくて「一般の民衆,従ってまた無 産階級にも等しく解放された」文化でなくてはならない と主張している.さらに「人間を真に生かし真に幸福に する精神価値の享受といふ究極目的」のもとに,「富乃 至経済価値」と「教養乃至教育」の公正な分配を行うこ とを国策の根本にすえ,戦前のように教育=「精神価値 乃至文化価値」が経済価値に従属することのないよう に,国策を社会政策から文化政策に転換すべきことを提

起している16).

 このようにドイツ観念哲学から離れ始めて,また教育 価値を国家や政治・経済から相対的に自律させて把握し ようとすることは注目してよい.ではこの変化は何によ るものであろうか.そのひとつの要因として考えられる のは,恒久平和の問題を文化国家建設の前提ととらえた ことである,つまり戦後初期の文化国家論では,原爆の 出現によって国境は消滅して,権力国家から文化国家の 移行は歴史の必然であるとのきわめてオポチュニスティ ックな見方をしていた長田も,米ソの冷戦状態が顕在化 し,その原爆こそが彼の説く文化国家を破滅させるとい う「歴史的事実」に直面して,恒久平和の観点から再 度,国家と教育の観念を検討せざるえなかったからであ

る.

 その最初の作業が,長田が中心となって編集した『恒

久平和論』(日本文化平和協会,1948年8月)の刊行で

(4)

あった.この中で長田は同タイトルの論文を執筆してい るが,これはカントの『恒久平和のために』(Zum Ewigen Frieden,1795年)の批判的紹介を主にして平 和思想の歴史的系譜を明らかにすることを意図したもの

である.

 カントの恒久平和論の批判と継承に関して長田は次の 2つの論点を提起している17).第1に恒久平和と国家と の関係である.カソトは恒久平和の条件として,共和制 国家と諸国家間の自由かつ平等な平和連盟の創設を指摘 しているが,長田はこの指摘を18世紀の「原子論的個人 主義」にもとついた「国家主義」であると批判し,いま や国家間の溝を乗り越えた「世界共和国」を創出しない ことには恒久平和が実現できないと述べた.この飛躍し た論理には,戦争の起因や国家主義に対する深い洞察が なく,国家主義を個人主義の表裏一体として繧小化させ てしまっている.第2は恒久平和と教育の関係である.

カントが恒久平和実現の方法のひとつとして挙げた「道 徳的洞察に基づく一…当為の意識」の形成に長田は着目 し,この当為の判断を基礎づける「自然の理性化」によ る人間形成,つまり「教育こそは『恒久平和の保証の保 証』である.恒久平和実現の窮極の保証は教育である」

と提起している.長田の論理には「教育は一般に世界史 を作る窮極の原理」との一面的な理解がみられるが,平 和の実現という人類的価値の中に教育的価値を見い出し た点は注目してよい.

 後期の文化国家論はこれまで検討したように,いくつ かの矛盾や論理の性急さがみられるが,自己と日本国民 の体験を背景に平和の問題を取上げることによって,個 人と教育を国家から一定切り離してとらえる構造になっ ているのである.また特に平和を教育の課題として受け とめたことは,その後の長田教育学の展開を大きく方向 づけることになった.

2.第2期:民族の独立・平和と教育学研究  一教育的価値としての平和の発見一

 1940年代末期から50年代初頭は,周知のように,朝鮮 戦争・サソフラシスコ講和条約等を背景に教育の反動化 が急速に進行した時期である.長田はこの清勢に対応し て,日本教育学会を中心に平和運動を組織して社会的実 践に一歩踏み出すとともに,民族の独立と平和の問題を 教育学研究の課題としても受けとめて,いくつかの間題 提起を行った.

 そのひとつが新教育批判であった.長田は時代の教育 学研究の動向を検討し,従来の「単に真と善と美という 如き理想的な価値」だけを対象とする研究から,「実践学

としての教育学はその心理学的方面において,社会学的 方面において,制度学的方面において,行政的方面に お」ける研究へと分化・発展してきたことは望ましい が,しかしその「分化発展が世界観を喪失しつつある」

ことはゆゆしき問題であると指摘した.その傾向を最も 端的に示しているのが「新教育論」であるとする.その 教育思潮の根底にあるプラグマティズムは「真理である から有用であるのではなくて,有用であるから真理であ るという逆説に立」って,「ものの根源乃至その由って 来る基礎・根拠の探求乃至解示を欠」いており,さらに 新教育論の輸出元であるアメリカが「今や資本主義経済 の末期的段階に突入し,早くも種々の病徴が社会や文化 の各方面に現われつつある」ことを想起するならぽ,そ の思潮を無批判に摂取するのはきわめて危険であると日 本の教育界に警笛を鳴らした18).

 いま少し長田の新教育批判の内容をみてみよう.彼は      キイ

新教育論の鍵概念として「生活原理・心理化・社会化」

の三点を取り出し,それぞれに批判を加えているユ9).新 教育では生活を「子供の四肢五体を空間的な広がりをも つ環境で働かせるという意味」で理解されているが,「外 面的な生物学的な生活」では教育の原理とはならない.

そして経験を重んずるあまり,子どもの「内面的な精神 的な生活」についての認識を欠落させて,結局は「人類 のもっとも崇高な働きとしての高等な精神作用を発達さ せないために,宗教や哲学や芸術や科学というような高 貴な文化を生産する能力を麻痺させ」てしまうという.

