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大江宏の建築観の変遷に関する研究

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(1)

大江宏の建築観の変遷に関する研究

著者 石井 翔大

著者別名 ISHII Shota

その他のタイトル A study of the transition of Hiroshi Ohe s architectural view

ページ 1‑241

発行年 2018‑03‑24

学位授与番号 32675甲第430号 学位授与年月日 2018‑03‑24

学位名 博士(工学)

学位授与機関 法政大学 (Hosei University)

URL http://doi.org/10.15002/00014628

(2)

大江宏の建築観の変遷に関する研究

石井翔大

(3)

第 1 章 序論

  1-1 本論の目的と意義

  1-2 先行研究と本論の位置付け   1-3 研究の方法

  1-4 論文の構成

第 2 章  「混在併存」を基軸とする大江宏の建築観の変遷

  2-1 本章の目的と概要

  2-2 「混在併存」の概要、既往研究、既往解釈    2-2-1 概要

   2-2-2 既往解釈

  2-3 「混在併存」に至る過程:1952-1966    2-3-1 「古典の創造的昇華」:1956.1

   2-3-2 「建築とカメラマン」(梅若能楽学院):1961.1    2-3-3 「建築の本質」:1962.1

   2-3-4 「"Casa de Mexico"―歴史的ビジョンについて」:1964.1    2-3-5 「現代建築のこと、伝統のこと」:1966.2

  2-4 「混在併存」具現化への模索:1966-1973    2-4-1 「混在併存ー香川県文化会館」:1966.7    2-4-2 「乃木会館の構想について」:1968.2

  2-5 「混在併存」からの脱却と「整合性」の追求:1973-1985    2-5-1 「混在併存」からの脱却:1973.6-

   2-5-2 角館町伝承館:1979.1

   2-5-3 「整合性」の追求(国立能楽堂):1980.11-

  2-6 「整合性」から「渾沌」、「恣意的必然性」へ:1985-1989    2-6-1 「佇まいの建築」(宇佐神宮宝物館・参集殿):1985.11    2-6-2 「整合性」から「渾沌」へ(大塚文庫):1987.12    2-6-3 「恣意的必然性」:1988.7

  2-7 小結

p.1 p.2 p.4 p.8 p.9

p.15 p.16 p.17

p.19

p.23

p.29

p.34

p.39

(4)

第 3 章 大江宏の自己形成過程―生誕から法政大学就職まで

  3-1 本章の目的と概要   3-2 生誕から大学入学まで   3-3 大学入学から卒業まで   3-4 卒業論文「建築平面」

  3-5 卒業設計「工作文化研究所」

   3-5-1 概要

   3-5-2 後の大江建築を示唆する形態的特徴     (1) アシンメトリーによる平面構成     (2) 回廊と中庭による統合の手法     (3) 多様な柱の併存

    (4) 繊細な部材による立面構成

  3-6 岸田日出刀著『過去の構成』からの影響   3-7 大学卒業から法大就職まで

  3-8 少結

第 4 章 戦前の大江宏の建築観―神武天皇聖蹟顕彰碑・国史館・迎賓館の分析

  4-1 本章の目的と概要

  4-2 紀元二千六百年奉祝記念事業の概要   4-3 神武天皇聖蹟の調査

  4-4 「神武天皇聖蹟顕彰碑」の設計過程    4-4-1 実現した顕彰碑の概要

   4-4-2 大江建築アトリエ所蔵資料の分析    4-4-3 少結

  4-5 「国史館」造営計画    4-5-1 計画の経緯

   4-5-2 6 つの「国史館」計画案に書かれた意匠に関する文言    4-5-3 「國史館建築設計図案懸賞競技規程案」の内容    4-5-4 大江自筆スケッチの分析

     (1)第一段階:鳳凰堂型      (2)第二段階:日の字型      (3)第三段階:本館分棟型 1

p.53 p.54 p.55 p.59 p.62 p.65

p.72 p.76 p.77

p.81 p.82 p.83 p.84 p.86

p.93

(5)

     (4)第四段階:本館分棟型 2   4-6 三菱地所「迎賓館」

  4-7 少結

第 5 章 プレロマン建築を描いた自筆スケッチから読む大江の建築観

  5-1 本章の目的と概要

  5-2 第一回海外旅行:1954.3-9    5-2-1 概要

   5-2-2 アメリカ:フィリップ・ジョンソンとの出会い

   5-2-3 ブラジル:堀口捨己設計「サンパウロ日本館」の現場管理    5-2-4 北欧から南欧への旅程で実見した建築の多様性

   5-2-5 ル・コルビュジエ設計ロンシャンの礼拝堂に対する大江の評価   5-3 第二回海外旅行:1965.9-12

  5-4 大江自筆プレロマン建築スケッチ「S.Salvador de Valdedios」の分析   5-5 少結

第 6 章  「法政大学市ヶ谷キャンパス計画」の設計過程

  6-1 はじめに

  6-2 実現した法大計画    6-2-1 計画の経緯

   6-2-2 各校舎の概要と大江の言説      (1) 53 年館

     (2) 55 年館

     (3) 58 年館・第Ⅱ 58 年館

   6-2-3 「モニュメンタリティー」を表現した 58 年館「学生ホール」

   6-2-4 「法大計画」に対する大内兵衛の影響    6-2-5 62 年館に計画された学生ホール    6-2-6 小結

  6-3 「法政大学市ヶ谷キャンパス計画」の変遷

   6-3-1 第一期 : 幾何学形態のヴォリューム群と軸線      (1) 全体計画

     (2) 55 年館(第一期案)の平面形態

p.107 p.109

p.119 p.120 p.121

p.138 p.143 p.150

p.155 p.156 p.158

p.169

(6)

   6-3-2 第二期:バタフライによる軸線の強化      (1) 全体計画

     (2) 55 年館・58 年館(バタフライ案)の平面形態      (3) バタフライを崩す断面形態

   6-3-3 第三期:軸線の解体、混在併存へ

     (1) 大江宏自筆「法大計画」パース(1956 年 3 月)

     (2) 法政大学校舎第 2 期許可申請(1956 年 7 月)

     (3) 法政大学 58 年館計画設計図(1956 年 7 月)

  6-4 少結

第 7 章 結論

参考文献 発表論文目録 付録

謝辞

p.181

p.189

p.195 p.209 p.211 p.241

(7)
(8)
(9)

1-1 本論の目的

 本論は、建築家・大江宏(1913-1989)の建築観に着目し、大江の作品と言説のうちに、日本近代建 築史における近代主義受容の潮流の一端を見出すことを目的としている。

 大江は、近代主義建築が忌避した伝統様式や装飾の再評価を伴った〈混在併存〉の原理を標榜し、

独自の設計活動を展開した建築家である。社寺建築の大家、大江新太郎 (1876-1935) を父に持ち、幼 少期から茶道や能楽等日本の伝統文化に親しむ一方、1935 年に東京帝国大学工学部建築学科へ入学後 は CIAM の建築理念に傾倒し、近代主義建築への理解を深めた。大江によれば、自身の内にある二つの 側面、即ち伝統に根差した体質と近代主義建築への信奉とは長く分裂した状態にあったが、1954 年の 海外旅行を契機として、近代主義建築に対し徐々に疑念を抱き始めるとともに、両者の分裂の解消を 模索し始めたという注 1)。1966 年に打ち出された〈混在併存〉の原理は、その模索の中で見出した結論 であったと大江は述べている注 2)

 大江は、大学時代の同級である丹下健三(1913-2005)が中心となった伝統論争や民衆論、また 1970 年代から 80 年代にかけて、その本質的意義から離れ表層的・商業的流行に堕したポスト・モダニズム、

