香川大学教育実践総合研究(Bull. Educ. Res. Teach. Develop. Kagawa Univ.),21:61−74,2010
保育実践:りくとはなの思いに寄り添って(2)
―幼稚園,5歳児クラスにおける保育実践―
鈴木 政勝・小野 美枝
* (幼児教育)(三豊市立二ノ宮幼稚園) 760−8522 高松市幸町1−1 香川大学教育学部 *767−0021 三豊市高瀬町佐股甲1508−1 三豊市立二ノ宮幼稚園Educational Practice in Kindergarten:Nestle Close to the Mind
of Riku and Hana(2)
―Educational Practice in a Kindergarten 5Years Class―
Masakatsu Suzuki and Mie Ono
*Faculty of Education, Kagawa University, 1-1 Saiwai-cho, Takamatsu 760-8522
*Ninomiya Kidergarten, 1508-1 Ko, Samata, Takase-cho, Mitoyo 767-0021
要 旨 小野は,小野による幼稚園5歳児クラス,りくとはなを中心とした保育実践に関し て,鈴木と共同研究を行った。小野は鈴木との話し合いを通して自らの子ども理解や働きか けをさらに捉え直し,次の保育実践につなげていった。小野は2人に「大切な存在として受 け入れる」「共にする」「認める」というかかわりをする。2人は,少しずつではあるが,大 きく変容していった。 キーワード 幼児教育 保育者 寄り添う 肯定的認識 やさしさ
Ⅰ.はじめに
本稿は,幼稚園教諭である小野と幼児教育 (保育)研究者である鈴木との共同研究を報告 しようとするものである。 共同研究者の一人,小野(以下,小野保育者 と呼ぶ)は,A幼稚園,5歳児クラス(27名) の担任となった。子どもたちは4歳児クラスか ら進級してきた子どもたちである。だが,そこ に2人の子どもが新たに加わった。その2人の 子ども,りく(仮名)とはな(仮名)は,例え ば,小野保育者が「(保育室に集まる時間になっ たので)お部屋に入ろうよ」と声をかけると「う るさいんじゃ」と言う。保育室に入らず,逆に, 滑り台に登りその上で「座ったり寝そべったり する」という子どもである。 小野保育者は,りくとはながなぜこうした行 動をするのか,その内面の思いがよく分からな い。それゆえ,どのように働きかけていったら よいのかよく分からない。小野保育者は,この 事態を打開するため,その日のりくとはなの行 動を思いだし,詳しく書いてみることにした。 また,詳しく書きながら,同時に,2人がなぜ こういう行動をするのか,その時内面でどのよ うなことを感じ,思っているのか理解しようと した。そして,その理解したことも,詳しく書いてみることをした。 また,小野保育者は,その日のりくやはなに 対する自分の働きかけを思い出し,詳しく書い てみることにした。詳しく書きながら,2人に どのように働きかけたらよいと考えたのか,ど のように働きかけたのか,捉えようとした。そ して,その捉えた点についても,詳しく書いて みることにした。 このことを積み重ねることにより,2人の内 面の思いが少しずつ見えてくるようになってき た。また,どのように働きかけていったらよい のか,少しずつ考えられるようになってきた。 だが,同時に,自分の働きかけの問題点も見え てきた。 そこで,小野保育者は,鈴木と共同研究を 行った。鈴木は,小野保育者の話しを聞き,ま た実践記録を読み,「りくとはなはどのような 子どもであるのか」「保育者はどのようにかか わっていくことが大切か」――共同研究者とし ての立場からの――鈴木の理解と考えを話し た。小野保育者は,鈴木との話し合いを通し, 自らの子ども理解と働きかけをさらに捉え直 し,次の保育実践に生かし,つなげていった。 小野保育者は,捉え直した理解と働きかけを生 かした次の保育実践も,詳しく書いた。 本共同研究は,このような研究方法におい て,実施されている。それゆえ,本共同研究を 報告するにあたっては,次のような構成をとり たい。 1.保育者の立場からの,小野保育者による 1学期の保育実践記録 2.共同研究者としての立場からの,小野保 育者の1学期の保育実践記録を読んでの, りくとはなはどのような子どもであるの か,また保育者はどのようにかかわること が大切か,鈴木の理解と考え 3.保育者の立場からの,小野保育者による 2学期の保育実践記録 4.共同研究者としての立場からの,小野保 育者の2学期の保育実践記録を読んでの, りくとはなはどのような子どもであるの か,また保育者はどのようにかかわること が大切か,鈴木の理解と考え 5.保育者の立場からの,小野保育者による 3学期の保育実践記録 6.共同研究者としての立場からの,小野保 育者の3学期の保育実践記録を読んでの, りくとはなはどのような子どもであるの か,また保育者はどのようにかかわること が大切か,鈴木の理解と考え 前稿では,「小野保育者による1学期の保育 実践記録」を取り上げ,報告した。本稿では, 「1学期の保育実践記録を読んでの『りくとは なはどのような子どもであるのか』『保育者は どのようにかかわることが大切か』鈴木の理解 と考え」を報告する。
Ⅱ.小野保育者の1学期の保育実践記録
を読んでの,りくとはなはどのような
子どもであるのか,保育者はどのよう
にかかわることが大切か,鈴木の理解
と考え
