東南 アジア研究 7巻3号 1969年12月
ビル マ に お け る カ レ ン民 族 の 独 立 闘 争 史 (
その
1)大
野
徹 *History ofthe Karen StrugglesforIndepeTLdence in lhrma (Part 1)
by
ToruOflN()
は じ め に
ビル マ共 産党 の勢 力後 退1) に伴 って表面 に浮 か び上が ってき た反 政 府組織 の一 つに,KNDO
と KNUが あ る。 前者 は KarenNationalDefenceOrganizati(,n,後者 は Karen National Uniollの略称 で あ る。 共 に カ レン族 の武装反 政府組織 とい う点 では同 じで あ るが, その綱 領 , 過去 の動 き,活動領域 等 の面 で趣 を異 に して い る。 この二 つの組織 が, ウ- ・ヌ内閣 当時 か ら,否 元 をただせ ば1948年 の ビル マ独 立 当初 か ら今 日にい た るまで20余年 間 にわ た って ビル マ政 府 に敵 対 し続 け, 今 もなお武装 闘争 を固持 してい る理 由はい ったい何 か ? 本稿 では, もっぱ らカ レン族 の独立 闘争 に焦 点 を絞 り, その背 景, 過去 の い き さつ,組織 の現状 等 を分析 し,一 口に カ レン族反 徒 とよばれ てい るKNDOとKNU の実態 を明 らかにす る ことに したい。 資料不 足, こ とに カ レン側 の資料 が コー トゥ- レ-政府 の公文 書 に基 づ い て書 かれ た ロンズ デ ィル のパ ンフ レ ッ トを除 い て皆 無 に等 しい状態 では, どこまで正確 な記述 が で き るか は なは だ疑問 で あ るが, この小稿 が カ レン族 の独 立 闘争 に関 す る一 つの参考 資料 とな り得 れ ば幸 いで あ る。 Ⅰ 歴 史 的 背 景 ビル マの カ t/ソ族 は, サル ウ ィソ川流域 の コー トゥ- i,一州 (旧称 カ レン州) お よびその北 *大阪外 国語大学 ビル マ語学 科 1) 大野徹 「ビルマ共産党 の現状
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「東 南 ア ジ ア 研 究』 6巻 3号,pp・156-168・ 363東 南 アジ ア研 究 7巻 3号 の カヤ -州か らタイ ・ビル マの国境 にい た る山地 とイ ラ ワジ川下流 のデル タ地 帯 に多 く住 ん で い る。 カ レン族 の総 人 口は, 1901年 の統計 では727,235人2), 1911年 には 1,067,363人
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, 1931年 には 1,367,673人4) とな ってい る. 1967年 現在 コー トゥ- レ-州の州 内人 口が 72万 9千人5), カ ヤ -州 の人 口は10万4千 人6) と発 表 され てい るが , デル タ地 帯 に住 む カ レン族 の人 口は 明 らか で ない。 現在 ビル マに住 ん でい るカ レン族 の数 は約 2百万7) とい うのが通説 で あ る。 カ レン族 は西紀6- 7世紀 頃S), ビル マ国内の他 の民族 と同様 に北方 (お そ ら く中国雲南 省) か らサ ル ウ ィソ川沿 いに移動 して きた9)と推測 されて い る。 だが その頃,耕作 可能 なイ ラ ワジ 川流域 の平原地 帯 には,仏教文 化 を もち彼 らの人 口を数倍 す る先 住民族 のモ ソが住 み つ い てい た。 そ して北方 か らは,数 こそ まだ少 ない とは い え, モ ソ族 よ りは るか に強 力 な民族 移 動 の波 が押 し寄 せ つつ あ った。 ビル マ族 で あ る。 こ うして, カ レン人 が民族 と して平地 に進 出す る機 会 は,既 に失 われて い たので あ る。 土壌不 良 な山岳地 帯 に しが み つ き,細 々 と焼畑耕作 を営 む 以外 に, カ レン人 には生 き る道 は なか った。 カ レン人 は,100年 ほ ど前 まで ビル マ人 か ら 「野獣 」とい う卑 しめ られ た名前 で よばれ10),武 力 的 にす ぐれ た ビル マ人 に怯 え なが ら暮 さなけれ ば な らなか った。 ビル マ王朝時代 , カ レン人 た ちが 「町 」 に住 も うとすれ ば,城壁 の築 造 ,濠 の掘 さ く等一種 の強制 労働 に動 員 され た。 彼 らは 犬 をけ しかけ られ る 「歓迎 され ざ る」異人 で あ り11),カ レン人 には常 に重 税 が課 せ られ てい た。
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カ レン人 の間 には,次 の よ うな言 い伝 えが あ る。 「外 の民族 は茨 で, われ われは木 の葉 だ。 木 の葉 が茨 の上 に落 ちて も,茨 が木 の葉 の上 に落 ちて も,傷 つ き破 れ るのは いつ も木 の葉 だ。」 「外 の民族 は岩 で, わ れわれは卵 だ。 卵 が岩 の上 に落 ちて も,岩 が卵 の上 に落 ちて も,卵 は割 れ て しま う。」13)ヵ レン人 たちは,食 事 をす る時 で さえ 「さっさ と食 え。 ビル マ人が来 るぞ.
/」
と言 って子 供達 をせ か さね ば な らぬ ほ ど14), 戦 々恐 々 としてい た。 カ レン人 の ビル マ人 に対 す る恐 怖 心 や不 信感 は, この頃 か ら培 われ た根 の深 い もので あ った。 カ レン人 の伝説 に よれ ば, カ レン とビル マ との対 立 関係 は次 の よ うに説 明 され る。 「世 界 が - ワに よって初 めて創 り出 され た時,三 つの土塊 が地 上 に投 げ られ た。 その三 つの土塊 か ら最 2) J・G・Scott (1911),p・119・3) Linguistic Survey ofBurma,p・63・ 4) H・N・C・Stevenson (1945),p.19・
5) 『ビルマ連邦少数民族の文化 と慣習 ・カレン篇』(1967),p・9・(ビルマ文) 6) 『ビルマ連邦少数民族の文化 と慣習 ・カヤ-篇』 (1967),pp・14-15・(ビルマ文)
7) W ・S・Desai(1961),p・283・ このほかタイ国にも約7万人のカレン族が住んでいると言われるo Gordon Young (1962),p・85;飯島茂 (1965),p・3・
8) HarryI・Marshall(1945)p・2・西紀5世紀説 もある。 A・Meillet& M・Cohen,Les Langues du monde,Nouvelleedition,TomeI,Paris,1952,p・561・
9) カレン族には,先祖が tt熱砂の河日を渡 って来たとい う伝説があるoJ・G・Scott,op・L;ii・p・117・ 10) Marshall,oP・cii・p・l・
ll) Marshall,ibid・p・31・
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・Crawfurd (1829),pp・42ト423・13) Donald MackenzieSmeaton (1887),pp・25-26・ 14) Marshall,oP・cit・p・1・
大野 :ビルマにおけるカレン民族の独立闘争史 (その1) 初 に ビル マ人 , 二 番 目に カ レ ン人 , そ して最 後 に外 国 人 が 誕 生 した。 カ レン人 た ち は非 常 に お し ゃべ りで騒 々 しか った の で , 創 世 主 は カ レ ン人 の数 が 多過 ぎ る とお思 い に な り, カ レン人 の 塊 の半 分 を ビル マ人 の ほ う- お投 げ に な っ た。 そ の結 果 ビル -人 が優 勢 とな り, カ レン人 は や が て ビル マ人 に征 服 され て し ま った。 そ れ以 来 , カ レン人 は常 に ビル マ人 の支 配 下 に あ る
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こ うした カ レン人 の生 活 に,18世 紀 か ら19世 紀 に か け {16),一 つ の大 き な変 化 が 起 こ った。 彼 らは先 祖 代 々抱 い て い た ビル マ人 へ の恐 怖 感 を棄 て て , 徐 々に平 地 - と降 りは じめ た17)の で あ る。 この よ うな カ レン人 の平 地 進 出化 を促 した最 大 の原 因 は, 3度 に わ た って行 な わ れ た 「ビ ル マ と英 国 との戦 争 」 で あ り, そ の結 果 と して の 「ビル マ の英 領 化 」 に あ っ た。 事 実 , カ レ ン 人 た ち は , ビル マが 英 国 の植 民 地 に な る前 か ら, 英 軍 側 に立 って ビル マ人 と戦 って い る。18) カ レン人 が 平 地 に進 出 す る場 合 , 彼 らに とって最 も手 近 な土 地 は , 南 部 ビル マ の テ ナ セ リム 地 方 と, そ して1869年 の ス エ ズ運 河 の 開 通 と共 に急 激 にふ え た米 の輸 出 に伴 って政 府 が 開墾 に 力 を入 れ だ した19)イ ラ ワジ 川 下流 の デ ル タ地 帯 で あ る。20) タ トン, モ -ル メイ ン等 テナ セ リム 北 部 に降 りた カ レン人 は , 先 住 民 族 で あ るモ ン人 との混 血 に よ って ポ ウ ・カ レン (タ ラ イ ソ ・ カ レン) 族 を, デ ル タ地 方 に進 出 した カ レン人 は , ビル マ人 との混 血 に よ って ス ゴ ー ・カ レン (ビル - ・カ レン) 族 を, そ れ ぞ れ 形 成 して い っ た。21) 現 在 , /ミテ ィ ン, ミャ ウ ソ ミャ, マ ウ - ビ ン, - ソタ - ワデ ィー, ヒ ン ダ ー タ, ピ ャ -ボ ン等 の諸 県 は, カ レン族 の居 住 地 と して誰 一 人 知 らな い者 もな い は ど有 名 で あ る。 だ が, 1948年 以 降 の カ レ ン族 反 乱 の一 つ の き っか け が , カ レ ン人 の この よ うな平 地 (こ とに デ ル タ地 帯 ) - の進 出 と発 展 とに あ った こ と も, また否 定 で き な い。Ⅱ
英 領 ビル マ 時 代 の カ レ ン ビル マ王 朝 の崩 壬裏か ら英 植 民 地 体 制 確 立 まで の過 渡 期 に現 わ れ た一 種 の 無 秩 序 状 態 を背 景 に, 15) ShWay Yoe (1927),p・443・この- ワ伝説は,旧訳聖書のイ ェホ/ミに相当す るものであ ることが, デサイ等 によ って指摘 されてい る。 Dcsai,op・clt・P・283,'Marshall,op.cii.p・114・ なお,カ レ ン族 の民族説話 については,ウ-フラ編 『カレン族 の民話』(ビルマ文)第 1- 6巻,マ ンダ レ-市 ル ー ドゥ出版社等が有益。邦文では,太 田常蔵 「ビルマにおけ るKaren人の説 話」民族学研究23-4. 1b) この頃 ビルマを訪れた ヨーロッパ人は,たいていカレン人の ことにふれてお り,カ レン人たちは当時既 に平地-の進出を行 な っていた ことがわか る。MichaelSymes(1800,1802,1803) Hiram Co光 (1821,1825);John Crawfurd (1829);Henry Yule(1829);John Jardine(1893)等 の文献 をご参 照願 いたい。
17) Stevenson,op・cii・p・19;Desai,op・cii・p・281・ 18) MichaelLonsdalc,p・4・
19) J・S・Furnivall(1957),chapts・4-5・
20) カ レン人がダ ラか らバティ ン西部 にかけて多 く住んでいた ことは,サイムズによ って確認 され る。 Symes (1803),p・89・ 21) J・F・Cady (1958),p・42;Stevenson,op.cit.p・19.なお,ス ゴー ・カ レン族 は, ヒソダータ, ピャ-ボ ン,ペグ-, ブローム,クーヤーワデ ィー,タウングー,パープソ,タポイ, メルギー諸県 に多 く,ポ ウ・カレン族はバティ ン, ミャウン ミャ,マ ウ-ビン,- ンクー ワデ ィー,モールメイ ン, パーアン,コ-カレイ各県に多 い。 シソチ ェ- 1」カレン族の生活 と慣習』 1967,pp・32-35・(ビルマ文) 方言学的 には,サル ウ ィン川の北部がス ゴ-,南部がポ ウとされてい る。 Haudri-court:Restitution du Karen Commun.BSL 1942-45.
