東南 7 ジ7研究 14巻3号 1976年12†1
コ ミュニ テ ィ宗 教 にお け るシ ンボル
-- 南 ス ラ ウ ェ シ 省 ア ン パ リ タに お け る 事 例
-前
l
¶
成
文*
A Preliminary Reportofa Study on Symbolism among the Buginese
NarifumiM Alて丁)A
Thisisareportonapreliminaryfieldsurveyincal・riedoutDesaAmparita, KecamatanTelluLimpoe,KabupatenSidenreng・Rappang,SulawesiSelatan overa periodofthreemonthsfrom Decenlber1975throughMarcll1976.Thepaperaims atclarifyingthepresentsituationoftheTolotang,acommunity・religionbasedon pre・Islamicbeliefs,inAmparita through historicalperspectivesandthesttldyof symbolicexpressionsoftheTolotangamongtheotherBuginese,
l 序 1.は じめに 人 間は あ る 「もの」を同定 す るために ,そ の 「ものJ そ の ものではない何 か他 の 「ものJで それ を表 わ して きた。人間文化 の栄光 も悲 劇 もこの 「と りか-ばや」物 語か ら生 じて きた とも いえ る。 取 り斡 えに あた ってほ , 「もの」 その もの よ り,む しろ 「もの」 と 「もの」 との関係 のあ り方 が問題 とな る。 自己 を同定す るのに , 自分 の名前 ,服装 ,身体的 な特 徴 な ど,自己 の 一 部を もって 自己 を同定す るの と,自分 は ライオ ンで あ る とい うよ うに同定す るの とでは 大き な違 いがあ る とい う。1) あ る 「もの」 を同定 す る とい うことは同定 した rもの」以外 の 「もの」でない ことを も示 し てい る。 「この
世」
といえば , 「この世 」 でな い 「あの世」
の可能性 を包含 し,自己 を同定す れば ,他人 を措定す るこ とを前提 と してい る。 一 に同定す るこ とはそれに所 属す る ことあ るい は関係 あ る ことで あ り, ここに 「属 」 あ るいは 「縁」 の問題が必ず生 じて くる。
自己 は何 であ るか 亨 とい う問 は , 自分 の周囲の人 は ? ブギス人 とは ? 人 類 とは ? とい う間にそ の ま まつ なが ってい く。 この 連続 の 中で捉 え られ た 言 い 換 え (transformation) は メ トニミ-にす ぎない。一方 ,自己 を他 の人間 に比べ られ ないそれ 自身 の存在 として とらえ ることも可能
*
京都大学東南ア ジア研究セソ タ-1)Leach1976・な お Fernande7-1974お よび Superber1975参照。
前田 :コミュニティ宗教におけるシンボル であ る。 この連続 の細 を断 ち切 った所 に メタ ファーの世界 が生 じる。 「自分 は 日本人 であ る」 とい う同定 の仕 方 も, 「日本人Jとい うカテ ゴ リーが世 界 の他 の人間 とは まった く種 類 を異 に す る 「他 の もの」であ る とされ る時 に ,強 力 な シンボ ル ・象 徴 と して働 き得 る。 日本 人 とい う こ とが ,普通 に使 わ れ る意味 と全然別 の次 元 の意味 を もつ ことに な る。 シ ンボル ・象徴 とい う こ とば を我 々は この よ うな場 合 に限定 して使 いた い。'2) この よ うな意味 の シ ンボルは ,必 然的 に , いわ ゆ る宗教 と呼 ばれ る生活 領域 と深 い闘 わ リを もつ 。 本報告 は南 ス ラウ ェシにおけ る
Tol
ot
ang
と呼 ばれ ;:i,コ ミュニテ ィ宗 教3)の予 備的 な考 察 であ る。 世界 宗教 といわれ るイス ラ-ムの波 の中 で ,小 さな島 の よ うに存続 す る伝統 的 宗教 の シ ンボルの強 さ ・深 さの研 究 の手掛 りと して ,予 備踏査 の報告 では あ るが ,細部 にわ た る問 題 を掘 りお こ して い くため の展 望 と して の序論 で もあ る。 現地 調査 は1975年11月 よ り1976年3月 まで イ ン ドネ シアにお いて文 部省科学 研究 費 に よって 行 なわれ た。4)調査 対象 とな った村 には , しか しなが ら, 約3カ月間 しか住 み こめず , また ブ ギス語 も十 分 に マ ス ター され なか った。2
. ブギ ス人 と調 査 地 いわ ゆ るブギ ス ・マ カ ッサ ル族 と通 称 され る イ ン ドネ シア人 の一 群 紘,南ス ラウ ェシに居住 す る。16,
7
世紀 ,マ レー半島か らオ ース トラ リア北部 まで イ ン ドネ シア海域 各 地 に植 民地 を作 るな ど海 の民 と して知 られ ,そ の勇敢 さ,冒険精 神 で有 名 であ る。5) マ カ ッサ ル人 は昔 のGoa
,Tal
l
o
王 国 を中心 と して南 ス ラ ウ ェシの南 端 のほ うに屠 任 し,人 口は約 150万 といわれ る。 マ カ ッサ ル人 と隣接 してそ の北 に は ブギス人350万 が住 み ,南 ス ラ ウ ェシの北 部山岳 地 帯 に は ト ラジ ャ人 約50万 ,西北 には マ ンダル人50万 が住 んで い る。6) マ カ ッサ ル とブギ ス とが一括 して 呼 ばれ るのが多 いのは ,言語
も近 い し,文 化 ・社会組 織 な どが相
似 て い るか らであ る。
そ の他 の トラジ ャ,マ ンダル語 を含 め て,南 ス ラ ウ ェシ祖 語 を 構成 しよ うとす る試 み もみ られ る。7) 南ス ラ ウ ェシにおけ る諸文化 の よ り精 密 な 体 系的 比 較整理 も今後 の課 題 であ ろ う。 2)Schutz1962参 照 。 :3)vanBaaren1975の用語に従 う。 4)昭和51年度海外学術調査 (研究代表者 :飯島茂教授)研究分担者。 この調査のために組放された東京外 人 AA研の 「アジアの原構造」プロジェクト参加者ならびに調査隊貝か らの多 くの知的刺激に感謝した い。調査の機会を与えて下さった飯島教授,ならびにジャカルタにて調査上の便宜をほかっていただい た京大東南アジア研究セソタ一 ・ジャカルタ連絡事務所の坪内良博助教授 (当時)の御高説にも感謝し たい。 LIPIのKoentjaraningrat教授および Hasanuddin大学Mattulada教授には,調査許可の段階で御世 話を受けた。UjungPandangでは上記 Mattulada教授およびNurdinYatim講師の協力で,地方政府 との関係もうまくいき,とくに Sidenreng-RappangのBupatiは調査に好意的であった。その他多数の 万々のお陰で調査が行われたことに対して感謝したい。5)ブギス族の 出稼ぎについては Lineton 1975参照。 マレーシアのブギスに関しては W instedt1961,
Andaya1975a,Burridge1956,Pelras1972,Maeda1974など.オ-ス トラリアに関してはA.A.Cense,
H.J.Heerenなど愛眼C,
6)Mattulada1974. 7)Mills1975.