1.小野保育者との関係において,りくとはな はどのような子どもであるのか,また保育者 はどのようにかかわることが大切か,鈴木の 理解と考え りくとはなは,4月8日,幼稚園の5歳児ク ラスに入園してくる。 りくとはなは,入園式とその後,担任となっ た小野保育者との関係において4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4,どのような行 動をとっているのだろうか。 事例1。4月8日。りくとはなは「入場し席 につく」。しかし,「しばらくすると話し出す」。 来賓の方が檀上で話しているのにもかかわら ず,「大きな声で話す」。 事例2。4月9日。りくとはなは,登園し, その後「園庭や保育室など自分の好きな場所 で好きな遊びをする」。しかし,集まり時間に なると――幼稚園の他の子どもは,遊んでいた ものを片づけ保育室に入って行こうとするのだ が――逆に,滑り台に登って行き,その上で 「座ったり,寝そべったりする」。小野保育者が「お部屋に入ろうよ」と声をかけると,「うるさ いじゃ,ほっとけ」と言う。そして,「滑り台 から降りて」こない。 事例3。4月14日。この日は雨が降ってい る。クラスの子どもは,保育室内で,友達と思 い思いの遊びをしている。だが,はなは,「一 人で傘をさし」園庭に出て行く。そのうち園庭 の真ん中あたりにしゃがんで動かなくなる。小 野保育者が側に行き「雨の中の散歩しよん?」 と声をかける。すると「うるさい。あっちへ行 け,ババ」と横目で睨む。小野保育者が部屋に 戻るよう声をかけると「もう家にかえるんじゃ」 と雨の中,駆けだし,門から出ようとする。 りくとはなは,入園式とその後,小野保育者 との関係において,このような行動をしてい る。りくとはなは,なぜ,このような行動をし ているのだろうか。 筆者(鈴木)のこれまで多くの子どもにかか わってきた経験から推測すると,りくとはなの こうした行動は,誰かある人とのある関係・か かわりから生じてきているのではないかと思わ れる。 ここで,少し話しが逸れてしまうように見え るかもしれないが,次のこと,すなわち,親, 保育者,教師は,家庭で,幼稚園,保育所で, そして小学校で,子どもにどのようにかかわる のか,ということを考えてみよう。改めていう までもないことであるが,親,保育者,教師 は,子どもを育てよう4 4 4 4として子どもにかかわ る。そのさい,その子どもの今の姿をまず捉 え,その子どもの今の姿から,親,保育者,教 師,社会が望ましい4 4 4 4と考える姿(あるいは,こ れこれの子どもに育てたい4 4 4 4と考える姿)を考え だす。そして,その子どもをその望ましい姿・ 育てたい姿に向けて,育てようと働きかける。 幼稚園・保育所で,保育者は,例えば,子ど もの今の姿を「歌を歌うことができない(ある いは,歌を歌うことはできるがまだ十分に歌を 歌うことはできない)」と捉える。そして,そ の子どもの今の姿から,「歌を歌うことができ る(あるいは十分に歌を歌うことができる)」 という望ましい姿・育てたい姿を考えだし,そ の姿に向けて育てようと,「歌を歌いなさいと 言う」というように働きかける。 また,多くの幼稚園・保育所では,子どもが 登園したら,着替えをし,思い思いに遊ぶ。遊 んだ後,遊んでいたものを片づけ,保育室に入 る。保育室では,保育者は,クラスの子ども全 員に話をしたり絵本を読んであげたりする。あ るいは,クラスの子ども全員が,一緒に描いた り,制作したり,歌ったりする。こういう活動 の流れを計画している。保育者が,子どもの今 の姿を「(集まる時間になったのに)保育室に 入ろうとしない(あるいは,保育室に入ろうと はするのだが十分早く入ろうとしない)」と捉 えるならば,その子どもの今の姿から,「(集ま る時間になったら)保育室に入ろうとする(あ るいは,十分早く保育室に入ろうとする)」と いう望ましい姿・育てたい姿を考えだし,その 姿に向けて育てようと,「保育室に入りなさい と言う」というように働きかける。 こうした保育者の働きかけに対して,保育者 が育てようとすることをする子どもがいる。子 どもが,このようにする(このような子どもに なる)場合には――保育者は自分が育てたい子 どもに育てようとして働きかけているのである から――その子どもを「自分の育てようとする ことをする(自分が育てようとする子どもにな る),良い子ども」と肯定的に認識する。 しかし,子どもの中には,保育者が育てよう とすること(歌を歌うことができること,保育 室に入ろうとすること)をしないという子ども も,もちろん,いる。保育者は,その時――保 育者は自分が育てたい子どもに育てようと働き かけているのであるから――その子どもを「自 分の育てようとすることをしない4 4 4(自分が育て ようとする子どもにならない4 4 4 4),悪い4 4子ども」 と否定的に認識する。そして,その子どもを自 分の育てたいと考える子どもに育てようとし て,その否定的なこと(∼しない4 4 4こと)を直そ4 4 う4と働きかけて行く。 では,保育者が,このように,子どもを否定 的に認識し直そうと働きかけていく時,その子
される時には,その否定的に認識すること,直 そうと働きかけてくることに対して,怒り・攻 撃性が湧いてくる。 怒り・攻撃性は,人が,「生きている価値の ない人」「生まれてこなかった方がよい人」「∼ しない悪い人」「∼ができないダメな人」と否 定的に認識される時,あるいは,傷つけられ, 殺される時,それに対して自分を守ろうとし て生起してくる自然な反応である。筆者自身, 「生きている価値のない人」「∼ができないダメ な人」と否定的に認識される時,その心のなか はどうか内省してみると,そこに怒り・攻撃性 が生じていることを,捉えることができる。 また,怒り・攻撃性に関して次のような場面 に出会ったことがある。ちょうど2歳になった ばかりのある子どもが,一人,床に座って―― 両脚を大きく広げながら――小型のブロックを 楽しそうに組み立てていた。その子どもの両親 は離婚していた。ある保育者が,その子どもの 目の前の位置に立って,他の保育者に話し掛け るつもりで,「○○は親から捨てられた子ども だ。生きている価値のない子どもだ」と言った。 そうしたら,その子どもは,突然,そのままの 姿勢で,顔と頭を激しく床にぶつけた。頭が割 れてしまうのではないかと思うぐらいの音をた てて,2回も3回も。このことは,大人だけで なく,まだ2歳という幼い子どもでも,否定的 に認識された時,激しい怒り・攻撃性が生じる のだということを示している。 このように,保育者がその子どもを否定的に 認識する時,怒り・攻撃性が湧いてくる。その ため,子どもは,保育者の育てようとするこ と(保育室に入ろうとすること)をしようとし なくなる。さらにそれに反発して,保育者が育 てようとすることを頑としてしようとしなくな る。 だが,子どもが,このように,保育者の育て ようとすることを(頑として)しないというよ うになる時,保育者は――「自分は子どもを望 ましい姿に育てようとしているのだ」と思って いるので――そうした子どもを「(自分が育て ようとするのにもかかわらず)自分の育てよう どもは,どのようにするのだろうか。 