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西近江路の將来

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西 近 江 路

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將来

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西近江路の将来(小牧)

が、その大阪湾と敦賀湾、更に大きく言えば瀬戸内海と日本海とを結ぶ交通上の地 位を考えるとき、その将来性は特に洋々たるものであると言わざるを得ないのであ る。蘇に私の許された紙面を極度に利用し.てその歴史的変遷のあとを辿り、その将 来性に及び厚いと思うのはそのためである。  上古、朝鮮半島を経由した大陸文化渡来の一門戸として敦賀が占めた重要性に就 いては最早や縷説を要しないであろ5。敦賀と京畿との聞の最短通路をなす西近江 路の当時に於ける重要性は、従って想像以上に大なるものがあったであろう。高島 郡水尾村大字鴨なる稲荷山古墳から発見せられた文化遺物の如きも、かうした背景 の前に於いて特に暗示的なものとなると言えるであろう。又、崇神天皇が四道将軍 を派遣せられた時、大彦命が北陸道に下られたのも、仲哀天皇の近江宮より敦賀に 行幸せられたのも、恐らく又この道によられたのではなかろうか。叉その後、武烈 天黒が崩ぜられ、大和に於ける皇統が絶えた時、大連大伴金村が群卿と議して、応 神天呈六世の孫、大遊王を越前より迎託したのが継体天皇であり、天塁の御父、彦 ウ シ        主人王は高島郡三尾の高島宮に居られ、越前坂井県の愚母を妃として天皇を生まれ       ムク   = 王の麗去後、振姫は天皇を越前高帰村に伴い帰って膝養せられたのである︵継体紀︶ とい5事実もまた西近江地方と越前地方とbの関係の密接であったことを物語るもの で、西近江路による両者間の交通を想像せしめるものである。  西近江路の交通と並んで、奈良時代に琵琶湖の湖上交通が行われたことは、東大 寺建立の際、高島山立を置いて伐り出した高島山の木材を、現在の青柳村字小川に 当る当時の小川津から湖上を石山に、それより宇治、木津二川を経て奈良に運搬し たことが﹁日本霊異記﹂に見えていることからも知られ、万葉集巻七に﹁大御船泊       アトモ   コ ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚しそ思ふ﹂巻九に﹁率ひて榜ぎ行く船は高島の 