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生涯学習のパイオニアとしての井上円了 : 二七年間の全国巡回講演 利用統計を見る

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生涯学習のパイオニアとしての井上円了 : 二七年

間の全国巡回講演

著者名(日)

三浦 節夫

雑誌名

井上円了センター年報

8

ページ

69-98

発行年

1999-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002693/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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生涯学習のハイオニアとしての井上円了

二七年間の全国巡回講演

三浦節夫・§§ミ

一 知られざる。ハイオニア  先日、生涯学習に関する調査・研究の日本を代表する研究所を訪問したのですが、その責任者の方が現在の生 涯学習のパイオニアとして挙げたのは、早稲田大学の大隈重信と、もう一人は歴史的に知られていない人でし た。この二人と比較すると、哲学館講義録を発行して教育の開放に取り組み、さらに全国を対象とし社会教育の ために各地を巡回して講演した井上円了︵以下、円了という︶も、その活動の質と量からみてやはり先駆者とし て挙げられなければならない人物と思っていました。円了は学校教育の他に、社会教育、現在の生涯学習を提唱 し、六一歳の生涯のおよそ半分にあたる年月を生涯学習の推進にあてて運動や活動をしたのですが、そういう円 了の歴史的な業績が社会的にまったく認知されていないということを、そのときに改めて知らされました。  そういう状況のなかに、今度、﹃井上円了選集﹄の第一二巻から第一五巻が刊行されました。この四巻は円了 の社会教育・生涯学習運動のための全国巡回講演︵以下、全国巡講という︶の活動記録です。このなかには、日記 形式の記録である﹁館主巡回日記﹂、﹃南船北馬集﹄、未公刊の原稿などがすべて収録されました。また、新たに 県別の地名索引や地図も作成されて、円了の足跡を十分に知ることができるようになりました。私はその第一五 69 生涯学習のパイオニアとしての井上円r

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巻に﹁解説−井上円了の全国巡講﹂を書く機会を与えられて、円了の運動の全体像をとらえるように試みました が、円了の全国巡講に関するこれまでの研究は、それほど多くはなく着手されたばかりと言ってもよい段階でし たので、この解説では巡講の日数、市町村数、講演会の状況︵主催者、会場、演題、寄付金︶などの基礎資料を統 計データにまとめ、その上で歴史的な検討を行いました。ですから、詳しいことはそちらを参照していただくこ とにして、ここでは円了の全国巡講のいくつかのポイントを中心に述べてみたいと思います。 70 一」 坙{の近代化と円了の問題意識  円了は幕末の安政五二八五八︶年に、現在の新潟県越路町の真宗大谷派の寺の後継者に生まれ、住職である 父から宗門的教育を受け、その後に塾などで漢学を学び、維新以後に長岡洋学校の後身で洋学を学び、それから 京都の本山に新設された教師教校の学生に選抜され、さらに本山から留学生として設立間もない東京大学に派遣 され、予備門を経て文学部哲学科で学びました。円了は大学卒業の時点で二七歳でしたから、決して若い学生で はありませんでしたが、一年先輩の三宅雪嶺は明治二〇年前後、つまり大学卒業前後の円了の活動をつぎのよう に語っています。  ﹁井上氏は明治十八年二十八歳の時に大学卒業で、在学当時には学生中の年とりであり、又老巧者であった。 他の者は純粋の書生であったが、氏は世間馴れていた。⋮⋮比較的年を老ってからの卒業なるに拘わらず、卒業 と共に人一倍の働きが出来た。否数倍の働きである。在学中にも既に哲学会設立に努め、卒業後直ちに﹃仏教活 論﹄の著作に従事し、次いで哲学館を設け、哲学書院を設け、雑誌﹃日本人﹄の発刊に関係した。かくて一方 ﹃仏教活論﹄等の著作をなし純粋の学者として立たんとしつつ、また一方仏教を一新し社会に活動するの意あ

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り、そのいずれに向かうべきか、未だ定まらなかったのである。⋮⋮しかるに﹃仏教活論﹄著作のかたわら哲学 館を起こし、その経営に忙しくなったので、これをもっぱらにする事が不可能となった。しかし哲学館は世間有 触れの学校のごときを造ろうとするのでなく、それによって大いに思想界に貢献し、当代及び将来の文明に益せ んとするにあった。故に間もなく欧米視察に出掛ける事とはなった。これ氏において元気の最も盛んなる時と見 るべきである。すなわち在学中充分に火薬を填め、卒業後弾丸を発射したもので、明治二十一、二年および爾後 の数年間は何者もよくこれを防ぐ能はざる勢いであった。﹂︵引用文を現代表記とした。以下同じ︶  少し長くなりましたが、当時の円了をよく描写していると思います。この中に円了の人物批評が含まれてお り、円了を﹁世間馴れしていた﹂と捉えていますが、雪嶺のような見方が以前の円了研究のべースにもありまし た。雪嶺的な見方からすれば、円了はその枠組みからはみ出ていたように思われます。  円了は雪嶺の言うように、大学卒業の前後に、哲学会の創立︵明治一七年︶、哲学や仏教などの著作︵一七∼二 一年︶、哲学書院の設立︵二〇年︶、現在の東洋大学の起源にあたる哲学館の創立︵二〇年︶、政教社の運動に参画 し雑誌﹃日本人﹄の創刊︵二一年︶にと、矢継ぎ早に行動を起こしています。それには、すでに若き知識人とし て社会的に評価されるようになった円了自身が、日本が抱えている根本的な問題を見る目があったからだと考え られます。  その明治二〇年ごろの日本社会の問題について、福沢諭吉は﹁文明の利器に私なきや﹂の中で、ペリーの来航 にはじまる幕末の開国以来から、哲学館開設の頃までの三〇年間の日本の近代化を取り上げています。福沢はそ の間の変化について、﹁意外の世変を来した﹂のは電信・郵便・鉄道・汽車などの﹁有形物の文明﹂の功であって、 これに対して、同じく西洋を起源とする学問、教育、政治などの﹁無形に属する者﹂はその効果.影響はいまだ 71 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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不十分であると述べています。  国家.社会の有様を有形と無形に分けて見ているわけですが、福沢のこのような見方は、円了にとってもまた 同じでした。円了は﹁余かつて曰く、わが国明治の維新は一半すでに成りて一半いまだ成らず、有形上、器械上 の文明すでにきたりて、無形上、精神上の文明いまだきたらず﹂と述べています。  円了は福沢も指摘した未発達未着手の﹁無形﹂の世界、それは現在でいう精神の世界に該当するのでしょう が、その改革に取り組もうと考えて行動を起こしたのです。これは円了の生涯のテーマになりました。当時の社 会構造などを考えますと、無形の世界とは現在よりはるかに大きく広い対象でした。その改革を根本からすすめ る可能性を持つものとして、円了が考えたものは、大学で学んだ哲学でした。前述の三宅が哲学館の役割を、 ﹁それによって大いに思想界に貢献し、当代及び将来の文明に益せんとするにあった﹂と言っている通りでした。 文明開化を無形から有形の世界へと及ぼそうとしたものでした。  この時期の円了の活動は、一口には﹁啓蒙家﹂と言われていますが、学者、著述家、教育者と、いろいろに捉 えることができるような状態で、それだけ未分化な状況だったと見られます。その状況を根本的に規定するよう になったのが、二一年から二二年までの一年閲を費やして行われた世界視察でした。  欧米先進諸国の社会の実況は、円了にとって﹁日本に安坐して想像するとは大いに差異なるもの﹂でした。そ のため、日本と世界の関係を重ね合わせて、新たに練った構想が、日本の独立と発展を目指した大学設立でし た。帰国直後の明治二二年八月にその趣意を﹁哲学館将来ノ目的﹂として発表いたします。その目的とは、日本 国の独立、日本人の独立、日本学の独立を促進するために、哲学館をその原基となる﹁独立の精神﹂を養成する 日本主義の大学へと発展させることでした。この構想の背景には、欧米先進諸国から不平等条約を強いられてき 72

