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宗教改革時代の独乙演劇その史的発展の考察・序説

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(1)宗教改革時代の独乙演劇 その史的発展の考察・序説. 1.. Th占division it's. own. of epochs. 永. 野. 藤. in. historical. 夫. description. must. be. connectedwith. ptlrpOSe.. Theatrical. 3・. btlt must I The art. history. 2.. describe. is neither the whole. the. history. trinity. of drama, of theatrical. nor. that. of. the. theater,-. phenomena.. the will''and willM・りinartistic his・ ulife・rythm of epoch:'Theatrical world, which understood tory describes by this rythm・ the theatricalphenomena 、 in Reformation is the testcase Dramatic age ''(1400-1618) predominance generally. can. concern苧Withりartistic by. be. `し`. 4.. of. our. standpoint.. 緒. 盲. 潜よそ過渡期・転換由の本質は,甚だ複雑であ・るo最も下等&,たとえばアミーバのような単細胞動物の分裂繁殖を見ても,このことは容易に納得されるだろう。分裂の 過渡期に急ける染色体や核分裂の神秘は,永遠の謎だともいえる。歴史,文学史,演劇 史など`に潜ける過渡期の本質は,いつそう複雑で理解しがたいoこの掬難な過渡朝の本 質・∴様相の問題は,科学の各分野で十分に研尭しつくされているだろうか.残念ながら, 肯定できないだろうo 広く世に知られているフライタータの「独乙女化史」 deutschen. (G. Freytag,. Bilder. aus. der. Vergangenbeit)の第-巻は,中世末期空でを扱い,第二巻は1500-1600. 年を扱っているが,中世と近世との過渡期としての十六世紀は,十分には意識されてい ないようで,第一巻の末尾と第二巻の胃頭に,世紀末的様相がわずかに述べられている. にすぎない。十四・五世紀が世紀末・中世末期とみなされ更に過渡期の大部分だと考 RIl題にも えられた為だろう。有名なオラ・/ダの文化史家ホイジン-の「中世の秋」払 あるように, 「十四・五世紀のララシス及びオランダにぉけ畠生酒形態と精神形態の研. 究」で参るが,滴世紀を中世末期とし,十六世革に始る近世十美術史的にはバTlック時 代(Barock)-に至る過渡期とみなしてい.るようである。1)シュクーデルマ-/の「中世宋 1). des Mittelalters・ des 14・ (Studien屯ber Lebens-und ,Geistesformen I. Huizihga, JHerbst in Fran-kreich in den Yon T・ Wolff15. Jahrhunderts und Niederlanden.)Deutsch uhd M8nckeberg. Stuttgart 19526.ホイぎソ,、ほ序文で(S.王Ⅴ),「中位の秋Jなる言葉ほ時代. 区分の意味で用いたのではなく ,全捧の情緒を象徴的にあらわす為に用いた,と述べているが, われわれは勿論この弁明を度外視しているわけセはないo.

(2) 48. 永. 野. 藤. 宋. 期の精神」1)ち,同じ立場に立っている. ビュ-ラーは「中世史化史」で,上の考え方を否定し,十四・五世紀の精神は十六世. 紀の中深くまで及んでいるという理由で,十六世紀をも過渡期に含めているQ2)フリデルは「近代文化史」の第一頁を,. 1348年に西欧を潜そったペスト禍の記述で始め,第 (Renaissance und Reformation)を三十年戦争の勃発. 一一巻「ルネサ'/スと宗教改革」. を以て閉じ,この時代を中世と近世との過渡期とみなしている。3' 後で触れたいと思うが,文化史上の一過程としての過渡期の概念でさえ,上のように くいちがっているo文学史についても,同じことがいえる。シ.ェーラ-の「独乙女学史」. やパルテルスの「独乙文学史」4)ち,この点ではフライク-ク流であb,ザッ-.)ッヒな 1)スマンやプルクーの中世史学史では,5)十四・五世紀が一括的に扱われている.. エ-. ギ-ンクー・ミュラーは「ルネサンスよわバロック時代末期にいたる独乙文学」6,で,. ルネサンスを中世末の両世紀及び十六世紀の二十年代(ルック-の改革当時)とし,. 1526. -1700年をバロック時代とみなし,それぞれ流動的限界をもつ時代であるとし,中世末. の数十年と十六世紀初葉の二三十年とを,漠然と過渡期であるとしているoスタイル中 心の莫術史的立場からすれば,この見方は当鰯ゝもしれない。実術史的には,バロック時 代そのものが過渡期とみられないこともなVlが,ミュラ-はそこまでは考えていないよ うであるoこの見方を拓大し,殆んどビ-∵ラ-等と同じ見方に立っているのは,シュ タンムラーの「ミュステイクからバ7]ックまで」7)で,シュタンムラ-は十五・六世紀を. 文学史的に一つの過渡期と考えているoこの間の事情は,七首頁に余る記述によっては ●. ●. ●. ●. ●. つきわわかるが,巻頭にかかげられたカロッサの次の言葉によっても,十分に察しられる だろうー「時代なる畑は鋭い鋤ですかれる。どこを向いても,見えるのはすきかえされ Wobin. wir. Acker. (Der. た土くればかりだo」 schauen,. der. Zeitwird. mit. scharfer. Pdugschar. :. gep触gt. Scbollen.). sin° aufgeworfene. 演劇史の分野ではどうかといえば,殆んど信じがたい程だが,過渡期はぁろか,明確 な時代概念さえ明らかにされていないようである。アルノルトの編集した大著「独乙演 劇」8)を一読しても,このことはすぐわかるo R.. 1) 2) 3) 4). Stadelmann,. Vgl.. Vom. J. B凸hler,. Ⅴgl・ E・ Friedell, W.. Scherer,. deutschen G・. 5). G・. 6). M(iller,. Potぅdam. der Leip2:ig. Geschichte. Teil・. des des. der. SchluJ5band・ Stuttgart. Deutsche. Mittelalters.. ausgebenden Mittelalters.. Kulturgeschichte. Literatur.. Mitt占1alter.. Geist Kultur. Geschichte. Ehrismann,. Zweiter. Die. 演劇史は文学史に遠かに患くれていて,. der. Stuttgart. Neuzeit.. deutschen. Halle 19485,. 1883.. 1927. A.. S. 59fE., 408#.. Bartels,. Geschichte. der. 1924. deutschen. Mtinchen. Literatur 1935・. W・. bis. Ausgang. Bum. Golther,. des. Mittelalters.. Die. deutsche. Dichtung. gum. Ausgang. d由Barocks.. vom. Mittellalter. im. 1922. Dichtung. Yon. der. Renaissance. Dicethn. bis Denken. und 1927.同じ著者のDeutsches (1270-1700). Berlin 1944.も勿論同じ立場である。 der Mystik 芝um Barock Yon 7) W・ Stammler, (1400-1600). R.F. Das Arnold, deutsche Drama. Mむnchen 1925. 8) ,. S. 118f.. Ⅰ. M也nchen. Literatur.. 1927.. Stuttgart. 19502.. 宕ur. Neu2:eit.

(3) 49. 宗教改革時代の独乙靖劇-その史的発展の考察・序説. まるで文学史に隷属する∧かのように考えられていることも多く,文学史方法論という青. 要はきかれても,演劇史方港論という言葉は有名無実であるかのように思われる.半ば 古典となってV,るティッ7.マンの「十六世紀の演劇」(解説づきの脚本選集)やクライツ ェナ-の「近世劇史」1)は,全くザッ-1)ッヒで編年的であむ,上述の微妙な問題には. (文化史的な見方の点で)いく. 全然ふれていないo最近の演劇史の動向についてV,えば,. らかわれわれの立場に近v,,通俗的で概観的忽演劇史がいくらか出ているが,学的で体. 系的なものでは患いようである.2)演劇論や演劇術が次第に進んでいるの把,演劇史だ けがクライツェナ-時代と殆んど変っていないのは,何といっても不思議であるoいす れこa)問題には後でふれたいと患うが,とにかく,われわれはビューラーやシュタンム ラーの立場に近い立場紅立って,宗教改革時代をはぼ1400-1618年と考え,この時代を. 中世から近代-の過渡期と見たいoわれわれの目的ほ,この過渡期の独乙演劇の史的庚 開を,明らかにすることである。 次にわれわれほ,演劇史とは何かの難問につき当る。・われわれは問題を抽象的に考え. すぎないように,何人か1o演劇史豪の考えを検酎して,われわれの立場を次第に明らか にしてtlきた\ハと恩う。 クタイツェナハの「近世劇史五巻」は未完の・ものだが,西欧中世に怠ける苗代劇のな. ごゎに筆を起し,シ土-クスピア時代の英国の劇に′及び,地域的には旧独乙(チ主コ, }.ンガ1)-,セ)i,ビアを含む),イタリア,スペイン,フランス,オランダ,イギ1)スを 「近世劇史」は西洋演. 扱い,規模の点では,クライ./の「演劇史」3)に次ぐものである。. 劇研究家の百科番典的座右の書で,乱雑で難解なクライ'/の「演劇史」よわ非常に利用 価値が高い.ギ1)シア副研究文献として有名な-イの二大名著「アテ-ナイの演豪[lJと. 「ギ1)シア悲劇J)なども,クライツェナ-のものと同じである。 「近世劇史」の目次を-べつするなら,・各巻・章・節の表題や項目名は,演劇園係事項. ・. を殆んど網羅していて,完備した目次と索引を利用する怒ら,本書は中世から近世にか けての演劇事項をしらべるのに,非常に便利にできている。だが,そこでえられる知隷 紘,百科辞典的で,極墳にいえば,それぞれ独立した単なるトピック的知隷にすぎず,. 時代と或は相互に閑適した知識ではないo極端な例をあげれば,中世宗教劇の合本と舞 Ⅰ) J.. Tittmann,. 2). M.. Schauspielerdes. Dramas.. neueren. Geis,enheyner,. Fechter,. 由rock. Das、. W.. Creizenach,. Geschichte. des. 19112.. Kulturgeschiclnte. europ5ische. 1868・. 16. Jahrhunderts. Ⅴ.- Halie. des Geist. Drama.. Naturalismus.. Yolk. Theaters・ und 1956.r. Kultur. Leip2:ig. 1874-. Mannheim. im. lュnd Drama・ Spjegel'des. Berlin Theaters.. 1951・. P・. Ⅰ,Vom. ちなみQ=筆者が小論を起稿したのは・1・953 年3月27日であるが,ガイゼソ-イナ一にほ殆ど何も学ぶところがなかつ串ことを,ー附記し ておきたい。 3) 4). 2:um. J. K・ Klein, A.E.. Haigh,. 0Ⅹf()rd. 1896.. Geschichte The. Attic. des. Dramas・. Theatre.. Oxford. i9073.. The. Tragic. Drama. of. the. Gre曲s,.