あるいは 1930 年代以降現代まで続く日光東照宮蔑視&桂離宮礼賛など、建築界の主流に対し常に批判 的立場をとる建築家であった。それ故に、1960 年代以降の作品で顕著となる多様な作風も相まって、

大江の建築観はこれまで不明瞭、且つ建築界の傍流として、等閑視されてきた節がある。しかし、大 江が自身の言説と建築の表現に込めていたのは、短絡的な捨象に依拠した一元論に対する批判精神で あり、その姿勢は終生一貫していた。この点において、大江は日本近代建築史上、注目すべき役割を 果たした存在であったと考えられる。

 1920 年代に先鋭化した近代主義建築に関わる運動が、国際性や純粋性を主張しながらも、その実態 は多分に矛盾を抱え多様性をもっていたことは、今日よく指摘されるところである。西欧の後を追う 立場であった日本においても、既に 1930 年代の時点で、様々な模索が始められていた。堀口捨己の岡 田邸(1933)や吉田五十八の杵屋別邸(1936)、坂倉準三のパリ万博日本館(1937)や前川國男の自邸(1942)

などは、日本の地域性を加味した新たな近代主義建築の試みであったといえる。大江もまた、卒業設 計(1938)や国史館のスケッチ(1940)など、紙上で当時の潮流を敏感に捉えた思索を開始していたが、

時局の影響により、いくつかの住宅を除き、大規模な実作を手がけるには至らなかった。

 第二次世界大戦を経過し、戦後復興の機運が高まり始めた 1950 年代は、日本の近代主義建築が成熟 してゆく時期であった。大江もまた、1951 年から 1958 年までの約 7 年間、事実上の処女作である「法 政大学市ヶ谷キャンパス計画」( 以下「法大計画」と呼称 ) の設計に携わっている。「法大計画」を構 成する建築群のうちの一つ、法政大学 58 年館(1958)は、大江が一元的な合理主義、機能主義によら ない建築設計を試みた最初の実作であり、日本における近代主義建築の新たな展開を示した点で重要 な建築であると考えられる。

(10)

 「法大計画」を皮切りとして、大江は単一の価値尺度に収束しない、豊かな矛盾を内包した多元的建 築設計の模索を開始してゆく。60 年代の作品から頻繁に現れ始める木と RC の併用、70 年代以降の作 品で顕著となる様式や装飾の復権の試みなどは、「法大計画」の学生ホールと同じく、建築を利用する 人々の心理を重視した結果であり、大江が目指す多元的建築設計の実践であった。以降、〈混在併存〉

を基軸としながらも晩年まで変化し続けた大江の建築観は、多様性を認める価値観の重要性が増す現 代において、再考に値するものと考える。大江の再評価はまた、丹下を主軸とする戦後日本近代建築 史の主流を相対化する視座を獲得し得るものと考えられる。

(11)

1-2 既往研究と本論の位置付け

 前節で述べたように、大江宏は日本近代建築史を考える上で重要な存在と考えられるが、これまで 大江の言説や作品に関するまとまった研究はなされておらず、その全貌はいまだ充分に把握されてい ない状況にある。本節では、まず建築家、建築史家、建築評論家らによってなされた大江の評価を概観し、

次に近年成果が発表され始めた大江を研究対象とする先行研究を取り挙げ、どのような考察がなされ ているかを検討する。以上を踏まえた上で本論の位置付けをおこなう。

建築家、建築史家、建築評論家らによってなされた大江の評価 磯崎新

 磯崎は「技芸の伝承―大江宏論」注 3)において、大江が時代の流れに伴走しながら「必ずしも明確な 方法をみずから提示しなかった」ようにみえるとし、その理由は「より根源的な問題を最初から背負 い込んでいたというべき」だと述べる。その問題とは「近代主義と民族主義の調停というプロブレマ ティックそのもの」であり、父親である大江新太郎が「古来の形式をそっくり踏襲しながら、実用的 な新しさを加えることをやっていた」のに対して、大江宏は「まったく新しい位相に廻りこんで到達 していた」と述べる。また大江の建築について、「近代主義の時代においても、脱 ポ ス ト ・ モ ダ ン

近代主義の時代にお いても大江宏の仕事が反時代的にみえる」と指摘している。

神代雄一郎

 「や、花の香の聞こえ候」注 4)の中で、神代は、大江の建築観には、立原道造(1914-1939)や丹下健三といっ た大学時代の学友達の影響があるとし、一方で大江は「立原さんのロマンティシズムでも丹下さんの モダニズムでもなく、独自の自己形成を果した」と述べる。「国立能楽堂」のデザインは「文化の「基本」

に還えることで現代の「国立」なり「国家」なりに答えようとしている大江宏をみる」とし、「この建 築はナショナリズムとは無縁だと考えている」と述べている。

 大江への追悼文「花は残るべし―大江宏論補遺」注 5)では、大江を「一元的に、公家的・貴族的とき めつけたり、その作品を貴族的芸術とみるのは大きな誤り」だと指摘する。その理由として、「大江宏 に四分の一、父大江新太郎に二分の一は流れ混じっている賀茂の血」があるとし、晩年の大江は「自 身の血が受けついだ公家的なものよりも里修験的なものを、次第に強く意識されたように思う」と述 べている。

川添登

 川添は『建築家・人と作品 下』注 6)の中で、大江の作風が「穏当なもので特異なものではない」と する一方、「だれかの真似をしたものでもなく、また、伝統や有名建築から刺激をうけて造られたもの でもない」点においてオリジナリティをもつと指摘する。また丹下の建築と比較し、丹下のプロポーショ ンが横長であるのに対して大江は縦長であり、丹下の強引さに対して大江の「日本の現状に順応する

(12)

良識ある態度もまた貴重」と評価し、大江を「日本建築界の良心のひとつ」であり「調停者」である と述べている。

長谷川堯

 論考「後始末となぞり

4 4 4

―茨城県公館をみて考えたこと」注 7)で、長谷川は、大江の仕事が「丹下氏と 浜口氏というふたりの個性的な同級生のそれぞれの分野における後始末いわゆるしりぬぐい

4 4 4 4 4

として進 められてきたのではないか」と述べ、大江の位置付けを同級生との関係性の中でおこなっている。ま た大江の建築を「丹下に代表されるような“創造”神話へのひそかな批判」として捉え、「混在併存」

の原理をもって「歴史の重さの中でずっと醒め続けてきた」大江が見せる 「歴史をなぞる

4 4 4 4 4 4

ことの臆面 もなさに、昭和の建築家たちの多くが持ち得なかった、強靭な創造力が備蓄されているといえる」と 指摘している。

陣内秀信

 陣内は追悼文「地中海建築との出会いの意味」注 8)において、大江の地中海への対し方が「そのすべ てに関心を示すのではなく、自分自身の感覚というフィルターに従って、取捨選択されている」と述 べ、「どこか日本の建築と通底するものに魅せられている」と指摘している。また大江が度々口にする

「プレロマン」について、「ネーミング自体、耳慣れないもの」としたうえで、「それはだが、実態を表 わすというより、思索の過程での概念操作の産物であり、歴史家の実証的志向からは生み出しえない、

モノつくりの直感からくるイメージの世界だといえよう」と指摘している。大江のロマン主義的とも いえる建築観の重要性を指摘する陣内の論考には、本論も貴重な示唆を得ている。

藤森照信

 藤森は大江の法大退任紀念シンポジウム「歴史と創造」注 9)において、大江が堀口捨己のなした仕事 に対する「迂回作戦」として、「非数寄屋的なものとしての日本の伝統を現代建築で蘇らせるという試み」

