移動通信における信号処理アンテナの進展
小川 恭孝
†a)西村 寿彦
†大鐘 武雄
†Development of Signal Processing Antennas in Mobile Communications Yasutaka OGAWA†a), Toshihiko NISHIMURA
†, and Takeo OHGANE
†
あらまし アダプティブアンテナ,及び,その発展型と考えられるMIMOシステムは,指向性の制御や空間 多重のような空間領域における信号処理を可能とすることから,信号処理アンテナと呼ばれている.本論文で は,移動通信をターゲットとした信号処理アンテナの研究の概要を述べる.まず,アダプティブアンテナによる 多重伝搬波の抑圧と空間分割多元接続を紹介する.次に,MIMOシステムの基本原理,それを用いた空間多重 とフェージング特性,MIMOチャネルの予測に関する研究概要を明らかにする.第5世代以降の移動通信にお いては,極めて大容量の情報伝送が必須とされ,それを実現するキーテクノロジーとしてミリ波帯の利用が検討 されている.このような高周波数帯における伝搬損失などの問題を解決するため,極めて多数のアンテナ素子
を有するMassive MIMOシステムの研究が鋭意なされており,本論文では,その研究概要を紹介する.また,
Massive MIMOシステムのフルディジタル処理に必要となる演算量を削減することを可能とする確率伝搬法に
ついて説明する.最後に,将来の信号処理アンテナの研究を行うに当たり,アンテナ,システム,伝搬の三領域 の総合的な考察が必要であることを論じる.
キーワード アダプティブアンテナ,MIMOシステム,空間フィルタリング,多重波伝搬,空間多重
1.
ま え が き携帯電話の普及・発展は著しく,高速なインターネッ トアクセスを可能とする
LTE-Advanced
(第4
世代移 動通信)[1]
が実用化されるに至っている.更に,2020
年頃の実用化を目指した第5
世代移動通信[2]
の研究 が鋭意行われている.一方,無線LAN
についても,標 準規格を策定するIEEE802
委員会において,順次,高 速なシステムが標準化されている[3]
.携帯電話と無線LAN
を含む広義の移動通信の高速化・大容量化には送 受信機双方に複数のアンテナを設置して適切な信号処 理を行うMIMO (Multiple-Input Multiple-Output)
システムが必須技術と考えられている.MIMO
システム,及び,その前身と位置付けられ るアダプティブアンテナは信号処理機能を有したアン テナシステムであることから,信号処理アンテナと呼 ぶことができる.本論文では,移動通信における信号†北海道大学大学院情報科学研究科,札幌市
Graduate School of Information Science and Technology, Hokkaido University, Sapporo-shi, 060–0814 Japan a) E-mail: [email protected]
DOI:10.14923/transcomj.2016SHI0005
処理アンテナについて,筆者らが携わってきた研究を 中心に,一部チュートリアル的な内容を含めて紹介し,
今後の課題についても考察する.
アダプティブアンテナという名称は,電波環境に適 応して,指向性などの特性を自ら最適化できることに 由来している.また,これは賢い機能を有したアンテ ナであることから,スマートアンテナとも呼ばれてい る.まず,アダプティブアンテナの歴史を振り返るこ とにする.
アダプティブアンテナの起源は
1950
年代〜1960
年 代に提案されたレトロディレクティブ・アレーとフェー ズ・ロック・ループ・アレーと言われている[4], [5]
.前 者は受信側から送られてくるパイロット信号の方向に 自動的に信号を送信するものであり,後者は位相同期 ループを用いて各アンテナ素子の信号を同相合成す る受信システムである.いずれもアレーアンテナの主 ビームを向ける方向を事前に知らなくても,ビーム制 御ができる点で電波環境に適応する能力を有してい る.これらの研究成果は1964
年に発行された,IEEE Transactions on Antennas & Propagation
の1
回目 のアダプティブアンテナ特集号に掲載されている[6]
.これらのアンテナシステムは干渉波が存在するとき
には良好な特性が実現されない.
General Electric
社(米国)の
P. W. Howells
は大型の,レーダアンテナの サイドローブに入射する妨害波を補助アンテナの出力 を用いて打ち消すサイドローブ・キャンセラの発明を 行い[7]
,更に,同社のS. P. Applebaum
は妨害波を アレーアンテナによって抑圧する方式を明らかにして いる[8]
.また,Stanford
大学のB. Widrow
らは受信 すべき希望信号とアレー出力の自乗平均誤差を最小化 するMMSE (Minimum Mean Square Error)
基準の アンテナシステムを提案している[9]
.このような干渉 抑圧を中心にした研究成果は,1976
年に発行された,IEEE Transactions on Antennas & Propagation
の2
回目のアダプティブアンテナ特集号に掲載されてい る[10]
.米国において,このような干渉抑圧の研究が 広く行われたのは,ジャミングと呼ばれる意図的な妨 害波を抑圧する軍用のニーズが大きかったためである.なお,
3
回目の特集号は高分解能到来方向推定の論文 を中心として1986
年に発行されている[11]
.このよ うにIEEE
は,1960
年代から1980
年代にかけて,ほ ぼ10
年おきに関連する特集号を発刊し,アダプティ ブアンテナの発展に貢献してきた.我が国においては,
1990
年代以降の移動通信の普 及に伴い,多重波伝搬対策や通信量の増大を目的とし たアダプティブアンテナの研究が鋭意行われるように なった[12]
.その詳細は2.
