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タブーとしての人間の尊厳 Menschenwürde als Tabu ラルフ ポッシャー * ** 松原光宏訳 *** 土屋武 人間の尊厳の保障は, 憲法上のタブーである 本稿はこの所見を, 法社 会学的背景から明らかにする A. はじめに 人間の尊厳の不可侵性は,9.11 以来, 西洋民主主義諸

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(1)

翻 訳

タブーとしての人間の尊厳

Menschenwürde als Tabu

ラルフ・ポッシャー

*  

訳 

松 原 光 宏

** 

土  屋   武

*** 人間の尊厳の保障は,憲法上のタブーである。本稿はこの所見を,法社 会学的背景から明らかにする。

A.

 は じ め に

人間の尊厳の不可侵性は,9.11以来,西洋民主主義諸国においてももは や以前ほどには自明ではないように見える。すでにアブ・グレイブの映像 が明らかにされる 1 年以上前に,エコノミスト紙はワシントン・ポスト紙 の調査に依拠して,アメリカの秘密当局が他国において捕虜を尋問,拷問 させ,テロに対する戦いにおいて自ら拷問を行ったと報道した1)。そのわ

† Poscher, Ralf, „Die Würde des Menschen ist unantastbar“, JZ 2004, S. 756-762. 〔現著者の提案により,邦訳タイトルは「タブーとしての人間の尊厳」とした。〕

* フライブルク大学教授

Ralf Poscher

Professor an der Albert-Ludwigs-Universität Freiburg

** 所員・中央大学法学部教授

*** 中央大学大学院法学研究科博士後期課程在学中

1) The Economist v. 11. 1. 2003, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるのThe Economist v. 11. 1. 2003, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるの11. 1. 2003, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるの. 1. 2003, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるの1. 2003, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるの. 2003, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるの2003, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるの, タイトルルポ「拷問は果たして正当化されるのタイトルルポ「拷問は果たして正当化されるの か」。

(2)

ずかのち,フランクフルト警察副署長も,かろうじて拷問に手をかけなかっ たものの,拷問に訴えると脅した。これは,ヤコブ・フォン・メッツラー (Jakob von Metzler)の誘拐犯に,被害者の監禁場所を吐かせるためであっ た。これらの事件はそのつど論議をよび,人間の尊厳の不可侵性に疑問が 投げかけられた。アメリカ合衆国では9.11以来,拷問の投入について論議 が行われている2)。ドイツでは,フランクフルト警察副署長の行動は慎重 に調書がとられたが3),その行動は,これに対応する一連の見解表明や論 稿の引き金となった4)。ギュンター・デューリッヒがもとは共編者を務め た基本法コンメンタールのデューリッヒによる解説に替わる,2003年に書 かれた基本法 1 条 1 項の新しい解説において,エルンスト = ヴォルフガン

2) アメリカの論議から,たとえば,J. T. Parry/W. S. White, Interrogating Sus-pected Terrorists: Should Torture be an Option?, U. Pitt. L. Rev. 63 (2002), 743; S.

Levinson, „Precommitment“ and „Postcommitment“:The Ban On Torture In The Wake of September 11, Tex. L. Rev. 81 (2003), 2013; S. F. Kreimer, Too Close to the Rack and the Screw: Constitutional Constraints on Torture in the War on

Ter-ror, U. Pa. J. Const. L. 6 (2003), 278; 現在ではまた単行書として,A. M.

Der-showitz, Torturing the Ticking Bomb Terrorist: An Analysis of Judicially

Sanc-tioned Torture in the Context of Terrorism, 2003.

3) このように事件が注目に値するのは,議論がドイツにおいても始められるべ きことを促した点にあることを確認したものとしてまた,G. Jerouschek/R.

Köl-bel JZ 2003, 613.

4) ヤコブ・フォン・メッツラーの誘拐との関連での警察の活動をめぐる論議に おいて,人間の尊厳の不可侵性を堅持しているものとして,たとえば次のもの が挙げられる。H. Welsch BayVBL 2003, 481 (488); J. Wilhelm Die Polizei 2003, 198 (206); Jerouschek/Kölbel JZ 2003, 613, 619; W. Hassemer, Dann würde man auf eine schiefe Ebene greaten, FAZ v. 25. 2. 2003, S. 41; 相対化が見られるものとし ては,たとえば次のものがある。F. Wittreck DÖV 2003, 873 (882); M. Pawlik Deutschland ein Schurkenstaat?, FAZ v. 1. 3. 2003, S. 35; G. Hirsch Der Freis- Freis- Freis-pruch für den Folterer genehmigt nicht die Folter, SZ v. 19. 8. 2003, S. 9; 相対化 に傾くと思われるものとして,また M. Herdegen, Art. 1, in: T. Maunz/G. Dürig (Hrsg.), GG, Bd. 1, Stand: Feb. 2003, Rn. 45; それ以前にすでに,C. Starck, Art. 1, in: H. v. Mangoldt/F. Klein/C. Starck (Hrsg.), Das Bonner Grundgesetz, 4. Aufl. 1999, Rn. 71.

(3)

グ・ベッケンフェルデが憲法理解の構造変動を発見したことは,その象徴 である5)。人間の尊厳の相対化がその忌むべき醜面をさらしたイラクから の映像の印象の下ではじめて6),振り子がふたたび人間の尊厳の不可侵性 の方へと揺り戻しているようである7)。そうして少なくともミヒャエル・ ヴォルフゾーン(Michael Wolffsohn)の意見表明をめぐる論議そして特 に政治的なリアクションが理解できるのである。 事件と映像の印象の下で揺れる,人間の尊厳の不可侵性をめぐる人々を 興奮させるような論議を,現在の論議を超えて過去にさかのぼって追跡す ると,ドイツでは,1992年に行われたニクラス・ルーマンによるハイデル ベルク大学講演にたどり着く。この講演では,現在の論議とは異なり,実 践的関心からではなく理論的関心から人間の尊厳に取り組んでいた。ルー マンは,講演の基礎として,「われわれの社会においてなお放棄できない 規範は存在するか」との問いを設定した。彼がこの問題に関心を寄せたの は,システム理論的パースペクティブから,社会の機能分化の限界事例と してであった。部分システムの自律性が広範に及び,そのため他の部分シ ステムからどのようなイリテーションが発せられるかにかかわらず,ある システムが一定の規範を無条件に厳守することに成功するのか? その 際,関心があるのは彼自身の理論の自己否定ではない。ルーマンはむし ろ,「放棄できない規範」の不可能性に基づいて,機能分化が社会の組織 原理としていかにありそうになく,また多くの前提の上に成り立っている のかを示そうとしたのだった8)。彼は自らの問いによってシステムの自律