を戦後初めて行っている点で評価している。一方、その試みは大江の「持って生れた繊細さと精神性 とが溶けあう体質との間で、ある種の乖離を起してきている」と指摘し、大江の「国立能楽堂」は「大 いなる未完成」であると述べている。

鈴木博之

 鈴木は、「現代日本の建築」と題された論考の中で大江宏と丹下健三を取り上げ、「この両者の軌跡 の間に、現代の日本建築の流れはすっぽりと収まってしまうと言ってもよい」と高い評価をお終えに 与えている。以下に、該当箇所を引用する。

 戦後の日本建築の出発を画する作品を考えるならば、極めて象徴的な 2 作品を挙げることがで きよう。そのひとつは丹下健三の設計による広島平和会館であり、他のひとつは大江宏設計の法 政大学校舎である。このふたつの作品は、ともに 1955 年に造られた。(中略)ここで興味深いのは、

(13)

広島平和会館を設計した丹下健三と、法政大学校舎を設計した大江宏は、ともに 1938 年に東京大 学を卒業した同級生であったという事実である。丹下と大江というふたつの個性は、戦前に建築 教育を終え、1955 年に両者そろって本格的なデヴューをし、その後も極めて興味ある軌跡を歩み つづけてゆく。現代の日本建築を考えるときには、このふたりの建築家の作品の変化を対象的な 指標として考えることが役に立つであろう。丹下健三はその後の日本建築を担う主要な作品をつ ぎつぎに生み出してゆき、現代建築の基本的潮流を形成してゆくのに対して、大江宏はその後静 かに、しかしながら着実に旋回を遂げ、伝統的な文化と現代文明とを同時に表現すべき建築を模 索してゆくことになるからである。この両者の軌跡の間に、現代の日本建築の流れはすっぽりと 収まってしまうと言ってもよいのである。注 10)

 鈴木はまた、藤森と同様シンポジウム「歴史と創造」において、大江の作品を 4 つの系譜に分類し ている。一つ目は「戦前の日本建築の系譜」であり、「大江新太郎以来の流れ」にあるもの、二つ目は

「国際建築の系譜」、三つ目が「地中海の世界、或いはプレ・ロマンの建築」の系譜、そして四つ目が 角館伝承館以降の「総合的なスタイル」である。その上で、「大江先生の場合の、ある種の複合性と重 層性というものは、文明開化の道具としての建築という、日本の建築によく見られるパターンに対して、

主体的に自分の方法を見付けていこうと思うときに、必然的に出てくる一つのパターンを示している のではないか」と指摘している。

石山修武

 石山は、同じくシンポジウム「歴史と創造」において、「大江宏の建築的な方法というものはいつも

「これはいいな」、「これはおもしろいな」というふうにいろいろな様式を自分の中に取り寄せて、錯綜 させていくだけではなくて、本能的に何かお嫌いになって拒絶しているものがあるんじゃないか」と 指摘し、大江が嫌ったものとは即ち「単純な合理主義」、「単純明快に一つの目的に向って突き進んで ゆく考え方の筋道」ではないかと考察している。

既往研究

 大江宏に関する既往研究として、大江や同時代の論者の言説を分析対象とした崔康勲の研究注 11)、「う ち」など大江が用いる概念の意味を分析した秦明日香の研究注 12)、また大江と立原道造の関係性を、文 献と図面資料より明らかとした種田元晴による研究注 13)が挙げられる。

 崔は 1950 年代の大江の言説に注目し、法大計画の 53 年館における「近代」の意味、また 58 年館の 設計変更に込められた大江の意図について考察しており、本論も崔の論考に多くを負っている。一方で、

法大計画の具体的な設計経緯や、その形態的特徴に関しては論じられていない。秦は、「うち」や「間」

といった、大江の設計手法に関する概念の意味について、大江の著作に収録された言説を主な研究対

(14)

象として分析している。特に大江の「うち」の概念について、和辻哲郎の『風土』からの影響を指摘 している。種田は、文献資料より、立原道造の卒業設計の敷地が大江の所有する追分の地であること に着目し、後年大江が設計した「追分の山荘」の意匠が、立原の卒業設計から影響を受けた可能性が あることを指摘しており、これまで着目されていなかった大江と立原の関係性を明らかとしている点 で、本論文にとっても示唆に富む研究である。

 以上の先行研究は、大江の断片的な年代の言説、或いは作品を対象として論じており、大江宏を総 体的に記述しようとする研究は見当たらない。対して本論では、著作未収録の文献も含め網羅的に蒐 集した大江の全活動期間における言説を研究資料とし、「混在併存」を基軸とした大江の建築観の変遷 を分析する点に、新規性を有すると考えられる。また本論は分析対象として、大江宏事務所の図面や 大江自筆スケッチなど、これまで未発表であった一次資料を蒐集しており、大江宏研究における新た な知見を得ることが可能であると考えられる。

(15)

1-3 研究の方法

 本論は、これまで未発表かつ未整理であった大江宏関連の一次資料を新たに蒐集・整理し、検証を おこなうことで、大江の建築観の変遷を明らかとする。本論で蒐集した一次資料は、大江事務所作成 による各作品の原図、大江自筆のスケッチや書類、大江が撮影した写真等である。これら一次資料の 所蔵元は、大江建築アトリエ(大江新 法政大学名誉教授主宰、旧:大江宏建築事務所)、大江武氏(大 江宏の次男)、東京大学工学部建築学科、三菱地所、法政大学施設部である。これら未発表資料に加え、

本論では既発表の大江の言説資料を網羅的に蒐集、検証することで、未発表資料の分析の裏付けと補 完をおこなっている(巻末参考文献一覧を参照)。本論で蒐集した一次資料一覧を、表 1-1 に示す(各 資料の詳細は巻末附録を参照)。

表 1-1 蒐集した一次資料一覧(計 2315 点)

竣工年 /

作成年 作品名 通し番号 点数

1937 卒業論文「建築平面」 SR-001 1

1938 卒業設計「工作文化研究所」 SS-001 〜 023 23

1940 国史館 KK-001 〜 105 105

1940 文部省時代の書類 MS-001 〜 049 49

1939-1940 神武天皇聖蹟顕彰碑 JK-1-001 〜 JK-4-022 38

1941 三菱製鋼迎賓館 MG-001 〜 010 10

1953 法政大学 53 年館 HU-13-001 〜 HU-13-064 64 1954 第一回海外旅行写真 T1-A-001 〜 T1-G-029 179 1955 法政大学 55 年館 HU-15-001 〜 HU-25-195 205 1958 法政大学 58 年館 HU-38-001 〜 HU-38-308 308 1958 法政大学第Ⅱ 58 年館 HU-39-001 〜 HU-39-134 134

1960 丸亀高等学校 MK-001 〜 030 30

1961 梅若能楽学院 UN-001 〜 021 21

1962 博士論文 DT-001 〜 003 3

1962 法政大学 62 年館 HU-62-001 〜 012 12 1965 第二回海外旅行写真 T2-08250826-E-001 〜

T2-O-027

653

1968 マリアンハウス MH-001 〜 010 10

1968 普連土学園 FG-001 〜 055 55

1968 平櫛田中邸 HD-001 〜 012 12

1969 最高裁判所コンペ案 SB-001 〜 014 14

1972 東京讃岐会館 SK-001 〜 011 11

1973 丸亀武道館 MB-001 〜 053 53

1970 年代 世界地図 WM-001 1

1978 角館町伝承館 KD-001 〜 047 47

1978 伊勢神宮内宮神楽殿 IK-001 〜 107 107 1983 国立能楽堂 KN-M-001 〜 KN-O-021 172

総計 2315

(16)

