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東京大学百年史の編纂過程とその問題点 利用統計を見る

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(1)

東京大学百年史の編纂過程とその問題点

著者名(日)

中野 実

雑誌名

東洋大学史紀要

6

ページ

25-50

発行年

1988

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002576/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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講 演 2

東京大学百年史の編纂過程とその問題点

はじめに 一、 倦蝠S年史とのかかわり 二、百年史の編纂過程 三、 ﹁通史﹂の編纂等について

四、﹁通史﹂校訂作業 五、今回の問題と課題 六、東洋大学史紀要等について さいごにー二、三の希望1

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はじめに  本日の題目は﹁東京大学百年史の編纂過程とその問題点﹂ということですが、東大における百年史編纂は、昭 和六十二年三月にすべて完了いたしました。全十巻、約一万二千ページの規模の年史編集でした。この結果、百 年史編集委員会は解散され、それに伴い、同委員会に置かれた百年史編集室も閉室となりました。現在は、旧編 集室を再組織しました東京大学史史料室が置かれ、百年史編纂過程で収集した史料の整理と保存並びに新たな関 係史料の調査、収集を行っております。史料室の運営、経費等は一昨年十一月に設置された﹁東京大学史料の保 存に関する委員会﹂が当たっており、室長は同委員会委員長︵寺崎昌男教育学部教授︶が兼ねておられます。  本日の話として求められております、東大百年史編纂を通じて大学史編纂全般のあり方、あるいは大学史研究 の課題等を提起するといったことは、現在の私にはちょっと手に余る課題ですので、もっと具体的な事項につい て申し上げたいと思っております。すなわち、東大百年史の実務担当者、専任担当者としての拙ない百年史編纂 の経験を申し上げて、今回の発表に代えさせていただきたい、と思います。  まず、私と百年史編集室とのかかわりについて、本論で述べますことの参考として最初にお話ししておきます。

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一、東大百年史とのかかわり

 私は昭和五十六年に百年史編集室の専任になりました。それ以前、立教大学の博士課程在学時代に三年間、週 二日、非常勤で来ておりました。当時、立教大学に寺崎先生がおられ、指導を受けておりました関係で百年史と 出合うことになりました。今年で十年間東大百年史にかかわっていることになります。非常勤のころは、資料編 の資料収集が当初課せられた最大の作業でした。﹁法令全書﹂﹁官報﹂等、公文書類中の東大関係史料を片っ端か らコピーし、カッターで切って原稿用紙に張りつける、という作業に従事しておりました。後には通史編の原稿 執筆も分担いたしました。それが前任者酒井豊氏︵現青山学院大学助教授︶の転出により、専任に指名されまし た。羅針盤もないまま大海、異郷の地に乗り出すような気持ちでした。  ここで若干、当時の編集室の任務、態勢などについて触れておきます。編集室は、百年史編集委員会の下に置 かれ、﹁通史﹂と﹁資料﹂の編集及び執筆、それから部局との連絡及び調整に関する事項を受け持ちました。室 長は編集委員会委員長が兼ね、当時は土田直鎮文学部教授︵現国立歴史民俗博物館長︶が就任されておりました。 さらに編集委員会の委員で編集室の専門委員として、工学部稲垣栄三︵現明治大学教授︶ー日本建築史ー、文学 部伊藤隆 日本近代史ー、史料編纂所益田宗ー日本中世史ー、教育学部寺崎昌男ー日本教育史1の四教授がおら れました。編集室には二名の専任室員がおりました。一名は助手で、年史編纂に直接従事する者ー前任者酒井氏、 一 27 一

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中野ー、もう一人ー小川千代子氏・現国立公文書館ーは庶務担当でおりました。それから大学院学生クラスの者 が非常勤室員−教務補佐員ーとして、週二日程度、常時五、六名、延べで十八名程度おりました。それ以外に学 外の方及び室員の身分から離れた方が執筆員というかたちで参加されていました。  室員にはのちほど述べます方々以外に、狐塚裕子氏︵現東洋英和女子短期大学講師︶、古屋野素材氏︵現明治 大学助教授︶、新谷恭明氏︵現九州大学助教授︶、柴崎力栄氏などがおられました。そのほかに、コピーをお願い したり、清書をお願いする方たち1事務補佐員ーが、常時二名程度おりました。  当時室員は大学院学生がほとんどで、出身大学も東京大学のみでなく実に多彩でありました。その中にあって 博士課程を修了したばかりの浅学菲才の私を向い入れかつ支えてくださった土田先生をはじめ専門委員の先生方、 同僚室員には感謝いたしております。  私は日本の大学史高等教育史を専攻しておりましたので、東大の歴史については少なからぬ関心を持たざるを 得ませんでしたし、個人的にも東大の史料を駆使して研究したいという要求は、もちろんありました。しかし、 編纂事業というのは当然、共同作業であり、刊行期限が決められております。私の場合、専任以前では、せいぜ い自分の研究論文をまとめ、紀要等の締め切りにどうにか間に合わせる、そういう程度の経験しかありませんで した。要するに編纂事業も共同作業も全く初めての経験だったわけです。  今、百年史編集室時代のことを思い出しますと、いつも何かあせっていた、追われていたという感じがありま す。何回も刊行スケジュールを書き直しました。記念事業募金によって基本的に運営されておりましたので、毎

