• 検索結果がありません。

谷崎潤一郎「人間が猿になつた話」と「白猿伝」の 関連性についての一考察

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "谷崎潤一郎「人間が猿になつた話」と「白猿伝」の 関連性についての一考察"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

谷崎潤一郎「人間が猿になつた話」と「白猿伝」の 関連性についての一考察

著者 李 春草

雑誌名 同志社国文学

号 82

ページ 78‑88

発行年 2015‑03‑20

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014363

(2)

谷 崎 潤 一 郎 ﹁ 人 間 が 猿 に な つ た 話 ﹂ と ﹁ 白 猿 伝 ﹂ の 関 連 性 に つ い て の 一 考 察 李

春 草

はじ めに 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ は︑ 一九 一八 年七 月︑ 雑誌

﹁雄 辯﹂ に発 表さ れた 短編 小説 であ り︑ 猿に 見込 まれ た芸 者・ お染 が︑ 猿の 祟り と深 い執 念か ら逃 れら れず

︑つ いに 猿と 共に 野州 塩原 の山 奥に 姿を 隠し たと いっ た内 容の もの であ る︒ 円地 文子 は︑ この 作品 が﹁ 怪異 談の 傾向 の強 いも の﹂ であ り︑ 谷崎 が生 涯持 ち続 けて いた

﹁少 年の 情感 とで も名 づけ たい もの が︑ 母体 にな って 発展 した 作品 の一 つ﹂

︑﹁ 女性 の肉 体賛 美の 一変 型

﹂で ある と指 摘し た︒ 千葉 俊二 は︑

﹁谷 崎文 学に は珍 しい テー マで

︑そ の手 法︑ 内容 はむ しろ 鏡花 のも のだ と思 わせ られ るが

︑谷 崎は どん な興 味を もっ てこ うし た作 品を 書い たの だろ うか

︒﹂ と論 じた

︒ また

︑ウ オラ ラッ ク・ クラ ウプ ロト ック

﹁﹃ 人間 が猿 にな つた 話﹄

試論

﹂で は︑ 民俗 学の 視点 から

︑物 語内 容と 日本 の猿 回し

︑猿 聟入 民話

︑谷 崎の

︿お 染久 松物

﹀の 観劇 との 関連 が論 じら れて いる

︒し かし

︑直 接的 な素 材と 創作 契機 に関 して は言 及さ れて いな い︒ この 時期

︑ポ ーと その 他﹁ 西洋

﹂の 摂取 と感 化か ら﹁ 途上

﹂︵

﹁改 造﹂ 一 九二

〇・ 一︶ のよ うな 推理 小説

︑映 画へ の関 心か ら﹁ 人面 疽﹂

︵﹁ 新 小説

﹂一 九一 八・ 三︶ のよ うな 映画 志向 の小 説を 書い てい た

︒だ が︑ 同じ 年に 書か れた

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂は それ らの 類に 属さ ない 異様 な作 品で ある

︒ 一九 一八 年一

〇月

︑谷 崎は 中国 大陸 へ旅 立っ た︒

﹁人 間が 猿に な つた 話﹂ は︑ 中国 旅行 準備 中に 著し た作 品で ある

︒創 作と 谷崎 の中 国旅 行と は何 か関 連し てい るの では ない か︒ 本稿 は︑ 当時 の谷 崎の 読書 活動 を調 べ︑ この 作品 と﹃ 唐代 叢書

﹄﹁ 白猿 伝﹂ との 関連 に焦 点を 絞っ て論 じる もの であ る︒

谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

七八

(3)

一 西原 大輔

﹃谷 崎潤 一郎 とオ リエ ンタ リズ ム

﹄に よれ ば︑ 谷崎 が中 国旅 行に 出か けた 直接 のき っか けは 末日 会に あっ た︒ 一九 一八 年一 月に 始ま った 末日 会は

︑政 治家

︑実 業家

︑官 僚︑ 文学 者ら の集 まり で︑ 席上

︑中 国漫 遊の 計画 が話 し合 われ てい たと いう

︒結 局︑ この 計画 は実 現し なか った が︑ 谷崎 個人 の中 国旅 行を 促す 要因 とな った らし い︒ 谷崎 の中 国旅 行の 準備 に関 して は︑

﹁時 事新 報﹂

︿文 芸消 息﹀ 欄︵ 一九 一八

・七

・九

︶︑

﹁読 売新 聞﹂

︵一 九一 八・ 七・ 二〇

︑ 八・ 二二

︶な ど︑ しば しば 報道 され

︑お よそ 三ヶ 月も 前︵ 一九 一八 年七 月上 旬︶ から 準備 に取 りか かっ てい たこ とが 窺え る︒ 旅行 資金 を工 面す るこ とは もと より

︑中 国に 関す る知 識の 収集 も必 要で あっ た︒ 少年 時代 から 中国 古典 に親 しん でき た谷 崎に とっ て︑ 中国 の歴 史・ 地理 の学 習は

︑昔

︑古 典か ら知 った 中国 への 思い を蘇 らせ たこ とだ ろう

︒ 後に 書か れる 紀行 文や 小説

︑戯 曲を 読め ば︑ この 時期 に谷 崎が 中 国の 古典 を読 み漁 った こと がわ かる

︒西 原に よれ ば︑ 谷崎 が﹁

﹃支 那趣 味﹄ の文 学を 集中 的に 生産 した のは もっ ぱら 一九 一七 年か ら一 九二 一年 にか けて の時 期で ある

﹂と いう

︒こ の時 期の 谷崎 作品 に登 場す る中 国古 典に つい て︑ 次の よう な諸 作品 があ るこ とが すで に指

摘さ れて いる

﹃剪 燈新 話﹄

︵﹁ 蘇州 紀行

﹂﹁ 中央 公論

﹂一 九一 九・ 二~ 三︶

﹃水 滸伝

﹄︵

﹁西 湖の 月﹂

﹁改 造﹂ 一九 一九

・六

︑﹁ 鮫人

﹂﹁ 中央 公 論﹂ 一九 二〇

・一

︑三

~五

︑八

~一

〇︶

﹃西 湖佳 話﹄

︵﹁ 西湖 の月

﹂︶

﹃唐 才子 伝﹄

︵﹁ 鮫人

﹂︶ 李笠 翁の 十種 曲の

﹁蜃 中楼 伝奇

﹂﹁ 比目 魚伝 奇﹂

︵﹁ 西湖 の月

﹂︶

﹃全 唐詩

﹄︵

﹁鮫 人﹂

︶ 楊鉄 崖︑ 高青 丘︑ 王漁 洋の 詩︵

﹁西 湖の 月﹂

︶ 倪雲 林︑ 王摩 詰の 詩︵

﹁鮫 人﹂

︶な ど︒ とこ ろが

︑﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と中 国古 典と の関 連は これ ま であ まり 注目 され てこ なか った

