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の 社 会 学 論 批 判

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(1)

( 1 )  

社会学は︑周知のように︑十九世紀の中葉頃コントによって成立して以 来︑それは今日に至るまで幾多の実質的業績をおさめ︑今日では社会科学の

世界において揺ぎない一市民たるの地位を確立しているのであるが︑しかし

それにも拘らず社会学の対象や方法という問題については厳密には現在なお

いろいろの異論がみられるのである︒即ち︑極めて大まかにみても︑社会学

は当初コントやスペンサーなどにおいては社会現象の全体的綜合的認識を目 指す百科全書的歴史哲学的な︑いわゆる﹁綜合社会学﹂として主張せられた

のであるが︑この綜合社会学は社会学を諸他の特殊的社会科学と並んだ︑一

つの固有の研究対象をもつ特殊的社会科学として確立することができず︑そ

のために大体一八九0年頃からそれは社会学の内部からも叉外部からも厳し

い批判をうけるに至ったのである︒そしてそうした素朴な綜合社会学の立場

を根本的に吟味批判したのがジンメルであった︒ジンメルは人間の社会関係

の諸形式を固有の研究対象とする︑いわゆる﹁形式社会学﹂を主張し︑そう

することによって社会学を︱つの特殊的社会科学として確立することに一応

成功したのであった︒しかしこの形式社会学も社会学の研究対象を単に社会 関係の形式のみに制限し︑しかもそうした社会関係の形式を取扱う際に︑例

えその実際上の諸研究においてはそうした社会関係の形式を社会の文化的諸

内容との関連において取扱っていることがあるにはしても︑原理的には現実

の文化的諸内容を捨象し︑歴史的な時間や空間を遊離せる地平において取扱

イ ヤ

わんとしたために︑大体一九二0年頃から形式社会学の抽象性や非現実性や

更には非歴史性という非離を生むに至ったのである︒ところでそうした形式

社会学の批判的止揚を直接に企図せる代表的なものとしては︑例えばアルフ

レット・ウェーバーの﹁文化社会学﹂︵あるいは﹁歴史社会学﹂︶︑カール・マ

ンハイムの﹁文化社会学﹂︑フライヤーの.﹁現実科学としての社会学﹂︑オ

グバーンらの﹁文化社会学﹂などが見られるのであり︑その後も今日に至る

までいろいろの人々によって大体それと類似の主張がなされているのである

が︑それらは皆一様に社会学に形式社会学以上の研究対象や課題を与えるこ

とにより社会学に何らかの形において具体的な現実性や歴史性を盛りこまん

としているのである︒従って今日の社会学界においては︑成程コント流の素

朴な綜合社会学の立場は殆んどみられないにはしても︑なお綜合社会学に近

いような立場があるとともに︑叉形式社会学の立場も可成り大きな支配力を

もっており︑更には文化社会学などと呼ばれるものに類する新しい立場も強

く主張されており︑それらの間に厳密には矢張り種々の議論が残されている

というのが社会学の現状なのである︒曽って私は拙論﹁マックス・ウェーバ

ーの了解社会学に関する若干の批判﹂や﹁社会学の対象と方法│!ーカール・

( 2 )  

マンハイムの思想を中心としてー﹂においてそうした社会学の対象や方法

の問題にふれたのであるが︑ここでは更にフライヤーの﹁現実科学としての

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の主張を吟味し︑.そ

れに対し簡単な批判を加えてみたいと思う︒

註①富大経済論集︑第二巻︑第一号︑三五ー五二頁

の 社 会 学 論 批 判

秀治

(2)

( 2 )  

先ずフライヤーの社会学論の概要を検討することから始めよう︒

フライヤーは先ず科学を自然科学と精神科学とに分類する︒そして更に諸

々の精神科学を分類するに当り︑その科学論上の原理をそれらの研究対象た

ge is ti ge Wi rk li ch ke it ある︒即ち︑フライヤーによれば︑精神的現実は現象学的には二つの区別す

ることのできる次元︑つまり精神的内容と心理的作用geistige

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Geist︑対象層と自我潤

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Psycheなどと呼ばれるものをそのうちに統一しているのである︒そして