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年編纂現況と刊行計画を報告しなければいけないからです。そういうかたちで、何かいつも追われていた、あせ っていたということがあります。もちろん、その原因は未経験ということであって、私の未熟さがその原因の多 くを占めていたと思いますが。しかし、かりに、もう一人の専任の助手がいるという態勢がとられ、連年出版ー あとで触れますが、私たちの場合、年に二巻出していましたが、それが三年間続きましたーという刊行日程でな かったならば、もうちょっと落ち着いて仕事ができたかもしれない、現在の印象もちがっていたかもしれません。  もう一つ、百年史とのかかわりで今でも思いますのは、研究者の卵として、やはり学術的評価に耐え得るよう な沿革史を編纂したい、という気持ちがありました。根本史料に基づいて、できるだけ最新の研究成果を踏まえ、 年史を編んでみたい、と思いました。以上が、私と百年史編集室とのかかわり、編集室の模様、および当時の心 境、あるいは心構えというようなものでした。

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二、百年史の編纂過程

 次に、百年史の編纂過程について具体的にお話ししてみたいと思います。まず百年史の概要は、全十巻、﹁通 史﹂三巻、.資料L三巻、 .部局史L四巻がその内訳です。当初の予定では、編集室の担当は﹁通史﹂、﹁資料﹂各 二巻でした。それが共に一巻ずつ増えた計算になります。当初から、百年史は合計何巻に収まるのか、私自身、 見当がついておりませんでした。というのも、﹁通史﹂も﹁資料﹂も巻数増を決定したわけですが、そのころ

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﹁部局史﹂は原稿の集まり具合があまりはかばかしくなかったので、予定の四巻で収まるかどうはか集まった段 階で考えざるを得なかった。つまり﹁通史﹂、﹁資料﹂のほうは増巻しておりますので、﹁部局史﹂のほうも増刊 してほしいと出た場合に、ぜひとも削ってほしい、四巻の内で収めてほしいというわけにはいかないわけです。 ですから、﹁部局史﹂がいったい何巻で収まるのか、結果は最後までわからなかった。ようやく四巻で収まる見 通しがついたのは、かなり遅れて六十一年ぐらいだったんじゃないでしょうか。  まず昭和五十九年三月、すなわち五十八年度の末に、﹁通史﹂と﹁資料﹂の第一巻がそれぞれ刊行されました。 それ以降、各年度末の出版が続きました。六十年三月に﹁通史﹂、﹁資料﹂各第二巻が出ました。六十一年三月に ﹁通史﹂、﹁資料﹂の各最終巻と﹁部局史﹂の第一巻が出ました。この巻には法学部、経済学部、文学部、教育学 部の四学部が収録されています。六十二年三月に﹁部局史﹂の残り三巻が出て、完了しました。編集委員会の設 置が昭和四十九年ですので、十二年間費やして、ようやくまとまったわけです。 30 編集室と部局編集委員会との関係  編集室と部局の編集委員会との関係についてですが、一応、﹁部局史﹂に関しては部局が編集するということ になっておりました。︹注・部局編集委員会は、東京大学百年史のうち各部局にかかる事項の編集を行うため、各部局に聞かれて いた︺当然記述の重複はあるのですが、内容にわたっての調整、あるいは意見を交換するというようなことはほ とんどありませんでした。編集委員会の席上、内容上の重複、あるいは調整といったことが議題には上りました

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けども、実際に原稿を突き合わせて検討するようなことはありませんでした。ただ、お互いのタイプ化した原稿 ータイプ原稿ーについては、相互に閲覧できるという態勢は残していました。ですから、たとえば経済学部で起 きた矢内原事件とか紛争について.通史Lはこのように書くつもりだ、といったかたちで、経済学部の方に編集 室のタイプ原稿をご覧に入れる、ということはありませんでした。あそこの部局はこう書いている、編集室はこ うだ、といったかたちの調整、話し合いはなかった、と記憶しています。  編集室では、部局から照会があった限りで答えるというかかわりでした。こちらから進んで原稿を読み、﹁通 史﹂あるいは.資料Lと調整することはありませんでした。ましてや、間違いを訂正するということもありませ んでした。  部局の原稿は、原則的に部局の編集委員会等を通っています。一度通った原稿の疑義を指摘していますと、も う一回編集委員会等に戻さなくてはいけなくなり、大幅に原稿の再提出が遅れる、ということを聞いておりまし たので、そういうことはしない。部局のほうから照会があって、初めてこちらで答えるというかたちにしており ました。これは私にとって非常に助かりました。  たとえば具体例を申しますと、規則の制定、改正などを考えますと、日付の採り方がいくつもあるんです。学 部の教授会の決議日、それから東大で言いますと評議会の決議日、文部大臣の認可日というかたちで、かなり段 階があるわけです。.通史Lは主に評議会の決議日を採りましたが、教育研究に密接にかかわるのは教授会の決 議ということで、その日付を記す部局もあるわけです。これらを統一するのは容易な作業ではありません。いわ