 次に心理化は社会化とともにアメリカ児童中心主i義運 動の二大基本原理であるが,「結局プラグマティズムに よって一義的に規定されるから,そこではプシヒェ(心 意psyche)が主体となってロゴス(理性logos)は必 然に排除され」,教育の目的と方法から理性ないし知性 が喪失されて,心理学の支配に従属することになるとい う.このことを教育と社会環境ないし体制との関係でみ れば,「自己が身を置く環境に順応」することと「社会 における個人の義務や責任」のみが強調され,「勝義に おける社会の改革ないし改善は少なくとも二義的」であ ると長田は指摘する.これが「ダーヴィソやラマルクの 生物進化論ないし産業革命」の影響を受けたアメリカ新 教育の社会化の実豫であって,そこには「環境によって 作られつつもなお自ら環境を作る」という自由で自主的 な人間としての権威がみられないとの批判を展開した.

 アメリカ薪教育の特質を生物進化論ないし適者生存の

法則に基づいた経験主義とおさえた長田は,それを克服

する教育をどのように構想していたのであろうか.結論

から言えぽ,判の裏付け批に足る教育論を構想しえては

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いなかった.たとえば,新教育の生活カリキュラムに対 して学科カリキュラムを取り上げ,「自然科学や精神科 学を基として」編まれた教科学習による理性・知性の発 達を強調する反面,生活カリキュラムと学科カリキュラ ムの関係は各々の「自己否定」と「相互媒介」によると ころの「調和あるコスモス」ととらえているように,理 性的認識の発達の意義やその方法への深い洞察を欠いて 経験主義教育への有効な批判となっていないのである.

 しかし批判の基底には先にもみたように,「もっとも 根本的の問題は資本主義経済は一般にそのもつ本来の固 有性のゆえに帝国主義の段階に突入し,その必然の結果 は侵略主義となり,世界戦争の危機を孕む結果となって いる」という時代認識があり,不十分ではあるが日本の

「封建文化の残津」の払拭と「近代市民社会」および

「人i類社会(menschliche Gesellschaft)」の実現という

「二重の歴史的課題」を意識した上での批判であった点 は看過してはならないだろう(人類社会という未来展望 には論理の飛躍と観念性を認められるが).そして新教 育批判を通して日本民族の独立と平和の危機の原因を,

アメリカを主軸とする世界の資本主義体制の構造的矛盾 と把握するに到ったのであった.

 さて,第1期の平和論の理論的作業を基礎としなが ら,また新教育批判を行うことによってよりリアルに浮 かび上がった戦争と平和の危機を教育学の観点から問題 として,平和論から平和教育論へと議論を進めていく過 程で編集・刊行されたのがr原爆の子一広島の少年少女 のうったえ一』である.

 1951年の初頭,長田は「一人の教育学者として,この 余りにも悲劇的な体験をもっている少年少女達(中略)

の手記を集めて,今日世界の教育にとって最も重要な課 題の一つであるr平和のための教育』研究の資料とし て,これを整理し,且つ人類文化史上における不朽の

ドキユメyト

記念碑として,これを永久に遺したいと思い立」ち2°),

被爆の廃境からようやく立ち上がりかけているという悪 条件と困難の中,約半年をかけて1175名の手記を集め,そ の中の代表的なもの105篇を選んで出版したのであった,

 しかし手記収集の当初の意図は,平和教育研究を必ず しも十分に意識したものではなかった.むしろ一般的に 被爆の惨状を子どもを通してとらえるというにとどまっ ていたが,集められた手記を読む中であらためて子ども 達のおかれている状況(原爆による傷痕,放射能機能障 害,発病,差別・貧困等)や子ども達の「最愛の肉親を 奪った戦争に対するはげしい憤怒」・「肺肝を吐露した彼 等の悲痛な平和への祈りであり,訴え」がリアルにつき っけられたのであった.この作業を通してはじめて第1

期で理念的に提起した恒久平和実現の課題を子どもの中 にとらえることができた,つまり戦争と原爆によって肉 体的にも精神的にも傷づけられ苦悩する子ども像を発見 する中で,戦争と平和の問題を真に教育学の課題として

自覚することができたのである.

 『原爆の子』には長田による39ページもの長い序文が 付せられている.その中で長田は平和教育の目的と方 法,原爆投下の経緯(アメリカの対ソ戦略),原子力の 平和利用の3点について詳細に述べているが,今日この 序文が「平和教育の原典」あるいは「平和教育の理念・

内容・方法論にわたる全容の凝縮点」21)との評価が与え られているのも,特に第1の点に関して,平和を守り平和 を実現していく主体の形成に視点をあてて問題提起して いるからである.その内容を簡単に紹介してみよう22).

 長田は日本の平和を考える際の歴史的前提として次の 2点を指摘する.第1に,日本国民の被爆を被害体験と してのみとらえるのではなく,「今までの軍国日本が人 類に対していかに戦争の惨禍と不幸とをあたえたか」と いう加害体験(「戦争責任」)の面からも十分にとらえな けれぽならないことである.第2に,新憲法は連合国か

らの「強制」によって成立したという論が一部に祓属し ているが,それは「制定に至るまでの歴史的な条件につ いての常識の閾如」であり,憲法の恒久平和理念・戦争 放棄条項の制定はアメリカの対日非軍事化・民主化政策 に基づきながらも,改革を最小限度にとどめようとする 勢力との対抗関係において,あくまでも平和を求める日 本国民の主体的努力によって成立したことである.