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た日本をいかにして完全な独立へと発展させるかという問題意識がありました。 三 全国巡講のはじまリー勝海舟との出会いー  帰国後に、円了は決断してそれまでの間借りの仮校舎を独立させて、哲学館の新築へと向かったわけです。哲 学館の大学への発展に向けて、本郷区蓬莱町の借地に新校舎を建築したのですが、その予算は五〇〇〇円余で、 講堂︵校舎︶一棟、寄宿舎一棟、館主の住宅一棟の建設が、九月の授業開始に間に合うように急ピッチで進めら れたのです。  前述の大学設立の趣意書は、創立寄附金を募るために有識者に配布されたのですが、このことのなかで、後に 哲学館の三恩人と呼ばれる勝海舟との知遇を得ます。円了と海舟を結びつけるもう一つの関係は、円了の結婚の 仲人が目賀田種太郎.逸夫妻ということでした。逸は海舟の娘で、また大蔵官僚であった娘婿の種太郎は海舟の お気に入りの人物でしたが、円了と海舟の関係ができる直接のきっかけは大学設立の趣意書でした。円了がはじ めて海舟に会った日は、﹃海舟日記﹄によれば明治二二年の九月四日です。海舟には福沢諭吉、新島裏、これに 円了を加えた日本の私学創設者たちとの接点があります。私はこのことを﹁勝海舟と井上円了ー勝海舟と福沢諭 吉、新島裏との関係と対比させてー﹂として別にまとめておりますので、詳しいことはそちらに譲りますが、円 了の全国巡講のはじまりに、海舟が深くかかわっているのです。  さて、新校舎の工事は、九月上旬に九分通りが出来上がり、その完成が待たれておりました。しかし、その直 後の一一日に、各地に甚大な被害をもたらした暴風雨が発生して、哲学館の新校舎は完全に倒壊してしまいま す。円了は、そのころ京都を遊説中でした。二三年の国会開設・憲法施行を目前にして、仏教公認教運動のため 73 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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に活動していたのです。暴風雨によって、交通機関︵東海道線︶なども全国的な被害を受けていて、なんとか汽 船で東京に戻り、再建工事に着手できたのは、事件の発生から九日目のことでした。それによって、校舎は一〇 月三一日に竣工し、一一月一日より新校舎での授業が開始されるようになり、一一月二二日には﹁哲学館移転 式﹂が関係者を招いて行われました。  完成間際の新校舎の倒壊という事件は、比較的順調な歩みをしてきた円了にとって、はじめての大きな試練と なりましたが、このとき館主の円了を支援・激励したのが海舟でした。哲学館の大学設立という新しい計画に賛 同した海舟は、即金で一〇〇円を寄付し、またさきの移転式を記念して鎌倉期に制作された文殊菩薩の仏像など を寄贈しています。  しかし、哲学館の館主である円了には、実質的に二回にわたった建築費が大きな負債となって残りました。も ともと、哲学館は他の私学と違って、政財界の有力者や宗教教団の直接の支援を得て設立された学校ではなく、 円了がそういうひも付きを避けて﹁独立自活の精神﹂を掲げて、個人からの寄付を募って創立されたものでし た。円了は、﹁︵哲学館は︶もとより無資本にして、他の団体の保護や援助を受けず、全く有志の一時の寄付、す なわち二八〇人の賛成者、七八〇円の寄附金に基づいている﹂と言っております。これに授業料を加えた方法で 設立・運営された哲学館にとって、さきの災害が大きな問題として残り、円了の肩に大きくのし掛かかってきた のは必然的なことでした。  ﹃東洋大学百年史﹄通史編1には、当時、﹁創立費および新築費として哲学館に寄せられた寄付金の合計は、三 二二三円三五銭であった。この寄付金は、そのすべてが創立費および新築費として充用された。しかしながら、 校舎の建築および諸費だけですでに四千数百円にのぼったので、不足分は哲学館の負債として残ることになっ 74

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表1 ﹁海舟日記と円了﹂ 海 舟 日 記 22・9・4 井上円了。

1111109

97327

       25   24      23

96411074121095411

19231219542820161681021

井上円了、哲学院︹館︺へ百円寄附。 井上円了、山県の事二付き内話。 円了方へ一封認め遣わす。 井上円了、十三日、哲学館開業の旨、 仏像、金子十五円寄附。 井上円了、種々談。 井上円了。 ○井上円了。 井上円了。 井上円了、哲学館寄附金の事。 井上円了。 井上円了。 井上円了。 井上円了。 井上円了。 井上円了。 井上円了。 井上円了。 古 円了・哲学館の事績

8月

109

3111

︵20・9に哲学館創立。海外視察後︶﹁日本主 義ノ大学﹂設立計画と新校舎建設着工 暴風雨により落成間近の新校舎倒壊 新校舎落成 11 E13 哲学館移転式︵新校舎落成開館式︶ 7・21 円了、海舟宛に書簡を送る 9月  ﹁哲学館二専門科ヲ設クル趣意﹂発表 10・10 専門科開設資金募集のための全国巡回を広告 11 E2∼全国巡講に出発。12・15に帰京

1・31∼4・1巡講

5・H∼6・19巡講

7・17∼9・6巡講

1・21∼3・6巡講

4・5∼4・9巡講

4・20∼6・2巡講

7・19∼9・4巡講

75 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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た﹂と書かれています。このような窮状に陥った円了に対して、力を与えたのが海舟でした。円了が赤坂・氷川 町の海舟邸を訪ねた日を、 ﹃海舟日記﹄の中からまとめたのが、﹁海舟日記と円了﹂︵表1︶の表ですが、新校舎 での哲学館移転式から半年あまりたった二三年七月二一日に、円了は海舟に書簡でつぎのように哲学館の窮状を 訴えています。  ﹁先般御願い申上げ候、宮内省御下賜金の儀は、目下むつかしき趣き拝承仕り候。然るに哲学館も現今の処、 維持法相立ち申さず候に付き、今秋より資金募集に着手仕り度く、その方法に付き色々愚考相運び候えども、別 に良き手段これなく候。﹂  ﹁海舟日記と円了﹂の表のように、この書簡の前後に、円了は海舟に会っています。二三年では、四月一〇日、 五月八日、七月二一日︵書簡送付︶、九月一六日です。そして、円了は九月に﹁哲学館二専門科ヲ設クル趣意﹂、 つまり大学への具体的計画を発表しています。その上で、書簡の哲学館の維持法や資金募集への対応策が、哲学 館の一〇月一〇日発行の機関誌﹃天則﹄に、専門科開設資金募集のための館主全国巡回として広告されていま す。これが、円了が生涯の半分を費やして展開された全国巡講のはじまりです。  この広告から六日後の、一〇月一六日の﹃海舟日記﹄に、﹁井上円了、哲学館寄附金の事﹂と記されています。 いつもは円了の名前だけしか記されない日記に、わざわざ﹁哲学館寄附金の事﹂と書かれています。ですから、 円了の全国巡講は、数度にわたる海舟との会談において練られたものだったと考えられるのです。それが円了の 提案なのか、海舟の助言なのか、あるいは両者の協議から生まれたものなのか、それを語る資料は、残念ながら 現在のところ見出されていません。  しかし、円了が海舟に助言を求めたことは、前述の書簡から知ることができます。当初、円了が考えていた哲 76