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んや、内容の過不足、重複などは不可能に近いことです。  この点に関して編集委員会では、﹁部局史﹂は各部局が独立したかたちで編集されるものである、部局として 必要であると判断された事項に関しては、﹁通史﹂と重複しても構わない、というような判断を下しております。 これはその意味で非常に賢明であったと思います。それよりも第一に、編集室にはそれらにかかわり得る余裕が なかった、というのが実際、実務担当者として私の印象です。 ﹁通史﹂と﹁資料﹂の関係について  さらに編纂過程について申しますと、編集室が担当しました﹁通史﹂と﹁資料﹂との関係です。私が専任にな りました時点で、﹁資料﹂の担当者は決まっておりました。私の前任者酒井氏でした。私は、﹁通史﹂の編集に責 任を持つということになっておりました。この前任者の方は資料編の資料収集に長い間心血を注いでこられまし た。そして一応、刊行については、﹁資料﹂が先行し、﹁通史﹂がそれに続くという態勢でおりました。先行する といってもそれほどの期間をあけるという意味ではないですが、﹁資料﹂が先行する、という計画でした。しか し実際には﹁通史﹂が若干先行することになりました。  本日のお話しの参考として、﹁通史﹂と﹁資料﹂の目次をお配りしました。それをご覧いただければおわかり と思いますが、﹁通史一﹂を編集しているときには﹁資料二﹂にあります各部局の学科課程とか規則などは、史 料的に確定していないわけです。となりますと、﹁通史﹂は﹁通史﹂の必要で史料収集や、史料批判をしなけれ

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ばならなくなるというような、よけいな手間がかかるような態勢になってしまいました。まして、年表は﹁資料 三﹂に入っています。ですから、関連事項の取捨選択に、﹁通史﹂執筆者は相当苦労したと思います。年表があ る程度確定していれば、すべての室員が東京大学史、大学史のプロパーではありませんので、この時期はこうい う事項との関係において整理、記述するんだ、というようなパイロット的役割を果たせたでしょう。﹁資料﹂と の調整がついたのは、ようやく﹁通史三﹂でした。たとえば大学紛争関係の史料は﹁資料二﹂に収録されていま すので、それを基にして執筆することができました。  先ほど申しましたように、私は一応﹁通史﹂担当ということでしたので、﹁資料﹂一、二について最終の、い わば詰めの段階を除き、あまりコミットしておりません。ちなみに、﹁資料二﹂は酒井氏の転出がありましたの で、主に清水康幸氏︵現野間教育研究所員︶が担当し、﹁資料三﹂は全室員で取り組みました。もっとも、同じ 部屋で作業をしておりますので、史料の所在や位置づけなどの情報交換はありましたが、私が﹁資料﹂一、二の 入稿原稿を直に読み、﹁通史﹂との調整を行うことはありませんでした。実に奇妙にお感じになるかもわかりま せんが、実際、そのようなかたちで進んでおりました。﹁通史﹂、﹁資料﹂がそれぞれ別個に編集されているよう な雰囲気もございました。  このように、﹁通史﹂と﹁資料﹂との関連という点では、今回の東大の場合はあまり有機的ではなかったと思 います。具体的な例を挙げて申しますと、基本法令、規則などが﹁通史﹂、﹁資料﹂に共通して掲載されたりする。 大正七年の﹁大学令﹂は、﹁通史﹂にも﹁資料﹂にも全文掲載されているというようなことです。ただ、そのた

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めの利点もあるわけです。﹁資料﹂が先行していますと、たとえば大学令ですと、﹁通史﹂には全部引用すること はない、第一条だけで済ませようということになりがちですね。となると、﹁資料﹂あるいは大学関係法令集な どを横に置いておかないと、大学令の全文は読めないわけです。﹁資料﹂と対応させながら﹁通史﹂を読まなけ ればいけないということです。しかし重複して載せたために、その煩わしさはありません。  以上断片的に述べましたが、単純化していいますと、東大百年史の編纂は、﹁通史﹂、﹁資料﹂がそれぞれ並行 して進んでいったという印象です。 三、 ﹁通史﹂の編纂等について 34  次に、私は﹁通史﹂の実務的な責任を負いましたが、﹁通史﹂の編纂について、特にその校訂作業を中心にお 話ししてみたいと思います。  まず﹁通史﹂の原稿執筆について述べますと、東大の場合、教員及び大学院学生の分担執筆ということで進め られました。分担の割り当ては、主に各自の専攻分野に従って自己申請に基づいて決められました。ですから私 の場合ですと、先ほどの紹介にありましたように、大正七年の大学令の研究を進めておりましたので、大正期の 学制改革や大学令の制定というような箇所を割り当てられました。  まず、試験執筆原稿という名称で生原稿が提出されます。それをタイプに打ち、編集室で言いますタイプ原稿