・ 柚h-ァ シ ア研 究 14巷こ3片 マ カ ッサル ・ブギ ス社会 の特 徴 は 社会階 層 と祖 先崇拝 で あ る という 。8) 伝 統 的 な社会階 層 は 普通,(1)王族 ,嚢族,(2)平民, (3)奴隷 とい うふ うに 図式 化 され る。9) ll)と(2)との間 には大 きな 隔差 が あ る。 王族 は天孫伝説 を唱 え ,他 の地 上 の民 との越 えがた い血 の相違 を強調 す るか らで あ る。 征 服民 族 と被 征服民族 とに よる二 分組 織 が この階 層制 の根底 にあ るのか ,あ るいは単 な る双分 制度 が 発通 した もので あ るか ,にわ か には決 め が た い ところで あ るが ,王権 そ の ものは regalia と密接 に 結 びつ いて いた こ とは 注 意 されね ば な らな い。 王権 の正統性 とい うのは , regalia を持 つ こ とな のであ る。 Regalia を失 った王 はそ の 支 配 の 正 統 性 まで失 うこ とにな る。10) イ ン ドネ シア共和 国成立 後 ,王族 ・貴 族 の特 権 は剥奪 され , 身 分制 は な くな り経 済 的 に も没落 した とは言 うものの ,農 村部 では特 に身 分 に対す る畏敬 の念 が強 く残 され てい る。 貴 族 の杯 T,封ま好 んで使わ れ ,呼称 な どに も昔 の しきた りが残 され て い る。 もち ろん ,政 府 の役 人 の 地位 ,軍 の位階 に よる上下 関 係 が伝統的 な階層制 に とってかわ って ,新 しいエ リー ト,新 しい 階 層
制
を形成 して い る とい う事 実 はすべ て の人 が認 識 す る ところで あ る。11) も う一 つ の特 徴 と してあげ られ る祖先 崇拝 に関 して は ,イ ス ラー ム との関係上非 常 に興 味 を 引 くが,
祖 先 あ るいは祖霊 の概 念 ,祭紀 の在 り方な ど詳 しい研究 が行 なわれ て い る とは思 わjL ない。 海 の民 と して知 られ るブギ ス人 も,そ の生 業 は農業 と くに稲作 で あ る。 もち ろん ,商 人 ,樵 良 ,戦 士 と して有名 で あ り,事 実地 方 ご とに商業 の上 手 な国,勇敢 な国 ,学 問 ので きる国 な ど とい うステ レオ タイプ もブギ ス内 部では あ る。 しか し住民 の大 多数 は農耕 に従 事 してお り, と くに 南 ス ラ ウェシの中 部は殻 倉地帯
ともいわれ る。12) ちな対 こ南 ス ラ ウ ェシ省は 100,457kmコ の面積 (人 目は1971年 で5,179,911人) で あ るが ,1971年 の水卜
旧由葦勘ま 515,400ha であ る。 そ の 多 くが南 ス ラウ ェシの北 部お よび南 部の此 方地帯 を除 いた海 岸 部お よび中部平野 に集中 す る わけ で あ る。調 査地 は この 穀 倉地帯 の一 つ であ る Sidenreng-Rappang 県 の南
部
に あ る Sidenreng 湖 の 班 (Sadang河
か らのか んが いで2期作地 帯) に 位 置す る Tellu Limpoe 郡 の 中心 とな る Amparita 村 であ る。13)1975年 での各 々の行 政単位 の人 【1規模 は ,同県 が約 193.000人 ,同郡
8)Chabot1950,1967.なお社会階層に関してはFriedrichy1933に詳しい。 9)現代のWとIjoを調査した Lineton(1975:192)は王族,
貴族,平民の3階層にわける。 10)Andayl11975および Harvey1974参照。 ll)南スラウェシの旧ユ リ- トと新エ リ- トとの関係については,Mattulada1975:65-77を参照。 12)Schrieke(1955:5)によれば, 14-17闘 己の間にマカッサル人は農耕民から (ジャワ人に代わって)帆 海の民となったとい う。海賊は1905年頃を境 として,汽船の数が帆船の数より多 くなると共に姿を消し ていった (Resinlく1968:317-8)。 13〕行政準位の訳は誤解を招き易い。本稿では使宜的に,省-県一都一村一部落を各々Propinsi-Kabupaten --Kecamatと11- Des°(1974年まではWanua)-Kampung(1974年までほ Lingkungan)にあててお く。なお,スラウェシ島は南スラヴェシ,
東
南スラヴェシ,中部スラウェシ,北スラウェシの4省にわかれる。南スラウェシ省は23児か らなる。Sidenreng-Rappang県は昔の Sidenreng侯同 と Rappang侯同と
が行政上一つにされたもので,7郡よりなる。
前 田: 二,ミュここナ †宗 教 に お け る シ ンボ ル が
1
5.
2
5
7
人,
同村 が7.
9
4
5
人であ る。Ampar
i
t
a
で の遇 2
回 の 市 と,市
のたつ 周囲 の2
階建 長屋
店舗(
gar
d巾
4
2
戸 が近隣 の村 を含 めた 市場 町 の中心 とな ってい る(,ここで補充 しうるの は 口常 生活 必需品
に限 られ て お り, 経済 の 中心 は県郡 のPangkaj
e
ne
あ るいはむ しろ隣 県のPar
e
-
Par
e
市 といえ る。Ampar
i
t
a
を調査地 と して選 んだ理
f如よ主 と して次 の三 ∫)に よる。(1) 南ス ラウ ェシ
省
の ブギス入店
住県であ るPi
nr
ang
,Par
e
-
Par
e,Si
de
nr
e
ng-
Rappang
,Soppe
ng
,Waj
o,Bone,Si
nj
ai
の請県庁を 訪問 したが , その中
でSi
de
nr
e
ng-
Rappang
での県側 の調査 に対 す る反応 が比較的好意 的 であ った こ と。 (2) 集落 の歴 史 が古 く,市場町的 な様 相 をおび なが らも,伝統的 な慣 習が強 く残 って い る こ と。 (3) いわ ゆ る
Tol
ot
ang
と呼 ばれ てい る コ ミュニテ ィ宗教 の中心地 であ り,イス ラー ム との 競合地域 で もあ る こと。¶
デ ー タ3.Tol
ot
ang
の意味 と倍徒TOLOTANG
とい うのはt
aul
aut
ang
がな まった もの といわれ,t
au
とI
aut
ang
に分解 さ れ る。Tat
lは人 を意味す る。 例 えば有名 な トラジャ族 とい うの も,r
i
aj
a
(とか ら) の人 というこ とであ るo
Laut
ang
は南 を意味す る。14)これ は後述 す る よ うに ,これ L4)の人 々がAmpar
i
t
a
あ るいは
Ampar
i
t
a
川 ,あ るいはAmpar
i
t
a
の要塞(
.
be
nt
e
ng)
の南側 に住 む ことにな った ので ,そ う名付け られ た とされ る。 これ に対 し,Tol
ot
ang
の中心 的人物 の一 人の説 明では ,To
とい うのは人の意味 では な く,木 または源 を意味 していて ,元来Tol
ot
ang
とい うのは信 仰 の名前 そ の ものであ って , イス ラ- ム以前 か ら決 め られ て いた 名称だ とい う。15)Tol
ot
ang
とい う語 は現在 では人 々な らび に信仰 の両方 を指す のに用 い られ て い る。 語源 が いずれ に Lて
も,そ の信仰 の中心 は
Sur
e
'Gal
i
go
と呼 ばれ る神代記 (iLaGal
i
go
に よって伝 え られ た と す る神 々の物 語) に基づ く前 イス ラーム期 の伝統的 ブギス信仰 であ る。 従 ってTol
ot
ang
は イスラー ムではな い とい う立場 を とる。
トラジ ャ族 を除 いた 南ス ラウ ェシ
省
はほ とん どが ムス リムに よって占め r)れ てい る もの の , 所 どころにイス ラー ムを受容 していない コ ミュニテ ィが残 って いる。Tol
ot
ang
のほか に ,例えば半島 の南東端 の
Bul
ukumba
県の Tokajang あ るいは Am m aToaは Pan
tuntung と呼 ばれ る信仰 を堅持 してお り, そ の他小規模 な非 イス ラー ム信仰集 団 と して
Ta
bl
e
l の よ う な ものが 報告 され て い る。 これ らはすべ て ブギス ・て カ ッサル族 であ るが ,逆 にそれ以外 の山14)
Ma
t
t
u
l
a
d
a
氏によると梅の意味であるとい うoSi
d
e
n
r
e
n
g
では本文のように解されている0東南アジア研究 14巷 3号 TableI 名 称 KこIraengCaddiy;I MakdiAkb乙Ir lllallhll ShalこltMau一 K;lrilengSerreこI All叩Ingen即1ge GuruTogoa TuangKabbeng Bawakaraeng PapesseMata lllalahud Belawil PtlangMallurtl Tumbu'rrと111uこI
WargaSejatiKerallこIyu乙ln AjalてInPembahasan I)uaKalimatSy乙IhadこIt (FこIham T;lllu) WargaSwargこl 中 心 地 信
書
数 教 義 Mar()s I,000 不 詳 SeliIViIr 1,,12(i Jenepont() 不 明 TとIkillill・ バ1 JellepOnt。 不 明 Bone Bone Mar°s Marob Soppeng Mar°s Soppeng 不 Pinrang Bulukumb乙I UjungPilndang Miljene MilrOS ク ク ク 明 ・l リ 7 q U nU 1 .3 日J リ . // ノケ // // J</ // ウ ノク ク クー
ク
祖 先 よ り 不詳
ク 私 党 よ り 1O O 不 詳Source: Mattulada1976,Table1Aliran-Al iranKepercayaandanTareRatdi Sul乙lWeSiSeIat;lnか ら抜粋o
岳 民 が ムス リムの場 合 に は Enrekang の To Duri とい う様 に 特 殊 な グル ー プ扱 い をす る こ と もあ る。
Tolotang の信徒 は ブギ ス人 に限 られ て いて , 異種 族 の人 間 あ るい は南 ス ラ ウ ェシ以 外 の土 地 の人 が Tol()tangに 改宗 した とい う例 は な い。 そ の借着 数 は Tolotang側 は 現 在
8
0,
0
0
0
18)と 称 し,1
9
6
9
年 の報 告 で は3
5.