5) E. –W. Böckenförde, Die Würde des Menschen war unantastbar, FAZ v. 3. 9. 2003, S. 33 (35)〔E. –W. Böckenförde, Recht, Staat, Freiheit, erweiterte Ausgabe 2006, S. 379所収。〕

6) 可視性が与える法への影響については,K. F. Röhl JZ 2003, 339 (343 f.). 7) 国内・国際政治における拷問禁止へのコミットメントとならび,憲法の観点

か ら, た と え ば,H. J. Papier, Das Grundgesetz ist eindeutig. Die Menschen-würde gilt absolute, Die Zeit v. 13. 5. 2003, S. 6; D. Grimm, Es geht ums Prinzip, SZ v. 26. 5. 2004.

(4)

性の負担の限界に焦点を当て,そうでなければおそらくはきわめて自明か つ日常的と思われる社会発展の現象について,再度聴衆に驚きを与えよう とした。われわれの社会において放棄できないと思われる規範の例とし て,ルーマンは基本法の人間の尊厳の保障に取り組んだ。その放棄不可能 性に「加わり」また反駁するために,彼は聴衆に対し,「時限爆弾のシナ リオ(Ticking-bomb-Szenario)」を提示する。講演を進めるなかで,この シナリオを,逮捕したテロリストに原子爆弾を置かせるというかたちに先 鋭化した9)。ルーマンはこの例を用いることによって,広範に及ぶテロリ ストの脅威に直面する政治システムに対して,法システムの「放棄できな い規範」を厳守させることはほとんどできないことを示そうとした。 機能的分化がそれほど進んでいない社会は,類似のケースにおいて,一 方で法の維持,他方で危険の防止という 2 つの間での決定という悲劇に, 決定を法から切り離すことによって対処してきた。ルーマンはたとえば 「国家理性」を称しての初期近代におけるヴェネツィアの国家殺を指摘し, また18世紀の支配者の「国家緊急権(ius eminens)」を挙げる10)。現代憲 法の緊急事態規定に,法化されたその機能的等価物が見いだされる。 ルーマンにとっては社会学的にただ機能分化の限界事例としての状況の 適切な記述のみが問題であるとしても,彼は自ら案出した例について,「あ らゆる法律主義的異議にもかかわらず……国際監視による裁判所,ジュ ネーブ,ルクセンブルクでの情景のテレビ監視,テレコミュニケーション による遠隔制御により,拷問を認める」ことを勧めている。彼自身は,こ のようにアイロニカルに提示された人間の尊厳に不利な提案を「十分に満 足のいく解決であるとはみていない。しかし,まったく何も行わず,無辜 の者が狂信的なテロリストの犠牲になるとしても,やはり満足のいくもの ではない」11)

1993, S. 23 〔N. Luhmann, Die Moral der Gesellschaft, 2008, S. 228所収〕. 9) Luhmann (Fn. 8), S. 2.

10) Luhmann (Fn. 8), S. 26. 11) Luhmann (Fn. 8), S. 27.

(5)

B.

 法律家による論議

講演の聴衆には,ヴィンフリード・ブルッガーがいた12)。彼は,社会学 者が提示した例に法律家として持続的に関心を示した。国法学者として彼 は,ルーマンが擁護した人間の尊厳保障の制約を,この点で一義的な憲法 状況と対峙させるように見える。「人間の尊厳は不可侵である」。このよう な簡潔な事実の主張は,その記述的な定式化によりその規範的意味が無条 件のものであることをさらに強調しているのであるが,このような主張に より,基本法はわれわれの法システムの中心的価値を憲法の冒頭,基本法 1 条 1 項 1 文に置いている。人間の尊厳が抽象的には記述しがたく,それ ゆえ限界事例が分類しがたい点で,たしかにいつも人間の尊厳の保障は法 律家を悩ませる13)。このような困難と格闘するものとして,たとえば遺伝 子テクノロジーをめぐる論議がある14)。しかし,人間の尊厳を侵害する典 型事例──拷問,屈辱的な刑罰──について,少なくともルーマンの講演 の時点では一致が存在した15)。そしてこのような一致が及ぶ限りで,反論

12) W. Brugger, „Darf der Staat foltern?“ Eine Podiumsdiskussion, www.humboldt-forum-recht.de/4-2002/Drucktext.html (16.4.2003), S. 11.

13) G. Dürig, Art. 1 (1958), in: T. Maunz/G. Dürig, (Hrsg.), GG, Bd. 1, Stand: Okt. 2002, Rn. 17 ff.; H. Dreier, Art. 1 in: H. Dreier (Hrsg.), GG Kommentar, Bd. 1, 1996, Rn. 32 ff.; P. Kunig, Art. 1, in: P. Kunig (Hrsg.), GG-Kommentar, Bd. 1, 5. Aufl. 2000, Rn. 18 ff.

14) これについては,たとえば,Kunig (Fn. 13), Rn. 36; W. Höfling, Art. 1, in: M. Sachs (Hrsg.), Grundgesetz Kommentar, 3. Aufl. 2003, Rn. 21 ff.; H. Dreier, ZRP 2002, 377 f.; E –W. Böckenförde JZ 2003, 809 ff.; T. Hörnle ARSP 2003, 318 ff.; R.

Beckmann ZRP 2003, 97 ff.; N. Hoerster JuS 2003, 529 ff.; J. C. Joerden JuS 2003, 1051 ff.

15) Kunig (Fn. 13), Rn. 25 f.; Dreier (Fn. 13), Rn. 80; A. Podlech, Art. 1 Abs. 1, in: E. Denninger/W. Hoffmann-Riem/H. –P. Schneider/E. Stein (Hrsg.), Kommentar zum GG für die Bundesrepublik Deutschland, 3. Aufl. 2001, Rn. 73; B. Pieroth/B.

