谷崎潤一郎「人間が猿になつた話」と「白猿伝」の 関連性についての一考察
著者 李 春草
雑誌名 同志社国文学
号 82
ページ 78‑88
発行年 2015‑03‑20
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014363
谷 崎 潤 一 郎 ﹁ 人 間 が 猿 に な つ た 話 ﹂ と ﹁ 白 猿 伝 ﹂ の 関 連 性 に つ い て の 一 考 察 李
春 草
はじ めに 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ は︑ 一九 一八 年七 月︑ 雑誌
﹁雄 辯﹂ に発 表さ れた 短編 小説 であ り︑ 猿に 見込 まれ た芸 者・ お染 が︑ 猿の 祟り と深 い執 念か ら逃 れら れず
︑つ いに 猿と 共に 野州 塩原 の山 奥に 姿を 隠し たと いっ た内 容の もの であ る︒ 円地 文子 は︑ この 作品 が﹁ 怪異 談の 傾向 の強 いも の﹂ であ り︑ 谷崎 が生 涯持 ち続 けて いた
﹁少 年の 情感 とで も名 づけ たい もの が︑ 母体 にな って 発展 した 作品 の一 つ﹂
︑﹁ 女性 の肉 体賛 美の 一変 型①
﹂で ある と指 摘し た︒ 千葉 俊二 は︑
﹁谷 崎文 学に は珍 しい テー マで
︑そ の手 法︑ 内容 はむ しろ 鏡花 のも のだ と思 わせ られ るが
︑谷 崎は どん な興 味を もっ てこ うし た作 品を 書い たの だろ うか②
︒﹂ と論 じた
︒ また
︑ウ オラ ラッ ク・ クラ ウプ ロト ック
﹁﹃ 人間 が猿 にな つた 話﹄
試論③
﹂で は︑ 民俗 学の 視点 から
︑物 語内 容と 日本 の猿 回し
︑猿 聟入 民話
︑谷 崎の
︿お 染久 松物
﹀の 観劇 との 関連 が論 じら れて いる
︒し かし
︑直 接的 な素 材と 創作 契機 に関 して は言 及さ れて いな い︒ この 時期
︑ポ ーと その 他﹁ 西洋
﹂の 摂取 と感 化か ら﹁ 途上
﹂︵
﹁改 造﹂ 一 九二
〇・ 一︶ のよ うな 推理 小説
︑映 画へ の関 心か ら﹁ 人面 疽﹂
︵﹁ 新 小説
﹂一 九一 八・ 三︶ のよ うな 映画 志向 の小 説を 書い てい た④
︒だ が︑ 同じ 年に 書か れた
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂は それ らの 類に 属さ ない 異様 な作 品で ある
︒ 一九 一八 年一
〇月
︑谷 崎は 中国 大陸 へ旅 立っ た︒
﹁人 間が 猿に な つた 話﹂ は︑ 中国 旅行 準備 中に 著し た作 品で ある
︒創 作と 谷崎 の中 国旅 行と は何 か関 連し てい るの では ない か︒ 本稿 は︑ 当時 の谷 崎の 読書 活動 を調 べ︑ この 作品 と﹃ 唐代 叢書
﹄﹁ 白猿 伝﹂ との 関連 に焦 点を 絞っ て論 じる もの であ る︒
谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
七八
一 西原 大輔
﹃谷 崎潤 一郎 とオ リエ ンタ リズ ム⑤
﹄に よれ ば︑ 谷崎 が中 国旅 行に 出か けた 直接 のき っか けは 末日 会に あっ た︒ 一九 一八 年一 月に 始ま った 末日 会は
︑政 治家
︑実 業家
︑官 僚︑ 文学 者ら の集 まり で︑ 席上
︑中 国漫 遊の 計画 が話 し合 われ てい たと いう
︒結 局︑ この 計画 は実 現し なか った が︑ 谷崎 個人 の中 国旅 行を 促す 要因 とな った らし い︒ 谷崎 の中 国旅 行の 準備 に関 して は︑
﹁時 事新 報﹂
︿文 芸消 息﹀ 欄︵ 一九 一八
・七
・九
︶︑
﹁読 売新 聞﹂
︵一 九一 八・ 七・ 二〇
︑ 八・ 二二
︶な ど︑ しば しば 報道 され
︑お よそ 三ヶ 月も 前︵ 一九 一八 年七 月上 旬︶ から 準備 に取 りか かっ てい たこ とが 窺え る︒ 旅行 資金 を工 面す るこ とは もと より
︑中 国に 関す る知 識の 収集 も必 要で あっ た︒ 少年 時代 から 中国 古典 に親 しん でき た谷 崎に とっ て︑ 中国 の歴 史・ 地理 の学 習は
︑昔
︑古 典か ら知 った 中国 への 思い を蘇 らせ たこ とだ ろう
︒ 後に 書か れる 紀行 文や 小説
︑戯 曲を 読め ば︑ この 時期 に谷 崎が 中 国の 古典 を読 み漁 った こと がわ かる
︒西 原に よれ ば︑ 谷崎 が﹁
﹃支 那趣 味﹄ の文 学を 集中 的に 生産 した のは もっ ぱら 一九 一七 年か ら一 九二 一年 にか けて の時 期で ある
﹂と いう
︒こ の時 期の 谷崎 作品 に登 場す る中 国古 典に つい て︑ 次の よう な諸 作品 があ るこ とが すで に指
摘さ れて いる⑥
︒
﹃剪 燈新 話﹄
︵﹁ 蘇州 紀行
﹂﹁ 中央 公論
﹂一 九一 九・ 二~ 三︶