 この2点を指摘した上で長田は,戦後における「戦争 責任」のとり方は畢寛「平和に対する責任」であり,そ れこそが「社会に対する最も本質的な責任」であること を明言し,この点で朝鮮戦争をひとつの契機に日本はも とより各国の国民が「平和を求めて,力強く立ち上りつ っあること」は「人類史上未曽有の出来事」と述べて,

形成されつつある平和を守る主体の動向に大きな注意を はらっている.そして,平和憲法を作り上げ平和運動を 組織・展開しつつある国民の主体性をさらに継承・発展 させていくためにも,「平和を築くことを,人間として の最高の道徳と考えるような人間」の育成が戦後教育の 根本的課題であることを提起した.

 長田は平和教育の目的と方法を次のように述べてい

る.すなわち,子どもの戦争体験を積極的に取り上げる

中で「生徒自身をしてあくまでも戦争の非人道的な残虐

性を真剣に憎ませ,呪わせ,戦争の心理的原因をつくる

ようなあらゆる偏見を,生徒自身の心の中から抜き去っ

て,戦争を否定する正しい知識や美しい感情や逞ましい

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意志を芽生えさせ,進んでこれを育成強化させ」ること であると.そしてこのような平和を希求する知性・感情・

意志の形成は,「新道徳教育の基本的な課題」であると.

なぜなら道徳とは「具体的な特定な時代とその各々の社 会とにあたえられた歴史的社会的な課題を実現していく 過程において創られていくもの」(傍点引用者)であり,

その歴史的社会的課題とは「日本社会の現実的要求」に照 らした場合にはまさに平和の実現であって,この点で当 時の修身科復活論にみられる形式的な「r行儀作法』や,

『しつけ』等の断片的徳目」による教化では,その課題 に応えられないからであるという.

 上述のごとくこの時期の長田の平和教育論の特質は,

戦後いち早く,教育一般には解消されえない平和教育独 自の価値と役割を見い出したことにあった.長田によれ ば平和教育とは彼がいうところの「道徳」の形成であり,

子どもの中に戦争への怒り・憎しみや生命への尊厳・人 権感覚・正義感等の感情を育てていくとともに,時代と 社会に与えられた「歴史的社会的な課題」を認識しそれ を遂行していく子ども,ひいては「平和に対する責任」

という社会を自己統制していける主体へと発達させてい く営為である.この概念提起は今日なお検討するに価す る内容といえよう.

 しかしなおいくつかの理論的不備がみられる.それは 戦争と平和の問題についての知的認識の形成が感情の教 育ほどには重視されていないために,やや「態度主義」

的な平和教育論になっていることである,子どもの人格 の中に平和の砦を築くためには,戦争の原因と本質を科 学的にとらえる知的認識の形成が不可欠であり,この知 的認識に支えられて平和の感情が人格に内在化するので ある.平和教育ではとりわけ,国家・権力・民族・社会 体制・階級等の社会科学的基礎概念の理解が求められ る.この点で長田が「態度主義」に陥っているのも,先 に文化国家論や新教育批判の検討の際にみたように,彼 自身が時代の社会状況や「歴史的社会的な課題」の社会 科学的把握において弱さをもっていたからである.その ために社会の実相に十分立入って子どもの生活と活動の リアリズムを把握する中で,平和を創造する主体の形成 のすじ道と方法を明らかにすることができずに,問題提 起としての平和教育論にとどまってしまっている.そし て後述するように,この点の解明が第3期以降の長田の 教育学研究をつらぬく課題となったのであった.

3. 第3期:「歴史的理性」をもつ主体の形  成と「歴史的教育学」

この時期,長田は本格的に平和教育運動の組織・推進

に取組む.52年5月「日本子どもを守る会」結成と会長 就任,53年3月「広島平和と学問を守る大学人の会」組 織, 54年1月 「広島県護憲連合県民会議」議長就任の 他,日本教育学会における教育二法・勤評・特設道徳反 対の活動,原爆孤児の精神養子運動等,多方面にわたっ ての精力的な運動を展開した,一方,周知のようにサソ フランシスコ体制のもとで再軍備化が急速に進展し,独 占資本が復活強化される中で,愛国心教育が高揚され,

教育の国家統制がますます強まった.

 国民の生存と教育をめぐる情勢の深刻化と平和教育運 動等の社会実践との緊張関係のもとで,長田はどのよう な教育学を構想していたのであろうか.彼は理想主義哲 学の影響下にあった自己の教育学への批判を内に含ませ ながら,従来の教育学における本質把握はヘルバルトや ナトルプに代表されるごとく倫理学や哲学に依ってい て,教育営為を取り囲む現実=実存から出発していない と批判し, 「真に具体的に生命的に教育の目的を把握し ようとすれば,吾々は歴史的現実乃至歴史的運命の中に 身を置き総てを主体的に体現する外ない」と述べて,新 たに「実存哲学の立場」を選択した23).この実存主義に 立つ自己の教育学を長田は「歴史的教育学」と命名した これは「自然科学的な又は実証主義的な立場に立つ」歴 史的教育学とも,また「そうした没価値的な教育学を若 干超克はしたものの,今なお真の教育実存には徹してい ない中途半端なディルタイー派の生命教育学」的な歴史 的教育学とも異なる「新らしい第三の歴史的教育学」で

あるという24).

 では,なぜ長田は実存主義を選択し,それによって従 来の教育学にどのような「新しさ」を提起できるという のであろうか.まず前者について検討してみよう.