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を作成いたします。これは百部作りました。このタイプ原稿に基づいて校訂を行い、実際の入稿原稿を作成いた します。タイプ原稿と生原稿とは全く同じものです。その途中で手を加えるということはいたしません。  幕末維新期から明治三十年までを対象としました﹁通史一﹂に例を取って、具体的に校訂の経緯を述べてみま す。生原稿の提出は昭和五十四年の春頃からぽつく始まりました。それらを順次、タイプ原稿化していき、校 訂作業が開始されたのが五十六年夏頃からです。私が専任になってすぐ校訂が始まりました。約二年間費やして 約一二〇項目のタイプ原稿を校訂しました。単純に計算して一カ月に五項目です。このように計算しますとずい ぶん少ないし、二年間というと、ずいぶん長い期間と思われるかもしれませんが、実際にこの校訂は毎日行った わけではありません。週二日程度でした。校訂専門の室員の方が週二日勤務なので、その方の出勤にあわせて校 訂作業を進めました。  当初はその校訂も暗中模索で、なかなか進捗しませんでした。一日 項目もできないというようなこともあり ました。校訂の作業内容は後ほど述べますが、校訂を一方で継続しながら、原典校正、出典表記あるいは年月日 の確定などを行いました。五十六年頃から毎月一回の室会議の折、厳しい原稿の取り立てがありました。執筆者 の方々は、実際の段になりますと執筆要綱などおかまいなしに執筆されますし、また引用文の転写間違いや年月 日の記憶違いなど、どうしても生じますので、このような作業が必要になったわけです。  入稿から出版までは半年間でした。ですので、年度末刊行、つまり三月に出すことが決まっておりました関係 で、毎年十月ごろには原稿を出版社に渡すことになっておりました。しかし、入稿段階で原稿を全部揃えられた

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のは﹁通史一﹂のときぐらいで、それ以降はさみだれ式に原稿を出版社に渡し、出来るところから組版をお願い する、というような状況でした。最終刊は、生原稿の提出が遅れた関係もあり、十分な時間と余裕がなく、タイ プ原稿化しないで、生原稿のまま入稿原稿を作成したことも屡ありました。  校正は一応三校までとなっていました。これは出版社のほうで完全に内校を済ませたもの、すなわち、出版社 のほうで内部校正を済ませ活字を差し替えたもの、を出すことになっておりました。ですから、そこでもう初校 が終わっているというかたちなので、三校までとなっておりました。内校が済んでおりましたので、﹁通史一﹂ のときの初校は非常にきれいでした。ほとんどゲタも誤植もない、きれいな初校が出てきました。それでも実際 は、出張校正に行きますと、四校、五校と最後まで原稿を手離せなく、出版社にずいぶん無理をお願いしました。 ところで、﹁通史﹂も﹁資料﹂もだいたい同じでしたが、東京のほうの編集室では再校ぐらいまでしかできませ んでした。↓月末から二月にかけて、毎年出張校正がありました。私は五十九年から約三年間、毎年出張校正に 行っておりました。最も長かったのは、最終巻の時で、延十四日間以上編集室を離れ、出張校正しておりました。  出張校正は、やはり﹁通史一﹂のときがいちばん印象的でした。そのときは私ともう一人の非常勤室員︵季武 嘉也氏・現東大文学部助手︶二名で行きました。最初、出張校正というものがわかりませんし、人員もそれほど 用意しないで行きました。そのとき室長から、少し大袈裟ですが、君が東大百年史の版面、”顔”を決定するん だ、といわれましたが、現場を踏むまでは、ピンときませんでした。行って判りました。ノンブルの位置とか、 版面の位置とか、諸々のものを決めなければならなく、ちょっと私には荷が重すぎたような気がいたします。 36

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﹁通史﹂校訂作業  以上が通史編纂の順序の概略です。次に校訂の内容についてお話ししていきたいと思います。  校訂の内容は、第一に内容上の重複のチェック、ついで項目間に内容の理解、解釈上に抵触があるかないか、 あるいは説明の過不足、論理の飛躍、叙述方法のバラツキ、体裁上の統一等です。校訂の方法ですが、これは試 行錯誤をかなり繰り返しました。校訂のメンバーがおり、ー、通史三Lには校訂作業委員会といたく仰々しく書 いてありますがー、私と室員二名︵田辺久子氏・現青山学院大学講師、照沼康孝氏・現文部省教科書調査官︶の 一       37 三名が恒常的に校正に当たっておりました。田辺氏は校訂専門で仕事をお願いしていた方です。この方は実に丁 寧な仕事をしてくれました。このほかに適宜、編集室の専門委員の先生方に加わっていただきました。校訂は次 のように進めました。  まず校訂のメンバーがあらかじめタイプ原稿を読んでいき、お互いの校訂案を出し合う。それを一本化し、そ の段階でどうしてもわからない、校訂メンバーで決着がつけられない問題については、編集室の専門委員会、あ るいは通史各巻の担当の専門委員の先生に解決を委ねました。この作業と並行して、各巻担当の専門委員の先生 にはワンセット、タイプ原稿をお渡しして、通読をお願いしました。他方、ほかの室員にはタイプ原稿で原典校 正等をやってもらうという態勢になっておりました。ですから、専門委員の先生がタイプ原稿で読まれた原稿と、