﹃水 滸伝
﹄︵
﹁西 湖の 月﹂
﹁改 造﹂ 一九 一九
・六
︑﹁ 鮫人
﹂﹁ 中央 公 論﹂ 一九 二〇
・一
︑三
~五
︑八
~一
〇︶
﹃西 湖佳 話﹄
︵﹁ 西湖 の月
﹂︶
﹃唐 才子 伝﹄
︵﹁ 鮫人
﹂︶ 李笠 翁の 十種 曲の
﹁蜃 中楼 伝奇
﹂﹁ 比目 魚伝 奇﹂
︵﹁ 西湖 の月
﹂︶
﹃全 唐詩
﹄︵
﹁鮫 人﹂
︶ 楊鉄 崖︑ 高青 丘︑ 王漁 洋の 詩︵
﹁西 湖の 月﹂
︶ 倪雲 林︑ 王摩 詰の 詩︵
﹁鮫 人﹂
︶な ど︒ とこ ろが
︑﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と中 国古 典と の関 連は これ ま であ まり 注目 され てこ なか った
︒実 は︑
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂の
︿美 女が 猿に 見込 まれ て山 奥に 連れ 去ら れた
﹀と いう 主要 な筋 に似 た話 が︑ 中国 古典 に散 見し てい る︒ 中野 美代 子﹃ 孫悟 空の 誕生
︱
サル の民 話学 と﹃ 西遊 記⑦
﹄﹄ によ れば
︑﹁ 美人 を拐 かす サル
﹂の 話は
﹁数 え切 れぬ ほど ある
﹂︒ 最も 古い 例は 漢代 の焦 延寿 の著 とい われ る
﹃易 林﹄ 巻一 で︑ ほか に︑ 晋の 干宝 の著
﹃捜 神記
﹄巻 十二
︑晋 の張 華の 著と され る﹃ 博物 志﹄ 巻九
︑唐 初の
﹁補 江総 白猿 伝﹂
︑唐 の段 成式 の﹃ 酉陽 雑俎
﹄巻 十六
︑明 代の 洪楩 が編 んだ
﹃清 平山 堂話 本﹄ の﹁ 陳巡 検梅 嶺失 妻記
﹂︑
﹃剪 燈新 話﹄ 巻三 の﹁ 申陽 洞記
﹂な ど︑ 枚 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
七九
挙に 暇が ない
︒ その うち
︑最 も影 響力 を持 った のは 唐初 の﹁ 補江 総白 猿伝
﹂で あ り︑ 後の
﹁陳 巡検 梅嶺 失妻 記﹂
﹁申 陽洞 記﹂ も﹁ 補江 総白 猿伝
﹂か ら発 展し た話 であ ると 中野 は位 置づ けた
︒﹁ 補江 総白 猿伝
﹂は 略し て﹁ 白猿 伝﹂ とも いう
︑中 国唐 代志 怪小 説の 一つ であ る︒ 作者 と成 立時 期は 不詳
︒﹃ 新唐 書﹄
︑芸 文志
︑子 類︑ 小説 類に おけ る﹁ 補江 総 白猿 伝一 巻﹂ との 記述 が最 古の 記録 だが
︑具 体的 な作 品内 容は わか らな い⑧
︒現 在︑
﹁白 猿伝
﹂の テキ スト とし て︑
﹃太 平広 記﹄ 巻四 四四
﹁欧 陽紇
﹂の 條︑ 明・ 顧元 慶﹃ 顧氏 文房 小説
﹄︑ 明・ 陶宗 儀﹃ 説郛
﹄
﹁白 猿伝
﹂な どが 流通 して いる ほか
︑清 代に 陳世 熙が 編集 した
﹃唐 代叢 書﹄ にも
﹁白 猿伝
﹂が 見出 せる
︒日 本で は︑ 江戸 時代 に林 羅山 によ って 和訳 され
︑﹁ 欧陽 紇﹂ と題 して
﹃怪 談全 書﹄
︵福 森兵 左衛 門 一六 九八
︶巻 一に 収録 され た︒ また
︑大 正九 年一 二月 に出 版さ れた
﹃国 訳漢 文大 成﹄ 文学 部第 十二 巻や
︑岡 本綺 堂訳
﹃支 那怪 奇小 説集
﹄
︵サ イレ ン社 一九 三五
・一 一︶ にも 収録 され てい る︒
﹁白 猿伝
﹂に 関す るこ れら の記 載は 字句 に若 干異 同が 見ら れる が︑ 主な 話は 共通 して いる⑨
︒
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂で は︑ 作中 人物 と舞 台設 定の いず れも が 日本 化さ れた が︑
︿美 女が 猿に 拐か され た﹀ 点に つい ては
︑右 に挙 げた 話と 共通 して おり
︑さ らに
︑そ の細 部の 描写 から 見て も︑
﹁白
猿伝
﹂と の類 似点 が多 く見 出せ る︒ 二
「白 猿伝
﹂の 梗概 を︑ 左に 掲げ る︒ 梁
︱
の武 帝の 大同 年間
︵五 三五
~五 四五
︶末 頃︑ 将軍 欧陽 紇は 桂林 まで 攻め 入り
︑現 地の 部族 をこ とご とく 平定 して
︑さ らに 険阻 の地 へ分 け入 った
︒将 軍は 美し い妻 を伴 って いた が︑ 土地 の人 から 美人 を攫 う魔 物が いる ので 気を つけ るよ うに と忠 告さ れる
︒将 軍は 兵士 に陣 営を 見張 らせ
︑妻 を密 室に 入れ て下 女た ちに 守ら せた が︑ その 甲斐 もな く妻 は何 者か に攫 われ てし まう
︒将 軍は 軍隊 を留 め︑ 妻を 捜索 した
︒ 一ヶ 月を 過ぎ た頃
︑竹 林の 中で 妻の 履の 片方 が見 つか った
︒さ ら に十 日余 り︑ 陣営 から 二百 里ほ ど離 れた
︑南 に青 山を 望む 谷川 に着 いた
︒絶 壁の 上の 竹林 に紅 い綾 絹が 見え 隠れ し︑ 女た ちの 笑い 声が 聞こ える