0
0
0
人17)と言わ れ る。 Tolotang 人 目が 明確 に 把 捉 され て い るのは Sidenreng-Rappang 県 だ け の よ うで , W ajo 県 で は5,
0
0
0
人 くらい,18)そ の他 の Pinrang, Pare-Pare,Soppeng,Ujung Pandang な どは ご く 少 数 と言 わ れ る。 一 般 に 流 布 され て い る数 字 は , 純 粋 の Tolotang Asli とイ ス ラ - ム儀 礼 を と り入 れ て ムス リムに 近 くな って い る Tolotang Benteng を 明確 に 区 別 して いな いた め に混 乱 を生 じて お り,Tolotang Bentengの
ほ うは 多 くは イ ス ラー ム と して報 告 す る よ うで あ る。
1
9
6
9
年7
,8
月 に マ カ ッサ ル教 育 大 学 (IKIP)の学 生 に よって行 なわ れ た Sidenreng-Rappang 16)Uwa'ToboTywu,1976年 3月16日017)IKIP 1969:581。 この数字は T。lotang椙者の Makatungeng氏による。
18)MuchamadArief1973に引用されている BukuLaporanTahunanJawatan Penerilngan RIPropinsi Stllsel1970/1971(Makassar1971,No.9b,9d)による。
蒔田 :コ ミュニテ †宗教 におけ るシ ンボル
帖 こおけ る
5
カ年 計画サ ーベ イ19)に よる と, 同県 での 純 粋 の Tolotangは5,
2
8
9
人 で あ る。TolotangBentengあ るいは同書 で Islam Tolotangと呼 ばれ て い る グル ー プは 除外 され て い る。 これ に対 し
,1
9
7
2
年 の年 初 に 出 され た宗教局 の報 告 に よる と,Sidenreng・Rappang県(人 口
1
81.
4
1
3
人) には9,
8
6
9
人 が Tolotangと して登録 され て い る という 。20) さ らに1
9
7
6
年に 出 され た広報 に よる と
,1
9
7
4
年 で ムス リム1
7
2,
1
4
3
人 ,キ リス ト教徒1
7
3
人 ,Tolotang信徒 (Aliran Towani/Tolotang)1
2,
7
8
4
人 であ る。Anlparita村 での Tolotang人 口は IKIPの
1
9
6
9
年 の調 査 では2,
3
8
6
人(
3
4.
2%)
を しめ てお り,Islam Tolotangす なわ ち Tolotang Bentengは1,
6
6
0
人(
2
3.
8
%)
, ムス リムは2,
9
3
5
人(
4
2.
0
%)
にす ぎな い。1
9
7
2
年 の宗教局 報告 では,4,
0
1
6
人(
5
0.
6
%)
がTolotang信 者 とされ てい るが , この中 に TolotangBentengを含 む のか 香 か とい うこ とは明 らか に され て いな い。1
9
7
5
年5
月現在 の村役場 で の集計 に よれ ば ,純 粋 の TolotangAsliは1
9
7
2
年 の数 字 とまった く一 緒 の4.
0
1
6
人(
5
0.
5
%)
とな って い るO この集計 で はTolotangBentengは イス ラー ム と して扱 われ て
いる。
村 人 日は6人増 えて い るだけ で あ る。
しか し上 部行政 単 位 の郡 人 目は1
3,
4
3
0
人 か ら1
5,
2
5
7
人 に増 加 して い る。 宗 教入 日の決定 には種 々の困難 が つ きま と う。 今 回 の調 査 では ,準 備段 階 と して ,家 単位 ご とに 宗教 別 にぬ りわけ て ,家屋 数 か ら各 宗 教 信者 の比 率 を求 め た のみ であ る。Table2はそ の 集 計 を示 して い る。 ムス リムが Tolotangの家 に婚 入 して きた とい うよ うな マ ー ジナル な ケー ス も見 られ るが , 大 きな 誤 差 は ない と 思 われ る。1
9
6
9
年 と 比 較 して . Tolotang Asli と TolotangBentengの比率 が変 わ って きて い るのか注目さ′汗る 。 4.AmparitaTelltlLimpOe
郡
はそ の 名が′Jけ よ うに 三 つ の村 か ら成 りた って い る。21)Amparita(
1
9
7
1年Table2 Number()iHousesbyReligion(asofFeb.,1976)
A KampungI 267(74.2) 35(().7) 58(16.D KとImpungII
n
(16.4) 59(ll.7) 363(71.9) KampungIII '13()(:i7.4、) 4')(8.O) 336(54.6) Tot;ll Note: Ⅰ=Houses . L380(39.2) 143(9.7) 757(51.1) ()iMuslims 360(10().0) 505(100.0) 615(100.0ノ 1,480(100.0) B-HoLlSeSOfTolotangBentengA-HotlSeS。fTolotangAsli
ltり IKIP1969:361および 489.この調査は大学生が直接面接して聞き取 り調査を行なったものである。当
時の Tolotangに対する厳 しい情勢をも考慮せねばならない05・Ⅴ・項参照。
2O)Asaf1972:15-6.この数はSidenreng・Rappang鼎統計庁の数字に基づ く.
21) この名前は1961年に3村を合併して郡とす る時につけられたもので,limpoから想像されるような伝統 的なものではない。
東南 アジ ア研 究 14巻3号 人 口
7.
9
4
0
人),Massepe(人r
二
1
4,
6
3
4
人)お よびTeteaji(人 口2,
8
5
6
人) であ る。Amparitaは そ の中 の中心地 で郡役所 の 所在地 で もあ る。他 の2村にはTolotangの信者 が1名 もいない 。 3村 の各 々人家か ら人 家 までの約 1キ ロの間は水 田で隔 て られ,村 の額域 は極 めて明確 であ る。 Amparita村 は さ らに三 つ の部落 (kampunglに分け F)九 ,各 々 Ⅰ,Ⅱ ,Ⅲ と呼 ばれ る。22) 各 々の部落 は二分 され て,RK (RukunKampung)Ⅰ と RKI
Iとにわかれ る。RKの下 に3
ない し4の RT (Rul川nTetanga,隣組) が最下位 の 単位 と してあ る。地 図は Amparitaの盾住 パ ター ンを示 した もので , 北 側は部落 Ⅰ,東南側 は部落 Il,西南 側 は
部
落 Ⅲで あ る。 Amparita村 の領域 は実 は地図
に 見 られ るよ りももっ と広 く, 飛び地 の 集落 も含 む。 北 方約1.
5
キ ロの ところに Panrengngeと呼 ばれ る約4
0
戸 の集落 が あ る。 これ は 部落 Ⅰに属す る。 部落 Ⅲ もその西方 に小集落 を もって い る。 これ らの集落 は地 図には含 まれ て いない。軍 事 治安 が悪 くな る前 には ,ほ うぼ うに小集落 が散在 していた ようであ るが ,独立後 の ゲ リラ戦時代 にほ とん どが比較 的安 全 な Amparitaに住居 を移 した。23) Amparitaの, こ とに南 お よび西 の住居 は この よ うな人 々で 占め られ る。 ご く最近 までは水 田であ った所 で もあ る。 部落 Ⅱ の飛 び地 は , 昔 の屠任 地 に 戻 一〕てい った人達 の集落 で Tolotang信徒 であ る。 部 落 ⅠのPanrengngeには ムス リムだけ しか唐佳 して いない。1
9
6
3
年 に西端 の家か ら発生 した大 火が部落 Ⅱ,Ⅲのほ とん ど大 部分 と部落 Ⅰの南東 部 とを嘗 めつ くした。新来者 が多 い上 に この 大火のた めに ,南 ・西 ・東 の周辺 部に は未だ貧 しい粗 末 な家 が多 い。 この分布 図をみ る と,北側 に ムス リム, 南 側k Tolotangとい う感 じが強 いが ,詳 細 にみれ ばかな り入 りくんで い る。 住 民 に とって も,明確 にTolotangの地 ,イス ラームの地 といった 土地 の区分 は存在 しない。北側 に あ る墓 地 も共 同で使われ てい る。 ここで もTolotangの墓 の 脹中 して い る所 ,イ ス ラ- ムの墓 の多 い所 は 明 らか であ るが ,墓地 がその よ うに区分 され て い るのでは な く,親族 関係 の濃 い もの同士 が近 くに埋 め られ るので , 自然 とそ の よ うな区分 を も た ら して い るにす ぎない。言 いか えJit(Iま,宅 地 に しろ墓地 に しろ,Tolotangだけ ,あ るいは ムス リムだけ使 用 して もよい所 とか ,逆 に使用 で きな い所 とい うのは無 い。数字 の上 だけか ら みれば ,既述 の よ うに Amparita村 で の Tolotangの比率 は5
0.