 先述したように,かつて長田は教育の課題を「歴史に 依って作られつつ歴史を作る人間を作ること」であると 捉えていた.しかしそこでいう人間と歴史の関係は,国 家目的から直接に規定される「歴史的使命」の枠組みの 中で捉えられ,「国家永遠の基礎」の定立に教育の課題 をみていた.ところが時代は長田自身が指摘するように  「吾等の祖国が満州国になり,全面的に基地化され,そ して国民が『人的資源』として肉弾となって戦場に送ら れやうとしてゐる情勢が身近かに迫って来」25)て,国家

も歴史も人間もその存立自体が大きくゆさぶられてい る.しかもその平和の危機は,米ソの緊張対立の激化,

サソフランシスコ体制下での再軍備化や教育の「逆コS−.

ス」といった国内・国際の政治情勢面だけでなく,それ

と対抗すべき国民が「現実の事態と取り組み,それと対

決しつつ」,「自分で自分の運命を切り開いてゆく」よう

(7)

な「自主性」「主体性」を「喪失」させていること,そ のために「平和運動が強く盛り上ってこない」ことに,

その危機の一層の深刻さがあるのである26).

 なぜ日本国民はこの時代の激しい逆行に遭遇しながら も,「沈黙」27)という形で自主性・主体性を喪失している のか,長田はこの原因を探るために戦後の出発点にたち もどり,国民の戦争責任に対する反省の質を吟味してい る.そうすると「われわれ日本民族の自己反省は,ひど くパトス的であり,主観的であるから,まるで通り雨の ように消えてしまった」という実態が明らかになった.

「パトス的」ということは,畢尭,「封建的な社会,詳し く言えぽ血のつながりとか身分の上下とかいうようなひ どく非合理的なものに媒介された社会の中で,日本民族 が長い間生きてきたという歴史的事情」によるものであ

るという28),

 この「日本独特の歴史と伝統」の鎖を断ち切って,パ トスからロゴス(理性)にもとついた反省へと転化する ためには,どのような方策がありうるのか.長田が提起 するのは,自己の存在や観念を「歴史的現実」の中にさ らし,徹底的にゆさぶってみるという実存主義的な立場 と態度をとることを前提とし,その過程を通して「日本 社会の現段階がどこからきてどこへ行くかという歴史的 立場」,「歴史の外にあって,外から歴史の中をのぞいて 見るのではなく,歴史の中に入って,歴史の中から主体 的に歴史を見てゆく理性」を獲得することであった29).

長田は主体性の確立とは,結局のところ,この「歴史的 理性」を身につけることであると述べる.そして「歴史 の奥底に自己形成の基礎を有つ」3°)ことの意義を明らか にし,実存の中から「歴史的理性」の形成のモメソトを 探り出すことは,日本の教育において緊急の課題である という.すなわち教育が「本来歴史形成の作用である」

という意味も,「歴史的現実乃至歴史的運命と対決して そこから主体的に把握される教育作用の実存的認識」を 基礎に,「歴史的理性」をもつ主体を形成する営みであ るからこそ「歴史形成」なのであり,このようなアスペ クトを欠落させていては時代の「歴史的転回」点におけ る教育のあり様や,「教育の目的も教育の方法」も真に リアルに把握できないのである.それゆえに同じく歴史 的教育学を標榜していても,歴史的現実・運命とのかか わりを切断し,「普遍的妥当性」のみを問題として「永 遠の立場を観想する」生命哲学的な「歴史的教育学」や,

流行の児童研究や実態調査にみられるごとく「単に与え られた事実を……詳細に拾いあげて整理する」実証主義 的な「歴史的教育学」は,ともに「真の生命」も「何の 教育的意義もない」と批判した31).

 長田が自己の教育学を「新らしい第三の歴史的教育 学」であると自負するのも,「旧い教育学」は哲学や倫 理学の目的原理からの演繹によって「教育の問題をすべ て各民族の歴史的特殊性を無視して普遍妥当的に規定 し」32)ているのに対して, 上から の教育の本質規定か ら抜け出て,現実との格闘の過程において人間形成の新 しい価値や秩序・組織を発見・創造していくという方法 的態度のことである.そして「歴史的理性」をもつ主体 の形成は時代の教育の緊急な課題であることを仮説的に 提起したのであった.いわば 実存は本質に先立つ と いう実存主義の選択は,戦前の長田の教育学的思惟方法 からの決別ともいえる事件であった.

 ところで,戦後初期から1950年代くらいまで一世を風 靡した実存主義の広がりの要因とし1て,鶴見俊輔らは.

「原爆体験」をそのひとつにあげている33).すなわち

「戦後派の実存主義の根には,原爆体験がある.このこ とは戦後派の実存主義に社会的ひろがりをもたせずには おかなかった.原子力が人間にたいしてもたらす悲惨 は,かれらの思想的出発に刻印をのこしている」と.

「戦後派」とはこの場合,「軍国主義以前に自分をもたな かった人々.終戦当時の十代および二十代前半の世代」

のことをさしている.鶴見らによると,戦後派と実存主 義を結びつけた契機は,戦前と戦後の価値観の180度の 転換(たとえぽ天皇に対する責任としての死から放任さ れた生への転換)による「徹底した自己疎外」であり,

k

原爆体験というこれまた徹底した「非人間性」であると いう.つまり戦後派にとって実存主義とは自ら選びとっ たものではなく,「敗戦の所産」というように受動的に 規定された思想なのである.それゆえに彼らの多くの思 騰曝蝉 想の質は,実存主義を能動性に転化できずに「実存の中 に美学的に安住する」にとどまってしまい,彼らの仕事 も,歴史の進歩とは切れたところでの国家・権力・社会 等々の規範や価値に対する「反逆のための反逆」に終っ てしまったという.いずれにしても個人の問題(実存)

の枠組みを越えていない.