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学館の経営危機の打開策は、全国巡講方式ではありませんでした。書簡と﹁明治二四年度哲学館報告﹂を関連さ せて考えますと、つぎのように推測されます。  まず、円了の寄付金の募集の計画は、創立時のように雑誌・新聞によって行う考えだったと思われます。当時 の海舟は枢密顧問官︵明治一=年から︶をしていましたので、そのために円了は﹁宮内省御下賜金﹂が哲学館に くだされるように、海舟に推薦を依頼していたのです。それは断られますが、なぜそれが必要だったのかと言え ば、この時点で哲学館への募金は再度三度となっていましたから、慶応義塾や国学院のように﹁宮内省御下賜 金﹂をいただければ、新たにより広く哲学館への賛助が寄せられると、円了は考えたのではないかと推測される のです。  しかし、御下賜金のことを断った海舟は、このような円了の計画に対して反対だったのではないかと思いま す。具体的な資料はありませんが、海舟と同志社の新島裏とのはじめての対談に関することが残っていて、その ことから海舟の返事を考えますと、円了についても、海舟は厳しく対応したのではないかと考えられます。哲学 館を危機から守り、さらに発展させようとするのが円了の立場でした。しかしそれは、本来的に考えれば、あく までも手段にしかすぎません。危機のときには、目的と手段の関係が逆転してしまうことが起こります。海舟は それを本来の目的に戻したのではないでしょうか。ですから、円了は単なる哲学館の資金募集に止どめず、日本 の近代化を進めるために、教育・学術・宗教などについて全国各地で講演を行う社会教育・社会啓蒙にしたいと 考えたのではないでしょうか。危機をチャンスにし、再び発想を逆転させて、その上で出されたのが、円了自身 が全国を巡回する方法だったと考えられるのです。  前述の機関誌の広告によれば、円了の全国巡回の計画は、﹁今般当館資金募集に付き有志勧誘のため、本月下 77 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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旬より館主東海道筋へ出張﹂とあり、﹁なお館主出張は一年間にて全国巡回の予定⋮:二月より四国・九州へ巡 回、三月より中国筋、五月より北国筋、七月より奥羽北海道地方への巡回のはずに候なり﹂と、年間予定が付記 されています。この広告に並んで、館主・井上円了の挨拶文が掲載され、静岡から三重までの東海道筋の五県下 の巡回への協力依頼を述べられ、そこに﹁また学術・教育・宗教に関し講義演説等御依頼の節は小生応分の御助 力可申候﹂と書き添えられています。  この一〇月の広告では出発を﹁本月下旬﹂と書いていますが、第一回は翌二月二日の出発で、それから一二 月五日までの四四日間の巡講でした。そして、帰京から五日後の一二月二〇日に、円了は赤坂・氷川町の海舟邸 を訪れています。巡講の結果を伝え、また各地の民情を報告したものと思います。﹁海舟日記と円了﹂の表を見 てもらうと分かりますが、円了は全国巡講の出発の前か、帰京の後か、必ずそのどちらかで海舟に会っていま す。このことから、円了の巡講を陰で支えたのが海舟であったと言えるわけです。  こうして円了は全国各地に赴いて講演活動を展開したわけですが、文末の﹁年別巡講日程日数﹂︵表2︶の表 のように、講演日数を数えてみますと、明治二一二年は一一月から四四日、二四年は一年間に一五三日、二五年も 一年間に一五四日、二六年は二月までに三九日でした。東京では必要な学校の校務を集中的にこなし、それぞれ の年に半年近い日々を巡講に費やしているのです。これが円了の全国巡講の第一回になったのですが、当初はそ れを一年かけて行う予定でした。しかし、実際には北から南にいたる三二県︵東京から近い関東、甲信越、北陸は 残された︶を巡回するのに足かけ四年かかりました。合計で三九〇日、一年一か月です。円了の﹁館主巡回日 記﹂にその日の行動が記されていますが、出発から帰京まで休日なしで講演が行われていることが分かります。 その日記には会場や講演テーマがありますが、それをまとめてみますと、初期の巡講の会場は半数余が寺院で、 78

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ついで学校でした。そして、講演・演説のテーマは教育がもっとも多く四二%、他はすべて二〇%未満で、仏教、 学術、宗教、哲学の順になります。目的の一つであった哲学館の募金に関する直接の演題は﹁哲学館旨趣﹂でし たが、これのみを行ったのは六%ですから、円了は初期の巡講から社会教育を意図し、また各地でもそれをもと められたと考えられます。  さきの日記の他に、円了自身が﹃哲学早わかり﹄という著書の中に、この巡講の模様を記しています。あると ころでは満堂の聴衆を相手にしたかと思えば、別のところではあまりに聴衆が少なく、 ﹁柱を相手に講演した﹂ と書いています。各地の人々は当時珍しかった学士の円了を﹁東京よりくる哲学・宗教の大家﹂として迎えまし たが、哲学という言葉自身が定着していない状況下では誤解も多かったと述べています。こうした円了自身が残 した記録以外に、巡講を円了の関係者がどのようにみていたのか、それを伝えている資料はあまりありません が、当時の学生である菊池久吉が思い出としてつぎのように書いています。  ﹁先生は時々﹃口をもって伝えないで身をもって導く﹄という意味の事を語られた。学校の資金募集のために 旅行がちな先生が、日に焼けてやや旅やつれのした体を教壇上に運ばれて、極めて飾気のない旅行談をなさると き、私どもは旅行談以外の強い感銘を与えられずにはおられなかった。﹂  この﹁口をもって伝えないで身をもって導く﹂ということが円了の巡講と資金募集の基本姿勢でした。では、 哲学館への募金の方はどうだったのかと言えば、これほどの困難な方法を選んだ割には、期待したほどの大きな 成果は得られなかったのです。円了の初期の巡講を支えたのは哲学館で学んだ館内員、そして講義録を購読した 館外員などでした。とくに哲学館の講義録は法律系の私学以外でははじめてのもので、通学する館内員は明治二 二年=月の時点で四〇四名であるのに対して、館外員は二一年には一八三一名と館内員の四倍以上に達し、県 79 生涯4習のパイオニアとしての井上円了

