学生として、教授として
著者名(日)
平野 宣紀
雑誌名
東洋大学史紀要
号
1
ページ
101-120
発行年
1983
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002559/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja6
平野
宣
紀
日 時﹁
学
生として
、
場 甫水会館 一 九 八 二 年 一 二 月 一O
日 所 聞き手教授として﹂
田中菊次郎(百年史編纂室)小野沢主計(同百周年事業事務局次長)村野 一 治(同課長)鈴木俊光(同 主任平野宣紀(ひらの
・
のぶのり)氏略歴
一九二六(大正 日 ) 年 4 月 一 九O
四 ( 明 治 幻 ) 年 2 月 ロ日生まれ 、 岡山県閑谷繁卒、十八歳 一九二九(昭和 4 ) 年 3 月 東洋大学予科修 東洋大学専門部倫理学東洋文学科へ入学一九三二︵昭和7︶年3月 東洋大学文学部国文学科卒 一九三七︵昭和12︶年文学部国文学科助手 この間帝国女子専門学校、和洋女子専門学校、昭和学院女子短大、神奈川大学、大東文化大学等に講師を兼 担した 一九四四︵昭和19︶年3月 東洋大学予科ならびに専門部教授 一九七四︵昭和49︶年3月 定年退職、4月大学院特任教授 [九七七︵同 52︶年4月名誉教授 現在は短歌雑誌﹁花実﹂主宰、日本短歌雑誌連盟幹事結社、紫舟会常任幹事、日本歌人クラブ、現代歌人協 会会員 一102一 ご経歴をみますと、国文専攻ですが、岡山の閑谷蟹のご出身と何か関係がありますか。 平野 閑谷︵しずたに︶蟹は日本でも古い藩校の一つで、池田藩の創設したものです。いまは青少年の修養施 設になっています。学校は和気高等学校に移管されました。閑谷費は当然のことながら池田藩藩学の教育機関で あったのですが、特に庶民のためにも解放していたことが、当時としては珍しかったのです。ですから何となく 庶民性はありましたね。しかし特に漢文とか国文に力を入れていたということはありません。
そこを出て、私の母が藩医の出であった関係で、私も医科を受けさせられたのですが駄目で、京城の新聞社へ 一年ばかり勤めたりしました。そのうち父が京城を引揚げて大阪へ移りましたので私も上阪、大阪医大を受ける つもりで勉強しましたが失敗しました。そのうち身体をこわしたので、郷里岡山県の瀬戸内海にある頭島︵かし らじま︶という島、これは、和気郡日生町︵ひなせちょう︶に属し人口五、白人位の小さな島でしたが、そこで小 学校の代用教員になりました。ここは三教室に分けて、一、二年、三、四年、五、六年と各二学級ずつを受け持 つんです。校長さんが五、六年、女の裁縫の先生が一、二年、私は三、四年のクラス担当でしたが、一年ちょっ とやりましたかな。足かけ三年です。そこから陸地の藤野小学校へ転勤を命ぜられました。 私は島に渡ったのは十九歳です。国木田独歩の小説の中の主人公のような気分で、喜び勇んでいったんです。 島の生活はお話すると限りありませんが、懐しい所でした。ほんとうの漁村で、女のカミさんも上から半分は何 も着ていない、乳を丸出しにして、これも真裸の子供にオッパイをのましている、大きな無花果の木の下で⋮⋮ そういう原始的な、ちょうどゴーガンの描いたタヒチ島の絵のようでした。だが実に楽しい日日でした。それで 陸への転勤がいやになり、教員もやめる気になったのです。大学へ行って勉強したいと思って、東洋へ願書を出 しました。当時は東洋大学は書類選考で入れるというので遅れて出したのですが、別に試験もなしに合格の通知 がきました。専門部の倫理学東洋文学科へ、大正十五年でしたか。 ぼくは昭和三年、在学中に最初の歌集を出したんです。三年のときですね。二年の冬アルバイトで選挙の応援 演説に行きました。新潟県の津川を中心に二十日間くらい。加藤知正という代議士でしたが当選しました。それ 103一