 それに対して 戦前派 の長田の場合はどうか.結論

からいえば,長田における実存主義の位置づけは,原爆

体験に直接規定される受動的なものではなく,それは主

体的契機を孕んでの選択であった.その契機とは平和教

育論である.第1期の検討の際に指摘したように,45年

8月6日に被爆し生死の間をさまよったにもかかわら

ず,彼の教育学における問題とその本質の把握の方法に

は戦前に比して大きな変動はない.その把握の仕方にお

いて 上から の演繹的規定が,教育の現実よりも優位

に立っていたのである.この枠組みに最初の孔をあけた

(8)

のがr原爆の子』を中心とする平和教育論であり,平和 教育運動であった.戦争と原爆が子どもに加えた肉体的

・精神的危害の深刻さと,平和をめぐる情勢の悪化は,

長田の理論的・方法的枠組みをはるかに越えてしまった ことを彼に痛感せしめたからである.そこで長田は自己 の教育学研究の課題に平和の問題と平和を守り歴史を創 造する主体の形成の2点を定位し,また研究方法も白紙 にもどして現実との緊張関係においてそれを追究してい くことによって,戦後の再出発をはかろうとしたのであ

った.

 それゆえに次のような点で戦後派の実存主義とは大き く異なっていた.それは戦後派が「歴史と自分個人との あいだのサケメ」34)を冷やかに傍観し,歴史・社会の動 向とは切れたところでの個人の直観と体験にもとつく問 題把握であったのに対して,長田は少なくとも歴史に能 動的に対峙し,歴史と個人をとりむすぶモメソトを析出 しようと試みていたことである.この違いは社会実践を になう姿勢の有無によるものである.とくに平和教育運 動は個人の生活や問題をベースにしながらも,「人類共 同の運命」のパースペクティヴに立たなくては成立しな いからである.

 しかし両者には,実存主義の本来的な属性から規定さ れて,実存の科学的な本質把握の点で共通した弱さがあ

った.長田は実存の中から「歴史的理性」の形成のモメ ントを探り出すことは教育の緊急の課題であると再三に わたって提起しているが,その具体的な方法については 何も言及していない. 上から の教育の本質規定に対 する批判にとどまっているのである.それは結局,現実 とその危機の本質に迫る視角,つまり実存と本質をきり むすぶ方法論の欠如を意味していた.

 さて,この実存主義のもつ方法的欠陥に気がつき,社 会科学(とりわけ政治学と経済学)の方法をもち出して 教育現実の本質的理解に取組もうとし,それとの関連で 教育学のかかえている研究方法上の課題にも言及してい るのが,54年12月に発表した論文「教育哲学の課題」35)

である.この論文は前述の実存主義の立場を表明した

「教育作用の社会史観」(『教育学研究』19巻1号,1952 年5月)を大幅に加除修正したもので,以下の様な構成

となっている.

 「教育哲学の課題」へ修正して所収された部分での最 も特徴的な点は,「教育作用の社会史観」で実存哲学の 今日的意義について高く評価している箇所(pp.8−10)

が全文削除されてしまっていることである.まずその理 油について検討してみよう.

 第1に,長田は「教育という働きの本質・根本ないし

四、

五、

 哲学と教育学 政治学と経済学 教育作用の社会史観

(一)B,{史の形成

⇔歴史的人間 に)歴史的運命

四ゲマインシャフトよりゲぜルシャフトへ 伍)平和愛

全体」をどのように把握するかということから,実存哲 学の問題性を指摘している.彼は「教育の仕事ほど常識 に支配され易いものはない」という.それは否定的な意 味ではなく,人間形成という社会的でまた「多分に非合 理的な契機を包蔵」した複合的な営みのもつ性格による ものである.しかしそうであるからこそ,科学としての 教育学は教育作用の「時空的に限定されて特殊化されゆ

く具体的な一々の過程」からその本質を解明することを 課題とするのであり,これを欠いては教育学は「真の実 践学」として定立しない.この点でとりわけ教育の「本 質学・根本学・全体学」である教育哲学の果すべき意義 と役割は重いという.では実存哲学はこの課題に耐えう るか.実存哲学は「実際」を離れない点では評価できる としても,実際や日常の「相対的立場」にとどまってい るために,1実際のもつ意味を真にとらえられないとい う.つまり実際の本質に迫ることによって「実践を超え て実践を導く智慧」を析出するという方法を実存哲学は 欠いているため,教育学と実践をとり結ぶ媒介とはなり えないと批判した36).

 第2に,現代の哲学の課題を「歴史を発見」し「歴史 が何であるかを明らかにしようとする」ことと規定し,

この観点から実存哲学を批判している,長田は今日の歴 史の危機を高島善哉のr社会科学入門』を援用しながら

「世界戦争の危機,政治経済的危機,精神的危機」とお さえ,それはとりもなおさず「体制と階級と民族との危 機」であり,それは「資本主義体制そのものの危機」に 起因すると述べる.この危機に実存哲学はどのように対 決しているか.長田は,実存哲学はそもそも「資本主義 の矛盾,そこから来る社会不安を解決する」ことから出 立したが,歴史に背をむけて「個人の主観的な内面的な 方向を取った」ために「歴史の問題を解決する方法」と はならず,ニヒリズムや絶望が実存哲学をおおってしま ったという.