客観的な形態化せる精神的意味は生の実在的な生活体験によって創造的に産

み出され︑前者は後者のうちにのみ実在的な存在をもっているのである︒ま たそうした精神的現実における二つの次元の関係はただ弁証法的に︑即ち両 契機の何れにも全体の統一が含まれており︑それにも拘らずそれらの間に明

( 3 )  

瞭なる対立があるというふうにのみ考えられ得るのである︒とにかく︑こう

した精神的現実の二元性︑あるいは二面性に従って諸々の精神科学は二つの

部類に分類され︑一方実在的な生起として︑他方有意味的な形式の組織とし

( 4 )  

て二煎に科学の対象となるのである︒然しこの場合フライヤーはそうした精

神的現実の二元性を単純に心理学と文化諸科学との二領域に区分することに

( 5 ]  

反対する︒何故ならばそれは歴史学に明確な地位を与え得ず︑叉社会学に対

しては根本的に誤った地位を与えざるを得ないからである︒即ちそれによる

と社会学は文化の一定の個別的な意味領域に関する組織科学となるが︑これ

富山大学紀要経済学部論集

C6

は科学論的にみて全く誤謬であり︑社会学を混迷に導くのである︒ところ が︑精神的現実は単に対象的な意味内容からなる意味連関であるに止まら ず︑更に時間における実在的な生起の過程なのであるが︑心理学の取扱う心

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Geschehenはそうした精神的現実の生起面

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止まるのである︒つまり︑精神的現実の生起面には心理的な生起の外に更に

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07 ]

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e   Geschehenも含まれているのである︒それ故精神的現実における観

念的な謡味連関と実在的体験的な作用連関という二重性格に関する現象学的 構造が完全に把握されるならば︑精神科学の体系は心理学と文化諸科学とい ぅ二元論よりも遥かに豊富な組織をもつことがで巻るのである︒即ち︑フラ イヤーによれば︑諸々の精神科学は精神的現実の二重性格に基づいて観念的

な謡味連関と実在的体験的な作用連関︑あるいは有意味的な諸形式の王国と

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な生起としての精神Geist

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( 9 )  

る︒そしてエトス科学︑あるいは現実科学に属するものとしては心理学と歴

G

史学と特に叉社会学を奉げることができるのである︒こうした科学分類法に

とって本質的なことは科学が形式論理的な標準によって分類されるのではな

く︑それに内在せる認識意志に従って区別されるということである︒つまり それは対象的な分類なのである︒何故なら対象を適切に把握し得る認識態度

の標準となるものが対象の構造であり︑それに対する人間の生活関係に外な

らないからであるという︒

このようにフライヤーは精神的現実の二重性格︑即ち生の実在的な生起と

精神の有怠味的な形式︑あるいは実在的な作用連関と観念的な意味連関とい う構造に基づいて諸々の精神科学をロゴス科学とエトス科学︑あるいは現央 科学との二部門に分類し︑社会学を心理学や歴史学と共に現実科学として体

‑ 2 ‑

(3)

3 )  

系づけんとするのである︒それで次に節を分けてロゴス科学とエトス科学や

現実科学の特徴を更に順次吟味していくことにしたいと思う︒

( l )

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13  ( 2)   Ib id ., S  .  3 0  

(3 )  Ib id ., S  . 1

4, 34, 

10 4f .  (4 )  Ib id ., S  .  14 f.  

(5 )  Ib id ., S  .  15 

1 7   (6 )  Ib id ., S  .  16 f.  

(7 )  Ib id ., S  .  1 7   (8 )  Ib id ., S  . 

20 

(9

) 

Ib id ., S  .  21 f. ,  9 1  

( 1 0 )  

Ib id ., S  . 