5
%
であ るが ,村単位 で もっ とも集中度 の高 いのは ,WatangPulu郡 に あ る Arawa村 の5
4.
5
%
であ る。24)部落 レベル では部落 Ⅱが
7
1.
9
%
と商いが ,WatangSidenreng郡 にあ る Kanyuara部落 は1
9
6
9
年 において これ よ りも高い7
8.
3%
を示 して い る。25) さ らに下位 の単 位 であ るRKレベルで もTolotangだ22)古い地名としてほ,Arateng,Lasalama了rodanpulu,Labukl…,Ribolangなどがあ り,現在でも使われ ることがある。 23)以 下,単にAmparitaと言 う時は,これらの飛び地集落を除いた車山部だけを (二次ページの概念図に示 された部分)指す。 24)Asaf1972による。 251全人口1,960人の うち 1,534人。IKIP1969による。 414
前田 ‥コ ミュニテ ィ宗教 におけ るシ ンボル
ケ
a u a!e鳥
u e d図
解ギ
Q)t2
1.FJ
tPd
∈
V境南アジア研究 14巻
3号
Table3 PoptllationofDesaAmparitab
ySe
x(
a
s
o
f
Ma
y,
1
9
7
5
)
KampungI KampungII KampungIII TotEtl male adults chil. total 572 420 992 771 483 1,254 843 589 1,432 2,186 1,492 3,678 fem
a
l
e
adults chit. t
o
t
a
l
766 416 1,
1
8
2
918 509 1,
4
2
7
1,021 617 1,
6
3
8
2,705 1,542 4,
2
4
7
TOTAL H
OUSEHOLD2,
1
9
4
4152,
6
3
1
5363,
0
7
0
5717,
9
4
5
1,522 SotlrCe: KantorDesaAmparita. け の RK とい うのは ない。Ta
bl
e3
は1
9
7
5
年5
月現在 の村役場調査 の人 口であ る。Ta
bl
e
lのAmpar
i
t
a
におけ る家屋 敷 とは必ず しも一致 しない。役人 ,教 員な どほ地元 出身 もい るが ,近隣村 あ るいはSi
de
nr
e
ng
内か らの ブギ ス人 が多 い。 診療所 , 警察 は外来者 に よって占め られ , キ リス ト教信者 が そ の中
に3
人 い る。 市場 の店舗経営 はほ とん どAmpar
i
t
a
出身 であ り,ムス リムもTol
ot
ang
もい る。 市 日に くる行商 は 市 ごとに移動 してい く専 門 の行商 と,近隣 か ら作物 を売 りに くる農民 とか らな って い る。 一 つ特殊 な グル - プ と して ,
Ampar
i
t
a川
か ら水 を運搬 して売 る水売 りが あ るが ,これ はBone
県の出稼 ぎ者10名前後 の仕事 にな ってい る。 大部分 の住民 はAmpar
i
t
a
村 で生 まれ ,Ampar
i
t
a
村 で育 った人 々 とそ の親族 か らな るか な り等 質的 な コ ミュニテ ィと言 え る。 しか し,出稼 ぎをは じめ と して ,親族 を頼 っての 出入 り ・移転 な どは頻繁 に行 なわれ て い る よ うであ る。 郡長(
camat
)
は県長(
bupat
i
)
か ら任命 され る。 現在 の郡長 は1
9
6
8
年現在 の県長 に任命 さ れた。 それ までの郡 長 は3
カ月な い し1年 く らいで更迭 され た とい う。 現郡長 はAmpar
i
t
a
村よ り北 のほ うにあ る
Wat
angTe
dong
の出身 で ,母 がTol
ot
ang
か らイス ラー ムへ の改宗者 で彼 自身 も生 まれた時 はTol
ot
ang
流 の儀 礼 を受 けた とい う。 母は死亡 したがAmpar
i
t
a
にも多 くの親戚 を もって い る。 彼 の妻 の親族
(
Pi
nr
ang
県 の貴族 の出),父方 の親族 (ムス リム)な どが
Ampar
i
t
a
以外か ら しば しば 訪ね て くるのに対 し, 母方 の親族(
Tol
ot
angAs
l
i
)
はAmpar
i
t
a
に いなが ら頻繁 には訪ね て こないが ,何 か事 が あ る と訪 問に きた り手伝 いに くる。彼 自身 は
Muhamadi
yyah
であ る と自称 してい るが,Tol
ot
ang
対 策 と しては ,中央 の ともす れば性急 な改宗策 に反対 して ,漸 次的 な教育 に よる懐柔策 を主張す る。イス ラ- ム.Tol
ot
a
ng
, 貴族 の三 つを うま く操作 して安定 した指導 力 をみせ てい る といえ る。 現役 の中尉 で ,陸軍 と県 と両方か ら給 料 を得 てい る。 郡長 の下 に郡長代理 ,行政 ,総務 ,財務 お よび地方政 府管轄 の保健 ・森林 な どの業務 をす る 役人 が 直属 し,その他 に教 育 ,広報 ,宗教 な ど直接 中央 か ら指令 を受 け る出先機 関 もあ る。 こ れ らの役 人 にな ってい るのほ 二 , 三 のTol
ot
ang Be
nt
e
ng
を除 いては すべ て ムス リムであ 416前田:コミュニティ宗教におけるシンボル る。28) 村長
(
Ke
pal
aDe
s
a)
は行政組 織 の 末端 にあ り, 住 民 の 公選 に よって8
年 ご とに 選 出 され る。1
9
7
0
年 の選挙 で村長 に選 ばれ た 現在 のAmpar
i
t
a
村長 は , 隣 りのWa
j
o
県 出身 の軍人 で,Ampar
i
t
a
に在 勤 してい る うちに村人 の信任 を得 て ,他 の2
人 の候補者 を制 して村 長 にな った。 ムス リムであ る。 彼 の父親 はWaj
o
の部落 で オ ラ ンダ時代 か らず っと引 き続 いて部落長 であ る。 このAmpar
i
t
a
村 長 とTe
t
e
aj
i
村長 とは ともに郡長 とゲ リラ戦 を戦 って きた軍人 で あ る。Te
t
e
a
j
i
村 長 もム ス リムであ るが ,そ の妻 はTol
ot
l
l
ngAs
l
iで ,住 居 もTe
t
e
aj
i
では な くAmpar
i
t
a
の 部落 Ⅰの西 のほずれ にあ る。 も う一 つ の村 であ るMas
s
e
pe
の村長 は同村 の 貴族 出身 であ る。 なお ,同 じAmpar
i
t
a
の村 での1
9
6
6
年 の村長選挙 では2
人 の候補者 が立 ち, 一方 は1.