(6)

の余地のないタイプの規範の理解は,議論のきっかけとはならない。ある 国家の措置が人間の尊厳を侵害する場合,当該措置はいかなる場合にも行 われてはならない。人間の尊厳の不可侵性は法学的論議の中では依然侵さ れていない。 講演から刺激を受けて,ブルッガーは数年前,一連の論考において講演 〔の内容〕を引き継ぎ,ルーマンが案出した事例において拷問のドグマー ティク上の正当化を展開した16)。その際にブルッガーは,方法上の努力を 行おうとはせず,また多くの者の目からしても,基本法 1 条 1 項のみなら ず,法律,憲法,ヨーロッパ法,国際法上の 1 ダースに及ぶ規定の一義的 な文言を超克し,それによってしかるべきシナリオにおいて拷問の使用を 正当化する方法も何とかしようとはしなかった。結局ブルッガーはその際 に衡量のロジックを用いている。この衡量のロジックは,人間の尊厳以外 の他の一切の基本権につき,基本権上の立場の衝突を調整するために用い られるものである17)。テロリスト各人が自ら不法に身を置き,拷問からい つでも逃れることができるとき,当のテロリストを拷問にかけ,またこれ と結びついた限定的でコントロール可能な苦痛を与えることが,数多くの 人間の死や予測不能な苦痛を阻止するために適合的かつ必要な場合,テロ リストの人間の尊厳は譲歩しなければならない。そしてブルッガーは,わ

in: H. D. Jarass/B. Pieroth (Hrsg.), Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutsch-land, 7. Aufl. 2004, Rn. 12; これが原則であることを確証する例外として,M.

Kloepfer, Grundrechtstatbestand und Grunderechtsschranken in der

Rechtsprec-hung des Bundesverfassungsgerichtes – Dargestellt am Beispiel der Menschen-würde, in: C. Starck (Hrsg.), Bundesverfassungsgericht und Grundgesetz, Bd. 2, 1976, S, 405 (418 f.); 参照,ders., Leben und Würde des Menschen in: P. Badura/H. Dreier (Hrsg.), Festschrift 50 Jahre Bundesverfassungsgericht, Bd. 2, 2001, S. 77 (96 f.).

16) W. Brugger Würde gegen Würde, VBlBW 1995, 414 (446 ff.); ders. Darf der Sta-at ausnahmsweise Foltern?, Der StaSta-at 35 (1996), 67 ff.〔ders., Liberalismus, Pluralismus, Kommunitarismns, 1999, S. 411所収〕; ders., Vom unbedingten Ver-bot der Folter zum bedingten Recht auf Folter?, JZ 2000, 165 ff.

(7)

れわれがテロリストの生命権についても,救助のための意図的な発砲(fi - fi-nales Rettungsschuss)を許容する際に,まさにこのような衡量のロジッ クに従っていることを指摘することができるのである18) ブルッガーのテーゼに待ち受けていたのは奇妙な運命であった。この テーゼは,基本権総論ドグマーティクと結びつく論証型を用いているにも かかわらず,学説では注目されず,いわんや賛同を得ることはなかった。 ブルッガーのテーゼを論議させようと何度も試みられたにもかかわらず, 無視されたのだった19)。同業の国法学者は,人間の尊厳の保障に対する彼 の合理的考察にかかわり合うことはなかった。ブルッガーにとってもま た,自らのテーゼを展開することは容易なことではなかった。パネルディ スカッションで,彼はルーマンが提起した問題との格闘を次のように述べ ている。「そして私はたしかにルーマンの講演を聴き,そして……自らの ……解決策を公表するまでに長い時間がかかったということができます ……なぜでしょうか? それは,私自身がタブーのハードルを克服しなけ ればならず,……そして現にそれを行うことはできるのかと自問したから です」20)。人間の尊厳の絶対的保護が問題となる場合,われわれは論議や論 証を拒絶しようとしているように見えるのである。 しかしながら,目につくのは議論に対する敵対性だけではない。われわ れは現に一定の形で「非合理的に」ふるまっていることもまた目につくの である。われわれの一般的な憲法上の比例原則・衡量ドグマーティクは, ブルッガーがそれを用いて対立を解決するものであるが,これは目的合理 的行為の範型と広く合致する。なぜなら,比例原則・衡量ドグマーティク は──マックス・ヴェーバーの古典的定義において述べられているように ──「目的,手段および付随的効果に基づいて方向づけられ,かつその際 目的と手段を考量し,また目的相互間も衡量するのである」21)。これに対し,

18) Brugger VBlBW 1995, 448; ders. Der Staat 35 (1996), 75 f.; ders. JZ 2000, 168. 19) Brugger (Fn. 12), S. 11の主張は,ほとんどすでに絶望的なものに聞こえる。 20) Brugger (Fn. 12), S. 11.

(8)

われわれは,そのような衡量プロセスから人間の尊厳の保障を引き離し, 純粋に価値合理的考察に転換する。これが何を意味するか,これをヴェー バーは印象的に述べている。 「しかし,目的合理性の立場からみると,価値合理性は,つねに非合理3 3 3 的3 なものであり,とりわけ,行為の目指す価値が絶対的価値へ高められる につれて,非合理的3 3 3 3 になる。なぜなら,行為の独自の価値……だけが心を 奪うようになると,ますます価値合理性は行為の結果を無視するようにな るから」22) テロリストの人間の尊厳であっても,無辜の犠牲者の被害や死に対する 目的合理的衡量から引き離し,結果を顧慮することなく絶対的とすること によって,われわれは,それ以外では目的合理的な基本権ドグマーティク のパースペクティブからすると,ヴェーバーが示した意味において非合理 的に行為するのである。 ルーマンが提起した問題とわれわれの奇妙なかかわりはいかに説明され るのか? 基本法 1 条 1 項を文字通りに受け止め,人間の尊厳を絶対的に 保護する場合,実際にわれわれは目的合理性を放棄しているのか? それ とも,法システムにおいても放棄できない規範はもはや存在し得ないとい うテーゼを示した点で,ルーマンは結局のところ正しいのであろうか?

C.