︒蔓 につ かま って 登る と︑ 異世 界の よう な美 しい とこ ろに 出た 将 ︒ 軍が 来意 を告 げ︑ 女た ちに 尋ね たと ころ
︑皆
︑白 猿の 精に 攫わ れて きた 者で
︑将 軍の 妻も ここ に居 るこ とが 分か った
︒将 軍は 女た ちの 助力 を得 て白 猿を 退治 し︑ 妻を 救助 した が︑ 白猿 は︑ 将軍 の妻 がす でに 自分 の子 を身 籠も って おり
︑そ の子 は必 ず立 派な 人物 とな
谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八〇
ると いう 遺言 を残 した
︒一 年後
︑欧 陽紇 の妻 は白 猿に よく 似た 男の 子を 生ん だ︒ その 後︑ 将軍 は陳 の武 帝に 殺さ れた が︑ その 子は 将軍 と親 交の あっ た江 総に 養わ れ︑ 成長 して 文学 と書 に長 けた
︑名 の知 れた 人物 とな った
︒
︱
「人 間が 猿に なつ た話
﹂と
﹁白 猿伝
﹂と は︑ 美女 が魔 力を 持つ 猿 に攫 われ ると いう あら すじ が共 通し てい る︒ のみ なら ず︑ 女性 の美 しさ の描 写︑ 猿の 魔力
︑女 性を 探す 過程 に関 する 発想 など も似 てい る︒ まず
︑猿 に攫 われ た女 性の 外見 につ いて
︑両 作品 はい ずれ も女 性 の白 皙と 美し さを 強調 して いる
︒﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ のお 染は
︑
﹁体 つき は少 し小 柄の 方で
︑何 とな くお つと りと した
︑色 の抜 け上 るや うに 白い
﹂子 で︑
﹁浅 草の 十二 階で 百美 人の 肖像 を陳 列し た事 があ つた が﹂
︑そ の中 に入 って いた ほど の美 人と され てい る︒ 同じ く﹁ 白猿 伝﹂ の将 軍の 妻は
︑﹁ 紇妻 繊白
︑甚 美︒
﹂︵ 色白 クシ テカ ホ ヨシ
︶と 表現 され てい る︒ また
︑猿 が持 つ魔 力に つい て︑
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂で は次 の よう に描 かれ てい る︒ 一体 何処 から
︑い つあ んな 者が 船の 中へ 紛れ 込ん だの だら う︑ 船頭 を始 め皆 が其 れを 不思 議が つた が誰 も謎 を解 く事 は出 来な かつ た︒ 船頭 の家 は江 戸川 の近 辺に あつ て︑ 其処 から 今朝 早く
船を 漕ぎ 出し て来 たの だが
︑無 論猿 なん ぞが 忍び 込ん で居 た筈 はな し︑ 万一 忍び 込ん で居 たに して も︑ それ が今 迄見 付か らず に居 よう 道理 がな い︒ 狭く 限ら れた 空間 へ︑ 人間 に気 づか れず 潜入 でき る魔 力を 持つ 猿と 設定 され てい る︒
﹁白 猿伝
﹂に おい ても これ と類 似す る魔 力が 記さ れて いる 紇 ︒ 甚疑 惧︑ 夜勒 兵環 其廬
︑匿 婦密 室中
︑謹 閉甚 固︑ 而以 女奴 十餘 同守 之︒ 爾夕
︑陰 風暗 黒︑ 至五 更︑ 寂然 無聞
︒守 者怠 而仮 寐︑ 忽若 有物 驚悟 者︑ 即已 失妻 矣︒ 関扄 如故
︑莫 知所 出︒
︵紇 キヒ テ疑 シキ ナガ レモ 夜ニ 入テ 兵ヲ ヨビ テ家 ヲト リマ ワシ
︒其 女ヲ 奥深 クカ クシ テ下 女十 餘人 ヲナ ラベ 番ト ス︒ 其夜 事ナ シ︒ 明夜 ニ及 デ風 吹テ 天ク ラク 夜半 スギ テシ ヅマ ル︒ 守者 クダ ビレ テ仮 寐ス
︒忽 物ニ オソ ワル ル如 クニ シテ
︒目 サメ レバ 女既 ニ見 ヘス
︒門 戸ノ 扄ハ モト ノ如 クニ シテ 出ル 所ヲ 知ル コト ナシ
︒︶ さら に︑ 猿に 攫わ れた 女性 を探 す過 程に おい ても 類似 性が 見ら れ る︒
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂に は︑ 次の 一節 があ る︒ 内藤 さん はわ ざ〳 〵下 野へ 出か けて 行つ て︑ 草鞋 穿き で日 光 から 足尾
︑高 原峠 から 塩原 の方 を十 日ば かり 尋ね 回つ たが
︑途 中で 何匹 も猿 に出 遇つ たに も拘 らず
︑お 染の 姿は 遂に 見つ から なか つた さう だ︒ 尤も
︑鬼 怒川 の川 上の 山路 で渓 川の 瀬に 突き 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八一
出て 居る 巖の 上に
︑お 染の 持つ て居 たら しい 珊瑚 の簪 と鼈 甲の 櫛と が落 ちて 居た と云 ふし
︑内 藤さ んは 其れ を東 京へ 持つ て帰 つて 私に 見せ たく らゐ だか ら︑ たし かに あの 邊へ 逃げ 込ん だの には 違ひ なか らう
︒ お染 を探 し奔 走し た内 藤さ んだ が︑ 結局
︑見 つけ るこ とは でき な かっ た︒ しか し︑ お染 の髪 飾り と思 われ る﹁ 珊瑚 の簪
﹂と
﹁鼈 甲の 櫛﹂ を発 見で きた