9 1  

( 1 1 )  

Ib id ., S  . 207 

先ずロゴス科学の特徴を吟味することから始めよう︒精神的現実は︑前の 節で述べたように︑そのうちに実在的な体験的作用連関と観念的な対象的な 昧連関との二頂性格を含むものである︒この場合ロゴス科学というのはそう した精神的現実の観念的な対象的意味連関という契機を対象とする科学であ るが故に︑それは対象的な意味連関の実在的な存在や生成

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を坂扱うものではなく︑その実質的怠義

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究明せんとするのである︒つまり︑ロゴス科学においては精神的現実の観念 的布な味的な諸形式の内容が完全に了解された場合に︑その認識目的は達成 されるのである︒勿論ロゴス科学も更にそうした観念的布意味的な諸形式の 歴史的な成立や社会生活におけるそれらの位置づけやそれらの特定の人間性 への関係における観相学的な表現価値などに関する問題をも立てることがで きるし︑叉立てねばならないのであるが︑これらの間題はロゴス科学におい ては観念的有意味的な諸形式の対象的意義や組織楷造という問題の下位に趾 かれる︒ロゴス科学にとって翫要なことは歴史的主体の歴史的実存や述命や 行動の仕方に関する論述ではなく︑実質的な意義連関

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e に関する論述なのである︒例えば言語を言葉の形式と 意義炭合や更には旋律形式と文章論的楷成から組立てられたものとして煎解 するように︑凡ゆる文化の意味領域を通して客観的精神の懺界を有意味的な

石瀬・フライヤーの社会学論批判

形式

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︑あるいは形式化せる意味

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  として把握することがロゴス科学の課閣なのである︒つまり︑精神的現実は

ロゴス科学においては全く対象的な怠味連関の王国

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として取扱われるの信〗}

観念的対象的な怠味連閃を対象とするロゴス科学は︑このように︑精神的 現実︑あるいは精神的世界の構造そのもののうちにその存在理由をもってい るのである︒元来精神の本質は有意味的な形式に自己を客観化し︑特定の形 式領域や蹂味領域に自己を展開することにある︒凡てのロゴス科学の体系 は︑例えば言語の形式批界や法の意味組織や芸術の作品世界のような︑そう した凡ゆる客観的な形態化せる意味領域を独自の法則性をもつ意義連関とし

e3) 

て考察し︑その構造法則や機能などに従って研究すべぎものなのである︒こ うしたロゴス科学上の研究は勿論近代精神科学のうちに実際に行われている のであり︑だからロゴス科学という概念は別に何ら新しい要請を提出するも のではないという︒そして︑フライヤーによれば︑ディルタイの科学体系論 は正にそうしたロゴス科学的論理を目的としたものであり︑ロゴス科学の哲 学的前提や科学的方法や認識態度はディルクイによって全く純粋に把握され

( 5 ]  

ているという︒ディルタイにおいては︑凡ゆる精神科学の共通の対象である 歴史的懺界とは出来事や行為や決断の批界ではなくして︑客観的な追了解し

うる諸々の平息味内実の批界なのである︒即ち︑それは決して現実の生起でも

なければ︑訟志行為や連命の系列でもなくして︑精神の客観化された完結的 な意味や形態の批界なのである︒つまり︑諸々の精神科学は︑曽っての形而 上学や歴史折学によって企てられたような精神的批界の全体的認識という不 可能な冒険を試みるべきものではなくして︑文化の全体的連関のうちから 夫々特定の揺味領域を取出し︑そうした意味領域の構造︑内容︑変化を了解

という方法によって把握せんとするのである︒ディルタイの歴史的批界は︑

文法的に言えば︑純粋に完了形

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であり︑創造された形式の無時間的な形態界

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(4)

( 4 )  

富山大学紀要

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なのである︒従ってディルクイの﹁文

化の体系に関する諸科学﹂や﹁人間の外的組織に関する科学﹂は凡てロゴス

科学としての精神科学に外ならないのである︒

ところで︑客観的な精神的意味の諸形式は︑それらが全く客観化されてし

まっても︑それらのうちにそれらの創造的行為や歴史的起源や社会的素性を

もっているのであるが︑然しロゴス科学はそうした心的生活や歴史的時間や

社会的現実を精神的内容に対する実在条件の体系としてみることによって︑

それ等を特有の仕方で変形してしまうのである︒即ち︑ロゴス科学においては心的生活は客観精神の形成される場所やその妥当の土台となり︑叉歴史的

生起は精神的世界の諸形象があらわにされる媒介体となり︑従って歴史的な

時間は精神の形態界が存在する空間となり︑更には又対立︑闘争︑決断を含

む社会的現実は文化の諸形式の意味連関が実現されるところの闘技場となる

のである︒つまり︑ロゴス科学においては実在的な生起は必然的にそのなま

0 7 )  