 タブーとしての人間の尊厳

人間の尊厳とのかかわりを,法のドグマーティクによる内的視点からで はなく,行動禁止がとることができる多様な性格を見定める社会学に定位 した外的パースペクティブから記述しようとするときに,以上の問いの解 答により近づく。その際に明らかとなるのは,基本法の人間の尊厳の保障 213. 22) Weber (Fn. 21), S. 13〔マックス・ヴェーバー(清水幾太郎訳)『社会学の根本 概念』(岩波文庫,1972年)41頁〕.

(9)

は単なる禁止ではなく,タブーの構造を示すということである23) I .概   念 人間の尊厳がタブーと考えられることには,すでにその言語的表現が示 唆を与える。それは人間の尊厳が,その他の規定では憲法上要求されてい ない「不可侵性(Unantastbarkeit)」の概念を用い,それによってタブー 概念を翻訳することによってである。「タブー」という概念は,未開の民 族(Naturvolk)の言語から借用した数少ない教養・日常言語の概念のひ とつである。ポリネシアのトンガ族に端を発する表現「ta pu」に,ジェー ムズ・クックが南洋調査で出会ったのであった。研究報告において彼は, ポリネシア人の行為様式を記述したのであるが,それは,なお理解するこ とができず,そして問いただしたところ「ta pu」という表現によってカ ヴァーされるものであった24)。「ta pu」は「noa」,つまり習慣的なものと対 概念になっており,異常なもの,聖なるもの,特徴的なもの,強調された もの,そしてまさに不可侵なものと翻訳されるものである25) フロイトは,論文「トーテムとタブー」により,自身の精神分析モデル の性能を社会心理学により検証し,タブーと強迫神経症の構造的対応を証 明しようとしたのであるが,遅くともこの論文により,〔タブーという〕 概念が教養言語へと導入された。社会学においてこの概念は──社会心理 学と民族学と並んで──特にデュルケームとヴェーバーの宗教社会学にお いて考察されている。デュルケームにとって,タブーは聖と俗という社会 の根本的区別の本質的要素に属し,それゆえすべての社会に見いだされる

23) タブーと法の関係については一般的に,O. Depenheuer (Hrsg.), Recht und O. Depenheuer (Hrsg.), Recht und Tabu, 2003の諸論考を見よ。刑法におけるタブーの保護については,T. Hörnle, Grob anstößiges Verhalten, Habilitationsschrift, 2003, S. 106 ff.

24) H. Schröder, Tabu, in: Europa-Universität Viadrina (Hrsg.), Antrittsvorlesungen Wintersemester 1994/95, S. 127 (128).

25) H. Schröder, Tabuforschung als Aufgabe interkultureller Germanistik, Jahrbu-ch DeutsJahrbu-ch als FremdspraJahrbu-che, Bd. 21 (1995), 15.

(10)

ものであるが26),ヴェーバーはタブーが,最終的には非合理な起源を持つ 原始社会の規範化の道具であるとみており,しかしこの道具はきわめて戦 略的に投入されうるものであるとする27)。法社会学がタブー概念に関心を 持つのは,仔細にみれば配置が極めて異なるにもかかわらず,次の点につ いて広く一致が存在することによる。タブーは特別の性格を持つ規範で あって,それはいずれにせよ古代的観念のコノテーションによりもっとも 適切に捉えられるものであり28),概念の社会学による取り入れがポリネシ アの観念とどれだけ合致しているかは重要ではない29)。少なくともわれわ れの文化には,過去および現在において,特別の性格を持つ禁止を指し示 す概念の不存在がかなり広範に及んでいる。この禁止は,いずれにせよタ ブー概念のコノテーションによって適切に把握されうるのであり,それゆ えこのタブー概念が日常言語においても用いられているのである30) かくして,人間の尊厳の不可侵性の要請をタブーとして理解することは, われわれが人間の尊厳を他の規範と同様に扱うのではなく,われわれがこ の規範と法律学的にかかわることはまさしく,タブーと強くかかわるメル クマールを示すことを意味するのである。 II.論議の拒絶 まず説明が必要なのは,そもそも人間の尊厳の保護の絶対性に関して, 目的合理的論証に踏み込むのを拒絶していることである。

26) E. Durkheim, Journal Sociologique, 1969, 62, 初 出 は,LʼAnnée Soziologique, Bd. 1, 1896/97.

27) Weber (Fn. 21), S. 261/264.〔マックス・ウェーバー(武藤一雄ほか訳)『宗教

社会学』(創文社,1976年)52頁以下〕

28) W. Marschall, Tabu, in: J. Ritter/K. Gründer (Hrsg.), Historisches Wörterbuch der Philosophie, Bd. 10, 1976, S. 877; H. Reimann, Tabu, in: Görres-Gesellschaft (Hrsg.), Staatslexikon, Bd. 5, 7. Aufl. 1985, S. 421; Schröder (Fn. 25), S. 5 ; C.

Bal-le, Tabus in der Sprache, 1990, S. 17.

29) K. Seibel, Zum Begriff des Tabus, 1990, S. 75. 30) Seibel (Fn. 29), S. 84 f.

(11)

1 .主題化の禁止 行為のタブー──たとえばインセスト・タブーやペドフィリアのタブー ──は主題化のタブーと結びつくことが多い。タブー化された行為を主題 化することがすでにタブー破りとみなされる。これに応じて,人間の尊厳 の保障を相対化する方向で主題化する論考は,ドグマーティク上の論議に 貢献するものとは考えられず,タブー破りとして感じられ31),外へと排除 される。主題化のタブーが人間の尊厳に関してどれだけ強く作用するか は,ブルッガーのテーゼに対する長年の論議の拒絶のみならず,また現在 ではヴォルフゾーンの意見表明への反応によりふたたび,目に見える形で たどることができる。ヴォルフゾーンは,彼が拷問を行ったとして非難さ れたのではなく,彼が拷問のタブー破りを議論の俎上に載せたことを非難 されたのである。 2 .タブーの内因的効果 タブー化は,ブルッガーがパネルディスカッションで述べていたような 良心の咎めをも説明する。人間の尊厳侵害の行為のタブーとは異なり,主 題化のタブーは──とりわけヴォルフゾーンの例が示しているように── 法的にはサンクションが科されない。しかし──これもタブーに典型的だ が──主題化のタブーは内因的に作用する。タブーの侵害は,タブーを 破った者自身によって問題あるものとして体験され,良心の咎めと責めの 感情を随伴する32)。ブルッガーの情緒的な自己診断はこれに合致する。主 題化のタブーを破ったのち,彼は,「私自身がタブー破りを成し遂げる助 けとなったような論文は,ただ一つとして著されなかった」ことをも理由 31) タブー破りについては,ブルッガー自身が Brugger (Fn. 12), S. 11で述べてい るのみならず,たとえば次の論考でも論じられている。Jerouschek/Kölbel JZ 2003, 613 (620); Wilhelm Die Polizei 2003, 198 (206); E. Hilgendorf JZ 2004, 331 (331).