でいくらかもらったので、歌集を出す気になったんですね。今から考えるとまだ歌集なんか出す柄でもなかった んですがね。そうですね。専門部在学中は新聞部︵註 東洋大学新聞︶と講演部に関係していました。新聞部は、 亡くなった岡村二一さん等と始めてつくったんのです。二一さんは長野県で新聞記者をやっていられたと聞いて います。よく一緒に日暮里の調和堂とかいった先輩の印刷工場に出かけて、あの薄っぺらなタブロイド版の新聞 をつくったのです。
講演部の全盛時代
ー昭和二、三年というと、講演部の全盛時代と聞きますが。 平野 そういうこともいわれましょうね。明大、日大あたりと互角に行き来しました。関東雄弁連盟の幹事校 もやりましたね。 ー先生は幹事をされていたんですか。 平野 ええ、幹事もやりましたが、私は表面に立つより、みんなに振りむける方が好きでした。当時の講演部 には女子もいました。女子部といえぱ秋田の詩人沢木隆子さん、村松正俊先生の妹さんで、慶応の松本教授の奥 さんになられた松本チエ子さんもいました。講演部でも女性がさかんに他校に出演したんですからね。そういう 点でも、他の大学に女子はいませんでしたから、東洋は非常に華やかな活動をして羨しがられました。 ー﹁観想﹂という雑誌がありましたね。それが校友会色が強いので、学友会が自分の手に戻して、昭和四年 に﹁東洋学苑﹂という雑誌に引継いだのですが、その創刊号に、三沢甲風というペンネームで、元貫さんと 104思われますが、﹁そのころ談話﹂という一文が載っています。それによると三沢さんは昭和二年に入学したが、 学友会は講演部が全盛時代で、﹁観想﹂の発行部数を減らすという問題があり、学生大会が混乱し、承認が 得られなかったので講演部内閣は崩壊した、そのときの講演部幹事に青山宣紀の名があります。 ︵註・青山はのち平野と改姓︶ 平野 そう、そんなこともありました。しかし﹁東洋学苑﹂になってからは、とても﹁観想﹂のような声価は なかったですね。﹁観想﹂は価値の高いものでした。私たち学生には難かしすぎたものだから、学生の手にもど せというようなことになったんですかね。﹁東洋学苑﹂は内容は一段と落ちたようです。それも長くは続かなかっ たでしょう。 すると講演部は雑誌にはあまり関係してなかったのですか。 平野 直接は関係しませんでしたが、やはり学生が基盤ですから学生の代弁をすることはありましたでしょう。 私は﹁観想﹂を学生の手にひき戻せという演説をした覚えはありませんがね。何しろ古いことで。
学友会は談論風発の場
−学生大会が混乱したということですが、﹁東洋学苑﹂の別の一文に、学友会が暴力的風潮があると書いた ものがあります。匿名です。よく荒れたということでしょうか。 平野 それは誰がいうのですかね。あるいは私など一番に槍玉にあげられるかも知れません。小林啓善さんを 殴ったことがありますからね。とにかく学友会は熾烈な談論風発の場でした。だから各々が⋮⋮主として各部の 一 105一予算奪取のための騒ぎでもあったのです。小林啓善さんは大学部支那哲学東洋文学科でしたが、当時は私らとは 全く反対派の論客でした。従って何につけても私達の主張には小林さんが反対する。その揚句が遂に暴力沙汰に までなってしまったのです。だが私は後には、住居は小林さんと同じ千葉県だし、小林さんを学長に引張り出し たときも﹁あなたが母校を救わなければ、誰が救う﹂と迫ったりした仲です。啓善さんの最近の本︵註・﹁わが 戴恩記﹂︶にも幾箇所か私との会話が出てきます。その本を貰って、二、三日後ですよ、啓善さんが不慮の死を されたのは。小林さんの手紙に、この春から病臥して、何度も危期を経験したが、やっと手紙が書けるようになっ たといってきたのですが、便箋で二枚目がまだ終っていないのに、続く三枚目がない、変だなと思っていた矢先 でした。 ー平野先生は東洋大学の、大学令による昇格の卒業第一期生となっていますが、それまでと変わったのはど ういう点ですか。 平野 やっぱり何かうれしかったですね。私など専門部から、そのため予科に移ったんですからね。専門部三年、 予科一年、学部三年ですから、足かけ八年、大学にいたわけ。多額納税者ですね。 昇格すると学士号がもらえるわけです。それに成績の比較的優秀な連中は、何人か旧制高等学校教員の免許状 をもらいました。 ︵註.大学令による大学昇格への移行措置として、従来の大学部と専門学部は専門学校令による専門部となり、文学部 に予科が設置された。︶ 一106一