で明らかにする.また,電 子情報通信学会において3
回の特集号[13]
〜[15]
と解 説記事[16]
〜[19]
が発行されている.更に成書として は[20]
が発刊されている.一方,
1990
年代の後半から,MIMO
システムによ る移動通信の高速化の研究が爆発的に行われるように なった.MIMO
システムは,先に述べたとおり,送 受信機のいずれにも複数のアンテナを設置した信号処 理アンテナである.送受信機の双方に複数のアンテナ を設置したシステムは過去にも存在したと考えられる が,MIMO
システムには,二つの点で,それ以前のシ ステムとは明らかな違いが見られる.その一つは,多 重波伝搬を利用していることである.多重波伝搬は,RAKE
システム(注1)[21], [22]
を除くと,近年の高度な(注1):直接拡散符号分割多元接続DS-CDMA(Direct Spread Code Division Multiple Access)方式において,到来する各マルチパス波に 同期させて逆拡散を行うと,時間領域でそれらを分離することが可能で ある.それらの遅延時間を一致させて,等利得合成,または,最大比合 成することによってパスダイバーシチ効果が得られる.これは,各マル チパス波を,熊手(rake)を用いて寄せ集めるように動作していること からRAKE受信という名称が付けられている.
信号処理技術が登場する以前は,フェージングや波形 ひずみを引き起こす厄介な現象であり,長年に渡って 無線エンジニアが克服すべき課題の一つであった
[23]
. しかし,MIMO
システムでは,多重波伝搬が存在す るからこそ,送受信間に複数のストリームが形成さ れ,その通信速度を向上させることが可能となってい る.もう一つの相違点は情報理論の観点から詳細な検 討がなされ,通信容量がアンテナの本数に比例して増 加することが証明されたことである[24]
.このようにMIMO
システムは,これまでにない特徴があり,多く の研究者によって優れた成果が発表されるに至ってい るが,そのアイデアを最初に述べたのは,筆者らが知 る限り,アダプティブアンテナに関しても優れた研究 成果を挙げた,AT&T Bell
研究所のJ. H. Winters
で ある[25]
.1987
年に出版されたこの論文には,MIMO
という用語は用いられていないが,その主要な概念が 記載されている.30
年も前にこのような先駆的な研究 がなされていたことは,驚くべきことと言える.MIMO
システムを解説する記事と成書は数多く発 行されており,網羅的に整理して述べることは困難で あるので筆者らの主観に基づいて紹介すると,[26]
〜[33]
などが挙げられる.なお,
MIMO
システムを用いる目的には,複数の ストリームを用いて高い伝送レートを達成することの ほかに,時空間符号(STC: Space-Time Codes) [34]
や送受信空間ダイバーシチ
[35]
のように一つの送信ス トリームを高い信頼度で伝送する,つまり,誤り率を 低下させるものもあるが,本論文では高速伝送につい てのみ考察することにする.以下,
2.
では,アダプティブアンテナの基本原理,及び,多重波伝搬対策と空間分割多元接続
(SDMA:
Space Division Multiple Access)
への応用を述べる.次に,
MIMO
システムを用いた空間多重による高速 伝送を3.
で説明する.4.
では,信号処理アンテナシ ステムの先端的研究と今後の展望を述べ,最後に5.
でむすびとする.
2.
移動通信におけるアダプティブアンテナ2. 1
アダプティブアンテナの動作原理図
1 (a)
にアダプティブアンテナの基本構成を示し た .こ の 図 は 受 信 系 に つ い て 画 い て い る が ,送 信 系 で の 使 用 も 可 能 で あ る .複 数 の ア ン テ ナ 出 力
x
i( t ) ( i = 1 , 2 , . . . , N )
にウェイトw
iを乗算した後 にこれらを合成し,出力y ( t )
を得る.信号には,受信されるべき希望波と不要な干渉波に加えて熱雑音も 含まれている.
x
i(t)
とy(t)
は解析的信号(analytic signal)
若しくは複素包絡線(complex envelope)
を表 す複素数である.また,w
iは各アンテナ出力の振幅と 位相を調整する複素数である.各信号,及び,各ウェイトを要素とする
N
次元列 ベクトルを以下のように,それぞれ,x(t)
,w
と表す ことにする.x ( t ) = [ x
1( t ) x
2( t ) . . . x
N( t )]
T(1) w = [ w
1w
2. . . w
N]
T(2)
ここで,
[ ]
T は転置を表している.このとき,出力y ( t )
は次式で与えられる(注2).y ( t ) = w
Tx ( t ) (3)
各ウェイトは,出力
y(t)
ができるだけ受信されるべ き希望波に近くなるよう制御される.図1 (b)
は,半 波長間隔4
素子リニアアレーに90
◦方向から希望波,30
◦方向から干渉波が入射している場合のMMSE
基 準により最適化されたウェイト(Wiener
解)によっ て形成される指向性パターンの例である.同図から,干渉波の方向にヌルを形成することによって,その抑 圧が行われ,
SN
比を高めるように,希望波の方向に 主ビームが向けられていることが分かる.このように アダプティブアンテナは指向性を環境に適応して制御 する装置として研究が始められた.一方,図
2
は希望波と干渉波,それぞれの波源の 周囲に散乱体が存在して,いずれも10
◦の角度広がり を有して到来するときの最適ウェイトによる指向性で ある.アレーアンテナは図1 (b)
のときと同じである.希望波と干渉波は,
10
◦の範囲に等振幅で位相がラン ダムな分布をする多数の素波から構成されていると仮 定してウェイトのWiener
解を求め,それに対応する 指向性を求めた.この場合,干渉波の到来方向には指 向性のヌルは形成されていない.各アンテナにおける 希望波と干渉波は,各素波の重畳となり,振幅と位相,(注2):ウェイトベクトルを行ベクトルw= [w1w2. . . wN]として定 義している文献もある.この場合,式(3)はy(t) =wx(t)と表され る.後述するMIMOシステムにおいては,ウェイト行列W が用いら れる.この場合も,一組のウェイトを行列W の列要素と定義する場合 には,出力ベクトルは式(3)と同様に,y(t) =WTx(t)と与えられ るが,W の行要素と定義すると,y(t) =W x(t)が成り立つ.文献を 調査する際,ウェイトベクトル(行列)がどのように定義されているか を確認することが重要である.特に異なった文献を比較する際には留意 が必要である.