8
0
0
票 ,他方 は9
0
0
票 を獲 得 したが結局後者 が村長 とされ た とい う。 これ は ,前者 の所属政党 に帰 因す る政 治的 な決 断 だ と郡長 は説 明す る。 しか し,当事者 はそれ がTol
ot
ang
の ラベル のせ い であ る とい う。彼 は系譜的 に純然 た るムス リムではあ るが ,そ の事 はTol
ot
a
ngBe
nt
e
ng
で , 彼 自身ず っ とTol
ot
angBe
nt
e
ng
の指導者 の通辞 であ ったので ,一般 にはTol
o
t
ang
と して 見 られ ていたのだ という。彼 は音楽 の才能 があ ってそ の方面 で有名 であ るが ,あ る時彼 が病 気だ とい うニ ュースを聞 いた 県長 は ,彼 に病院 に入 る よ うに勧 めたが ,
r
もっ ともTol
ot
ang
は 注射 を恐 れ るか らなJ とい って彼 をTol
ot
a
ng
扱 い した ともい うo
県長 を始 め と して郡長 ,料 長 レベルには ,Tol
ot
ang
を近 代化 か ら取 り残 され よ うと して い る悲 しむべ き民 び と とい うス テ レオタイ プが根強 くあ る。部落長
(
Ke
pal
aKampung)
には , ムス リム,Tol
ot
angAs
l
i,Tol
ot
angBe
nt
e
ng
の三 つ の グル ー プの有力者(
pe
muka ma
s
yar
aka
t
)
が合意 す る者 が選 ばれ る。 任期 も俸給 もな く,税金 な どの徴収 の手数料 が収 入 とな るだ けであ る。 部落 Ⅰお よび Ⅲの部落長 は ともに ムス リム であ るが
,7
2%
がTol
ot
angAs
l
iであ る部落 Ⅱの 部落長 はTol
ot
angAs
l
i
であ る。 部落Ⅰ の と同様 兵役経験者 であ る。Tol
ot
angAs
l
iの内部 で と くに地位 が商 い とは いえず ,む しろ部 落長 に任命 され た こ とに よってTol
ot
ang
内部 での地位 が浮上 した くらいであ る。部落 の下 の
RK,RT
の グル ー プごとに長 が決 め られ て い るが , 連絡 係 の役 目 しか果 た して いない。 そ の他Hans
i
p(
Per
t
ahananSi
pi
l民警) 組織 が あ る。 この統轄者 は 部落長 ,村長 .県長 で あ る。
宗教的 には , ムス リム代表 とい う形 ではないが ,部落 ,村 に
I
mam Kampung,I
mam De
s
a
が行政組織 の中に組 み込 まれ てい る。 これ とは別 にSanr
oWanua
(村 の呪術 師 ・祭 司) の地位 も現在 に至 るまで受 け継 がれ てい る。 イ ス ラーム とは全然別 であ るが , この地位 につ き得 る
261以下述べるように村長 ・部落長のレベルでも
To
l
o
t
a
n
g
の任用は少ない。県レベルでも学校教師を除い て役人にはほとんど登用されていない。ただし,県議会および州満会には代諌貝を選出している。東 南 アジア研究 14巻 3号
のは人 格 高潔 とされ る ムス リムで あ る。 TolotangAsliは対 外的 には UwattaBattowaeの 地位 に あ る者 が代表 す る とされ て い るが ,現在 はそ の地 位 を継 承 すべ き人
侶
】が未 だ若 いので , 後 見人 が Tolotang Asli代表 と してすべ て の 対 外交渉 に あた ってい る。 同様 に Tolot<lng Bentengに も一人 の最 高指導者 が対 外的 な代表 と して貢任 を もって い る。例 えば 共同作 業に要 す る人 員 を集 め るのに も,Tolotangの場 合 は これ ら指導者 を通 じるほ うがず っ と能 率的 で確 実 だ とされ る。 また重要 な問題 は,郡
長 また は村 長か i、)これ ら指 導者 に相談 され る05.
歴 史的背景5
.
i
.
前イ ス ラー ム時 代 南 ス ラ ウ ェシでは5.000年 前 といわれ るCabbenge遺跡 が発掘 され て い る。も とよ りそ の時 代 か ら歴 史時 代 まで を明 らか にす る よ うな研 究 は な され て いな い。ブギ ス・マ カ ッサ ルの古代 史 は いわ ゆ る Lontara'と呼 ばれ て い る固有 の記 録文学 の完全 な解 明を ま って始 めて 明 らかに な ろ う。 この中 で も特 に重要 な Sure'Galigoの名 を と一つて,9世紀 か ら1
4
世紀 まで を Galigo時代 と名 づ け てい る。27
)
南 ス ラ ウ ェシで最 も青 い王 国は北東 にあ るLuwu'だ といわ れ て い るが, Sidenrengの支 配者 は この Luwu'あ るいは現在 のTallaTorajaか ら来 た と言 われ る。 このよ うな王 国 の支 配者 の正統性 の原理 は ,天 孫 降 臨 (Tomanurung)28)伝 説 を中心 とす る血統 と, 墾 な る神 器 (Arajang)の保持 とい うこ とは既 にふれ た。Arajangに限 らず ,そ の他 の崇拝 対
象であ るsaukang,pantas(-1な どの供養 (puja),祖先 (jlttOriolong)崇拝 が信
仰
生
活 の基 本 をな して いた もの と思 われ る。29)ィ ス ラー ムが入 るの と前 後 して, あ るいはそれ 以前 に ポル ト ガル人 の影響
で Suppa(Pare-Pare),Bacukik工 Goa,Siang(Pangkajene)な どに キ リス ト 教信者 が いた という 。30) しか し, これ ら一神 教 が入 って くる前 に,哩-神 (DewataSeuwae) の存在 が信 じられ てお り,Sure'Galigoに よれ ば世 界 の始 祖 は Patotoeと呼 ばれ てお り,神
皇紀 は この神か ら始 ま る とされ て い る (6.iii参照 )。 この よ うなイ ス ラー ム以前 の信
仰がいか な る もので あ ったか も,Lontara'の詳細 な研 究 に 待たね ば な らない。 ヒン ドゥイ ズ ムの影 響 の大 きさな ど とい う点 も,現在 残 って い る非 イ ス ラ ー ム的 な文化 か ら問題 をつ きつ め て い くよ り,記録 に あ らわ れ た限 りで の歴 史の再 現 とい うこ とが第1次資 料 とな らね ば な らな い。 Sidenrengの王統 も, 種 々の Lontara'か らイス ラー ム以前 の王 の 名前 が 知 られ て い る。1
9
6
4
年 に 出版 され た'Ft政 府 の報 告 に よれ ば ,Addauang31)と称 され た王 が6
人 ,ArungSide -nrengと称 され た王3人 がそ の後 に続 いて , イ ス ラー ムに 改宗 した とされ る Ⅰ,aPattiroiは 27)Mattulada1975,なお,Noorduyn1961,1965参照。 2R)イン ドネシア独立前まで続いた王統は,第三次のTomanurungを直接の先祖とする。MIlttulada1974, Harvey1974参照。 29)RepbulikIndonesia1953:593. 30)Mattulada1976参照。
31)Akkadauang(-tempatbernaung)の略だとい う0 418前 田 :ニ1ミュニテ ィ宗教 におけ るシ ンボル
第
1
0
代 と数 え られ てい る。82) 一 方 ,郷 土史家LaSi
de
に よる と,最初 の王 はManur
ungnge
r
iBul
u-
Lowa(
Lowa
山に降臨 した王) で ,そ の娘Songko'Mpul
a
we
ngnge
が王位 を継 い で ,We
pawawoi
と結婚 した とされ る。We
pawawoi
は初代 のBacuki
ki
地方 の王(
Ar
ung
Bacuki
ki
l
のLaBange
nge(
Manur
ungnger
iBacuki
ki
)
の息子 で,Ar
ungRappappang
兼Ar
ung Bacuki
ki
で もあ る。33) 前掲省政 府報告書 では , このWe
pawawoi
を 第6
代 のSi
de
nr
e
ng
の王 と して,Songko'Mpul
awe
ngnge
の名 はあげ て いない。 そ の後 のLaBat
a
,LaPas
a
mpoi
,LaPat
e
ddungi
,LaPat
i
r
oi
に至 る王 の名前 に関 しては 異 同が ない。 王 の称を封ま各地方 に よって異 な るが
,Si
de
nr
e
ng
ではAddat
uang
(<dat
u)
がそ の後定着 した。天 孫 が降臨 した とされ る上記
Lowa
山はAmpar
i
t
a
の北l
km
の所 にあ る円錐形 の低 い山であ る。 ほ とん ど完全 な円錐形 をな していて , 古来 か ら 念願成 就祈願 の聖地 と して 信仰 され て い て ,現在 で も遠 方か らわ ざわ ざ参 りに くる人 も多い。頂上 まで一 雨線 の道 が東側 にあ り,15-2
0
分 くらいで頂
上 に達 す る。Ampar
i
t
a
の起源 は不詳 であ る。 この地名 の 由来 につ いては二 ,三 の説 明が な され る。 通説 に よれば ,ず っ と首この辺 りは一面 ジ ャ ングルであ った。北 のほ うか ら移動 して きた人 々は こ の地 にいた って始 め て 住 め る よ うな 土地 を見 出 した。 そ こでAmpa
(初め て ,ち ょうど)+
r
i
-
i
t
a
(見 られ た) と名付 け られ たのだ とい う。 あ るいはTanaTor
aj
a
か ら弟 を 探 しに きた 兄連 が ここで出
会 -つたか らだ とい う語源 説 もあ る。 さ らには ,Ampe
r
i
t
a
(見 られ た有様) が変化 して
Ampar
i
ta にな ったのだ ともい う。 この説 に よると,Addauang
の前 にAt
t
al
owa
(前掲
Manur
ungnger
iBul
u-
Lowa
か) とい う最 初 の 王 が いた。 彼 は南 ス ラウェシを ほ と ん ど支 配下 にお くほ ど権勢 を振 るつたが ,あ る時 ,丸 い美 しい山 を作 ってそ の上 に家 を建 て る こ とを思 いつ き, 民 衆 を働 かせ て(
Se
l
ayar
島か ら土 を運 んで) 現在 のLowa
Ll」を作 った。 ところが王 の思 った通 りの山にな る前 に ,民衆 はそ の童 労働 に耐 えかね て王 を殺 して頂上 に埋 めた とい う。 ところが この王殺 しのため に この地方 では7年 間稲 が実 らず ,人 々はバ ナ ナの幹 までを も食 べ て命 をつ ないだ という 。 8年 日に大 々的 な王- の供 養を した結 果,稲
もも と通 り の よ うにな った。 それ 以後 この地方 はAmpe
r
i
t
a
と呼 ばれ , 毎年収穫 の後 には 巡礼す る よ う にな った とい う。34)Ampar
i
t
a
を 支配 して いた のはAr
ungAmpar
i
t
a
と呼 ばれ る。Ar
ungAmpar
i
t
a
はAdda
-t
uangSi
de
nr
e
ng
とは直接 の血 の繁 りは ない とい うが ,やは り北方か らの来住着 で,Luwu'
の 貴族 と密接 な関係 にあ る とい う。Ar
ungAmpar
i
t
a
の大 きな 邸 は村 の中に残 ってお り,そ の32)H.AndyStlPadaMappangile1964. 33)LaSide1974.