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別にはその人数にやや偏りが見られましたが、その分布はすでに全国的規模になっていましたから、円了を現地 で迎え入れる基盤となったようです。  ところで、円了は巡講を行うにあたり、寄付者に対する新たな制度を設け、また各地方に募金を勧誘する﹁委 員﹂を置いて、哲学館への協力者の獲得を目指していたのです。しかし、﹃哲学館専門科廿四年度報告﹄1それ は当初から二四年一〇月までの一年間の募金状況の報告にあたりますが、この間に一九七日をかけて一八県・一 一九か所で四四〇回の講演を行った成果としては、六七六円余の寄付金でした。巡講による募金は予約金は多い のですが、実際の納金はその三分の一という状況でした。創立期の新聞・雑誌を媒体とする募金が最終的に四〇 〇人から三千数百円であったことと比べてみれば、円了がさきの報告書の題言に﹁全国の有志諸君に泣請する﹂ と、記さざるを得ないような結果でした。このような結果にもかかわらず、円了の巡講が継続されたのは社会教 育としての目的意識に支えられていたからでしょう。そして、第一回の巡講では最終的に三五〇九円の寄付が寄 せられました。 80 四 全国巡講の原型  すでに紹介したように、明治二三年=月に始まった第一回の全国巡講は、二六年二月までの三九〇日間に及 び、三二県、三六市・三区・二三〇町村で講演演説が行われました。その後、円了は校務に専念して学科改正に 取り組み、大学設立のための専門科の開設を進めるわけですが、この間に刊行されたものが、円了の代表的著作 の一つと言われる﹃妖怪学講義﹄です。この﹃妖怪学講義﹄は哲学館講義録第七学年度の講義録として出版され たものですが、時期は同年一一月からでした。ということは、巡講はこの年の二月まででしたから、その終了か

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ら九か月後に出されたものなのです。そのため、円了の全国巡講が﹃妖怪学講義﹄を生み出したと考えられるの です。従来、﹃妖怪学講義﹄の出版は東京大学在学中の﹁不思議研究会﹂との関連で説明されています。確かに、 端緒やその研究や当初の著作はそういう関心に導かれたものと言えますが、﹁不思議研究﹂から﹁妖怪学研究﹂ への転換に、全国巡講が大きな役割を果たしているのです。円了は全国巡講によって、当時の日本各地の実状を 知って、近代にふさわしい社会へと改革する必要性を感じるとともに、その問題を解決するものとして当時の民 衆を支配していた迷信・妖怪の打破に取り組んだものと考えられるのです。﹃妖怪学講義﹄を読みますと、巡講で 得た各地の迷信・妖怪に関する情報などもデータとして用いられていますが、円了の全国巡講は、このように彼 自身の問題意識を発展させる役割を果たすものともなりました。  この二六年に続いて、円了は二七年と二八年に巡講を行っていません。この間に進められたのが哲学館を大学 にするための仕事でした。そして明治二九年一月に、円了は﹁哲学館東洋大学科井東洋図書館新築費募集広告﹂ を新機関誌﹃東洋哲学﹄の同年三月号に発表します。このとき、現在の白山キャンパスを大学用地として購入す るわけです。そのため新築費を新たに募集するわけですが、この募金活動には、七四歳になった海舟が﹁高齢な るにも拘らず老腕を揮い毎日若干紙を認め﹂という形で、本格的な支援を申し出ています。娘の逸によれば、海 舟はこの行為を﹁陰ながらの筆奉公﹂と呼んでいたそうです。海舟の揮毫は寄付金額、五円、一〇円、一五円、 二〇円、五〇円、一〇〇円とそれぞれに応じ、郵送方式でも受け付けられました。この頃の海舟は﹁明治二十六 年十月、眼くもり、筆を執る能わず﹂﹁二十七年一月十日夜、眩量を発し、手足麻痺、中風に類す、薬効を奏し、 三月下旬に至って軽快﹂﹁二十八年八月以来臥病、ほとんど死期の来るごとし、十二月になって病治り気力回復﹂ と日記にあるように、健康状態は決してよくなかったのです。 81 生涯学習のパイオ;アとしての井上円’r

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 二九年三月、円了は従来のように、全国縦断の巡講方式を改め、今度は一県下を細かく巡講することに転換し て、その第一歩として長野県に出発しています。これが円了の第二回の全国巡講のはじまりでした。﹃勝海舟全 集﹄にある信州の現地から海舟の執事に宛てた円了の三月三〇日付けの書簡には、信州各郡を巡講したところ、 揮毫を切望する人が多く、すでに一〇〇余円の寄付が集まり、持参してきた二、三〇枚の書はほとんどなくな り、御願いしていたものとまた新たに使いの者に持参させた用紙にも御揮毫いただきたくと、円了は書いていま す︵この書簡は同全集では二四年として判断されていますが、﹁巡回日記﹂と照合しますと、二九年が正しいと考えられ ます︶。この年の巡講は三月から五月までの四九日間と少ないものでしたが、前述のような海舟の尽力もあって、 新築寄付金は=二七五円と飛躍的に増加しています。  ところが、こうして新たな飛躍へと歩み出した哲学館は、この年に再び災難に遭遇します。一二月一三日夜 に、哲学館の構内にあった郁文館ー1円了の先輩の棚橋一郎が設立した中学校ですが、この学校からの失火でし た。哲学館はこのときの類焼により、講堂︵教室︶一棟と寄宿舎一棟を失います。免れたのは館主の自宅だけで した。  この事態を受けて、円了はすでに購入していた小石川区原町に新校舎を新築するわけです。新校舎の建設は三 〇年四月にはじまり、教場、生徒控室、事務室および土蔵の施設が七月に完成しています。そして、円了は=二 年からまた全国巡講を継続するのですが、三二年一月に、哲学館の発展に支援を惜しまなかった海舟は狭心症で 逝去します。この以後、海舟に代わって、寄付への御礼として円了が自ら揮毫をするようになります。これによ って現在も各地に残されている円了の書が誕生するわけです。  円了が講演の他に、揮毫をするようになったのは、資料によれば三二年六月からです。それまでの円了は、哲 82