(4) 50. 永. 野. 藤. 乗. 台の知識は容易にえられるとしても,その上演,VCついて宙填知ることはでき患い。-勿論,. その時代や思潮との国鉄は不明である.だが,百科辞典的特色をもつこの演劇史は,を れ自体十分な存在価値をもってV,る.それにしても,このような詳細で広範にわたる研 究は,西欧人にして始紡て為しうるものであることを,われわれは忘れてはならない。 われわれは所詮外国人であrわ,言語的,地域的,その他多くの点で,西欧演劇史をクラ イ1y'主ナ-駒に考えることはできないoたとえ同じ立場をねらってみても,莫大な労力 はむくいられず,. -各研究家の仕事を翻案的に紹介する結果になる恐れが十分にある。わ. れわれはとの立場だけを固執することはできないだろう. 一内山博士は労作「中世独乙演劇史」の緒言で,1)次のよ'5VZ:述べている-「筆を執る に当うて著者が本書に対して願ったこと【は∴一面独乙近代劇の根源を探って,此の演劇. 愁怒るものが如何なる種々相に於て独乙民族の少年期に現れ,. ■其の各々が如何なる興亡. 消長を経て来たかを知り,他面に於て其の全体を通じて結局此の民族固有の演劇的なも. のが,基数に虐げられ圧迫され乍らも,遮には最後に本然の婆に立ち戻って行く其の間 のそれ自身甚だ劇的な一大葛藤を措きたいと言うことであった。」二つの意図が明らか. である点,本書はクライツよナハの演劇史とは臭っている.第一の意図を達するには, 民俗学や文化史などの要素が多分に加味された演劇史が,試みられるべきで,殊に第二. の意図をみたすには,民間芸能研究に不可欠な上述の要素が,問題にちるべきである。 著者のたゆみない常葉すべき努力は,日本人として許される限わの文献の研究によって, 演劇と芸能だけの記録を集大成し,揮然一体たる中世独乙演劇史をあむことに向けられ たようである。そして,その主力は脚本の詳細な研究にそそがれている。実際,中世劇 の脚本がこれ旺ど網羅的に,詳細に,学問的に研究整理されたことは,独乙はぁろか, 世界にもその比を見ないところである.本書の劇文学史的偏向は特殊な意味をもってこ そいても,その演劇史的存在価値を犯すものではない.しかし,この傾向だけを強調す. ることは,殊に本書があるからには,われわれにとって不利でこそあれ,決して有利で ほない.オリジナルな研究ができないことは,われわれにとって致命的ファククーとな るからである。. 内山博士は更に,潰創の-「技術的な面」も考えたかったが,文学史,文化史,その他. 広帝VZ:亘る知識が前提となるため,意のままにできなかった,とも述べている。この点 を重視してVlる演劇史家もある.レッシング以来,戯曲は上演によって始めて存在価値. ・をえる,との考えが強くなった為に,演劇史は上演史たるべきであるとも,考えられる ようになった。ミヒァ-ルの「独乙演劇」2)は,育男にもみたない簡単な演劇史である. が,上演史を中心に,ヰ世から現代までを扱っている点で,注目に催するものであるo 「文学史及び美術史にとってと同様に, ミヒァ-ルは序文で次のように述べている-. 演劇史にとっても,記述の本質的対象は結局作品`(Werke)であわ,作品をうみだす方 1)内山貞三郎「申聴独乙演劇史J昭和'13年(第2版)東京 2). F.. Miつhael,. Deutsches. Theater.. Breslau. 1923.. S.6.. 緒言3;、4貢..

(5) 51. 宗教改革時代の独乙演劇-その史的発露の考察・序説. 法手段ではなvl.ここでいう作品とは,演劇史では上演のことで参る。」上演は隙間的 ●. ●. なものだから,上演の前提とな争,あるいはそれに随伴する事物は,頭の申で上演を再 現してみるには不可欠恵ものである。この点は,文学史や葉術史に金紗るよわは,はる. かに強調されねばならない。だが,それらの研究が主になって,演劇史の美術史的中心 が忘れられては怒らないo演劇史の最も本質的な部分は,上演でなければなち患い。. -. ミヒァ-)i,の立場は,演劇史とは劇文学史であるという古くからの立場を,徹底的に ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. くつがえすものである点,注目に値する。上演を中心にしながら,それに前後する諸要 素をも重視しでいるのは,確かに卓見ではあるが,上演についての監督合本や見聞記や. 絵画のような,直接繭接の資料が会わ残ってい急い時代-中世や宗教改革時代は確か にこういう時代だが.⊥-に?いて考える漁ら,上演が必ずしも演劇史の中心になわえな いことがわかる。強いてミヒァ-)i,の立場をづらぬこうとするなら,演劇史は空想的な毛 いわゆるミュトスとしての演劇史になってしまう恐れがある.むしろ;われわれとして. は上演と他の諸要素を同時に強調し,揮然一体たる記述をなすのが,演劇史の本質であ ると思う。更にここで忘れてならないのは,演劇とて時代を離れて存在しないとV,う点. で象る。だから,同時代の文化史的研究もぜ払同時に行わねば漁ら忽V1.この点で,ミ ヒァ-ルの立場は再考されねば漁らないだろう。. チェ-/メ-ネは広斡忽四巻の「中世演劇」の序文で,1・)次のように述べてVlる一本 書の目的は,十六世紀後半に偉大なシェークスピア劇の出現を可能ならしめた「以前に 存在した諸条件」_(the. 第一. conditions)敬,明らかにすることであるo 巻のテ-アは,苗代劇がキ1)スト教の猛攻とバ-バ1)ズムの無関心の為に衰亡し,俳優 pfe・eXisting. が虎狼の吟造語人に変態し,. l/人の芸人と混合し,劇的琴素が標薄. ′征服者たるチエーT な見世物・大道芸(spectaclユ1a)で民衆を売のしませたが,やがて,その芸能が教会に. うけいれられる次第の叙述であるo第二巻が扱う.のは,別種の見世物であり,村祭妙の 芝居(1udi)である。その運命は古代劇のそれと同じであゎ,その起源ほ民族の物まね 本能にある。第三巻は宗教劇の発生と発展について述べる。第四巻は中世劇の変遷を臨 港的に扱うが,こ'0際特に注目されるのは,文学的Vz:はヒューマニズムであわ,社会・ 経済的には吟遊詩人から起った職業gF優である. チェンバースは,.中位の演劇的要素をすべて近世劇の潜在的要素であるとみなし,大. 局的把は,両者の間の見えなvl関連の糸を辿りながら,各要素の本質の研究把努力して いる。か怒り 古い研究であわながら,その立場と方溝はユニークである。その特長と長. 所は,中世劇を近世劇の母胎とみたことよわは,中世劇の要素をいかにも英国式な地道 な方迭で,いわば民俗学的方法によって,分析しようとした点で象るo. このような演劇. 史の方法は,多分当時英国や独乙で盛に行われていた民族学や人類学忽どの影響下にあ るものだ,と考えられる。この立場は特に苗代や中世の研究にほ,有利のように思われ. るが,それを固執しすぎるのは危険である。演劇要素の研究がどんなに完全なものでも, 1). Vgl.. E. K.. Chambers,. The. Mediaeval. Stage・'IⅠ′. Oxford. 1903.. Pteface. Vfトニ.