t
'i4)HasanPulu氏による。 この話はLOntara'(す くな くともSure'Galigo)にはのっていないとい う。話 手のHasan氏は歴史に関する知識が豊富で,小学校長を勤めている。面自いことには,現在の県政府 も
Attalowaのように,この山頂に RestHouseを建てる案を立てたが, この山を聖地とみる人々の根強 い反対で実現しないとい う。
東南 アジア研 究 14巻 3号 子孫 が今 で も住 んで い る。 5.ii.初 期 のイス ラー ム化 南ス ラウ ェシでのイ ス ラー ムの弘布 は ,港 々か ら徐 々に な され た漸 次的 な波 と,象徴的 な
里
程 としての王 の改宗 とそれに伴 う民衆 の改宗 の波 の二 つか らな された。前者 は後者 が成 り立つ ため の基盤 とな って歴 史 の中に埋 まって しまい ,我 々が知 りうるのは後者 の過程 だけであ る。イス ラー ムを最初 に受 け入れたのは Luwu'の1603年 ,次 に Talloの1605年,Goaの1607年 で ,他 の王 国は Goa壬 か らの圧 力 もあ って ,1609年 に Sidenreng,1610年 に Wajo,1611年 にBoneの各王 が入信 してい る。35)そ の後 ミナ ンカノミウ人 の聖者 が布教活 動 をす るこ とに な る が , と くに北 のほ うでは ス- フ イズム的 な要 素 を強 く示 し,前 イス ラームのSawerigadingや
DewataSauwae信仰 と結 びつ く形 でイス ラーム化 が進行 した。36)この よ うな土着信仰 との融 和 もあ って ,イス ラー ムの受容 の され万 は民衆 レベルでは まち まちで ,中にはイ ス ラームを折 否 した もの もい る し,あ るいは AllahをDewataSauwaeに置 きか えただけで実質上 は伝統 的 な倍仲 を保持 してい る とい う場 合 もあろ う。37)WajoのKampungW aniの人 々は イス ラー ムを拒否 した グル ー プであ る。彼 らは ,イス ラー ムを強制 す るWajo王 の下 に屠 られ な くな っ て,Amparitaに移住 して きた とい う。 Amparitaの Tolotangを Toaniとも呼 ぶ のは , Waniの人 (ToWani一一,Toani)とい う意味か らきて い る。
Waniか らの移住 につ いては次 の よ うな諸説 があ る。
u) 元
来
Tolotangは Sidenrengに住 んで いた のが ,イス ラー ムが入 るず っ と以 前に ,痩 病 が流行 した のでほ うば うに移住 して い き,その多 くはWajoに定 着 した。Wajoの国が イ スラ- ム とな ってか ら, それ を嫌 った人 々が 再 び Amparita-戻 って きたのだ という。38) この説 に よると,TolotangはAmparitaの原住民 で あ る とい うこ とと,Amparita- の移 住 が1610年 頃 であ る とい うことの2点 が特 徴で あ る。 前者 の点 は ,Tolotangが ど うして特にAmparitaを移住 の地 と して選 んだか とい う 問題 に対 して , 菅 か らWaniとAmparita とは血縁 関係があ ったか らだ とい う現在 の Tolotangの説 明 と整 合す る。
(2) 1609-1615/20の間 のあ る時期 にTolotangは Waniか ら移住 して来 ,まずAmparita の野 で ArungAmparitaと会見 して ,後 に述 べ る 「約束」 を この Arungとと りかわ し, 最終的 な Sidenreng王 の許可 は,当時 の経世済民 の賢者 NeMalomoの民 力に よって 可能 とな った という。39)NeMalomo(1530-1615/20,そ の墓 はAllakuwangまたは Wattang 35)Mattuladn1976:Chap.1. :i6)Ibid.:29. 37)例えば,Luwu'典のMaliliの近 くのCerekengでは,pua'と呼ばれる祭司集団が現在でもイスラーム 教徒と主張しなが ら,伝統的な祭紀活動をもって責のイスラームであるとしているとい う(AndiAnton, Belopaの話)。 38)IKIP1969:481.
39)LaSide,1975年12月12日,UjungPandang,イソクビュ-。情報源はLont.,ra'に基づ く彼自身の歴史の 研究。
前田 :コ ミ。_ニテ ィ宗教 にニト・レナるシ ンボ ル
Sidenreng)とい うのは トラジ ャ地 方 の Sangallaか ら来 た賢者 で , そ の業績 とされ る逸 話 は数 多 く,古 代 の民主 主義 の鏡 とた た え 吊 して い る。 そ の結果 後 世に な って彼 の した事 では
な い こ とも彼 の逸 話 とされ る傾 向 もあ る。 Amparitaの関 係者 は 上 記 の Tolotang来 任 と NeMalomoとの関係 を否 定 して い る。 ただ注 目す べ きこ とは ,Tolotangが Addatuang Sidenrengでは な く,ArungAmparitaと誓約 を ま じえ た とい う点 であ り, Amparitaに おけ る Arungと Tolotangとの関 係 を知 る上 で 重要 では あ る。
(3) 1666年 に Pott<lMatowaeとい う Wajo王 が ,そ の民 衆す べ てに 対 Lイス ラー ム教徒 とな る こ とを強制 す る布告 を出 した。 この時 に,iPabbareに代表 され るToani(Waniの 人) は Wajoを離れ る決意 をL Amparitaに来 た。 当時 Massepeに いた Addatuang LaPatiroiに請願 して
居l
i:
.許 可を 得 た とい う。40) AddatuangLaPatiroiは1605年 か ら1611年 に王座 にあ った とされ てい るの で ,上 記年 代 とは合致 しな い。 また Wajo王 のPetta Motowaeとい うの も単な る称号 にす ぎず ,実 名 が記 され て いな いので同定 は 困難 で あ る。41) Waniか らの移住 の際 の指導者 は IPabbareのほか に IGoligaとい う人 が お り, この人 は Bacukikiに移 り住 み そ こで死 んだ とい う。42)
(4) 他 の説 に よれ ば,Wajoで イス ラー ム法 をす べ ての分野 に適用す る と決定 したのはArung MatowaWajoのIJaCellaで , この際 に イス ラー ムを奉 じな い グル ー プが 反発 し,1648年 に大 規模 な逃 散 を行 な った。Sidenrengで この逃散者 と誓約書 をかわ した のはNeMalomo で1649年 の こ とであ る とい う。43)
(5) イ ス ラー ムの正式 に認 め られ る二 ,三 年 前か ら,少 しず つ Wajoか らSidenreng- の 移住者 が続 いた。 そ の頃 の Wajoの王 はToddamanとい う。Amparitaの背約 は 多分1639 年 にな され た とい う。44)
Tolotang-Toaniが いつ どの よ うに して Amparitaに来 たか とい うこ とは 重 大 な 関心 事 で もあ る。 それ は一 つ には TolotangAsli と TolotangBentengとの Asli論 争に も 関 係す
るか らで あ る。 それ は ともか く,反 イス ラー ムの グル ー プの大 移動 が あ ったのは ,イス ラー ∴ が王 に受 け入 れ られ た時 点 では な く,実際 に王 か ら民 衆 - のイス ラー ム信奉 へ の強 制 が あ った 時 期 (17世紀前 半) と考 え られ る。 そ の反 イ ス ラー ムの グル ー プは 単にWaniだ け では なか -, た ろ うとい うこ とも推測 され るが,ともか くAmparitaに来 往 した人 /<は,Waniか ら徒歩 で . あ るいは馬 で ,あ るいは舟 で永住 の地 を求 め てや って きた者 の子孫 であ る と信 じて い る。 そ の 40)Asaf1972.この報告は,宗教周から派遣された著 者が1972年1月 3- 4日にAmpとIrit・,1で行なったイン タビュー (氏名不詳) に基づ く。必ず しもTolotangに好意的な報質ではな く,この全文をT。lotang 関係者に見せないようにとの注意を受けた。 41〕Abdurrazak1964. 42)Taijeb&Makkattlngang1966・ 43)H.AndySapada1964,p.I/13.