その子どもが,ちょうどその時――保育室で 絵本を読んでもらうことが楽しいので――保育 室に入ろうとしていた,といった場合には,保 育者の「(保育室に入らないことを直そうとし て)保育室に入りなさいと言う」という働きか けは,その子どもの保育室に入ることを刺激す る,あるいは促すよう働く可能性がある。それ ゆえ,子どもがこのような場合,保育者のこの 働きかけは,子どもが育てたいことをしようと する(保育室に入ろうとする)ように働く。 また――子どもがちょうどこの時保育室に入 ろうとしているのではないとしても――保育者 が例えば,「○○ちゃんは保育室に集まって絵 本を読んでもらうのが好き」と聞く。その子ど もが「うん。好き」と言う。それを受けて「○ ○ちゃんの好きな絵本を読んであげるから,保 育室に入ろうか」と言う。このように働きかけ る場合には,子どもに保育室で絵本を読んでも らうことの楽しさを思いださせることによっ て,子どもの保育室に入りたいという思いを喚 起するよう働くだろう。それゆえ,保育者がこ のように働きかける場合には,子どもは育てた いことをしようとする(保育室に入ろうとする) だろう。 しかし,これら二つの場合を除いて,保育者 がその子どもを「自分が育てようとすることを しようとしない悪い子ども」と否定的に認識 し,直そうとして,「保育室に入りなさいと言 う」と働きかける時,子どもの多くは,保育者 の育てようとすること(保育室に入ろうとする こと)を受け入れようとしないのではないだろ うか。そして,保育者の育てようとすることを しようとしない,さらに,保育者が育てようと することを頑として4 4 4 4しようとしない,というよ うになるのではないだろうか。 人は,誰でも,自分が「∼しない悪い人」「∼ ができないダメな人」と否定的に認識される時 には,その否定的に認識すること,直そうと働 きかけてくることを受け入れることは難しい。 また,人は,誰でも,自分が「∼しない悪い 人」「∼ができないダメな人」と否定的に認識
とすることをしない悪い子ども」とさらに否定 的に認識し,直そうとする働きかけをさらに強 めていく。一方,このことに対して子どもも, 怒り・攻撃性がさらに生じ,保育者の育てよう とすることを(頑として)しないということを さらに強めていく。 筆者は,上に,入園式とその後のりくとはな の行動は,誰かある人とりくやはなとのある関 係・かかわりから生じてきているのではないか と述べた。その誰かある人とりくやはなはとの 関係・かかわりというのは,今述べた「子ども を否定的に認識し直そうと働きかける親,保育 者,教師」と「育てようとすることを頑として しようとしない子ども」という関係・かかわり であったのではないかと思われる。 りくとはなは,幼稚園の5歳児クラスに入園 してくる。りくとはなは,そこで,小野保育者 に出会う。小野保育者は,りくとはなに対し て,否定的に認識し働きかける,という保育者 ではなかった。だが,りくとはなは,幼稚園は 初めてであり,幼稚園の生活はどういうものか 分からない。また,小野保育者はどういう保育 者なのか分からない。その結果,小野保育者 を,自分を否定的に認識し直そうと働きかける 保育者であると思って――より正確に言うと, 思いこんで――小野保育者にかかわっていく。 小野保育者の例えば「保育室に入ろうよ」とい う働きかけに対して,「その言う通りには頑と してしない」とかかわっていく。 だが,子どもが,保育者の「保育室に入ろう よ」という働きかけに対して,保育室に入るこ とを頑としてしようとしない,ということをす るならば――上に述べたように,保育者は自分 の育てたい姿に育てようと働きかけるのである から――保育者は,その子どもを「自分の育て ようとすることをしない悪い子ども」と否定的 に認識し直そうと働きかける,ということをし4 ないではおられない4 4 4 4 4 4 4 4 4のではないだろうか。―― 小野保育者はこうした働きかけをしなかったの であるが――もし小野保育者が,りくとはな に,「否定的に認識し直そうと働きかける」こ とをしたならば,その時は,どうであろうか。 もし小野保育者がりくとはなを,「自分の育 てようとすることをしない,悪い子ども」と否 定的に認識し直そうと働きかけることをした ならば,りくとはなは,「自分は小野保育者に よって∼しない悪い子どもだと見られている自 分である」と自分を認識する(感じる)だろう。 りくとはながこのように自分を認識すると―― こういう自分は「なりたい自分」「肯定的な自 分」ではないので――悲しさ,苦しさ,惨めさ を感じる。また――こういう自分は「なりたい 自分」「肯定的な自分」ではないので――こう いう自分を受け入れること,心を開くことがで きない。 また,もし小野保育者がりくとはなを否定的 に認識し直そうと働きかけることをしたなら ば,りくとはなは,小野保育者を「自分を∼し ない悪い子どもと否定的に認識し,直そうと働 きかけてくる人」と認識するだろう。 「自分を大切な存在として受け入れてくれる 人」「自分を肯定的に認識してくれる(認めて くれる)人」として認識する時には,子どもは, その人を「これからも自分を大切な存在として 受け入れてくれる人」「これからも自分を肯定 的に認識してくれる(認めてくれる)人」とし て信じる(信頼)ことができる。受け入れるこ とができる。心を開くことができる。しかし, その人を,「自分を否定的に認識する人,直そ うと働きかけてくる人」と認識する時には,そ の人を信頼することができない。したがって, 受け入れること,心を開くこともできない。 それゆえ,りくとはなが小野保育者を,「自 分を否定的に認識する人,直そうと働きかけて くる人」と認識する時には,悲しさを感じ,ま た小野保育者を信頼することができない。受け 入れること,心を開くことができない。 そしてもし小野保育者がりくとはなを否定的 に認識し直そうと働きかけることをしたなら ば,りくとはなには,怒り・攻撃性が生じてく る。 人は,誰でも――人が自分を「∼しない悪い 人」「∼できないダメな人」と否定的に認識す る時には,あるいは傷つけ,殺そうとする時に