(6) 52. 永. 藤. 野. 天. それは直ちに演劇や演劇史の研究にはならないからである.劇的要素がVlかに演劇にな. るか,各演劇がいかに演劇史を織わなすかの研究が,欠けているからで象るo個々の本 質的研究をいくら加算しても,その答は決して綜合的研究とほならないoだが,われわ れはここで二つの点に注目をせねば放らない。第一は,この研究には民俗学的要素が多 ●. ●. ●. ●. ●. ●. いこと,第二は,演劇の発展を級揺する時,文学的な面と社会・経済的な面が強調され ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ることであるo第一の点に.ついては,われわれは後で再び言及せねばならないだろう.. 演劇研究に社会学的立場を用いることは,かなわ以前から行われている.ルカーチの 「近代劇の社会学」やバブの「社会学から見た演劇・演劇社会学」1)は,その代表的なも のである。ルカーチは近代劇の発展を,個別化,知性化及び歴史化の過程であるとし, この過程は神秘的宗教的感情から解放され,現代人の相対主義に終っていると考えてい るo2J'この見方は,唯物史観による公式的社会勧を,素朴に息実に現代劇にあてはめた ものセ,経済的地盤の上に上部構造として成立する社会学を,外的に演劇にあてはめた. ものであるoバブはこのような外的法則を演劇にあてはめること牢不当とし,別の出発 点に戻って,新しい再出発を試みている.演劇社会学は政治・経済の法則をただ外的に 演劇にあてはめるのではなく,演劇の本源にまでさかのぼわ,逆に演劇の社会性を発見 し,次に全分野にわたって,演劇の社会性を明らかにすべきである。こう考えるバブは, 原始人が不安を蒐服する為紅,呪術的演劇で自己をエクスタシ-の状態に患ちいらせる ことから,先ず出発する。この立場は注目すべきもので,演劇史に潜ける社会学を考え る場合には,われわれもこうした立場に立たねばならないだろう.方法静の項でこの立 場に再びふれたV,と思うoなお,この立場からだけ試みられた演劇史が,かたよわすぎ て完全なものとはいえないことは,説明の要がないだろうo. 文学史の方法論を考えてもわかるように,精神史的演劇史勧も成立する可能性がある。 だが,演劇史は文学史に比較して,かなわ物質的要素を含んでいるから,それを精神史 的方法だけで割切ることはできないだろう.だから,精神史的演劇史は其の演劇史では 敷く,むしろ創文学史である.ベ,/ノ←・フォン・ゲィ-ゼの「レッシシグからへッベ }L,に至る独乙の悲劇.J2'は,この意味での優れた創文学史である.第一部及び第二部の 表題「悲劇と弁神論」 und. (Trag6die. und. Theodizee)と「悲劇と-ヒ1)ズム」. (Trag6die. Nihilismus)が暗示しているように,ゲィ-ゼは十八世紀から十九世紀への転換期. の悲劇文学史を,弁神論と-ヒ1)ズムの両極の闇の場に患いて,神学的哲学的把把達し ようという新しい試みをしてV,るoわれわれはとこで,キダスト教とニヒyズムが辛が ●. かわになっていることに注目してぉきたい。なあ. 1). Georg. Yon. Sozialpol・, des. '2). Vgl・ S・. Luk畠cs,. Bd・琴1914・). Theaters. B・v・. Zur. Sol:iologie des J・ Bah,. Das. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. この点については筏で再びふれたい. modernen Theater. Dramas. im. (Archiv. Lichte・'der. f. Sozialwiss.. Soziologie.. und. Soziolbgie. 1931.. Wiese,. Die. deutsche. Trag6die. Yon. Lessing. bi島. Hebbel.. Hamburg. 667・本書の詳細な内容についてほ,拙稿「t,アシソグから-ツペルに至る独乙の悲劇J(上 智大学編「t}フィアJ 1953年5号)を参照されたい.-. 19522..

(7) 53. 宗教改革時代の独乙演劇-その史的発展の考察・序説 いと患う,0. 1830年. 新開博士は「曲乙近代劇史序説」1)の序言で,先ず近代劇の概念規定を試み, 頃からナチス時代までを近代劇時代としている.これは月並なことと患われるかもしれ. なv,が,大半の研究家にな急ぎわにされていることで,われわれも後で発ずこの試みを せねばならない。博士の試みが一種の創文学史であることは,取上げている種Jq・の劇の 叙述によってもわかる。だが,その意図は,単なる素材の薙列にあるのではなく,. 「近世. 劇,古典劇の亨禿れと時を同じうしながら,いわゆる近世劇の中心ともならず,然も古典. 劇の伝統から傍にそれながら,しかも近代劇に対して用意していた種類の演劇」つまわ 「民衆(Yolk)を中心とし,平民(Bむger)を中心とした演劇」の発展のあとを辿り, 近代劇ゐ母胎を明らかにすることであるo. 従って,その第一章が「独乙演劇把患ける. Biirgerの初期的あらわれ」であb,第二章が「Biirgerの新しき進出と創文学的展開」 であるのは,容易に新得される。この試みは精神史的社会・経済的なもので,劇文学史 としては,綜合的で新しい視点からなされ凌ものであるo序説であるから,にわかに批 評すべきではあるまいが,以上の点で,学ぶペき点が多いことは確かである。しかし,. 博士の労作の数々を知っているわれわれは,その演劇史勧が単なる劇文学史をはるかに 越える,よ勿綜合的なものであることを,忘れてはなるまい. 以上われわれは,いくつかの異った立場の演劇史葡を-べつしたが,そのいずれも完 全に近いとは思われなかったo独乙の演劇史戟には,多分vc創文学史的傾向が見られる. が,これは戯曲を重視する独乙の演劇界の傾向に関係があるようだが,創文学史は,た 、とえどんな立場に立つものであろうと,決して其の演劇史ではないo単なる上演史も其. の演劇史では急いo演劇史はすく怒くとも,創文学史と上演史を含まねばならなVIo換 言するなら,其の演劇史は演劇関係事項一般(Theaterwesen. iiberhaupt)を含むべき. であるが,それも羅列的混合的にではなく,綜合駒にである。このような難問がどう解 決できるかについては,後で改めて考えたいが,決して不可能なことでは急いだろうo 劇作家,俳優,勧衆,その他の物的条件のような,いわゆる演劇国儀事項一般は,早 れぞ外分散して存在するのではなく,相互に密接に関連していて,時間的空間的に,つ まわ精神的物質的に,その時代とかかわわあっている占だから,われわれはその相互関 係と共に,その背景となり前景となっている時代を,研究の対褒とせぬばなら急い。こ の後雑な関係を,われわれは,後で詳しく一途ペる時代の(坐)のダズムによって明らか ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. にできるだろう。各時代にはそれ独特のクズムがあるはずであり,演劇とてそれに乗つ. て律動しているのである。われわれは歴史,精神史,社会・経済史等の立場から,演劇 現象を多角的に眺め,演劇史の構成に役立つデ-タを集め,それを再構成するかわわに,. それらのデータを如実に反映する時代の生の1)ズムを,飴括的に考察すれば早いわけで 参る。このリズムをとらえる方法ほ;広義の文化史的方法以外には放いだろう.この間 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. の事情については,いずれ後で詳しくふれねばならないが,とにかく,われわれの演劇 1)薪因島三「独乙近代劇史序説_I. (昭和15-17年度の東大独乙文学科における講義).

(8) 54. 永. 鹿. 野. 夷. 史観は演劇関係事項一般を,広義の文化史的方法によb,各時代の生の1)ズムを通して,. 綜合的に把起することVZ:らきる。だか'B,演劇関係事項の詳細忽歴史的研究,あるいは 盲科辞典的研究は,あれわれのいう其の演劇史研究ではない。われわれの研究と叙述は このような点では,恐らく多くの空白と欠陥をもっているだろうが,われわれの目的は,. 時代の生の7)ズムを遍Lて厭々と流れつづけている演劇の生命を,如実に,簡明に把起 ●. ●. ●. ●. ●. することである。. 序 第一章. 論. 宗教改革時代の概念規定. 時間と空間とを切-わ離して考えることはできない。だから,歴史一般にぉける時代区 分は,原則的にはできないはずである。それでも,歴史一般には時代区分がつきもので ある。何らかの方法で時代区分をしなければ,歴史の記述が事実上殆んどできなくなる からであるo時代区分そのものには,何らの必m・睦もないわけであるが,実際的にはど うしても,時代区分が必要であるoだから,研究家は自由に時代区分を行ってもよいわ. 抄だが,それには一定の条件がな抄ればならない.つまわ,その試みが非常識なものでな く,研究家の所期の目的にかなうものである,という条件がみたされねばならないo前に ふれたように,. v:過渡期についての何^かの歴史家,文化史家,文学史象,演劇史家の考え. をしらべて見ると,一応もつともと思われる;瞳々の考え方があることがわかる。この事. 実によっても,史家の目的は時代概念の規定に,密珪に関係しているといえる.この意味 で,われわれは序論に患いて,先ず宗教改革時代の概念規定を試みねばならないだろう. 宗教改革時代とは常識的には,. }L,ツタ-. (Martin. Luther,. 1483-1546)が噴宥1). (し. ょくゆう)紅関する九十五提題を,ゲィッテンペルク城の聖堂玄関にかかげて,論戦の 火ぶたをきつ舞1517年11月1日を中心にした,凡そ一世代ぐらいの時代をいうので,. 精Jk,広義に解しても,ルックーの生産に一致するぐらいであるo宗教改革を厳密に精神 史的に,あるいは素数史的にみるなら,宗教改革時代は既に中世盛期たる十二世紀頃に. 始まわ,少くとも三十年戦争の終わ迄はつづくと考えられるだろうoわれわれは常識に 近い立場をとりたいと思う。 「某教改 ランケは「近世史の諸時代について」2)の第十五講と第十六詩(第六節)敬, 革及び宗教戦争の時代」 (十五世紀末から十七世紀中葉まで)としてt,るが,ラ./ケ自身 1)暁宥(Indulgentia,′A731aB,. Indulgence,. pardon)は,一般に免罪(符)と訳されているが,次 「腔宥とほ罪の赦(ゆるし)でほなく, 既に赦された罪に対する宥罪の罰を,悔俊の魂蹟(告白)以外に,公教会(カト1)ック教会) が免除することで」 (「公教要理」昭和24.年坂210頁)悔陵の現蹟とは,受洗後犯した罪を敬 甲説明に.よっても、わかるように,これほ不当な訳である.. 194頁),これによって,地獄の終りなき罰ほ赦されるが,限りある罰は. 一す醗蹟であり(同上, I比敵軍ほ煉獄で果さねばならない。 tiber die Epochen 2) L・ Yon Ranke, 観」岩牧文庫昭和18年第3阪). (同上, 208貢) der. neueren. Gesctli:chte・. (鈴木・相原共琴「政界史概.