︒実 は︑

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂の

︿美 女が 猿に 見込 まれ て山 奥に 連れ 去ら れた

﹀と いう 主要 な筋 に似 た話 が︑ 中国 古典 に散 見し てい る︒ 中野 美代 子﹃ 孫悟 空の 誕生

サル の民 話学 と﹃ 西遊 記

﹄﹄ によ れば

︑﹁ 美人 を拐 かす サル

﹂の 話は

﹁数 え切 れぬ ほど ある

﹂︒ 最も 古い 例は 漢代 の焦 延寿 の著 とい われ る

﹃易 林﹄ 巻一 で︑ ほか に︑ 晋の 干宝 の著

﹃捜 神記

﹄巻 十二

︑晋 の張 華の 著と され る﹃ 博物 志﹄ 巻九

︑唐 初の

﹁補 江総 白猿 伝﹂

︑唐 の段 成式 の﹃ 酉陽 雑俎

﹄巻 十六

︑明 代の 洪楩 が編 んだ

﹃清 平山 堂話 本﹄ の﹁ 陳巡 検梅 嶺失 妻記

﹂︑

﹃剪 燈新 話﹄ 巻三 の﹁ 申陽 洞記

﹂な ど︑ 枚 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

七九

(4)

挙に 暇が ない

︒ その うち

︑最 も影 響力 を持 った のは 唐初 の﹁ 補江 総白 猿伝

﹂で あ り︑ 後の

﹁陳 巡検 梅嶺 失妻 記﹂

﹁申 陽洞 記﹂ も﹁ 補江 総白 猿伝

﹂か ら発 展し た話 であ ると 中野 は位 置づ けた

︒﹁ 補江 総白 猿伝

﹂は 略し て﹁ 白猿 伝﹂ とも いう

︑中 国唐 代志 怪小 説の 一つ であ る︒ 作者 と成 立時 期は 不詳

︒﹃ 新唐 書﹄

︑芸 文志

︑子 類︑ 小説 類に おけ る﹁ 補江 総 白猿 伝一 巻﹂ との 記述 が最 古の 記録 だが

︑具 体的 な作 品内 容は わか らな い

︒現 在︑

﹁白 猿伝

﹂の テキ スト とし て︑

﹃太 平広 記﹄ 巻四 四四

﹁欧 陽紇

﹂の 條︑ 明・ 顧元 慶﹃ 顧氏 文房 小説

﹄︑ 明・ 陶宗 儀﹃ 説郛

﹁白 猿伝

﹂な どが 流通 して いる ほか

︑清 代に 陳世 熙が 編集 した

﹃唐 代叢 書﹄ にも

﹁白 猿伝

﹂が 見出 せる

︒日 本で は︑ 江戸 時代 に林 羅山 によ って 和訳 され

︑﹁ 欧陽 紇﹂ と題 して

﹃怪 談全 書﹄

︵福 森兵 左衛 門 一六 九八

︶巻 一に 収録 され た︒ また

︑大 正九 年一 二月 に出 版さ れた

﹃国 訳漢 文大 成﹄ 文学 部第 十二 巻や

︑岡 本綺 堂訳

﹃支 那怪 奇小 説集

︵サ イレ ン社 一九 三五

・一 一︶ にも 収録 され てい る︒

﹁白 猿伝

﹂に 関す るこ れら の記 載は 字句 に若 干異 同が 見ら れる が︑ 主な 話は 共通 して いる

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂で は︑ 作中 人物 と舞 台設 定の いず れも が 日本 化さ れた が︑

︿美 女が 猿に 拐か され た﹀ 点に つい ては

︑右 に挙 げた 話と 共通 して おり

︑さ らに

︑そ の細 部の 描写 から 見て も︑

﹁白

猿伝

﹂と の類 似点 が多 く見 出せ る︒ 二

「白 猿伝

﹂の 梗概 を︑ 左に 掲げ る︒ 梁

の武 帝の 大同 年間

︵五 三五

~五 四五

︶末 頃︑ 将軍 欧陽 紇は 桂林 まで 攻め 入り

︑現 地の 部族 をこ とご とく 平定 して

︑さ らに 険阻 の地 へ分 け入 った

︒将 軍は 美し い妻 を伴 って いた が︑ 土地 の人 から 美人 を攫 う魔 物が いる ので 気を つけ るよ うに と忠 告さ れる

︒将 軍は 兵士 に陣 営を 見張 らせ

︑妻 を密 室に 入れ て下 女た ちに 守ら せた が︑ その 甲斐 もな く妻 は何 者か に攫 われ てし まう

︒将 軍は 軍隊 を留 め︑ 妻を 捜索 した

︒ 一ヶ 月を 過ぎ た頃

︑竹 林の 中で 妻の 履の 片方 が見 つか った

︒さ ら に十 日余 り︑ 陣営 から 二百 里ほ ど離 れた

︑南 に青 山を 望む 谷川 に着 いた

︒絶 壁の 上の 竹林 に紅 い綾 絹が 見え 隠れ し︑ 女た ちの 笑い 声が 聞こ える

︒蔓 につ かま って 登る と︑ 異世 界の よう な美 しい とこ ろに 出た 将 ︒ 軍が 来意 を告 げ︑ 女た ちに 尋ね たと ころ

︑皆

︑白 猿の 精に 攫わ れて きた 者で

︑将 軍の 妻も ここ に居 るこ とが 分か った

︒将 軍は 女た ちの 助力 を得 て白 猿を 退治 し︑ 妻を 救助 した が︑ 白猿 は︑ 将軍 の妻 がす でに 自分 の子 を身 籠も って おり

︑そ の子 は必 ず立 派な 人物 とな

谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八〇

(5)