 しかし長田は実存哲学を一面的に断罪しているわけで

(9)

はない.「個人の内面的の問題」に取組むことは哲学のひ とつの課題であるのだが,これを「歴史の問題」ときり 結ぶことによって,個人と歴史の相互の問題の本質の解 明を行うことにこそ哲学の本来の役割があり,またこの 点が哲学の発展と凋落の分岐点であることを長田は問題 にしているのである.そして第二次世界大戦当時フラン スのナチス抵抗運動に参加し,戦後も平和運動に力をそ そいでいるサルトルを事例に取上げて,彼が実存主義か

ら出発しつつも政治や運動の歴史的課題を背負う中で,

「虚無的な絶望的な人間の実存の生命線を生きた広い歴 史世界の中に打開しよう」と試み,「マルクス主義にも 次第に近づいていった」過程を高く評価して,実存哲学 の方向と発展の可能性を示唆している.

 では長田は実存哲学の批判を通して資本主義の危機の 打開をどのように考えていたのか.彼はその方策を「強力 な資本主義体制の再編成」と「資本主義体制から社会主 義体制への移行」の2点にしぼって,どちらを選択する のが「真に科学的で有効適切な治療法か」との問いを提 示する.近代市民革命は人間を「絶対主義の栓楷から解 放した」が,資本主義は解放した近代人を再び「自己分 裂と人間喪失との危機」の中に陥し入れているという.

このことから資本主義に前途はないが,危機を克服する のも人間以外にはありえない.この点で「世界の問題・

人類の問題を自己の問題」として受けとめて歴史と個人 の関係を問い,「歴史の主体」を明確にうち出している マルクス主義は「歴史的な実践的な哲学になりつつあ る」,それゆえに「言葉の狭義における歴史世界への発 展はマルクス主義による外ないかも知れない」と述ぺ て,先の問いに対する答を出しつつあった37).

 実存哲学批判は長田の教育学の研究方法の理解にも大 きな変更をもたらす.それは「教育学の基礎学」と呼ん で政治学と経済学を新たに登場させたことであった.そ の理由は実存主義にもとつく「歴史的教育学」ではあま りにも実存にひきずられて「現実的な歴史に内在」する

「歴史的理性」の本質をとらえきれないという反省に立 って,教育学が「歴史的人間の形成によって歴史を作る 作用の学」であるならぽ,教育学にとって政治学と経済 学による「社会的現実ないし歴史的現実の研究が重要な 基礎的の意味を有つからに外ならない」ということであ った,長田が教育の社会的規定性を問題にしようとして いることは注目してよい.

 しかし自己の教育学の本質的価値としてうち出した

「歴史的理性」や「歴史的人間」の形成の目的・方法・

内容について教育の固有の論理から十分な吟味をしない ままに,政治学と経済学をアプリオリに持ち込んで教育

の社会的規定を論じようとしているため,かえって教育 的価値を社会的文脈の中から切り落してしまう結果とな っている,この点で,倫理学・哲学によって基礎づけら れた「論理主義」の教育学や心理学・社会学による「実 証主義」の教育学はともに「歴史的社会的現実」を把握 できないゆえに「観念論」であると論難する長田自身 が,逆に教育学を政治学・経済学に従属させるような形 で教育的価値を「歴史的社会的現実」一般に解消してい る点では同じような陥穽にはまっているのである38).ま た社会的規定を政治と経済に狭く限定してよいかという 問題もある.

 この時期の長田の思想の揺れ幅は,理想主義哲学一実 存哲学一マルクス主義(萌芽的段階)というように,き わめて大きかった.この揺れは時代の危機との緊張関係 の強さを示すものであるが,その反面,多分に思想を実 用的に使いわける傾向をも有していたと思われる.それ は問題の本質をどのようにリアルにとらえるかという実 用性なのだが,しかしこうした思想の流動は教育学研究 においても従来の理論に対する批判のみに終始させてし まい,たとえぽ歴史的教育学でも社会科学を基礎とする 教育学でも深い洞察を欠いて,問題提起の枠を越えるこ

とができなかったのである.

4. 第4期:教育学と社会科学の関係構造  一長田・石山社会科学論争一

 55年5月7日から6月25日の約1ケ月半にわたり日本 学術会議派遣学術視察団の一員としてソビエトと中国を 訪問した長田は,両国が予想以上に戦争の破壊と混乱か ら立ち直って,国民は建国の希望に燃え,とくに子ども と教育が大事にされていることに驚いた.長田は膨大な 教育財政保障,就学前教育の完備,十年制義務教育,高 等教育の無償といった教育制度面だけでなく,とりわけ

「社会主義ヒューマニズムの精神」,つまり 「人間の人 格の高い価値の認識」にもとついた個性の尊重と人間の 主体性の追究に注目している.そして「自主性と連帯 性,個人と社会,乃至個と全との真の一元一体は,自由 と平等とを真に一元一体として,経済組織・社会組織乃 至国家組織の中に実現しつつあるソ連と中国とにおい て,初めて可能な世界史的主題ではあるまいか」との手 放しの評価を与えている39).時代の制約はあるにしても 単純化と一面化を孕んだ長田の評価は後に批判を受ける ことになるが,ともかくも社会主義国家視察の経験が長 田に思想としてのマルクス主義,社会の発展方向として の社会主義への確信を深めさせた,

 さて,第3期で若干の問題提起で終ってしまった国民

(10)

の危機と教育学の関係,社会科学と教育学の関係につい ての検討の必要性を,西ドイツの教育学研究の問題状況 に照らして日本の教育学界に問うたのが56年12月に発表 した論文「現代ドイツ教育学の課題一危機と教育一」で あった4°).長田は執筆の動機を次のように述べている.