1-4 論文の構成

 本論は全 7 章から構成されている。

 第 1 章「序論」では、本論の目的と意義、先行研究の概要と本論の位置付け、また研究の方法と本 論の構成について述べている。

 第 2 章「「混在併存」を基軸とする大江宏の建築観の変遷」では、大江の既発表の言説を網羅的に蒐集・

検証し、戦後の大江の建築観の変遷を分析している。主に「混在併存」に着目し、同語に関連する大 江の言説を通時的に検証した結果、戦後の大江の建築観の変遷が4段階に分類できることを指摘して いる。第1段階は 1954 年以降の約十年間であり、大江が近代主義建築の理念に疑念を抱き、「混在併存」

の語を使用するに至るまでの過程である。第 2 段階は、1965 年からの約 8 年間であり、大江が設計手 法としての〈混在併存〉の模索と実践をおこなった段階である。第 3 段階は、大江が 1973 年以降「混 在併存」の語の使用を忌避し始め、新たな模索を開始した時期である。同時期の言説を検証した結果、

「混在併存」という語から漏れ落ちるものとして大江が捉えていた概念が「整合性」と考えられること を明らかとしている。第 4 段階は、前段階で希求していた「整合性」からの脱却を大江が志向した期 間である。この期間に大江が新たに用いた「渾沌」や「恣意的必然性」という語に着目し、晩年の大 江の建築観を考察している。

 以上 4 段階の変遷において、大江が一貫して志向していたのは、伝統建築における様式や装飾、ま た人間の心や身体といった、近代主義によって不合理として切り捨てられてきた諸概念の復権であっ たことを指摘している。大江はまた、実証的な建築史研究を批判し、自身の内に創り出した歴史的イメー ジを尊重するロマン主義的ともいえる建築観の重要性を訴えていたことを明らかとしている。一方で、

大江は晩年まで近代主義の理念を全面的に排斥してはいなかったことが言説から看取されることから、

大江が企図していたのは、近代主義とロマン主義、両者に等価に立脚した多元的建築観の確立であっ たことを考証している。

 本章で得た知見をもとに、続く 3、4 章では、大江の生い立ち、また大学卒業前後の大江の作品分析 を通して、本章で確認した「混在併存」を基軸とする大江の建築観の基盤が、戦前に醸成されていた ことを考察している。5、6 章では、大江が描いたプレロマン建築のスケッチと「法大計画」をそれぞ れ取り挙げ、戦後の大江の建築観のより詳細な分析を試みている。

 第 3 章「大江宏の自己形成過程―生誕から法政大学就職まで」では、大江の生誕(1913 年)から法 政大学の教員着任(1948 年)までの半生を概観し、2 章で確認した戦後の大江の建築観の基盤が、ど のように築かれたかを分析している。本章の研究資料として、大江の言説、また大江の卒業論文と卒 業設計の原図を蒐集、検証している。大江は、1913 年 6 月 14 日、社寺建築の大家である父・大江新太

(17)

郎(1879-1935)と、母・きくじ(菊路とも表記)の長男として生を受け、幼少期から茶道や能楽等日 本の伝統文化に親しむ一方、1935 年に東京帝国大学工学部建築学科へ入学後は CIAM の建築理念に傾倒 し、近代主義建築への理解を深めた。大江によれば、大学二年の終りから三年の始め頃には、デッサ ウのバウハウス校舎のような無色透明の近代主義建築に対し、欲求不満を感じ始めていたという。そ のような意識下で作成された大江の卒業論文と卒業設計には、既にのちの大江の建築観の一端が看取 される。卒業論文では、日本建築から抽出した諸特性と、近代主義建築の特性とを等価なものと捉え ることに対し大江が明確に異を唱えていたことに着目し、大江が堀口捨己をはじめとする他の建築家 とは異なる視座を、大学卒業の時点で持ち得ていたことを明らかとしている。卒業設計では、「回廊と 中庭による統合の手法」、「多様な柱の併存」など、のちの大江建築を特徴づける重要な建築要素がす でに顕れていることを述べている。また大学卒業時の大江の伝統理解には、当時東京帝国大学教授で あった岸田日出刀の著書『過去の構成』の影響が見受けられることを指摘している。

 第 4 章「戦前の大江の建築観―「神武天皇聖蹟顕彰碑」・「国史館」・「迎賓館」の分析」では、文部 省宗教局保存課在籍時に大江が手がけた神武天皇聖蹟顕彰碑 (1940) と国史館 (1940、実現せず )、ま た三菱地所勤務時代に大江が手掛けた迎賓館(1941)を取り挙げている。これら 3 作に関する一次資料(大 江自筆スケッチ、原図、文部省の書類)を新たに蒐集、検証することで、大学卒業直後の大江の建築 観を考察している。

 大江宏は、東京帝国大学を卒業した 1938 年から 1940 年まで文部省宗教局保存課に勤務し、紀元 二千六百年奉祝記念事業の「神武天皇聖蹟の調査保存顕彰」と「国史館の建設」に携わった。本章では、

まず同記念事業の概要を上記の書類や文献から整理し、大江が当時どのような業務に携わったかを明 らかとしている。現存する大江自筆スケッチの分析より、神武天皇聖蹟顕彰碑の設計過程は大きく 4 段階に分けることが可能であり、時局の影響により徐々に大江の構想が縮小され簡素化してゆくもの であったことを指摘している。国史館に関しては、現存する一次資料より、当時建築界の話題になり ながらも実施されなかった「國史館建築設計図案懸賞競技」の募集要項案作成に大江が携わっていた ことを明らかとしている。また大江が残した「国史館」のスケッチ群は、募集要項案の作成と並行して、

自身の夢想を描いたものであったことを指摘している。「国史館」スケッチは、近代主義建築的な案と、

屋根を頂いた和風の案とが同時並行して検討されていたことが見受けられ、洋風建築の建築語彙で設 計された「迎賓館」と併せ、戦前の大江の建築作品には、各種様式を等価に扱う「混在併存」の原理 の萌芽が看取されることを指摘している。

 第 5 章「プレロマン建築を題材とした自筆スケッチから読む大江のロマン主義的建築観」では、大 江の言説、また大江建築アトリエと大江武氏所蔵の一次資料をもとに、大江がおこなった二度の海外

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旅行の道程と、旅行が大江に与えた影響を整理している。また二度目の海外旅行後に大江が描いたプ レロマン建築のスケッチ「S.Salvador de Valdedios」に着目し、旅行時に大江自身が撮影した同建築 の写真との比較から、大江がスケッチ上で様々な創作を施していることを明らかとしている。大江の 創作はまた、大江が理想とする建築の特徴が反映されていると考えられ、2 章で確認した大江のロマン 主義的建築観が、同スケッチに端的に表現されていることを指摘している。

 第 6 章「「法政大学市ヶ谷キャンパス計画」の設計過程」では、1 回目の海外旅行に前後して計画さ れた「法政大学市ヶ谷キャンパス計画」に着目し、同計画の現存する図面資料の蒐集・分析を通じて 大江の模索の経過を検証し、各校舎の形態とその設計過程の内に、「混在併存」の原理の端緒を見出し ている。法大計画が 53 年館から 58 年館へと至る過程は、大江宏の建築観が、機能主義・合理主義に 基づく一元的建築観から、「異質なもの」や「割り切れない混沌さ」を包含してゆく多元的建築観へと 変化する過程であったことを明らかとしている。またこの変化は、のちに大江が抱く「混在併存」の 思想の萌芽が、徐々にその輪郭を明瞭にしていく過程と見做す事が可能であることを指摘している。