32) S. Freud, Totem und Tabu, 1913, in: A. Freud/E. Bibring/ E. Krist (Hrsg.),

Gesammelte Werke, Bd. 9, 1999, S. 35 (43).〔フロイト(門脇健訳)「トーテムと

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に,学問共同体の沈黙に失望したことと述べた33) III.行為の禁止 人間の尊厳の保障それ自体は,インフォーマルな主題化のタブーの基底 にある法的な行為禁止であるが,タブーと性格が似ていることは明らかで ある。未開民族の古典的な行為のタブーは,その共同体のアイデンティ ティにとって本質的な対象と関わることが大半であって,絶対的にかつ前 提を問われることなく妥当する。 1 .タブーによる同一性形成 未開民族の古典的タブーは共同体のアイデンティティの本質をなす。そ れゆえトーテム共同体は,多様な行動ルール──とりわけ殺害と食用のタ ブー──によって敬意を払われ,保護されるトーテムとなる動物を通じて, 他のトーテム共同体との境界が与えられる。このような古典的タブーのア イデンティティ形成的内容に人間の尊厳の保障が対応するのであるが,そ れは,人間の尊厳の保障が我々の社会のアイデンティティにとって根本的 な重要性を持つ点においてである34)。このことは,基本法の規定が同保障 を冒頭に置くことから明らかとなるのみならず,憲法史的にも理解される。 人間の尊厳へのコミットメントによってまさに,基本法は連邦共和国を歴 史的に,国家社会主義と限界づけるなかで定義する35)。トーテム共同体の アイデンティティを付与するトーテムとなる動物がタブー化されるのと同 様に,われわれの社会もまた,そのアイデンティティの基準となる価値を タブー化する。人間の尊厳をタブー化することにより,われわれの現代社 会は,その根本価値を法的に保障するために,古代の規律形態にまでさか のぼる。デュルケームは,タブーが聖と俗という社会の根本的区別の本質 的要素であって,原始社会のみならずすべての社会に見られる要素である 33) Brugger (Fn. 12), S. 11.

34) A. Siehr, Die Deutschengrundrechte des Grundgesetzes, 2001, S. 57.

35) BVerfGE 39, 1 (67); BVerfGE 39, 1 (67); 39, 1 (67); , 1 (67); 1 (67); (67); 67); ); Herdegen (Fn. 4), Rn. 18; Dreier (Fn. 13), Rn. 21;

(13)

としたが,彼は以上の点で自らの主張の妥当性が確認されたと感じること ができたであろう36) 2 .絶 対 性 タブー化に対応するのが,国家による人間の尊厳の侵害の禁止の無条件 かつ絶対的な妥当要求である。タブー破りを正当化できるものは何もな い。タブーは,制約できるものは何もなく,ただ破られるのみである。法 においては,人間の尊厳の保障がこれと同じ状況になる。保障の文言およ び規定の従来のドグマーティク上の理解によれば,人間の尊厳の禁止の例 外を正当化するものはなにも存在しない──ルーマンとブルッガーのシナ リオであってもそうである。人間の尊厳の保障は,法律の留保によっても 基本法の緊急事態規定によっても制約されず,また他の規定によって制約 されることもありえないとされる。基本法79条 3 項は,人間の尊厳の保障 を憲法改正からすらも除外している。人間の尊厳侵害の禁止から逸脱する というのは,われわれの法秩序が観念できるものの埒外にある。このよう な絶対的な妥当要求により,人間の尊厳の保障は他の一切の基本権から区 別されるのである。他の基本権は,法律の留保によってすでに制約可能性 を予定しているか,あるいは衝突する憲法規範のような,ドグマーティク 上の形象を通じて制約可能性を付与されており,そして原則として憲法改 正に開かれているのである37) 3 .非 合 理 性 最後に,タブー化はまた,人間の尊厳の保護の絶対性に関して,われわ れはなぜ法的に衡量による目的合理化を導入せず,しかるべき基礎づけ討 議を拒絶するのかを説明する。タブーには根拠づけが与えられることを要 しない。未開民族は,広範に及ぶインセスト・タブーについて何の理由づ けを持たず,あるいはそもそもただそのような理由づけを気にかけるのみ である。法システム内部では,われわれが人間の尊厳の保障の絶対性と持 つかかわり合いが,構造上これに類似する。たしかに,なぜ人間の尊厳を 36) Durkheim (Fn. 26), S. 62. 37) Wittreck DÖV 2003, 873, 874.

(14)

そもそも保護するのか,われわれは適切な根拠をいくつも有しており,ま た衡量ドグマーティクの枠内で説明可能な根拠も有している。人間の尊厳 の保障によって保護される尊重要求は,われわれの人格の本質をなすのみ ならず38),われわれの社会性の本質をもなしている。しかし,他では目的 合理的なわれわれの基本法システムの内部においては,それ以外のドグ マーティク上の合理性基準にかなうような人間の尊厳の不可侵性やその法 的保護の絶対性3 3 3 についての説明を与えることができない。

D.