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校訂メンバーが纏めた原稿と、それから原典校正等の行った原稿、といった三つのタイプ原稿を一本化して、入 稿原稿を作りました。入稿原稿を作成した段階で、正確には校訂作業は終了するはずなんですが、問題の解決や 原稿提出等が遅れたり、初校の段階でも作業は山積みでした。初校は五通とりました。返却用、中野用、専門委 員用、標出用、その他の作業用に色分けして進めました。ですので、百年史の原稿は、初校の段階で最低三名の 目が全編に通されました。  今回、お話しするということで改めて初校のゲラを見ましたら、多くの赤字、組み替えの指示、移動の指示が ありました。タイプ原稿の段階と初校の段階とでは、編集室の構えもちがいますし、専門委員の先生も一段と厳 しい意見を附されてきました。それに出版社との間で割り付け、活字指定、組版などのマニュアルは作ってあり ましたが、なかなか思うように組み上ってきません。入稿の段階で間に合わなかった出典表記、原典校正、専門 委員会の修正意見をここでまた一本化するわけです。これがまたなかなか大変な作業でした。このように再び一 本化して初校が出版社に戻っていきました。初校の段階での補入原稿ももちろんありました。ですから、内校済 みのきれいな初校が、再び見事にごわごわとなって戻っていく、という状況でした。分担執筆で、かつ、校訂作 業をかなり重要視した結果、今回の百年史はずいぶんと手間をかけて編集された、と申していいと思います。こ のような過程を経て、編集委員会の名で編集された東京大学百年史となったわけです。  実際の校訂について、少しのべてみます。校訂段階での内容上の重複について申しますと、分担執筆ですので、 相互にまたがる関連項目でしばく起きるわけです。﹁通史﹂の項目は三三二項目あります。それらの項目を調 38

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整するのには相当骨が折れました。分担執筆ですので、書く方はやはり起承転結をつけたいわけです。ところが、 それはその項目限りでの起承転結であって、百年史の一項目では違うわけです。百年史全体の編纂の立場に立つ と、ある関連記述が他の項目にあるときは、贅肉を落として最小限のものにする、といった具合です。いちばん 多いのは、起承転結の起の部分の削除でした。たとえば、明治二十年代の教育課程を書くとき、どうしても執筆 者は、明治十年代の教育課程を↓応概観しておかないと、二十年代の記述のすわりが悪いというので書くのです が、実際通して編纂する立場から読むと要らなくなる。その辺がまず削除ということになります。  それから説明の過不足の過についてですが、あまりほかの人の原稿で申すと問題がありますので、私が担当し ました大学令の制定で申します。この法令の制定過程は私が修論で取り扱ったものであり、本人としてはその成 果をふんだんに盛り込んで、決定版という気持ちで書く。枢密院の文書まで駆使して書くんですが、研究論文な らいざ知らず、そこまで書き込まなければならないことはないわけです。東大の百年史にとっての、大正期以降 の基本法令たる大学令の記述としては細かすぎる、という指摘を受けました。そのとおりだと思います。個人の 研究論文と年史の一項目の原稿とでは、比重の置き方が違うのは当然だと思います。次に不足の場合です。ある 程度その項目に精通していますと、書かなくてもいいというんですか、ご自分のほうでおわかりになっているの で、あえて書かない、というか、本当に骨子だけしか書かれない場合があるわけです。このときは、先きとは逆 にどんどん史料を補入して肉付けました。  つぎに一番手間がかかったのは、やはり叙述方法のバラツキでした。

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 記述のバラツキで最もはっきりでたのは、教育機関の描写においてでした。東大の場合、明治十年末から二十 年代初頭に、ほかの省庁の高等専門教育機関を包摂しましたが、それぞれの機関の描写がまちまちだったのです。 非常に人事を詳しく書く方がいらっしゃって、雇外国人から後任邦人教官の任免まで書く。片や雇外国人の役割 を記述するだけで、ほとんど邦人教官が出てこない、という見合でした。それぞれの専門分野の方が自分の関心 に基づいて纒められるということで執筆が進みましたので、このようなことが起りました。あるいは、学科課程 が綿々と続くんですが、ある時になると、プッツリなくなる。一方の学校にはまだ学科課程が出ていながら、他 方の学校ではでてこないといった、バラツキがあるわけです。これらのすべては、校訂の作業委員会で処理しま した。校訂にあたって、その執筆者から原稿の基礎となった史料を求めるということは、ほとんどありませんで した。多くは独自に改めて史料を読んで行いました。それに校訂の過程は執筆者にはできるだけ見せませんでし た。いくら豪毅でも、自分の書いた原稿が真っ赤になっているのを、快いと思う方はそれほどいらっしゃらない と思うんです。ですから、執筆者にはほとんどご覧に入れませんでした。  あと、体裁上の統一、出典表記に関しても随分苦労しましたが、今回は省かせていただきます。  こういった校訂作業を振り返ってみますと、裏を取る、ということが大きな課題だと思います。執筆者と同じ 史料をもう一度一から読み直すという場面が多々ありました。このため、非常に時間がかかりました。  校訂するにあたってはずいぶんと大錠をふるいました。あるいは、立ち入った作業をいたしました。その原稿 は大学院学生に限らず、専門委員の先生のそれも対象になっております。それに対して、編集室の専門委員の先 40

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生方は、校訂のそれらの作業に対しては全面的な信頼をおいてくれました。実に寛容であったと思います。

