• 検索結果がありません。

中世盛期の詩人フォ‑ゲルヴァイデの言葉をかわるなら,人生の意味は,神の恩寵把 よわ,自他を傷つけることなしに・この世の善と名誉を胸の中に(in scriniumpectoris) つかみとることであるoこの間題は,いかにして罪人が神の恩義をえるかの問題である が,この過渡期の陰うつな世界不簸をこめた問題は,二つの極端なはけ口を求めて爆発 したo前に見たデューラ‑の「メランコ1}ア」はこの間の事情を示している.だが,伝 統的文学には・これを描出するだけの力がなかったo懐疑論と感覚論,新旧の流れの相 菟を示している「ポ‑ミアの百姓」 (Ackermann aus

B6hmen

1400)などは,孤立的 な例であるo2'伝承自弛英雄叙事詩や恋愛詩は・宮廷や騎士階級と連命を共にし,今や

胎動期の激しい動輯をとらえる力を失っていたo宗教の混乱にともなう倫理的混乱,唯 名論の聯弄rlによるニヒリズムと感覚論,二元論の渦中に両極の聞を右往左往する人間性,

1)、 Vgl. Friedell, a.a.0. S. 156.

2) Vgl・ Stammler・ a・ a・ 0・ S・ 29ff・ K・ Burdach, Reformation, Renaissance, Humanismus.

zwei Abhandlungen批er die Grundlage moderner Bildung und

Spr9Chkunst・

Berlin‑

Leipzig 19262. S. 175tf.

宗教改革時代の独乙筑劇‑その史的発展の考察・序説 77 これを曲となわにも表現することは,転換期の文学紅はできなかったoそれがいくらか

でもできたのは,十世紀以降徐々に形成され,発展しつづけてきた演劇だけだったo ルネサンス(1a rinascita, Renaissance)とフマニスムスとは,老衰した中世文化 の崩壊期に生れたが,1'広くその起源をたすねるなら,その入口にはダンデ(Dante

Alighieri †1321)が立ち,その出口にはミケランジェロ・(Michelangelo 1475‑1564) が立ってい予o多くの人々は,この二つのものは自然の生活を殺した冷酷敦力である・

と準えているが,それは,フマニスムスの連動の博学私学校教師的凝固・

'L,ネサンス

末期の空しいフォルマ1)ズム,近世の模倣的傾向などを患いうかべるからだろうoだが, この二つのものの本質を示すのは,プッチ‑/の「生くるはたのしきか忽」という言葉で

ある。2'この二つの運動は時代の要請として生れたもので,本質的には理想的貴族的で, 政治・経済的に生れたものではなVloそれは衰邦人(Barbarentum)からの解放をめぎ したもので,宗教と政治に対して,いわば第三勢力として,倫理・処世・人性の受配を

めぎしたものだったo この点で,イク1)アのルネサンスとフマ‑不ムスは,本質的に国 民意識ゆたかなもので,決してイ‑/♂‑ナショナルなものでなく,その求める理想人を

普遍人(1'uomo universal占)とよん.だのは,国際人の意味にぉいてではなく,一枚に かたよらぬ万能人の意味にぉいてであったo3)

フマニスムスの本質はこのようなものだったから,フマニスムスが十五世紀になって, 恐らくスイス経由で独乙に入?て来た時,かなり払どく変貌したのは当然だろう.その

超辞はフマテク‑ス(humanitas)で,調和的で多方面、でしつかわ′した人格を陶冶する こと,つまり普遍人をつくるのを目的とし発ことには,変わはなかつたoしかし,その

方接がいかにも独乙的に内面化され

ギ}L,

F化されたことは,見逃せない事実で象るo この独乙のフマニスムスの特色を,シュタンムラ‑は巧みに要約して,4'「フマニストは

自由と品位の理念,倫理的自律の信条にみたされていて,十五世紀半ば頃まではキ1)ス ト数的であったが,5'次第に汎神論的に傾いていつた」と述べているo多くのフマニスI

の'L,ツタ‑に対する簡慶を検討すれば,この傾向は明らかになるoメラyヒトンなどは

1)狭義に見れば,その始めほOuattrocentoであるとするのが普通だが,広義で札中位盛期が

その第一段階とみなされる。特にブルダ‑などほこう見ている。 (Vgl・ Burdacb, a・ a・ 0・

S.loo且)

2)

Vgl.