 タブー化の合理性

もっとも,タブーは,団体または社会学的システムの内部でその可能性 および基準に基づいては根拠づけることができないからといって,タブー を支える理由がなにも挙げられないことまで意味するものではない。たと えばわれわれは今日,インセスト・タブーのさまざまな社会生物学的,社 会学的説明を駆使することができる。たとえば,財産損害の回避39)や,家 族的共同体を強制的に社会に開放するよう命じる消極的な社会的要請とし ての解釈40)がそれである。しかしながら,インセスト・タブーが妥当する 社会のほとんどでは,その説明を気に掛けることはないであろうし,また それらの社会はそれを明らかにすることもない。しかし,外的パースペク ティブから,そのような説明を隠蔽している社会についても,この説明を 述べることができる。 そこで,人間の尊厳の保障が法的タブーであるとした場合,次のような 問いが立てられるのであり,またこの問いは有益でもある。それは,他の タブーの場合と同じく,人間の尊厳の保護の絶対性も,確かに法システム およびそのドグマーティクの枠内ではないが法社会学的な外部パースペク

38) BVerfGE 30, 173 (214); BVerfGE 30, 173 (214); 30, 173 (214); , 173 (214); 173 (214); (214); 214); ); Dreier (Fn. 13), Rn. 46; Herdegen (Fn. 4), Rn. 48; Höfling (Fn. 14), Rn. 28 ff.

39) M. Hirsch, Realer Inzest, 2. Aufl. 1990, S. 5 ff. 40) H. Schelsky, Soziologie der Sexualität, 1955, S. 88 ff.

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ティブから認知することができるような隠れた合理性が存在するのか。人 間の尊厳の法的タブー化には隠れた目的合理的根拠が存在し,ただそれが, インセスト・タブーの社会生物学的説明が未開民族には利用できないのと 同様,法システムの枠内では利用できないようなものなのか? 人間の尊厳の保障の絶対性が有している,法のパースペクティブにおい ては隠された目的合理性が明らかとなるのは,法が時限爆弾のシナリオに おいても人間の尊厳侵害の禁止を固守することによって発生する状況を はっきりと認識するときである。法的には,行われる「悲劇的選択(tragic choice)」は,無辜の被害者の犠牲のもと─ルーマンの原子爆弾のシナ リオでは世界の犠牲のもと─で常に行われる。法的には,「世界が滅び れども法おこなわれよ(Fiat lex, pereat mundus!)」の原則が妥当する。世 界はもはや法の枠内では救うことができず,ただ,この枠を逸脱し,これ と結びついた法的帰結を引き受ける覚悟をしている個人のみが世界を救う ことができるのである。 時限爆弾のシナリオで拷問を行う警察官は,基本法 1 条に違反する。刑 法上,少なくともこの警察官は職務上の傷害の構成要件に該当する。緊急 救助による正当化は認められないように思われる。緊急救助規定を職務行 為に適用することは一般的に否定されることだけでこのような帰結になる わけではないとしても41),それは職務上の行為が服する特別の制限から生 じる42)。さもなければ,人間の尊厳の保障は実践的に何の成果もなく切り 崩されることになろう43)。公務員を刑法上正当化しないことは,少なくと も緊急救助規定の国際法適合的解釈から要求される。国際的な拷問禁止に

41) R. Haas, Notwehr und Nothilfe, 1978, S. 319 ff.; G. Jakobs, Strafrecht, All. Teil, 2. Aufl. 1991, 12 Abschn., Rn. 42.

42) 参照,議論状況については,C. Roxin, Strafrecht Allg. Teil, Bd. 1, 3. Aufl. 1997,

§15 Rn. 95〔クラウス・ロクシン(山中敬一監訳)『刑法総論(第 1 巻第 2 分冊)』

( 信 山 社,2009年 )152頁 以 下 〕; T. Hillenkamp, Probleme aus dem Strafrecht Allg. Teil, 19. Aufl. 2001, S. 32 ff.; K. Rogall JuS 1992, 551 (556 ff.).

(16)

より,緊急事態や戦時のケースについても,いかなる正当化も明示的に排 除されている44)。この禁止は,原則として刑法によるサンクションを要求 する45)。これは,偶然に 1 回だけ,やむを得ない緊急事態のために要求さ れる,潜在的犠牲者との特別の近接関係が存在したケースにおける拷問者 自身の釈明を排除することもできる。いかなる場合でも,人間の尊厳のタ ブーを破る者は,サンクションを受ける高度のリスクを負う。簡潔にいえ ば,時限爆弾のシナリオにおいて,世界はただ,世界を救うために刑に服 する覚悟のある何者かによってのみ救うことができるのである。 ルーマンとブルッガーが記した「悲劇的選択」とこのようにかかわるこ との目的合理性はどこにあるのか。それは,世界を人間の尊厳の保障を侵 害しても救おうとする者は,「悲劇的選択」を行う上で犠牲となる覚悟を 前提としているが,この覚悟が,「悲劇的選択」の簒奪や濫用的な申立て に対して,特に実効的な保護を与える点にある。救助者にとって,選択の 悲劇は,救助とサンクションが結びつくことによって法的に強化される。 このことにより──法がそれを行うことができる限りで──,「悲劇的選 択」の訴えが,事実上,単に理論的なものにほぼ等しい46)極端な例外ケー スでのみ行われるということが確保される。そして本質的にはこのような ケースについてのみ,人間の尊厳の保障の制約が目的合理的論拠によって 行われる。法的な例外構成要件を導入する場合とは異なり,拡張的解釈や 濫用的主張,許容構成要件の錯誤を援用することによる破壊の危険は生じ ない。 44) 参照,拷問及び他の残虐な非人道な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に反 対する条約 2 条 2 項(BGBl. 1990 Ⅱ , S. 246)。同項によれば,戦争またはその 危険,国内の安定またはその他明らかな緊急事態のいかんにかかわらず,非常 事態を拷問の正当化として主張することはできないとする。 45) 参照,条約 4 条 1 項(Fn. 44):「締結国は,拷問に当たるすべての行為を自 国の刑法上の犯罪とすることを確保する。拷問の未遂についても同様とし,拷 問の共謀又は拷問への加担に当たる行為についても同様とする」。 46) 事例の特質が理論的なものである点を強調するものとして,B. Schlink, „Darf der Staat foltern?“ Podiumsdiskussion (Fn. 12), S. 6.