 第 7 章「結論」では、各章で考察した要約を総括的に掲げ、本論文の結論とする。

 本論文の構成を図 1-1 に示す。

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第 1 章 序論

 ・本論の概要、分析に用いる一次資料の詳細

第 7 章 結論 第 4 章 戦前の大江宏の建築観

  ―神武天皇聖蹟顕彰碑・国史館・迎賓館の分析

 ・大学卒業直後の文部省・三菱地所時代の大江の経歴を文献資料から整理  ・上記 3 作の原図を新たに蒐集、検証

   →多様な様式を等価に扱う大江の特質が既に見られる事を指摘 第 2 章 「混在併存」を基軸とする大江宏の建築観の変遷  ・既発表の大江の言説を網羅的に蒐集、検証

    →第一回海外旅行から晩年までの大江の建築観の変遷が 4 期に分類できることを提示     → 4 期を通じて大江が志向していたものが、近代主義とロマン主義、

     両者に等価に立脚した多元的建築観であることを指

第 5 章 プレロマン建築を題材とした自筆スケッチから読む大江の ロマン主義的建築観

 ・4 期を画する二度の海外旅行の詳細を、大江の言説と一次資料から整理  ・大江自筆プレロマン建築スケッチと、大江撮影による写真の比較分析    →大江のロマン主義的建築観がスケッチに表現されていることを指摘

第 6 章 「法政大学市ヶ谷キャンパス計画」の設計過程

 ・一回目海外旅行と同時期に設計された「法大計画」原図を網羅的に検証  ・設計過程と大江の言説との関連付け

   →「混在併存」の原理の端緒、またロマン主義を内包した民主主義的建築観が「法大計画」

に見出だせることを指摘

第 3 章 大江宏の自己形成過程―生誕から法政大学就職まで  ・法政大学の教員着任(1948 年)までの半生を概観

 ・大江の卒業論文、卒業設計の原図を蒐集、分析

   → 2 章で確認した近代主義建築への批判精神が既に看取されることを指摘

図 1-1 論文の構成

↑言説研究

↓一次資料分析

「法大計画」以前 「法大計画」以後

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注 1) 参考文献 2),pp.192-193

注 2) 大江宏 : 建築家の原点を語る , 新建築 1973 年 4 月号 , 新建築社 ,p.237,1973.4 注 3) 参考文献 1),p.107

注 4) 参考文献 1),p.107

注 5) 神代雄一郎 : 花は残るべし―大江宏論補遺 , 住宅建築 1989 年 6 月号 , 建築資料研究社 ,pp.5- 10,1989.6

注 6) 川添登 : 建築家・人と作品 下 , 井上新書 ,1968

注 7) 長谷川堯 : 後始末となぞり―茨城県公館をみて考えたこと , 新建築 1974 年 11 月号 ,pp.211- 212,1974.11

注 8) 陣内秀信 : 地中海建築との出会いの意味 , 住宅建築 1989 年 6 月号 , 建築資料研究社 ,p.13,1989.6 注 9) 参考文献 1),pp.41-76

注 10) 鈴木博之 : 現代日本の建築 ,『日本の現代建築 [1958 〜 1983]』, 講談社 ,pp.4-5,1984.11 注 11) 崔康勲による研究に以下の五編が挙げられる。①「法政大学大学院」における「近代」の意

味 - 建築家・大江宏の言説に関する方法論的研究 その 1-, 日本建築学会計画系論文集 525 号 ,pp.307-312,1999.11 /②「サンパウロ日本館」における「堀口捨己」の意味 - 建築家・大 江宏の言説に関する方法論的研究 -, 日本建築学会計画系論文集 539 号 ,pp.283-288,2001.1 /

③「法政大学 58 年館」における「設計変更」の意味 建築家・大江宏の言説に関する方法論的 研究 , 日本建築学会計画系論文集 546 号 ,pp.283-288,2001.8 /④「サンパウロ日本館」をめぐ る「論争」の意味 - 建築家・大江宏の言説に関する方法論的研究 -, 日本建築学会計画系論文集 553 号 ,pp.311-317,2002.3 /⑤「法政大学への遺言」における「建築」の意味 - 建築家・大江 宏の言説に関する方法論的研究 -, 日本建築学会計画系論文集 581 号 ,pp.203-209,2004.7 注 12) 秦明日香 , 河内浩志:大江宏の記述における「うち」の概念について,日本建築学会中国支部

研究報告書 第 38 巻 ,pp.977-980,2015.3 他

注 13) 種田元晴 : 立原道造の夢みた建築 , 鹿島出版会 ,2016.9

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2-1 本章の目的と概要

 本章では、図面やスケッチを用いた 3 章以降の分析に先駆けて、まず大江の言説を網羅的に蒐集・

検証し、大江が各年代で重視していたものは何かを明らかとすることを目的とする。

 大江の建築観を表す鍵概念の一つとして、「混在併存」(もしくは「併存混在」)が挙げられる。1966 年に大江が初めて使用して以降、同語は様々な論者によって、大江の建築観や作品群を記述する際に 多用されてきた。しかし、大江自身は 1970 年代半ばから「混在併存」の語を用いることに難色を示し 始め、果てには同語を「低俗な言葉」注 1)と述べるに至っていたことは、これまで殆ど指摘されていな い注 2)。「混在併存」を、大江の建築観や作品の代名詞という漠とした意味内容で捉えるのではなく、大 江自身が「混在併存」に込めた意味とその限界を明確にし、かつ同語に対する大江の姿勢の変化の理 由を考察することは、大江の建築観の変遷を分析する上で、有効性を持ち得るものと考える。

 よって、本章では主に「混在併存」に着目し、戦後の大江の建築観の変遷が以下の四段階に整理可 能であると仮定した上で検証を進める。蒐集した大江の文献資料は、「大江宏年譜」(作成:根岸博之、

監修:崔康勲)注 3)掲載の著作全 12 冊、論考その他現時点で入手可能な資料 251 点、また同年譜未掲 載の資料 22 点である注 4)

  1.「混在併存」に至る過程:1954-1966(3 節)

  2.「混在併存」具現化への模索:1966-1973(4 節)

  3.「混在併存」からの脱却と「整合性」の追求:1973-1985(5 節)

  4.「整合性」から「渾沌」、「恣意的必然性」へ:1985-1989(6 節)

 

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2-2 「混在併存」の概要、既往研究、既往解釈 2-2-1 概要

 「混在併存」は、1966 年の初出注 5)以降、大江宏が自身の建築観を表現する際に度々使用した言葉で ある。大江の述懐によれば、大江は 1 回目の海外旅行(1954 年)を契機として、近代主義建築に対し徐々 に疑念を抱き始めるとともに、自身の内にある二つの側面、すなわち伝統に根差した体質と近代主義 建築への信奉の分裂状態の解消を模索し始めており、1966 年に打ち出された「混在併存」は、その模 索の中で見出した結論であったという注 6)。1973 年に発表された馬場璋造との対談の中で、大江は「混 在併存」について、以下のように説明している。

 60 年代中ごろのある時点で混在・併存という形で捉えようとするひとつの文明史観を私は本誌 上に提起したことがあります。文明というのは、技術や、合理性の累積によって構成される単一 の体系だけでは成立し得ない。かならずやそれに対立する今ひとつの価値体系、すなわち地域や、

民族や、集落といったそれぞれに固有のヴァナキュラーな特質にもとづく非累積的な体系が併存 することによって、はじめて文明は本格的に存立し得るのだという思想を根底とする史観の提起 であったわけです。