教育学は「歴史的人間の形成によって歴史を作る作用の 学」であるが,歴史そのものの危機に際しては,教育学 は危機と対決して危機への深い分析を加えないことには ド 人間形成の課題と展望はみえてこない.つまり教育は政 治・経済とともに「国民の幸福を保証し若しくは増進す る」根本の社会的機能であり,教育学はこの機能に規定 されるからであると.この問題意識のもとに長田は西ド イツの2人の文化教育学者シュプランガーとリットを検 討素材に選んだ.その理由は,戦後のドイツが「丁度戦 後の日本と同様に(中略)両陣営の争から来る各階層・

各分野の対立と抗争,民族の真の自由と独立との喪失,

そこからでてくる絶望と頽廃と悪質の犯罪とアメリカニ ズムの氾濫等々」の危機が様々に生起し,ドイツ教育学 の大勢はこの危機に対抗すべく「危機からのヨーロッパ の救済と再建とを最も重要な課題とし,教育の主要目的 をそこに置」き,なかでもシュプラソガーとリットが

「最も大胆にこの問題に取り組んでいる」ということで

あった.

 長田は彼らが時代の危機と真攣に取組んでいる点は評 価しながらも,結局は危機とリアルに対決しそれの克服

の方向を示していないと結論づけた41).

 その理由は第1に,歴史認識における「社会科学的な 乃至は体制的な認識」の欠如であり,歴史分析における 社会科学的な方法の欠如である.シュプランガーが「た だ徒らに危機を指摘し,危機を嘆息し,危機に警告を発 するだけでそそくさと宗教やヒューマニズムにゆこうと する」逃避行動を示すのは,危機の根源を明らかにする 方法をもたないからだという.

 また,リヅトはシュプランガーより危機の「歴史的把 握」では徹底しているが,それは「歴史哲学者としての 歴史的把握に終始してい」るという.それはたとえぽリ

ットは現代科学技術のもつ管理と破壊の非人間性を批判 するが,「資本主義的生産関係の包蔵する自己矛盾」へ の社会科学的分析を欠いているため問題解決の鍵となら ないことを長田は指摘する.結局両者は生命哲学的な問 題把握を脱皮していないと批判した.そして「世界が封 建体制から資本主義体制へ,資本主義体制から社会主義 体制へと移行してゆく外ないという世界史的必然に対す る認識なしには,歴史的認識も生命ある認識とはいうこ とができない」と,社会科学的方法についての十分な検

討を行わないまま,長田は社会主義体制移行の必然性に ついての議論へとストレートに進めた.

 批判の第2の理由は,まさにこの社会主i義への移行の

「歴史的必然」に対する認識の有無にあった.長田はシ ュプランガーもリットも社会主義に対しては一定の「承 認」をしているという.しかし人間的自由・ヒューマニ

ズムや人間の主体性の問題を,人間と社会の発展を見通 した「体制の変革」との関係でとらえる視点がぎわめて 弱いため,両者ともに社会主義に対する重大な誤認があ ると指摘する.シュプランガーの場合,ヒューマニズム

・キリスト教・社会主義の3点を現代ドイツの目標とみ て,「個人の自由が優先する国家」・「人間性の枠内にお ける国家」の建設を主張している.しかし彼の自由と人 間性の概念は,たとえぽ「人間的な倫理的決定の自由」

のごとく,個人の良心の絶対性に狭く限定した旧来の伝 統的概念である.そのためにマルクス主義を「組織にし ばられた人間」を創出する全体主i義としてしか把握でき ずに,「機械主義の国家」と規定するアメリカと同列に 批判の対象としていて,結局は自らの社会主義を否定す るという矛盾した主張になっているという,これは現代 資本主義の本質を「機械主義」ではなく「帝国主義」と 見抜けないことに起因するのであって,シュプランガー のいう社会主義は観念であり「修正資本主義」だと批判 した.そして長田は,人間の自由と人間性の本質は「体 制の変革によって吾々人間の自主性乃至主体性」を奪還 する歴史過程において弁証法的にとらえるべきことを強 調し,そのことはまさに現存の社会主義の「現実的ヒュ ーマニズム」の中に看取できると述べた.

 また,リットが「弁証法的唯物論の示す社会の発展法 則」の承認は「歴史に対する主体の受動的態度に吾々を 導く」と批判するのに対しては,長田は次のように反論 した.すなわち弁証法的唯物論の提示する社会発展の客 観的法則を,歴史における主体の役割を捨象してアプリ

リなもの,観念の産物と前提することにまず問題があ オり,rr何処から何処へ』という歴史発展の底を貫く基 本的動向の明察」を欠いた議論であると.そして現実 を「抽象的な観念の支配や現実歪曲の誘惑」にとらわれ ないで社会科学的に分析するならば,社会主義への「歴 史的必然」は明らかとなると述べている.