の枢軸から解かれ︑現実は非現実化せられ︑時間は非時間化され︑歴史的現実性を抹殺されて意味形象の空間的並存に解体され︑精神の形態に変化され

( 8 )  

るのである︒このように︑意味内実における主体の消滅︑完結的形式の純粋

な観照︑その妥当性の純粋なる受容ということは︑歴史的批界を現実として

ではなしに︑単なる精神として見倣すロゴス科学における認識態度の必然の

C 9 )  

結果なのである︒

フライヤーによれば︑前の節で述べたように︑社会学は︑心理学や歴史学

と共に︑ロゴス科学としてではなしに︑現実科学として成立すべきものであ

るが故に︑社会学を上に述べたようなロゴス科学として建設せんとする凡ゆ

る試み︑例えばディルタイの﹁人間の外的組織に関する科学﹂としての社会学

やジンメルの形式社会学やウィーゼの関係学としての社会学やシュパンの普 遍主義の社会学等は凡て現実科学としての社会学︑あるいは社会学の歴史的

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現実性を見誤るものとして非離されるのである︒ロゴス科学的社会学は現央

科学としての社会学を社会形象の容観的な形態性

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の世界

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の形態学にして了うのであるという︒ 経済学部論集

( l )   So zi ol og ie ]  a s  Wirklichkeitswissenschaft,

.     S 21   ( 2 )   I bi d . ,  S .  2 1f .  

( 3 )   I bi d . ,  S .  2 2f .   ( 4)   I bi d . ,  S .   23  

( 5 )   I bi d

̀ .  

s .  2 3  ( 6 )   I bi d . ,  s .   23 ー ←

~6

(7 ) 

I bi d . ,  S .  3 5f .   ( 8 )   I bi d . ,  S .  36   38  

( 9 )  

I bi d . ,  S .  1 10 f .   [ l o )   I bi d . ,  S .  38

79

( 1 1 )   b i d . S . ,     f .  

フライヤーによれば︑社会学が社会的生活や社会的事実を飽くまでも現実

として把握しようとするならば︑それはロゴス科学とは原理的に暴なる概念 構成や認識態度をとらねばならないのである︒そして社会学にそうした独自

の論理的性格や精神科学における特殊な体系的地位を規定するものは実は社

会的生活や社会的事実そのものの特質に外ならないのである︒それでは社会

的生活の枇界の特徴は如何なる点にあるのだろうか︒

社会的生活や社会的事実の世界は社会形象

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と呼ばれるものの批界なのであるが︑この社会形象は成程一面においては芸 術や科学やその他の文化の意味領域における客観的形象

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と類似した特徴をもっているのではあるが︑然し社会形象は次の三つの互に

制約し合っている弁証法的な契機を基礎的な特質としてもつ点において意味

的な客観的形象とは根本的に相異するのである︒

即ち︑先ず第一に社会形象は生からの形式

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であると

いう事実によって他の凡ゆる歴史的世界の形象から区別されるのである︒つ

まり︑社会形象を構成する素材は人間そのもの︑その全本質や全連命そのも

のなのであり︑それは人間の身体と精神から鋳出され︑人間の意志と連命か

ら鋳出されたものである︒従って社会形象の認識においては素材と主体との

同一性

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ti ta t  vo n M at er ia l  u nd   Su bj ek t

ということが妥当するのであ

る︒我々が社会形象の根底を見究める時我々は常に我々自身を見出すので

あり︑我々がその肢体をなしている組織構造︑我々を涌して行われる生起︑

4‑

(5)

( 5 )  