図1 アダプティブアンテナの基本構成と指向性の例 Fig. 1 An adaptive antenna and an example of the
array pattern.
図2 角度広がりのある信号に対する指向性の例(半波長 間隔4素子リニアアレー,角度広がり10◦) Fig. 2 An example of the array pattern for signals
with angle spread. (4-element linear array with a half-wavelength antenna spacing, An- gle spread = 10◦)
つまり,複素振幅はアンテナごとにランダムな値を取 る.
MMSE
基準に基づくウェイトの振幅と位相は,ア レー出力において,干渉波の複素振幅がほぼ0
となる ように決定される.つまり,干渉波成分は相殺される ことになる.指向性の計算には,ウェイトのWiener
解を用いたが,各素波の位相状態によって,その値は 異なることになる.したがって,図2
に示した指向性 も,各素波の位相によって変わることになる.このよ うに信号に角度広がりがあるときは,指向性の概念を 用いては,アダプティブアンテナの挙動は説明できな いが,与えられた条件の下で最適化が行われている.このことから,アダプティブアンテナは,指向性制御 を含む,より広い概念である空間フィルタリング,つ まり,空間領域信号処理を実現しているといえる.
ウェイ ト の 制 御 法 に 関 し て は ,広 く 研 究 が な さ れ て お り,具 体 的 な ア ル ゴ リ ズ ム に つ い て は ,文 献
[4], [5], [17], [20]
などを参照されたい.また,図1 (a)
に示したウェイトの制御と信号への乗算,及び,それ らの加算は,かつては全てアナログ回路によってなさ れていたが[36]
,現在ではディジタル信号処理によっ て行われている.このようなディジタル処理が適用で きるようになったことによって,次節以降で述べる複 雑な処理も容易に実現可能となったといえる.2. 2
アダプティブアンテナによる多重伝搬波の抑圧 前節で述べたアダプティブアンテナの基本概念を踏 まえて,本節では,移動通信における多重伝搬波の抑 圧への応用について述べる.ディジタル移動通信の研 究の初期においては,多重波伝搬による波形ひずみ,つまり,周波数選択性フェージングが重大な問題であっ た.そのため,伝送速度が
300 kbps
程度のTDMA (Time Division Multiple Access)
システムにおいて も,判定帰還等化や最ゆう系列推定などの手法の適用 が検討されていた[37]
.しかし,これらの時間領域等 化器は,ディジタル通信のシンボル長T
に対する多 重伝搬波の遅延時間差τ
の比τ/T
が大きくなるとき,演算負荷が増大する欠点がある
[22]
.一方,池上は文 献[23]
において,アダプティブアンテナの適用の可能 性を示唆している.このような背景の下で,筆者らはアダプティブアン テナによる多重波抑圧を提案した
[38]
〜[40]
.多重波 伝搬環境でアダプティブアンテナを動作させると,遅 延時間差が無視できない(τ/T
を0
とみなせない)と きには,多重伝搬波を干渉波とみなして抑圧がなされ るため,アレーの自由度[5], [16]
が許される限り,多図3 アダプティブアンテナによる多重伝搬波の抑 圧[41], [42]
Fig. 3 Multipath signal reduction using an adaptive antenna [41], [42].
重波伝搬の問題を解決することが可能である.
図
3 (a)
に示したように3
素子円アレーに先行波s ( t )
と,それよりτ
だけ遅延したm ( t )
が入射していると する.アンテナ素子間隔は半波長である.s ( t )
を希望 波としてMMSE
基準で受信ウェイトを決定したとき のアレー指向性パターンが同図(b)
である[41], [42]
. この図から,τ/T
が1
,あるいは,10
のように遅延時 間差が大きいほど,遅延波m ( t )
に深いヌルが形成さ れ,強い抑圧がなされていることがわかる.このよう に遅延時間差が長くなっても,アレーの自由度が1
個 消費されるだけであり,先に述べた時間領域処理のよ うに演算量が著しく増加することはない.これらの結 果から,アダプティブアンテナはシンボル長T
が短い 高速伝送ほど,その効果が期待されることになる.な図4 アダプティブアンテナを用いたときと用いなかった ときの多重伝搬波の遅延・角度特性[43]
Fig. 4 Delay-angle characteristics with or without an adaptive antenna [43].
お,
τ/T = 0 . 01
,つまり,遅延時間差がシンボル長に 比べてはるかに短いときは,遅延波の方向にはヌルが 形成されておらず,その抑圧がなされていない.この ような場合は,波形ひずみが生じないため,MMSE
基準のアダプティブアンテナは,遅延波を希望波とし て取り込み,アレー出力のSN
比を最大にするように 利用する.これは最大比合成のスペースダイバーシチ を実現していることになる.アダプティブアンテナによる多重伝搬波抑圧と,そ の効果に関する実験的検証は,
1990
年代前半に郵政 省通信総合研究所(当時)において東京都内で実施さ れた[43]
.図4
は多重伝搬波の遅延・角度特性を表 している.図4 (a)
は,1
本のみのアンテナで受信し たときの特性,つまり,アダプティブアンテナを用い なかった場合の結果である.遅延領域と角度領域に広 く多重伝搬波が分布しており,その影響を強く受ける ことが考えられる.一方,4
素子円アレー(素子間隔図5 アダプティブアンテナを用いたときと用いなかった ときの誤り率[43]
Fig. 5 BER performance with or without an adaptive antenna [43].