東 南アジア研究 7巻3号
1886年 下 ビル マで起 き た暴 動 が意外 に早 く鋲 圧 され た理 由は,宣 教 師達 の指 導 の下 に タ ウ ング ー地 方 を中心 に立 ち上 が った カ レン族 ク 1)スチ ャン達 の力 に あ った22)といわれ る. それ は カ レ ン民族 運 動 の胎動 で もあ った。
カ レン人達 は, 1881年 すで に Karen NationalAssociation を結 成 して い る。KNA 設 立 の 趣 旨は,(1)ク リスチ ャ ン系 カ レン と非 ク リスチ ャン ・カ レン との橋 渡 しで あ り, 同時 に,(2)異 な った幾 つか の方 言23)を話 す カ レン系諸種 族 間 の友 好 を深 め て,(3)統 治者 で あ る英 国人 - の理 解 と協 力 を円滑 な ら しめ,(4)教 育 と自助 の精 神 に よ るカ レン民族 の社 会 的 ,経済 的発展 を図 り, (5)将 来 におけ る ビル マ人勢 力 の復 活 の際 ,全 カ レン民族 をそ の支配 か ら守 る ことで あ った。24) いわ ば KNA は,発 足 当初 か らは っき りと親 英 的立 場 を とった政 治結社 で あ った。 カ レン人 た ちは, ビル マ人支配 か らの解放 と民族 の 自由 とを求 め た。 この ことほ と りも直 さ ず彼 らを 「新 しい支配 者 」 で あ る英 国人 に対 す る信頼 と忠 誠 とに結 びつけ た。 事 実 ,英 国の統 治 時 代 , カ レン族 に よ る反 英 ,排英 的運動 は, ビル マでは一 度 も見 られ なか った。25) 多 くの カ レン人 , ことに平地 に住 む カ レン達 は,第 一次 英緬 戦 争以降 伝統 的 なア ニ ミズ ム を棄 ててキ リ ス ト教 とい う 「新 しい宗教 」 を受 け入 れ た。26) キ リス ト教 の教義 には,歴 史 的 に圧迫 され疎 外 され て殉 難者 ,被 害 者 的意識 を もち, ビル マ人 に対 して絶 えず劣 等 感 を抱 き続 け て き た カ レン 人 を鼓 舞 す るよ うな要 素が含 まれ てい た。 カ レン人 の キ リス ト教 化 は, ビル マの他 の いか な る 種族 よ りも急速 で あ った。27) 親 カ レン的 意見 の最 も代 表 的 な持 主 で あ るス ミー トンは, カ レン族 につ いてお お むね次 の よ うな強烈 な説 を展 開 してい る。 「われ われ は, なぜ カ レン人 に民族 興 隆 の機会 を与 えて や ろ うと しないのか。 なぜ われ われ は彼 らを認 め力 づけ てや ろ うと しない のか。 そ うす る ことが,彼 らに大 きな利益 を もた ら して や る ことにな り,英 国 の支配 力 をい っそ う強 め, 将 来, い ったん緩 急 あ らば英 国 の支配 権 を防 衛 で き るの に。 この際 , カ レン人 が起 源 的 に も, 風俗 習慣 の上 か ら も,宗 教 的 に も, ビル マ人 とは全 く異 な る別 個 の民族 で あ る ことを認 識 せ よ。 彼 らに,民族 統一 と発 展 - の願望 は尊重 され る もの だ と い うことを自覚 させ よ。 政 府 と して何 をな すべ きか,執 るべ き施策 には どの よ うな ものが あ る か, カ レン人 の "民族 目性 を証 明す る もの と して,私 は言 語 ,伝 統 的慣 習 ,宗教 ,以上 三 つの 22) Cady,op・cii.p・138・ 23) カレン語には,スゴー,ポウの2大方言のほかに,い くつ もの方言がある。Marshall,op.cit.pp・ 14117;RobertB・Jones(1961),p・101;西 田龍雄 (東 洋学報 Vol・46,No・4),pp・112;西 田龍雄 (言語研究 No・50),pp・15-18;『少数民族の文化 と慣習 ・カレン篇』(ビルマ文),oP.cii.pp・22-26・ 24) Smeaton,op・cii・pp・210-219;Cady,op・cii・p・138・KNA の設立者はテ ィー ・タンビャ∼博士,
ミャッサ ン師, ソーテ-節, ウ一 ・ルーニー, ウ一 ・シュ-マウンオン等であるo後,シイ ドニー ・ ルーニー, ソー ・サ ン ・シー ・ポウ等が加わった。マウンシソチエ-,ppl37-39.
25) Lonsdale,op・cil・p・2・
26) E・C・Ⅴ・Foucar(1956),p・227;U Kaung (1960),p・119;Frank N・Trager(1966),p・103・ 27) Desai,op.cii・p・285・今 日,ビルマには約30万の クリスチ ャン系カレンがいるといわれる0 366
大野 :ビル マにおけ るカ レソ民 族 の独 立闘争史 (その1) 要 素 を指 摘 したい。 カ レン語 は公 式文 書 に も用 い られて いな い し,学 校 で さえ教 え られ ていな い. あ らゆ る社 会 で, カ レン語 は タ ブ- とされ てい る。 カ レン語 が話 せ る役 人 はほ とん どいな い。 政府 と民衆 との間 の意志疎通 の手段 と して, カ レン語 を公 用化 せ よ。 カ レン人 の多い地 方 には, カ レン人 の役人 を配置 せ よ。 カ レン人 は,全 ビル マ人 口の5分 の1か ら6分 の 1を占め て い るに もかかわ らず,下 ビル マの郡知事120人 中, カ レン人 はわず か6人 しかいな い。--・・政 府 は, あ らゆ る手段 を講 じて, 山地 カ レンの平地 化 と定住 とを奨 励 せ よ。 -・- こ うす る ことに よ って, われわれ は行政 上大 きな成果 を挙 げ得 るのみ な らず,侵略 に対 す るtt生 き た防壁 日を 築 くことに もな るのだ
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ス ミー トンの親 カ レン的意見 は, その中 に英 国の権益 保護 と植民地 行政 の効 率的維 持 とい う 支配 者的意識 が濃 厚 に含 まれ た もので あ る。 そ して, この よ うな英 国人 の意見 と態 度 とが, 現 実 には カ レン人 の ビル マ人 に対 す る不 信感 と対抗意識 とを強 め,親英 的傾 向にい っそ う拍車 を かけ る こととな った。少 な くと も, 1948年以降続 いて い るカ レン人 の内乱 を支 え る心理 的後楯 とな った ことは否定 で きない。 当時 の カ レン人 たちの考 えは, ど うで あ ったか。 1916年 ビル マ立法評議 会 員 に任 命 され たア メ 1)カ帰 りの カ レン人医 師 ソー ・サ ン ・ク ロム ビー ・ポ ウは,次 の よ うに述 べ てい るo 「ビル マは, まだ 自治能 力 を もってい ない。 ビル マ人 は, 自 らの 自治能 力の欠如 と英 国の援 助, 保護 の必要性 とを認 識 すべ きだ。 英 国の統 治 は今 なお必要 で あ る とい うのが, われ われ カ レン人 の意見 で あ る。 もちろん, 何 らかの形 で 自治 を行 な うことは,不可能 では あ るまい。 だ が, そ うい った実験 が は た して成 功 す るだ ろ うか とい う懸念 を, われわれ カ レン人 は絶 えず抱 い てい る。 -ビル マは, 自治 ととい う重 責 を担 い得 るか。 もしそ うで なけれ ば, "生涯 の友 日で あ る この "後 援者 "か らの援助 と協 力 とを仰 ぐべ きだ し, また,子 供 が一 人立 ちで き るよ うに な るまで - もちろん, いつかその 日は くるのだが-英 国政府 は責 任 を もたなけれ ば な らない。 (チ ェル ムス フ ォー ド)改革 が施 行 され る限 り, た とえ立 法評議 会 に 5人 の代表 を送 る こと が認 め られ てい て も, カ レン人 は もっ とみ じめにな るだ ろ う。 立法評議 会 の第 1回総選 挙 では, カ レン代表が 7議席 を獲得 した。 5人 は地 方 区 か ら,2人 は全 国区 か ら。 この こ とは ビル マ人 の寛 大 さを示 す もの と考 え られが ちだが,事 実 は違 うのだ。 カ レン人 代表 の内 2人 は, ビル マ 人が選 挙 をボイ コ ッ トし候補 者 をたて なか ったか ら, 当選 したので あ る。 第2回 目の選 挙 で ビ ル マ人 が候補 者 をたて るな ら, カ レンの議席 は間違 い な く失 われ るで あ ろ う。 地 方評 議会 で も,地 方教育委 員会 で も, また他 のいか な る評議 会,委 員会 にお いて も, ビル マ人 の対立候 補 が あれ ば, カ レン人 は絶 対 に委 員 になれ ない。 こ うして, カ レン人 の利益 はい た る所 で損 われ て しま う。 いずれ にせ よ, カ レン人 は改革 によ って何 の利益 も恩恵 もこ うむ る28) Smeaton,OPICit・pp・22O-237・