在学は長いですが、その間関係されていたのはほとんど講演部でしたか。 平野 そうですね。講演部が一番長かった。新聞の方は学部に行ってから直接関係しなかったと思います。講 演部のときは面白い話があります。明大の三木武夫や長尾新九郎と一緒でした。三木さんは私などより一年か後 輩で、決して一緒に並んで歩かなかった。三木さんは長尾と私の後からテクテクと鞄をもって歩いていました。 三木さんはのちに総理になり、長尾さんは高知市の市長かになって亡くなりました。日大の白石なんかはどうなっ たかな。早大の佐藤観次郎、社会党代議士で愛知県から出ていた、この人達とも同じ頃でした。ある年、講談社 の後援で、アメリカ在留邦人慰問の文化講演に行く話を進めまして、三木、長尾と私と東大の藤代と四人が行く ことにしました。私は金の調達がうまく進まなくて、三木、長尾の二人だけが行ってしまったんです。私も一緒 に行ってたら、今頃は偉くなったでしょう。政治家になるんならの話ですがね。 話はとびますが、法政の三鬼陽之助さんが講演部時代やはり一緒でした。一昨年突然に長い巻紙の手紙をくれ て、政治関係のことで誰だったかを頼んできました。どうして私の名など覚えていたのか、面白いですね。その 頃のことを考えると。 女子学生の活躍の話がありましたが、文学部に女子が入学許可されたのは、正式には昭和八年からです。 平野 それまでは、女子は聴講生でした。だから資格は何も貰えなかった。栗山津禰さんだって検定試験を受 けて、府立五中の先生になったのでしょう。女子の学生は当時としては珍しかったので、他の大学からはうらや ましがられました。 107一
栗山さんの紫式部学会
−栗山さんの﹁紫式部学会と私﹂という著書を読みますと、苦労されたようですね。 平野 栗山さんは国文学の方でも、立派な仕事をしていました。紫式部学会はもっぱら、あの人の力で出来た もので、専断的に、中心になってやっていたから、いろんなことをいう人もあったでしょう。一緒に活躍された 花崎貞さんも、お元気で最近また本を出されました。中国文学の翻訳をしていられるようです。 1女子の入学許可は大正五年からで、東京では大学で始めてということでした。大正十年に専門部に文化学 科ができて、このころから女子学生が多くなりますが、文化学科は昭和五年に廃止されています。先生の大 学時代ですが、どうでしたか。文化学科は優秀な人材が集まった
平野 私は別にどうのこうのということも覚えていませんが、惜しいということは、実際話し合いましたね。 勝承夫さん、岡村二一さん⋮⋮特長のある優秀な人物が、文化学科には沢山いましたから。廃止になったのは大 正十二年の事件も影響があったのでしょうか。 ー柳井正夫さんも文化学科の第一期生ですが、﹁文化学科がこの短時日の間に、しかも少数の人員の問から、 これほど華々しく多数の人材を出したことは、率の上からみても全く驚異に価する﹂と回想されています。 ︵﹁東洋学苑﹂特別号・昭和8年︶野溝七生さんもその一人ですね。 平野 野溝さんはぼくより古いんです。 一108一最近の﹁アサヒグラフ﹂︵㎜・10・22号︶で野溝七生さんの特集号がありました。文化学科の異彩で、瀬 戸内晴美が﹁文芸春秋﹂︵57年6月号、57年10月号︶でとりあげ、大学生の七生さんと虚無主義者・評論家 辻潤との出合いを書いていましたが、筆が走りすぎて、事実でないことまで書かれていると、野溝さんが抗 議したので、瀬戸内さんが謝ったという事件があったのです。野溝さんは定年のあと、平野さんのお世話で 九州の学校へ行かれたと聞きましたが⋮⋮ 平野 野溝さんのご主人は、もう亡くなられましたが、白玉書房の鎌田敬止さんで、歌人でもあり、歌集など を出版されていました。野溝さんは﹁ケイシは、ケイシは﹂といつも、聞かされていました。九州へ行かれてか らは、どうでしたか。とにかく気の強い人でしたからね。よく突っかかられました。全くの正義派でした。 一 ㎜
学生は多岐多様