(9) 55. 宗教改革時代の独乙演劇-その史的発展の考察・序説. が本書を「近世の世界史的諸時代を胡定し性格づけんとする試み」である,と述べてい ることによyDrても明らかなように,.Eの時代蹴念はランケの熟慮さ蹄た意図にもとザい ているo彼は第十四講(第五節,第五期[十四世紀及び十五世紀])にぉいて,国家と教. 令の輝-が解体するのを概観し,・統一を本質とする教皇(Papst)の世界支配の自己崩 壊埠,長V,間の教権と,世停権の抗争の為ではなく,準会分離(Schisma)にもとすく各 国民の対立の為であることを述べ,この両世紀の特色は,政治的にも宗教的にも,統一 体が存在しないことであるとしているo1'更に,彼は第十五詩の胃頭に,. 「十四世紀及び. 十五世紀にぴまんしていた,かの一般的分離のさ中にあっても,忽朗ゝかる分離を超脱. する或る物が存してVlた.それは全般的崩壊に伴って起ってくる混乱に,終末を告げん とする一つの傾向であった⊥2)と述べているが,との講でルネサンスと宗教改革とそれに この「一つの傾向」がどう展開していくか&,眺めているo第十 っづく戦乱を攻上帆 七詩は列強の成立時代(十七・八世紀)を取扱っている。この時代区分を見るなら,ラン ヶは「宗教改革及び宗教戦争の時代」を,中世から近代-の過渡期とみていることがわ かる。ランケのこの見方は,世界史的見地からなされたものであるが,われわれの見方 も歴史的にはこれに近v1. ●. ■. ●. ●. ●. われわれは緒言に患いて,文化史家ビュ-ラ-とフT) についての見方が,. -デルの中世と近代との過渡期. -われわれのそれに近いことを述べて患いた。ビュ-ラーは,中世末. 期を過渡期とみなす多くの文化史家の立場を批判しながら,次のような見解を述べてい るo3,-中世末期を過渡期,つまり,ルネサ-/スと宗教改革に完全に全貌を現わす新し いものに対する準備期,とみなすのが普通で,最近ではこの時期が中世の終旭期でもあ ち,と考えられている.だが,ルネサンス,フマニスムス(Humanismus)及び宗教改 革の根源を求めるなら,われわ郎はずつと中食にさかのぼらねばなら敦Vlから・中世末. 期だけを過渡期とみることはできない。まk,上の見解を一般的にするには,宗教論争が 役立っているととを,われわれは忘れてはなるまい。中世は自己のカを消耗し,い舞る 所に生じた誤解を自力で解決でき敷かったカゝら,宗教改革は中世を解消したのだとの割 切った考え方払「発生的史朝」であわ,宗教論争の一方的偏見だといわぎるをえないo. 十四・五世紀の生命力を無心に味わってみるなら,この両世紀を老衰の世紀(saeculum senescens)とすること時できないほずであるo 末期(壮年時代Zeitalter 1)同上, 2)同上, 3). Vgl.. 169, 172京参照。 182貢。 ∫.Bti壬11er, a.a.0・S・. der. 宗教改革を断行したルックーは,中世. Virtus)の完壁な具現で象る。4)宗教改革と共に,あら. 112,. 118f・. 4) 、ルッタ-の中世的性格については,ヴュル,/レほiルツタ-が古い教理を守った古風な神学者 den Glaube Der mach (Ⅴgl. P. Wernle, evangelische で,近故人でほなかったと述べ, Luther. Thtibingen der Hauptschriften Reformation. I. 1912・)プロテスタソトの史家ルナックも,ルック-が内面的にも外面的にも,申皆の古臭いカト1).ック着であった,と述べ. Berlin 1917)I die Grundlegung der Reformation・ (Vgl, A. Harnack,、 Luther'und 現代の有名なカトワックのルッタ一研究家,たとえばドミエコ会士ドニフル師(H・Deniae・ ている。. in der ersten p., Luther Luthertum und Mainz. 19042.)辛,イエズス会士グ.)ザル肺(H・. o.. 19253・)なども,同じことを主張している。. Entwicklung Grisar,. quellenm色JSjg. S/J・, Luther・. dargestellt・ i. Br・. Freibug.

(10) 56. 永. 野. 藤. 天. ゆる生清盛情が一変したわけではないoわれわれはこの時代a)伝記や年代記を岱もとく 忽ら,かなわ長期間にわたって,不安・動描や農民戦争,更に宗教戦争把もかかわらず, すべてはいかに変らていないかを発見して,儲かざるをえなbだろう。tルネサンスもフ. ァニスムスも宗教改革も,叉これらのものと正反対で中世的なものとみなされているも のも,全部同じように,当時の金生清を動かしていた力から生じたのであるoこの諸々 の力は個々の^間や国土の状態,性格や外的関係に応じて,種々に作用し,十五・六世 姦己の畳鰯な文化を生み出したのである.. このようなビューラ←の見方軌過渡期を十六世紀にまで延長し,少くとも宗教的偏 見にとらわれずに,フマ昌スムス,ルネサンス,宗教改革の実相を連勧し,そこに中世 的在ものの実在をつきとめている点で,われわれの注目をうながす.中世の各分野にわ. たって長年研究をつづけている著者にして始めて,十四・五・六世紀を中世から近世への 過渡期とみなす,大規模な鳥轍をなしえたのだ,と患われる。文化史的見方として,わ ●. ●. ●. ●. ●. ●. れわれはビュ-ラーの見方を記憶して潜きたい.. ビュ-ラーは,いわば時代の(生の)リズムとか,時代性格とかいわれるものを中心 にして,上の見方を展開Lているが,フリ-デルは全く別の立場から,ほぼ同じ結論に 達している。宗教改革時代の概念について考えているわれわれは,二人とも宗教改革の. 革称を余わ重視していないことに,注意してぉく必要があるだろうo フリ-デルは「十六世紀が始まるにつれ新しい時代が誕生したoだが,この時代は. 十四.五世紀に成立しているoしかも,病気のため把である。すなわち,病気が何か生 産的であるという,一見明らかに矛盾している説明を,われわれはこの研究の胃頭に急. かぬぼ卑うない」と述べ,1'過渡期の意味と自己の立場を明らかにしているo彼の立場 は病理学的心琴学的なもので,外傷性神経症の診断を文化史に利栢したものである。近 代を誘発する第一の外傷は, 1348年に西欧を潜そったペスト禍である。第二の決定的な 外傷は, 1618年に勃発した三十年戦争である。2'神経症は十四・五世紀の潜伏期をへて, やがて真性と忽妙,柄勢をすすめる.西欧人は,唯名論(Nominalismus)の勝利とペ ストなる外症のために,非常忽ショックを受軌百年以上もつづく神経症にかかわ,絶 えざる期待の念に憾まされるoこの潜伏期の末期に,潜ぼろげな近代人の婆が浮び上つ. てくるoその性格は合理主義・感覚主義であるo彼らはルネサ,/スで芸術と哲学を,慕 教改革で宗教と国家を俗化し,悟性を絶対化し,悟性にすべてを支配させた。この発展 期を終らせるのは・第二の外症である.だカゝら・其の近代はヴュストファ-レンの和議 以後に始まるoわれわれの試みは序言であわ,前戯であわ,いわば近代前史(die historie. der. NetlZeit)である。. われわれ軌ナチス時代め自由主義者フリーデルの,いかにもゲィ-ン学派的な病理 1.) 2). Friedell, ibib.. a.a.0.S. S.411.. 64.. Pr畠..