東南 アジア研究 7巻3早 ことは ないので あ る。 -- ・ ビル マについ て個人的見 解 を述 べ るな らば,少数民族 , なかんず くカ レン族 の利益 を保護 す るためには統 治 権 の分 離 か, さ もな くば別個 の行政 区域 を設 け る こ とが,絶対 に必要 で あ る。 カ レン人 は, やは り英 国 に協 力 す るほ うが よい 。 --・カ レン人 の ビル マ人 に対 す る訴訟 は, た とえ カ レン人 のほ うが正 し くて も, 99%までが カ レン人 の敗訴 に な る。 -統 一 には力が必 要 だ とい うことは, ビル マに も完全 に あては ま る。 ア ラ カ ソ人 は領 土 を もっ てい る。 シ ャ ン人 も州 を もってい る。 ビル マ人 は全土 を握 ってい る。 が , カ レン人 に とって 自 らの もの と称 し得 る土地 は, い ったい ど こにあ るのか。 - -政府 は,過去 ,民族 としての カ レ ン人 の要 求 に耳 を傾 け た こ とが あ ったか。 カ レン人 は,屋 上 にあが って絶 叫 す るよ うな ことは, 決 して しなか った。 けれ ど も, 代表 を通 じて何 度 も何度 も政府 の注 目をひ こ うとい う努 力は続 け てきた。 --唯 一 の具体 的 な解 決策 は, 領 土 の7分 の1を カ レン人 に割 り当 て る ことだ。 (人 口比率 は ビル マ人 7に対 して カ レン人 1の割 合 で あ る。) ビル マには, ち ょ うど七 つの管 区 が あ る。 テナ セ リム管 区が よいだろ う。 カ レン人 が一 番 多 く住 んで い るか ら。 もしカ レン人が 現状 の ま ま放 置 され,愛 国心 や政府,法 秩 序等 に対 す る忠誠 心が鼓 舞 され る よ うな正 しい法 的 措置 が とられ ない な らば, 将来,次 の世 代 には過激分 子 か絶 対主義 者が 現わ れ る恐 れが あ る。」29) ポ ウの考 えの中 には,(1)ビル マ人 に対 す る不信,(2)英 国 に対 す る忠 誠,(3)カ レン人 の 自治, 独 立 とい う3大意識 が, きわ め て明確 な形 とな って現 われ てい る。 そ して, この3点 こそ, 当 時 の カ レン人達 に共通 す るお そ ら く最 大公 約数 的 な民族 感情 で あ った と考 え られ る。 英 国人 は,統 治 者 として, この点 を見 逃 さなか った。 治安 を受 け持 つ警 察 お よび軍 隊 に, カ チ ソやチ ソ等 の山地 民 と共 に多数 の カ レン人 が採 用 され た30)の に対 し, ビル マ人 は一 人 も受 け 入れ られ なか った。31) その理 由は, カ レン人 が,(1)英 国 の統 治 を脅 かす存在 で ない ことが 明 白 だ ったか らで あ り,(2)大半 が キ リス ト教 徒 だ ったか らで あ る。32) ビル マ人 が兵士 に なろ うとす れ ば, カ レン人 だ と偽 らなけれ ば入隊 で き なか った
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33)英 国は, ビル マにおけ る多数 民族 割拠 状態 を巧 み に利 用 して,統 治面 で の効果 を挙 げ た。 だが, それ は, ビ′レマ人 とカ レン人 との対 立 の溝 を深 め る作 用 も果 た したので あ る。 カ レン人 は,民族 意識 の高揚 に伴 い,政 治面 で の発 言 を強 めてい った。 KNA は, カ レン人 の中央 お よび地 方 におけ る行政 - の参加 , カ レン系学校 - の援助, カ レン人視学 の任命 等 の要 求 を通 じて 「両頭制 」政 治 に攻 撃 を加 えた.34) ヵ レン人 の地域 主義 は, シ ドニー ・ル ー ニー と29) Dr・Sam C・Po (1928),chapts・X,ⅩⅠ,ⅩⅠⅠ・ 30) Cady,op・cii・p・140・
31) J・S・Furnivall(1956),p・178;G・E・Harvey,pp・40-42;Lonsdale,op・cil・p・5・ 32) Furnivall,ibid・p・1801
33) 1963年 の国内和平会議 の席上述 べ られたネ- ウ ィソ将軍 の言葉o ビル マ社会主義計画党組織本部編 「原住民 問題 に関す る革命評議会 の見解
」
(ビルマ文), 1964,p・64・34) Cady,op・cii・p,293・ 368
大野 :ビルマにおけるカレン民族の独立闘争史 (その1) ス ラ ・シ ュ- ノミの意 見 に最 も典 型 的 に現 わ れ てい る。 両 人 共 , 英 国 に対 す るカ レン人 の忠 誠 と カ レン人分 離 の正 当性 を強 調 し, 両頭 制 評 議会 で の カ レン人 議 席 を5か ら16にふ や す こ と,公 務 員 の16% を カ レン人 に割 り当 て る こ と, そ して カ レンを ビル マ か ら分 離 して英 国 の直 接 統 治 下 にお くこ とを主 張 した。35) ビル マ人 とカ レン人 との関 係 は, 1917年 か ら1921年 まで の モ ンタ グ 一 ・チ ェル ムス フ;i-- ド 改 革 の問 , 何 らの改 善 も見 られ なか った36)が ,カ レン人 は徐 々に勢 力 を伸 ば して行 った。 例 え ば,旧制 度 の議 院 で は議 席 総 数 103の 内, カ レン系 議 員 は5人 に す ぎなか ったが, 1リ37年 ビル マが イ ン ドか ら分 離 した後 の新制 度 (上 下 二院 制 ) の下 で は, 議 員総 数 132の 内, カ レンノ人 に 割 り当 て られ た議 席 は12とな り37),-jJレン人 の特 別選 挙 区 も新 た に7地 区 設 け られ た。3BJl')32年 の選 挙 後, カ レン人 キ リス ト教 徒 ソー ・ベ ー タ ーが 立 法 評 議 会 の 副議 長 に選 出 され, 1()37年 に は /ミモ - 内 閣 の閣僚 に任 命 され たO391 平 地 , 特 にデ ル タ地 帯 出身 の カ レン人 の政 治 意識 は, こ うして次 第 に高 ま って い ったが , 山 地 カ レ ンの ほ うは, 依 然 として未 開 の ま ま放 置 され て い た。 そ の こ とは, 行政 面 か ら見 て も明 らか で あ る。 サ ル ウ ィソ川流 域 の シ ュユ ダ ンに は, 総 督 は も とよ り, 知 事 も裁 判 所 長 も軍 司令 官 す ら も, 訪 れ る こ とは なか った(ニ40) サ ル ウ ィン川 中流 の カ レンニ ー地 方 で は ,北 か ら南 - と 連 な る国 境 沿 い の山地 で カ レン人 たちは 「タ ウ ンヤ
-
」 とよばれ る焼 畑 移 動 耕 作 に,相も変 わ らず従 事 して い た。41) ヵ レンニ - 州 とシ ッタ ウ ン川 の間 に あ るタ ンダ ウ ンや レイ トー等 の山 地 に住 む カ レン系 住 民 ブエ ー族 は, 無愛 想 で非社 交 的 , そ して外 部 の人 間 に対 して は強 い不 信感
を抱 い てい た。42' 皿 日本 軍 政 時代 の カ レン人 の立 場 1'j+1年12月 の第 二 次 世 界 大 戦 の開戦 , そ して翌42年3月 の 日本 軍 の ビル マ進 駐43)とい うで き 串は, ビル マ の運 命 を大 き く左 右 したが , 同時 に それ は, カ レン人社 会 に もまた大 き な変 動 を もた ら したO 植 民 地 下 に あ って困 難 な排 英 独 立 運 動 を粘 り強 く続 け て き た ビル マ人 若 手 政 治 家 グ ル - プ ・タ キ ンの一 部 は, 大 本 営 直 属 の対 ビル マ特 務 機 関 (南 機 関 )44) の指 導 の下 に 「ビル 35) Ca〔iy,t'bid・pl294;ルーニーお よびマン ・シュエバの考えは, マ ン ・ノミカイソによって引きつがれ たr I)r・KhinMaullgNyunt(1969)HArcllitcctofKarenBurmanUnity,"TheGuaク/di,捕,Vol・
XVI,lNo・8,p・47・
36) Cady,ll"I(l・p・370・
37) i/・lうurt。n Lcach (1937),p・55;Dusai,,)p・cll.p・2S5;シソチ ェ-,P・40・
38) Leach,il"'d・p・57;Dcsai,Lbid.p・285・ 39) Lady,()p・clt・P・372・
40) V・C・ScottO'corn or,p・292・
ill) CharlesCrosthwaite (1912),pl220・ 42) C・M・Enriques (1935),p・116・
