スティラマティにおける「所縁」の二義性について
―『唯識三十頌』安慧釈における用例を中心として―
北 野 新 太 郎
1.問題の所在 片岡啓博士による「形象論の分類」1)に従えば,スティラマティ は,「有形象説の無形象認識(=無相唯識)論者」という,若干,ややこしい立場 にたつ論師であると考えられ,その,スティラマティの立ち位置の複雑さが,(特 に初期唯識思想の)多くの研究者に,「安慧の一分説」というのは,(慈恩大師)基 が勝手に捏造した考え方である可能性があるという意味において,存在しなかっ た考え方なのではなかったのか,という(実は誤った)疑惑を持たせるに至った大 きな原因となっていたのではないかと考えられる.本稿においては,特に『唯識 三十頌』安慧釈においてスティラマティが使用する所縁(Alambana)という言葉の 二義性の問題に焦点づけをすることを通して,古来,「一分説」とされてきた安 慧の立場と,サンスクリットのTriMCikAbhASya(=Tbh=『唯識三十頌』安慧釈)にお ける Alambanaについての説明箇所とを比較検討し,上田義文博士のいわれる 「能縁は有(=依他起性)であり,所縁は無(=遍計所執性)である認識」2)と同一の 構造を示すと考えられるスティラマティ(安慧)の思想の本質に迫ることを目的 としている. 2.片岡博士による「形象論の分類」について 片岡博士は「有形象認識論の形 象は非真実か?」という論文の中で「形象論の分類」として,分類表を示されて いる.その「形象論の分類」表によれば,スティラマティ(=安慧)の立場は, 「無形象認識論者の立場 nirAkArajJAnavAdipakSa」であることになるのであるが, ここでわれわれが注意すべき点は,その「無形象認識論者の立場」は,「有形象 説 sAkAravAda: 瑜伽行派・経量部」の立場に含まれている,ということであろ う.スティラマティが瑜伽行(唯識)派の論師であることを考えれば,それは, 或る意味で当然のことであるともいえるのであるが,そのことは,取りも直さ ず,スティラマティが「有形象説の無形象認識(=無相唯識)論者」という,若 干,ややこしい立場にたっている論師である,ということを意味していることに なるのである.そして,上記のことが多くの初期唯識の研究者にとって,盲点となっていた点であり,「安慧の一分説」というのは,形象自体を認めない考え方 なのではないか,という先入観に基づいて,そのような「安慧の一分説」という ものは,基が捏造した,スティラマティの思想としては,存在しなかった考え方 なのではなかったのか,という(実は誤った)疑念をもち続けてきたところがあっ たのではないだろうか?上記のことを念頭に置いた上で,Tbhにおけるスティラ マティの Alambanaについての説明箇所を確認していくことによって,スティラ マティの思想における「所縁の二義性」の問題について以下に確認してみたい. 3.スティラマティにおける Alambanaの用例について ここでは,まず,スティ ラマティがTbhにおいて,Alambana(所縁)という言葉を,どのような形で使用 しているのかについて,用例に沿って確認してみたい.まず,スティラマティ は,「外界の対象なくして,識が生じる」ということについて,以下のように説 明している. 外界の対象なくして,ただ対象の形象を有する識のみが生じるという,このことは,どの ように理解されるのか.なぜならば,外界の対象は,自らに似て顕現する識を生ぜしめる ことによって識の所縁縁であると認められるからであるが,ただ原因であることのみとし てではない.等無間[縁]などの縁との区別がないという過失があるからである.(Tbh, p. 16, ll. 17–20) ここでは,「外界の対象」の存在を否定する,という意味で,外界の対象は自 らに似て顕現する識を生ぜしめることによって識の所縁縁であると認められる, という立場を示している.唯識派の論師であるスティラマティは「有形象説 sAkAravAda」の立場にたっているのであるから,形象自体の存在は認める立場を とる,という意味において,上記の説明箇所は,或る意味において当然のことを いっている,ともいえるであろう.