0.444
波長)のウェイトをCMA (Constant Modulus
Algorithm)
により制御したアダプティブアンテナの特性が同図
(b)
である.遅延広がりと角度広がりが共 に抑圧され,多重伝搬波が除去されていることが確認 できる.図
5
は,このときのビット誤り率を示したもので ある.アダプティブアンテナを用いなかったときには(w/o array)
,約10
−2の誤り率フロアが表れている が,それを用いると(w/ array)
,フロアが消失する とともに誤り率のカーブが急しゅんとなっており,ダ イバーシチ効果も認められる.なお,アダプティブア ンテナを用いたときには,E
b/N
0が約20 dB
を超え ると,測定装置の観測期間にビット誤りが認められな かったため,同図において,E
b/N
0> 20 dB
の領域に おいて10
−5のライン上にプロットをしている.ビッ ト誤り率に10
−5のフロアが表れているわけではない.更に,アダプティブアンテナに複数のウェイトの組 を用いることにより,マルチビームを有したアダプ ティブアンテナを実現できる.これにより,多重伝搬 波を抑圧するだけでなく,各多重伝搬波を空間領域で 分離した後に,それらの遅延時間を一致させて同位相 で合成すると空間領域のパスダイバーシチ,つまり空
間領域
RAKE
が可能となる[44], [45]
.ヨ ー ロッパ で は ,
1994
〜1995
年 にTSUNAMI (Technology in Smart antennas for the UNiversal Advanced Mobile Infrastructure)
と呼ばれる研究プ ロジェクトにおいて,アダプティブアンテナの移動通 信への応用が初めて組織的に検討され,多重波伝搬へ の対応も研究された[46]
.一方,筆者らが初めてこの 分野の研究成果を発表したのは,1983
年であり[38]
,TSUNAMI
プロジェクトが実施される10
年以上前のことである.
こ の よ う に 多 重 波 伝 搬 対 策 に ア ダ プ ティブ ア ン テ ナ を 適 用 す る 研 究 は な さ れ た が ,実 用 に は 至 ら ず,アンテナによる空間領域信号処理技術ではなく,
CDMA (Code Division Multiple Access), OFDM (Orthogonal Frequency Division Multiplexing)
,周 波数領域等化[47]
のような,時間領域,あるいは,周 波数領域の信号処理技術を用いることによって問題が 回避されている.アダプティブアンテナの移動通信へ の応用は次節で述べる干渉抑圧機能を用いることに よって実用化がなされるようになった.2. 3
空間分割多元接続(SDMA)
アダプティブアンテナを基地局に設置することによ り,他セルからの干渉を抑圧することができる.また,
遠方の端末との通信が可能となり,レンジを拡大する ことが可能となる.そのため,我が国において,
PHS
(
Personal Handy-phone System
)の基地局にアダプ ティブアンテナを適用することが,1998
年度に実用化 された[48]
〜[50]
.アダプティブアンテナの干渉抑圧効果を更に利用す ることにより,同一セル内において,同じ時刻に同じ 周波数帯域を用いている複数のユーザを収容するこ とができる.これが空間分割多元接続(
SDMA
)であ る[46], [51], [52]
.基地局に複数の組のウェイトを有するアダプティブ アンテナ(マルチビームアダプティブアンテナ)を設 置すると,干渉となる信号を抑圧するのではなく,複 数のユーザの信号を分離して取り出すことができる.
図
6
は,2
人のユーザを例にその基本概念を示した ものである.基地局に設置されたマルチビームアダプ ティブアンテナにより,それぞれのユーザの信号が分 離されることが分かる.ユーザ
1
とユーザ2
の信号を取り出すウェイトベ クトルを,それぞれ,w
1, w
2とし,これらを列要素 とするウェイト行列をW
と表す.基地局の各アンテ図6 SDMAの基本概念 Fig. 6 A concept of SDMA.