五、今回の問題

 以上のように﹁通史﹂の編纂は進みました。六十二年に刊行が終わったのですが、ここで私の感じた編纂過程 の問題点と課題について、お話ししてみたいと思います。  まず最初は、実務担当者としては連年出版、それも﹁通史﹂と﹁資料﹂とを各一巻、計二巻出すという態勢は、 やはり無理があったと思います。﹁通史﹂の校訂の例でいいますと、﹁通史一﹂の場合、二年間校訂に手間をかけ られたわけです。ところが、﹁通史二﹂、﹁通史三﹂になりますと、その期間が極端に短くなる。それは十月段階 で全く完成原稿ができて、あとは純然たる文字校正という状態まで仕上げられていれば、次年度の入稿まで最低 一年間準備期間が確保されるわけです。しかし、実際には計算通りに運びません。一応入稿段階で次の巻の準備 にほかの校訂メンバーは入れますけれども、私はそれ以降、最終調整にあたっているわけです。出張校正から帰 ってきて、ようやく校訂に参加できるという状態ですので、実質的には八カ月間しか校訂の期間がなくなる勘定 になります。十分な校訂を経ないまま入稿しなければならなくなりました。結局ツケは回ってきまして、初校の 段階で体裁上の統 とか内容の統一などを処理することになるわけです。ましてや、片方で最終局面の﹁資料﹂ 編集にもかかわるといった、実に慌しい状態になります。

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 しかし、連年出版のいい点はありました。”波に乗る”ということがあった。“勢いがつく”というんですか、 緊張が継続できた、ということがあります。これが一巻出して、一年休んで、また一巻といった隔年出版でした ら、それぞれの編纂室の事情があると思いますが、東大の場合はちょっと無理だったのでないか。先ほど申しま したのと矛盾するかもしれませんけれども、勢いに乗って、波に乗って、三年間で一気呵成に出版した、という ことはあったと思います。できれば、年一巻出していくのが順当ではないでしょうか。その出版の順序はもちろ ん資料編を先行していただきたいと思います。東大の場合が例外だったのではないかと思いますが、﹁通史﹂、 ﹁資料﹂はともに年度末に出ましたけれども、﹁通史﹂のほうが二、三週間先行しました。第一回の本研究会で、 寺崎昌男室長が述べられておりますように、東大の場合この点において”甘さ”があったと思います。やはり、 ﹁資料﹂を先行して、﹁通史﹂がそれに基づいて編集される、といった順序がよかったと思います。資料編が先行 すれば、確定した基礎資料が全体で共有されるということなんです。これがないために、今回、非常に多くの手 間がかかりました。東大の編集室において、室員全員が分担して作成した公文書類の目録としては、評議会の議 題目録等、数えるほどしかありませんでした。もちろん、評議会の議題目録は非常に重要な史料なんですけれど も、その史料だけでは書けないわけです。当然、関係資料が必要となります。これらの関係資料も含めた資料編 が確定していれば、最低限の労力は省けたでしょう。  一般書とか参考書を資料編に含めるのは難しいというなら、せめて、学内の公文書あるいは学内諸規則類が資 料編として出版されていれば、かなり﹁通史﹂の執筆者の負担は減ったと思います。負担が減った分、ほかの作

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業に従事できる余裕も生まれたと思います。﹁通史﹂が先行したといいますか、﹁資料﹂が後を追ったということ で申しますと、﹁資料三﹂の年表は、﹁通史﹂の記述を中心にして、基本力ードを作成してまとめました。資料編 できちっと年表ができていなかったので、﹁通史﹂のところから年表項目の捨い出しをやり、カードを作成し、 それをもとにして、それ以前カード化されていた一般の関連事項と組み合せてつくったという、非常に危うい年 表なんです。ですから、年表は﹁通史三﹂にも依拠するわけですから、再校段階まで何頁になるか、なかなか確 定しませんでした。  いま出版形態と出版の順序を述べましたけれども、もう一つは、スタッフとして非常勤の増員よりは専任を増 やしたほうがよかった。助手あるいはそれ以上の教員をつけたほうがよかったのではないか、と思います。ただ、 増員といっても二名ぐらいで結構だと思います。東大の場合も、この点は非常に因難でした。それぞれの大学に それぞれの事情がありますが、おしなべて人事については非常にきつい問題があると思います。それでも、専任 一人にすべての仕事が集中することには無理があると思います。それに危険でもあるわけです。もしその一人が 倒れたら、編集実務は激しく渋滞をきたしますから。そして東大の場合、入稿が終わり、初校が出る十二月ごろ から、俄然臨戦体制に入るわけです。その場合、非常勤の方々に夜十時ぐらいまで残業してくれということは、 不可能だと思います。昼間は事務とか打ち合わせ、それから史料調査、電話の応対などがあって、集中して原稿 の調整に向かえるのは、遅くなるわけです。五時過ぎて電話もかかってこなくなりますと、集中してできるわけ です。すると、すぐに十時頃になります。私の場合は、ほぼ同年齢層の室員︵前田 男氏、小熊伸一氏、梶田明