43) 太 田常 蔵 Tlービルマにおけ る日本軍政史の研究Jpp・718;秘録大東亜戟史 ビルマ篇,pp・33/'4. 44) 泉谷達郎 リ」ビルマ独立秘史 :その名は南謀略機関Jl1()67年,ppl17,35;太 凹 ibid・p・401
東南 アジア研究 7巻3号 マ独立軍」45) を結成 し, 日本軍 の ビルマ進駐 と共 に故郷 に帰 って来 た。英 国官憲 の厳 しい監視 と追求 の下 で苦 しい地 下活動 を余儀 な くされ ていたタキ ソ連 に とって, それ は抑圧 か らの解放 で あ った。 一方 ,英 国軍 の ビルマ撤 退 は, カ レン人 に とっては,強 力 な保護者 を失 うことにはが な らな か った。 1942年 か ら45年 まで, カ レン人 に とって苦 しい暗黒 の時代が続 い た。46) 英 国軍 の撤 退 に随 行 してイ ン ド-去 ったカ レン人兵士 もいたが,大部分 は除隊 して郷里-帰 ることに な った。 こ うして1942年4月, カ レン復 員兵 の武器 回収 の ことか らデ ル タ地 帯で 「ビルマ独立軍」 とカ レン人 の問 に紛争が起 こ り, 同年5月 には カ レン人 の拠 点 で あ った ミャウソ ミャの激突 とな っ て多 くの死傷者 をだす とい う事件が発 生 した。47) 元首相 ウ一 ・ヌの言葉 に よれば, それは英軍 が去 った後 ビ′レマの行政 が施行 され るまでの過渡期 に,デル タ地 帯 で好機到来 とばか り行 なわ れ た一部 タキ -/達 の 「暴挙」48)で あ った. ミャウソ ミャの この カ レン ・ビル マ衝突事件 について, その後 ビルマ行政 主席 に就 任 したバ モ ー博士 は,次 の よ うに述 べ てい る。 『あ らゆ る衝突 の中 で もデル タ地帯南部 で発生 した ビル -人 とカ レン人 との衝 突 は,最 も残 忍, かつ最 も無意味 な ものだ。 それ は4カ月にわ たって続 き, ミャウン ミャお よびその周辺 で は大量虐殺 に まで発展 した。 カ レン人 は ビルマで は固有 の民族史 ,固有 の民族 的価値, 固有 の民族 的展望 を もつ大種族 で あ る。植民地時代, カ レン人 たちは, 多数派 ビル マ人 の圧迫 に対 す る防壁 として,英 国の支配 権 を政 治的 に利用 す ることによ って,民族 としての存在 を保 ってきた。 それは政 治的方便 では あ ったが,結果的 には両民族 間の溝 を深 め る ことにな った。 カ レン人 たちは,一般 に 「民族的」 にな るよ りも 「部族的」 にな ることに よ って, 自 らの安 全 と利益 を図 った。事実,大 多数 の者 は, ビルマ人が支配 す る国家 とは 自分達 の社会的消滅 か, さ もな くば ビル マ人 に対 す る永 久的従 属化 を意味 す る ものだ と信 じてい る。 あ るいは また, 自 分達 の権利が何 らかの絶対的方法 で保護 され ないか ぎ り, やが て,数的 に優勢 で鋭 い才気 を も つ侵略的 な ビル マ人 の前 に 自 ら亡 び去 ることにな る とも思 ってい る。 こ うした意識 は, この種族 の基本的体質 の一部 にな って しまってい る くらい, 古 くかつ根 の 深 い もので あ る。英 国人 は, その点 に逸 早 く注 目した。彼 らは, ビルマに少数民族 の問題 を作 りだ し, それ を事実以上 に大 き くかつ深刻 な形 に した。 同時 に彼 らは,長 い戦 闘 の歴史 を もつ ど′レマ人 を除外 して, ど/レマ駐 屯の英軍隊 内で カ レン人 に軍事教練 を施 した。英 国人 は,2民 45) 荻原弘明 ・大野徹訳 「アウソサン将軍(Ⅰ)」 『鹿大史学』第15号,p・7;太 田,oP・cii・p・44・ 46) Lonsdale,op.cii・p・5・ 47) 太乱 oP.cii・pp・47,79,.Foucar,p・227;Cady,p・443;テ ィンミャ(1968),p・36-37;マウ ソマウン (1969),p・193;ルイン(1969),pp・1231130;ウ一 ・フラ(1968),p・232・ 48) Thakin Nu (1954),p・98;タキン ・ヌ 「ビルマ国 :5年の歳月」(ビルマ文), 1946,p・246;ソウ マウソ 「首相 ウ-ヌ」(ビルマ文),p166・ 370
大野 :ビルマにおけるカレソ民族の独立闘-/f]史 (その1) 族
閥
の相違 を必 要 以 上 に誇 張 し,共 通 の利益 や 目標 につい ては 日をそ ら させ よ うとした。 戦 争 が 始 まった時 , カ レン人社 会 は英 国 に対 す る忠誠 な民族 社 会 とな ってい た。 英軍 内 の カ レン人 兵士 達 は,最 後 まで忠 実 に戦 った。 英軍 がT
ビル マか ら撤 退 した時 ,カ レンの除 隊 兵達 は各 自の郷 里 -帰 ったの だが , ち ょ うど そ こ-勝 ちに乗 じた威 勢 の よい 「ビル マ独 立軍」
が乗 り込 ん で来 て,新 しい行政 が施 かれ たo 同時 に,具 合の悪 い こ とに, 全刑 務所 の門戸 が 開 かれ大 量 の犯罪 者 が釈放 され たO 彼 らは いず れ か の側 に素早 く潜 りこん で, 無 秩 序 状態 を醸 した し,社 会 的 紛争 をひ き起 こしし /,月末 に デ ル タの郷 里 -帰 った カ レンの除 隊 兵 達 は, これ らの不法 分 子 に対 して武 器 を執 ったL, 当時 , 「ビル マ独 立軍 」 は, 志 願兵 の増 加 に対 処 す るた め多量 の武 器 を必 要 として い た。 そ して, カ レン人 たちが武 器 を所 持 してい る こ とを知 った ビル マ独 立軍 は, それ を接 収 す る こと に したC 「英 国 の敵 」 と戦 ったばか f)か,英 国 に対 し依 然 として忠誠 な人 /<を武 装 解 除 す る こ とは, 当然 で あ ったO そ の限 りにお い て, ビル マ独 立軍 の とった行為 は間違 ってい なか った。 だが, 不幸 な こ とに, そ の後 あ らゆ る こ とが 「凶 」 と化 して い ったO ビル マ独 立軍 が カ レン人 に対 して武 器 の引渡 しを要 求 した時 ,カ レン人 は ビル マ人 の意 図 に 疑惑 を抱 い た′, もっ と も元 閣僚 の ソー ・ペ - }}一等 一 部 の指 導者 達 の説 得 に よ って,幾 つかの カ レン人村 落 は要 求 に応 じたので あ る。 これ らの村 々は, あ っ と言 う問 に武 装 ギ ャ ングに襲 わ れ掠 奪 され た。 カ レン人 に よれ ば, 「ビル マ独 立軍 は それ を見 逃 したばか りか, 自 らギ ャ ング に加 わ って掠奪 を行 な った」 ので あ る。 カ レン人 は, ビル マ独 立軍 の裏 切 りの背 後 には, 物 上 りとカ レン人社 会 の根.絶 とが あ る とい う結 論 を得 た。 ミャウ ソ ミャ県 で は,種 族的 感情 が い っそ う駿 烈 で恐 怖 感 も強 く, 事態 は もっ と切迫 してい た。 大 ざ っば に言 って, この地 方 で は カ レン ・ビル マ両社 会 の勢 力が, ほ ぼ伯 仲 してい た。 だ か ら, カ レン人 た ちは 自衛 策 を講 じ,場 合 に よ っては巻 き返 しに 出 る こ とさえ決 め た。 また実 際 に も, ビル マ独 立 軍 兵士 の殺 害 とい うよ うな- まを しで か して しま ったので あ る。 当時 , 冒 本 軍 は北 部 で作戦 を展 開 してお り, 行政 権 は ビル マ独 立軍 か, または そ の地 方組 織49)に一 任 さ れ てい た。 そ の結 果 , デ ル タ地 帯 で は社 会 的 なギ ャ ング戦 が 全面 的 に く り広 げ られ る こ とに な って しまった。 それ は, 日本軍 が ビル マ全土 を制 覇 して 「問 題 」解 決 に取 り組 む まで続 い た。 カ レン人 は武 器 の引渡 しを断 り, ビル マ独 立軍 との関 係 を主張 す る よ うな指 導 者 は射 殺 す る と言 って脅迫 した。 あ る所 で は, 彼 らは よ り大 き な村 - と引 っ越 し, 頑 丈 な砦 を築 い た。 そ うしてお い て, 彼 らは ビル -1人村 落 を襲 い, 掠奪 し, 火 を放 った。 ミャ ウソ ミャ県 で は襲 撃 とそれ に対 す る報 復 襲 撃 とが 2カ月 に わ た って続 き, やが てそれ は/ミセ イ ソ, - ソザ ダ, ピ ャ - ボ ン等 周 辺 の カ レ ン人地 域 へ と広 が ってい った。 ち ょ うどそ の頃 , ボ ウ ・ モ ウヂ コ 49) ビルマ独立軍行政委員会C これはクキン ・トゥソオウを主席 とす ,3バホウ(中央)政府 と表裏一体 を 成 していたO 太田常蔵 「ビルマ独立に対す る日本指導の二重性格について」■」1史海Ln第11号,p,6; 1)csai,1)p・260-261;行政委員会は1L)42年8月のバモー内閲誕生まで,町村の治安維持にあたった。p.44. 371東南アジア研究 7巻3号 ウ50)の友 人 「飯 島