ナで受信される信号からなるベクトルを
x ( t )
とする.ウェイト行列
W
を最適に定めると,y ( t ) = W
Tx ( t ) (4)
で与えられる
2
次元ベクトルy ( t )
の1
番目の要素に はユーザ1
の信号,2
番目の要素にはユーザ2
の信号 が得られることになる.送信時においても,ウェイト を最適化することによって他のユーザに干渉を与えな いで通信を行うことが可能となる.なお,両ユーザの信号を分離する技術として,パ ス分割多元接続(
PDMA: Path Division Multiple Access
)と呼ばれる手法も提案されている[53]
.その 分離は,マルチビームアダプティブアンテナを用いた 空間領域での処理,または,時間・周波数領域での干 渉キャンセル処理によってなされる.前者は,本論文 で述べているSDMA
と同一となる.SDMA
の有効性は,シミュレーションを用いた研究 によって1990
年代に,ほぼ明らかにされたといえる.(社)電波産業会では,
1999
年〜2001
年にPHS
へのSDMA
の導入を考察する調査検討会が設置され,各種 の実験的検証がなされた.そこで得られた主要な成果 は文献[54]
に記載されている.図7
は,フィールド試 験の概要である.SDMA
の機能を有する4
素子マル チビームアダプティブアンテナをもつ二つの基地局が 隣接して設置されている.それぞれの基地局に2
人の ユーザがアクセスしている.これらのユーザは同一の 時刻に同じ周波数帯を用いて基地局と通信を行っている.同一の基地局では,
2
人のユーザはSDMA
によ り接続されている.隣接するセルからの信号は,マル チビームアダプティブアンテナの干渉除去機能によっ て回避している.図
8
にフィールド試験結果を示した.横軸は要求さ れた全トラヒック量である.4
ユーザが存在するので,最大値は
4
アーランである.縦軸は干渉回避起動率と 呼ばれる値である.PHS
では,干渉により,フレー ム誤り率が所定の値を超すと,別のチャネルを探すよ うに動作する.縦軸はその割合を表しており,この値 が小さいほど,干渉が少ない,あるいは,干渉抑圧が なされていることになる.基地局がSDMA
の動作を しているときの特性が,同図のSDMA mode
と記載 されたものである.一方,図7
に示した基地局は,マ ルチビームアダプティブアンテナを用いない,通常のTDMA
の動作(従来のPHS
通信)をさせることも 可能である.そのときの結果が図8
にTDMA mode
と記載されている.この場合は,それぞれの基地局に は同時には1
人しか接続できないので,収容できる最 大のトラヒック量は2
アーランとなる.この図におい て,特性が右下に存在するときは,多くのトラヒック を少ない干渉で処理できることになり,良好な特性と いえる.同図からわかるようにSDMA
機能を有する 基地局は,それを用いない基地局に比べて,明らかに図7 SDMAフィールド試験の概要[54]
Fig. 7 An overview of the SDMA field test [54].
図8 SDMAのフィールド試験結果[54]
Fig. 8 Field test results of SDMA [54].
多くのトラヒックを少ない干渉で収容できていること がわかる.これにより
SDMA
の効果が実験的に検証 され,実際の通信システムへの適用も可能であること が明らかになった.これらの成果をふまえて,マルチ ビームアダプティブアンテナを用いたSDMA
はPHS
で実用化されるに至った[55]
.筆者らが知る限りこれ が世界最初のSDMA
の実用化例である.ユーザ端末 に複数のアンテナを設置すると,3. 2. 3
で述べるマル チユーザMIMO
となり,その前身の技術が21
世紀初 頭に実用化されていたことは,意義深いことである.3. MIMO
システム送受信機の双方に複数のアンテナを設置した
MIMO
システムは図9
のようにモデル化することができる.これは,送信側に
N
本,受信側にL
本のアンテナを 設置した例である.j
番目の送信アンテナからi
番目 の受信アンテナ間のチャネルをh
ijとする.ここで,i
行j
列要素をh
ijとするL × N
チャネル行列をH
と 表す.ここでは,多重波伝搬環境を想定しているので,各要素
h
ijはランダムな値を取る.このように多重波 伝搬環境では,近接したアンテナ素子間であっても,各チャネル間の相関が低下するため,後述する空間多 重が可能となる.ここでは,狭帯域伝送系を考え,多 重伝搬波間の遅延時間差は無視できるとする.
OFDM
を用いた広帯域伝送の場合は,各サブキャリアにおけ るチャネルを考えることにより,この仮定は妥当なも のとなる.この場合,h
ijは一様フェージング(周波 数非選択性フェージング)を受けることになる.各送信アンテナから送信される信号を要素とする
N
次元列ベクトルをs ( t )
,各受信アンテナで受信された 信号を要素とするL
次元列ベクトルをx(t)
と表すと,図9 MIMOシステムモデル Fig. 9 A MIMO system model.
x ( t ) = Hs ( t ) + n ( t ) (5)
が成立する.ここで,
n(t)
は熱雑音を要素とするL
次 元列ベクトルである.本章では,MIMO
システムに よる高速伝送の実現に関連する問題について述べる.3. 1 MIMO
システムの動作原理これまでに
MIMO
システムに関しては,極めて多 くの成果が得られているが,その有効性をチャネル容 量の観点から簡単に考察する.チュートリアル的な内 容なので,既に理解をしている読者にはご容赦頂き たい.あるチャネル出力の
SN
比をγ
とすると,1 Hz
当 たりのチャネル容量は次式で与えられる[22]
.C = log
2( γ + 1) [bit / s / Hz] (6)
ここで,送信電力を
2
倍にしたとき,チャネル出力のSN
比も2
倍になるので,チャネル容量はC
= log
2(2γ + 1) C + 1 [bit/s/Hz] (7)
となる.ここで,
SN
比は十分高い( γ 1)
と仮定 した.この式は,送信電力を
2
倍にしてもチャネル容量は1 [bit/s/Hz]
改善されるに過ぎないことを示している.これは,チャネル容量が
SN
比γ
の対数関数で与えら れるため,γ
を大きくしてもチャネル容量への寄与は わずかとなってしまうことに起因する.もし,係数2
を対数関数の前に乗算することができれば,当然のこ とながらチャネル容量は2
倍となる.つまり,次式が 得られる.C
= 2 log
2( γ + 1) = 2 C [bit / s / Hz] (8)
これは,同じ特性を有するチャネルを
2
個用意して,独立な情報を受信側に伝送することに対応する.
無線通信システムにおいて送受信側双方に複数のア ンテナを設置し,それらの特性をコントロールする ウェイトを適切に定めることによって,図
10
に示した ように複数のチャネルを実現できる.これが,MIMO
システムによる高速伝送の情報理論に基づく基本原理 である.次節において,これを実現する具体的な手法 を述べる.3. 2 MIMO
空間多重MIMO
システムを用いて,送信機から受信機に複 数のストリームを伝送することによって伝送レートを図10 MIMOシステムによる複数チャネルの実現 Fig. 10 Multiple channels generated by a MIMO system.