は,それに対して自分を守ろうとすることとし て,怒り・攻撃性が生じてくる。 怒り・攻撃性は,まず,自分を否定的に認識 しようとする人,傷つけ,殺そうとする人に, 向かう。また自分自身にも向かう。自分を,悪 い子ども,ダメな子どもと否定的に認識しよう とする。傷つけ,殺そうとする。 小野保育者がりくとはなを否定的に認識し直 そうと働きかけることをしたならば,りくとは なにも,こうした怒り・攻撃性が生じてくる。 りくとはなは,自分を守ろうとして,①小野保 育者の例えば「保育室に入ろうよ」という働き かけに対して,自分を閉ざし,その働きかけて くることをしようとしない。②それだけでな く,それに反発し,その働きかけてくることを 頑としてしようとしない。③「くそばば」と言 葉で,あるいは「叩いたり,蹴ったり」と身体 で,否定的に認識し,傷つけようとする。④そ してさらに,小野保育者が自分の側に近づいて くることさえも――小野保育者が自分を否定的 に認識し直そうとして近づいてくるのだと思い 込み――「うるさい,あっちへいけ」と言った り,叩いたり蹴ったりして,あらかじめ防ごう とする。また,怒り・攻撃性を自分自身に向け る。自分の頭を壁に激しくぶつけたり,走って いる自動車の前に飛びだしたりして,自分を否 定し,傷つけ,殺そうとする。 もし小野保育者が,りくやはなに対して,否 定的に認識し直そうと働きかけることをしたな らば,りくとはなは,こうした関係や行動をと る。こうした関係や行動は,「自分を『∼しな い悪い子ども』と認識し悲しさを感じる,自分 を信頼しない,受け入れない」「小野保育者を 『自分を否定的に認識する人』と認識し悲しさ を感じる。小野保育者を信頼しない,受け入れ ない」という関係であり,「自分を傷つけ殺そ うとする」「小野保育者を傷つけ殺そうとする」 という行動である。 ――もしこのことから「保育者はりくとはな にどのようにかかわることが大切であるか」と いうことを明らかにしようとするならば――保 育者は,りくやはなに対して,否定的に認識し 直そうと働きかける,というかかわりをしては ならない,ということが明らかになる。 さて,以上述べてきたように,入園式とその 後のりくとはなは,小野保育者に――小野保育 者は否定的に認識し直そうと働きかけてくるの だと思いこんでいるため――働きかけられるこ とを(頑として)しようとしない,さらに否定 的に認識し傷つけようとする,というようにか かわっている。 しかし――小野保育者の実践記録を丁寧に読 むと――入園式とその後のりくとはなの小野保 育者へのかかわりは,こうしたかかわりだけで はない。りくとはなは,小野保育者に対して, 「自分を大切な存在として受け入れてくれるこ と」「自分の感じること,考えること,しよう とすることを,共に感じ,考え,しようとして くれること」,「自分のしようとすること(した こと)を認めてくれること」を求めている。 事例3。4月14日。この日は雨が降ってい る。クラスの子どもは,保育室内で,友達と思 い思いの遊びをしている。だが,はなは,「一 人で傘をさし」園庭に出て行く。そのうち園庭 の真ん中あたりにしゃがんで動かなくなる。小 野保育者が側に行き「雨の中の散歩しよん?」 と声をかける。すると「うるさい。あっちへ行 け,ババ」と横目で睨む。 はなは,この日このように,一人傘をさし園 庭に出,園庭の真ん中あたりにしゃがむことを し,こうした姿を小野保育者に見せるというこ とをする。はなは,自分のこうした姿を小野保 育者に見せることによって,小野保育者に,こ ういう自分に注目してほしい,大切な存在とし て受け入れてほしい,また認めてほしいと求め ているのである。 はなは,小野保育者に,「注目してくれるこ と」「受け入れてくれること」「共にすること」 「認めること」を求める。だが,はなは,自分 をそのままの姿(その存在)において肯定し受 け入れてくれるのではない4 4人,自分のすること を肯定的に認識し認めるのではない4 4人,言い換
分である,こういう自分に注目してほしい,そ して,大切な存在として受け入れてほしい,認 めてほしい,と求めているのである。 このように,りくは,小野保育者に求める。 だが,小野保育者が食べるよう誘うと,「いら ん」と拒否してしまう。はなと同じである。小 野保育者の自分への働きかけが,自分を否定的 に認識し直そうと働きかけてくるのだと見えて くるので,拒否してしまうのである。 小野保育者は,ここでも,こうしたりくに対 して,やはり,否定的に認識し直そうと働きか けるということはしない。りくを,まずは,受 け入れることをする。そして,りくがなぜこう した行動をするのか,その時の内面の思いを理 解しようとする。「りくは不安な気持ちになる と,激しい感情的な言葉を使ってしまうのでは ないか」「そんな不安な気持ちになった時にこ そ,自分に寄り添ってほしいと思って,なお荒 れるのではないか」と理解しようとする。そし て,「2人だけで時間を共有し」りくの気持ち に寄り添おうとする。 小野保育者は,職員室のテーブルに向かい 合って座り,りくと話をする。自分にとってり くは大切な子どもである。だからりくには,大 きくなってほしいし,丈夫で病気にならない人 になってほしい。りくにはそういう人になって ほしいので,りくには給食を食べてほしい。と いう話しをする。 小野保育者がこのように時間を共有し話しを するなかで,りくは,「自分は小野保育者が大 切な子どもであると思っている自分である」「小 野保育者が理解しよう(共にしよう)としてい る自分である」と感じる。そこで,そういう自 分を受け入れる。また,小野保育者を「自分を 大切な子どもである思ってくれる,自分を理解 しようとしてくれる保育者である」と感じて, 小野保育者を信頼し,受け入れる。 自分を信頼し受け入れる時,また小野保育者 を信頼し受け入れる時,りくは,自分,小野保 育者だけでなく,周りの人・物・ことにも開か れる。先ほどまでは給食を食べることを拒否し ていたのだが,その給食を食べることにも開か えれば,「自分を否定的に認識する人」「否定的 なことを直そうと働きかける人」に出会ってき た。そのため,小野保育者を,「否定的に認識 し直そうと働きかけてくる人」と思いこむこと になった。小野保育者を否定的に認識し直そう と働きかけてくる人と思いこむため,小野保育 者の自分へのかかわりを――それが「受け入れ たい」「共にしたい」「認めたい」というかかわ りであるとしても――自分を否定的に認識し直 そうと働きかけてくるものであると感じてしま い,受け入れるのではなく,むしろ「うるさい。 あっちへ行け,ババ」と排除してしまうのであ る。 小野保育者は,こうしたはなに対して――普 通保育者は,子どもがこのようにかかわってく る時,やはり否定的に認識し直そうと働きかけ ることをしてしまうだろうと思われるのだが― ―――否定的に認識し直そうと働きかけること はしない。