ると いう 遺言 を残 した

︒一 年後

︑欧 陽紇 の妻 は白 猿に よく 似た 男の 子を 生ん だ︒ その 後︑ 将軍 は陳 の武 帝に 殺さ れた が︑ その 子は 将軍 と親 交の あっ た江 総に 養わ れ︑ 成長 して 文学 と書 に長 けた

︑名 の知 れた 人物 とな った

「人 間が 猿に なつ た話

﹂と

﹁白 猿伝

﹂と は︑ 美女 が魔 力を 持つ 猿 に攫 われ ると いう あら すじ が共 通し てい る︒ のみ なら ず︑ 女性 の美 しさ の描 写︑ 猿の 魔力

︑女 性を 探す 過程 に関 する 発想 など も似 てい る︒ まず

︑猿 に攫 われ た女 性の 外見 につ いて

︑両 作品 はい ずれ も女 性 の白 皙と 美し さを 強調 して いる

︒﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ のお 染は

﹁体 つき は少 し小 柄の 方で

︑何 とな くお つと りと した

︑色 の抜 け上 るや うに 白い

﹂子 で︑

﹁浅 草の 十二 階で 百美 人の 肖像 を陳 列し た事 があ つた が﹂

︑そ の中 に入 って いた ほど の美 人と され てい る︒ 同じ く﹁ 白猿 伝﹂ の将 軍の 妻は

︑﹁ 紇妻 繊白

︑甚 美︒

﹂︵ 色白 クシ テカ ホ ヨシ

︶と 表現 され てい る︒ また

︑猿 が持 つ魔 力に つい て︑

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂で は次 の よう に描 かれ てい る︒ 一体 何処 から

︑い つあ んな 者が 船の 中へ 紛れ 込ん だの だら う︑ 船頭 を始 め皆 が其 れを 不思 議が つた が誰 も謎 を解 く事 は出 来な かつ た︒ 船頭 の家 は江 戸川 の近 辺に あつ て︑ 其処 から 今朝 早く

船を 漕ぎ 出し て来 たの だが

︑無 論猿 なん ぞが 忍び 込ん で居 た筈 はな し︑ 万一 忍び 込ん で居 たに して も︑ それ が今 迄見 付か らず に居 よう 道理 がな い︒ 狭く 限ら れた 空間 へ︑ 人間 に気 づか れず 潜入 でき る魔 力を 持つ 猿と 設定 され てい る︒

﹁白 猿伝

﹂に おい ても これ と類 似す る魔 力が 記さ れて いる 紇 ︒ 甚疑 惧︑ 夜勒 兵環 其廬

︑匿 婦密 室中

︑謹 閉甚 固︑ 而以 女奴 十餘 同守 之︒ 爾夕

︑陰 風暗 黒︑ 至五 更︑ 寂然 無聞

︒守 者怠 而仮 寐︑ 忽若 有物 驚悟 者︑ 即已 失妻 矣︒ 関扄 如故

︑莫 知所 出︒

︵紇 キヒ テ疑 シキ ナガ レモ 夜ニ 入テ 兵ヲ ヨビ テ家 ヲト リマ ワシ

︒其 女ヲ 奥深 クカ クシ テ下 女十 餘人 ヲナ ラベ 番ト ス︒ 其夜 事ナ シ︒ 明夜 ニ及 デ風 吹テ 天ク ラク 夜半 スギ テシ ヅマ ル︒ 守者 クダ ビレ テ仮 寐ス

︒忽 物ニ オソ ワル ル如 クニ シテ

︒目 サメ レバ 女既 ニ見 ヘス

︒門 戸ノ 扄ハ モト ノ如 クニ シテ 出ル 所ヲ 知ル コト ナシ

︒︶ さら に︑ 猿に 攫わ れた 女性 を探 す過 程に おい ても 類似 性が 見ら れ る︒

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂に は︑ 次の 一節 があ る︒ 内藤 さん はわ ざ〳 〵下 野へ 出か けて 行つ て︑ 草鞋 穿き で日 光 から 足尾

︑高 原峠 から 塩原 の方 を十 日ば かり 尋ね 回つ たが

︑途 中で 何匹 も猿 に出 遇つ たに も拘 らず

︑お 染の 姿は 遂に 見つ から なか つた さう だ︒ 尤も

︑鬼 怒川 の川 上の 山路 で渓 川の 瀬に 突き 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八一

(6)

出て 居る 巖の 上に

︑お 染の 持つ て居 たら しい 珊瑚 の簪 と鼈 甲の 櫛と が落 ちて 居た と云 ふし

︑内 藤さ んは 其れ を東 京へ 持つ て帰 つて 私に 見せ たく らゐ だか ら︑ たし かに あの 邊へ 逃げ 込ん だの には 違ひ なか らう

︒ お染 を探 し奔 走し た内 藤さ んだ が︑ 結局

︑見 つけ るこ とは でき な かっ た︒ しか し︑ お染 の髪 飾り と思 われ る﹁ 珊瑚 の簪

﹂と

﹁鼈 甲の 櫛﹂ を発 見で きた

︒﹁ 白猿 伝﹂ にも 類似 した 展開 が見 られ る︒ 因辞 疾︑ 駐其 軍︑ 日往 四遐

︑即 深凌 険以 索之

︒既 逾月

︑忽 於 百里 之外 叢篠 上︑ 得其 妻繍 履一 隻︒ 雖侵 雨濡

︑猶 可弁 識︒

︵病 アリ ト云 テ軍 兵ヲ トド メ毎 日四 方ヲ 尋嶺 ヲ越 渓ヲ 伝険 ヲ凌 デ是 ヲモ トム

︒月 ヲ経 テ百 里ハ カリ ノ外 ニテ 叢ノ 上ニ テ彼 女ノ 履一 ツヲ 得タ リ︒ 雨露 ニヌ レタ リト イヘ バ︑ 屨ノ 形疑 ナシ

︒︶ 女の 遺留 品を 手掛 かり とす る発 想に おい て︑ ふた つの 作品 は共 通 する

︒し かし

︑﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ では 髪飾 り︑

﹁白 猿伝

﹂で は 片方 の履 と︑ 違い があ る︒

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂の お染 が葭 町の 芸者 と設 定さ れて いる こと から みれ ば︑