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学館の創立に際して愛好していたものを断って禁酒・禁煙の二禁とし、この全国巡講をはじめたときに、これに 断筆を加えて揮毫しないことを決め、自ら﹁三禁居士﹂と称していました。その当時の円了の書がどの程度のも のであったのか、高嶋米峰の回想にはこう書いてあります。  先生が﹁︵二九年六月八日に︶文学博士の学位を得られたとき、私共当時、学校の寄宿舎におりました数人のも のが、祝賀の文を差し上げたのでありました。そのとき、先生は非常に喜ばれて、禁筆中ではあるが、特に君等 のために、半折一枚ずつ書いてやろうと言って、東洋大学設立趣旨之詩と題する七言絶句を書いて頂きました。 その関防には、禁筆中という、粗末な印が押されておるのでありますが、これが先生の揮毫と称するものの最初 でありましょうか、誠に稚拙を極めたものでありますが、それから段々揮毫せられるようになりまして、晩年 は、書道においても一新機軸を出し、単なる書家としても、立派な立場を得られたのであ﹂ります。  円了の書については、あまり知られておりませんので、ここで紹介いたしましたが、話を元に戻します。  さきほど申し上げましたように、円了は全国での講演のときに、あわせて揮毫を行うようになったのですが、 そのことについては、三二年六月に哲学館事務所が定めた﹁館主巡回及招聰心得﹂︵﹃妖怪学雑誌﹄三一二年六月一〇 日号︶があります。これは各地の有志などからの問い合わせに答えるために巡講の要点をまとめたものです。そ れを簡単に列記しますと、  ﹁有志の依頼に応じて学術演説・講義を行う﹂  ﹁演説・講義の時間は二時間以内とする﹂  ﹁演説・講義への謝儀は哲学館の基本金とする﹂  ﹁滞在費はなるべく地方の負担を希望する﹂ 83 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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 ﹁館主は諸事倹約主義であるから、饗応待遇などは謝絶する﹂  ﹁やむなく懇親会開会の場合は茶菓のみとする﹂  ﹁巡回は大抵同伴者一名あり、巡回中、午前は次の地方への移動時間とし、午後は演説講義の時間、夜は揮毫  の時間とする﹂  ﹁巡回の日程は各地調整の上、一週間前に通知する﹂  ﹁今回から新築費募集についての支援者・協力者に本人の希望に応じて記念として揮毫を贈呈する﹂ 以上のように定めています。そして、揮毫の内規は、寄付金五〇銭以上、一円以上、二∼三円以上に分かれてい ます。しかし、これはあくまでも﹁支援者・協力者の本人の希望﹂に応じる形で始められたのです。こうして揮 毫のことも含めて、今日知られている円了の全国巡講の原型ができます。三一年からはじまる第二回の全国巡講 は三五年まで五年間にわたりますが、円了自身によって残されている巡講の膨大な日誌形式の記録には、二九年 から三三年までの二二九日分は残念ながら、日程と巡講先をまとめたものしか作成されていませんので、その詳 細は分かりません。ただ、前回の全国縦断も合わせて、各地の村や町を回る巡講が困難であったことを、円了は 哲学館の講師をしていた島地大等に、こう語っています。  ﹁殊に山奥の田舎の車馬も通ぜざる辺鄙の人々へも、教育勅語の思召を徹底させようと思えば、車にも乗れぬ、 馬にも乗れぬ、旅宿もなし、食物も小言は言えぬ。先ず大抵は小学校にて話をし、そのままそこで寝泊りし、時 には教室のテーブルを並べてその上に寝るような事もあり、食事等もお話にならぬ有様にて、その間に村長、校 長等より地方の人情風俗をさながらに聞き取るためには、それ等の衣食住に不足がましきことを言うどころでは なく、かつ進んで彼等と併座し、彼等の呑む村膠一杯をも共にし、彼等の喫する手製の莫をも喫せざる可らず。 84

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かくして始めて漫遊の目的を達するものなることを語られしを聞き、なるほどとうなずいたことがあります。﹂  このようにして円了の社会教育活動は展開されたのですが、巡講日程・日数︵文末の表2参照︶をみますと、三 一年から三五年まで巡回は、春期、秋期など時期しか分からないものを除いても四五二日に達し、寄付金は三二 年からそれまでの一〇〇〇円台から三〇〇〇円以上にと飛躍的に伸びています。その理由は巡講時の講演の他 に、館主自身の揮毫が加わったからです。 五 修身教会運動と全国巡講  円了は明治三五年一一月から翌三六年七月まで、第二回目の海外視察に赴きます。その目的の一つは進めてき た大学設立・運営に関するものでした。もう一つは世界を牽引する欧米を再び見聞して、今後の日本の問題点を 実際の中から学ぶことでした。そのような目的をもって海外へと出発した直後の三五年一二月に、いわゆる﹁哲 学館事件﹂が発生します。この事件は円了の人生を大きく変転とさせたもので、また哲学館を起源とする現在の 東洋大学の歴史をも左右したものですが、この事件の詳細については、﹃井上円了の教育理念﹄﹃東洋大学百年 史﹄通史編1に詳しく述べられていますので、ここでは円了が大学退隠後に、事件についてまとめた文章を紹介 するにとどめたいと思います。  ﹁哲学館事件とは、明治三十五年十二月十三日、文部大臣より、突然、哲学館卒業生無試験検定の認可を取消 すとの厳命を下されたる一事なり。けだしその事たるや、余の洋行不在中に起こりしも、ほのかに聞くところに よるに、同年十一月卒業試験を行うに当り、文部省視学官隈本有尚氏臨監せられ、倫理科第三年級受持講師中島 徳蔵氏が、英人﹁ミュールヘッド﹂氏の倫理書を講本とし、その書中の動機編の一節を批評を加えずして教授し 85 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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たりというを聞き、はなはだ不都合なりとの意見を文部大臣に報告せられたる結果なりという。その処置の当否 如何につきては、はからずも輿論を喚起し、各新聞雑誌の一問題となりたる事なれば、余がここに論ずるを要せ ず。ただその累を、毫も中島講師の教授を受けざるものに及ぼし、八十余名の生徒をして一時に方向を失はしめ たるは、実に遺憾の至りなり。すなわちこれらの生徒は、この事件のために犠牲となりたるものというべし。か つその影響に至りては、哲学館創立以来の大打撃にして、大いに館運の興廃に関係したることなれば、永く紀念 せざるべからず。﹂  三六年の日本の社会問題の一つにまで拡大・発展したこの事件は、哲学館にとっても、円了にとっても、その 存立の意義を問うものでした。事件の核心の一つには日本社会の﹁倫理問題﹂があり、これに対して円了は洋行 中に新たな策を構想します。この構想とは﹁修身教会﹂の設立でした。これは円了、哲学館、日本、世界に関す るさまざまなことを歴史的社会的に検討して立案されたものと考えられます。その基礎にあったものは、円了自 身が二度にわたって行った全国巡講という社会教育活動の経験で、それを発展させたので現在の生涯学習に直結 するような内容になったと考えられます。  明治三六年七月に海外視察から帰国した円了は、その年に制定された専門学校令にもとづき哲学館を哲学館大 学としました。哲学館大学では今後の大学の運営を﹁独立自活の精神﹂によると位置づけ、哲学館事件で問題に なった無試験検定の申請は行わなかったのですが、その代わりに取り組まれたのが洋行中に立案された全国各地 への修身教会の設立でした。帰国から三か月を経た一〇月に、﹁内務大臣及文部大臣両閣下二上ル書﹂を﹃修身 教会設立旨趣﹄に掲載し、事務所を大学内に設置して、この運動は開始されました。﹁修身教会﹂という国民の 倫理.道徳に関する生涯学習運動には、円了自身が世界からみた日本の歴史的社会的な課題、また哲学館の事件 86