ー野溝七生さんには、お会いして話を聞きましたが、あの当時の学生には天才、秀才が多かったといいます。 東洋の学生は他の大学と一味違ったところがあったのですね。さきほどの﹁東洋学苑﹂特別号︵昭和8・3・ 20︶に出ているのですが、明治三十年代と推定されるころの東洋大学の学生のことで﹁学生の数は少なかっ たが、年長者もおり、小・中学校に多年経験あるもの、または禅寺などで修練を積んだもので、恐しく漢学 に精通したもの、あるいは一技一芸に通じた書才画才あるもの、また孫という温厚な支那留学生、天理教、 金光教などの秀才も入学していた﹂と広瀬了義という方が書いていますね。題は﹁私の魂の捉へられた学祖 の活きた力と洋大気質の回顧﹂というものです。平野 その広瀬先生は、私の雑誌の会員で、歌集も出した武藤元子さんのお父さんです。たしか私の在学中も、 特徴ある人が多かったですね。私は大正末期から昭和の初期ですが、小学校長をしていた人、書では第一級とか、 何か一癖持ったおじさんのような人が沢山いましたね。なかなか多岐多様な学生でした。試験なしで入学できた ので、晩学でも入ってこられたのです。私など年中よく諭される方でしたよ。﹁君はまだ若いよ﹂なんてね。 円了先生が﹁晩学のものにも﹂といわれた創立時の精神が生きていたのですね。話は変わりますが、国文 学のことです。国文学会が昭和六年にできて、機関誌﹁洋光﹂が出ました。昭和九年が第一号です。それに 先生の幹事としての記録があります。 平野 ﹁洋光﹂には何年くらい関係しましたかしら。先生の論文や学生の執筆したものを載せたものです。私 は昭和七年に卒業して、国文学研究室助手になりましたが、翌年には成田恒二郎に譲りました。成田君はいま愛 媛県に元気でいます。私はそれから、いくつかの専門学校や大学の講師をしました。最初に国文学の科長だった 島津久基先生が講師をしておられた、いまの相模女子大学︵当時は帝国女子専門学校︶へ代りに行けということで、 そこの講師になりました。拓大の裏にありました。それから横浜の高等女学校、いまの横浜学園に口がきまって、 そこで専任になりました。 先生が助教授になられたのは昭和二十四年と経歴にありますが、随分遅いですね。 平野 その間、千葉県市川の国府台にある和洋女子大の専門部にも行っていました。以前は九段にありました。 それから高島米峰先生が兜町商業学校の副校長をしておられた、東京株式取引所の中にあった夜間部の商業学校 一110一
も手伝いました。校長は理事長ですから高島先生が副校長ですが、実際は校長でしたね。多いときは五つくらい の学校に関係していました。神奈川大学、大東文化大学、そういうところを渡り歩いていたから、東洋の方は遅 いんです。東洋へは戦争中に米峰先生が学長になられてから、速達で呼び出され、﹁お前、帰ってこい﹂といわ れたのです。﹁まあ考えさせて下さい﹂と返事しました。結局私は﹁学内政治には一切関係しませんがいいですか﹂ と念を押してお願いしました。東洋というところは当時、年中ゴタゴタしていまして、米峰先生などもその中に 巻きこまれておられたのです。先生はそこで﹁そりゃあたり前だ。学者が政治なんかに関係する必要はない﹂と いわれ、それならということで東洋大学へ帰ってきたのです。 ー先生は東洋大学で八月十五日を迎えられたのですが、終戦前後の大学はどんな状況だったでしょうか。
勤労動員の学生は立派だった
平野 そのときは、もう戦争は熾烈化し、授業などあまりありませんでした。私も昭和二十年四月には神奈川 県の田奈部隊に出向、勤労動員の部隊長を命ぜられました。部隊は神奈川県の長津田から山の中に入ったところ でした。三百人の学生部隊と南寮というのに寝泊りしていました。一部は松根油をつくっていました。松の木を 傷つけると、やにが受けてある空罐にたまる。それをバケツに流す、バケツに半分くらいの油がひと朝にとれる のです。あとは爆薬をつめる作業もありました。毛塚栄五郎さんはそのころ北海道へ行かれましたね。 終戦のときはどうされましたか。 平野 その田奈部隊で終戦の詔勅を聞きました。私はすぐ東洋大学部隊は寮を引揚げてそれぞれ郷里へ帰るよ 111う、全員に指令しました。午後には全員に乾パンが配給されました。