﹁履

﹂よ りも

﹁珊 瑚の 簪﹂

﹁鼈 甲の 櫛﹂ がよ りふ さわ しい

︒ その ほか

︑女 が連 れ去 られ た場 所に つい て︑

﹁人 間が 猿に なつ た 話﹂ では 野 ︑ 田さ んが 塩原 の温 泉へ 行つ て︑ 塩の 湯の 奥の 方に ある 瀧を

見物 に行 つた 時に

︑向 うの 山の 上で

︑猿 と一 緒に 遊ん で居 る人 間ら しい 影を 見た こと があ つた さう だ︒

︵略

︶あ れが きつ とお 染だ つた かも 知れ ない と︑ 内藤 さん はよ く私 に話 した もの だ︒ と︑

﹁塩 の湯 の奥 の方 にあ る瀧

﹂の

﹁向 うの 山の 上﹂ とさ れて いる

︒ 千葉 俊二 が指 摘し た

よう に︑ 人間 社会 から 遠く 離れ た﹁ 人外 境﹂ と もい える

︒﹁ 白猿 伝﹂ でも 同様 に︑ 将軍 の妻 が攫 われ た場 所が 次の よう に描 かれ てい る︒ 又旬 餘︑ 遠所 舍約 二百 里︑ 南望 一山

︑蔥 秀迴 出︒ 至其 下︑ 有 深溪 環之

︑乃 編木 以度

︒絶 岩翠 竹之 間︑ 時見 紅彩

︑聞 笑語 音︒

︵深 山ニ ワケ 入ル 十日 餘テ

︒我 家ノ 外ニ 百里 計ト

︒オ ボシ キ所 ニテ

︒南 ニ當 テ一 ノ山 アリ 高ク シゲ レリ 其下 ニ渓 水ア リテ 流廻 ル木 ヲ編 連テ 巖竹 ノ間 ヲ渡 ル時 ニ女 ノ笑 ヒモ ノ云 聲ハ ルカ ニ聞 ユ︒

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂と

﹁白 猿伝

﹂と は︑ 好色 で魔 力を 持つ 猿 が美 女に 取り 憑い たと いう あら すじ にお いて も︑ 女性 の容 貌︑ 猿の 魔力

︑女 性を 探す 過程

︑連 れ去 られ た場 所な どの 設定 にお いて も︑ 共通 して いる こと がわ かっ た︒ 三 それ では

︑谷 崎は どの 本文 で﹁ 白猿 伝﹂ を読 んだ のか

︒﹁ 白猿 伝﹂

谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八二

(7)

が収 めら れた 書物 には

︑﹃ 太平 広記

﹄﹃ 顧氏 文房 小説

﹄﹃ 説郛

﹄﹃ 唐代 叢書

﹄な ど︑ ある いは

﹃怪 談全 書﹄ が挙 げら れる

︒谷 崎の 中国 旅行 直前 とい う時 期︑ 書物 を入 手す る際 の難 易度

︑書 物を 携帯 する 際の 便宜 性な どの 面を 考慮 し︑ 各種 刊本 を年 代順 に検 討し てい く︒

﹃太 平広 記﹄ は宋 代に 成立 した 説話 集︒ 漢か ら宋 初ま での 説話

・ 伝奇 など を収 録し た︑ 全五 百巻 から 成る 厖大 な叢 書で ある

︒﹃ 顧氏 文房 小説

﹄は

︑明 代の 顧元 慶に よっ て編 纂さ れた 全五 十八 巻の 叢書

﹃説 郛﹄ は︑ 同じ 明代 に陶 宗儀 によ って 編纂 され た全 百二 十巻 の叢 書で あり

︑そ の内 容に は︑ 諸子 百家 の説

︑筆 記︑ 詩話

︑伝 記︑ 考古 博物

︑地 理風 土な どが 含ま れて いる

︒﹃ 唐代 叢書

﹄は

﹃唐 人説 薈﹄ とも いい

︑唐 代及 びそ の後 の五 代や 宋代 の文 学作 品全 百六 十四 篇を 収録 した もの で︑ 一七 九二 年に 清の 陳世 熙に よっ て編 纂さ れた

︒そ の内 容は

︑志 怪や 伝奇 小説 のみ なら ず︑ 稗史

︑園 芸︑ 地理

︑風 土︑ 宗教

︑詩 歌︑ 散文 など が含 まれ てい る︒ 谷崎 が好 んだ 中国 南方 の水 郷・ 蘇州 の地 理︑ 歴史 伝説 を記 載す る﹁ 呉州 記﹂ や︑ 後に 谷崎 が紀 行文