︒﹁ 白猿 伝﹂ にも 類似 した 展開 が見 られ る︒ 因辞 疾︑ 駐其 軍︑ 日往 四遐
︑即 深凌 険以 索之
︒既 逾月
︑忽 於 百里 之外 叢篠 上︑ 得其 妻繍 履一 隻︒ 雖侵 雨濡
︑猶 可弁 識︒
︵病 アリ ト云 テ軍 兵ヲ トド メ毎 日四 方ヲ 尋嶺 ヲ越 渓ヲ 伝険 ヲ凌 デ是 ヲモ トム
︒月 ヲ経 テ百 里ハ カリ ノ外 ニテ 叢ノ 上ニ テ彼 女ノ 履一 ツヲ 得タ リ︒ 雨露 ニヌ レタ リト イヘ バ︑ 屨ノ 形疑 ナシ
︒︶ 女の 遺留 品を 手掛 かり とす る発 想に おい て︑ ふた つの 作品 は共 通 する
︒し かし
︑﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ では 髪飾 り︑
﹁白 猿伝
﹂で は 片方 の履 と︑ 違い があ る︒
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂の お染 が葭 町の 芸者 と設 定さ れて いる こと から みれ ば︑
﹁履
﹂よ りも
﹁珊 瑚の 簪﹂
﹁鼈 甲の 櫛﹂ がよ りふ さわ しい
︒ その ほか
︑女 が連 れ去 られ た場 所に つい て︑
﹁人 間が 猿に なつ た 話﹂ では 野 ︑ 田さ んが 塩原 の温 泉へ 行つ て︑ 塩の 湯の 奥の 方に ある 瀧を
見物 に行 つた 時に
︑向 うの 山の 上で
︑猿 と一 緒に 遊ん で居 る人 間ら しい 影を 見た こと があ つた さう だ︒
︵略
︶あ れが きつ とお 染だ つた かも 知れ ない と︑ 内藤 さん はよ く私 に話 した もの だ︒ と︑
﹁塩 の湯 の奥 の方 にあ る瀧
﹂の
﹁向 うの 山の 上﹂ とさ れて いる
︒ 千葉 俊二 が指 摘し た⑩
よう に︑ 人間 社会 から 遠く 離れ た﹁ 人外 境﹂ と もい える
︒﹁ 白猿 伝﹂ でも 同様 に︑ 将軍 の妻 が攫 われ た場 所が 次の よう に描 かれ てい る︒ 又旬 餘︑ 遠所 舍約 二百 里︑ 南望 一山
︑蔥 秀迴 出︒ 至其 下︑ 有 深溪 環之
︑乃 編木 以度
︒絶 岩翠 竹之 間︑ 時見 紅彩
︑聞 笑語 音︒
︵深 山ニ ワケ 入ル 十日 餘テ
︒我 家ノ 外ニ 百里 計ト
︒オ ボシ キ所 ニテ
︒南 ニ當 テ一 ノ山 アリ 高ク シゲ レリ 其下 ニ渓 水ア リテ 流廻 ル木 ヲ編 連テ 巖竹 ノ間 ヲ渡 ル時 ニ女 ノ笑 ヒモ ノ云 聲ハ ルカ ニ聞 ユ︒
︶
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂と
﹁白 猿伝
﹂と は︑ 好色 で魔 力を 持つ 猿 が美 女に 取り 憑い たと いう あら すじ にお いて も︑ 女性 の容 貌︑ 猿の 魔力
︑女 性を 探す 過程
︑連 れ去 られ た場 所な どの 設定 にお いて も︑ 共通 して いる こと がわ かっ た︒ 三 それ では
︑谷 崎は どの 本文 で﹁ 白猿 伝﹂ を読 んだ のか
︒﹁ 白猿 伝﹂
谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八二
が収 めら れた 書物 には
︑﹃ 太平 広記
﹄﹃ 顧氏 文房 小説
﹄﹃ 説郛
﹄﹃ 唐代 叢書
﹄な ど︑ ある いは
﹃怪 談全 書﹄ が挙 げら れる
︒谷 崎の 中国 旅行 直前 とい う時 期︑ 書物 を入 手す る際 の難 易度
︑書 物を 携帯 する 際の 便宜 性な どの 面を 考慮 し︑ 各種 刊本 を年 代順 に検 討し てい く︒
﹃太 平広 記﹄ は宋 代に 成立 した 説話 集︒ 漢か ら宋 初ま での 説話
・ 伝奇 など を収 録し た︑ 全五 百巻 から 成る 厖大 な叢 書で ある
︒﹃ 顧氏 文房 小説
﹄は
︑明 代の 顧元 慶に よっ て編 纂さ れた 全五 十八 巻の 叢書
︒
﹃説 郛﹄ は︑ 同じ 明代 に陶 宗儀 によ って 編纂 され た全 百二 十巻 の叢 書で あり
︑そ の内 容に は︑ 諸子 百家 の説
︑筆 記︑ 詩話
︑伝 記︑ 考古 博物
︑地 理風 土な どが 含ま れて いる
︒﹃ 唐代 叢書
﹄は
﹃唐 人説 薈﹄ とも いい
︑唐 代及 びそ の後 の五 代や 宋代 の文 学作 品全 百六 十四 篇を 収録 した もの で︑ 一七 九二 年に 清の 陳世 熙に よっ て編 纂さ れた
︒そ の内 容は
︑志 怪や 伝奇 小説 のみ なら ず︑ 稗史
︑園 芸︑ 地理
︑風 土︑ 宗教
︑詩 歌︑ 散文 など が含 まれ てい る︒ 谷崎 が好 んだ 中国 南方 の水 郷・ 蘇州 の地 理︑ 歴史 伝説 を記 載す る﹁ 呉州 記﹂ や︑ 後に 谷崎 が紀 行文
﹁蘇 州紀 行﹂
︵原 題﹁ 画舫 記﹂
﹁中 央公 論﹂ 一九 一九
・二
~三
︶︑ 小説
﹁西 湖の 月﹂
︵原 題﹁ 青磁 色の 女﹂
﹁改 造﹂ 一九 一九
・六
︶で 著 すこ とに なる
︑﹁ 真嬢