阿渡の港に泊てにけむかも﹂同じく七九に﹁高畠の阿渡の湊を榜ぎ過ぎて塩津菅浦 今か漕ぐらん﹂等とあるによっても知られるのであるが、湖上交通と併んで西近江 路の陸路が利用せられたことは勿論で、そのことは、同じく万葉集巻三、高市連黒 人の籍霊歌八首の中に﹁何処にか宿りせん高島の勝野の原に此日暮れなば﹂などと 見えることによっても知られる。        ナ ラ  なお﹁日本霊異記﹂に、諾楽の人、楢磐島なるものが、聖武帝の御代、大安寺の 修多羅分銭措貫を借り受け、越前敦賀の津に往いて交易し、荷物は船に載せて運 び、自分は病に罹ったによって、馬を借って、高島毒性︵志賀︶辛崎︵唐崎︶を経、 山城宇治に至ったといふ記事があるが、琵琶湖の湖上交通と共に、勿論西近江路の 陸路の交通が行われたことは、これによっても明らかである。  この時代に、後の七里広言の江越国境に愛発︵戦記、難路、荒乳、有乳︶の関の 置かれたことは注意に値する。これは七里半越の北斜面、越前国敦賀郡山中に置か れたもので、所謂三関の一に数えられ、専ら警固を目的とした軍略的の施設で、恵 美黒蝿の乱に当っては十二分の効果を発揮し、再度まで反軍を拒書し、押勝が越前 へ遁走するのを防ぎ、遂に彼をして高島郡三尾崎勝野の辺に敗死せしめたのであっ たが、かかる三関の一がここに置かれたことはまたこの道が京畿と北陸道とを結ぶ 通路として如何に平なる意義を有したかを実証しているのである。  平安時代になると駅路の制も整った。延喜式によると、西近江路を縦貫した北陸 道は小路に属したのであったが、この路には、穴太︵駅馬五匹、今、大津市穴太︶、 和魎︵駅馬七匹、今、滋賀郡和通村︶、 三尾︵駅馬七匹、今、高島郡水尾村、安曇       トモユヒ 村三尾里︶、 榊轄結︵駅馬九匹、今高島郡劔熊村浦附近︶の四駅があり、靹結より愛 発関を過ぎて越前国松原駅に通じたのであった。  穴太駅と京都との聞は何れの道によったであろうか。穴太駅は前記四駅中最南に 位し、北陸道の第一駅であったが、京都ど穴太との間の連絡については延喜式に明 記がない。しかし恐らくは﹁今昔物語﹂︵巻二十六、第十七話︶にも見える如く、京 より山科を経、逢坂山を越え大津に出て穴太から北陸道に入ったのであろ5。平安 中期以後志賀山寺の寳客は多く志賀山越によったことなどから此の道が利用された ことが考えられ、又最近まで牛車による貨物の運搬にこの道が利用された事実︵筆 者三高時代の実見︶からしても、当代物貨の運送にもこの道が利用せられたことは 充分推測し得るところであるが、しかし、長途の鋸旅、物貨の運送は矢張り逢坂山