はなを,まず,そのままの姿におい て受け入れようとする。そして,はながなぜこ うした行動をするのか,その時の内面の思いを 理解しようとする。 小野保育者は,はなと保育室に入り,はなと 話をしようとする。実践記録では触れられてい ないが,今家に帰るというが,今家にはお母さ んはいない。だから一人寂しい思いをしなけば ならない。幼稚園では私がいる。はなを大切な 子どもだと思っている。はなを好きである,と いうことを話し,はなを大切な存在として受け 入れたい,はなが好きであるということを伝え ている。 事例5。4月17日。給食の時間になり,クラ スの子どもが「給食の用意をしはじめる」と, りくは,自分のロッカーの前にごろんと寝転 ぶ。小野保育者が食べるように誘うが,「いら ん」と言う。他の保育者がなだめたりするが, 「うるさい」「ぼけ」と蹴り暴れる。 この日,りくは,給食を食べず,ロッカーの 前に寝転ぶということをし,こうした姿を小野 保育者に見せるということをする。りくは,こ うした姿を小野保育者に見せることによって, 小野保育者に,自分はこういう悲しく惨めな自
れる。りくは,自分から給食を食べ,全部食べ 終わる。 事例7。4月21日。この日,りくは次のよう な行動をとる。 午後4時頃,幼稚園の他の保育者がりく君 たちが,外に飛びだしていると知らせてきた。 「『くるな』『あっちへいけ』と『危ないことし てやるわ!』と叫びながら,逃げる」。その駐 車場は保護者の車が出入りしており,そこを走 ることは危険である。「命にかかわることだと 思ったので,私は,りくの行動を怒った。『な ぜ,こんなことをしたのか』と聞くと,『危ない ことしたかったんじゃ』とりくがつぶやいた」。 こうしたりくの行動は,りくが否定的に認識 され直そうと働きかけられる,その時のりくの 行動と同じである。人は誰でも,否定的に認識 され直そうと働きかけられる時には,激しい怒 り・攻撃性が湧いてくる。怒り・攻撃性は,自 分自身にも向かい,自分を否定し,傷つけ,殺 そうとする。 この日のりくは,誰かから否定的に認識され 直そうと働きかけられたのではないだろうか。 これまで否定的に認識されてきたりくは,周り の人の自分への否定的認識に敏感になってい る。誰かが――否定的に認識しようと意図的に 言ったのではなく――ただ何気なく言った一言 であっても,そこに自分への否定的認識が含ま れておれば,それを敏感に感じ取ってしまう。 そのため,怒り・攻撃性が生じる。怒り・攻撃 性は,自分に向かい,自分を殺そうとして駐車 場へと飛び出すことをしたのではないだろう か。小野保育者が「なぜこんなことをしたのか」 と聞いた時,りくは「危ないことしたかったん じゃ」とつぶやいた。この「危ないことしたかっ たんじゃ」というりくの言葉から,りくは,自 分を殺そうとして駐車場へ飛び出したのではな いかと推測される。 小野保育者は,この場で,りくと真剣に向き 合おうとしている。りくの命にかかわることで あるので,命を危険にさらすことは決してして はならないと怒った。だが,小野保育者のその 怒りには,りくの命を本当に大切に思う小野保 育者の気持ちがこめられている。りくは,この 時初めて泣いた。りくは,小野保育者の気持ち を感じとったのである。 小野保育者がりくの存在・命を大切にしよう とすることによって,りくは,一つには,自分 は「小野保育者によって大切にされている(自 分である)」と自分を認識する。りくは,こう した自分を感じる時,嬉しさを感じる。りく は,こういう自分を信頼し,受け入れる。 りくは,次の場面において,「小野保育者に 大切にされたい(される自分になりたい)」と 思うようになる 小野保育者が,りくの存在・命を大切にしよ うとすることによって,りくは,二つには,小 野保育者を,「自分の存在・命を大切にしよう とする人」と認識する。小野保育者をこうした 人として認識する時,嬉しさを感じる。りく は,小野保育者を信頼し,受け入れる。 りくは,次の場面において,「(小野保育者に は)自分の存在・命を大切にしようとしてほし い(大切にしようとする人になってほしい)」 と思うようになる。 小野保育者が,りくの存在・命を大切にしよ うとすることによって,りくは,三つには,小 野保育者を「自分の存在・命を大切にしようと する人」と認識する。小野保育者をこうした人 として認識すると,りくは,小野保育者を好き4 4 になる。小野保育者を好きになると――これま では,小野保育者が4 4 4 4 4 4自分の存在・命を大切にし てくれることを求めていたのだが――今度は, りくが4 4 4「小野保育者の存在・命を大切にしたい」 と思うようになる。 りくは,かつて,そしてこの日も,「自分を これこれと認識する,悲しさを感じる。信頼し ない,受け入れない」「その人をこれこれと認 識する,悲しさを感じる。信頼しない,受け入 れない」という関係を作ってきた。だが,小野 保育者がりくの存在・命を大切にしようとする ことによって,この関係から抜け出す4 4 4 4。「自分 をこれこれと認識し喜びを感じる。自分を信頼 し,受け入れる」「小野保育者をこれこれと認 識し喜びを感じる。小野保育者を信頼し,受け
入れる」「小野保育者をこれこれと認識し喜び を感じる。小野保育者を好きになる」という 関係を自ら築き,「小野保育者に大切にされた い」,「(小野保育者には)自分を大切にしてほ しい」「小野保育者を大切にしたい」と思うよ うになる。 以上,次のことを述べた。りくとはなは,小 野保育者に「大切な存在・命として受け入れく れること」「共にしてくれること」「認めてくれ ること」を求める。小野保育者は――事例3(4 月15日),事例5(17日),事例7(21日)の各 場面を通して――りくとはなを「大切な存在・ 命として受け入れる」,「共にする」,「認める」 ことをする。 小野保育者がこのことをすることを通して, りくやはなは,自ら――少しずつ――「自分を これこれと認識し喜びを感じる。自分を信頼 し,受け入れる」「小野保育者をこれこれと認 識し喜びを感じる。小野保育者を信頼し,受け 入れる」「小野保育者をこれこれと認識し喜び を感じる。小野保育者を好きになる」という関 係を築いていく。 それゆえ――今「保育者はりくとはなにどの ようにかかわることが大切か」鈴木の考えを述 べるならば――保育者は,りくとはなが,自ら この関係を築いていくことを援助すること,具 体的に言えば――りくやはなをそのままの姿に おいて受け入れる。