高める技術が
MIMO
空間多重である.これを実現す る手法の詳細は文献に譲ることにして,ここでは,そ の概略を述べ,多重波伝搬現象とチャネル予測の問題 を考察することにする.3. 2. 1
送信側でチャネル情報が未知の場合送信側で,チャネル行列
H
がわからない場合は,各送信アンテナから,等電力,かつ,等伝送レートで 信号を送信することになる.これが空間分割多重方 式
(SDM: Space Division Multiplexing)
である.こ の場合,送信信号同士が干渉となるので,受信側で,それらを分離して取り出す必要がある.最も基本的 な方法は,受信側にマルチビームアダプティブアンテ ナを用いて空間フィルタリングにより,信号の分離を 行うものである
[27], [31]
.この場合は,送信アンテナ 数N
は受信アンテナ数L
以下でなければならない.このような制約なしに信号分離を可能とする手法は,
x ( t ) − Hs ( t )
2を最小にする送信信号を探索する最 ゆう推定である[27]
.この場合,受信アンテナ数L
ブ ランチのダイバーシチ効果が得られるため,良好な特 性が実現できるが,送信信号の変調多値数をM
とす るとき,演算量は,各シンボル当たりM
Nに比例し て増加することになる.その演算量を削減する探索手 法も提案されている[31]
.3. 2. 2
送信側でチャネル情報が既知の場合送信側で,チャネル行列
H
がわかっている場合は,送信信号間に干渉が発生しない伝送が可能である.
H
HH
の固有ベクトルu
k( k = 1 , 2 , . . . )
を送信ウェ イトベクトルに用いて信号を送信すると,その直交性に より,ストリーム間の干渉が生じない.なお,Hはエル ミート転置を表している.受信側では,Hu
kp
k∗ を受信ベクトルとする最大比合成ダイバーシチを行う ことによって最適な伝送が可能である.ここで,∗は 複素共役,p
kはk
番目のストリームに割り当てられ た電力の比を表している.各ストリームのSN
比は,p
kλ
kγ
0で与えられる.ここで,λ
kは行列H
HH
のk
番目のストリームに対応する固有値であり,γ
0は,総 送信電力を1
素子のみで送信したときの平均SN
比である.このことから,
SN
比が瞬時のチャネルに依存す るのは,行列H
HH
の固有値λ
kのみであり,λ
kに 比例したSN
比が得られることがわかる.更に,この ことから,固有値0
に対応するストリームでは,受信 側に信号成分が現れず,通信ができないことがわかる.したがって,送受信間に実現できる最大のストリーム 数は,行列
H
HH
の正の固有値の数,言い換えれば,行列
H
のランクとなる.この方式は前項で述べた,受信側で空間フィルタ リングを用いた
SDM
より,はるかに特性が良好と なる.筆者らは,このような伝送を固有ビーム空間 分割多重方式(E-SDM: Eigenbeam-Space Division Multiplexing)
と呼んでいる[27]
.また,各送信ビー ムへの,電力配分と変調方式の割当については,誤り 率の上限を最小にする手法を提案している[56]
.なお,E-SDM
は固有モード伝送と呼ばれることもある[32]
.3. 2. 3
マルチユーザMIMO
システムMIMO
システムでは,干渉を生じないストリーム数 はチャネル行列H
のランクに等しい.多重波伝搬環 境では,このランクは送信アンテナ数と受信アンテナ 数の小さい方の値に一致する.したがって,送信アン テナ数と受信アンテナ数が近い値を取る場合,MIMO
システムは良好な特性を示す.通常,基地局のアンテ ナ数に比べてユーザ端末のアンテナ数は少ないため,同時に複数のユーザを収容することにより,等価的 に送受信アンテナ数を近い値にして
MIMO
システム の性能を高めることができる.このような発想から 考案されたものがマルチユーザMIMO
システムであ る[28], [32], [57], [58]
.同時に複数のユーザを収容する場合,下り回線にお いては,ユーザ間の干渉が発生しないように基地局か ら信号を送信するとユーザ端末での処理が容易とな る.ブロック対角化はユーザ間干渉を完全に除去する 送信ウェイトを決定する
[59]
.これは,空間フィルタ リングに基づく,代表的な線形処理であるが,ユーザ 間干渉を除去するためにアレーの自由度が消費され,送信ダイバーシチ効果が低下する.この問題を回避す る手法として非線形プリコーディングが提案されてい る.これは,ダーティペーパーコーディング
[60]
を目 指した手法であり,具体的には,トムリンソン原島プ リコーディング[32], [61]
やベクトル摂動[62], [63]
に よって実現される.非線形プリコーディングは,第5
世代の移動通信システムへの導入を目指して,実伝搬 データを用いた評価も行われている[64]
.図11 HHHの最大・最小固有値の累積分布 Fig. 11 Cumulative distributions of maximum and
minimum eigenvalues ofHHH.