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滋大紀要

によったのではなかろうか。勾配の差も相当に大きいのである。  延喜式駅路の制によれば、駅馬の常数は五匹であるのに、前記四駅のうち穴太を 除けば他の三駅は何れも五匹を越えている。靹結の九匹は越前松原駅の九匹と同数 で、これは北陸道随一の難所たる愛発の山路を控える為であり、和遍駅が五匹を超 えるのは、その西方、龍華越を経て洛北大原に通ずる捷路との交会に当るからであ り、三尾駅が五匹を越えるのは、この駅が、若狭より駄運せられ京都に至る貨物が その南方勝野津に於いて船載せられ大津に至る水陸連絡の要地に存することによる のである。  この交通路が実際に利用せられたことは言うまでもないが、﹁今昔物語﹂︵巻二十 六、第+七話︶に、藤原利仁が京より客人を伴い、敦賀に帰った際、滋賀郡三津浜 ︵今、大津市下阪本︶で狐を捕え、敦賀に平せしめ、明朝巳刻迄に馬二匹を曳き高 島の辺に迎えよと云わしめた話が見えているのはその興味ある証拠となるであろ

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 かくの如く、平安時代に於いては、西近江路の交通は前代に引続き、恐らく前代 以上に盛んであったかと思われるが、此の時代に、江越国境愛借越の外に深坂越の 利用せられたことは注意されなければならない。延喜式巻二十六主税寮上諸国運漕 雑物功賃の条によれば、若狭国を除く北陸諸国の物貨は夫々の国の港︵加賀聖楽津、 能登鹿島津、越中亘理津、越後蒲原津、佐渡国津︶から越前宮川貝津に運漕されたの であるが、敦賀以南に就いては、 ﹁自島敦賀津一運二塩津噂駄賃⋮⋮自二塩津一漕嵩大津一 船賃⋮⋮﹂と記載されているのを見ると、敦賀からは愛発山を通らず、途中、現在 の追分の辺より分岐して深坂峠を越え塩津へ出る道をとった事が知られるのであ る。  この深坂越︵塩津に出る故また塩津越とも称せられる︶は北陸道の一麦路である が、揖宿より琵琶湖、琵琶湖より敦賀に達する最短路として古来大いに利用せら れ、敦賀より海津、海津より敦賀に出る北陸道本路に対して有力な競争者の地位に 立つたのである。  今両者の交通路としての優劣を考えるのに、愛発山と深坂峠とは共に三百数十米 の高度を有し高度に於いては大なる差異を有しないが、距離の点に於いては若干の 相違を有し、琵琶湖の水運が利用せられた時代にあっては、深坂越の方が有利であ った。それは敦賀と琵琶湖とを結ぶ線としては深坂越の方が短距離であるからであ る。即ち愛発越では追分海津問の距離が約三里坐−であるのに対して深坂越に於いて は追分塩津間の距離が約二里半なのである。勘三障所収の治暦元年九月越中国司に 付した太政官符によっても、北国の貨物は、若狭国気山津︵今、三方郡八卦字気山︶ からは高島郡木津︵今、饗庭村字木津︶に、敦賀津からは伊香郡塩津、大浦に出さ れたことが知られるのである。  併し琵琶湖の水運を利用しないとならば、七里半越﹁の方が有利であった。それは 三尾・和田・穴太と西近江路を経て京都に下るためには深坂越は迂路となるに対 し、七里半越は殆んど直線コースとも云うべき程の最短距.離を行くことになるから である。そしてこのことは今後に於ける西近江路の交通を考える場合にも重要な問 題点となるのである。  平安朝も末期に及ぶと天下掻乱の時期となり、西近江路にも軍隊通過の事などが 多かったが、その一々の史実を挙げることは煩に堪えないからここには唯その主な ものを挙げるに止める。  安元ご年越前の目代師経の白山末涌泉寺に於ける狼籍に端を発した平氏対叡山の 紛争は遂に白山明神神輿の本由延暦寺雲量となり朝廷への正徳となったが、その際 神輿大衆の一行は敦賀津より荒野の中山を越え、海津に出、神輿は船に召し、大衆 は浜路浪路を思い思いに坂・本に進んだのであった○ ︵源平盛衰記巻四、白山神輿登 山の事︶また寿永二年木曽曲我仲追討の平家の大軍十万余は﹁大津・三井寺・堅田 捕∵比良・賞同自訴・木津の宿・今津・海津を打過て芒川乳の中戸[に縣⋮て天盛⋮︵劔熊︶・国 境・匹壇︵疋田︶三口打越て敦賀津に着にけり﹂︵源平盛衰記褐藻八、追討使の事︶ とある如く、また同じ西近江路の径路をとったのである。平家物語︵巻十三、北国 下向の事︶には﹁大津・唐崎・三津︵下阪本︶・山田・やばせ・まの・高島・比良