(11) 57. 宗教改革時代の独乙演劇」その史的発展の考察・序説. 学的心理学的立場に,決して把わかに同意するものではないが,十四・五世紀の見方, 特に,. ・この二世紀有余の一時代を実際的に1)近代前史とみ,広義の過渡期とみる立場把 は,親しみを感ぜぎるをえなレ、。フ.) -デ,i,が文化史的に,十四世紀半ばから1648年 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 頃患でを,事実上の過渡期とみているのは,達見であろう。彼披この一巻に「't,ネサン スと宗教改革」怒る■題を与えているo シュタンムラーはその著「ミュステイクからバロックまで(1400-1600年)」について,. 本書は全くの資料書(Sto庁buch)であるが,文化史的精神史的立場は屡々出会う不明患 部分を明らかにするだろう,と轟遜に述べている。だが,本書は二世紀にわたる全貌を ま2=めて,かなり周確に把起している.著者は十四世紀のミュステイクに輩を起し,新. しい生活感情とスタイルを述べ,古いスタイ,レの残りについて触れ,ルック-の改革時 代をへて,芸術的には次第に高まりつつあった世紀末にいたって,筆を患いているoこ の点は甚だ統一的で,バロックまでという見方には異論があるとしても,. -バロック. 時代は広い意味では十六世紀も含むが,2)実術史や文学史では,十七世紀を指すのが普. 通である…著者のしつかわLた立場を示している.表題に「1600年まで」とはあるが, 最後の二頁(494-5眉)は,十七世紀初頭の様相を手短かに述べているから,実際的に は1618′年頃までを扱っているといえる一三十年戦争が勃発した頃,独乙の政治は年. 来の懸案を解決し,中世の国家体制は決定的に解体し,抗争する両宗派は武力に訴える ことの無意味さをさとり出したが,この頃文学の領域でも,中世色は消えうせた.中心. は人間とその運命である。静的傾向はすべてにあって,動的なものに変わ,中世的なも のでも価値のあるものは,新しいものに和合して残った。次第に新しV,埼歩を占めてい く若い世代の旗印は,フマニスムスとバロックであった。. 1)ノ実際的にというのは,緒言でふれながらやりすごした,シューラ-やフライクークなどの作文 (創元社昭和24 上の過熱こ対照する言葉である。たとゑば,シ=-ラ-は「ドイツ文学史」 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 年窺2巻81貢)で,「鞭打苦業者の遍歴とドイツ最初の大学創立とは,宗教改革を準厨しこれ を生み出した一切の宗教的・政治的諸運動を包括して,ヴュストファーレソの和静こまで及ん だ二百年に亘る一時期の戸口に,意味深く立っているJと述べているが,この見方は申散末期. の文学史を特に規定してはい額い。また,フライタ-クは「独乙文化史」 (第■2巻)で,宗教 改革を招来した力はよ、く注視するなら,既に以前から活動していたことがわかると述べ,この 立場からするなら,ホ「エソシュタウフェ:,家と三十年戦争の間の時代(1254-1648)紘,独 乙史のまとまった一時期とみなされる,といっている。これは文化史家の広い視野から生れた 見方であるが,この時期を過渡期とみなすことほ,常識的でほないし,この見方はフライクー クの文化史観を,事実上は特色づけていないようである。 ちなみに,フ1)-デルほ自由主義のためにナチスに追われ,ヴィ-ソに亡命し,そこで客死. した俳優モ,著書はナチスによつて焚書されたが,最近旧阪がそのまま疎刻された.本論で ほ,この新版を用いた.なお,本書はドイツの有名な浜田家マックス・ライソ-ルト(Max. Reinhardt)に献じられている。 2). Z.B.. Vgl. G・ Mtiller,. Deutsche. Dichtung. 1700年を',.ロック時代とみている). Yon. der. Renaissance. u・s・. w・. S・ 127f・. (1526-.

(12) 58. 永. 野. 魔. 王夫. シュタンムラ-はミュステイクに筆を起しているが,これは文学史的には少し根拠力羊. 弱いようである.彼はミュステイクに直接関係する散文文学よわ,フ′マニスムスに関係 する文学によE)スペ-スをさき,後者をいつそう重視しているからである。われわれは 「バロ′ツク愛で」という点と,ミュステイクに筆を起した点とで,いささか立場を真には するが,その他の点ではシュタンムラーの見方に周意したい。すべてを演劇史的に考え ●. ●. ●. ●. ●. るわれわれには,上の二点はどうも納得がV,かないからであるo 第五巻で中断したクライツ-ナハの労作「近世劇史」の第一巷は, 初期」 (Mittelalter. und. 「中世とルネサン予. Fr坤renaissance)で,中世宗教劇とフマニスト(Hlユmanist). の初期の演劇的試みについて述べている。第二,三巻は「ルネサンスと宗教改革」 (Renaissance. Reformation)め-. und. ・二で,宗教劇,学校劇,世話劇(謝肉祭劇) などを扱い,年代的には十六世紀初襲,宗教改革前後,ザックス時代,プッシュマ=/時 代(Puschmann. 1580-90年頃ニュ-i,ンベルクで活躍した)に及んでいる。第四・五. 巻は「シ′--クスピア時代の英国の劇」の-・二で, .シェークスピア(1564-1616)め 生涯にわたる英国の演劇史であわ,第三巻の独乙を扱った部分は,これにくらへて甚だ 簡単である.とにかく,首科辞典的演劇史であるから,時代区分が不明であり,その意 図も不明であるが,十五世紀のフマニストの演劇や世帯劇にふれた第一巻に,. 「中世と. ルネサンス初期」と名づけられているのは,甚だ興味深い。十六世紀を扱った部分が, ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 「ルネサンスと宗教改革」と呼ばれているからには,ルネサンスは十六世紀を,宗教改革 は1517年以降一世代ぐらいを指すものと,考えられる.この見方にはあいまいな点が. あるが,文学史家によっては,次のように割切っている者もある.だが,かえって概念 の混乱をきたすもとになるだろう。 たとえば,プレンナ-は「独乙女学史」1)で,ルネサンスを三つの発展段階にわけてい. ち-フマニスムス,宗教改革及びルネサンスの三段階である.フマニスÅスはルネサ ンス初期である。フマニスムスの段階は,新しい精神が支配的になる1400年以降で,. 彼岸の文化は此岸の文化となわ,教会は自己矛盾を露呈してくる時代であるd宗教改革 時代は,カト1)ック教会内に起った改革に始わ,ルックーの死(1546)を以て終る。 ネサンス時代は,フマニスムスが始めたものを鳳点に皇で高める時代で,前に偲無意隷 に行ったことを,意識的に行うようVZ:なわ,内容的にも形式的にも,苗代を模倣するo 史学熱は言語熱に変ってしまう。この時代は三十年戦争までつづく。. この見方にも-理はある。だが,文学史や演劇史には本来関係のなV,,主として芸術 や恩想に結びつくルネサンスやフマニスムスの雷を,むやみに用いることは,その概念 に混乱をきたすばかりでなく,かえって事を榎裾にすることにならなV,だろうか.精神 史や美術史の方法論が文学史Q7=適用されるように放ってから,かえつてバベ)i,の塔の混 乱が生じたのではあるまV,か。プどが,もし何か明らかで必然的な理由があるなら,われ. 1). E.. Brenner,. Deutsche. Literaturgeschichte.. Wets. 194912.. S. ・24.. }L,.

(13) 宗教改革時代の独乙演由一その史的発畏の考察・序説. 59. われとてこのような方法論の通用や概念規定を退けるものではないoだが,われわれと しては独乙の演劇史に,本来非独乙的なフマニスムスやルネサンスのなまの表現をそo'. まま適用することには,慎重であわたいと患うo ,.以上,あれわれは宗教改革時代の腰念を考察しながら,先ず常鄭甘な見方を考えてみ, 次に何人かの立場を異にする史家の,ヰ世末と近世の見方を検討し,その結果・文化史 的に?3:,十四・五・六世紀を一つの過渡顛とみるビューラ-の立場が,また文学史的には・ 旺ぼ1400-1600年を「ミ.ユステイクからバロックまで」として一括しているシュタンム ラーの立場が,われわれの立場に近いこと払あらかじめ指摘して溶いたo結論的にい ぇば,われあれは捻ぼ1400-1618年払宗教改革時代と呼び,この時代を中世から近代. べの過渡期と考えるから,ここでは,なぜ上の二つの見方を修正せぬばならないかを,I 説明すればよV,わけである.なぜこの時代を宗教改革時代と呼ぶかの理由,つまわその. 概念規定も,この説明で明らかになるわけである.o われわれは先に,. 「われわれq)演劇史観は演劇園係事項一段払広義の文化史的方法に. ょり,各時代の生のリズムを通して,綜合的に把達することにつきる」と述べ如ミ,時 代概念規定にぉいては,拳くまでも演劇史約定場に立たぬばならないoこの立場に蜂独 特なものがあるからである。 われわれは先に,シュタンムラ-郎ミュステイクから文学史の筆を超したことに,そ れはど根拠がないことを糟摘したが,.われわれもこれと同じ点から出発するから,なぜ ミュステイクの時代が必然的に出発点になるかを,先ず明らか托せねばならないo. 儀でも触れるように,十六世紀は演劇時代ともいえるが,当時の演劇を汐アン'L,別に分 類するなら,中世伝来の受難劇(Passionsspiel)を主体とする宗教劇,十五世紀末から. 盛になわつつ参った校劇(Schuldrama.その作者牢ち恵んで学者劇(Gelehrtendrama). とも羊岬れた),十五世紀の世論劇たる謝肉祭劇(Fastnachtspiel)と直接つながる十 六世紀の謝肉祭劇,十六世紀後半から十七世紀にかけて発展する修道院劇(Kloster・ drama)ともいわれるイエズス会劇(Jesuitendrama),十六世紀末真に英国から渡来す る英国劇である.これらの演劇の主流は,かなわ性格を異にする二つのジァンルにわ抄 られる学校劇で,学校劇は十五世紀のフマニスムスに由来しているo学校劇はフマニス トの作品であるだけに,大半は古典的ラテン語一中世伝来の教会ラテン語をしのぐ本. 格的な古典雷だ,と彼らは自負していた-で善かれ. その上学校で学生によって上演. されたから,じかに民衆に訴えることはなかったが,間接には,当時の他の演劇に重大 な影響を与えた。この点については,いずれ後で再びふれねばなら患いだろうが・'と拓 かく,. ・この劇が十五世紀後半のフマニスネスに密接紅結びついていることに,われわれ. は注意せねばなない。中世を通じてテレンティウスとプラウトゥスは,いくらかは知ら. れていたが,テvンティウスの最初の独乙の教科書版が,シイ.T/ラ-スブルクの或る本 屋で出版されたのは, グ(J.. Wimpheling. 1470年のことであわ,. -ルずスのフマニストたるダインフ-1)ン. 1450-1528)が,ハイデルベ)i,ク大学文学部長として,.一卒業生に科.