」
中佐 が カ レン人 の攻 撃 に よ って殺 され る とい う事 件502)が お き た。 ボ ウ・モ ウヂ ョウは,
「飯 島」
中佐 の死 とは何 の関 係 もない カ レン人 の2大村 落 カナ ゾ- ゴソ とタ- ヤ ー ゴ ソの住 民 全 員 の抹 殺 を命 じた。 この二 つの村 は夜 間包 囲 され 火が放 たれ た。 逃 げ 出そ うとし た村 人達 は,男 も女 も子 供 達 も全 員 ,待 ちか まえてい た ビル マ独 立軍 兵士 の手 に よ って斬 殺 され た。 逃 げ おお せ た者 はほ とん どなか った。 負傷者 達 は皆 ,火災 の中 に投 げ込 まれ て焼 け死 ん だ。 この事 が あ ってか ら, カ レン人達 の行動 は い っそ う狂 暴 化 した。 彼 らは死 に もの狂 い に な っ て ビル マ人村 落 を襲 った。 僧院 やパ ゴダ等 の宗 教 的建 物 さえ, い まや例 外 で は な くな った。 す べ て焼 き払 われ た。 村 は次 々に破壊 され放棄 され た。 ビル マ人 た ちは ミャ ウ ン ミャの町 の中 に 逃 げ こみ51),町 は あ たか もビル マ人避 難 民 の キ ャ ンプの如 き様 相 を皇 して い た。 ミャ ウ ン ミヤ の町 は,恐 怖 と憎悪 で沸 き た った。 ミヤ ウ ソ ミャの町 の中 に住 む カ レン人 た ちは, 実 質 的 に ビル マ人 の人質 と変 わ りなか った。 誠 実 で勇敢 な,だが全 く逆 上 してい た カ レン人 (バ テ ィ ン県)指 導 者 ソー ・サ ンボ ウテ ィンは,
「ビ ル マ人 の町」の中 で苦境 にお ち こん で い る ソー ・ベ ー ター以 下 の カ レン人 同朋 を救 出す るた め, ミャウ ソ ミャの攻 撃 を決意 したo 彼 は ソー ・ペ - タ 一 に手紙 を書 い て,攻 撃 は5月26日行 なわ れ る旨伝 え る こ とに した。 だが全 く理 解 に苦 しむ こ とだが, 彼 は あ る ビル マ人 を, その家族 を人 質 にす る こ とに よ って,使 者 に使 った。 使 者 は手紙 を受 け取 り,それ を 「ビル マ独 立軍 」 当局 に 持 ち こん だ。 ビル マ独 立軍 は内容 を調 べ た上 で,手紙 を ソー ・ベ ー ターの所 に届 け させ,サ ンボ ウテ ィンに返 書 を渡 す前 に彼 らに見 せ るよ う命 じた。使 者 は そ の通 り実 行 した。 ソー ・ベ ー タ ーは,平和 回復 の努 力が失 敗 した以 上最 善 だ と思 う方法 を とった らよい と,サ ンボ ウテ ィンに返 事 したので あ る。 この返 事 の内容 は, ビル マ独 立軍 には妥協 だ と受 け とられ た。 彼 らは また別 の理 由で, ソ- ・べ - メ -お よび何 人 か の カ レン人指 導 者達 は二股膏 薬 だ とい う印象 を もって い た。 いず れ にせ よ攻 撃 は予定通 り開 始 され たが, ビル マ独 立軍 は すで に迎 撃 体制 を と との え てい た。カ レン人達 は敗 退 せ ざ るを得 なか った。 「冒険 」は全 くこっけ い な もの と変 わ り果 て た のだが,結果 は深 刻 で あ った。 ミャウ ソ ミャ町 内 の カ レン人居 住 区域 に対 して恐 しい懲 罰 が 次 々 と加 え られ た。 ソ- ・ベ ー ター とそ の家族 を除 く全 カ レン人 が逮 捕 され, 人 質 として投 獄 さ れ た。 あ るタキ ンに率 い られ た暴 徒 の群 は, ソー ・ベ ー ターの家 を襲 って焼 き払い, ソー ・ベ ー ター以 下 家族 全 員 を虐 殺 した。51 2)ヵ レン人 が 町 を攻 撃 す る度 に,ミャウ ソ ミャの刑 務所 で は 50) 南機関の長であった鈴木敬司元陸軍少将の ビルマ名。その由来については,Cady,p・437;泉谷, pp・11ト 112;ウ一 ・フラ (1968)p・197・ 50-2) 殺 された 日本人は,ボウ ・モウヂ ョウの部下 「キマタ」氏であるoマウソマウソ (1969),p・193・ 「キマタ」氏 とは,南機関の木俣豊次嘱託の ことで,BIAでは飯島中佐 と名のっていた。泉谷p・112,206-7・ 51) ミャウソミャの町では, ソ- ・ベータ-の協力の下に厳重なBIA の警戒体制が施かれていた。 Cady,p・443;タキン ・ルイソ,p・125・ 51-2) 妻子が ビルマ人暴徒に虐殺 され るのを直接 目撃 した ソー ・ベーターは,自らこめかみをピス トル で射 って妻子の後を追 った。 タキン・ルイソ,P・128;ソー ・ベーターは自殺 した。 ウ∼ ・フラ(1968), pp・129-130;ソー・ベーターの妻は英国人であった。MauriceCollis・Last(LndFirstinBuymu・p・106・ 372大野 :ビルマにおけるカレン民族の独立闘争史 (その1) 毎 日20人 , 時 に よ っては それ以 上 の カ レン人 の人 質 達 が , そ の報 復 措置 として処刑 され た。 ビル マ国 内 にお け る 日本 軍 の作 戦 は1942年 5月 の後 半 に は完 了 し,適 切 な行政 制 度 の創 設 に 取 り組 む こ とが 可 能 とな った「 日本 軍 は,6月 の第 2週 には 「種 族 的 紛 争 」 に傷 つ い た地 方 -進 駐 し, 新 しい行政 組 織 が で き あが るまで の問 , そ の地 方 に軍 政 を布 い た∴ 事態 は一 変 した。 ミャ ウ ソ ミャの刑 務 所 に収 容 ざれ て い た カ レン人 の人 質 は全 て釈 放 され た。 カ レン人 た ちは, 情 勢 の変 化 に応 じ武 器 を進 ん で 日本 軍 に引 き渡 す よ うに な った。 平 和 は こ うして回復 され た。 中 旬 まで には, 大 規模 な社 会 的戦 闘 は姿 を消 した。 だが ,燃 えが らは残 ったO 十 余 年 にわ た って今 もなお続 い て い る カ レン人 の反 乱 が , そ れ を 証 明 して い る。』52) ミャウ ソ ミャて この不 幸 なで き事 が勃 発 した頃 , ア ウ ソサ ン, ボ ウ ・レ ッヤ ー53), ボ ウ ・ゼ - ヤ54), ボ ウ ・ネ - ウ ィソ等 「ビル マ独 立 軍
」
の苫 脳 部 は, ラ ング ー ンに い なか った。 ネ - ウ ィン将 軍 は, この間 「上 ビル マ- 行 ってい た た め, 何 も知 らなか った, マ ンダ L,一 に帰 り着 い た時 , 初 め て 日本 軍 将 校 か ら事 実 を知 ら され た。 英 軍 が撤 退 す る際 多量 の武 器 を カ レン人 の 手 中 に残 して立 ち去 った こ とか ら, カ レン人 が 日本 軍 に抵 抗 を企 て たの だ とい う説 明 で あ ったo わ れ わ れ は, 本 当 に何 も知 らなか ったの だ。」55) ビル マ独 立軍 総 司令 官 ア ウ ソサ ン将 軍 は, 大戦 末 期 に, ソー ・- ソ 1)-, カ ソヂ ∼師 , ソー ・ チ ャー ドゥ, ソ- ・サ ンボ ウテ ィン等 と協 議 の上 「ビル マ国民軍 」 の 中 に カ レン人一 個 大 隊 を 創 設 した。56) これ は戦 線 を再 編 成 す る こ とが ね らいで あ ったが , 同時 に カ レン ・ビル マ両 民族 の和 解 とい う意 図 も含 ん で い た。 カ レン ・ビル マ の対 立 解 消 に積 極 的 に活 動 した ビル マ人政 治 家 の中 に は, 後 の ビル マ共 産 党 委 員長 タ キ ン ・タ ン トゥソが い る。 サ ン ・シ ー ・ポ ウ, ソー ・/ミウ-ヂ -, ポ ウ ・デ ィ- ・ロ ン等 の カ レン人 指 導 者 達 が ラ ング ー ンに招 待 ざれ , カ L/ソ ・ビル マ問題 に つ い て ア ウ ソサ ン将 軍 等 と会 談 した こ とが あ るが , そ のお ぜ ん 立 て を したのは ほか な らぬ タ ン ト ゥソで あ った。57) いず れ にせ よ, 日本 軍 政 時 代 の3年 間 , カ レン人 は, ま さに 「この世 の地 獄 」 で恐 怖 と責 苦 の生 活 を送 った58)ので あ る。 52) Ba Maw (1968),pp・18611921 53) ビルマ革命政府によって逮捕 されていたが, 1968年2月27日釈放 された。大野徹 (1968),p.168. 54) のち, ビルマ共産軍総司令官。 1968年 4月 16日,政府軍 の討伐作戦によって射殺 された。大野 徹 (1968),pp・164,167-168・ 55) 1963年の国内和平交渉の席上述べ られたネ-ウィソ将軍の談話。 「原住民問題に関す る革命評議会 の見解」pp・65-66;マ ウソマウン (1969),p・193・ 56) 荻原 ・大野共訳 「アウンサ ン将軍 (II)」p.16;F・N・Trager (1966),p・103;1963年のネー-ウ ィ ン談話 p166;マウン ・シ,/チ ェ-,P・43・この時の大 隊長は後 KYO初代議長 にな ったソー ・トウ ソセイソ少佐であるO テ ィン ミャ,P・199;テ ィンスウネ-,PP・174-5・ 57) Thakin Nu (1954),p・98. 58) Lonsdalc,p・6・ 373東南 アジア研究 7巻3号