3. 2. 4 MIMO
システムにおけるフェージングMIMO
システムを用いることによって伝送速度を 向上できることは,先に述べたとおり,多重伝搬波が 利用できるためである.一方,多重波伝搬は,フェー ジングと呼ばれる著しい電力レベルの低下を生じる.「では,多重波伝搬は
MIMO
システムの特性を良好と するのか,劣化させるのか」という疑問が生じる.こ こでは,簡単な例でこの問題を考察する.先に述べたとおり,
E-SDM
では,各ストリームのSN
比は,行列H
HH
の固有値に比例する.したがっ て,0
ではない固有値の分布により,フェージングの 評価を行うことができる.図11
は,4 × 4
,4 × 20
,4 × 100
のMIMO
システムについて最大固有値と最 小固有値の累積分布を示したものである.各チャネル は独立なレイリーフェージングを受けていると仮定し た.図11 (a)
に示した最大固有値は,どのMIMO
シ ステムについても変動幅が小さく,対応するストリー ムはフェージングをほとんど受けないといえる.一方,図
11 (b)
に画かれている最小固有値に関しては,4 ×4
の場合,大きな変動幅を有しており,深いフェージン グを受けることがわかる.しかし,4 × 20
,4 × 100
の ように片方のアンテナ数が多くなると,フェージング は極めて浅くなる.スペースダイバーシチのブランチ 数が極めて多くなるため,フェージングによるレベル 低下がほぼ完全に抑えられると考えることができる.このように,大規模なアレーを設置できる場合は,多 重波伝搬による悪影響は完全に克服される.池上は,
1983
年に発表された文献[23]
で,「フェージングは避 け得ない宿命」と述べたが,30
年余りのときを経て,無線エンジニアは解決手段を得たということができる.
3. 2. 5
チャネル予測E-SDM
,及び,マルチユーザMIMO
の下り回線に おいては,送信側でチャネル特性が必要となる.FDD (Frequency Division Duplex)
系では,下り回線のパ イロット信号で得られたチャネル特性をユーザ端末 からフィードバックする必要があり,チャネル推定か ら実際の送信までの間に遅延が生じる.TDD (Time Division Duplex)
系では,上り回線のパイロットによ り,下り回線のチャネル特性を推定することが可能で あるが,上り回線のフレームと下り回線のフレームの 間には時間間隔があるため,この場合にも,チャネル 推定から実際の送信までには遅延が存在することに なる.これらの遅延の間にチャネルが変動した場合に は,送信ストリーム間に干渉が発生する.マルチユー ザMIMO
の下り回線では,ユーザ端末での干渉除去 は困難である.また,この遅延が無視できるようにす るには,頻繁にパイロット信号を送信しなければなら ず,伝送効率を低下させることになる.特に大規模な アレーの場合には,データの伝送は高速に行えるにも かかわらず,必要とされるパイロット数が多くなるた め,総合的なスループットに大きな制約が生ずる可能 性がある.このような問題に対応する一つの手段としてチャ ネル予測が知られている.これは,推定を行ったチャ ネルを用いて,実際に送信を行う時刻のチャネルを 予測する技術である
[65]
.代表的な予測手法は,AR (AutoRegressive)
モデルに基づく予測[66]
やWiener
予測[67]
のような線形予測である.一方,過去のチャ ネル推定値に多項式フィッティングする手法は演算量 が極めて少ない利点がある[68]
〜[70]
.しかしながら,これらいずれの手法も予測できる範囲が必ずしも大き くない欠点がある.最大ドップラー周波数を
f
D,τ
後の時刻のチャネルを予測するものとして,正規化さ れたドップラー周波数を
f
Dτ
と定義する.上記の文 献で述べられている手法をMIMO
システムに適用し たときのf
Dτ
の上限は,ほぼ0.2
程度である.チャ ネル変動の原因がユーザ端末の移動のみとした場合,f
Dτ
は,τ
間での端末の移動距離を波長で正規化し た値となる.したがって,この上限が0.2
ということ は,0.2
波長先のチャネルを予測することが限界であ るということを示している.も う 一 つ の 予 測 手 法 と し て ,
SOS (Sum-Of- Sinusoids)
法がある[71]
〜[73]
.これは,多重伝搬波 の各素波を分離して,それぞれのドップラー周波数と 複素振幅を求め,それらのτ
後の予測を行った後に 合成することでチャネルを予測するものである.各素 波の分離と推定が精度よく行われるならば,素波の生 成・消滅などのマクロ的な伝搬構造が変わらない限り,優れた予測が可能となることから,今後の進展が期待 される.
4.
信号処理アンテナの先端的研究と将来 展望本章では,信号処理アンテナの先端的な研究と将来 展望を述べることにする.将来展望については,筆者 らの主観が入ることは避けられない.信号処理アンテ ナの将来の姿については,西森により文献
[74]
でも取 り上げられているので参照されたい.4. 1
ミリ波技術とMassive MIMO
システム 第5
世代以降の移動通信においては,極めて大容 量の情報伝送が必須となる.更なる広帯域伝送を可 能とするため,従来の移動通信よりも高い周波数帯 の利用が考えられており,ミリ波帯における実験に 基づく研究も行われ[75], [76]
,成書も出版されてい る[77]
.ここで,広い帯域幅の利用による電力密度の 縮小,高い周波数帯の利用による伝搬損失の増大を克 服することが重要となる.それらを実現するキーテク ノロジーの一つとして近年,特に注目されているもの が,多数の(数十以上)アンテナ素子を基地局に設置 するMassive MIMO
システムである[33], [78], [79]
.Massive MIMO
システムは鋭いメインビームを有して高い利得が得られることに加えて,それ自体で他 ユーザの干渉を軽減することが可能となる
[80]
.この ようにミリ波技術とMassive MIMO
システムの融合 が,今後の高速大容量伝送に欠かせない要素技術とな ることは間違いないと考えられる[81]
.しかし,
Massive MIMO
システムの,多数のアン テナ素子全てにRF
回路,及び,A/D
変換機とD/A
変換機を含むベースバンド回路を接続するフルディジ タル処理は,回路の負担が大きくなる.この問題を容 易に回避するため,ハイブリッド処理という方法が提 案され,多くの発表がなされている[82]
〜[85]
.これ は,移相器,バトラーマトリクスやDLA (Discrete Lens Array) [86]
などのアナログ回路により実現され たビームの幾つかに上述の回路を接続するものであり,フルディジタル処理よりはるかに構成が容易となる.