(14) 60. 永. 野. 東. 天. 学研究a)必要をすすめた時,ラテ./語の対話「ステイ't,フォー」. (Stilpho)を用ぃたの. 払1480年3月8日のことだった。だから,古典劇が読まれ研究され,対話(Dialoge) が試みうれたのは,十五世紀もかなむ古くからで参ると思われるが,古典劇が実際上潰 されだしたのは,十六世紀になってからだったol)従って,われわれは十六世紀の演劇の 主流をなす学校劇を考える時には,フマニスムスが恐らくスイス経由で,イタグアから 独乙へ入って来た十五世紀まで,さかのぼらぬばならない.また,フマエスムスほ宗教 改革に関係していて,ミュステイクと宗教の分離などと共に,その重要な原凶になって. いるだけに,宗教の立場からも,この時代を度外視することはできないo 中世宗教劇は十五世紀に慣熟すると共に,急速に衰退するが,五世紀にわたる古い歴 史をもつ一大文化財が,一朝にして消滅することはあわえない.受難劇は各地で,殊に 中て・南曲の辺境地帯で・なぁ盛に上演され,アウデンラーヂ(1503),コルマル(1515, 1531)・エーゲル(1519),ルツ-ルン(1531),シュマルカルデン(1564)などの上演は 有名であるo復活祭劇も地方忙よっては,かなわぁそくまで上演されて患わ,. 1583年の. 'L,-ツ-ルンに怠ける上演は有名で,その舞台装置囲が現存していて,珍重されているo そo・他の群小宗教劇2)も同様だった.だが,宗教劇が比較的多く上演されたのは,十六. 世紀前半で・それもジァンル的には,莫大な受難劇が多かった.己の受難劇は十三世紀 に・復活祭劇が「聖母マ1)アの哀歌」. (Marienklage)を媒介として,キリストの十字 架上の死の場面まで拡大されることによって生れ出たもので,3'十四世紀の拓大期をへ て,十五世紀の完成・衰退期にいたるのである。中世宗教劇史的にみれば,十四世紀ほ. 復活祭劇時代であり・十五世紀は,復活祭劇が俗化衰退し,受難劇が完成・欄熱すると 共紅衰退の色をみせる・いわゆる宗教劇の華・受難劇の時代であるoだから,十六世紀 にも依然として上演されながら・他の演劇に重大な影響を与えた宗教劇を考えるには, 受難劇時代である十五世紀をぜ払回顧する必要がある。 十六性紀の世話劇が,ザックス(Hans. Sach8. 149411576)の悪臥菩劇,謝肉祭劇 (ザックス自身の分類による)によって代表されることは,説明の要もないだろうoザッ クス旺同郷の二免筆フォルツとp-ゼシブタユートに,密接把結びついている.この二. 先軍の謝肉祭劇がいつ,どんなふうに発展したか軌後でも触れるように不明だが,大づ かみにいって,謝肉祭劇は文献的には,十五世紀後半から辿る-ことができるoクライツェ ナハはこの問題について・結論的にはこう述べている-中世の喜劇姓十四世紀の末ま では,断鹿的にしか残っていず・その演劇史上の地位を明らかにすることは出来急いが, これができるようになるのは,十分な文献があらゎれる十五世紀になってからである。4). 申・世事劇と謝肉祭劇の園蕗はそれはど明らかではない.われわれは後者の発展の経路を さぐってもL,文献的には,ごくb・すかの例外は別としても,十五世紀後半までしかさかの ⅠⅠ. S. 50. 1) Vgl. Creizenach, a.a.0. 2)永野「独乙中佐宗教劇概説.昭和25年凍京124貢以下参照。 3)上掲寄, 57頁参照。 I. S. 403. 年) Vgl・.Creizenach, a.a.0..

(15) 61. 宗教改革時代の療乙演劇-その史的発屡の考察・序説. ぼれないo'例外的に十五世紀初期の作とされる謝 肉祭劇K.19とK.40は,1)極く単純 な形式のものとはいえなV,。この点からいえば,謝肉祭劇史は十四世紀までさかのぼれ そうだが,文献的には不可能である。また,上の事実疲,既にクライツ-ナハも指摘し ているように,2)必ずしも当時既に謝肉祭劇がかなり進んセいたことを示す絶対的証拠. にもならなぃoか患わ進歩し尭痕式の由が行われている時に,ブ7)ミティグな形式の劇 も行ゎれていることも爵如iら,上の垂実は何ら明確な根拠にはならない.とVZ:かく, われわれはこの方面で,せいぜv,十五世紀初期までさかのぼればよいわけである.それ. 以上過去にさかのぼって追究することは,芸能史や民族学に深入わすることになわ,演. 劇史をこえる奮それがあるoLとにかく,′あれわれは,L十不世紀の演劇の主流と綾ならな かりたが,本質的に近代劇の準備をしてV,た,-民衆・平民を主人公とする世話劇を,千. 分知る為には,少くとも十五世紀半ばまではさかのぼらぬばならない.例外自勺には,十 五世席己初期愛でもさかのぼらぬばならないだろうo. 道徳劇(Moralitat)揺,本束英国からオランダを-て,独乙に渡来したものである が{独乙では,その歴史は学校劇の歴史に平行している占この点では,十五世紀は問題. にならない占-だが.,道徳劇に似た一種の比噴劇払十五世紀の宗教劇の比噴的な場面(受 難劇の教会Eccksiaとユダヤ会堂Sy工ミagOgaの論争の場など)や民間の祭礼の行事 (春祭勿の冬と春の争いなど)などに,関係が深い。この点で,十五世紀はやは中間題に なるわ貯で象るo. 以上われわれは,十六世紀の演劇の主な-i)ァンルがすべて十五世紀の演劇に関連して ,いることを,検討した.宗教劇は中世劇の主流だから,十五世紀の受難劇だけを考える のは,・不合理なようにも思われるだろうが,受難劇は十五・六世紀の代表的宗教劇だか. ら,それでよいわけであるo上述のように,受難劇はマ7)-ンタラ⊥ゲを殊介として, 複層祭割から発展的に発生したもので,十四世紀に入るや,その発展はとどまる所を知 らず,十四世紀中葉には少し風変わな「聖ガvンのキ1) Jesu)3)が現われ 聖体祭劇」. ・7u一代記」. (St・ GallerLe-ben. 次にキ7)ストに関するすべての物語を扱った「キ,エソツ-ルスアウ FrQnleichnamsspieト字本の末尾に1479年とあち)4)が現ゎ. (Kiinzelsauef. れたが,これは金宗教劇の始決算といえる。だから,受発劇は宗教劇の代表で爵るoこ の意味で,十/i世紐の宗教劇を知るにほ,主として十五世紀の受難劇を検討すればよい。. 1). 1853・ (28-30・ Pu(46 qlikation Vereins), und p・)中骨謝肉祭 19・ほ・ 1・, K・ 2・,・・・). K 劇はこのケラー本の番号によって呼ばれるのが,菅通である(K・. A.. v.. Keller,. Fast nachts3Piele. Bus. den. 15・ JahLrhundert・ Nachlese・. de忌 literarischen. Stuttgart. Stuttgart. 1858・. K・. 40・. 亭主めるす申に,やりて垂に甘言を以てそそのかされるが,操を守り通した女房の話. は,亭主が不実の罪で女房に訴えられ,変な罰をくらぁされるが,とどのつまり夫婦が和解す る語。 Creizenach, a・a・0・ Ⅴgl. 2) Mone, Schauspjele F.J. 3) ・ 69頁以下参照。. 4). A.. Schumann,. Das. Ⅰ・ S・ 417f・ des. K触zelsauer. Mittelatters・. Karlsruhe. Fronleichnamspiel・. 1848・. 'Ⅰ・ S・. 72-128・永野・上掲書. 1926・内山・上掲書,. 329・ 330貢参照o.