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の麓・塩津に至るまで﹂とあり、地名の叙述が梢不秩序になるが、矢張り西近江路 の水陸両路から北国に至る径路を示していることには変りがない。  鎌倉時代に入っても、引続いて西近江路に水陸交通の行われたことは想像に難く ない。建長八年橘成季著すところの﹁古今著聞集﹂ ︵巻+、相撲強力佐伯里長遭強 力女高島大井子事の条︶に、越前の佐伯誤長相撲の節会に召されて上京する時、高 島郡石橋︵今、三尾里︶で大井子なる強力の女に行き遇い、三七日間逗留して力を 付けられた話が見え、更に同書︵近江金女大力事︶に、高島郡海津に金といふ大力 無襲の遊女の居ったことが見え、当地方の交通の一端を物語るが、殊に遊女の存在 したということは、此所に人馬の往来の頻繁であったことを示すものに外ならぬ。 当時の海津は北国交通の要衝に当り、其処には旅宿の設備も選る程度発達していた ものらしく、遊女も存在してみたので﹁その頃東国︵北国の誤︶の武士、大番にて 京上すとて此海津に日高くして宿りけり﹂とある如く、黄昏に至らざるに早や投宿 するものも多かったのである。  南北朝時代はまた所謂掻乱の時代であったから大部隊の軍勢が此の地方を通過す ることも多かった。併し軍隊が通過するのは攻略、防禦、遁走の場合が多かろうか ら大道のみが利用せられたとは限らない。間道や脇道が利用せられたことの方も多 かったのである・  延元元年五月九州より東上した尊氏の鋭鋒を避けて後醍醐帝叡山に行幸せられる や、近江の守護佐々木道誉︵京極高地︶は若狭より近江に入り山門の糧道を絶つた ので、官軍進退窮まり十月帝の京都還幸、東宮恒良・金気両親王を奉ずる新田義貞 の北国落となるのであるが、この北走は戦略五経に早く足利方の悟る所であって、 正月若狭の本郷泰光に宛てた足利直義の執達状には、官軍の北国逃下を警め、海津 以下要害の守備を令しているのであり、そこに北国路に於ける海津の重要性がよく 読取れるのである。事実、此の三惑宮の一行は坂本戸津浜を噛して海津に至り七里 半越に出よ5としたが斯波高卒の大兵が申山︵今の山申︶を差塞ぐと聞えたので劔 熊より引返し塩津越によって敦賀に出た次第である。 ︵太平卵巻九、北国下向勢凍 死の事︶矢張りこの時代に於いても七里半越と塩津越とが北国への主要な街道とな っていたことが知られるのであるQ  通行税徴集を目的とする関の濫設は次代室町時代の一特異性をなすのであるが、 その濫膓は既に鎌倉時代の末期より当南北朝時代にかけてあったのであり、元弘三 年九月足利尊氏、堅田惣庄の忠節比類なきによってその賞として堅田関連を充て行 ったことが、堅田旧郷士共有交書に見え、又山門領たる坂本戸津関は暦応元年より 十ヶ年を限って勅許せられたが、幕議奏上して貞和四年正月更に一ヶ年延期された ことが、﹁園大暦﹂に見え、﹁臨川寺文書﹂永徳二年二月十一日管領斯波義将の近江 守護佐々木四郎宛の執達状には﹁湖上船木関﹂︵安曇川河口本庄村船木︶が見え、こ れらの諸関が交通の障碍となったことは想像に余りあるが、かかる置関の多かった ことは一面これを通過する交通量の大であったことを示すものでもある。物資の輸 送に関しては、北陸諸国より京都に納米を運送するには先ず陸上、国境の山地︵愛 癸山、深坂峠︶を越え、江北の諸港︵海津、塩津︶に出で、それより湖上を船木、 堅田、坂本、大津町に至ったのであろ5Q  馬背を以て貨物の運搬に従事したものに馬借なるものがあった。これは南北朝時 代に起原を有するものかと考えられるが、馬借で直ちに聯想せられるものは室町時 代、坂本の馬借であろう。  当時湖岸に於いて大なる勢力を有するものに堅田があった。堅田は導束野洲川三 角洲が西に突出するのに対してその聞僅かに十数町という琵琶湖最狭隆部の要所を 占め、江東への渡津として又北陸道水陸連絡の要津として早く南北朝時代より専ら 湖上権を掌握し、奥島、沖島等を根拠として大なる勢力を振っていたのであった が、坂本も堅田に劣る所ではなく、殊にその背後には山門を控えるので、その物資 供給の地となり、湖上運漕の発着点となり、京都より北国に至る通路の要点に当 り、百貨輻較、北国よりの物資、殊に越後、越中方面から京都に輸送せられる青 苧、即ち麻布原料の如きも此の地苧座商人の手を経由したものであり、京都への狼 米も多くは此の地を経て供給されたので、交通業者の集団たる問丸・馬借等の発達