﹂﹁ 柳士 肩﹂ に関 する 詩や 伝説 も収 めら れて い た⑪
︒ま た︑
﹃怪 談全 書﹄ は林 羅山 が﹃ 史書
﹄ほ か中 国の 書物 から 怪 異譚 を集 めて 和訳 した 怪談 集で
︑全 五巻 から 成る
︒日 本語 で記 され
てい るた め読 みや すく
︑谷 崎が これ を読 んだ 可能 性が 高い
︒し かし
︑ 中国 旅行 直前 とい う事 情を 考慮 すれ ば︑
﹃怪 談全 書﹄ より も︑ 中国 を知 るた めの 百科 全書 のよ うな 趣を 持つ
﹃唐 代叢 書﹄ に拠 った と考 える 方が 適切 では なか ろう か︒ 谷崎 が旅 行後 に著 した 小説
﹁鶴 唳﹂
︵﹁ 中央 公論
﹂一 九二 一・ 七︶ と戯 曲﹁ 蘇東 坡﹂
︵﹁ 改造
﹂一 九二
〇・ 八︶ が︑ 和訳
﹃西 湖佳 話﹄ では なく
︑直 接原 典﹃ 西湖 佳話
﹄に 題材 を取 った とい う事 実か ら⑫
︑原 典を 読む こと は谷 崎に とっ て珍 しい こ とで はな かっ た︒ それ に︑
﹃唐 代叢 書﹄ は刊 行年 代が もっ とも 近い うえ に︑ 清代 か ら民 国時 代⑬
にか けて 再版 が繰 り返 され
︑広 く普 及し てい た︒ この 間 の事 情に つい て︑ 魯迅 はエ ッセ イ﹁ 破﹃ 唐人 説薈⑭
﹄﹂ で︑ 次の よう に述 べて いる
︒
﹃唐 人説 薈﹄ は﹃ 唐代 叢書
﹄と もい う︑ 早く から 小木 版の もの があ った が︑ 今は 石印 本も ある
︒そ のた め︑ 脱字
︑誤 字︑ 文の 区切 りが 増加 した
︒︵ 略︶ 小説 であ るた め︑ 以前 の儒 者の 論争 に値 しな いの であ って
︑畢 竟︑ 非難 する 人が いな い︒ 今に 至っ て相 変ら ず印 刷を 繰り 返し
︑楽 しま れる ほど 流行 って いる
︒
︵筆 者訳
︒原 文:
﹃唐 人說 薈﹄ 也稱
﹃唐 代叢 書﹄
︑早 有小 木板
︑ 現在 却有 了石 印本 了︑ 然而 反加 添了 許多 脫落
︑誤 字︑ 破句
︒
︵略
︶只 是因 為是 小說
︑從 前的 儒者 是不 屑辯 的︑ 所以 竟沒 有人 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八三
來抨 擊︑ 到現 在還 是印 了又 印︑ 流行 到﹁ 不亦 樂乎
﹂︒
︶ 具体 的に は︑ 一七 九二 年の 挹秀 軒刊 本︑ 一八
〇六 年の 序刊 本︑ 一 八四 三年 の序 刊本
︑一 八六 九年 の右 文堂 刻本
︑光 緒年 間︵ 一八 七五
~一 九〇 八︶ 刻本
︑一 九一 一年 の上 海掃 葉山 房石 印本
︑一 九一 一年 の上 海天 宝書 局石 印本
︑一 九二 二年 の上 海掃 葉山 房石 印本 など が刊 行さ れて いる
︒ 大庭 修﹃ 江戸 時代 にお ける 唐船 持渡 書の 研究
﹄に よれ ば︑
﹃唐 代 叢書
﹄の 日本 渡来 は︑ 天保 十二 年︵ 二回
︑一 部六 套︑ 一部 二包
︶︑ 嘉永 三年 戌五 月︵ 一部 四本
︶︑ 四年 五月
︵二 部各 六套
︶・ 玄五 月︵ 一 部六 包︶
︑安 政二 年十 一月
︵一 部︶ であ ると いう
︒日 本で 早く から 受容 され た︒ 現在
︑日 本で は︑ 一七 九二 年の 挹秀 軒刊 本を はじ め︑ その 後の 刊本 が流 通し てい る︒ 一八
〇六 年の 刻本
︵三 十六 冊︶ と一 九一 一年
︑一 九一 三年 の上 海掃 葉山 房石 印本
︵十 六冊
︶が 最も 多い
︒ 芥川 龍之 介の 蔵書 中に も﹃ 唐代 叢書
﹄︵ 三十 六冊
︶が 見出 せる⑮
︒海 老井 英次 や村 松定 孝ら によ れば
︑﹁ 黄粱 夢﹂
︵一 九一 七・ 一〇
︶や
﹁杜 子春
﹂︵ 一九 二〇
・七
︶の 典拠 を﹃ 唐代 叢書
﹄に 求め られ ると い う⑯
︒ 日本 での 所蔵 が多 い﹃ 唐代 叢書
﹄は
︑谷 崎に とっ ても 決し て入 手 しに くい 書物 では なか った
︒ま た︑ 友人 芥川 龍之 介と
︿支 那趣 味﹀ を同 じく して いた こと から 推し て︑
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂を 著す
際に 谷崎 が参 考に した 文献 とし て︑ 一八
〇六 年の 刻本
﹃唐 代叢 書﹄ 三六 冊を 挙げ ても 良い と考 えら れる
︒ 谷崎 が少 々異 様な テー マの 作品
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂を 著し た 動機 のひ とつ とし て︑ この 時期 にお ける 芥川 との 頻繁 な交 流を 想定 でき る︒ 小谷 野敦 編﹃ 谷崎 潤一 郎詳 細年 譜﹄
︵小 谷野 敦公 式ウ ェブ サイ ト ht tp :/ /h om ep ag e2 .n if ty .c om /a ko ya no /t an iz ak i. ht ml
︶か ら 抜粋 する
︒ 一九 一七 年
﹁ 月︑
︵略