(16) 62. 永. 野. 藤. 三夫. さて,狭義の宗教改革に直接又は間接に関係し,その影響を受軌. あるいは宗教論争. の武器に化し,あるいは教義宣伝の具と化した学者劇や世話劇の一.部は,捻んとの宗教 改革時代の演劇だといえるが,上に見たように,これらのものは十五世紀の演劇に野戦 に関連しているから,この点から見ても,十五世紀の演劇を演劇史的に,宗教改革時代 の演劇の先巌とみなすことができるだろう.宗教改革時代前史は,文化史的には十四世 ●. ●. ●. ●. ●. 紀に始ると見るべきだろうが,演劇史的にはほぼ十茸世紀把始るとするのが,至当だろ ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. う。. 次にわれわれは,なぜ宗教改革時代が演劇史的匠1618年頃までを含むかを,考えて みな抄ればならない。この問題で手がかりになるのは,イエズス会劇とイギ.)ス俳優団 Kom6dianten)である。. (Englische. イグナツイクス・デ・.2ヨラ(Ignatius. de. Loyola. 149ト1556)が1534年パyで創. 設し, 1540年に教皇の認可をえたイエズス会(Societas. Jesu, Jesuitenorden)妊,. 「司. 牧の為の司祭修道会として考察されたものであったから,創立当初よわ自ら,中世末期 全体を通じて教会の緊急事であり且つルッテルの離教連動把よって不可避的となったカ ト1)ッb復興連動(反宗教改革)の貫徹に当ることとなった.起源的にはプロテスタソ. ティズムに対立するものとして創立されたのではなかった如,この修道会は自ら之に対 する闘争に当ることになった.」l)この復興運動は十九世紀のブロラスクント史家によつ. て,反宗教改革(Gegenreformation)と呼ばれているが,これとプロテスタンティズ ムの関係はVlわすもがなである。イエズス会士は政治的権力者や宮廷に関係し,教育事 業につとめ,次第に勢力を増大し,世紀末頃には,プロテスタンティズムに対する捲返 し作戦にぉいて,著しい成果をあげた.この戦闘的で,宗教的にも学問的にも熱烈だつ た会士(会の所属員,ここで問題なのはその大半を占める修道司祭Paterである)が, 学的免撃たるフマニストや,敵対するプロテスタントの学校教師にならって,殆んど同. じ目的の為把,学校劇を試みたのは,当然だろう.独乙に怠けるイエズス会の本拠は, ・十'i世紀の半ば頃から(1544年ケルンに始めて学院が設立盲れた),バイエルン地方に2) 次々と設立された学院(Kolleg)だった。. イ-犬ス会劇はtlわゆる学校割から発展したもので,特別のスタイルをもつ劇の汐ア \. ンルではなく,作者と演出者の身分によって命名されたものであるoだから,イエズス. 会削が,′宗教改革と直接,あるいは間接に関係深いプロテスタンTの学校割に関係があ め.,しかも,両者が理念的には正反対であることがわかる。用語が主把ラテン語だった 点軌両者に共通であるが,イエズス会士は舞台技術の点では,プロテスタントの学校 教師を遠かにしのいでいた.彼らは「オペラのアvゴクーと機械仕掛」3)を既に試みて 1)カト1)ック大辞典,昭和15年東京,第1巻92,,93貢。. 2)商魂,オ-スタ1)-,上ライy,下ライソ地方を含めてo′(なお第三部でくわーくふれたいと 思う) 3). Michael,. Vgl・. J・ Mtiller,. a.A.0.. Jesuitendrama.. S. 21.. Augsburg. 1930.. ⅠⅠ.S. 43..

(17) 63. 宗教改革時代の独乙演劇-その史的発展の考察・序説 いた点で,演劇史的価値さえ有している.イエズス会劇の全盛期はバロック盛期(Hochbarock)紅はぼ一致し,ヴj. ⊥ンでは1620-1680年頃に当 る。独乙に怠ける最初の上. 演は・ 1555年のことで,. 1620年までには捜ぼ二世代の年月が流れていて,この期間の作. こそその全盛期を準備したものといえる。三十年戦争はイエズス会劇にもわざわいした から,. b-れb・れは1618年頃までこの劇を追及するなら,一応この劇の前期・準備期.を知. ることができるだろう。・こa:j時期を代表する三人の司祭作家ボンタ-ヌ.ス(J・Pontanus (J. Gretser. 1542⊥1626);グレツァrl 1578-1639)低. Bidermann. '1562-1625)及びビ-ダーマン(J・. それぞれこの時期のイエズス会劇の各段階を代表している。ピーダJ捻ぼ1600-1620年であるから,こめ点でも,われわれはほぼ三. マンが活躍した時代は,. 十年戦争前までを考えてみればよいことに漁る。この結論は,イギ1)ス俳優団と,その 影響下にあるアイラ-早-イン')ヒ・i-リクス公についても,いえるだろうo' ザクセン選帝侯に招かれ,. 1586年海を渡って始めて独乙本土にさつそうと登場したイ. ギリス俳優団は,・またたく間に数もふえ,やがて独乙人も座員に加え・▲独乙各地を巡業 1)ザベス朝の演劇の片鱗を独乙に伝えたにすぎなかったが,独乙に. し潅.彼らの劇は-. ∧また. はまだなかった職業俳優の,当時としては出色の潰按と変化にとんだ舞台面とで, たく間に大衆を払きつけた。彼らは始め母国語を用いていたが,このことが人気に余E) さわりにならなかったことから推しても;その演技がどんなに漸新なものだったかがわ 1599年11月にミュンスタ-に現われた-産に(3:,一晩に怪し気な低地独乙雷を. かる.. あやつる道化師がいたといわれるが,既にその頃には,独乙語もいくらか用いられてい たと思われるム独乙人の一座であわながら,イギ1)ス俳優田の名をかたるものもあった ぐらVlだから,その名声の程がしのばれるo有名なフランクフルト市の見本市にも,イ. ギ.)ス俳匪団ほ無くてはならぬものであったo各宮廷も舞って一座を長期VZ:わたって抱 「農公金抱え」の名、を売物にするものもあった占. え,劇団の中ycは,. アイラー(∫.. Ayrer. 1543-1605)が劇作家として盛に活躍したのは,生れ故郷ニュー. ル,/べ)i,クに怠ける第二次滞在(1593[4]-1606)の期間で{この頃,イギ1)ス俳優団は ・アム・マイ-/に巡業して,名声を博していたo多. 岩ユ-}L,-/べ}t,クやフランクフル7,. 分,アイラーはずックスの影響が残ってをたニュr-・1L,ンベルクで,先輩にならって大い. に劇作にいそしんだのだろうが,音にきこえていたイギ1)ス俳優団が市に巡業し,市民 の人気をさらい,土着の演劇の影を.うすくさせたから,目先のきく彼は,独乙の古い劇 術に,外来の新しい劇術を接種しようと考えたのだろう。1)ァイラーの劃はこの点で,プ ・p,テスタンt. ・ザ・ヅクスの劇につながわ,新しい刺戟を独乙にも準らしたイギ1)ス俳原. 田にも関係している。 Heinrich. ブラウ-/シュヴ-7イク公子、イ-リヒ・ユー1)クス(Herzog 1). Vgl.. Hampe,. Theodor. Halfte. des. Kritik. J. Ayrers.. den. Die. 15」 Jahrhunderts. englischen. Mit. Entwicklung bis. besonderer. 1806.. des Theaterwesens. 1Ntirnberg Rticksicht auf. Kom8dianten.Leip2:ig・Reudnitz. 19001 sein 1892・. in. Julius. Ntiruberg. S・ 95, 97・ Verhaltnis. Yon. J・B・ zu. der zweiten. Robertson,. Hans. von. Sachs. Zur und.