束南 ア j 7研究 14巻 3PJ一
時
のWani
の人 目, 指導者 あ るいは追随者 の属 した社会階層 ・社会関係 な ども 不 明であ る。移住 の年 代 も
,1
6
1
0
,1
6
4
9
,1
6
6
6
あ るいは村 の人が記憶 して い る1
6
1
3
,1
6
3
9
年 とまち まちで はあ る し, あ るいは 漸次的 な 移動 が行 なわれ たのか も しれないが , とにか く移住民であ ったTol
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ang-
Toani
とAmpari
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お よびSi
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の寺 との問 に 「約束 lがあ った とい うこ とは歴 史的事実 の よ うで あ る。
この 「誓約 」は
,(
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)Tol
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はSi
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の王 (あ るいはAr
ungAmpar
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a)
に忠試 をつ く しその命 に従 うこ と, (b)結婚 と葬 式 とはイス ラー ムの定 め る形式 で と り行 な うこ との 二つ の条件 をTol
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ang
が遵守 す る限 りに お いて,
Tol
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ang
自身 の信仰 を護持 してSi
de
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に住む こ とを許す とい う内容 であ る。(
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)
,(
b
)
を受 け 入れ る と約束 したTol
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は ,それ まで のr
rOani
に代わ って ,Tol
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ang
とい う名前 を支配者 か らつけ られ た とい う。なお , ここで も うーっ注 目 してお きた いのは ,イスラー ム以前 には
Lont
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は 口承文学 で あ った のが ,イ ス ラー ム化 と相前後 して聖 クラー ソに対抗 して文 字化 され て,Lont
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,Lont
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な どの聖典 が書 かれ た とい う説 であ る。45)5.i
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.イス ラ- ム とTol
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の共存す でに しば しば
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i(あ るいはTol
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Toani
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とTol
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(め るいはI
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とにつ いで 言及 して きたが ,実 は この二 つ の系統 が は っき りと分離 ・対 立 したのは第2次 大戦後 の こ とであ って ,それ までに両者 が別 々に存在 したか ど うか とい ')こ とまで現在 は論争 され て い る。Tol
ot
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ngAs
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iは ,Tol
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angBe
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を戦後 の異 船 橋と して見 ,イ ス ラ-ム と
Tol
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ang
の混交 した もので ,真 のTol
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ng
の教 義 を2
/5
しか知 らないのだ とい う。 逆 に ,Tol
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ang Be
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は ,Ampar
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の先住者 は 彼 らであ って ,Tol
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ng-
Toani
の グル ー プは後 か ら来た のだ と主張 す る。実際 に戦前 にお いて も,貴族 の結 婚式 な どの時 に両者 の問 で役割 分担 が あ って ,Tol
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angBe
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は客 の接待 だけを した のに 対 し,Tol
ot
angAs
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iはそ の外 の見張 り,監視 な どを した とい う違 いがあ った という 。断片的 なデ-タか らの憶測 が許 され るな らば
,(
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)Tol
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angAs
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iとTol
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とは
Ampar
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に入植後 , 何 らか の事情 で別個 の指導者 をあお ぐよ うにな った 分派 であ る と考え るか, (b)
Tol
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ang As
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i とい うのはSi
de
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にお いて もか な りイス ラーム化 が進 んだ 時 に移 住 した グル ー プで,Tol
ot
ang Be
nt
e
ng
とい うのはAmpar
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在住者 の中でイス ラー ムを受容せず に伝統的信仰 に固執 しては いたが イス ラーム式 の結婚 ・葬式 を して いた グル ー ブ と考 え られ る。 いずれに して も, 指導者 の 系譜 が異 な り, 祭事 の細かい 点 では 相違 が あ って も,婚 姻 ・葬礼 に際 して ,イス ラ-ム式 の儀 礼 を行 な った後 , イス ラー ム以前 の慣行 に従 って 諸儀礼 を再 度取 り行 な うとい う二二重儀 礼 にお いて両者 同 じであ った といえ る。 一方 ,ムス リム と言われ た人 々の場 合 も,イ スラー ム以前 の諸慣習 を多 くそ の まま残 してい 45)Ar
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1973. 422前 田 :コ ミコ_ニティ宗教 におけ るシ ンボル
て, 11ス ラー ム とTolotangとの間 に大 きな宗教 的 ・社会 的 隔絶 が そ ん なに なか ったのでは な いか と思 われ る。 ともか く,第2次 世界 大戦 までほ この よ うに ム ス リム とTolotang (Asliに
しろ Bentengに しろ) とは平 和 に共存 した よ うであ る。 5.iv.Tolotangの分裂48)
日本軍 占領時代 の1944年 に , 礼拝 (Sembahyang)を しな い者 をイス ラー ム式 で結 婚 させ た り,葬 式 を取 り行 な うこ とは禁止 す る とい う日本軍政 の通達 が カデ ィを通 じてな され た。47)そ の通達 に基 づ いて,Tolotangは イス ラー ム式 の儀 礼 をやめ て ,伝 統的 な固有 の儀 礼 だ け を取 り行 な うこ とにな った。 す なわ ち,guruと呼 ばれ るimamに よるnikah(婚 姻締結) の儀 礼 をせず に,uwaと呼 ばれ る Tolotangの指導者 に よって結 婚 が取 り行 なわ九 , また死者 へ の お祈 りな しに tlWaの引導 で埋 葬されることになった。 ところが 1944年 の年 末 から翌年初にか
け て ,当時 の AddatuangSidenrengの LaCibuが Tolotangの指導者 で あ るLaSamang と LaPonrengの2人 を州都 に呼 んで , 先 祖 の背約 す なわ ちイ ス ラー ム式 の結 婚 ・葬式 を行 な うこ とを守 る こ とを要 求 し,両者 ともそ の場 では誓約 を確 認 した とい う。48)ところが ,J1本 草 の通 達 と王 の 要 請 との 両方 に従 うと, 結 局 ムス リムに な らざ るを 得 な いデ ィレンマに陥 -つ て ,2人 の指導者 の一方LaSamangに従 う人 々はイ ス ラー ム式 の結 婚 ・葬儀 を行 なわ な い と い う道 を選 んだ。 他方 の LaPonrengの グル ー プは ,恐 ら く礼拝 の件 は あ い まいに した ま ま, 昔通 りの二 重儀 礼 を 選 択 した。 前者 の系 統 が 多数派 で Tolotang Asliあ るいは Tolot ang-Toaniと称 し,後者 の系統 が TolotangBentengあ るいは Ma'Tolotangと言われ る。
そ の後 , 日本軍 の敗 戦 ,独 立 戦 争 , ゲ リラ活 動 ,QahharMuzakarの反 乱 と続いて ,南 ス ラウ ェ シの治安 は混 乱の状 態 に お ち い り,Tolotang問題 は人 々の注意 をひ くところ とな らな か った。1965年 2月 3日のQahharの死 に よって治安 の回復 が始 ま り,それ と共 に上 記 の問題 が Sidenreng-Rappang県 ひ い ては南 ス ラ ウ ェシ省 お よび共和 国宗 教省 に よって取 りあげ られ る こ とに な る。 5.V.ム- て デ ィヤの イス ラー ム化 1966年 に至 って Sidenreng-Rappang県政 府 は イ ス ラー ム式 の結 婚 ・葬式 に関す る誓約 を も ち
旧
して きたが ,Tolotang Asli側 は この暫約 は Sidenrengの芋 と か わ され た もので あ っ て ,王制 が廃 され た現在 では無 効 であ り,信仰 の 自由 こ基 づ いて彼 ら自身 の倍仰 を堅持 す る こ とを表 明 し, ここに省政 府 あ るいは軍 とTolotangとの対 立 が表面化 した。 同時 に ,共産 主義 46)主としてAsaf1972による047)Sidenrengのカデ ィはKadiSyechJam,dlPadael。,ImこIm Amparit;1ほ L;1Palingal。 この通達の持後 にはムスリムとTolotangの対立があ り,イマムが Tolotang-の儀礼をHl祭することを拒香した こと か ら発展していったとい う(TelluLimpoe郡長の話)0 48)日本軍の通達がー榊 こイスラ-ム通によってなされたのか,地元のウラマなどの崩動によるものかつまび らかにしないO後 者の場合,前注のように単なるウラマの ヒスチ リ-か,あるいはムス1)ム側にTolot;lng 改宗の意図があったのか, これ も明らかでない (, 423