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によって傷つけられた威信の回復、円了の私学の創立者としての文部省への対応など、いろいろな要素が含まれ ていたと考えられます。円了は明治三七年一月、さきの旨趣を各府県市町村に配布し、一月一五日から山梨県下 を巡回し、二月には﹃修身教会雑誌﹄を創刊します。こうして円了の全国巡講は、新たな認識に立って、三七年 から三度目の着手がなされたと考えられます。  しかし、円了のこのような構想は東京帝国大学出身の講師たちには理解されず、そのため哲学館大学の関係者 も再び無試験検定の認可の路線を願ったのでした。円了の取った路線︵修身教会の設立の他に、中学校に続いて幼 稚園を設立した︶との本質的な違いが深まり、その対立がやがて顕在化して社会的事件に発展する前に、神経衰 弱症に陥った円了は最大の解決策として学校のすべてから身を引くことを、哲学館事件から三年後の三八年一二 月に決意し、翌三九年から一人の教育者になります。そして、哲学館大学は新たに構成された財団法人の経営と なり、三九年六月に現在の東洋大学と改称されます。  引退後、円了は個人として修身教会運動に取り組みます。その中心拠点となったのが現在の東京都中野区にあ る哲学堂でした。この土地はもともと哲学館の大学移転用地として購入されていたのですが、哲学館事件を経 て、円了引退後、新学長前田慧雲との相談の結果、移転計画は見合わされ、哲学堂は﹁井上円了の退隠所﹂とな ったのです。円了は一二年という長期間の返済計画で、自分の時代に購入したこの土地を、今度は大学から買い 戻すことにしたのです。  さて、円了の提起・実践した修身教会運動については、﹁修身教会設立旨趣﹂に明らかにされています。それは 従来の﹁修身﹂という言葉が示すものを媒介としながら、時代の先端の課題を含むものへと発展させた内容でし た。円了が第二回の欧米視察旅行で痛感したことは、日露戦争をひかえた世界と日本の状況であり、それはまた 87 生涯学習のパイオニアとしての井ヒ円了

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明治維新からの日本の近代化が新たな課題としなければならないことであったからです。それについて、円了は 実際に欧米社会を視察したその知見から、こう述べています。  さきの海外視察から一五年を経て、再び欧米と日本を比較してみると、法制、医術、理科︵技術︶などの分野 は欧米とほぼ並んだが、﹁国勢民力の如何にいたりては、これを英米に比するも、仏独に較ぶるも、はるかにそ の下にあるを見る。﹂その彼我の差は貧富の差であって、それは日本の国民の道義・徳行が欧米に及ばないことに 起因する。教育勅語の説く﹁忠孝﹂は日本のその大本であるが、これまでの説では﹁その忠たるや多くは戦時の 忠にして、平日の忠にあらず、その孝たるや極端の孝にして、通常の孝にあらず、故に国民みな忠孝を知りなが ら、民力を養い国勢を隆んならしむることあたわらず。﹂  こう捉えた円了は、忠孝の意義に、倹約、勉強、忍耐、誠実、信義、博愛、自重などの徳目が含有されている と考え、これを養成することが民力の発展につながると考えました。そして、修身教育が学校教育に限られてい る現状を改め、社会人となってもこれらの道徳を学ぶという家庭教育・社会教育︵実業道徳︶の場として修身教 会の開設を呼びかけたのです。その具体例は西洋の日曜教会がモデルでした。日本の場合では学校と寺院、教育 家と宗教家が協力して各地に会を結成して運動を行い、﹃修身教会雑誌﹄はそのときの講話の題材を提供する、 円了はこのような趣旨とその実際を普及するために、﹁余は自ら全国を周遊し、各地において細説詳述せん﹂と して巡講を行ったのです。  すでに述べたように、円了の全国巡講は時代の状況に対応していて、初期には啓蒙的な社会教化に重点が置か れていましたが、後期の場合には社会人の教育・生涯学習の普及を目的としています。その意味でも、円了は現 在の提唱されている生涯学習のパイオニアにあたるのです。戦後の研究者は戦前の超国家主義の問題を重点とし 88

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て論及したため、円了の先進的な面は見捨てられ、単純に国家主義者として位置づけてしまいました。もちろ ん、円了の運動には複雑な要素が入っていますので、そう見ようと思えば見られなくもありませんが、もう少し 多面的に解釈すべきだと思われます。  さて、一人の社会教育者・教化者としての円了は、全国に修身教会を開設することとともに、別に用地を購入 して哲学堂を創設・拡張することにも取り組みました。二つの関連としては、各地の修身教会は統一的集権的組 織とはせずにそれぞれ独立した活動体とし、哲学堂はその中心の象徴と位置づけ、多数の人々の修養場としたの です。浅草や上野や日比谷の公園を肉体的公園とすれば、哲学堂は精神修養的私設公園として、修身教会の本山 として建設しようという計画でした。  引退して三カ月ほどの休養をとった円了は、三九年四月二日から修身教会運動の展開という新たなテーマをも って全国への巡講に再出発しています。この日から国内では一〇月二七日まで、約七か月間の二一〇日のうち非 巡回日は三六日、それを断続的に挟みながら一七三日間、一三七か所で三〇五席の講演を行っています。翌四〇 年は二七五日、四一年は二六二日、四二年は一八五日、四三年は二二六日と、巡講は継続されています。一年間 の大半が巡講に費やされています。哲学館の卒業生でその後に評論家として活躍した高嶋米峰は、円了の思想と 行動をよく知る人物でしたが、彼はこの時期の円了について、こう述べています。  ﹁先生は、明治三十九年、哲学館大学長、並びに京北中学校長を辞して、もっぱら社会教化のために努力せら れることとなったのであります。もっとも、先生の社会教化的事業としては、これよりさき、明治三十七年に、 修身教会というを設立し、全国に支部を設けて、修身教会網を張り廻らし、これによって、社会教化の実績を挙 げ、もって護国の志を達しようと、考えられたのでありまして、その計画の周到なると、その規模の雄大なると 8g 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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には、私共、実に敬服もし驚嘆もしたのでありましたが、その発会式を挙げるという、明治三十七年二月十一日 の紀元節、この日に、ロシアに対する宣戦の詔勅が降りまして、日露戦争の幕が切って落とされることになりま したために、先生のこの素晴らしい精神運動は、先生が期待しておられたほどの、効果を収めることのできなか ったことは、実に遺憾千万でありましたが、それでも先生は、日露戦争中、この修身教会をひっさげて、全国各 地を巡回し、国民銃後の努めに、万遺漏なからしめるために、文字通り、南船北馬しつづけられたのでありま す。ことに、学校退隠後の先生は、身軽になられましたために、全国津々浦々、先生の足跡を見ないところがな いというほどに、講演行脚をつづけられたのでありました。﹂  各地で修身教会が結成されましたが、明治四〇年の雑誌﹃修身﹄九月号の報告によると、修身教会の結成は三 七か所︵このうちの七か所は寺院、その他は有志や個人︶で、翌四一年には四か所などと、高嶋米峰が指摘するよ うに、修身教会運動は急激に発展しませんでした。しかし、円了は前記のように一年の半分以上の日々をあてて 全国の巡講を続けましたが、それも明治から大正への改元にともなって、一つの転機がありました。円了は四四 年四月から四五年一月まで、欧州と南半球の国々を視察する第三回目の海外視察を行いました。そして、帰国後 からしばらくたった七月三〇日、明治は大正と改元されますが、それにともない八月に、修身教会を国民道徳普 及会に改称します。 90 六 国民道徳普及会と哲学堂  ﹁国民道徳普及会旨趣﹂について、現在見られるものは五年六月の改訂版しかありません。これによれば、事 務所はそれまで大学内に置かれていたものを、﹁東京市本郷区富士前町五十三番地﹂という井上家に置いていま