︶芥 川来 訪︒ 両者 菩提 寺を 同じ くす る︒
﹂︑
﹁ 月
︵略
︶ 日︑ 手紙 で芥 川を 慰め る﹂
︑﹁ 月
︵略
︶28
︑29 日頃 か 月 上旬
︑︵ 略︶ 佐藤 春夫
︑江 口渙
︵略
︶︑ 赤木
︑久 米︑ 芥川 が 谷崎 を訪 れる
︒﹂
︑﹁ 月
︵略
︶27 日︑ 日本 橋の レス トラ ン﹁ 鴻 の巣
﹂で
︑谷 崎が 発起 人の 一人 とな って
︑芥 川﹃ 羅生 門﹄ 出版 記念 会︒
﹂︑
﹁28 日︑ 芥川 を訪 問︑ 遊ん で帰 る︒
﹂﹁ 月
︵略
︶上 旬︑ 佐藤
︑芥 川︑ 江口
︑赤 木ら 訪れ る︒
﹂︑
﹁10 月﹁ 口の 辺の 子 供ら しさ
﹂を
﹃新 潮﹄
︵芥 川龍 之介 氏の 印象
︶に 掲載
︒﹂
﹁30 日︑ 芥川 を訪 れて 遊ぶ
﹂︒ 一九 一八 年
﹁ 月︑ 芥川
﹁良 苦用 心・ 谷崎 潤一 郎氏 の文 章﹂ を﹃ 文章 倶楽 部﹄ に掲 載︒
﹂︑
﹁25 日︑ 芥川
︑鵠 沼︵ 引用 者注
:当 時谷 崎が 泊
谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八四
まっ てい る場 所︶ へ一 泊で 遊び にゆ く﹂ さら に︑ 一九 一八 年に ふた りが 発表 した 小説 には 共通 性が ある
︒ 一九 一八 年七 月に 谷崎 が﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ を発 表す る半 年前
︑ 一月 に芥 川は
﹃聊 斎志 異﹄ に取 材し た⑰
﹁首 が落 ちた 話﹂ を﹁ 新潮
﹂ に発 表︑ 五月 には
﹁大 阪毎 日新 聞﹂
﹁東 京日 日新 聞﹂
︵一
~二 十二 日︶ に﹁ 地獄 変﹂ を連 載し てい た︒ 題名 の末 尾に
﹁話
﹂を 付け るな ど︑
﹁首 が落 ちた 話﹂ と﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ とは
︑同 じス タイ ルを 採っ てい る︒ また
︑︿ 女性 と猿
﹀の 話に 関し ても
︑﹁ 地獄 変﹂ に おけ る︿ 良秀 の娘 と小 猿﹀ の話 と︑
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂に おけ る︿ 美女 が猿 に連 れ去 られ た話
﹀と は︑ その 取り 合わ せが 一致 して いる
︒谷 崎が 芥川 を意 識し てい た可 能性 があ ろう
︒ 四 中国 古典
﹁白 猿伝
﹂を 素材 とし なが らも
︑谷 崎は
︑﹁ 人間 が猿 に なつ た話
﹂の 人物 名︑ 時空 間の 設定
︑語 り方 など につ いて は自 身の 創作 意図 に沿 って 改変 した
︒と りわ け︑ 物語 の特 別な 時空 間の 設定 によ って
︑谷 崎が
﹁生 涯持 ち続 けて いら れた 少年 の情 感⑱
﹂を もう 一 度蘇 らせ たの であ る︒ 作品 の冒 頭で
︑物 語の 時間 につ いて 以下 のよ うに 述べ られ てい る︒ その 時分 はま だわ しも 三十 代の 男ざ かり だつ た︒ さう して 内
のお 鶴と 一緒 に︑ 葭町 へ芸 者屋 を出 して から まだ 間も ない 時分
︑ さう よな あ︑ 事に 依る とま だあ の人 形町 通り が今 のや うに 広く なく つて
︑電 車な んぞ はも ちろ ん通 つて 居な かつ た頃 だつ た︒ 考へ て見 ると あの 近辺 も変 つた もの さ︒ 今ぢ やあ 水天 宮の 向う が土 州橋 まで 突き 抜け て居 るが
︑あ の辺 は随 分ご み〳 〵し た狭 つ苦 しい とこ ろだ つた よ︒
︵略
︶
︱
さう
︑さ う︑ それ から 今 の長 谷川 町近 辺に
︑ち やう ど尾 張町 の服 部の やう な大 時計 があ つた つけ が︑ あれ はつ い此 の頃 まで 残つ て居 たや うぢ やな いか
︒ 親爺 橋の 通り で古 いの は千 束屋 に蓬 莱屋
︑牛 屋の 今清 なん ぞも 新し い方 ぢや ある まい な︒ 芝居 でも 明治 座な んて 物は なく つて
︑ 彼処 には もと 久松 座と 云ふ もの があ つて
︑そ の小 屋が 焼け てか ら今 の明 治座 が出 来た んだ と覚 えて 居る
︒ 右の 引用 から 分か るよ うに
︑物 語が 発生 した 時間 は﹁ 今﹂ より 三 十年 前の 過去 であ り︑ 舞台 は当 時の 葭町 であ る︒ さら に﹁ 明治 座﹂
﹁久 松座
﹂と いっ た実 在の 劇場 名が 記さ れて いる こと から
︑お よそ 一八 七九 年か ら一 八九 三年 まで の時 期と 推測 され る⑲
︒こ の時 期は
︑ 明治 維新 の近 代初 期に 当た り︑ 都市 の近 代化 を象 徴す る﹁ 電車
﹂や
﹁電 燈﹂ が登 場し てく る前 後の
︑新 旧時 代の 過渡 期で もあ り︑ まだ 徳川 とい う前 時代 の風 景が 窺え る︒ とり わけ