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も著しいものがあったのである。応永元年入月将軍義虚日吉社参拝の記事には、坂 本に土倉が三十九ケ所︵本倉三十新倉九︶酒屋が多数あったことが見えるが、酒屋、 土倉は当時豪富の商費として連称されたもので、坂本の富盛を如実に物語るもので あり、此の地の馬借一度起ちて忽ち天下に普及し馬借一揆といわれるものとなった のも宜なるかなと考えられるのである。  併し馬借は必ずしも坂本のみに限られたものではなかった。西近江路に於いて、 今津、南市︵安曇村の内︶にもそれが存したことは、耳垂二年の﹁今堀日吉神社文 書﹂に見る如くである。今津は北陸道と、ここより若狭の小浜に出る九里半街道 ︵現今の若狭街道︶との分岐点に当り、海津と並んで湖北水陸連絡の要衝に当った ために集え、早くもここに馬借なる交通労働者が出現していた訳であり、南市につ いても又同様のことが言える。  今津が股賑であったことぬ、丈亀二年今津市奉行なる官職があって商業上の紛争 販締りに当ったことよりも推察せられるが、当時今津が盛んとなったことは、換言 すれば若狭小浜への九里半平の盛んになったことを物語るものである。  併しそれは必ずしも北陸道ホ路、邸ち西近江路の衰えたことを意昧するのではな い。応永三十四年京都より越前に下った飛鳥井血縁はその紀行﹁道すがらの記﹂ に、うちおろし︵打下︶・河原市︵新儀村の内︶の次に今津を通り、それより海津を 経て逢坂︵海津と劔熊との境なる追坂t老坂︶を愛発の山路にかかったことを記し ているのである。また文亀二年五月骨八日越前領主朝倉教景より敦賀津河舟中に出 した証状に﹁江州商人に船をしたてかはすましき者也﹂とあるのは︵道川善書︶一 爾来天正頃まで同様の証状があるが一如何に近江商人が敦賀津方面に於いて活躍 したかを推知せしめるものであり、これら商人が、海津の北、愛発山︵海津より敦 賀に至る間、七里半あるにより此の時代よη以後専ら七里北越と称せられる︶を越 え人馬絡繹として敦賀に釜つたことは、僧月舟︵天王中寂︶の﹁黒雲詩稿﹂に﹁距 海津謹数駅、両崖如削、石高薄舞、然而南商議萱往来不絶、所謂七里半也﹂と見え ることによっても知られる。  此の時代に特異な現象の一は、関所の遼東であることは前にも触れた如くで、そ れは通行税の徴集を目的としたものであったが、西近江路に於いては安曇川口の舟 木︵北浜、中浜、横江浜、平井︶の水浜、滋賀郡の堅田、坂本の関が著明であっ た。  舟木関に就いては﹁堅田本福寺旧記﹂永正二年忌条に﹁舟木の関々太刀一腰もっ て礼銭として通せと云うに通すまじきと申す﹂と見える如く、関は一ヶ所でなく、 北浜、中浜、横江浜、平井と四ヶ所にあったのであり、而もその申の一関が﹁湖上 舟木関一所﹂とて康正元年十二月東寺造営料の淀津関の替地として同寺に寄進せら れたのを見れば、その関が、京師への関門として殿盛を極めた魔睡に劣らず春子で あったことは明らかであり、その事は湖上交通の旺盛を物語ると共に、また北陸道 の繁栄を示すものでもある。  堅田、坂本の関が既に南北朝の頃より存在したことば前述の如くであるが、室町 時代に於いても堅田、坂本は共に交通の要衝に当ったので、其の名﹃は屡々史上に現 われて来る。応仁元年十二月僧事芸は院宣により坂本三関四分一の得分を賜わり、 ﹁明王院丈嚢周﹂応永十八年幕府より山門宛の執達状には﹁湖上奥島堅田坂本六ヶ所﹂ と関所の名が列ねられ、 ﹁南禅寺文書﹂文安五年十一月幕府の過書の宛名には﹁坂 本七ヶ関 除本関 堅田関所、日吉舟木関所 東西﹂などと現れて、−西近江路及び 湖上交通の繁栄を裏書しているのである。  安土桃山時代に入っても、西近江路の重要性は衰えなかった。元亀元年、信長が 三好党及び本願寺一覚の征討を行った時、その虚に乗じて浅井朝倉の聯合軍三一が 大挙北陸道を南下して坂本に達したが、此の時の事に関して﹁浅井三代記﹂に﹁元 鵠元年の冬、堅田の地下人信長の勢力を引入れ浅井朝倉の役人を解明りければ、江 北にて響けるには、近江越前の通路を堅田にてとり切られなば、誠に暇ならでは翔 り難しと、朝倉浅井両軍三万にて無二無三にて堅田に押寄せる﹂といっているの は、よく堅田の要害と、ここを通ずる北陸道の軍事的価値とを物語るものというべ きであると共に、その重要性の衰へなかったことを証するものと言うべきである。