 (中略)建築もまた決して単一、一律の体系の上に成り立ち得るものではなく、背反する二律の 間にはげしく衝突し合う角逐、葛藤をそのままあらわに反映するところに、建築を本格的に支え るべき基盤があると考えたいのです。相互に離反し合う複数の体系の間にはげしく起こる角逐と 葛藤、ある意味ではきわどい瀬戸際、しかしそれなるがゆえに建築というものが現在的に存在し 得る最大の拠点が、そのピークのところに求め得るということなのです。注 7 )

 ここで「混在併存」とは、大きく分けて二つの意味を持つと考えられる。一つは文明史観としての

「混在併存」(引用一段落目)、もう一つは建築の設計手法としての「混在併存」(引用二段落目)である。

前者は、文化や歴史、建築等、あらゆる現象に対して一元的な見方に拘泥せず「多元的」注 8)価値を認 める文明史観であり、後者は「単一の価値尺度における整合性」注 9)を求めるのではなく、複数の体系 を一つの建築の中に積極的に包含してゆく設計手法であると考えられる。本章は以上の前提に基づき、

両者の差異に着目しながら、検証を進める。

(25)

2-2-2 既往解釈

 「混在併存」は、複数の論者によってその意味を明確にするために換言する試みがなされている。神 代雄一郎は、大江への追悼文において、「混在併存」を「「乗り合せ」とか「入れ子」と呼びたい」と 述べている注 10)。宮内嘉久は大江との対談の中で、「混在併存」を「史的包括」或いは「ヒストリカル・

コンプリヘンシヴ・メソッド」と呼称するのはどうかと提案し、大江から芳しくない反応を返されて

いる注 11)。神代と宮内の言説はともに、「混在併存」を建築の設計手法としての意味に限定して捉えよ

うとしたものであると考えられる。

 また鈴木博之は、「混在併存」が「ごた混ぜ」と同義のものとして誤解を招く言葉であるとした上で、

「「混在併存」が相対主義とすれば、その相対主義の意識化、つまり「離見の見」というほうが大江先 生のものの見方にある。そういう自己意識化というか相対化、それが「混在併存」につながると思う」

と述べている注 12)。藤岡洋保は、「「混在併存」には戦後しだいに力を得てきた文化相対主義の影響が見 受けられる」とし、「「混在併存」は合理主義を基盤とする近代建築のあり方のに疑問を提起し、近代 建築が切り捨ててきたものの復権を図った」と指摘している注 13)。崔康勲は、「《混在併存》というメタ 言語に込められた言葉の真意は、表現の妥当性はさておき、文明批評であり、歴史観であり、建築の 方法であり、そうしたすべてを、建築をめぐる気配とたたずまいとして発現しかつ受容する歴史意匠 論的な事態の深層の洞視」であると述べている注 14)。鈴木、藤岡、崔による論考は、それぞれ「混在併存」

の持つ意味を総体的に捉え記述したものであると考えられる。

 本章では、大江が「混在併存」を忌避するに至った理由を明らかとするため、「混在併存」の持つ意 味を、先述の二つ、文明史観としての「混在併存」と、設計手法としての「混在併存」に分割した上 で論述を進める。なお、大江が 1970 年代以降難色を示し始めたのは後者、設計手法としての「混在併存」

であると考えられる(詳細後述)。

 次節では、大江が「混在併存」の語を使用するに至るまでの過程を、1 回目の海外旅行を起点としな がら、検証していく。

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2-3 「混在併存」に至る過程:1954-1966 2-3-1 「古典の創造的昇華」:1956.1

 大江は、法政大学 53 年館(1953)が竣工した翌年の 1954 年 3 月から約半年間、北南米や西欧など 計 15 ヶ国を訪れている注 15)。晩年の大江の回想によれば、大学卒業以来抱いてきた近代主義建築の理 念に対する信奉が揺らぎ始め、大江の建築観が「混在併存」へと変化する最初の契機が、この海外旅 行であったという注 16)。海外旅行における大江の公的業務の一つは、堀口捨己設計によるサンパウロ日 本館(1954)の現場管理であった。同作は伝統論争のトピックの一つとして取り挙げられ注 17)、特に池 辺陽からは「現代の時代の苦しみが全く反映されていない美しい亡霊のような」作品であり、「古典建 築の創造の伝承ではなく、形の継承であり、せいぜい音楽における編曲的な意味以上の何ものも感ず ることができなかった」として批判を受けた注 18)。堀口による池辺への反論注 19)が掲載された「建築文化」

1956 年 1 月号には、大江が執筆した論考「古典の創造的昇華」注 20)が併せて収録されている。大江は 当時の伝統論争には参加しなかったと度々指摘されてきたが注 21)、本言説において大江は、伝統論争に 対する自身の立場を表明しており、またのちの「混在併存」に連なる建築観の一端を既に示していた と考えられる。

 「古典の創造的昇華」によれば、日本の古い伝統建築には「思いがけない数数の清純さが見出される と同時に、雑多な混迷、たとえば因襲にこびりついた脂のようなものをいくらでも見つけ出す事がで きる」という。しかし、日本の伝統建築が尚も海外から高い評価を得る理由は、「優れた建築家の言葉 や、優れたカメラの目を通じて、(中略)日本の建築が含むさきの雑物や、脂のようなものは、多かれ 少なかれ濾過され、昇華されて」紹介されてきた為であると指摘する注 22)。続けて、「われわれはいま、

海外からの高い名声の中で、日本建築そのものにはきわめて貴重なものとともに、忌わしいものが少 なからず同居しているさまに決して目を覆うべきでないと同時に、われわれの心の中のエッセンシャ ルなイメージを鋭く展開させるところに、日本建築の創造的役割を見出すべきであろう」と結論付ける。

 大江の態度は慎重かつ曖昧だが、主張の骨子は、近代主義の理念に基づき日本伝統建築を理解しよ うとする建築界の動向に対する批判と考えられる。ここで大江が言う「雑物や、脂のようなもの」と は、次節以降確認してゆく言説の展開に鑑みて、様式や装飾、或いは他国文化との混淆の痕跡といった、

近代主義建築の理念により不合理として排除された建築的諸要素を指していると思われる注 23)。昭和初 期、合理主義を標榜していた日本の建築家達は、我が国の伝統建築から「日本的なもの」として「簡素」・

「単純」・「純粋」といった要素を抽出し、日本建築と近代主義建築との親和性を主張した注 24)。伝統論 争まで継承されたそのような抽出作業に基づく伝統理解に対し、大江は晩年まで一貫して批判的であっ たが、1956 年の時点で、既に同様の問題意識を持っていたと考えられる。

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2-3-2 「建築とカメラマン」(梅若能楽学院):1961.1

 「建築とカメラマン―村沢文雄氏黃綬褒章受賞を記念して」注 25)の中で大江は、前節の「優れたカメ ラの目」による抽出に基づく見方とは異なった建築の捉え方について言及している。

私はいつも村沢さんには他の写真家にない、何か異質なものを感じていたのだが、あるいはこの 異質なものこそ実は建築において最も本質的なものではなかろうかと、この頃考えている。村沢 さんの仕事のやり方は、建築の中にからみ合う複雑な性格を次々に消去し、整理して最後に視覚 的な尖鋭さだけをどぎつくクローズアップしようとするようなやり方ではない。むしろ建築が本 来的に含む雑多な要素を、時としては相矛盾し合うような性格さえもそのままに受け入れようと いった態度である。

 村沢に対する評価を通して記述された上記の言説には、晩年の大江が語った、「いろいろなものを切 り棄てるのではなくて、そのまま並立し合わなければものごとはすべて成り立たないという現象を指 していってきたのが混在併存」注 26)であるとの主張と共通した建築観が看取される。「建築とカメラマン」