﹁蘇 州紀 行﹂

︵原 題﹁ 画舫 記﹂

﹁中 央公 論﹂ 一九 一九

・二

~三

︶︑ 小説

﹁西 湖の 月﹂

︵原 題﹁ 青磁 色の 女﹂

﹁改 造﹂ 一九 一九

・六

︶で 著 すこ とに なる

︑﹁ 真嬢

﹂﹁ 柳士 肩﹂ に関 する 詩や 伝説 も収 めら れて い た

︒ま た︑

﹃怪 談全 書﹄ は林 羅山 が﹃ 史書

﹄ほ か中 国の 書物 から 怪 異譚 を集 めて 和訳 した 怪談 集で

︑全 五巻 から 成る

︒日 本語 で記 され

てい るた め読 みや すく

︑谷 崎が これ を読 んだ 可能 性が 高い

︒し かし

︑ 中国 旅行 直前 とい う事 情を 考慮 すれ ば︑

﹃怪 談全 書﹄ より も︑ 中国 を知 るた めの 百科 全書 のよ うな 趣を 持つ

﹃唐 代叢 書﹄ に拠 った と考 える 方が 適切 では なか ろう か︒ 谷崎 が旅 行後 に著 した 小説

﹁鶴 唳﹂

︵﹁ 中央 公論

﹂一 九二 一・ 七︶ と戯 曲﹁ 蘇東 坡﹂

︵﹁ 改造

﹂一 九二

〇・ 八︶ が︑ 和訳

﹃西 湖佳 話﹄ では なく

︑直 接原 典﹃ 西湖 佳話

﹄に 題材 を取 った とい う事 実か ら

︑原 典を 読む こと は谷 崎に とっ て珍 しい こ とで はな かっ た︒ それ に︑

﹃唐 代叢 書﹄ は刊 行年 代が もっ とも 近い うえ に︑ 清代 か ら民 国時 代

にか けて 再版 が繰 り返 され

︑広 く普 及し てい た︒ この 間 の事 情に つい て︑ 魯迅 はエ ッセ イ﹁ 破﹃ 唐人 説薈

﹄﹂ で︑ 次の よう に述 べて いる

﹃唐 人説 薈﹄ は﹃ 唐代 叢書

﹄と もい う︑ 早く から 小木 版の もの があ った が︑ 今は 石印 本も ある

︒そ のた め︑ 脱字

︑誤 字︑ 文の 区切 りが 増加 した

︒︵ 略︶ 小説 であ るた め︑ 以前 の儒 者の 論争 に値 しな いの であ って

︑畢 竟︑ 非難 する 人が いな い︒ 今に 至っ て相 変ら ず印 刷を 繰り 返し

︑楽 しま れる ほど 流行 って いる

︵筆 者訳

︒原 文:

﹃唐 人說 薈﹄ 也稱

﹃唐 代叢 書﹄

︑早 有小 木板

︑ 現在 却有 了石 印本 了︑ 然而 反加 添了 許多 脫落

︑誤 字︑ 破句

︵略

︶只 是因 為是 小說

︑從 前的 儒者 是不 屑辯 的︑ 所以 竟沒 有人 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八三

(8)

來抨 擊︑ 到現 在還 是印 了又 印︑ 流行 到﹁ 不亦 樂乎

﹂︒

︶ 具体 的に は︑ 一七 九二 年の 挹秀 軒刊 本︑ 一八

〇六 年の 序刊 本︑ 一 八四 三年 の序 刊本

︑一 八六 九年 の右 文堂 刻本

︑光 緒年 間︵ 一八 七五

~一 九〇 八︶ 刻本

︑一 九一 一年 の上 海掃 葉山 房石 印本

︑一 九一 一年 の上 海天 宝書 局石 印本

︑一 九二 二年 の上 海掃 葉山 房石 印本 など が刊 行さ れて いる

︒ 大庭 修﹃ 江戸 時代 にお ける 唐船 持渡 書の 研究

﹄に よれ ば︑

﹃唐 代 叢書

﹄の 日本 渡来 は︑ 天保 十二 年︵ 二回

︑一 部六 套︑ 一部 二包

︶︑ 嘉永 三年 戌五 月︵ 一部 四本

︶︑ 四年 五月

︵二 部各 六套

︶・ 玄五 月︵ 一 部六 包︶

︑安 政二 年十 一月

︵一 部︶ であ ると いう

︒日 本で 早く から 受容 され た︒ 現在

︑日 本で は︑ 一七 九二 年の 挹秀 軒刊 本を はじ め︑ その 後の 刊本 が流 通し てい る︒ 一八

〇六 年の 刻本

︵三 十六 冊︶ と一 九一 一年

︑一 九一 三年 の上 海掃 葉山 房石 印本

︵十 六冊

︶が 最も 多い

︒ 芥川 龍之 介の 蔵書 中に も﹃ 唐代 叢書

﹄︵ 三十 六冊

︶が 見出 せる

︒海 老井 英次 や村 松定 孝ら によ れば

︑﹁ 黄粱 夢﹂

︵一 九一 七・ 一〇

︶や

﹁杜 子春

﹂︵ 一九 二〇

・七

︶の 典拠 を﹃ 唐代 叢書

﹄に 求め られ ると い う

︒ 日本 での 所蔵 が多 い﹃ 唐代 叢書

﹄は

︑谷 崎に とっ ても 決し て入 手 しに くい 書物 では なか った

︒ま た︑ 友人 芥川 龍之 介と

︿支 那趣 味﹀ を同 じく して いた こと から 推し て︑

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂を 著す

際に 谷崎 が参 考に した 文献 とし て︑ 一八

〇六 年の 刻本

﹃唐 代叢 書﹄ 三六 冊を 挙げ ても 良い と考 えら れる

︒ 谷崎 が少 々異 様な テー マの 作品

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂を 著し た 動機 のひ とつ とし て︑ この 時期 にお ける 芥川 との 頻繁 な交 流を 想定 でき る︒ 小谷 野敦 編﹃ 谷崎 潤一 郎詳 細年 譜﹄

︵小 谷野 敦公 式ウ ェブ サイ ト ht tp :/ /h om ep ag e2 .n if ty .c om /a ko ya no /t an iz ak i. ht ml