来由,I /'研究 14巻 3号 著 のス ク リー ニングで
Tol
ot
ang
の中か らも共産主義者 と して報告 され た者 もた くさん出
て , その面か らも攻 撃 を受 けた。1
966
年2
月 一日]付 けで 県長 の菖示 が出され .(
a
)AgamaTol
ot
ang
をAgama
(宗教)として認 めな い,(
b
)
結婚 ・離婚 は法律 で定 めた手続 に従 うこと, とい う2
点 が通達 された。後者 に関 しては民事婚 に よる登記 を行 な えば問題がな いわけ であ るが,前者(a)に 関 してはTol
ot
ang
の代表 が ジ ャカル タの宗教 省に陳情 した こ とに よって問題 は複雑化 した。 宗教 省次 官 の回答 は,Tol
ot
ang
信仰 はイ ン ドネ シアで認 め られた宗教 ではない と したのに対 し,そ の3
カ月後 に 出 され た ヒソ ドゥ一 ・′ミリお よび仏教社会指導局長 の手紙 では,
Tol
ot
ang
を ヒン ドゥー ・バ リの一派 として認 めた ので あ る。 後者 の見解 に対 して,南 ス ラウェシの省議会
,Si
de
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Rappang
県議会 ,軍 な どが ,Agama
でないTol
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の禁止 ・解散 を主張 し たが,Tol
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の根強 い抵抗 に あ って ,いわゆ るOper
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Tol
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を も とに も どす運動) も結局 は失 敗 に終わ る。 もっ とも強 硬 に運動 を推進 した のは軍指令官 であり,そ の先兵 とな ったのは
Muhammadi
yah
の 青年達 で あ る。1
96
7
年 頃 には .割ミ長 がTol
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ang
全 部を集 めてモス クで礼拝 を強 制 しよ うと した り,死者 を葬 る直前 に遺体 を無理 矢理 モス クに 運ばせ て最後 の折 りをイ マ ムが あげた り,Tol
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ang
の指導者 を郡庁舎 に呼 んで改宗 をせ まっ た りし,これに対 し各地 のTol
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が刀な どで武装 してAmpar
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に集 ま り険悪 な空 気 に 包 まれ た こともあ った とい う。 この時 期 はTol
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に とって 試練 の 時 で , か な りの者 が 脱落 して いった とも 言われ ,Tol
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angAs
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自身 も礼拝 を しない まで も イス ラー ム式 に よる 結婚 ・葬式 を 強制 された とい う。 そ して伝統的 なTol
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の宗教的行事 は ムス リムの 目を隠れ るよ うに して行 なわれ た と い う。 5.vi
.
イス ラ- ム化 と反 イス ラー ム化 現在 の郡長 が1
96
8
年 に赴 任 して きた時 には ,未 だTol
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とムス 1)ム との敵視 が拭 い さ F) れ ず ,先 に どち らか の者 が会議 な どの部屋 の中に いる と,他 の グル ー プの者 は入 らずに帰 って い って しま うとい う雰 囲気 であ った。 そ の後 ,強制的 改宗 は不可能 とい うことがわか って ,政 府側 も早 急 な手段 に よることをやめ ,Muhammadi
yah
のほ うの熱 もさめて ,再 び平和共存 が 続 くよ うに な る。Tol
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ang As
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としてほ , 上 記の よ うな試練 のおか げで一種 の浄化作用 が あ って , 倍仰 の 強 い者 だけが残 った とす る 見方 もあ るo Tol
ot
ang
がAgama
であ るか ど うか とい う最 終的 な決着 はな され てお らず,Tol
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の人 の身分証 明書 の宗教 の欄 は 空 自 とな って いる。 しか し,一般 には ヒン ドゥー教 の分派(
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と して 認め られ,るようにな って きてい る し, またTol
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もそ の よ うに認め られ るこ とを主張 して い る。49) この宗教 として公認 され るか ど う 49)1976年 2月にTo
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の中尉の軍葬が行われた時には,県長,軍指令官出席の前で,彼の宗教は 「ヒ ソ ドゥ-教」とその弔辞で読みあげられた。 424前田:=1ミ_Lここテ!宗 教 に おけ るシ ンボル
か の問題 もあ って ,表
面
上従 順 に役人 の指導 に従 っては い るが , ムス リムに対 してほ依 然 と し て猫疑 の念 を もって い る。Tol
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angBe
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は ,Tol
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angAs
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iと違 って ,彼 ら自身 む しろ イス ラー ム教徒 と して認 め られ よ うと して い る。奨際 一一部の者 は メ ッカ巡 礼 に まで行 ってお り,モス クで の礼拝 を ムス リム同様 に行 な った りして い る。 しか し,その指導者 を始 め と して中心的 な人物 は もちろん,多くの者 が 礼拝 を しな い。 そ して聖典 は聖 クラー ンでは な く
Sur
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であ る こ とも確 か で あ る。Ampar
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内では メ ッカに い った者 もいず , イス ラー ム とは い って も比 較的Tol
ot
ang
と しての意識 を強 くもって い る よ うであ るが ,他方 ,他地 方 に少 数 で住 む者 達 はむ しろイ ス ラ ー ム教 徒 とな って い くのか もわか らな い。 この三 者 の混 交 は周辺域 では あ り得 るが ,依 然 と して画然 た る境 が あ る。 それ は一 つ に は宗 教儀 礼 と くに集会 がそれ ぞれ 独 白にあ る こ とに よ り, また- つ には 結 婚規 則 に よる。 もち ろ ん ,相互
間
に通 婚 か な い とい うのでは な い。 まず周 囲 か らの反 対 が あ り,それ で も結 婚 した場 令 , どち らか一万が その宗 教 を犠牲 にす る ことが要 求 され るo Lか しも との親 族 関 係が そ の為 に断 ち 切 られ る とい うこ とは ない。 ところがTol
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の一 派 とTol
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との 通 婚 ほ決 してな い とも言 われ る。 これ は昔 Tol
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の男(
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がTol
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の女 を第
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豪 と して要 ったが ,一一度 き り訪 問 しただけ で ,そ の結 果子 供が生 まれ て も第2妻 の 所 には もど らなか った。 これ を怨 んだ第2
妻 は , 子 々孫 々絶対 にTol
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angAs
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とは結 婚 するな とい う呪 いを残 して死 んで い った伝 説 に基 づ いて い るのだ とい う。50)
Tol
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な どの伝 統 的 ブギ ス俗念体 系 に基づ いて ,積極 的 に イ ス ラー ム儀礼 か ら遠 ざか ろ うと し,か つ イス ラー ム と対抗 しよ うとす る。Tol
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は ,信 念体系 はTol
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と共 有す るが , 二 重儀 礼 を行 ない , 名目
上あ るいは保 身上 ム ス リム と同一-化 しよ うとす る。 ムス リムは ,伝統的 な信念体系 に基 づ く儀 礼 を イ ス ラー ムで牽 強 付 会す るか ,あ るいはそ の よ うな儀礼 を頭 か ら否 定 しよ うと努力 す るが ,生活 の 多 くの場面
にそ の よ うな儀礼 を残 して い るO1967年 前 後 ムス リムがTol
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に礼拝
させ よ うと した事 実 を と らえて ,む しろ礼拝 を強 制 され る必要 のあ るのほ礼拝 を して いな いムス リムであ る と批判 したTol
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の 青年 の言 はけ だ し的 を射 て い る といえ る。 ム ス リムが 自分 自身 の信仰 に対 す る不安 感 を しず め るため にTol
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を迫 害 した り,単に ム ス リム と して の体面
を保 つ ため にTol
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のイ ス ラー ム化 を しなけれ ば な らな い とい う社 会的 風潮 を生 み だ した のか も しれ な い 06.Tol
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と しての象徴的 表現 ムス リム とTol
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とを判別 す るのは H常 生活 の とでは極 め て難 しい。 衣食住 ・言語 ともr)0)Tolotang Benteng側の伝説。TolotilngAsliからほ Tolotang Benteng との結婚は "bi呈ISこ1"(通例の)