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す。そして、同会の会長は井上円了としながらも、﹁本会は会員を募集せず分会も支部も設けざることに定む﹂ として、完全に組織運動ではなくなったのです。円了が趣旨で掲げた講演の内容は﹁国民道徳普及の旨趣の外に 教育、宗教、倫理道徳、妖怪談、旅行談、等﹂で、﹁開会経費を補助しかたわら哲学堂維持金を積立つる見込に て広く揮毫の需に応﹂じることにしています。開会経費の補助として、揮毫の謝儀の合計のうち、半額を会場ま たは町村の教育・慈善公共事業の補助とし、残りの半額を哲学堂の建築費と維持費にあてる計画でした。  組織運動でなくなったこの国民道徳普及会の活動の中心は、円了の全国巡回講演でした。講演のテーマは予め 四〇題ほどが考えられていて、各地ではその中から選び依頼するシステムでした。四〇題は甲種と乙種とそれぞ れ二〇題ずつに二分されています。甲種は勅語関係です。国民道徳大綱、教育勅語大意、戊申詔書大意、忠孝為 本説、公益世務の解釈、世界人文の大勢、国運発展の道、戦捷の結果と戦後の経営、実業振興策、社会教育一 斑、家庭教育談、精神修養法、青年の心得、婦人の心得などと、明治期の二つの勅語を中心に、倫理道徳の項目 を国家・社会・家庭・実業などに展開するものでした。乙種は仏教から世界視察談までと多岐にわたっています。 教育と宗教との関係、哲学と宗教との別、知識と信仰との別、仏教の人生観、霊魂不滅論、迷信論、妖怪総論、 幽霊談、西洋最近の実況、南半球周遊談、海外移民の近状、南米視察談、濠洲及南阿旅行談、印度内地旅行談、 日本と欧米の風俗の相違などです。  さて、円了は哲学館大学学長を辞任した直後の﹁明治三十九年より日本全国、樺太の半より台湾の際涯に至る まで、各郡各郷、出来得るならば村々に至るまで、周遊巡回し﹂たいと願っていました。巡講のねらいはその活 動の趣旨から言っても、都市よりも町村、農村・山村・漁村など僻遠の地に向けられていて、当初は一〇年間で この目標を実現したいと考えていたのですが、しかし、最初の五年間、すなわち四三年まで巡回したところで、 g1 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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﹁全国の三分の一に達せざるほど﹂とわかり、その目標とする年限を一〇年から一五年間にし、前期、中期、後 期と五年間ずつに区切っています。  国民道徳普及を掲げた大正元年からの巡講は、改元後の九月からはじまり、同年に八四日、二年は二八四日、 三年は二三二日、四年は一九七日、五年は二一四日、六年は二二一日、七年は一七二日と、海外巡講をこれに加 算すると膨大な日数となります。この期間の国内巡講の総数は一四〇四日に及び、四年に二か月ほど足りないだ けでした︵海外への巡講は、朝鮮と中国︵満州︶に行っていますが、この数には含んでいません︶。  その明治三九年からの巡講の統計がまとめられていますが、大正七年までの=二年間で、六〇市・六島・四七 二郡・二一九八町村を巡回して、二八三 か所、五二九一席の講演を行い、円了の目算によれば、聴衆の人数は 合計=二〇万六八九五人でした。  この時期の巡講についてみますと、主催者は、教育関係、町村有志、諸団体、仏教関係、組織連合︵教育会と 寺院、町村と団体など︶、自治体︵市町村、その首長を含む︶の六つに分かれ、教育関係が二七%、町村有志と諸団 体がともに一八%、自治体が一六%、組織連合が一一%、仏教関係が一〇%となっています。すでに述べたよう に、哲学館時代は仏教関係が多かったのですが、後期のこの時期は行政や教育関係が主になるという変化があり ました。  会場についても、寺院、小学校、他の学校、その他の四つに分けてみますと、圧倒的に多いのが寺院と小学校 で、寺院が三七%、小学校が四六%となっています。明治期は寺院が多く、大正に入ると、その役割は小学校へ と逆転しています。  講演の内容については前記の四〇題のように幅広くテーマが設定されていましたが、円了はこれを勅語修身、 92

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妖怪迷信、哲学宗教、教育、実業、雑題︵視察旅行談︶に分類して統計表を作成しています。勅語修身が半数に 近くて四一%、ついで妖怪迷信が四分の一ほどの二四%、その他は少なく、哲学宗教が一五%、教育が八%、実 業が七%、雑題が五%でした。年度別にみて、その割合に変動はありません。  さて、円了の後期の時代のもう一つの目標が哲学堂という精神修養的私設公園の建設にあったことはすでに述 べたとおりで、明治三九年の開始のときにはまだ四聖堂が完成していただけでした。哲学堂はその名のとおり、 哲学をモチーフに意匠され、円了は哲学界を世界的、東洋的、日本的に三分して、それぞれの建物を建築しまし た。明治四五年の時点で哲学堂庭園と建物の各所に命名した一覧表がありますが、その数は五〇か所で、まだ建 設計画中のものも含まれていました。そして、その後に増設されて、最終的には﹁七十七場﹂になっています。  主な建物の落成年は、明治三七年に四聖堂、四二年に哲理門・六賢台・三学亭、大正元年に唯物園、二年に宇 宙館、四年に図書館︵絶対城︶です。そして、面積約四・六ヘクタールの公園を整備して、はじめて公表された のが図書館の披露を兼ねた大正四年一〇月二三、二四日でした。その頃には現在の哲学堂公園の景況がほぼ出来 上がったと言われています。  円了は大正八年六月五日に、中国の大連で講演中に倒れ、翌六日にそのまま亡くなってしまいます︵円了は、 全国各地からの寄付によってつくった学校や哲学堂を、子孫には引き継がせず、公共のものとしてすべて財団法人化しま した︶。こうして円了の延べ二七年間の全国巡回講演は終わります。全国各地で講演したいという当初の目標が 達成されたのか言えば、あと少しだったと言っています。この年に六〇歳の還暦を迎えたので、哲学館の卒業生 たちが恩師の祝いをと、その計画を伝えたのですが、﹁今後数年を経ば、日本全国を周遊し尽くすから、その上 で、日本全国周遊完了祝賀会とでもいうを催して欲しい﹂と言って、円了は断っています。 g3 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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 明治二三年に﹁身をもって導く﹂という方針で始まった円了の全国巡回講演は、社会教化・社会教育・生涯学 習運動を進めたものでした。六一歳の生涯のおよそ半分を費やし、二七年間続けられた巡講の範囲は、現在では 当時の市町村が合併されているので、平成七年度の市町村に円了の巡講地を直してみますと、総数三二一二四市町 村のうち五一九市二一九四町村、合計では一七=二市町村になります。これは五三%にあたり︵表3の﹁都道府 県別・巡講市町村数﹂参照︶、文末の巡講地図のように、円了の二七年間の活動は﹁全国巡講﹂と呼ぶにふさわし いものでした。 94 七 円了の全国巡講の評価について  最後に円了の全国巡講が生存中にどのように評価されていたのか、このことについて黒田亮︵円了と同じ長岡 洋学校の後身の学校を卒業し、京城帝国大学教授となった心理学者︶が聞いた話を紹介します。当時の知識人はつぎ のように批判的でした。  ﹁ある機会で知り合いになった哲学館出身のさる知名の国学者から、私は、円了博士について、つぎのような ことを聞いた。博士は旅行や講演にでかけるごとに、人から請われるままに盛んに筆を呵して揮毫し、差し出さ れる染筆料は遠慮なく頂戴するだけでなく、時には高い定価を付けて売り出すので、一部の人々から守銭奴とし て目され、共に歯すべからざる俗学者とまで罵られた。それで、かつてある親しい友人が博士に向かって、反省 を促すことがあったけれど、笑って取り合わなかった。﹂  円了の全国巡講という生涯学習運動は、これまでに述べてきたように、まったく独自の観点から円了が取り組 んできたものでした。しかし、この運動はそれに付随した寄付募金の側面からしか理解されず、また明治という