Ⅳ
ビルマ独 立 と カ レン族 の 自治 問題 第二次世 界大戦 は, 日本軍 の敗退 に よ って幕 を閉 じた。 そ して ビル マでは, 1945年 か ら47年 まで の2年 間, ア ウソサ ン将軍 を中心 とす るビル マ人政 治家が政 権 を握 った。 この事 実 に衝撃 を受 け,危機 の増大 を予感 して恐怖 を感 じたのは カ レソ人 で あ った。
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)
1948年 1月4日の 「ビル マ独 立 」 まで の間 にア ウンサ ン等 「反 ファシス ト人民 自由連盟 」が 解 決 せね ば な らない問題 は山 ほ どあ った。 その一 つが 「少数 民族」
問題 で あ る。制 憲議 会 開催 に先 立 って, カ レン, シ ャン, カチ ソ等 の非 ビル マ民族 を, どの よ うな形 で 「ビル マ国」 内 に 包含 してゆ くか,参加 の形態 は ど うあ るべ きか,新 し く誕 生 す る 「ビル -国」 に各 民族 は どの よ うな未来像 を期待 してい るのか, こ うい った問題 は解 決 を迫 られ てい る緊急課 題 の内で も最 も重 要 な もので あ った。 1947年 ,9人 の委 員 か らな る 「国境地域 調査 委 員会」
が組織 され た.議 長 は 1)-ス ・ウ ィ 1) ア ム大佐 で あ った。60)委 員会 の答 申は,制 憲議 会 が開 かれ た後 の1947年4月24日に出 され た。 カ レン人 の反 応 は様 々で あ った。61) 同 じ 「カ レン」 とは言 って も, 言語 や居 住地 域 の違 い に よ って彼 らの政 治的,経済 的利害 関係 が必 ず し も一致 しなか ったか らで あ る。 特 に,サ ル ウ ィソ 県 の山地 カ レン代表 か ら深 刻 な問題 が提起 され た。 しか も, 山地 カ レン代 表 の間 で さえ,意 見 は まち まちで あ った。 彼 らの見 解 は, キ ャデ ィーの報 告62)に よれ ば, ほぼ次 の よ うに ま とめ られ る。 (1) シ ュ-ヂ ソの カ レン族 は, シ ュ-ヂ ソ大会 の決議 に基 づ い て,独 立 ビル マ とはいか な る 憲法 的関 係 を も, もつ ことには反対63)で あ った。 これ は, テナ セ リム海岸 の港 を含 む 「英領 カ レン植 民地」の分離 を打 ち出 したKNUの1947年2月 の決議63 2)に合致 す る もので あ った。 (2) サ ル ウ ィソ県 の カ レン族 は, シ ャン, カチ ソ諸 民族 との連 邦化 には同意 す るが, ビル マ か らは分離 す る とい う意見 をだ した。 サ /レウ ィンの カ レン代 表 は, ビル マ人統 治 に対 す る不 信 は歴 史的事実 に起 因 す るもので あ る と述 べ たが,直 接 的 には1942年4,5月 にサ ル ウ ィソ県 内 で惹 き起 こされ た 「ビル マ独 立軍 」 の暴挙 に対 す る怨 みが背後 にあ った。64)この事件 は, 日本 軍 には 「パ ブ ン地 区 に起 こ りし匪賊 は カ レン人 よ りな り,行政 府 の施政 に対 す る不満 ,反 抗 な る もの」65)の如 く受 け とられ てい た。 カ レン代 表 は, もし も英 国 との きず なが断 ち切 られ るな59) Lonsdale,p・7・
60) Lonsdale,p・8・ KNUからは ソ- ・サンケーが代表 として参加 した。 Cady,p・547. 61) Johnstone,p・49・ 62) Cady,pp・549-550・ 63) Cady,p・549;Tragcr,p.103・ 63
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この時の決議事項は,(1)ヌ ・ア ト1)-協定の否決,(2)選挙のボイコット,(3)バウ-ヂーの辞職等 である。 フラミョウ (1968),pp・374-377・ 64) 17名のカレン人が ビルマ独立軍指揮官のボウ ・トウソフラによって,カレン族の中心地パープソで 銃殺刑に処せられた.大野徹 『ビルマ史年表』 (1960),p・521 65) 太田常蔵,pp・79180・しかし事実は,カレン人の対 日地下抵抗組織であった。ルイソ(1969)pp・124-5.3
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4
大野 :ど/レマにおけるカレソ民族の独立闘争史 (その1) らば, カ レン人 が 損害 を被 る こ とは疑 いの余地 が な い。 唯 一 の解 決策 は, カ レンが ビル マか ら 完全 に分離 す る以 外 にない と主 張 した。 (3) パ ー プ ソの カ レン代 表 は, サ ル ウ ィソ県 を, 正 規 の行政 単位 の一 つ として, ビル マ国 に 含 ませ る と言 うので あ ったo この意 見 は, カ レン国 の分離 を要 求 す る
KNU
の考 え を,真 っ向 か ら否 定 してい た。 パ ー プ ソの代 表 は, パ ー プ ンがKNt
Jの森 林 お よび供給 の 出先 機 関 にな る こ とに不 満 で あ った。 いず れ にせ よ,大 多数 の カ L/ソ人は, ビル マ人 多数社 会 の l)- ダーシ ップ に信頼 が もて なか った。66) ヵ レン人達 は 「ア ウ ソサ ン」
や 「ウ一 ・ヌ」とい った特定 の個 人 に対 して とい うよ り は 「多 数派 」 の ビル マ民族 に対 して恐 怖 感 を もってい た67)ので あ る〔 国境 地域 調 査 委 員会 に提 出 され た カ レン人 の要 望書 の中 には, カ レン人 が 英 国 の統 治 下 に と どま るこ とを希 望 す る旨の文 書 さえ残 ってい る068)「あな たは, なぜ独 立 ビル マ政 府 の行政 下 に 入 るこ とを望 まない のか。
」
「あな たは, なぜ あな たが た 白身 の国 を欲 しが るのか。
」
国境 地域 調 査 委 員会 の こ うい った質 問 に対 す るカ レン人証 人達 の一 致 した答 は, 「私 達 は ビル マ人 を信 頼 してい ない」
か らとい うので あ った。69)ヵ レン側 の資料 に よ るか ぎ り, カ レン人 す べ てが分 離 国 を要 求 してい た こ とは 明 らか で あ る。 国境 地域 調 査 委 員会 に 出頭 した カ レン人証 人 は, こ ぞ って 「カ レン州 」設 置 を要 求 した。70)1
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年4
月 に行 なわれ た制 憲議 会選挙 で は,KNU
が候 補 者 を出す ことす ら拒 否 した70 21た め, カ レン人議 席 数24の内1
9
までが 「カ レン市年組 織」(
KYO)
の代 表 に 占 め られ,残 りは 「反 フ ァシ ス ト人 民 自由連 盟 」 を バ ック とす るカ レン人 無所 属候 補 の手 に渡 って しま った。71 -ソ- ・バ ウ-ヂ -はKYO
を代 表 して 「反 フ ァシス ト人 民 自由連 盟 」 の行 政評 議 会 に参 加 し て い たが,1
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45
年1
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月 ラ ング ー ンで開 か れ た カ レン人大会 で, テナセ リム管 区 を含 む カ レン国 の分離 が決議 され たに もかか わ らず , 同年 出 され た英 国 の 自書 にサ ル ウ ィソ県 の カ レン族 居 住 地域 が 「カ レン州」
として規定 され てい る こ とに不満 を もち,翌46年8月 ロン ドンに赴 い た。
72