(18) 64. 永. Braunschweig. 野. 藤. 三夫. 1564-1613)は,イギリス俳優団を自分の宮廷に招きもしたが,その影. 車と助力の下把,自らも劇作を試みた。 1594年作の喜劇「ヴィンツェンツィウス.ラ ディスラウス」1)払いかに彼が英劇をまねたかを,明示している。このような英劇の亜 流が当時盛に行われたことは,想像にかたくない. で払. イギリス俳優団の巡業がいつ頃までつづいたかとV,うた,はつきわ したことは. わからないが,三十年戦争の兵火に巡業をさまたげられ尭劇団が,次第に患とろえてt, 「英国の悲劇と喜劇」が出版されたのは,.1620年 ったことはわかるo評判にこたえて, のことであるが,独乙全土を荒廃させた戦禍は,イギ1)ス俳優餌の運命をもきぁまらせ たと考えられるo彼らは「上演できるチャ-/ス次第で,行く先をきめたo宮廷の祝祭が いち 誘い,市がもうけを約束した.グンチヒのドミ-ク市,フランクフルトやライプチヒの 市-・.・・もそういう機会だったo」2)だから,われわれの想像は事実に近いだろう.彼らは. 兵火をさ軌平穏な地方をえらんで巡業し,細々と余命を永らえていたことはたしかで, その間,独乙の演劇的に不毛の原野に,どれはどすばらしい種をまいたカゝを思えば,イ. ギリス俳優団がまたたく間に死滅したとはいえないが,その清澄な活動の限度払旺ぼ 三十年戦争勃発(1618)の頃と見ても,決して不当ではないだろう. 以上われわれは,三十年戦争が何らかの意味で,宗教改革時代の限界をなしているこ とk・検討したが,この戦乱が単純な外的原因として,いわばdeus. ex血achinaとし. て作用し・絶対的な暴力をふるったのだ,と述べたわけではない。広義の文化史的立場 からしても,三十年戦争が宗教改革時代の限界となったことには,必翻勺な内的原因が あるo戦争は起るペくして起ったが,この戦争がなくとも,この時代は1618年頃をも って一応区分されねばならないだろう。. 十六世紀後半,特に世紀末の向上・発展を全般的に認めるシューラ-やシュタンムラ ーなどの文学史表札三十年戦争がこの上向きの文化をたたきつぶした,とみているよ うであるoつまわ,三十年戦争の織底的な破壊力を強調するわけセぁるo公式的にいえ ば,. Religionsfriede 1555)以降Lはらくつづ ・アウグスブルクの宗教和議(Augsbtlrger いた平和の為vt・文化は向上し別号,三十年戦争がそれを没落させた,というのである.. これに反して,フ1)-デル,ギ-ンク-・ミュラ-,パルテルス等は,十六世絶後半/a 文化はむしろ下向きであわ・文学ではマンネリズムが横行し,特に世紀の変わ目には,. この傾向が払どかったとし・三十年戦争はこの傾向把終止符を打らたにすぎない,と見. 七いるoこの両説の正否については,詳細な検討が必要であるが(第三部参照),結論的 にいえば,われわれは後者に同意したい.文化の転換期にあっては,全盛の強敵な生命 よわも,むしろ余噂を保ってV,る微弱な生命が,次の時代に生きのぴることが多いから. 1) 2). -. Comedia. :Bd・ -Ed・ Michael,. Hidbelepihal v・. Froning・. a.a.0.. Yon. D'as. S. 26.. Drama. Vincentio der. Ladislao.`・. (Ktirschner. Reformationszeit.. Deutsche. ,Stuttgart1. 0.. Nation或1.Lit.. J.)∫. 22..

(19) 宗教改革時代の独乙靖劇-その史的発展の考察・序説 であるo. 65. とにかく,采鼓改革の余波妊,三十年戦争を終結したヴュス7.ファーレ./の和議. (1648)で一応患さまるが,われゎれは演劇史的にほ, ●. ●. ●. ●. ●. 1618年頃まで辿れば十分だろうo ●. 以上われゎれは演劇史的に,宗教改革時代を1400-1618年と規定したが,この時代の ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. 生あ.)ズムを達哉すれば,く(わしくは第一,二,三部の胃頭を参照)明らかな一つの傾向 ●. ●. ●. ●. ●. がみられる.それは革新のライトモチ-フであるoその著しい具現の一つは,本質的匠. は中世人であわ急がら,宗教改革を決行したルック-その人であるo. }L,ツターは掬わ速. された態紀の他に「信仰のみによる救い」の種をまいた。種が芽生えて生長する迄には, 風も爾も,嵐も雪もあわ,殊に,反宗教改革の大暴風雨は払どく若芽をいためつけたo このアレゴ1). この過渡期の. -でもわかるように,この時代は正に宗教改革時代である占. 特色は,中世を支配していた宗教を,内的にも外的にも改革して,新しい宗教上文化を つくわ■出したことだと思われるから,この点でも,.われわれの概念規定は適当だろう。. 更に,.いかにこの時代の演劇がフマニスムスと宗教改革に関係深いかを知るなら,この 時代の演劇史に「宗教改革時代」漁る時代区分を与えることも,,決して奇異ではなく, ある必然性があるだろう。. 業際の記述転患いて推,.いかにこの二世紀余の時代を区分するかが,問題になると患 うが,こq)問題は,既に以上考えてみたところによっても,ある程度解決できるが,各. 時代革帯述するに当って,そのつど必然自勺恵区分について考えるこ主にして,ここでは 触れない_ことにしたいo 第二章. 演劇史方港論. われわれは緒言に患いてT演劇史とは何かの問題にjれ,諸家の見解を枕観L,簡単 な批朝を試み,演劇史q)意味をかなわ明らかにし,結論を兜にかかけpる意味で,. 「われわ. れの演劇史観姓演劇閑族事項一般を,広義の文化史的方港によむ,各時代の生の1)ズム. を適して,綜合的に把摩することにつきる」と述べた.更に,われわれは前章で時代概 念規定を試みながら,われわれの予想Lている方法論が,この間題にも閑適しているこ とを見通したo次に,われわれ埠方法論について検討せねぼならなvl.. ,. 宮島博士は「文化哲学の基礎研究」1)にぉいて,従来行われていた「上からの文化哲学 的文化概念」と十九世紀中葉以後の「下からの人類学的文化概念」と敬, 成作用の諸形健として把達し,基礎づけんと試み,. -生命の自己形. 「下からの生命静的立場-マ<.)ノウ. スキーは,寒化はもともと生物学的要求の充足から生れる,と規定してV.る一に立つ て文化理論を展開」しているoその哲学的特色は,生命自勺系列と価値的系列という,管. 学的にみても調停困難とされてい準,対立的な存在的二大秩序を,遮断現象凌辱入して,。 対応的に結合したことである.そして,主観的心理学的領域で着目された遮断鵠寒が, 1)宮島撃「文化哲学の基礎研究J昭和23年東京・. 13, 15, 284貢参照。.

(20) 66. 永. 一野. 一 一藤. 天. 社会的吏化的領域でも,抑庄現象として客碗的に成立ずることをたしかめ,. fこれを哲学. 「個別的 的に整理し意味づけ準点で参るo この最後の部分で重要な役割を演じるのほ, 限定とその逆限定たる一般的限定とが,今・ここにの現冥的時間に患いて場所的に対応 的に結合することを説く」. 「場所の論理学」 (務合理作著)である。本能と知性なる対立. するものが,ある一席甲結合することは,遮断作用・(瞬間の論理の心理学的表現)によ って,論理的に保証される.結論的VZ:見れば,次のようになるだろうー「本能を基点 として,.生命の自己形成作用の種的一般的限定の方向に,反射作用や屈動性を数える、こ とができ,その個性的特殊的限定の方向に,それらを破り否定するものとして,原始的. 訴芽的思考,考慮,道具的知性,言語的知性,文化的知性等を数えることができるが, それらの南限定は相互に正逆の関係に居る矛盾的なものであると共に,同時にまた相互 補金的な,函数関係的なもゐである。」. この「文化哲学の基礎研究」ノは,生命的系列と価値的系列がいかに結びつくかを,普 わめることをめぎしている。われわれが劇芸術について考える場合は,価値的系列たる 知性から出発することになるo芸術一般を含む文化を創り出すものは,この知性にほか ならない.この知性を精神(Geist)と呼んでもよいだろうo. 精神と文化一般との関係. は,.相互規定的・相関的である。精神は文化一般を創わながらも,同時に逆に,文化一. 嘩によって規定されている。われわれ人間は物質文明を創b急がら,それに規定され,.. また別に,物質文明とは一応対立する芸術一般をも創りだし,同時にそれによって規定 されている.この開拓,つまわ精神好物質,文明対芸術一般の関係に,われわれは宮島 博士の理論をあてはめることができるだろう.つまわ,価値的系列の知性の種々の展開 とその客観化について,この理論を取上げることができるだろう. われわれの見方を結論.的に述べて溶きたい.精神の自己形成作用の種的一般的限定. (生活・非芸術意欲による抑圧)の方向に,生活技術的功利的実用的知性(その客観化し. たものと㌧てのV,わゆる文明)があり,その個性的特殊的限定(芸術意欲による抑圧) の方向に,前の知性を止揚する類の一連の芸術的知性(その客勧化したものとしてのい. わゆる芸術-痩)`がある。両者の関係は身盾的でありながらも,相互神金的函数的開拓 なめであるo. ここで問題なのは,. ■芸術意欲による抑庄の方向Vt数えられる-i連の芸術的知性と,を. の客観化された芸術である。演劇現象を生む母胎である模倣意欲をも含む芸術意欲と. は,一般に実を追求する本能の発現であわ,この意欲が精神の自己疎外的作用を抑庄し, それに新しい方向を与える時,芸術的知性が生れ 次把,. その客観化としての芸術が生れる。. v,かにして芸術一般が文学,演劇,絵画などとなって,個別的に美的系列をなす. のかが,問題になると思う.この場合には,精神,芸術意欲及び両者フ向日顔的に対立す る世界(文化一般)の三要素が,'問題になるだろう。前二者を哲学的心理学的に,:あるい. ほ他め科学的立場で,ある程慶分析し,その個別的本質を明らかにすること疫,或る程. 畢は可能かもしれな巾ミ,ととに-は人間睡の神秘が払められているやゝら,結后は不明忽 点が残ると患う。御ゝら,。われわれはとの点を追求せずに,遂に第三の要素毎ある世界.

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問についてだが︑この間いに直接に答える前に確認しなけれ

関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五