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宏氏、米田俊彦氏︶が多かったこともありますし、彼らも私が同年配だということで、同情もありましたので、 ずいぶん無理をお願いしてきました。しかし、それにしても、編集実務に関する全局面に彼らはかかわるわけで すから、多くの人々をいくら投入しても、専任者の代行はできないわけです。そして、もっと重要というか、個 人的な感想を述べますと、専任者が一人というのは精神衛生的にあまりよくないですね。専門委員の先生方は日 常の教育研究活動や管理運営といった、いわば本務があります。そうなると、頻繁に来室は願えません。細かな ことを相談することも、なにか躊躇します。校訂の時でも専門委員の先生あるいは専門委員会に解決をゆだねる 問題は、項目全体の書き直しにかかわる事項が中心です。それ以外は、校訂作業委員会で処理する、すなわち実 質的には専任一人に負担がかかってくるわけです。いわば、編集室の態勢として実務の責任をとる者が一人しか おりませんので、そうならざるを得なかった、ということです。これは私が年史編纂とか共同作業が初めての体 験で、夢中だったということで、余計に感じたかもしれません。  これは問題というよりも、先生方との関係をちょっといいます。ちなみに、私は職員を併任しており、職員の 方たちとの関係、あるいはそれが持つ意義も興味深いですけれども、今回は割愛いたします。編集室の当時の雰 囲気は、事務局と場所的に離れていたんです。そのこともあり、研究室的な雰囲気がありました。ただ、実際は 五十九年度頃からはだんだんと作業集団化していきましたけれども。編集室の主力部隊が大学院学生ということ もあって、それらが雰囲気づくりを手伝っていたかもしれません。しかし、何をおいても、室長および専門委員 の先生方が室員の史料調査とか執筆活動をかなり自由に保障してくれました。監督するような姿勢はなかったと

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思います。校訂の場合でいいますと、細部にわたって、あれどうやった、これどうやった、報告しろ、というも のではなかった。私たちの作業に信頼を置いてくれました。全体として、室員の自発的な活動を保護する、とい う姿勢、雰囲気だったと思います。これにはたいへん感謝しております。私の研究者としての力量は名実ともに ここで育てていただいたと思っております。この雰囲気は、いまでも史料室に残っておりますし、室長はじめ専 門委員の先生方、室員の方々は、現在の私の財産でもあります。

六、東洋大学史紀要等について

 六番目に、東洋大学史紀要等について、と書きましたけれども、史料室に最近、図録なども寄贈していただき ましたので、僧越ですけれども、感想をぜひ述べさせていただきたいと思います。私が承知しております出版物 は、東洋大学史紀要、東洋大学史資料目録と、﹃図録東洋大学一〇〇年﹄の三種類だけなんですけれども、率直 に申しますと、“すごいな”という印象です。  紀要二号に、百年史年表︵稿︶があります。早い時期にこのような稿本を、しかも出典注付きで作成されたの には、非常に驚きました。東大の場合は、やはり年表等の稿本を作成しましたが、日付のない、年と月だけの簡 単なものですし、ごく一部に配布されたにすぎません。東大の場合、正確な年表はこれまでなかったんです。編 纂にあたって、共通の基礎知識として緊急な課題であったと思うんですが、結局、年表はいちばん最後、﹁資料

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三Lの巻末になってしまいました。  資料目録にも学ぶ点ありました。一つは、史料が公文書類という点ですね。二つは史料の一点一点に内容分類 項目が付されている点です。私たちも東京大学史史料目録を作成しましたが、戦前に編纂された﹃東京帝国大学 五十年史﹄の史料目録を除けば、個人文書の目録が中心です。元総長加藤弘之、、同内田祥三、同平賀譲あるい は井上哲次郎、坪井九馬三といった、個人文書が中心の目録なんです。東大の公文書、行政資料の目録化は手が 付けられていません。ようやく今年度、﹁文部省往復﹂の目次を史料目録として人名索引を付して、複刻する予 定です。ただし明治四年分だけです。このように公文書類の目録化がやっと緒についた状態です。まして、二番 目に述べました内容分類項目なども、現在の態勢では望むべくもありません。設立主体別に内部機構が違ってお りますので、それぞれに沿った内容分類項目が必要ですし、そのマニュアルはいまだ確定してない。そんなこと を考えますと前途遼遠です。それでも、編纂終了した現在の時点において、その内容分類項目に従って整理する 必要性は痛感しています。ある事柄について、ここまでは史料が確認できている。所在はここである。これ以上 は未詳といったデータ、目録類は編集室にはほとんどありません。このような状態はやはりよくないわけで、目 録類として定着させなければならないことは自明の理です。ですから、東洋大学のほうで内容分類項日に従って 史料の所在状況等の調査が始められているという、あの資料目録を見た時、私はまさに叱陀激励されたような気 持になりました。  最近出されました図録を拝見いたしました。これに対してはただく感服いたしました。私が知っております

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これまでの写真帳、図録類では最も整備されたもの、と考えております。東大でも百年記念の写真アルバムを編 纂しました。今回の東洋大学の図録に比べますと、まだまだ初歩的なアルバムだと思います。写真帳、図録など は記念式典の当日に間に合わせなければならないという至上命令で編纂されるもので、最終的には拙速に走る傾 向があります。十分な手間と時間がかけられない場合が多々あります。そんななかで今回の東洋大学の図録は、 優れた作品といえると思います。写真帳、図録は単なる記念式の当日の引き出物ではなく、年史編纂の重要な一 つの成果である。貴重な大学史関係史料一部を構成するものである、という位置を与えられたと思います。  それにしても、今後、図録を作成あるいは企画、編集する大学は大変でしょうね。あの程度のものをつくらな いと、なかなかこれを超えられないということになりますので。