Burdach, a・a・0・ S・ 130f・

3) Vgl. ibid. S. 126‑152. Friedell, a・a・0・ S・ 195f・

4) Vgl. Stammler, a・a・0・ S・ 48‑61, 111・

5)十五世紀半ば頃までは,教会とルネサソスは手をたずぎえ,多くの文学者や芸術家はローヤや アブィニョソに保護を求め,ニコラウス五皆がp‑ヤの教皇座についた時・「フマニストが聖ペ

トロの座にすわった.といわれた程だった.

(Huby,

Christus・訳啓208,

9頁参照)フマニ ストの中にほ,信仰を保っていると宣言しても,いつの間にか異教精神にとらわれた者もあつ た.運命のめぐりあわせか,一度はプラ,/チェスコ会士となった陽気なラブレ‑ (F・Rabelais 1483ト1553?)ち,恐らくはエラスムス(Erasmus 1467‑1536・カト1)ック司祭)ち,モソテ ーニュ(Montaigne 1533‑1592)ち,その信仰宣言のいかんに拘らず,真のキ1)スト教精神を

保っていたかどうかは問題で,むしろ否定的だったと思われる.

78

永 野 ‑ 藤1

例外であるが・‑他のフマニストは殆んど,結局はルック一に背を向けるか,無囲心な立場 をとったからであるo彼らは自由思想家ではなく,客観的真理を追求し,世界観的には 相対的で楽観主義的だったoだから,自然に対.しては,体験を主にした因果論的立場をと ったのは,当然だろうo彼らが科学者として常に念頭におぃたのは,源泉へさかの疲れ

ということだった.彼らはギリシア・ラテンの古典にさかのぼると共に,国粋主義的傾 向を;も示して・ゲルマン人を記述したクキトゥスを研究し,その一人は,十世紀に女ン デルスハイム修道女院でローマのわい雑な喜劇作家に対抗して七曲の喜劇(レ̀∴ゼ■ドラ マである)をものした,修道女ロスゲィJ?の埋れた作品を発見しさえしたo東泉にさ

かのぼろうとする意欲は,二元的傾向把刺戟された人心に房き出た好奇心に関係してい るが,フマニストはそれを科学の面で発揮した.彼らの自負していた公用語は,プ。I クンな中世(教会)ラテン語ではなく・純粋な古典的ラテン語で,彼らはその勉強には最 も意を用いたo中世教会ラテン語は特権階級(聖職者を主とした)のしるしだったが, 今や古典的ラテン語は・新しく成立しつつあった階級(大学出のインテリを主とした) に参加する資格を決定するものとなったo フマニストは誇らかにpoeta (詩人の意だ が・言語学者の意にと・るべきだろう)と自称し,相互間の精神的連帯性を尊重した.こ の為に,聖職者以外の知的職業人(法律家,医者,書記,教師等々)め,いわば教養あ る中産階級(自意識が欠如してV,舞から,むしろStandと呼ぶペきかも知れないが)が 発生し・やがで文化の主要な担当者となったo1'フマニストは全力をあげて,人間の精神 を持草し・向上せしめようとしたカゝら・極端にいえば,中世教会が有していた霊(Se・ele) と牌神(Geist)に対する支配権の少からぎる部分が,神秘主義者とフマニストにうばぁ れたとも言・えるだうろo2)キリ・スト教会の権威がそこなわれることが,中世末の世界に

どんな混乱をもたらし加増,想像にかたくないだろう.

古典文芸は中世を通じて・わずかにテレンティウスやプラウトゥスによって,余噂を 保つにすぎなかったが,古典的言語の研究に没頭したフマニストが,この二喜劇作家の

研究を志し舞のは当然だろうo重た,フマニス=ま学校教師として,学生にラテン語を

教える時には,好んで会話体の教科書を用い,ラテ,/語を実際的にものにし,挙動を立 派にする為には,両作家の古典喜劇を朗読させ,演じさせ,あるいは,自作をその為vc

用いたoルック‑もこういう意味で食卓演説に患いて,Vlわゆる学校劇をすすめているo

演劇そのものの特色のために,ラテン語の学校劇はやがて宗教改革の渦中にまきこまれ, 特にプロテスタントの教師に利用され,カトリウク教会に対する攻撃や教義宣伝の為に 用いられいわば御用割ともいうべき傾向劇(Tendenzdrama)に堕した.両宗派の争 いの激しさは,この傾向劇たる学校劇に反映し,その盛大さは正に狂い咲きのような硯 褒だったo

・この学校劇は職匠歌人の競争心をかきたて・職匠歌人劇(Meistersinger‑

1)

Ⅴgl・

F・

Vo如uhd

M・ Koch, Gesch]・chte der deutschen Literat?r・ Leipzig u. Wien 19244.