(17)

人間の尊厳の侵害を法的に枠づけして認めようとする試みにより,侵害 はコントロールが利かなくなることを示すものは,イラクにおける合衆国 軍の「尋問技術に関する指針」47)にとどまらない。イスラエルでは,1987 年に「ランダウ委員会」がイスラエルの憲法裁判所の元長官を議長として, はじめてテロ容疑者に対するシン・ベット(Shin Bet)の尋問実務を調査 し,パレスチナ人は情報入手のために身体的暴行を受けるのが一般的であ ることを確認した。イスラエルという国家の存続を脅かすことなくしては 尋問の際の身体的暴力をテロとの戦いの枠内では放棄できない,このよう に委員会は確信していたがゆえに,パレスチナ人容疑者の尋問の際にそれ までひそかに投入されていた身体的暴力を秩序ある軌道へと導くために, 「穏当な物理的圧力」の投入の状況と態様を規範化するルールを展開し た48)。イスラエルの議会はさらに同年,ランダウ委員会の勧告の実施を決 議した49)。物理的暴力の投入を明示的に認めていることに依拠して,パレ スチナ人の尋問の際に「穏当な物理的圧力」が投入されるケースが劇的に 増加した50)。ランダウ勧告がもたらしたこのような結果に鑑みて,イスラ エルの憲法裁判所は1999年に,「穏当な物理的圧力」の投入を最終的に違 憲と宣言した51) 法はいかなる場合でも人間の尊厳の侵害にサンクションを課す,すなわ ちいかなる場合でもタブー破りには犠牲を要求することにより,「悲劇的 選択」の簒奪の魅力は失われる。人間の尊厳の侵害によって,いかなるキャ 47) 2003年 9 月14日のアメリカ軍のメモランダムについては,たとえば,FAZ v. 14. 5. 2004, S. 1 f.

48) A. Imseis, „Moderate“ Torture On Trial: Critical Reflections on the Israeli Su-preme Court Judgment Concerning the Legality of General Security Service In-terrogation Methods, Berkley, J. Intʼl L, 19 (2001), 328 (333 ff.).

49) Ebd. 336.Ebd. 336.336..

50) Ebd. 336 f.; The Economist (Fn. 1), S. 21.Ebd. 336 f.; The Economist (Fn. 1), S. 21.336 f.; The Economist (Fn. 1), S. 21. f.; The Economist (Fn. 1), S. 21.1), S. 21.), S. 21.21..

51) Imseis (Fn. 48), 339 ff.; The Economist (Fn. 1), S. 21; しかし判決は,国家緊急 事態の場合に暴力を投入するエージェントの刑法上の正当化については余地を 残している。

(18)

リアも作られることもなく,侵害は常にその対価を要求する。これは特に 失敗に終わったケースや錯誤のケースにおいて当てはまる。世界や多くの 無辜の犠牲者を現に救った警察官であれば,寛大な判決や恩赦をなお望む ことができる─人間の尊厳の侵害を行ったが甲斐がなかった者,または 状況について錯誤があり,無辜の者に拷問を行った者は,寛大な判決や恩 赦に賭けることもできない。これもまた,古代のタブーを通じて伝えられ たものの論理と合致する。タブー破りは常にタブーを破った者の犠牲を要 求するのであり52),正当化するような錯誤を知らない。フロイトは「トー テムとタブー」において,未開民族に広まったタブーの規則について報告 している。このタブーの規則によれば,戦争の勝者で,戦いにおいて共同 体のために敵を殺した者は,殺害のタブーに反したがゆえに,共同体によ り数ヶ月の隔離に服するという53)。それゆえ,たとえばピマ族インディア ンは,驚くべき勇敢さにもかからず,アメリカ人から,アパッチ族に対す る許されざる同盟者と評されている。それはピマ族インディアンが敵より も殺害のタブーを重要視し,贖罪と浄めを出兵の終了後まで延期しなかっ たにより,ピマ族インディアンの優れた戦争遂行力が不利益をこうむって いたからである54)。そして,それとは知らずに王の料理を食べた者も,タ ブーを破ったのであり,死を賜ることになる55) 人間の尊厳侵害や,特にいまだ何の法的規律によっても輪郭づけて認め ることができない拷問が有する社会破壊的傾向を伴う無数の経験によれ ば,社会は「悲劇的選択」を処理するために,もはや法システムだけに依 拠するものではない。人間の尊厳の法的な絶対的禁止により,テロリズム や犯罪に対する日常的な闘争について──この闘争にとって,情報はもち ろん常にまた手助けとなるが,これまでまだ誰も拷問禁止を問題にしたこ とがなかった──,その違反に対抗する事実上広範に及ぶ保障がもたらさ 52) Freud (Fn. 32), S. 43. 53) Freud (Fn. 32), S. 48 ff. 54) Freud (Fn. 32), S. 52. 55) Freud (Fn. 32), S. 55.

(19)

れる。タブー破りには犠牲がつきものとなることにかんがみれば,公務員 が日常的な捜査活動にあって──そしてテロリズムや重大犯罪に領域であ れ──その経歴,職業,そして自由を犠牲にして,せいぜいのところ長く 不確実な因果連鎖を通じていまだまったく抽象的なものにとどまる危険を 防御することができるかもしれないというような情報を獲得することを期 待することはできない。ほとんど実際にはない限界事例は,拷問禁止を切 り崩すべく導入されるものであり,そこでは,事情によっては数多くの人 間の身体および生命に対して生活世界の上で直接的かつ具体的な危険が問 題となる。このような限界事例について,社会はこれに対して,そのよう な現実の例外状況に対する具体的に生きられる印象の下で,個人の倫理的 な責任により,法的規律から逃れられないような決定を行い56),自らの犠 牲の下で必要なことを行う何者かが見つかることに賭けるのである。法的 タブー化と個人の倫理的責任によるタブー破りの協働作用によってはじめ て,人間の尊厳の侵害の社会破壊的効果を伴う経験と均衡する「悲劇的選 択」とのかかわりが生じるのである。社会は,理論的というよりもむしろ 実践的に,「悲劇的選択」の前に立たされるのである。フランクフルト警 察副署長とのかかわりは,この範型に従う。たしかに彼に対しては,倫理 的理解も一部には示されたが57),諸機関は彼の法破りを処理した。彼は配 56) 参照,また B. Schlink (Fn. 46), S. 6 :「そして,警察官から……法の限界では 個人的責任を免除することは法秩序の任務ではない。法の限界で逸脱が現実に リスクのあるものとされるかどうかは,個人的責任をも引き受けようとする場 合にしかタブーを破ることができないということにかなり多く,きわめて多く を負っているのです」。 57) R. Koch FAZ v. 24. 2. 2003, S. 4 :「私は個人的には,このような彼が生命を救 おうとした深刻な対立状況においては,ダシュナーの行動を人間的にはきわめ て理解できるものと考える」。G. Mackenroth SZ v. 25. 2. 2003, S. 6 :「拷問やそ の脅迫も許されるケースは考えられる。すなわち,高い価値のある法益を救う ために拷問やその脅迫によりある法益を侵害する場合である」。G. Hirsch SZ v. 19. 8. 2003, S. 9 :「拷問者に対する無罪判決は拷問を許可するものではない」。