︑葭 町は 江戸 時代 から 引き 続く 遊興 の地 であ り︑ 都市 の近 代化 の過 程で 取り 残さ れた 町の 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八五
たた ずま いや 人々 のな りわ いに
︑な お江 戸の 名残 が色 濃く 残っ てい た︒ 馬場 孤蝶 は﹃ 明治 の東 京⑳
﹄で
︑明 治二
〇年 代末 期の 吉原 には
︑ 昔な がら に鼈 甲の 簪を 挿し た娼 妓を 擁す る店 が幾 軒も あっ た︒ また
︑ 明治 二五 年頃
︑銀 座な どの 繁華 街に は既 に電 灯や 軒灯 が設 置さ れて いた にも かか わら ず︑
﹁芸 者屋
﹂で は格 子戸 の内 に大 きな 提灯 が下 がっ てお り︑ 室内 では 行燈 が用 いら れる とい う状 態が つづ いて いた と記 して いる
︒ この 花街 の特 別な 空間 につ いて
︑吉 見俊 哉は 次の よう に述 べて い る︒ 吉原 や新 猿楽 町の よう な︑ 日常 の身 分制 的規 範と は異 なる
﹁遊 び﹂ や﹁ 芸能
﹂が 展開 され る空 間は
︑塀 と木 戸に よっ て他 の領 域よ り一 層慎 重に 囲い 込ま れて いた ので ある
︒徳 川期 の都 市に おけ る廓 や芝 居町 など がも つエ ネル ギー は︑ それ らの 地域 がこ のよ うな
﹁統 制さ れた 都市
﹂の 内部 にお ける 制度 的に 開放 され た空 間と して 存在 した とい う︑ 都市 空間 全体 のな かで のこ れら の地 区の 位置 によ って 理解 され なく ては なら ない㉑
︒ 明治 維新 以後
︑都 市区 分の 変革 や道 路の 改正 など は︑ 東京 に大 き な変 化を もた らし たが
︑遊 びの 場と して の﹁ 芸者 屋﹂ は一 つの 非日 常的 な空 間と され
︑そ こに まだ 幾分 前時 代の 面影 が窺 える
︒明 治一 九年
︑日 本橋 区蠣 殻町 で生 まれ た谷 崎は
︑幼 少時 代に 見た 東京 の町
風景 と再 会す るた めに は︑ 遠い 昔に 記憶 を遡 らせ るか
︑あ るい は︑ 文明 開化 から 取り 残さ れた 下町 の花 柳界
︑遊 興地 とい った 特殊 な空 間に 探し 求め るか する しか ない
︒﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ にお いて
︑ 谷崎 は留 吉爺 さん の回 想を 借り て︑ 記憶 の中 にあ る昔 の東 京と の再 会を 図っ た︒ おわ りに 本稿 では
︑谷 崎が 中国 旅行 を前 にし て著 した 小説
﹁人 間が 猿に な つた 話﹂ と︑ 中国 志怪 小説
﹁白 猿伝
﹂と の類 似性 を論 じた
︒谷 崎が 一八
〇六 年の 刻本
﹃唐 代叢 書﹄ に収 めら れた
﹁白 猿伝
﹂を 読ん で
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂を 創作 した 可能 性は 極め て高 い︒ また 同じ 一九 一八 年に
︑友 人芥 川龍 之介 が志 怪小 説﹃ 聊斎 志異
﹄に 取材 して 題名 に共 通性 があ る﹁ 首が 落ち た話
﹂を 発表 した こと や︑
︿女 性と 猿﹀ の話 を含 む﹁ 地獄 変﹂ が発 表さ れた こと から
︑刺 激を 受け た可 能性 もあ る︒ 結末 につ いて
︑﹁ 白猿 伝﹂ では
︑救 われ た将 軍の 妻が 猿の 子を 産 み︑ しか もそ の子 が後 世に 名が 知ら れる 人物 とな った とい うハ ッピ ーエ ンド で結 ばれ てい るの に対 し︑
﹁人 間が 猿に なつ た話
﹂で は︑ お染 が猿 の執 念と 祟り から 逃れ られ ず︑ つい には 猿が 住む 山奥 に入 って しま い︑ 救い 出さ れる こと はな かっ た︒ 本稿 では 未だ 両作 品の
谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八六
関連 を明 確に 裏付 ける こと はで きな かっ たが
︑﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ の周 辺を 調査 する こと によ って
︑典 拠探 索の 手掛 かり を提 出し たつ もり であ る︒ 今後 の研 究に おい て︑ さら なる 充実 を図 りた い︒ 注
① 円地 文子
﹁若 き日 に愛 読し た作 品﹂
︵﹁ 谷崎 潤一 郎全 集 月報
﹂ 中 央公 論社
一九 六七
・三
︶
② 千葉 俊二
﹁感 覚の 錯乱
﹂﹃ 潤一 郎ラ ビリ ンス
Ⅶ怪 奇幻 想倶 楽部
﹄﹁ 解 説﹂
︵中 央公 論社
一九 九八
・一 一︶
③ ウオ ララ ック
・ク ラウ プロ トッ ク﹁
﹃人 間が 猿に なつ た話
﹄試 論﹂
︵﹃ 続・ 谷崎 潤一 郎作 品の 諸相
﹄専 修大 学文 学研 究科 畑研 究室
二〇
〇 三・ 一二
︶
④ 秦恒 平﹁ 谷崎 潤一 郎の 大正 時代