発表当時、大江は初めて手掛けた能楽堂である梅若能楽学院(1961)が建設中であった。同作の雑誌 発表時、大江は「現代の設計方法から取り落され、置き忘れられている何か大切な要素が一つあるこ とを、私はこの仕事を通じて直感している。この仕事を期としてそれが何であるかをこれからも更に つきつめたいと思っている。」注 27)と述べている。1961 年に至り大江は、「混在併存」に通ずる建築観 を明確に抱き始めていたとともに、自身の近代主義建築に対する疑念が何に由来するかを見定めるべ く思考し、疑念を打開する設計手法を模索していたと考えられる。

図 2-1  村 沢 文 雄 撮 影「 瑞 巌 寺 」(『 建 築 文 化 』 1961 年 1 月号より)

図 2-2 梅若能楽学院(1961、筆者撮影)

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2-3-3 「建築の本質」:1962.1

 大江は 1962 年に発表した論考「建築の本質」注 28)において、前節の「現代の設計方法から取り落さ れ、置き忘れられている何か大切な要素」とは何か、換言すれば、建築設計の主眼はどこに在るべき かという自身への問いに対する結論を述べている。大江によれば、設計において第一義とすべき問題は、

建築を経験する人々の「心」であり、「人の歩むにつれ、心の移るにつれて同時に移り変ってゆく局面 の変化に専ら主点を置く」ことが設計の「基本原理」であるという注 29), 注 30)

。日本伝統建築に見出され る「雑物や、脂のようなもの」の重要性を大江が主張した理由もまた、それが人々の「心」に影響を 及ぼす建築的要素である為と考えられる。大江は、上記の「基本原理」を実際の建築空間へと媒介す る概念として、「うち・そと」、そして「間」(ま・あい・けん)を挙げている。「うち・そと」、「間」は、

大江が「混在併存」の語の使用を忌避し始めて以降も、自身の設計手法を説明する際の鍵概念として 用い続けた言葉である注 31)

2-3-4 「"Casa de Mexico"―歴史的ビジョンについて」:1964.1

 メキシコ大使館(1963)発表時の文章注 32)において、大江は単線的な歴史観に基づき建築を理解す ることへの批判を展開している。大江によれば、「大方の近代建築論が犯した最大の過ち」は、「単純 に近代建築史というとバウハウスだけだったり、またはモダーニズムを乗り越えるということは直ち にインターナショナリズムの否定であるといった、いかにも単細胞的な考え方」にあったと指摘する。

続けて大江は、「ナショナルなものとインターナショナルなもの」を「単純な対立関係に置こうとした 過去の概念を精算して、ぜひとも一つの秩序立った思考の中に両者の複雑な相関関係を統一しなけれ ばならない」と主張する。

 ここで重要なのは、大江は近代主義建築に対し疑念を抱きながらも、全面的に否定する姿勢はとっ ていない点にある。大江は本言説から約 20 年後の国立能楽堂(1983)の設計においても、「モダニズ ムによって切り落とされてしまったもの、(中略)それをもう一度改めて復活させる」注 33)ことを目的 としつつ、「建築のモダニズムが生んだ大変貴重な

功績である建築的エシックス、倫理観、建築のそう いう非常に清冽な精神、そんなものを何としても貫 き通していかなければならない」注 34)との認識を示 し、自身も近代主義建築の理念の延長線上にあると 述べている注 35)。本言説で述べられた「ナショナル なものとインターナショナルなもの」の「統一」を 希求する志向を、大江は晩年まで一貫して継続して いたと考えられる。

図 2-3 メキシコ大使館(1963、筆者撮影)

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2-3-5 「現代建築のこと、伝統のこと」:1966.2  大江は 1965 年末の約 3 ヶ月間、「前回の旅行での驚き

4 4

を今度は、何らかの確信

4 4

に変えるため」注 36)(傍 点は大江による)、地中海・中近東を中心に旅行している注 37)。旅行から帰国後、大江が最初に発表し た言説が、「現代建築のこと、伝統のこと」注 38)である。その内容は、大江のこれまでの思索の総括と して捉えられる。冒頭、大江はまず海外旅行で得た知見について、「建築の伝統的要素などということ を単独にとり出して論ずるなどということのきわめて困難なことであること」を思い知らされたと告 白し、続けて「過去の遺産のなかには、こうした要素が、深くからみ、溶け込んでいるのが事実」であって、

「建築とか都市とは本来そうしたものなのである」との認識を示す。ここに至って大江は、「混在併存」

の二つの意味のうちの一方、文明史観としての「混在併存」を確立したものと考えられる。

 また中盤で大江は、「空々しく、はかない」印象を与える近代主義建築に対し、過去の建築や都市が よいと感じられる理由は、「造る者、使う者彼我の間に直接共感が流れ合うからだ」と指摘する。大江 はここで、本章 4 節でみた、建築設計における第一義としての「心」に関する問題を、建築と利用者 の二項で捉えるのではなく、さらに建築家を加えた三項の関係性の中で思考すべき問題へと発展・拡 張していると考えられる。

 大江は言説終盤において、設計手法としての「混在併存」の一端を示している。大江はまず、「予め 的確な原理をかかげ、何か大義名分的な旗印しに照して不純な雑物を次第に取り除いてゆくといった 過程をたどる切捨方式が何か現代建築の設計方法の定石のように考えられがちである」と問題提起を している。そして、「人間一人一人のより一層個人的な願いや苦悩が、そのまま互いに矛盾し合い、混 乱をひきかかえ乍ら、より多元的な可能性を求め、より高次の統一へ到達してゆこうとするのが建築 や都市の本性であるとは考えられないだろうか」と指摘したうえで、「最もよいと信じ込まれている論 理的な計画性や、明快さの追及に専心する今日の設計方式は根本的に考え直される必要がある」との 認識を示す。この時点で具体的な設計手法については言及されていないが、以降大江は実作を通して、

設計手法としての「混在併存」を模索してゆく。

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2-4 「混在併存」具現化への模索:1966-1973 2-4-1 「混在併存ー香川県文化会館」:1966.7

 「混在併存」の語の初出資料注 39)は、香川県文化会館(1965)発表時に添えられた大江の論文である

注 40)

。論文冒頭、大江はまず日本における「洋風」と「和風」の問題を取り挙げている。両者は明治以 来、「かなりはっきり分裂した形のまま今日も尚われわれの生活の日々に根強く併存」している一方、「公 生活を代表する「洋風」は生産的であると同時に進歩的であり、私生活面を支える「和風」は非生産 的であるとともに退嬰的である」といった観念が、「いつのまにか社会通念となっていった」ことに大 江は疑問を呈する。対して香川県文化会館の設計では、「同時に公私、あるいは表裏の対比をもって象 徴されるふたつの相の間には、どれをもって先進、どれをもって保守とするような格差優劣は本来存 しえないという前提に立ちもどり、これらふたつの異質の要素が時に矛盾し、時に対立しあい、混在 併存しつつ日々の生活を支えている日本の現実を、そのままに反映しようとするところに建築創造の 意義をあらためて見出そうとした」と述べる。

 香川県文化会館では、構造体の鉄筋コンクリートと化粧の木架構とが、ともに独立した形で併存注 41) しており、両者はそれぞれ「洋風」と「和風」の具体的表現として等価に扱われている注 42)。この手法 は最晩年の作大塚文庫(1989)注 43)まで頻繁に用いられ、大江建築の代名詞とも言える注 44)。香川県文 化会館以前に同手法が用いられた参議院副議長公邸(1965)注 45)では、コンクリートと木が、シンメト リーに依拠した合理的平面構成によって併存されており、大江はこれが「逃げ」であったと、竣工当 時から不満を述べていた注 46)。続く香川県文化会館では、アシンメトリーの平面構成により両素材を併 存させている点で、参議院副議長公邸での不満点は解消されたと考えられる。一方で、香川県文化会 館竣工から三年後の言説によれば、大江は同作でも、やはり自身の望みを達することができなかった と述懐している。