) ビル マ憲法 に 「コー トゥ- レ-」 とい う名 で将来 の設 置 が 予定 され てい る 「カ レン州 」 にはサ ル ウ ィソ県 だけが含 まれ る こ とに な ってい た。 サ ル ウ ィン県 は, 人 口6万 の きわ め て後 進 的 な 66) Desai,p・287;特 に タキンに対 して( カレ./人にとって 「全 タキンは犯罪人であ り敵であった」M・ Collis,p・219. 67) Butwell,pl95・ 68) Lonsdale,㍗.3. 69) Lonsdale,p・8. 70) Lnnsdale,p・8・ 70-2) 4月23日開かれたKNUの臨時大会では,選挙のポイコ・ソトが確認 された。フラミョウ,pp・374-377・ 71) Cady,p・551,・Tragcr,p・104・この時のカレン人議員には, ソー ・ノー トン ・ブワ, ソー ・ジ ョ ンソン ・デ ィーポウミソ, ソー ・マウソダウ, ソ- ・アウソ/i,マン ・バカイン,マソ ・トゥソイソ, マン ・ウィソマウソ, ソー ・サ ンボウテ ィソ, ソー ・チ ョ-イン, ソ- ・ウィー リー ・チ ョ一等がい るO マウソシソチ ェ-,PP・103-4・ 72) Cady,p・552. 375東南 アジア研究 7巻3号 未 開発 の山地 で, しか もマ ラ リア蚊 の天 国で あ った。73) ソー ・バ ウ-ヂ -, シ ドニ ー ・ル - ニー, ソー ・ポ ウチ ッ Tl, ソー ・ク ーデ ィソ等 の カ レン 代 表 は, 「カ レン州」 として予定 され て い る地 域 が ,港 - の通 路 ,水 田,交通 手段 等 に欠 け て い る ことを と りあげ, ロソ ドンに対 し次 の二 つ の要 求 を行 な った。74) (1) 英 国 の保 護 を受 け,海 港 を もち, 自由な親定 に裏 づ け られ た 「カ レン州 」 を ビル マ に設 置 す るよ う,議 会 は特 別 な措置 を とる こ と。 (2) この 「カ レン州」 が ビル マ とは別個 の 「国境 諸 州連 合 」 に加 盟 し,英連 邦 内 にお け る自 治 領 としてその地 位 を認 め る こ と。 これ は, きわ めて 「非 現実的 な要 求
」
7
5
)
で あ った。 に もか かわ らず,英 下 院 で は カ レンに対 す る同情 的 空気 が濃 厚 だ った。 グラノ、ム大 尉 の言 に よれ ば, 「カ レン人 は,戦 時 中 われ わ れ に 忠 実 で あ った。 何 よ りも彼 らは,英 国従 属 の形態 が変 わ るの を望 ん で い な い」76)ので あ った。 と ころが , ア トリー内 閣 は ビル マの民族 主義 者達 と交 渉 す るため に, ラ ンス総 督 の派 遣 をす で に決 め て い た。77) 英 国政 府 の態 度 は,英 連 邦 担 当相 ゴー ドン ・ウ ォー カーの次 の言葉 の中 に 明確 に現 われ てい る。 「カ レン問 題 は,第 1に ビル マの 国 内問題 で あ る。 われ わ れが 他 の国 の 内政 に何 らか の形 で 干渉 す る こ とは, 決 して好 ま しい こ とで は な い。 それ に, カ レンだけが ビル マ にお け る唯 一 の 少 数 民族 で は な いの だ。 他 の少 数 民族 は, 政 局 困難 な この時期 に, すべ て政 府 を支 持 して い る とい う事 実 を指 摘 してお く必 要 が あ る。
」78) こ うして,代 表 団 の努 力 は水泡 に帰 したO 彼 らは手 ぶ らで帰 国せ ざ るを得 なか った。79) 1947年 1月 の ロン ドン協 定 に よ って,KNU 中央 本 部 は,制 憲議 会選 挙 に参 加 す るか ど うか, カ レン人 居 住地 域 が 「ビル マ 国」
内 に吸 収融 化 され て しま うこ とに甘 ん じるか ど うか,態 度 決 定 を迫 られ る こ とにな った。80) 同年 2月 ラ ングー ンで開 か れ たKNU大会 は, この間題 で2派 に分 裂 した。 ソー ・サ ンボ ウ テ ィンや - ソ ・/ミカイ ソ等 は,AFPFL
と協 調 し, カ レン州 の州
境 問題 は議 会 が任命 した境 界 委 員会 の決定 に従 うこ とを明 らか に した。81) サ ンボ ウテ ィン, マ ン ・ウ ィソマ ウ ソ, マ ン ・/ミカイ ン等 の少 数派 は, KNU か ら分離 して新 たに 「カ レン青年 組 織」 (Karen Youth Organi -73) Lonsdale,p・9・
74) Cady,p.553. 75) Butwell,p・103;代表国は, ロン ドンで丁重 な待遇を うけたが,納得行 く回答は,ア トリーか ら得 られなか った。マウソマウン(1969),p・303・ 76) MaungMaung (1958),p・137・ 77) Cady,p.553;MauriceCollis,p.281. 78) Maung Maung,p・137;同様趣旨の演説が,労働党議員 ウッ ドロワイ-ルによって も行なわれた〔 フラミョウ,pp・399-403・ 79) Foucar,p・227・ 80) Cady,p・553・ 81) Cady,p・553;フラミュウ,pp・373-4・ 376
大野 :ビルマにおけるカL,ソ民放の独立闘争lJl (そ の 日
zation)を結 成 した。82)
KYO
は, も と も と 「カ レ ン中 央 組 織」(
KCO)
に対 抗 す る組 織 として第 二 次 大戦 中 ア ウ ソサ ン将軍 等 の胆 入 りで作 られ た組 織83)で あ る。KYO
に参 加 した カ レン人 青 年 達 は, 大戦 末 期 ビ ル マ 人青 年 と一 緒 に な って, 日本軍 と戦った 。 戦 後 ビル マが 再 び英 国 の行政 下 に もどった最 初の
2
年 間 ,KYO
はKCO
と同一 体 で あ った。84〕KCO
は, 後 「カ レン民族 連 合」(
KNU)
と名称 を変 え たO そ して
KNU
が1947年 の総 選 挙 を ポ イ コ 、ソトした時 ,Kヽ
'
0 はKNU
か ら離脱 し たの で あ る〔KYO
は, そ の後KNDO
が 反 乱 を起 こした時 に も,AFPFL
内 の 他 の政 治 団体と締 携 して, 政 府 に tt忠 実 "な政 治 組 織 として存 続 した O
KYO
は, この よ うに ビル マ連 邦 憲 法 の発 効 化 に協 力 は したけ れ ど も, 民族 的 色彩 を払 拭 す る こ とは で きな か ったO 彼 ら もまた, 「カ レン州 」 設 鍔 の必 要 性 を感 じて い たの で あ る。 た だ,KNU
とは異 な りKYO
の 「カ レン州
」 とは ,カ レン人 住 民 の 多い地 域 で のみ 構 成 され,
「州」設 立 は地 域 住 民全 員の意 志 に基 づ い て民 主 的 に決 定 され るべ きだ とい うの で あ ったo また,KYO
は, 地 理 的 に ビル マ連 邦 か ら分 離 す る とい う形 で は 「カ レン州
」 の存 立 は不 可 能 で あ る。 連 邦 内 に とど ま って こそ有益 だ とい う考 え に た っ てい た。85) のみ な らず ,KYO
は闘争 手 段 の面 で も,KNU
と大 き く対 立 した。KYO
は武 力 に よ る闘 争 を否 定 した。 後 に (1948年 末 か ら翌 年 に か け て) 発 生 した カ レン ・ビ ル マ両 民族 の衝 突 に つ い て も,KYO
はKNU
の暴 力主 義 を激 し く非 難 して い る0 1949年 1月 13日に 出 され たKYO
木 部 の 声 明86)にそ れが は っ き りと現 わ れ て い る。 連 邦制 を擁 護 しつ つ, 民 主 主 義 的 方 法 に よ って カ レン民族 の融 和 と利益 を図 る とい うのが ,KY0
の基 本 的 な態 度 で あ り, 活 動 方 針 で あ った。87) 一 方 , ソ- ・/ミウ-ヂ 一 に率 い られ るKNU
の 多数派 は, 「カ レン同 の独 立 」 が 現 実 に は不 可 能 だ とい うこ とを認 め ては い た88)け れ ど も,「
AFPFL
が ,7
項 目の要 求 を受 講 しない限 り, 選 挙 ,Ti,ボ イ コ ッ トす る」89)こ とを決 め た。 そ の7項日
中 ,最 も重 要 なの は次 の5二
重「
l
で あ った。 (1) ビル マ連 邦 内 に海 港 を もつ 「カ レン州 」 の設 帯 を原 則 的 に認 め るO (2) 行 政 お よび立 法 評 議 会 の25% を カ レン人代 表 とす る。 82) Tragcr,p.103;マン ・ウインてウソの説明によれば,K
hTU とKT
0 が分裂 した理由は「
1
{
NU
が 英国資本家の手下 と化 し/たため」であろ「 フラ ミョウ,p・389・ Sr') 1963年のネ-ウ ィソ将軍の説明,I-・(,7:て ウンシソチ ェ-,r)・43lKCO
は1943年創設, 1()4HF・ に復活 した。84) 13urma&the Insurrections (1949),p・1311945年12月15日に
KYO
は,KCO
の青年部 として 発足 した。 てウンシソチ ェ叩,r)・47・この時のKYO
議長は ソー ・トウンセイソ少佐,後てン ・バカイ ンが就任 した0
85) T3urma a the Insurrections,p・14.