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 この時代に西近江より敦賀に通ずる北陸道は西近江路と改称せられることになっ た。即ち信長は天正の頃、その居城岐阜と北陸道諸国とを結ぶため越前北庄城主柴 田勝家をして橡木管を改修せしめ、これを湖東の東山道に連絡せしめ、此の新道を 北陸道本路となし、旧道はこれを西近江路と改称したのである。そのため爾来北国 への行入は主として新道により、旧道西近江路は東海北陸二道を結ぶ補助的道路の 体裁をとることになったQ  併し西近江路の交通上の実質がこれによって低下したものとは考えられない。  信長は破壊に次ぐに建設を以てしたが、その事業を継いだ秀吉に至ると平和の促 進は益々急となり、交通政策に於いても著しい進歩が見られ、小浜より今津に、敦 賀より海津、塩津に出る通路は此の時代に入って盛に利用せられることになった。 而してそれが平和の回復に従う産業の伸長とそれに伴う北国物資、殊に加越地方米 穀の移出激増によることはまた言うまでもなかろう。  而して若州往還の貨物が九里半髪に連なる今津に発着したことは言うまでもない が、北国の諸物資例えば前田氏の米の如き、小浜より今津に運送されたものもある、 が、勿論敦賀より海津、塩津に出され、それより大津、京、伏見、大阪に運ばれた ものが多いのであり、天正後期頃前田利家の敦賀高島屋に宛てた書状に﹁米五千俵 海津へ上候﹂ ︵小宮山丈書︶とある如きは、加虚貝米が敦賀より七里半越をして海津 へ運ばれたことを示すのである。  その後大阪冬の陣に、越前の松平忠直が坂本に、加賀の前田利光が海津に屯し、 夏の陣に北国の諸兵が坂本に屯し西近江路を上洛したことはあったが、元和便武以 後は、江戸時代を通じて西近江路も永く軍隊の通過を見ず、全く産業道路乃至は文 化的交通路としての役割を発揮することになった。       ギス  江戸時代大津から湖西を越前敦賀に通ずる西近江路には、大津、坂本、衣川︵絹 川︶、守秘、木戸、小松、河原市、今津、海津の九平があり、︵糎津より越前山申駅 に至る︶宿泊運輸の機関が備つたことも他の地方に於けると同様であったが、その うち今津は九里半街道の分岐点、海津は湖西航路の発着点として旅館、荷物問屋等 が軒を並べ頗る股賑を極めた。  而して、安土桃山時代に於てもさうであったが、此の時代に於いても、既の交通. 路が行旅の往来によるよりも、物資の運送によって繁栄したことは特に注意を要す る点である。即ち此の地方は北陸諸国の米穀が敦賀︵また小浜︶より京、大阪に運 送せられる通路に当ったのである。  併し時代は暫らくも停滞しなかった。敦賀及び小浜より琵琶湖に至る中間陸路を 介する運輸交通に於ける物資積換の不便は、時代の進歩入文の発達に伴って漸く甘 受せられ難いものとなった。殊に物資が輻与し交通量が増大すると共にこの不便を 克服せんとする機運と努力が熟し、遂に西廻り航路、即ち北国より長門の鼻を廻り 瀬戸内海を大阪に至る海上直通運邊路の発達を見るに至ったのである。寛永末加賀 藩が、城米を西廻り航路によって大阪に直送したのがその濫膓で、それにならって 海路大阪への直送が漸く増加したのである。  西廻り航路の発達によって西近江路につながる沿海沿湖諸港津の蒙った打撃は実 に甚大なるものであった。敦賀の如き、寛文七年の訴状によれば、h一十数年前俵物 の入津年平均百万俵を下らなかったのに今や三分一に減少し、滋二、三年を経ば胴 輪たるに至らんと云うに至った。  この不況の挽回策として企てられたのが、敦賀一塩津間その他の運河闇難であっ たが、越前疋田川の改修、深坂峠の切開︵安政四年︶等は凡て二二より最短距離に ある塩津方面への便宜を若干増大せしめたのみで、海津方面への好影響は殆んど現 われなかった。  敦賀港入津の物資引受港としては琵琶湖に海津と塩津及び大浦があり、此等は固. より競争の立場にあり、江戸時代初期に於いては事実互に相争ったの、であるが、寛 永頃協定するところがあり、而してその寛永頃には敦賀港入津の物資を受けた海津 にあっては、一ヶ年三十万石に及ぶ城米が七並し、馬匹百五十余に及んだのであっ たが、延宝頃には、それが多い年でも墨池石乃至五万石に激減し、その後も唯減少 の一路を辿るのみで、貞享頃には一万石にも満たなかった。文化文政頃より外国船