︶か ら 抜粋 する

︒ 一九 一七 年

﹁ 月︑

︵略

︶芥 川来 訪︒ 両者 菩提 寺を 同じ くす る︒

﹂︑

﹁ 月

︵略

︶ 日︑ 手紙 で芥 川を 慰め る﹂

︑﹁ 月

︵略

︶28

︑29 日頃 か 月 上旬

︑︵ 略︶ 佐藤 春夫

︑江 口渙

︵略

︶︑ 赤木

︑久 米︑ 芥川 が 谷崎 を訪 れる

︒﹂

︑﹁ 月

︵略

︶27 日︑ 日本 橋の レス トラ ン﹁ 鴻 の巣

﹂で

︑谷 崎が 発起 人の 一人 とな って

︑芥 川﹃ 羅生 門﹄ 出版 記念 会︒

﹂︑

﹁28 日︑ 芥川 を訪 問︑ 遊ん で帰 る︒

﹂﹁ 月

︵略

︶上 旬︑ 佐藤

︑芥 川︑ 江口

︑赤 木ら 訪れ る︒

﹂︑

﹁10 月﹁ 口の 辺の 子 供ら しさ

﹂を

﹃新 潮﹄

︵芥 川龍 之介 氏の 印象

︶に 掲載

︒﹂

﹁30 日︑ 芥川 を訪 れて 遊ぶ

﹂︒ 一九 一八 年

﹁ 月︑ 芥川

﹁良 苦用 心・ 谷崎 潤一 郎氏 の文 章﹂ を﹃ 文章 倶楽 部﹄ に掲 載︒

﹂︑

﹁25 日︑ 芥川

︑鵠 沼︵ 引用 者注

:当 時谷 崎が 泊

谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八四

(9)

まっ てい る場 所︶ へ一 泊で 遊び にゆ く﹂ さら に︑ 一九 一八 年に ふた りが 発表 した 小説 には 共通 性が ある

︒ 一九 一八 年七 月に 谷崎 が﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ を発 表す る半 年前

︑ 一月 に芥 川は

﹃聊 斎志 異﹄ に取 材し た

﹁首 が落 ちた 話﹂ を﹁ 新潮

﹂ に発 表︑ 五月 には

﹁大 阪毎 日新 聞﹂

﹁東 京日 日新 聞﹂

︵一

~二 十二 日︶ に﹁ 地獄 変﹂ を連 載し てい た︒ 題名 の末 尾に

﹁話

﹂を 付け るな ど︑

﹁首 が落 ちた 話﹂ と﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ とは

︑同 じス タイ ルを 採っ てい る︒ また

︑︿ 女性 と猿

﹀の 話に 関し ても

︑﹁ 地獄 変﹂ に おけ る︿ 良秀 の娘 と小 猿﹀ の話 と︑

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂に おけ る︿ 美女 が猿 に連 れ去 られ た話

﹀と は︑ その 取り 合わ せが 一致 して いる

︒谷 崎が 芥川 を意 識し てい た可 能性 があ ろう

︒ 四 中国 古典

﹁白 猿伝

﹂を 素材 とし なが らも

︑谷 崎は

︑﹁ 人間 が猿 に なつ た話

﹂の 人物 名︑ 時空 間の 設定

︑語 り方 など につ いて は自 身の 創作 意図 に沿 って 改変 した

︒と りわ け︑ 物語 の特 別な 時空 間の 設定 によ って

︑谷 崎が

﹁生 涯持 ち続 けて いら れた 少年 の情 感

﹂を もう 一 度蘇 らせ たの であ る︒ 作品 の冒 頭で

︑物 語の 時間 につ いて 以下 のよ うに 述べ られ てい る︒ その 時分 はま だわ しも 三十 代の 男ざ かり だつ た︒ さう して 内

のお 鶴と 一緒 に︑ 葭町 へ芸 者屋 を出 して から まだ 間も ない 時分

︑ さう よな あ︑ 事に 依る とま だあ の人 形町 通り が今 のや うに 広く なく つて

︑電 車な んぞ はも ちろ ん通 つて 居な かつ た頃 だつ た︒ 考へ て見 ると あの 近辺 も変 つた もの さ︒ 今ぢ やあ 水天 宮の 向う が土 州橋 まで 突き 抜け て居 るが

︑あ の辺 は随 分ご み〳 〵し た狭 つ苦 しい とこ ろだ つた よ︒

︵略

さう

︑さ う︑ それ から 今 の長 谷川 町近 辺に

︑ち やう ど尾 張町 の服 部の やう な大 時計 があ つた つけ が︑ あれ はつ い此 の頃 まで 残つ て居 たや うぢ やな いか

︒ 親爺 橋の 通り で古 いの は千 束屋 に蓬 莱屋

︑牛 屋の 今清 なん ぞも 新し い方 ぢや ある まい な︒ 芝居 でも 明治 座な んて 物は なく つて

︑ 彼処 には もと 久松 座と 云ふ もの があ つて

︑そ の小 屋が 焼け てか ら今 の明 治座 が出 来た んだ と覚 えて 居る

︒ 右の 引用 から 分か るよ うに

︑物 語が 発生 した 時間 は﹁ 今﹂ より 三 十年 前の 過去 であ り︑ 舞台 は当 時の 葭町 であ る︒ さら に﹁ 明治 座﹂

﹁久 松座

﹂と いっ た実 在の 劇場 名が 記さ れて いる こと から

︑お よそ 一八 七九 年か ら一 八九 三年 まで の時 期と 推測 され る

︒こ の時 期は

︑ 明治 維新 の近 代初 期に 当た り︑ 都市 の近 代化 を象 徴す る﹁ 電車

﹂や

﹁電 燈﹂ が登 場し てく る前 後の

︑新 旧時 代の 過渡 期で もあ り︑ まだ 徳川 とい う前 時代 の風 景が 窺え る︒ とり わけ

︑葭 町は 江戸 時代 から 引き 続く 遊興 の地 であ り︑ 都市 の近 代化 の過 程で 取り 残さ れた 町の 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八五

(10)