混在併存を何とかと、参議院の副議長公邸あたりもそれを意識して考え始めた。今度こそ文化会 館でと思ったが、やはりそれが形に体験できないわけです。そういう異質の要素の出合いみたい なところ、そういったものの中で、建築と人間との愛着を結付けてくれる一つのモチーフがなり たち得るというところまではわかっても、それを物に表わそうと思うと……。だから文化会館は それを望んで達し得なかった例です。注 47)

 大江が望みを達し得なかったとする理由は、前章 5 節で確認した、「ナショナルなものとインターナ ショナルなもの」の「統一」が成し得なかった為と考えられる注 48)。コンクリートと木の扱いも、後年 の香川県立丸亀武道館(1973)注 49)や国立能楽堂(1983)に比べ、香川県文化会館では両素材の独立性 が強く関係性が希薄であり、大江が嫌った「野物と化粧」の「肌分かれ」注 50)が生じていたとも考えら

(31)

れる。また香川県文化会館における問題設定が、「洋風」と「和風」という二項対立を前提としていた為に、

大江が理想とする多元的構造を同作が持ち得なかったことも要因であろう。大江は二回目の海外旅行 から帰国直後、浜口隆一との対談で以下のように語っている。

ただ日本と西洋というような二元対立的な段階での混在ということでなくて、もっとグローバル なものとして多元的にとらえなくてはいけないのではないかということになってくるのです。な にか地下茎を探っていくようなことになるわけですね。そういう多元的な世界観のなかで、建築 とか、都市とかいうものがつくりあげられてきたいということを考えているわけです。注 51)

 香川県文化会館は、二回目の海外旅行以前に既に設計が終わっていた。旅行で得た上記の知見が直 接反映されるのは、乃木会館(1968)を始めとする同作以降の作品群である。

図 2-4 香川県文化会館(1965、筆者撮影) 図 2-5 参議院副議長公邸

    (1965、『新建築』1966 年 3 月号より)

図 2-6 香川県文化会館 木と RC の関係     (『SD』1974 年 1 月号より)

図 2-7 参議院副議長公邸  木と RC の関係     (『SD』1974 年 1 月号より)

(32)

 なお、香川県文化会館で〈混在併存〉の具体的表現を担っている材料として、前述の RC と木に加え、

石と焼き物もまた、注目すべきものである。香川県文化会館における石(御影石)は、エントランス から展示室まで、主要な内部空間をコの字に囲いこむ壁の化粧材として用いられ、線的要素である RC の柱梁や木架構とは対比的な面的要素として計画されている(図 2-8)。石の壁面は、RC の柱から外側 に、芯々で 900mm セットバックした位置にあり、内観のみでなく外観をも特徴づける建築要素として 扱われている(図 2-9,10)。また、壁面と屋根との取り合い部分にはスリットが設けられており、前述 の RC と木同様、他の部材とは接触しない独立性の強い意匠となっている。

 大江は、すでに処女作ともいえる法政大学 53 年館(1958)において、石を 1 階部分の外装材として 使用している。一方、53 年館の立面の主要素はあくまでガラスのカーテンウォールであり、石張りの 壁は補助的要素であったといえる。以降、大江建築における石の存在は徐々にその重要性を増していく。

例えばメキシコ大使館(1963)では、水平庇に土佐石が貼られており(図 2-3)、HP シェルの屋根との 形態的対比を強調する役割が与えられている。香川県文化会館に至り、建築の外観を特徴づける主要 部材の一つとなった石は、以降、大江建築の外観に和洋を問わず多用された。茨城県公館(1974)や 国立能楽堂(1983)、宇佐神宮宝物館・参集殿(1985)、高山屋台会館(1988)などはその代表例であり、

大江の建築観の具現化を担う部材として、石は重要な材料であると考えられる。

 焼き物もまた、大江建築を彩る部材の一つである。香川県文化会館では、3 階のホワイエの壁面に、

焼き物のタイルが貼られている。のちの殖産住宅東京支店(1971)では、焼き物が立面を構成する主 部材として全面的に展開された(図 2-12)。

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図 2-10 香川県文化会館(1965、筆者撮影)

図 2-9 香川県文化会館 内観(1965、参考文献 2)より)

図 2-8 香川県文化会館 1 階平面図(1965、参考文献 2)より)

(34)

2-4-2 「乃木会館の構想について」:1968.2

 乃木会館(1968)竣工パンフレットに収録された大江の解説文「乃木会館の構想について」注 52)にお いて、大江は前節でみた「洋風」、「和風」という二項対立から脱し、より多元的な「混在併存」によ る建築設計を希求している。

 まず冒頭で大江は、「建築がもつ本来の精神的内容や、その人間的情感の方は建築の近代化や機械的 機能の高度化とは反比例して、(中略)低下と希薄化の一途を辿ることになった」と述べる。その理由 として、「専ら機械文明が進歩するためには、必ずしも過去の伝統的な文化の基盤を必要としないと考 えられ、むしろ人間の精神や心にかゝわりあいの深いオーナメント的な要素はむしろ無役の虚飾とし て排除されてきたということが大きな原因の 1 つであった」との認識を示す。ここでは前章でみた「心」

の問題の重要性が再度確認されると同時に、これまで「雑物や、脂のようなもの」として暗に示され るに留まった、様式と装飾の重要性が明言されている注 53)

 対して乃木会館では、「使用材料には比較的古風なものが多く、それを扱う建築手法もかなり様式的」

であり、「それらの構成にはかなり多様な伝統的要素が併存し、時に西欧風であり、時として桃山風で あり、また部分によっては東洋的な要素さえ混在するといった有様」であると述べる。これらは「建 物の内装外観を通じて洋の東西にこだわることなく、また時代の新旧を問わず、空間的にも時間的に もかなり異質の様式的要素をあるがまゝに自由に混用・併用して、そこに 1 つの現代的な統一と秩序 の新鮮さを求めようとした」結果であり、「その建築的性格と形態に於てかなり変っているのは、建築 の本義をあくまでもその精神的内容と人間的情感におこうとした 1 つの結果にほかなりません」と主 張する。

 本言説以降、大江は多様な地域を出処とした様式と装飾への関心を積極的に表明注 54)するとともに、

両者を包含した多元的な建築設計を志向してゆく。この志向の始点とも言える乃木会館において、設 計手法としての「混在併存」は、一応の完成をみたと考えられる。以降、乃木会館と同時期に設計さ れたマリアンハウス(1968)注 55)や普連土学園(1968)注 56)、また「混在併存の具現化」注 57)がテーマ であると大江が述べた殖産住宅東京支店(1971)注 58)に至るまで、設計手法としての「混在併存」の実 践は継続された。

(35)

図 2-8 乃木会館 (1968、筆者撮影) 図 2-9 乃木会館  1 階ロビー(参考文献 2) より)

図 2-10 マリアンハウス (1968、筆者撮影)

図 2-11 普連土学園 (1968、筆者撮影) 図 2-12 殖産住宅東京支店 (1971、竣 工パンフレットより)

図 2-10 香川県文化会館(1965、筆者撮影)
図 2-10 マリアンハウス  (1968、筆者撮影)
図 2-27 大塚文庫 懸造り(筆者撮影)
図 3-3 帝国ホテル(1923、 『新建築』1967 年 12 月号より)
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参照

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