(20)

置転換され,起訴され58),そしておそらくはまた,処罰されるであろう。 われわれの大衆文化において,時限爆弾のシナリオとのこのようなかか わりは,深いところに根ざしている。規則を無視して拷問にいたるまで, 無辜の被害者をテロリスト,マフィア,犯罪者,狂人から救う手段を駆使 する警察官,「ダーティー・ハリー」のテーマを変奏する映画や犯罪小説 は無数にある59)。警察官が世界を救うために法破りと結びついた個人的な 犠牲を引き受けるというのが,このジャンルの基本的な構成部分である。 「ちょっと一休みしていてくれないか」ダーティー・ハリーはパートナー にそう言うと,ブーツのかかとを彼が逮捕した恐喝者の銃創に向けて振り 下ろす。するとこの恐喝者はハリーに,彼が女子生徒を生き埋めした場所 をもらすのである。しかし,ヤコブ・フォン・メッツラーのように,女子 生徒は,自白を強要した時点ですでに死んでいたのである。そしてフラン クフルト警察副署長のように,ダーティー・ハリーは警察署長となること はなく,配置転換や停職処分を争ってもほとんど徒労に終わる。しかし, 個人の倫理的責任による決定を行い,サンクションを引き受ける,まさに それゆえに,ハリーはこのジャンルの英雄なのである。

E.

 ま と め

これまでの考察は,どのようにまとめることができるだろうか? 第一に,人間の尊厳のドグマーティク上の相対化がなぜ接続能力を持た ないのかを説明することができる。人間の尊厳の絶対性要求を他の基本権 保障と同じく目的合理的衡量の下に置こうとする試みは,基本法 1 条 1 項 に含まれる禁止の特別な法社会学的身分を誤認している。人間の尊厳の保 障は,基本的に目的合理的考察による制約に親しむ他の基本権のように,

58) M. Gebauer, Anklage macht der Folter den Prozess, Der Spiegel Online, www. spiegel.de/panorama/0,1518,287371,00.html (8. 5. 2004).

59) このような平行性についてはすでに,M. Kaufmann, ARSP-Beiheft 84 (2002), S. 23 f.

(21)

単純な不作為要請を含むものではなく,タブーを内包しているのである。 このタブーの絶対的妥当は,衡量ドグマーティクによる正当化には服さず, またこれを規律形式としては必要としないのである。ブルッガーの考察へ の違和感は結局,彼がタブーと単なる法的禁止の区別を誤認していた点に ある。彼は人間の尊厳の保障を,自ら再三タブーと呼んでいたにもかかわ らず,タブーとしてではなく,単なる禁止のごとく扱っていたのである。 第二に,法社会学的考察に基づき,法システムには認知できない人間の 尊厳のタブー化の目的合理性がどこに存するかを示すことができる。人間 の尊厳の保護を法的に弾力化することは,簒奪やインフレ化に対して抵抗 力がないことが示された。この危険から保護するには,法的な絶対禁止し かない。この法的絶対禁止が,世界を救うためにタブーに反した者にも犠 牲を要求することにより,──法がこれをなしうる限り──人間の尊厳の 保護の例外が論じられる条件が現に存在する場合にしか「悲劇的選択」が 引き受けられないことを保障する。これらのケースにおいて,人間の尊厳 を法的にタブー化することは,個人の倫理的責任による決定に賭けるとい うことであり,その決定の真摯性を,タブー破りに対して要求される犠牲 によって確保する。社会の他の問題の場合とは異なり,法は場合によって は必要となる行動を適法と宣言することによって解決に寄与するのではな く,場合によって不可欠な行動に対しサンクションの威嚇を行うことに よって貢献するのである。法内在的パースペクティブからは,このような 解決はパラドクスである。法社会学的な距離をもってはじめて,法内在的 にはとらえることのできなかった,人間の尊厳が極端な例外事例について も絶対的に不可侵であることの目的合理性が見えるようになるのである。 第三に,放棄できない規範というルーマンの問いには,別様にかつ相異 なる形で答えることができる。ルーマンの想定に反して,法は少なくとも 人間の尊厳を,彼が展開した極端なケースにおいても放棄できないと宣言 することができる。システム理論的記述において,人間の尊厳の法的タ ブー化は,ルーマンが提案した以上に複雑な形で社会の分化を利用してい るということができる。彼が想定したのとは異なり,「悲劇的選択」が国

(22)

家緊急権や国家理性といったコンセプトを通じて法から取り去ったとい う,彼が示した歴史的事例のように,法と倫理の構造的な脱カップリング になるものではない。また継続的な構造的カップリングにあって,法と倫 理が──通常の場合のように──必ずしも並行的に調整されるわけでもな い。高権的権力行使という法的に免責された領域の機能不全や人間の尊厳 の侵害の法的な限定承認の経験ゆえに,社会は特別な問題解決のポテン シャルを,持続的な構造的カップリングにあっての法と倫理の対向性から 展開している。一方で,法システムは人間の尊厳保護の絶対性を支持する という放棄できない決定を行っている。他方でしかし,極端な限界事例で は,法システムは,個人の倫理的責任による決定に賭け,その決定の真摯 性を,場合によっては法システムの対向的な決定によってはじめて確保す る。法と倫理の対向的な協働によってはじめて,人間の尊厳の保障の合理 性が,少なくとも理論的に構築可能な「悲劇的選択」に鑑みて,生じるの である。 かくして,人間の尊厳の保障は,そのドグマーティク上の絶対性要求の みならず,法と倫理の差異を道具化するがゆえに,「noa」の対概念たる「ta pu」──日常的と対立する非日常的──なのである。

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