田奈部隊の学生は実によく統制されていま した。九州へ帰るには何日かかるかというように、それに応じた乾パンが手渡されたのです。それらを一切学生 の幹部がやってくれました。私が最後に列車に乗りこんだのは、夜の七時ころでなかったかしら。 1詔勅の放送は正午でしたから、夜の七時といいますと、大へん早く処置がいったのですね。そのあと東洋 大学へはいつ来られましたか。 平野 まず千葉の自宅へ引揚げて、翌日でした。大学へ来て報告した記憶がある。そしたら東洋大学の周りは 焼野原でした。大学が空襲されたのはいつでしたか。 四月十四日です。 平野 その翌日か大学に私は来ています。ひどかったですよ。まだ焼夷弾があちこち突きささっていた。焼夷 弾を山積みして、このくらいの高さ︵約一メートル︶かな、残っていました。私が来たとき、講堂の真ん中の通 路に、お隣りの目賀田さんの女中さんとかの遺体が置かれて、コモをかぶせてあった。目賀田家の銀杏の樹にも 死体がぶらさがっていたという話も聞きました。 大学の外からも構内へ死体が飛ばされてきたといいます。そのころ二之宮英雄、高野剛さんがおられたで すね。 平野 そうそう、いたいた。二之宮呉山なんかは要領のいい人でね、空襲があると、﹁ホウ﹂﹁ホウ﹂﹁大した こたあないよ﹂なんていって酒をのんだりしていたね。私は勤労動員の初期は総武線平井の駅のすぐ下の鉄工所 112
とか、沢山の捕虜を使っていた砂町の鉄工所に、週に一回ずつ行っていました。砂町ではひどかったです。空襲 があって女学生が壕の入口で死んだのをみました。そのうちにいよいよ大量の勤労動員がされて、学生たちは北 海道や長津田に行ったり、上州にも動員されました。上州へ行っていた部隊は、終戦になって夜逃げするように 逃げ帰ったという話を聞きましたが、その点、前に申しましたように田奈部隊は実に整然としていて、学生達が 偉かったと思います。上級の学生が実にはっきりした態度でよく統率していましたね。私などただ朝になると将 校室へ行って紅茶をいただいたりした記憶があります。そこには当時は珍しかったビスケットなどもありました。
終戦直後の大学
終戦後、翌日大学へこられたときはどうでした。 平野 学長は高島平三郎さんと思いますが、学長はもちろん責任者は誰もいない。学長はいかにも豪放で平常 は愉快な方でしたが、すでに信州へ疎開しておられた。授業もなし、学生もいないが、責任者くらいいてほしかっ た。おじいさんが一人いました。庶務の人で髪をはやした、大柄な人がひとり、いまの短大の事務所になってい るあたりでしたかにいました。何という人でしたかね。その人に学生引揚げの報告をいちおうしましたが、責任 者が誰もいない大学はもぬけの殻同然でした。あの場合、非常時態だからね、仕方ないかも知れません。のるか そるかの揚句に敗けたんだからね。 1大学の施設はどうでしたか。 平野 短大︵旧図書館︶と西校舎と講堂は残ってました。講堂は内部の下のイスなどは焼けていたが、外部の 113形は残っていました。 それで、学校は続けるということですから宿直をせねばならん。夜は蚊がひどいですしね。宿直するといったっ ても布団も、蚊帳もないんです。それで家内に布団や蚊帳を出せといって、二人分を供出しました。家内が笑っ ていってましたよ。嫁にくるときに母さんに作ってもらった取っときの布団だったって。蚊帳も八畳の麻製でし た。 そう、大きな青い蚊帳がありましたよ。 平野 それがね。一晩くらい私は寝たか。何日もしないうちに布団がなくなりました。 授業の再開は十月からでした。 平野 窓ガラスも何もない冬を覚えています。教室は寒いから授業はテキストをもって日向︵ひなた︶へ出うと、 日向ぼっこしながら講義したりしました。 三号館は焼けていましたからね。 平野 廊下などほとんど焼けていました。国文研究室もツツ抜けに焼けていました。書籍類は図書館で助かっ たんじゃないですか。われわれは動員で行っていたから、どういうことがなされていたか、わからない。幹部の 先生方が処理していられたんでしょうな。学内のことは全くわからなかった。 ー身体の弱い学生が残っていて、講堂を工場にして、ものをつくっていたということです。和田吉人さんや 岩本末子さんが残っていました。 一114一