内面の思いを理解する。寄 り添い話す。そして,このことを通して,りく とはなを「大切な存在・命として受け入れる」 「共にする」「認める」ことをする,ということ が大切になる。 2.クラスの子どもとの関係において,りくや はなはどのような子どもであるのか,また保 育者はどのようにかかわることが大切か,鈴 木の理解と考え りくとはなは,入園式とその後,クラスの子4 4 4 4 4 どもとの関係4 4 4 4 4 4において,どのような行動をとっ ているのであろうか。 事例3。4月14日。この日は雨が降ってい る。クラスの子どもは,保育室内で,友達と思 い思いの遊びをしている。だが,はなは,一人 で傘をさし園庭に出て行く。そのうち園庭の真 ん中あたりにしゃがんで動かなくなる。 事例4。4月16日。はなは,「片づけの放送 が鳴り始めると,自分から保育室に入るように なってきた」。だが,みんなが集まりだすと, 「ロッカーの中やピアノの後ろに隠れる」。「紙 芝居や話が始まると廊下に出て,寝転がったり する」。 りくとはなは,入園式の前後,クラスの子ど もとの関係においてこのような行動をする。り くとはなは,なぜこうした行動をするのだろう か。この時,その内面でどのようなことを感 じ,考え,しようとしているのだろうか。 この時の,はなとりくは,クラスの子どもに 一緒に遊ぶ子どもとして受け入れてほしい,一 緒に遊びたい,と思っている。だが,自分を一 緒に遊ぶ子どもとして受け入れてくれる子ども は,見つからない。だから,「入れて」と言っ て遊びに入って行くことができない。さらに, クラスの子どもは,自分を「∼しない悪い子ど も」「∼できないダメな子ども」と見ているの でははないか,それゆえ「自分と一緒に遊びた くない」と思っているのではないか,と感じる。 そこで,「入れて」と言うことさえできない。 「入れて」と言って入って行くことができな い,あるいはさらに「入れて」と言うことさえ できずに,クラスの子どもの遊んでいる場から はじき出されるように,園庭に出ていきしゃが みこんでしまう。廊下に出ていき,寝ころんで しまう。 この時,りくとはなは,「一緒に遊んでくれ る子どもがいない。一人ぼっちである(自分で ある)」と強い孤独感を感じている。また,「入 りたいが入れない,そこから出ていってしまう 自分である」と,悲しさ,惨めさを感じている。 では,りくとはなの,こうした行動や内面の 思いを生み出す背景となっているものはなんで あろうか。 一つは,りくとはなが,幼稚園の5歳児クラ
スに入園してきたこと,しかも二人だけで入園 してきたことがあげられる。 幼稚園の5歳児クラスだと,クラスの子ども は,既に一緒に遊ぶ友達がおり,その友達とほ とんどいつも一緒に遊んでいる。友達と一緒に 遊んでいない子どもはいないので,一緒に遊ん でくれる友達を見つけることは難しい。そし て,りくやはなはもう5,6歳児である。3歳 児だと一緒に遊ぶ友達がまだいない子どもが多 く,したがって,一人で遊んでいても「自分 は一緒に遊ぶ友達がいない。一人ぼっちであ る」と強く感じることはない。だが,りくとは なは,5,6歳児であるので,一人で遊んでい ると,「自分は一緒に遊ぶ友達がいない。一人 ぼっちである」と強い孤独感を感じる。 また,りくとはなは,何人かと一緒ではな く,二人だけで入園してきている。しかも,男 子と女子である。もし何人かと一緒に入園して きているならば,そして同姓で入園してきてい るならば,入園してしばらくの間はその子ども と一緒に遊ぶことができる。それゆえ,入園し ていきなり,「一緒に遊ぶ友達が見つからない。 1人ぼっちである」と強く感じることにはなら なかったであろう。 しかし,りくとはなのこうした行動を生み出 す背景は,これだけではないと思われる。―― これは筆者の推測であるが――りくとはなは, クラスの子どもが自分を「∼しない悪い子ども だ」「∼できないダメな子どもだ」と見ている のではないか,それゆえ「一緒に遊びたくない」 と思っているのではないか,と感じているので はないだろうか。りくとはなは,入園式の時, 来賓が壇上で話しをしているのに,大きな声で 話すことをしている。式典で,来賓の方が話を している時,大きな声で話すということは,誰 でもが「してはならない」と思うことである。 だが,りくとはなは,その「してはならない」 と言われることを,している。りくとはなは, こういうことをしているので,クラスの子ども は自分を「∼しない悪い子ども」「∼できない ダメな子ども」と見ているのではないか,それ ゆえ「一緒に遊びたくない」と思っているので はないか,と感じているのではないか,と思わ れる。 りくとはなが,「入れて」と言えない。その 「入れて」と言えないということにはかなり激 しいものがある。この「入れて」と言えない, ということには,りくとはなが,クラスの子ど もは自分を「∼しない悪い子ども」「∼できな いダメな子ども」「一緒に遊びたくない子ども」 と見ているのではないか,と感じとっている, ということがあるのではないかと思うのであ る。 さて,クラスの子どもとの関係において,り くとはなは,どのような行動をとっているの か。その時,その内面でどのように感じ,考 え,しようとしているのか,述べた。ここから は,具体的な場面に即しつつ,りくとはなはク ラスの子どもとどのようにかかわっていくの か,小野保育者はりくやはなの内面をどう理解 しどのようにかかわっていくのか。そして,り くやはなは――時には小野保育者の援助を得て ――自分やクラスの子どもとどのような関係を 築いていくのか,考察する。 事例4。4月16日。はなは,「片づけの放送 が鳴り始めると,自分から保育室に入るように なってきた」。だが,みんなが集まりだすと, 「ロッカーの中やピアノの後ろに隠れる」。「紙 芝居や話が始まると廊下に出て寝転がる」。 この時のはなは――既に述べたように――ク ラスの子どもに一緒に遊ぶ子どもとして受け入 れてほしいと思っている。だが,受け入れてく れる子どもは,見つからない。さらに,クラス の子どもは自分を「∼しない悪い子ども」と見 ているのではないか,それゆえ「一緒に遊びた くない」と思っているのではないか,と感じる。 それゆえ,「入れて」と言うことさえできない。 はじきだされるようにして廊下へ出,そこで寝 転がる。 はなは,こうした状況にいる。では,はな は,こうした状況において,どのようにクラス の子どもとかかわっていくようになるのだろう か。