たた ずま いや 人々 のな りわ いに

︑な お江 戸の 名残 が色 濃く 残っ てい た︒ 馬場 孤蝶 は﹃ 明治 の東 京

﹄で

︑明 治二

〇年 代末 期の 吉原 には

︑ 昔な がら に鼈 甲の 簪を 挿し た娼 妓を 擁す る店 が幾 軒も あっ た︒ また

︑ 明治 二五 年頃

︑銀 座な どの 繁華 街に は既 に電 灯や 軒灯 が設 置さ れて いた にも かか わら ず︑

﹁芸 者屋

﹂で は格 子戸 の内 に大 きな 提灯 が下 がっ てお り︑ 室内 では 行燈 が用 いら れる とい う状 態が つづ いて いた と記 して いる

︒ この 花街 の特 別な 空間 につ いて

︑吉 見俊 哉は 次の よう に述 べて い る︒ 吉原 や新 猿楽 町の よう な︑ 日常 の身 分制 的規 範と は異 なる

﹁遊 び﹂ や﹁ 芸能

﹂が 展開 され る空 間は

︑塀 と木 戸に よっ て他 の領 域よ り一 層慎 重に 囲い 込ま れて いた ので ある

︒徳 川期 の都 市に おけ る廓 や芝 居町 など がも つエ ネル ギー は︑ それ らの 地域 がこ のよ うな

﹁統 制さ れた 都市

﹂の 内部 にお ける 制度 的に 開放 され た空 間と して 存在 した とい う︑ 都市 空間 全体 のな かで のこ れら の地 区の 位置 によ って 理解 され なく ては なら ない

︒ 明治 維新 以後

︑都 市区 分の 変革 や道 路の 改正 など は︑ 東京 に大 き な変 化を もた らし たが

︑遊 びの 場と して の﹁ 芸者 屋﹂ は一 つの 非日 常的 な空 間と され

︑そ こに まだ 幾分 前時 代の 面影 が窺 える

︒明 治一 九年

︑日 本橋 区蠣 殻町 で生 まれ た谷 崎は

︑幼 少時 代に 見た 東京 の町

風景 と再 会す るた めに は︑ 遠い 昔に 記憶 を遡 らせ るか

︑あ るい は︑ 文明 開化 から 取り 残さ れた 下町 の花 柳界

︑遊 興地 とい った 特殊 な空 間に 探し 求め るか する しか ない

︒﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ にお いて

︑ 谷崎 は留 吉爺 さん の回 想を 借り て︑ 記憶 の中 にあ る昔 の東 京と の再 会を 図っ た︒ おわ りに 本稿 では

︑谷 崎が 中国 旅行 を前 にし て著 した 小説

﹁人 間が 猿に な つた 話﹂ と︑ 中国 志怪 小説

﹁白 猿伝

﹂と の類 似性 を論 じた

︒谷 崎が 一八

〇六 年の 刻本

﹃唐 代叢 書﹄ に収 めら れた

﹁白 猿伝

﹂を 読ん で

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂を 創作 した 可能 性は 極め て高 い︒ また 同じ 一九 一八 年に

︑友 人芥 川龍 之介 が志 怪小 説﹃ 聊斎 志異

﹄に 取材 して 題名 に共 通性 があ る﹁ 首が 落ち た話

﹂を 発表 した こと や︑

︿女 性と 猿﹀ の話 を含 む﹁ 地獄 変﹂ が発 表さ れた こと から

︑刺 激を 受け た可 能性 もあ る︒ 結末 につ いて

︑﹁ 白猿 伝﹂ では

︑救 われ た将 軍の 妻が 猿の 子を 産 み︑ しか もそ の子 が後 世に 名が 知ら れる 人物 とな った とい うハ ッピ ーエ ンド で結 ばれ てい るの に対 し︑

﹁人 間が 猿に なつ た話

﹂で は︑ お染 が猿 の執 念と 祟り から 逃れ られ ず︑ つい には 猿が 住む 山奥 に入 って しま い︑ 救い 出さ れる こと はな かっ た︒ 本稿 では 未だ 両作 品の

谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八六

(11)