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さいごに 1二、三の希望1

 最後に編纂終了後のことについて若干お話しして、終わらせていただきたいと思います。  はじめに述べましたように、私は現在東京大学史史料室に勤務しております。これは百年史編集委員会および 編集室の専門委員の先生方の努力の結果であります。昭和初期に編纂された﹃東京帝国大学五十年史﹄の史料も、 ごく一部分が残されただけで、史料の散逸があったわけです。五十年史の轍を踏まぬように、とりあえず百年史 の編集の過程で収集した史料を整理、保存していくということで史料室は設置されました。旧編集室の敷地面積

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はそのまま確保しましたけれども、人員は大幅に減少しまして、現在は私一人なんです。アルバイトの方もつか ないという状態です。予算も微々たるものです。年史編纂は年史の刊行をもって終わるということが一般的な考 えであると思います。しかし、いまだ現場にいる者にとってみますと、実はこれからだ、と。これからゆっくり 年史編纂のために収集した膨大な史料の整理及び研究ができるという気持ちなんですが、物的あるいは人的な保 証という意味では非常に寂しい限りです。そこで思いますのは、年史編纂に要した期間とほぼ同じ期間が、残務 整理というか、今後の教育研究あるいは大学行政に資するための基礎史料の整備という点では、必要であると思 います。そのためには、ぜひとも年史編纂終了後、しかるべき体制、恒常的な機関を、大学史料室あるいは大学 文書館︵アーカイヴズ︶、名称はいろいろありますけれども、考えていただきたいと思います。  たとえば、今回の百年史で使用した事務局史料のうち、評議会の記録の事項別索引の作成あるいは審議件数の 統計的処理など、全くなされておりません。また、明治四年の文部省設置以来、文部省との往復文書が東大に残 っております。﹁文部省往復﹂というものなんですが、それの目録化もできておりません。文部省の記録が、大 正十二年の大震災によりそれ以前のものがほとんど消失してしまっている状態において、明治初期以来の近代日 本の高等教育政策史・学術史等にかかわる原史料として、国立公文書館の史料に比べても決して劣るものではな いと思います。しかし、その目録すら正式なかたちで出版されておりません。﹁文部省往復﹂だけでも全部目録 化して、人名、事項別索引の完備した史料目録をつくろうと思ったら、十年以上の歳月が必要です。そのような 作業、地道な作業を支うるための機関をぜひ構想していただきたいと思うのです。

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 もう一つは若い東洋大学史のプロパー、専門家を養成していただきたい。あるいは、そういう姿勢で年史編纂 にかかわった若手の研究者をとらえてほしいという気持ちがあります。私自身がそのような雰囲気中で勉強させ ていただき、土田先生を始め専門委員の先生方から多くの学問的董陶を受けましたので、強く感じることです。 年史編纂に使用された史料は収集した史料全体のごく一部ですね。その過程で思いついた企画とかアイデアを確 実に実現させていくには、編纂にかかわる先生方との交流もあり、事務局組織にもある程度精通している若手の 研究者が必要ではないかと思います。多くの国公私立大学の編纂のスタッフを見ますと、専任のスタッフ︵教 員︶を置いているのはほとんどごくく少数ですし、編集後は解任されてしまいます。これでは、継続性と史料 研究の深化とは望めないのではないでしょうか。高名な学者の個人文書の整理とか目録作成は、多くの研究者の 方々もなさります。大学史料の基本、基幹は公文書類だと思うんです。それらに学術的な意義を感じ、地道な史 料整理を積み上げていくためには、専任スタッフ、あるいは若手の研究者を編纂過程から予想して養成していく 必要があると思います。その作業を支えるのが、一つは、紀要とか資料目録の刊行でしょう。  三点目は、ぜひとも東洋大学百年史編纂室の記録をつくられることをおすすめします。編纂の足跡をぜひとも おまとめになったらいいと思います。東大では、今回できなかったことなんです。この点では私は今でも反省し ています。ちなみに、五十年史、昭和十七年に紀元二千六百年奉祝の関係で出されました﹃東京帝国大学学術大 観﹄のそれぞれの編纂の記録はほとんどありません。この編纂室の記録こそ次ぎの年史編纂にあたっての基礎資 料データになると思います。その内容は多岐にわたると思いますが、編集組織、予算、スタッフも含めて施設、

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物品の拡充など、ありとあらゆるものの記録を残して、それを一冊の本なり何らかのかたちで残していただいた らよろしいと思うんです。そのような記録こそ、次の世代の実務担当者にとっては最も参考にもなり、実態を伝 えるものとなると思います。  ご清聴ありがとうございました。 ︵注記︶ この講演は﹁東洋大学史研究会第三回例会﹂ にあたり、講演原稿に加筆補修を行なった。          ︵東京大学助手・東京大学史史料室員︶ ︵昭和六二年十二月十日︶に於て行なわれたものである。尚、紀要掲載

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参照

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