今ここでは,まず,はなと同じように5歳児 クラスに新たに入ってきた子ども,そうした子 どもは,どのようにクラスの子どもとかかわっ ていくようになるのか,考えてみよう。 一番多いのは,その子どもが一人で遊ぶ,そ の中で,少しずつ,クラスの子どもとかかわっ ていくようになる,という場合である。 その子どもは,もちろん,クラスの子どもと 一緒に遊びたいと思っている。だが,一緒に遊 ぶ子どもを見つけることができない。そこで, 一人で遊ぶ。しかし,一人では寂しい。そこ で,自分と同じような遊びをしている子どもを 見つけ,その側で遊ぼうとする。そして,一人 で遊びながら,相手の子どもがどんなことを感 じ,考え,しようとしているのか分かってくる と,「こんなもの作ったよ」と見せたり,「自分 の作っているものと同じだ」と共感したり,「上 手に作っているね」と認めたり,というように かかわっていくようになる。 しかし,こうした場合だけではない。担任の 保育者が,例えばその子どもがクラスの子ども と同じ遊びをするという環境を構成する。その 子どもは,その環境にかかわって,同じ遊びを し,その中でクラスの子どもと自然とかかわっ ていくようになる,という場合もある。また, その子どもが,まだ一人で遊んでいる時点で, クラスの子どもの方から「一緒に遊ぼう」と声 をかけてくる,という場合もある。 このはなの場合は,なんと,クラスのある子 どもが,はなの手を握り,一緒に絵本を読んで もらうとする(一緒に遊ぼうとする),という ことをする。この時点では,はなは,まだ,そ の子どもがどういう子どもか,どんなことを 思っているのか,知らないと思われる。それゆ え,はなは,一瞬,その子どもがどのようなこ とをしようとしているのか,理解できなかった ようだ。だが,すぐ,その子どもが自分と一緒 に遊ぼうとしている,ということを理解する。 大きな喜びを感じ,その子どもの「顔をみて にっこり笑う」ということをする。 この日,はなは――自分から保育室に入るよ うになってはきているが――「話が始まると廊 下にでて,寝転がる」ということをしている。 普通保育者にとって,こうしたはなの姿を受け 入れることは難しいだろうと思われる。だが, 小野保育者は,このはなを,そのままの姿にお いて受け入れようとする。そして,はながこう した行動をする,その時のはなの内面の気持 ち,すなわち,「はなが,クラスの子どもと一 緒に遊びたいと思っていること,しかし一緒に 遊んでくれる子どもは見つからないこと,・・・・ はじきだされるように廊下へ出,寝転がるとい うこと」を理解し,共に感じようとする。小野 保育者がはなの内面の気持ちを理解し共に感じ ようとする時,はなは「自分は,小野保育者に よって分かってもらえる」と感じる。 小野保育者は,また,その子どもがはなと一 緒に絵本を読んでもらうとした(一緒に遊ぼう とした)時,はながいかに嬉しかったか,理解 しようとし,そして共に喜ぶということをす る。小野保育者が一緒に喜ぶということによっ て,はなの「その子どもと一緒に絵本を読んで もらうようになった(一緒に遊ぶようになっ た)」という喜びは,2倍,3倍にも感じられ る。 事例6。4月20日。りくは――小野保育者と の信頼関係が少しずつできてきており――小野 保育者が声をかけると滑り台から「すぐに降り てきて」一緒に保育室に入るようになってきて いる。だが,保育室の前までくるとその場で止 まってしまう。クラスの子どもは「友達に声を かけ合って・・・座っている」「そんな中りくは, じっと立ちすくんで」しまう。 こうしたりくの姿を前にして――小野保育者 には――なぜ,りくがこうした行動をとるの か,その時のりくの気持ちがもう一つよく理解 できない。入園して12日も経っている。はなは クラスの子どもと遊ぶようになっている。りく も,保育者との信頼関係が少しでき,一緒に保 育室に入ろうとするようになっている。それな のになぜ,保育室の前までくると,立ち止まっ てしまうのだろうか。 小野保育者は,悩む。幼稚園にいる時だけで はなく,それ以外の時にも,りくの気持ちを考
え,想像してみようとする。――これは小野保 育者が筆者に口頭で話されたことであるのだが ――そんな時,小野保育者はある研修会に参加 した。会場に入ろうとして,一瞬,誰と座ろう か,どの席に座ろうか,迷い,立ち止まってし まった。そしてこの時,もしかしたら,りく は,今の私と同じような気持ちなのではない か,つまり,りくは保育室の中に一緒に遊ぶ友 達を見出すことができない(言い換えれば居場 所がない),そのため保育室に入って行くこと ができず,立ち止まってしまうのではないか, ということに気づいた。 小野保育者は――りくの内面の気持ちの理解 に基づき――りくは,こうした状況において, どのようにして一緒に遊ぶ友達を見つけていこ うとするのか,見通そうとする。また,自分の 力だけで一緒に遊ぶ友達を見つけていくことが できるのか,見通そうとする。小野保育者は, 今のこの状況においては,りくは,自分の力だ けで,一緒に遊ぶ友達を見つけていくことは難 しいと判断し,りくが一緒に遊ぶ友達を見つけ ていくことができるよう援助しようとする。 りくが,クラスの子どもと同じ遊びやゲーム をする。その中で,クラスの子どもと自然に触 れあい,かかわっていく。かかわっていく中 で,りくは一緒に遊ぶ友達を見つけていくこと ができるのではないかと考え,りくがクラスの 子どもと同じ遊びやゲームをするという環境を 構成する。 小野保育者が環境を構成したことにより,り くはクラスの子どもと一緒にゲームをする。り くは,ゲームをすることを通して,クラスの子 どもと自然に触れあい,かかわっていく。 事例15。6月9日。小野保育者は,この日, クラスの子どもと飛び出すカエルのおもちゃを 作るという環境を構成する。りくとはなは,ク ラスの子どもと一緒にカエルを作ろうとする。 そしてその中で,クラスの子どもとかかわって いく。 はなは,カエルを作ろうとするが,途中作り 方が分からなくなる。「できん」というと,横 の席の子どもが作り方を教えてあげる。また, りくとはながカエルを作りあげて「できた」と つぶやく。そうすると,側にいた子どもが「ほ んとや!じょうずやん」と認めることをする。 