関連 を明 確に 裏付 ける こと はで きな かっ たが

︑﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ の周 辺を 調査 する こと によ って

︑典 拠探 索の 手掛 かり を提 出し たつ もり であ る︒ 今後 の研 究に おい て︑ さら なる 充実 を図 りた い︒ 注

① 円地 文子

﹁若 き日 に愛 読し た作 品﹂

︵﹁ 谷崎 潤一 郎全 集 月報

﹂ 中 央公 論社

一九 六七

・三

② 千葉 俊二

﹁感 覚の 錯乱

﹂﹃ 潤一 郎ラ ビリ ンス

Ⅶ怪 奇幻 想倶 楽部

﹄﹁ 解 説﹂

︵中 央公 論社

一九 九八

・一 一︶

③ ウオ ララ ック

・ク ラウ プロ トッ ク﹁

﹃人 間が 猿に なつ た話

﹄試 論﹂

︵﹃ 続・ 谷崎 潤一 郎作 品の 諸相

﹄専 修大 学文 学研 究科 畑研 究室

二〇

〇 三・ 一二

④ 秦恒 平﹁ 谷崎 潤一 郎の 大正 時代

﹂︵

﹁国 文学

解釈 と教 材の 研究

﹂第 三 十巻 第九 号 一九 八五

・八

︶に よる

⑤ 西原 大輔

﹃谷 崎潤 一郎 とオ リエ ンタ リズ ム﹄

︵中 央公 論新 社 二〇

〇 三・ 七︶

⑥ 原田 親貞

﹁谷 崎潤 一郎 と中 国文 学︵ 一︶

﹂︵

﹁学 苑﹂ 第三 四八 号 一九 六八

・一 二︶ を部 分参 照︒

⑦ 中野 美代 子﹃ 孫悟 空の 誕生 サ

ルの 民話 学と

﹃西 遊記

﹄﹄

︵玉 川大 学 出版 部 一九 八〇

・一 二︶

⑧ 西川 幸宏

﹁サ ルの 異類 婚姻 譚と

﹃白 猿伝

﹄﹂

︵﹁ 追手 門大 学・ アジ ア科 学年 報﹂ 第一 号 二〇

〇七

・一 一︶ によ る︒

﹃顧 氏文 房小 説﹄

﹁白 猿伝

﹂の 冒頭 に︑

﹁歐 陽詢 面似 猴長 孫無 忌嘲 之曰 誰於 麟閣 上畫 此一 獼猴 同時 因戲 作此 伝託 江總 之名 非実 録成

﹂と の一 文が あり

︑此 の話 の由 来を 示す 場合 があ る︒

⑩ 注② に同 じ︒

「呉 州記

﹂︑ 真嬢

︑柳 士肩 に関 する 記述 はそ れぞ れ﹃ 唐代 叢書

﹄の 第五

︑ 六︑ 八集 に見 られ る︒

⑫ 拙論

﹁谷 崎潤 一郎

﹃鶴 唳﹄ にお ける 漢籍 要素

﹂︵

﹁同 志社 国文 学﹂ 第七 十九 号 二〇 一三

・一 二︶ によ る︒

⑬ 一般 に辛 亥革 命に より 清朝 が打 ち倒 され た一 九一 二年 中華 民国 政府 成 立か ら一 九四 九年 中華 人民 共和 国成 立ま での 時期 と指 す︒

⑭ 初出

﹃辰 報副 刊﹄

︵一 九二 二・ 一〇

・三

︶︒ 引用 は﹃ 集外 集拾 遺補 編﹄

︵人 民文 学出 版社

一九 七三

︶に よる

⑮ 張蕾

﹃芥 川龍 之介 と中 国

受容 と変 容の 軌跡

﹄︵ 国書 刊行 会 二〇

〇七

・四

︶に よる

⑯ 海老 井英 次は

︑﹁ 芥川 龍之 介文 学典 拠一 覧﹂

︵﹁ 国文 学 解釈 と教 材の 研究

﹂第 三十 七巻 第二 号 一九 九二

・二

︶で は︑ 芥川 龍之 介の 小説

﹁黄 粱夢

﹂が

﹁枕 中記

﹂か ら︑

﹁杜 子春

﹂が

﹁杜 子春 伝﹂ から その 材を 取っ たと 考察 した

︒ま た︑

﹁杜 子春

﹂の 典拠 につ いて

︑村 松定 孝は

︑﹁ 唐代 小 説﹃ 杜子 春伝

﹄と 芥川 の童 話﹁ 杜子 春﹂ の発 想の 相違 点﹂

︵﹁ 比較 文学

﹂ 第八 巻 一九 六五

・一 二︶ にお いて

︑﹁ 原典 は﹃ 唐代 叢書

﹄︑ 類似 の話 は

﹃大 唐西 域記

﹄﹃ 酉陽 雑俎

﹄に 見え

︑こ れら の書 籍は

︑既 に江 戸期 に木 版 本が 複刻 され てい るか ら︑ そう いう もの を桂 湖邨 の﹃ 漢籍 解題

﹄﹂

︵明 三 八︶ を参 照し つつ 漢文 に堪 能な 彼が 読む 機会 を持 ち得 たで あろ うこ とは 容易 に想 像さ れる

︒﹂ と指 摘し た︒ 張蕾 も︑ その 著書

﹃芥 川龍 之介 と中 国

受容 と変 容の 軌跡

﹄︵ 国書 刊行 会 二〇

〇七

・四

︶で は︑ 芥川 龍 之介 が一 九二

〇年 に書 いた 小説

﹁杜 子春

﹂が 彼所 蔵の 漢籍

﹃唐 代叢 書﹄ 及び

﹃太 平広 記﹄ から 材を 取っ て創 作し たと 推測 した

⑰ 芥川 龍之 介﹁ 文芸 雑話

饒舌

﹂︵

﹁新 小説

﹂第 二十 三年 第五 号 一九 一 八・ 五︶ によ る︒ 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八七

(12)

⑱ 注① に同 じ︒

﹃東 京都 の地 名 日本 歴史 地名 大系

十三

﹄︵ 平凡 社 二〇

〇二

・七

︶ によ れば

︑明 治座 の前 身で ある 芝居 小屋 は︑ 明治 初期 に富 田三 兄弟 によ り開 かれ た︒ その 後︑ 一八 七三 年に 久松 町に 移転

︑喜 昇座 とし て改 めて 開場 した

︒一 八七 九年 に久 松座 と改 称さ れ︑ さら に一 八八 五年 に千 歳座 に︑ 一八 九三 年に 左団 次に より 明治 座と 命名 され た︒

⑳ 馬場 孤蝶

﹃明 治の 東京

﹄︵ 中央 公論 社 一九 四二

・五

㉑ 吉見 俊哉

﹃都 市の 空間

・都 市の 身体

﹄︵ 勁草 書房

一九 九六

・五

︹付 記︺ 本稿 で引 用し た谷 崎潤 一郎 の文 章は

︑﹃ 谷崎 潤一 郎全 集﹄ 全三 十 巻︵ 一九 八一

・五

~一 九八 三・ 一一

中央 公論 社︶ を底 本と する

︒ 引用 に際 し︑ ルビ を簡 略化 し︑ 原則 とし て旧 漢字 は新 漢字 に改 め た︒ また

︑﹁ 白猿 伝﹂ の引 用は 一八

〇六 年の 刻本

﹃唐 代叢 書﹄ に拠 る︒ その 訳文 は林 羅山

﹃怪 談全 書﹄ 巻一

﹁欧 陽紇

﹂︵ 福森 兵左 衛門 一六 九八

︶に 拠っ た︒ 傍線 は筆 者に よる もの であ る︒

谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察

八八

参照

関連したドキュメント

問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

存在が軽視されてきたことについては、さまざまな理由が考えられる。何よりも『君主論』に彼の名は全く登場しない。もう一つ

私はその様なことは初耳であるし,すでに昨年度入学の時,夜尿症に入用の持物を用

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

ピンクシャツの男性も、 「一人暮らしがしたい」 「海 外旅行に行きたい」という話が出てきたときに、

なお、保育所についてはもう一つの視点として、横軸を「園児一人あたりの芝生