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滋大紀要

が日本海に出入したので、西廻航路が避けられたのと、幕末尊電命が喧しく北陸譜 ・侯の禁裡警衛を命ぜられて上洛するものが多かったのとで、北国船の敦賀入津は再 び盛んとなり、従って海津経肉の交通量も増加したのであったが、それは要するに 一時的の現象に過ぎなかった。  元来此の地方は江戸時代諸侯の領国より江戸に参観する通路には当らなかったの で、小浜侯が時に九里半街道より木津︵饗庭村のうち︶に出で湖上を江東に渡った のを除けば大名の往来の如きは殆んど見なかったのであむ、諸侯の多人数を率いて 通過したのは唯幕末多事の際に於いてのみであって、前にも述べた如く此の地方は 行旅の往来によるよりも物資の運送によって繁栄したのであるから、西廻航路の発 達は西近江路の交通にとっては致命的の打撃であったと言わなければならない。  明治維新新政の行われると共に、前代以来の宿駅は改めて京都宿駅役所︵明治元 年四月︶次いで大津裁判所宿駅局の麦配に属することとなり、明治二年各駅に伝馬 所、会所が設けられ、同五年差馬所は廃止せられたが、各街道に陸運会社が設立せ られ、西近江路に於いては同五年六月から運輸が開始せられ、宿駅としては今津駅 と海津駅とが置かれることになった。  ところが一方、加賀大聖寺藩が明治二年三月、琵琶湖に汽船交通を開始すること になってから湖上の交通が急激な進歩を示し、やがて、乱脈な競争時代を現出し、 明治十五年五月太湖汽船会社の創立によって始めてそれは平穏に帰したのであった が、そのため大津から海津経由敦賀方面に至る交通は勿論のこと、大津、堅田、勝 野、船木、今津間等の局部的交通も多く湖上によることとなり、その後明治十七年 五月長浜一敦賀、長浜一大垣間の鉄道⋮開通と共に、神戸大阪京都敦賀大垣等の各駅 からの船車連絡⋮切符が発生正せられ、大津長浜間の瀦⋮上連絡山父通が大いに賑わい、明 治ご十年二月明治天塁北陸行幸の途には呈后と御同列で大津から第二太湖丸に御坐 乗、長浜まで御渡航になった次第で、西近江路の陸上交通は比較的には衰えること になった。明治ご十二年七月鉄道東海道線東京神戸間の全通によって琵琶湖の湖上 交通は梢衰退することになったが、琵琶湖の西廻匂旅客貨物の運輸交通は依然継続 されたのであるから、西近江地方の交通は矢張り湖上によることが多かったと云わ なければならぬ。明治昔九年大津の森和一郎が湖水丸、第一一湖水丸を以て西浦を航 行し太湖汽船と大競争を開始したくらいであるから、湖上交通の倫盛んに行われた ことが知られるのであり、陸路の交通はそれだけ比較的には衰えたと言わなければ ならないQ  然るに大正末年から昭和初年にかけて大津大溝聞︵昭和二年︶次いで大津今津間 に鉄道、昭和二年大津坂本間に電軍が開通し、更にその後トラックの発達、バスの 盛行を見ると共に、琵琶湖の湖上交通は時代の趨勢から脱落し、その汽船は殆んど 観光的の意義をしか有しないこととなり、西近江路の陸上交通は俄然復活の徴を示 し、貨客の運搬は勿論のこと遊覧客の招致に於いても一段の活気を呈することとな ったのである。  以上に私は私たちの郷土近江の西部、琵琶湖の西岸を略南北に縦貫する西近江路 の交通路としての変遷を遠い昔から現在に至るまで歴史的に概観して来たのである が、その歴史的変遷のうちに、交通路としての西近江路のもつ特性が自から明らか にせられているように私には考えられる。そしてまた、そのもつ固有の性格からそ の将来性が窺われるようにも思えるのである。  西近江、路は古くから我が国文化の中心であった畿内と北国とを結ぶ重要な幹線で あった。大和が帝都の地であった時代は大和と北国とを連ねる重要な動脈であった し、京都が帝都であった時代には京都と北国とを結ぶ幹線大路であった。そしてそ れが此の交通路の担う運命であるように思われる。鎌倉時代並びに江戸時代政治の 申心は関東に移ったが、それによって近畿の実力がどうなるものでもなかった。そ れは現在政治の中心が東京にあるとしても大阪を夢心とする日本の経済的重心はど うなる訳でもないのと同断である。そして西近江路は近畿と北陸とを結ぶ重要な交 通路であることに変りはないのである。  古くから水路が少しでも多く利用されようとした時代にあっては、琵琶湖の水面 が重要な意義を有し、京畿の地と北国との交通運輸に於いては一部琵琶湖の水面が