我々の存在と行為からなる緊張を発見する︒社会形象は決して人間から遊離

した絶対的な形式ではなく︑生成して止むところなき形式なのである︒それ

は人間が不断にその形成に参与し︑不断に新しくその存続のために献身する

C$ 

ということから生命をうけていて︑不断に生成の状態にあるものなのである︒

そしてこうした社会形象の第一の特徴は社会学の認識態度をロゴス科学と

は反対の方向に導くのである︒文化の客観的対象的な精神的意味形象を対象

とする諸々のロゴス科学においては︑そうした意味形象が実在的な生起から

離れて恒久不変の完結的閉鎖的自己充足的な形式として生に対立し︑独自の

世界における形態をなしているが故に︑それを志向する認識意志に対しては

純粋に理論的な態度をとるように強制する︒即ち︑ロゴス科学においては対

象の閉鎖的な意味連関とそれを把握する認識との間︑つまり客観と主観との

間には明瞭なる二元性がみられるのであり︑従ってロゴス科学的認識の課題

やその必然の結果はそうした自己充足的な対象の独自の内実や妥当性を了解

( 4 )  

し︑内的に模写するということなのである︒然しながら社会形象という独自

の対象を取扱う社会学にとってはそうしたロゴス科学的な認識態度はその対

象の特質によって許されないのである︒成程社会学も時には社会生活の豊富

な形式を有意味的な了解可能な諸構造の並存として捉えることもできるが︑

然しそこに止まることは出来ないのである︒何故なら社会学の対象である社 会形象においては素材と主体の同一性がみられ︑客観と主観との間には対立 が存しないからである︒社会学において認識の対象となるものは認識者︑即

ち主観そのものが共働し︑共感し︑実存的に属している生起なのである︒一

つの生ける現実が自己自身を認識するということ

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t ︑これが社会学の論理的構造と認識態度が理解され

C 5 ]  

るべぎ全く新しい状況である︒従って社会学は本質的に社会的現実の科学的

自覚

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︑あるいは社会的現実の科学的自己認識

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0 6 )  

更に叉社会形象が生からの形式であるというこの特徴からして社会学の体 系化や概念構成に対して次のような直要な論理的要求が生ずるのである︒即

ち︑社会形象が生からの形式であるということはそれが本質的に不断に生成

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の状態にあることを意味するのであるが︑そうした事態に基づいて

社会学的構造概念は社会形象が発生する動態に源帰し︑人間を結合し︑又分

離せしめる諸力にまで遡らねばならない︒そこからして社会学にとって次の

ような問題が生じてくる︒即ち︑我々は人間の本質の如何なる摺でもって社

会形象に入り込むのであるか︑我々は如何なるエトスをもって社会の個々の

連関に所属するのであるか︒こうした問題からみれば社会形式の純粋な幾何 学としての形式社会学は決して社会学的構造概念の終局をなすものではな

く︑高々その発端であるに止まる︒つまり︑社会学は社会形象をそれに対し

形成や拠点を与える人間的な諸力に還元し︑その人間的現央

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や心的現実

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tを示すべきなの

である︒社会学的構造概念は︑社会形象の人間性Menschlichke~tのために

( 7 )  

心理学化

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されねばならないのである︒

このように︑フライヤーは社会形象の特質を先ず第一にそれが生からの形

式であることに求め︑それに基づいてその認識においては主観と客観との同

一性ということが妥当し︑その結果社会学の認識は生ける現実の自己認識と

いう性格をもつものであること︑更には又社会形象が人間の意志的心理的現

実に基因するものであることのために社会学はそうした社会形象を人間の意

志的心理的な現央にまで遡って説明すべ含ものであることを強調するのであ

次に社会形象の第二の基礎的な耽質はそれの時間への関係 る ︒

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に求められるのである︒然るにロゴス科学的社会学は社会形象を

全く無時間的な意味形象として坂扱う︒例えばジンメルの幾何学的形式やゥ

ィーゼの分子的体系と呼ばれるものは明かに無時間的な組織構造である︒そ

れは︑自然科学と同様に︑その対象から具体的な時間を取り去り︑時間を単

C 8 )  

に変数tに転化してしまう︒つまり︑ロゴス科学においては歴史的世界は

(6)

6 )  

( 9 )  