平野 図書館の和田さん、いましたね。岩本さんはエレベーター事故で亡くなった。あの人が生きていると、色々 わかるのだが、岩本さんが図書館の隅で炊事をして、和田さんも一緒に食事していましたね。和田さんは大きな 身体だが、あまりものをいわない人だから。 − 戦後もずっと先生は大学にいられたのですが、すぐ戦災復興が忙しくて、上福岡移転の話などがありまし たね。近藤鉄城さんが進められましてね。学内の意見がまとまらなかったので駄目でしたが。 平野 そうでしたね。そういう話がありましたね。あのころとしては、地方へ大学が進出するなんてことは、 そこまでの英断がなかったのだな。今から考えれば、私立大の中では最も優先的で、いい条件で移れたのかも知 れない。 そのころ折本君なんかが反対して四、五人の学生が退学を命ぜられましたね。学生大会を開いてね。 平野 そうそう折本君ね。いま元気ですか。 あまり元気でなく、いま千葉の方にいます。 平野 あのころの学生は五十五、六歳になっています。その一人が干葉の大貫中学校教頭をしている田畑修一 君、几帳面な男でね、毎年正月にはきちんとやってきますよ。
大倉学長、獅子吼会のことなど
ー田畑さんは学生課にいました。柳田一さんもいましたね。 平野 彼は元気です。そういう名を聞くと当時の学生の運動を思い出しますね。 115−昭和十二年に大倉学長がこられます。そのときはどうでしたか。 平野 私が大学にいないころですね。そうだ、何かの時に、大倉学長かつぎ出しに反対しました。﹁学者でも ない商人を大学へ引っぱり出すとは何事だ﹂と、非常に単純率直な考え方でした。いやだというのに引っぱり出 されてね。大倉さんが、連れてこられた福井先生の家へおしかけて行って、直接面談したことがあります。藤村 さんがやめられて福井さんが科長で入られるというので﹁われわれは反対です﹂と申しあげたら、福井さんは﹁私 は好んで行くんじゃない﹂といわれた。また大倉さんが放送されるというので放送局へ行って、終って帰られる ところを要して反対の陳情をしたことも思い出します。 あとで考えると、当時反対もあったが、大学の財政難を助けてもらったわけです。その点では小林啓善さんが 引っぱってきた大塚日現上人もそうだな。私などはあの当時、もう三カ月も給料をもらっていなかった。日現さ んが来られて、結局給料が出たんだから、教授会は大きな反対はなかった。私どもは若いから学者でない上人の 名誉学長は好ましくないと反対だったが、校友たちにもあまり反対はなかった。 小林啓善さんの本に書いてありますね。成石さんが土下座したとか。 平野 そうそう。いかにも成石さんらしいな。あの人ならそういうこともやったでしょうね。 ー獅子吼会の乗りこみに学内はそう大きな反対はなかったわけですか。 平野 うーん、なかったね。あの時は誰でもよい。救ってくれりゃいいというところでした。少し落ちついて きてから、日現さんに対する反感が大分ありました。﹁乗っとられる﹂という危惧でしょうか。日現さんは﹁そん 116一
なことはせんLとはっきりいわれた。あとで裁判でゴタゴタしたようだが、ぼくなどには係わりないことだった。 戦後に藤原猶雪、加藤虎之亮という学長が続いたあとでしたね。日現さんが名誉学長の称号を贈られたの は。 平野 藤原先生、加藤先生ともほんとうの学者でしたからね。目立った仕事はそれほどなさらなかったかも知 れないけれど、両先生とも君子でしたからね。学者には私立大学の経営などは無理ですよ。豊かな時はいいが、 苦しい時はね。 ー理事長の方は大塚又七さんから昭和三十年に松本信次、西川悦厳とたてつづけに代わりました。 平野 思い出しますね。大塚さんは日現さんの女婿で実直な方でした。今も元気でダンスなどやっておられる と娘から聞きました。松本さんは経済学部長から理事長になられた、剛榎そうな人でした。 話は飛びますがね、戦後は学生が今のように何万もいなくて、教員は学生募集に全国的に回らされました。校 友で中学校の先生が全国的にいましたからね。私は四国の片田舎の農学校ヘテクテク訪ねたりしました。校長に 会うと﹁うちの学校にはお宅へ行くようなものはいませんよ﹂とあっさり断わられて、がっかりしたりした。校 友には各地でお世話になりました。 川越移転のときはどうでしたか。 平野 工学部を新設するというのでしょう。あまり反対はありませんでしたね。別に白山にあったわけではな く、新しく作るのですから、一も二もなく、いい条件でうまい話が転げこんだというような調子でした。 一117一