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時代の倫理や気風の中では、このような批判の対象としかなっていなかったのです。円了が全国各地で展開した 運動がこれほど長期間にわたって続けられたことから考えますと、当時の﹁学者﹂たちの批判はこのような現実 的な要請や受け入れとは乖離していました。  そのために現在まで、円了の生涯学習の活動が歴史的なものと位置づけられずに来たのだと思われます。日本 における社会教育や生涯学習の研究はこれからのところが多いと言われています。円了のこの分野での研究も、 まだ端緒にしかすぎませんが、資料発掘をしながら今後も継続されることが望まれています。  本稿は、井上円了記念学術センターが 九九八年五月二七日に実施した公開研究会の研究報告に加筆・訂正したもので ある。 95 生涯学習のパイオニアとしての井上円了

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表2 年別巡講日程日数 年 年齢 巡 講 日 程 日数 明治23 32歳 11.2∼12.15 44 24 33歳 1.31∼4.1  5.11∼6.19  7.17∼9.6 153 25 34歳 1.21∼3.6  4.5∼4.9  4.20∼6.2  7.19∼9.4 P2.21∼12.31 154 26 35歳 1.1∼2.8 39 29 38歳 3.24∼5.10 48 30 39歳 7.23∼8.7(佐渡の3町村) 16 31 40歳 秋期(2県15町村) 〈不明〉 32 41歳 7月のうち10日間 7.20∼9.2 11.7∼12.9 雌喆s詳(3県9町村) 〈88> 33 42歳 春期(1県39町村)7、18∼9.2秋期(1県12町 コ) 11.17∼12.31 〈92> 34 43歳 2.18∼3.20  6.23∼7.11  7.14∼8.13 W.15∼9.13 111 35 44歳 2.13∼3.27  4.6∼6.2  6.19∼7.11  7.14∼8.3 W.19∼9.3 k11.15∼36.7.27,インド・欧米視察旅行〕 161 37 46歳 1.15∼1.31 7∼8月中(2県3町村) 〈17> 38 47歳 7.24∼8.31 9.1∼9.4 43 前期の総日数 明治38年までの年月未詳(7府県3市29町村)を除く 〈966> 39 48歳 4.2∼5.23  6.13∼6.17  6.23∼6.26 V.8∼10.27 k10.28∼11.29,満州韓国巡講〕 173 40 49歳 1.27∼6.24  7.21∼8.23 k8.24∼8.28,樺太巡講〕 W.29∼11.28 275 41 50歳 1.29∼6.13  6.24∼8.2  8.12∼11.4 262 42 51歳 1.29∼3.30  4.11∼8.1  8.25  11.11∼11.19 P2.24 185 43 52歳 2.10  2.12∼3.14  3.20∼5.26  6.30∼8.18 W.30∼10.17  10.22∼10.31  11.12, 11.13 P1.21∼12.5 226 96

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44 53歳 〔1.7∼2.20,台湾巡講〕 Q.21∼2.27 k4.1∼45.1.22,南半球周遊〕 7 明治45

蜷ウ1

53歳 2.1, 2.16, 3.10, 5.1, 5.4, 5.5, 5.27, 6.20 X.27∼10.22  10.31∼11.19  11.22∼12.14 P2.15∼12.29 92 2 55歳 1.4∼1.27  2.14∼3.26  3.31∼5.18  6.24∼9.3 X.9∼10.31  11.16∼12.30 284 3 56歳 1.16  2.5∼3.30  3.31∼4.23  6.12∼6.25 U.30∼9.12  10.18∼10.19  10.23∼12.3 P2.9∼12.28 232 4 57歳 2’15∼3.22  3.31∼5.24  6.21∼8.28 X.29∼10.14  12.1∼12.21 197 5 58歳 2.11∼3.29  4.1∼5.12  6.19∼7、13 V.16∼7.22(哲学堂講習会)7.28∼9.8 X.30∼10.6 k10.7∼10.20,中国・青島泰山曲阜旅行〕 P1.7∼12.18 214 6 59歳 1.4  2.15∼3.29  4.1∼4.6  4.8∼4.16 S.21∼5.2 U.11, 6.12, 6.13  6.30∼8.15  8.18∼9.21 X.26∼10.31  11.3∼11.4  11.16∼12.12 221 7 60歳 1.11∼1.16  2.15∼3.9  3、11∼3.28  4.1∼5.21 k5.24∼7.21,朝鮮巡講〕 V.25∼9.6  10.14∼11.10  11.22∼11.23 172 8 61歳 2.12∼3.8  3.9∼3.25  3.25∼5.3 k5.5∼6.6,中国巡講〕 81 後期の総日数 2,621 27年間の総日数 〈3,587> (1)日程は東京出発から東京到着までを基本とした。 (2)出発直後に休暇を取った場合は再出発日からとした。また,帰京途中で休   暇を取った場合は最終の講演日までとした。 (3)巡講以外の旅行で,講演があった場合はその日のみを数えた。 (4)連続講義は井上円了の統計処理に準じた。 (5)〔〕はすべて海外での旅行および巡講である。 (6)正確な日数が計算できない年は〈〉に記した。 (7)年数は延べ27年,前期は13年,後期は14年である。 g7 生ff学習のパイオニアとしての井t:円了

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表3 都道府県別・巡講市町村数 率講巡

謬㌶漂溌㌫漂踊雑漂辮刷伽親㌫認認劉脚潔謬麗㍑珈額眠麟摺

㎝5 度年数7村成町平市 2791940690201725154094890441709986603037994846316576498479843134362978654494535785547594795495ワ勾       1        1ふ 34Ω 村計町市講巡合 72234112369068999476103842780356234113685563533534243632443   722215645443262324564124 5225323 朋1, 村町 36 Q5 Q9 P6 R5 P8 T1 P5 P5 R5 Q4 P7R260202117103948272935372224912262138425030716312401817462316220 94U 市 173793078153369987773343705987480344524878009132   1    111   121    1        11121   121        111    1   1    11   1

県府道都

舞竃㌶醗竃轄竃︰警難顯卿︰酷舗雛璽︰鷲鵜

計合 1)旧市町村を平成7年度の市町村に置換した。 2)東京特別区(23区)は1市とした。 98

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参照

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