I・S・ 230, G・ MGll'er・ Deutsche Dichtung von Renais由nce usw. s. 5.

2)フマニストが低界と人生の讃を解いて,その全能ぶりを発揮‑,叶うめセE̲まない..その気 負った意気込みの激しさを・指摘しておきたいだけである。

宗教改革時代の独乙演劇‑その史的発展の考察・序説 79 drama)を盛にした.この二つの劇が好奇的で物見高い,娯楽にうえていた当時の大衆

敬,'v'かに払きつけたかは,想像:VCかたく恵v,だろう。

ヲてモスムスの自然に対する態度は自然科学を盛にL・,‑星学は天文学となり,錬金術 は次第に科学的になわ,窪学も長足の進歩をとけpた.錬金術と自然緬髄主義(Natur‑

rnystik)で知られた産着′ミラツェル̀スス(Paracels・us 1493‑1541),カト1)ク司祭・天 文学者コペルニクス(Copefr)icus.1473‑1543 独乙人),コペルニクスに拠って地動説

をと患えたフィレンツェめ天文学著ガ1) vオ(Galileo

Galilei

1564‑1642),ケプラ‑

(JKeppleT 1571‑1630簡乙人)など酷十六世紀科学史には逸しえない名で象る.これ

らの̀^々はそ軒Lぞれの分野a)専門家だが,神秘的忽科学が魔術などと共抵いかに好まれ

たかは,当時広く流布し尭「ラァウスト」伝説(通俗本「ファウスト」は1587年に出 版された)‑負号,雄弁に物語って小る。通俗本「ファウス̀ト」の主人公は,四大元素(Ele・

mente)'を研究し,数学卦・天文学者・医者となり,デーモンの力をかりて,天と被造物 と地獄の起源と運行をきわめようとする.その欲する所は,自然科学的方法と神秘科学 的方法の融合である.1).妄了アラス一博士か宗教の束縛をのかれ神秘の世界‑躍みこも

うとするあくなき向学心・好奇心は,当時の民衆の物欲し気な好奇心転訴えた。十六世 紀を好寄(curiositas)'の世紀2'と呼ぶ史家があるのも,もつともである。好奇心とは

特別の刺戟を受抄れば,耳できくぼかりではなく,菌接見て確めることを欲するもので あるo好奇心にあふれた人間は, 「目の人間」3)の型に属する.この横の民衆は史学よわ 演劇を好むものである.宗教改革時代に登場する近代人の原型は,閉ぎされた「耳の人 間」の傾向をもつ中世人に対して;開放的な「目の人間」だといえよう.この人間の発 生年代は,‑神学、・哲学と神秘主義に二元論が現われ都市が発展した十四世紀である。

科学的な目の人間は,仝西欧に見られるタイプで,航海術・火薬・印刷術ゐ三大発明 藍始め,東印度航路(1486, 98)とアメl)カ航路(1492)の発見などは,みなそのすば ちしい業績である。この時代の発明品の申に,計量器のような測定器の多いことは,注 目に債することである。この事実は,いかに当時の科学者が人間を中心に自然の姿を見

極めようとしたか,

,.明確に測定しようとし夜かを,立証しているo

レギオモンクTヌス

(Regiornonta叩S)と呼ぼ終るヨ‑ネス・ミー‑ ‑ラ‑ (Johannes

Miillsr

aus

Eるnigs・

berg in】・Franken

1436‑1477)は,地理・数学・天女に払V,で,豪商の援助をえてニュ

7レ‑(ベ'L/ク把最初の天文台を建立し,印刷所を設けて,独乙にぉける最初の暦(1474) をflj行し,機械工場を薙てては,天文学用の器具,コγパス,地球儀などを製作したo4)

t7ギオ竜‑/♂‑メスの世紀は十六世紀に直結していることを,ここで注意してぉきたいo

1) Vgl. G・ Miiller, Deutsches I〕ichten und Denken usw・ S・ 371

2) R. M. Meyer, Ges〇hichte der deutschen Literatur・ Ⅰ・ Berlin

1920・

S1 239・

3)グソドサフ(F・Gundolf・特にそ?著・.,Goethe")が,耳の人(Ohrenmensch)ニーチェに

対して,ゲ‑テを「目の人.

(A喝enmenSCh)と規定したことを想起されたい○このことは

R.M.

Rilkeに̲もよくいわれる。

4) Vgl. Stammler, a.aJO. S.79.‑Bart占1s,a・よ・o.I・S・145・ S血erer,a・a・o・ (訳書126, 7頁)

関連したドキュメント