創造された形式の形態界となり︑歴史的時間はそれが並存する空間となる︒

然るに社会形象は決してそうしたロゴス科学の論理には順応し得ないのであ

る︒即ち︑社会形象は飽くまでも生起であり︑不断の生成であり︑常に具体

的な時間のなかに置かれているのである︒社会的現実は本質的には決して完

了体ではなく︑未完了体Imperl'ektumなのである︒それにとっては時間は

決して中性的な領域でも︑変数

t

というようなものではなく︑具体的な先後

であり︑朋確な方向をもち︑非可逆的なのである︒だからそうした社会的現

実を完結的な形態に固定せしめたり︑ロゴスの無時間的な領域と見倣すこと

( J O )  

は許されないのである︒つまり︑社会形象は本質的に時間に結びつけられ︑

時間のうちに組み込まれ︑歴史的に関係づけられ︑歴史的に飽和せるものな

( 11 )  

そして社会形象のこうした時間への関係という第二の特質からして社会学

の論理に対し次のような稼極的な要請が生じてくるのである︒即ち︑社会学

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( 1 2 ]  

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erenことが必要なのであ

( , 1 3 9   る︒社会学の体系は歴史化され︑社会的概念は歴史的内容で満され︑且っ時 間の継起という意味において体系的に結合されねばならないのである︒然る

に社会学を社会生活の幾何学や諸々の社会関係の並存の体系System

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Nebeneinanderとして規定せんとするロゴス科学的な形式社会学は凡ゆる

社会的事実にとって本質的な時間的被拘東性N

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G 15 )  

を抹消してしまうのである︒然しながら社会形象の歴史性︑あるいは時間的

被拘束性ということを考慮するならば︑社会学は必然に継起の体系System

de

s  Macheinander

概念は如何に抽象的なものであっても時間的に方向づけられ︑その範疇は歴 史的に場所づけられ︑時間の系列において相互に結合されていなければなら ない︒従って凡ゆる社会学的概念は社会現象の構造のみならず︑その動学

Dynamikをも取入れねばならない︒即ち︑社会学は過去や未来へ導く結合︑

社会的形象を貫いて発展する逓動︑その実在弁証求Realdialektikを包含 富山大学紀要経済学部論集

していなければならないのである︒

最後に社会形象に関する以上の二つの特質の言わば綜合として最後に次の

第三の特徴が成立する︒即ち︑社会形象は不可分離的に人間に結びつけられ

ていると共に叉時間とも不可分離的に結合しているという二つの規定が綜合

existenzielle

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n   des Menschenであるという第三の規定が生ずる︒つまり︑社会

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に関係するものなのである︒社会的生起は凡てその凡ゆる段階において現在

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の現在の社会形象と実存的に結合しており︑社会形象は全くそのまま我々自

身に外ならないのである︒その存続と変化は我々の連命であり︑我々の蹂志

と決断に委ねられている︒我々は社会形象の生起する弁証法において動的な

力として働くのである︒社会的現実は常に現在の決断という契機を通らねば

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ならねばならないのである︒即ち︑そうした社会的現実に関する現在的状態

の含蓄的意義die

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a  L ge うことが必然に社会学的概念構成の本質的動機や社会学体系の決定的形成原

理となり︑そうすることによって杜会学は人間的現在の科学的自覚wisse

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Existenzとなるのである︒初期の社会学体系

は凡てドイツにおいても︑叉フランスにおいても社会学のこうした実存的 性格を真剣に考えたのであった︒それは凡て現在科学Gegen

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senschaftであったし︑叉現在科学たらんとした︒即ち︑それは生成発展す

る社会を科学的に自覚し︑社会のそうした生成発展の条件を理論的に探求す

( 2 0 )  

ることによって社会の生成発展に奉仕せんとしたのである︒このように初期

‑ 6 ‑ 胃

参照

関連したドキュメント

Keywords: nationalism, Japanese Spirit, the Russo-Japanese War, Kinoshita Naoe,

[文献] Ballarino, Gabriele and Fabrizio Bernardi, 2016, “The Intergenerational Transmission of Inequality and Education in Fourteen Countries: A Comparison,” Fabrizio Bernardi

 

'di ltar śiṅ mthoṅ ba las byuṅ ba'i rnam par rtog pa gcig gis don ci 'dra ba sgro btags pa de 'dra bar gźan gyis kyaṅ yin pa'i phyir śiṅ mthoṅ bas byas pa'i rnam par rtog pa

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