Massive MIMO
システムは,第5
世代移動通信シス テムで想定されている,第4
世代に比べて通信速度や 容量が遥かに大きく上回るeMBB (enhanced Mobile
BroadBand)
のシナリオ,すなわち,更なる高速化・大容量化を前提とするシナリオへの適用については,
上述のようなハイブリッド処理から実用化がなされて いくものと考えられる.
4. 2
確率伝搬法前述の
Massive MIMO
システムで検討されている 一般的なシナリオでは,収容するユーザ数は20
〜30
程度にすぎない.しかし,今後更に大容量通信への需 要が高まり,100
ユーザ,あるいは,それ以上のユー ザを同時に収容する状況が訪れることも十分に考えら れる.このような多数の信号の分離検出は,少し遠い 将来に向けて重要な課題の一つである.一般的な線形信号処理技術を用いた場合,逆行列や 固有値・特異値分解を必要とする.これらの乗算回数 は信号数の
3
乗に比例するため,100
信号規模になる と実装が困難になってしまう.より低演算量で実現可 能な手法として,近年,確率伝搬法に基づく信号分離 が検討されている[33], [87], [88]
.確率伝搬法は,ファ クターグラフと呼ばれるグラフ上で確からしさの交 換を繰り返すことで,信号を推定する手法である.通 信分野でよく知られるLDPC (Low Density Parity Check)
を例としたファクターグラフを図12 (a)
に示 す.ビットb
3は二つのパリティーチェックの結果から 自身の1
と0
の確からしさが得られる.c
1からの確 からしさをc
4に渡せば,今度はビットb
4の確からし さの推定に役立てられる.これが確率伝搬法の概念で ある.MIMO
空 間 多 重 を ファク タ ー グ ラ フ で 表 す と図
12 (b)
のようになり,多くのループが存在する.一般にはループは特性劣化の要因となるものの,
Mas-
sive MIMO
環境では問題なく収束することが知られ図12 ファクターグラフの例(⊕はEXOR) Fig. 12 Examples of factor graphs where⊕denotes
EXOR.
ている
[33], [87], [88]
.計算量は繰り返し当たり信号数 の2
乗で済むため,今後の検討が期待されている.4. 3
信号処理アンテナの評価信号処理アンテナの評価を,シミュレーションを 用いて行うには,実伝搬環境の測定に基づく伝搬路 モデルを構築することが望ましい.文献
[89]
では,58.68 GHz
をキャリア周波数とする2 GHz
の帯域幅 を用いた,室内の多重波伝搬特性の測定結果が述べ られている.送信点から送られてくる信号を,1
本の アンテナを2 mm
間隔で2
次元平面上を移動させて 受信し,256 × 64 = 16 , 384
点のデータを取得してい る.仮想的な平面アレーの大きさは,キャリア周波数 の波長をλ
0とすると,約100 λ
0× 25 λ
0となる.こ のような時間的にも空間的にも高分解能な測定を行っ て伝搬路特性を評価した結果,全受信電力の95%
を特 定するためには,1,000
〜10,000
もの多重伝搬波成分(MPCs: MultiPath Components)
が必要であると述 べられている.また,カーテン生地がコルゲート構造 となり,電波を広い範囲に散乱させていることも明ら かにしている.これらのことから,広帯域な大規模信 号処理アンテナの評価には,単純なレイトレーシング を適用することは適切ではない可能性があるといえる.このように将来の信号処理アンテナを研究する際に は,
4. 1
で述べたアナログ給電回路を含むアンテナ技 術,通信方式や信号処理を含むシステム技術,そして,電波伝搬特性の三つの分野全てを考慮する必要がある といえる.
1980
年代に,池上はディジタル移動通信 における多重波伝搬の問題を解決するために,アンテ ナ,伝搬,システムを総合的に考察することが肝要で あり,それを「三位一体」と呼んだ[23], [90]
.この考 えは,当時の研究者に大きな影響を与え,今も高く評価されている
[91]
.これからの信号処理アンテナを研 究する上でも,「三位一体」の基本態度が必要と考えら れる.5.
む す び本論文では,移動通信における信号処理アンテナの 進展について筆者らが携わった研究を中心に述べ,将 来の展望についても言及した.過去を振り返ると信号 処理アンテナは順調に研究がなされてきたように見え るが,実際はそうではなかった.
1980
年代に筆者の一 人がアダプティブアンテナの研究を開始した頃は,米 国を中心に軍用の妨害電波の抑圧についての研究は盛 んに行われていたが,商用無線通信への適用について は,「顧みられることのない技術」であった.しかし,高速で大容量の伝送を実現する移動通信のニーズと複 雑な信号処理を実現する
IC
技術の発展により,信号 処理アンテナは爆発的に進展するに至った.また,
MIMO
システムにおいては,無線通信にお いて克服すべき課題と考えられていた多重波伝搬が通 信容量を高める重要な現象とみなされるようになった.これは,かつての常識を覆すものである.筆者らは,
信号処理アンテナを通じて多くのことを学んできた.
今後は,読者諸氏に更に信号処理アンテナを発展させ,
無線通信技術を進化させて頂きたい.
文 献
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