ー先生のご研究ですが、国文学専攻で、表現法など教えられたようですが。 平野 古今、新古今など専ら和歌の方でした。そういう風に話をきき出されると思い出しますね。毛塚栄五郎 先生などお元気なら、談論風発尽きるところを知らずでしょう。勤労動員で行っておられた北海道のお話なども 聞けるのですがね。 国文学科の話ですが、島津久基先生が私を可愛がって下さったというか、私も先生が好きでしたね。先生があ るとき、東洋大学は教授に東大出が多いが、ほんとうは私立は出身教授が三分の二か、少くとも半分を占めると きが来ないと、学風というふうなものは出来ないといわれました。大へん印象に残りまして、それから私も何と かして、東大にお世話にならなきゃやっていけないような、ぶざまな国文科でなく、東洋出身で教授を充たすこ とを一途に願って努力してきました。 一部の短大ができるとき︵註 昭和三十八年︶、国語科に協力してくれと佐瀬学長にいわれて﹁出身教授で全 部まかないますが、いいですか﹂と念を押して﹁それでよい﹂というので、全員本学出身者で充当しました。私 は主任でしたが、その後大島建彦さんに入っていただいたのが、よその出身教授にご厄介になった第一号でした。 この頃はまた出身者が少くなくなりましたね。 最後に、先生は﹁花実﹂をいま主宰されていますが、その方面のお話をうかがわせて下さい。 平野 私は学生時代から歌集は四冊出しています。戦後は三冊ばかり出したかな。そのほか合著、合同歌集と いうようなものもあります。雑誌は昭和の初に﹁ポトナム﹂に関係しました。小泉茨二二︵とうぞう∀本名は藤三 一118 一
ですが、すぐれた学者で、専検で高等教員資格をとられ、長野県の女子専門学校を振り出しに立命館大学の教授 を長くされた。その小泉先生が起こされた雑誌です。ポトナムとは朝鮮語でエビズルのことですが、誤って一般 には白楊といっています。小泉先生は京城高等女学校に赴任され、その郊外の清涼里という金魚池が沢山あると ころで、一人で生活されていたことがある。その時、京城で﹁ポトナム﹂を創刊された。ちょうど当時、私は京 城で新聞記者をしていました。その頃京城の歌壇の仲間が﹁東京から妙な男が流れきてポトナム社など興す春か な﹂という歌を作ったのを覚えていますがね。 私はそのころはまだ歌の専門雑誌には関係してなかったのです。朝鮮から帰って、岡山で代用教員をしている ときに﹁水甕﹂︵すいよう︶に入会し尾上柴舟先生にみてもらっていました。ところが、東京へ出ましてから、 私の歌をみてもらっていた編集者の岡野直七郎という先生が﹁水甕﹂をやめられ、私に﹁好きなところへ行け﹂ ということで、先輩の小泉先生のやっておられた﹁ポトナム﹂に入りました。かなり長く同人としていました。 私の第一歌集は﹁ポトナム叢書﹂として出ています。それが のち有名な歌人になった福田栄一、私が誘って 東洋へ入れたのですが、中退してしまった。東洋関係の有力な歌人でした。その福田氏と意見が合わないで﹁ポ トナム﹂同人をやめ、自分で﹁花実﹂を創刊したのです。昭和十五年です。戦争中に十九年から二十年始めにか けて紙の配給が跡切れて中断していますが、ことし四十二巻になります。 毎月出詠者は三百人を超えています。市村宏、神作光一、高久茂などの先生を始め有力な会員に東洋出身者が 少くありません。 119
││いろいろ長々とお話し下さいましでありがとうございました 。 機会がありましたら 、 またお願いします 。 平野 つ ま ら は い 、 おしゃ べ り をしました 。 何しろ古い昔のことですし 、 そのうえ年をとりまして近頃は大分 呆けてきた感じです 。 いろいろ記憶違いも少くないと思います 。 お許しを願います 。 -120