 この時期の長田の現実と歴史認識の問題性を明らかに するために,やや長く論文の内容紹介を行った.研究の 課題を危機と教育,社会科学と教育学の関係におきなが らも,叙述はこの点に深く関わらないで,社会主義への  「歴史的必然」の問題へとどんどんずれていく.しかし

必然を根拠づけるほど,長田が社会主義の現状に対して

(11)

十分な認識をもっていたとは思えない.それはたとえば 1956年2月にスターリン批判が行われ(同年6月米国国 務省発表),さらにこの論文の執筆時(脱稿は11月12日)

にハソガリー事件(10月23日勃発,11月4日ソ連軍介入)

がおこっているにもかかわらず,それについての言及は なく,社会主義国に対するる手放しの評価は変らないか らである.そして一番の問題は,生命哲学・実存哲学批 判を急ぐあまり,長田が批判の方法とする社会科学それ 自体の十分な検討を行わないまま「体制の変革」に論点 を繧小化していることである.そのためにシュプラソガ ーやリットに対する批判も外在的批判になってしまい,

また第3期で提起した「歴史的理性」をもつ主体の形成 についての日本の現実にそくした教育学的考察も,社会 主義への移行の「歴史的必然」の論議を先行させたため 中断して深まらなかった.

 このような問題性を内包する議論ではあったが,国民 的危機と対決し社会発展の方向を見据えた教育学研究の 遂行という長田の問題提起は,おりしも「教育科学論 争」42)を展開していた教育学界に少なからぬ波紋をなげ かけた.これに対して石山脩平が論文「社会科学と教育 哲学一シュプラソガー批判をめぐって長田新氏の教示を 乞う一」43)(57年3月)で反論を試み,それが長田・石山 の社会科学論争にまで発展した.

 この検討に移る前にこの論争の伏線ともいうべき,教 育における主体形成をめぐる若干の論議が長田と石山の 間で行われていたことを指摘しておきたい.それは56年 4月の「〈対談〉新しい国づくりにつらなる教育をどう 実践するか一親孝行・愛国心を中心に日本教育の方向を 見定める一」44)において,長田が愛国心教育の真義にふ れて,「国際的には,ほんとうの民族の独立をかちとる こと」であり,国内的には「新体制の問題」つまり「社 会主義社会へ進まなけれぽな」らないことが,「ことぽ のほんとうの意味の愛国心である」との発言に端を発す

る,

 石山はこの発言に対して,日本には長田の言うような 危機の客観的情勢はあるが,その打開の見通しをマルク ス主義の「社会変遷の公式的な展開」を引き出して論ず るのではなく,「めいめいが,歴史的存在として自分は 自らの決断と責任において何をいかになすべきか」とい う「主体性」の形成の問題として,教育の研究と実践の 双方で深めていくことが必要だと反論した.そして石山 はシュプランガーの「(社会主義国の人々は)あるシス テム,ある組織に縛られている人間であって,ひとりひ とりの主体性にめざめた人間であるかどうかあやしい」

という言を援用しながら,教育は体制の問題と切り離し

て,まずは子どもに付与すべき「最大公約数的なもの」

をはっきりとつかむが先決であり,それによってイデオ ロギー・政策等における「さまざまの対立を教育実践の 姿において止揚し,統一する」ことができると述べた,

この反論に対する長田の今日の社会主義国にみられる愛 国心の高揚は国民の自主性・主体性の発露であり,体制 変革の問題を抜きにして主体形成を語ることができない という発言も,社会主義における人格形成の固有の条件 に深く立入って検討したものではなかったために,石山 が指摘する社会主義国における個人と社会・国家の間に 存在する人格形成をめぐる矛盾(石山とてどの程度実情 を把握した上での指摘なのか疑わしいが)にはこたえる

ことなく,論議はかみ合わないまま中断した.

 双方が主体形成をめぐる重要な論点を提起したにもか かわらず中断してしまったのは,石山が主体形成を社会

・体制の諸関係から切断して没価値的に狭く教育の問題 に綾小化してしまったからであり,その反面,長田は体 制の観点を一面的に強調したからである.この論議,特 に石山のシュプランガーの引用が引金となって,長田が シュプランガー・リットら生命哲学老の社会主義把握批 判を行ったのは先にみたとおりである.そしてなかんつ

く長田のシュプランガー評価をめぐって反論を提出し,

先の議論を連続させたのが前出の石山論文だったのであ

る.

 その趣旨は先の石山発言とほぼ同じだが少し詳しくみ てみよう,石山は2点から批判を行っている.

 第1は,社会主義への移行の「歴史的必然」という問 題である.石山は世界史の発展はマルクス主義の「単純 な公式通りには移行しないで」,「内面の良心を覚醒させ られた自由な西欧的人間」(=「主体的人間」)によって 担われ,「プロレタリアートの独裁」ではなく,「民主主 義の成熟」と「議会政治の訓練」によって着実に先進す るのであるという.その歴史的事実は,マルクス・エン ゲルスの「世界史の必然的推移」という予言が革命は西 ヨs−一・Ptッパではなくソビエトで起った点ではずれ,また 彼らが資本主義的蓄積による労働者の奴隷化と鋭く批判 した英国において,「労働者の福祉」をめざす「福祉国 家」が実現しつつあることに端的に示されているとい う.この事実のくい違いはどこから生じるのか.それは 人間が「必然」に身を委ねるのではなく,「当為」によ

って決断・行動するからである.この点で「当為にした がう自由」を人間的なるものの本質であり歴史の原動力 であることを解明しようとしていたシュプラソガー一は,

長田のいうごとく社会科学の探求を怠っているのではな

く,むしろ社会科学の提示する「必然」の批判に正面か

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