はなは,カエルの作り方が分からなくなった 時,横の子どもが教えてくれた。そのことに よってカエルを作りあげることができた。はな は,カエルを作りあげた時,「横の子どもが作 り方を教えてくれて,カエルを作りあげること ができた(自分である)」と感じ,喜びを感じ る。また,りくが作りあげた時,側にいた子ど もが上手だと認めてくれた。りくは,「上手に 作りあげたと認められた(自分である)」と感じ, 嬉しさを感じる。 事例16。6月16日∼6月末。りくは,6月9 日には,クラスの子どもとカエルを作った。ま たその中でクラスの子どもとかかわり,作りあ げる喜び,認められる喜びを味わった。こうし4 4 4 た喜びを味わったからであろう4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。りくは,この 日――もはや一人一人の遊びではなく――クラ スの子どもと共通の目的をもった遊び,「ジャ ンケン遊び」という共通の目的をもった遊びを, するようになる。 りくは,ここでは,①一緒に遊ぶ子どもか ら,ジャンケン遊びをする者として受け入れら れる。②一緒に遊ぶ子どもと目的を共有し,そ の役割(ジャンケンをし,勝ち進む)を果たそ うとする。③一緒に遊ぶ子どもから,その役割 を果たすことを認められる。 事例18。7月6日∼8日。りくは,給食当番 に自分から積極的に取り組むようになる。 友達と一緒に牛乳瓶を片づけ,給食室まで もって行く。「今度はどれ運ぶぞ?」と友達に 声をかける。 りくが給食当番をする場面は,事例10(5月 11日)にもある。この日は,小野保育者が「り く君,力あるからこれ持てる?」と声をかけ る。それに対して,りくが「ええよ,力もちだ から何回も運べるで」と答え,給食を取りに行 くことをしている。つまり,小野保育者に自分 が「力もちであること」を示そうとして,給食 を取りに行くことをする。それゆえ,食べた後 の食器の片づけや掃除になると――力もちであ
ることを示すことはもう終わっているので―― 「なんで片づけせないかんの!」と言って,し ようとしない。 しかし,りくは,このあと,6月16日に,ク ラスの子どもとジャンケン遊びという共通の目 的をもった遊びをした。りくは,そこで,共通 の目的をもった遊びをすることの喜びを味わっ た。喜びを味わったので4 4 4 4 4 4 4 4 4,りくは――クラスの 子どもとジャンケン遊びという共通の目的をも ち,その遊びをするというだけでなく――さら に,クラスの子どもと給食の準備・片づけをす るという共通の目的をもち,給食当番をするよ うになったのだと考えられる。 りくは,給食当番に積極的に取り組む。 給食当番に取り組む時,りくは,①クラスの 子どもから,一緒に給食当番をする者として受 け入れらる。②当番をする子どもと目的を共有 し,役割(給食を準備し,片づける)を果たそ うとする。③クラスの子どもから,その役割を 果たすことを認められる。 りくは,一緒に当番する子どもが,りくを, 一緒に当番をする者として受け入れてくれる 時,共通の目的をもち一緒に役割を果たそうと する時,(りくの)役割を果たすことを認めて くれる時,自分を「一緒に当番をする者とし て受け入れられる(自分である)」,「一緒に役 割を果たそうとする(自分である)」,「役割を 果たすことが認められる(自分である)」と認 識する。りくにとってこれらの自分は,「なり たい自分」「肯定的な自分」である。それゆえ, これこれの自分であると自分を認識する時,嬉 しさを感じる。また,こうした自分を信頼し, 受け入れる。 りくは,二つには,一緒に当番をする子ども がりくを,一緒に当番をする者として受け入れ くれ,一緒に役割を果たそうとし,役割を果た すことを認めてくれる時,その子どもを「一緒 に当番をする者として受け入れてくれる(子ど も)」「一緒に役割を果たそうとする(子ども)」 「役割を果たすことを認めてくれる(子ども)」 と認識する。りくは,その子どもをこれこれの 子どもと認識する時,喜びを感じ,信頼し,受 け入れる。 りくは,三つには,その子どもを「一緒に当 番する者として受け入れてくれる(子ども)」「一 緒に役割を果たそうとする(子ども)」「役割を 果たすことを認めてくれる(子ども)」と認識 する時,喜びを感じ,信頼し,受け入れる。そ してその子どもを好き4 4になる。 りくは,給食の準備・片づけをするという共 通の目的をもち,給食当番に取り組むことにお いて,こういう関係を自ら築いていく。 以上,次のことを述べた。りくとはなは,ク ラスの子どもに「一緒に遊ぶ者として受け入れ てくれること」「一緒に遊ぼうとすること(共 通の目的をもち一緒に役割を果たそうとするこ と)」「認めてくれること」を求める。一方,ク ラスの子どもは,事例4,4月16日,事例6, 20日,事例15,6月9日・・・・・のそれぞ れの場面を通して,りくとはなを,「一緒に遊 ぶ者として受け入れようとする」「一緒に遊ぼ うとする(共通の目的をもち一緒に役割を果た そうとする)」「認めようとする」。クラスの子 どもがこのことをすることにより,りくとはな は,「自分をこれこれと認識し,喜びを感じる。 信頼し,受け入れる」「その子どもをこれこれ と認識し,喜びを感じる。信頼し,受け入れ る」「その子どもをこれこれと認識し,喜びを 感じる。その子どもを好きになる」という関係 を自ら築いていく。 それゆえ――今「保育者はりくとはなにどの ようにかかわることが大切か」鈴木の考えを述 べるならば――保育者は,りくとはなが自らこ の関係を築き深めていくことを援助する。 具体的にいえば,りくとはなをそのままの姿 において受け入れ,内面の思いを理解する。 その内面の思いの理解に基づいて,りくとは なが,どのように一緒に遊ぶ友達を見つけてい こうとするのか,また自分の力だけで見つけて いくことができるのか,見通し,自分の力で見 つけていくことができない場合は,自分の力で 見つけていくことができる環境を構成する。 また,その内面の思いの理解に基づき,りく
とはなが,一緒に遊ぶ者として受け入れてもら えず,一緒に遊べず,認めてもらえず,悲しさ を感じる時,その悲しさを共にする。一緒に遊 ぶ者として受け入れてもらえ,一緒に遊べ,認 めてもらえ,喜びを感じる時,その喜びを共に し,共に喜ぶ。 参考文献 (1)青木信人著 『「感情」をなくす子どもたち』 青弓社 1992年 (2)青木信人著 『子どもたちと犯罪』 岩波書店 2000年