﹂︵
﹁国 文学
解釈 と教 材の 研究
﹂第 三 十巻 第九 号 一九 八五
・八
︶に よる
︒
⑤ 西原 大輔
﹃谷 崎潤 一郎 とオ リエ ンタ リズ ム﹄
︵中 央公 論新 社 二〇
〇 三・ 七︶
⑥ 原田 親貞
﹁谷 崎潤 一郎 と中 国文 学︵ 一︶
﹂︵
﹁学 苑﹂ 第三 四八 号 一九 六八
・一 二︶ を部 分参 照︒
⑦ 中野 美代 子﹃ 孫悟 空の 誕生 サ
︱
ルの 民話 学と
﹃西 遊記
﹄﹄
︵玉 川大 学 出版 部 一九 八〇
・一 二︶
⑧ 西川 幸宏
﹁サ ルの 異類 婚姻 譚と
﹃白 猿伝
﹄﹂
︵﹁ 追手 門大 学・ アジ ア科 学年 報﹂ 第一 号 二〇
〇七
・一 一︶ によ る︒
⑨
﹃顧 氏文 房小 説﹄
﹁白 猿伝
﹂の 冒頭 に︑
﹁歐 陽詢 面似 猴長 孫無 忌嘲 之曰 誰於 麟閣 上畫 此一 獼猴 同時 因戲 作此 伝託 江總 之名 非実 録成
﹂と の一 文が あり
︑此 の話 の由 来を 示す 場合 があ る︒
⑩ 注② に同 じ︒
⑪
「呉 州記
﹂︑ 真嬢
︑柳 士肩 に関 する 記述 はそ れぞ れ﹃ 唐代 叢書
﹄の 第五
︑ 六︑ 八集 に見 られ る︒
⑫ 拙論
﹁谷 崎潤 一郎
﹃鶴 唳﹄ にお ける 漢籍 要素
﹂︵
﹁同 志社 国文 学﹂ 第七 十九 号 二〇 一三
・一 二︶ によ る︒
⑬ 一般 に辛 亥革 命に より 清朝 が打 ち倒 され た一 九一 二年 中華 民国 政府 成 立か ら一 九四 九年 中華 人民 共和 国成 立ま での 時期 と指 す︒
⑭ 初出
﹃辰 報副 刊﹄
︵一 九二 二・ 一〇
・三
︶︒ 引用 は﹃ 集外 集拾 遺補 編﹄
︵人 民文 学出 版社
一九 七三
︶に よる
︒
⑮ 張蕾
﹃芥 川龍 之介 と中 国
︱
受容 と変 容の 軌跡
﹄︵ 国書 刊行 会 二〇
〇七
・四
︶に よる
︒
⑯ 海老 井英 次は
︑﹁ 芥川 龍之 介文 学典 拠一 覧﹂
︵﹁ 国文 学 解釈 と教 材の 研究
﹂第 三十 七巻 第二 号 一九 九二
・二
︶で は︑ 芥川 龍之 介の 小説
﹁黄 粱夢
﹂が
﹁枕 中記
﹂か ら︑
﹁杜 子春
﹂が
﹁杜 子春 伝﹂ から その 材を 取っ たと 考察 した
︒ま た︑
﹁杜 子春
﹂の 典拠 につ いて
︑村 松定 孝は
︑﹁ 唐代 小 説﹃ 杜子 春伝
﹄と 芥川 の童 話﹁ 杜子 春﹂ の発 想の 相違 点﹂
︵﹁ 比較 文学
﹂ 第八 巻 一九 六五
・一 二︶ にお いて
︑﹁ 原典 は﹃ 唐代 叢書
﹄︑ 類似 の話 は
﹃大 唐西 域記
﹄﹃ 酉陽 雑俎
﹄に 見え
︑こ れら の書 籍は
︑既 に江 戸期 に木 版 本が 複刻 され てい るか ら︑ そう いう もの を桂 湖邨 の﹃ 漢籍 解題
﹄﹂
︵明 三 八︶ を参 照し つつ 漢文 に堪 能な 彼が 読む 機会 を持 ち得 たで あろ うこ とは 容易 に想 像さ れる
︒﹂ と指 摘し た︒ 張蕾 も︑ その 著書
﹃芥 川龍 之介 と中 国
︱
受容 と変 容の 軌跡
﹄︵ 国書 刊行 会 二〇
〇七
・四
︶で は︑ 芥川 龍 之介 が一 九二
〇年 に書 いた 小説
﹁杜 子春
﹂が 彼所 蔵の 漢籍
﹃唐 代叢 書﹄ 及び
﹃太 平広 記﹄ から 材を 取っ て創 作し たと 推測 した
︒
⑰ 芥川 龍之 介﹁ 文芸 雑話
饒舌
﹂︵
﹁新 小説
﹂第 二十 三年 第五 号 一九 一 八・ 五︶ によ る︒ 谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八七
⑱ 注① に同 じ︒
⑲
﹃東 京都 の地 名 日本 歴史 地名 大系
十三
﹄︵ 平凡 社 二〇
〇二
・七
︶ によ れば
︑明 治座 の前 身で ある 芝居 小屋 は︑ 明治 初期 に富 田三 兄弟 によ り開 かれ た︒ その 後︑ 一八 七三 年に 久松 町に 移転
︑喜 昇座 とし て改 めて 開場 した
︒一 八七 九年 に久 松座 と改 称さ れ︑ さら に一 八八 五年 に千 歳座 に︑ 一八 九三 年に 左団 次に より 明治 座と 命名 され た︒
⑳ 馬場 孤蝶
﹃明 治の 東京
﹄︵ 中央 公論 社 一九 四二
・五
︶
㉑ 吉見 俊哉
﹃都 市の 空間
・都 市の 身体
﹄︵ 勁草 書房
一九 九六
・五
︶
︹付 記︺ 本稿 で引 用し た谷 崎潤 一郎 の文 章は
︑﹃ 谷崎 潤一 郎全 集﹄ 全三 十 巻︵ 一九 八一
・五
~一 九八 三・ 一一
中央 公論 社︶ を底 本と する
︒ 引用 に際 し︑ ルビ を簡 略化 し︑ 原則 とし て旧 漢字 は新 漢字 に改 め た︒ また
︑﹁ 白猿 伝﹂ の引 用は 一八
〇六 年の 刻本
﹃唐 代叢 書﹄ に拠 る︒ その 訳文 は林 羅山
﹃怪 談全 書﹄ 巻一
﹁欧 陽紇
﹂︵ 福森 兵左 衛門 一六 九八
︶に 拠っ た︒ 傍線 は筆 者に よる もの であ る︒
谷崎 潤一 郎﹁ 人間 が猿 にな つた 話﹂ と﹁ 白猿 伝﹂ の関 連性 につ いて の一 考察
八八