86) 1949年1月13日付 ビルて字 日刊紙 「ミャンマ ・7 リ-/」 87) 1949年1月
2
1日付 ビルマ字 日刊紙 「ミャンて ・ア リソ」 KYO
は1949年4月28日 「連邦 カレン/氏 族連盟」 と改称 した。 88) Butwell,p.103・ 89) Cadv,pl554:フラ ミョウ,pp・374-3771 377東南 アジア研究 7巻 3号
(
3
)
カ レン人軍 隊 の保持 を認 め る。 (4) 新 人 口調 査 を実 施 す る。 (5) 政 府機 関 に人 口比率 に応 じた カ レン人 官 吏 を採 用 す る。 ビル マ政 府 は, 国会 の24議 席 を カ レン人 に割 り当 て る こ とに したが , 5項 目の要 求 は すべ て 拒 否 した090)ゥ- ・ヌは, ビル マ連 邦 内 に カ レン, モ ソ, ア ラ カ ソ諸 州 を設 け る こ とには反 対 す る と公 的 に表 明 した。91)確 か に政 府与 党 AFPFLが カ レン人 に独 立 した 「州」 の地 位 さえ与 え なか った こ とは,AFPFL の 「最 大 の失 敗」92)で あ った。 46年10月以降 ア ウ ソサ ン行政 評 議 会 の メ ンバ ー として AFPFL に協 力 し て き た ソ ー ・バ ウ -ヂ -は,翌47年3月辞 職 した。 代 わ って KYOの マ ン ・バ カイ ソが その ポ ス トを占め た。93) KNU が AFPFL か ら脱 退 して野党 化 した こ との波 紋 は, 単 に選 挙 の ボ イ コ ッ トだ け に と ど ま らなか った。 カ レソ人 たちは, ビル マ人 の人 民義 勇軍 (PVO)に匹 敵 す るよ うな軍 事組 織 の結 成 に と りか か ったの で あ る。 こ うして, 1947年9月 「カ レン民族 防衛 組織」 (Karen Na-tionalDefenceOrganization)が登 場 す る94)こ とに な る。この当時 の カ レン人 の組織 と人 とを図示 す る と, 次 の よ うにな る。 (1) 組 織 の変遷
KCO KNU→KNDO
(k913i
〉
てT,SP
,- K"Uく '19,73'→L114L7I (1947) (1949) (2) 人 KNU - ソー ・バ ウ-ヂ - (委 員長 ) KYO- ソ- ・サ ンボ ウテ ィン (議 長 ) タ - トウ師 (書 記長 ) マ ン ・ウ ィンマ ウ ソ (副議 長 ) ソー ・サ ンケ- (元K CO議 長) ソー ・タ-デ ィソ ソー ・ノーン′ター ター ムニ L-マ ン ・ジ ェイ ムス ・トゥソア ウ ソ ソ- ・フラペ - (パ オ族 ) ソー ・べ - 1 )-ソー ・フ KNDOー マン ・バ ザ ソ マ ン ・/ミカイ ソ ソー ・ア ウ ン′/i 90) Cady,p・554. 91) Johnstone,p・49・ 92) 矢野陽 「ビルマの政治的不安定 (I)」p・78・ 93) Cady,p・553;マン ・バカイソは,1947年 7月19日アウソサソ将軍等 と共に暗殺 されたO 「ビルマ 百 科辞 典」 第8巻 1963.p.254.94) Cady,p・554;Trager,p・104;Foucar,p・228;Butwell,p・104;JollnStOne,p・49・KNUに軍 事組織をつ くることは,1947年4月23日-24日の大会で決議 されている0 7ラミョウ,pp・374-377・
大野 :ビルマにおけるカレソ民族の独立闘争史 (その1) 1947年9月 の ビル マ新 憲 法 に対 す るカ レン人 の不満 は, もっぱ ら180条 と181条 に集中され た。 憲 法草 案 に規定 され てい る 「カ レン
州
」 の章 は,次 の よ うにな ってい た095) 第 3章 カ レン州 180条 (1) (a)カ レン- -州
9
6
)
,(
b
)
サ ル ウ ィソ県 , お よUIc)大統 領 に よ って任 命 され た特 別 委 員会 に よ って定 め られ る 「カ レン人居住 の 周辺諸地 域 」 は, この3地 区 の住 民 な らびにそ れ以外 の地 に住 む カ レン人 の多数 が希 望 す るな らば, シ ャン州 と全 く同 じ資格 で 「カ レン 州」とい う名 の ビル マ連 邦 構 成要 素 の一 つ とな り得 る。 (2) 前 項 の 「多数 の要 望 」 を確認 す る方法 は, ビル マ の法 律 に規 定 され た形 に依 る。 181条 前 条 に基 づ い て構 成 され る 「カ レン州」
が設 置 され るまで, サ ル ウ ィソ県 お よび大統 領 に よ って任命 され た特 別委 員会 に よ って決 め られ る 「カ レン人 居住 の周辺 訊地域 」 は, 吹 の諸 項 を条 件 として 「コー トゥー レ-」 とい う名 の特 別地 区 とす る。 (1) カ レソ人 を代 表 す る下院 議 員 す べ てが , 「カ レン事 務評 議 会」
を構 成 す る。 評 議 会 は, カ レン人 を代 表 す る5名 以 内 の上院 議 員 を新 たに受 け入 れ る もの とす る。 (2) 連 邦政 府 閣僚 の一 人が ,カ レン事 務評 議会 との協 議 に基 づ い て行動 す る 「カ レン事 務相 」 に就 任 す る。 カ レン事 務相 は, カ L,ソ人 を代 表 す る同会議 員の中 か ら,総 理 大 臣 の指 名 に 基 づ い て大統 領 に よ って任 命 され る。 (3) 連 邦政 府 に従 属 す る権 限。 (i) コー ト ,}- レ-の公 務 員 の募 集 ,採 用,配 17;:, 異動 ,訓 練 等 に関 す る一 切 を含 む コ ー トゥ- レ-特 別地 区 の一 般 行政. (ii) カ レン人 の学校 お よび文 化 施設 に関 す る一 切。 (iii) 憲 法 の下 にお け る 「カ レン人 の特殊 な権利 」 に関 す る一切。 (4) カ レン事 務評 議 会 は, 大 臣 の任 務 を助 け, 助 言 す る。 (5) 評 議会 員が 国会 議 員 の地 位 を失 った場 合 は, 同時 に評 議 会 貝 と しての資格 も無効 に な る。 ただ し, 後 継 者 の選 出が行 なわ れ るまで は業 務 の遂 行 を可能 な らしめ る。 (6) 憲法 の規 定 を条 件 と して, 大 臣 お よび評議 会 の権 限 と義 務 に関 す る一 切 の事 柄 ,大 臣 と 評 議会 相互 間 な らび にそれ らと連 邦政 府 との関係 に関 す る一切 は法 律 に よ って定 め られ る。 KNU は, この両 条項 に強 い不満 を示 し, テナ セ リム全 管 区 を含 む 「カ レン ・モ ン独立 国」 の建 国 を打 ち出 したぐ
、
97) イ ン ド回教 徒 の た糾 こ 「パ キ ス タ ン」が建 国 され るの に, カ レン人 に は なぜ 「国家 」 が与 え られ ない のか981とい う憤憶 が 底流 にあ った。 りt,-) 13urma 良 the Tnsurrections・pp・2(,-28・なお,矢野暢 丁タイ ・ビルマ現代政治史研究_rl史料集纂 pp・217-220 参照. 9(,) カレンニ-州の住民連は,カレン州-の併合を好まず (lq49年2月24日付 ビルマ字紙 トゥ- リヤ), 1951年の憲法改正によって 「カヤ-州
Jを形成 したぐ :ビルマ百科辞典 (ビルマ文)第1巻 (1954) 「カヤ-州」の項〕 97) Trager,p・104. 9S) Desai,p・286・ 379東南アジア研究 7巻3号 1948年 1月4日, ビル マは独 立 した。 ビル マ人 に とってそれ は勝利 の フ ァン フ ァー レで あ っ たが, カ レン人 に とっては葬 送 の鐘 の音 に聞 こえた。99)KNU は独立 式典 をボイ コ ッ トし, 同 年 5月 5日を カ レンの独立記念 日 と定 め た。100)同年 2月11日, カ レン全 国大会 が開 かれ, (1)カ レン州の即時設 置,(2)カ レン ・ビル マの対等 性,(3)民族 的対立 の解 消,(4)内戦 の 回避 の4項 が 決議 され た0101) 4月6日,政 府 は憲法第 181条 に基 づ き 「コー トゥ- レ-州境委 員会 」 を組織 して 「サ ル ウ ィソ県 周辺地域 」 の確定 に と りかか った。 そ こは 「カ レン特 別地 区」 の予定地域 で あ り,住民 の80% は カ レン人 で あ った。 この カ レン州 の面積 と州境 を確 定 す る ことは, ビル マ人が与 え よ うとしてい る もの とカ レン人 が要 求 してい る もの とのバ ラ ンス を とる102)ことで も あ った。 V K N D O の 内 乱 カ レン政 府設立 の動 きは, パ ープ ソで始 ま った。103)誠 意 の見 られぬ連邦政 府 を相 手 に, 自分 達 の要求 を貫徹 す るには,実 力 に訴 え る以外 に ない とい う気拝 が, カ レン人 を行動 に跨 み き ら せ た。 こ うして, 1948年8月30日にはモ ール メイ ンが,翌31日には, タ トンが, カ レン反 乱軍 に 占領 され た0104)そ して モール メイ ンでは 5億 5千万 ル ビ-の国庫 金が カ レン反乱軍 の手 に渡 った。105)辛 -ル メイ ンは ラ ングー ン-の第 2の港 で あ り, ビル マ第3の都 会 で もあ ったか ら, カ レンが政 府 に圧 力 をかけ るには絶 好 の場所 で あ った。106) 9月12日には, その連鎖反応 として タ ウ ング-県 の シ ュ-ヂ ソ とチ ャウヂ -が,KNDO の支配 下 に入 った。107) けれ ども, この当 時 の カ レンの 「実 力行使 」 は,KNU 本 部 の指 令 に基 づ くものでは な く,地 方 的段 階 におけ る 散発 的行動 にす ぎなか った と言 え る。 中央 では ソー ・バ ウ-ヂ -, ソー ・ターデ ィソ, ソ- ・ サ ンボ ウテ ィン等 の カ レン族 指 導者達 が平和 的解 決 に努 力 した。108)モ ール メイ ンは無事 政府 に 返還 され, い ったん カ レン人 の手 に渡 った国庫金 もその 内4億 5千万 ル ピーが返済 され た。109) カ レン人連 邦軍警 察 は, チ ャー ドゥ旅 団長 (カ レン人) の勧 告 に よって, 正常 な任 務 に復帰 す るよ う説 得 され た。110) 政府 は10月5日 「地域 自治調査委 員会 」 を組 織 し{ 111), カ レソ ・モ ン両 民族 の 自治 問題 の解
99) Lonsdale,p・8・ 100) Trager,p・104・
101) 1963年7月 5日付の KNU中央委員会からビルマ革命評議会あての書簡0 102) Lonsdale,p.9・
103) Tinker(1961),p・37・
104) 1948年9月4日付 ビルマ字紙 「トゥ- リヤ
」
105) Lonsdale,p・11・106) Lonsdale,p・11・
107) 1948年9月15日付 ビルマ字紙 「トク-1)ヤ」
108) 1948年9月5日付 ビルマ字紙 「トゥ-リヤ」 109) Lonsdale,p・11・
110) Tinker,p・37・
111) 1948年10月9日付 ビルマ字紙 「ミャソマ ・ア リソ」 380
大野 :ビルマにおけるカレン民族の独立闘争史 (その1) 決 に積 極 的姿 勢 を示 した。 28人 の委 員 中,6人 は カ レン人 の代 表 で あ った。112)その6人 の顔 ぶ れ は, 次 の通 り113)で あ る。