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利用せられ、湖上が西近江踏の陸路と並んで、或いは西近江路の陸路以上に利用せ られたが、江戸隠代西廻航路の発達と共に琵琶湖の水上交通は急に衰微し、明治維 新後、汽船の発達と共に琵琶湖の水上交通は一時復活したが、鉄道、バス、トラッ クの発達と共に再びそれ.は衰微し、西土汐路の陸上交通が復活の徴を示し始めたの である。而してパス、トラックの発達と共に、西近江路はそめ固有の性格を一層判 然とせしめる、ことになったように思われるのである。  パス、トラックによる交通運輸には積換、中継の必要がないQとすると西近江路 は瀬戸内海の湾頭大阪と日本海斜面北陸の要津である敦賀とを結ぶ重要な交通幹線 の主要部を構成することになるのである。又、西近江路は新潟馬富山など北陸地方 の生産地を日本産業の中心地大阪に結ぶ一大幹線に於ける重要な一部をなすといふ ことにもなるのであり、敦賀大阪を最短距離に於いて結ぶその性格は将来愈々物を 曽口うことになるであろう。特に日本海が大陸と日本との間に抱かれる平和の海とな るであろうことは要するに時の問題であるとするならば、対外的に将来敦賀の重要 性は倍加せざるを得ず、そのような暁、大阪と敦賀とを結ぶ最短距離の交通路とし て新たな脚光を浴びるべき西近江路の将来性は特に大きく、その前途は極めて明る いものであると言わざるを得ず、かくて、敦賀地方が上古大陸文化渡来の重要門戸 であった時︵西近江路が中央と北陸との交通の要衝に当って我国歴史の上に重要な 役割を果した時代が、新らしい装いと新らしい意義とを以て再び到来するであろう ことを我々は疑うことが出来ない。  塩津から深坂峠を越えて敦賀に至る塩津越に鉄道が計画せられ、戦前進揚したそ の工事が、最後の予算五億円を以て愈々完成に向って進められつつある一方、塩津 と常に競争的立場に置かれた海津より敦賀に至る西近江路に国道としての改修工事 が今年八月既に着手せられていることは、かかる歴史的考察からしても極めて当然 の処置であると言5べく、西近江路としても今やそこに新時代の巨歩を一歩踏み出 した観がある。自然−本然に復ることによってそこに叉真に新らしいものが生れ るといったことが考えられないであろうか。兎もあれ西近江路がその自然に備え持 つた性格を今や大きく発揮しようとしつつあることは疑いの余地を存しない。

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参 考 丈 献 三浦周行、歴史上より見たる近江、歴史地理、近江号、明治四十五年六月0 大森金五郎、叡山と僧兵、同右。 藤田明、三関と近江、同右。 臨男村直勝、轡琵琶湖の航 路、歴史地理、大正六年、二、三、四日”号Q 三浦周行、経済史上より見たる近江、歴史地理、大正十年、十、十一月号。 古田良一、徳川初期に於ける国内海運の癸達、史林、大正十二年一月号。 高島郡誌、昭和二年。 滋.賀県史、昭和三年。 中村直勝、港市としての坂本、小川博士還暦祝賀記念論叢、昭和五年+月。 中川占尿三、近江の地理と交通、歴史地理、昭和六年四月号。 小野晃嗣、三条西家と越後青苧座の活動、歴史.地理、昭和九年二月号。 響

参照

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