しかしながら,同時に,われわれには,安慧 は伝統的に「無相唯識派」の立場をとるとされてきたのであるから,無相唯識を 説くとされる,その安慧と,サンスクリットのTbhなどの作者であるスティラマ ティの考えは,実は違うのではないのか,という一つの(実は誤った)疑惑が生じ てくることになるといえるであろう.スティラマティは,「対象の形象を有する 識だけが生じる」ということについて,以下のように説明している. このように,外界の対象は存在しないから,対象の形象を有する識だけが生じるのである. 夢の中の識のように認められるべきである.感受作用などもまた,過去と未来のものは, すでに滅したものと未だ生じていないものであるから,その形象を有する識を生じるもの ではないのである.また,現在のものも,現在[の意識]を生じさせるのではない.生じ
つつある状態においては,存在していないからである.すでに生じた状態においては,識 もまた,その形象として生じているのであるから,何か,なされるべきことがあるであろ うか,それゆえ,意識もまた,まさに所縁なしに生じるのである.(Tbh, p. 17, ll. 2–7) ここでもスティラマティは「外界の対象は存在しないから,対象の形象を有す る識だけが生じるのである」という立場をとるのであるが,スティラマティが 「有形象説 sAkAravAda: 瑜伽行派・経量部」の立場にたっている以上,上記のこ と自体は,当然のことをいっているにすぎない,といえるであろう.ただ,上記 の引用箇所の最後の箇所において「意識もまた,まさに所縁なしに(anAlambanam eva)生じるのである」といっている点には,注意すべきであろう.ここでス ティラマティがいっている「所縁」とは,「1. 無形象説 nirAkAravAda」の立場をと る人々の考えるような「所縁」のことなのであるが,同時にそれは,スティラマ ティの立場でいえば「虚妄分別自身が構想しているところのもの」であり,TK 第17偈でいえば,yad vikalpyate に相当するものであり,それは,「識よりも外 に(vijJAnAt pRthak)」構想されたものである,ということをスティラマティ自身が いっているのである.スティラマティは,ヴィカルパであるところの識転変の対 象(Alambana)が存在しないことについて,以下のように説明を続けている. 所縁(対象)が存在しないからである.また,どのようにして,その所縁が非存在である というこのことが知られるのか.それの原因が全て具わっており,反対条件がないとき に,それが生じるのであって,他のものから生じるのではないのである.そして,識は 幻, 気楼,夢,眼病などの非存在の対象(所縁)に対しても生じるのである.(Tbh, p. 35, ll. 17–19) ここでスティラマティは「所縁(対象)が存在しないからである」というので あるが,ここでスティラマティが使用している Alambanaという言葉には,二通 りの意味が考えられる.まず一つめは,「所縁」という言葉が否定対象として使 用されているという意味であり,二つめは,asad-Alambana,「存在していない所 縁」ということは,言葉を補って考えれば[外界の対象としては]存在していな い所縁,ということで内識の中に顕現していて「所縁」のようにみえているも の,は「ある」という意味である.しかしながら,この後に検討する箇所からも 明らかなように,同時に虚妄分別は「対象」を虚妄分別自体よりも〈外に〉ある と構想するはたらきであるという点には注意すべきであろう,それゆえ,それ (否定対象としての所縁)は,bahirbhUtamivopAdayaされたもの,すなわち,虚妄分 別よりも〈外に〉,(虚妄分別によって)設定されたものである,ということになる
のである.スティラマティは「所縁」を「外界の対象」に対応させて以下のよう に説明している. もし,識が 所縁 と結合して生じるならば,そのように,幻などには対象が存在しないか ら,識は生じないであろう.その前に滅した[同]類の識から,識が生じるのである. 外界の対象 から[生じるの]ではないのである.それ(外界の対象)が存在しないときに も[識は]生じるからである.(Tbh, p. 35, ll. 19–22) ここでの文脈としては「識から識が生じる」といっているのであるが,スティ ラマティが使用している Alambana という言葉の概念規定自体に着目してみると, その Alambana という言葉自体は「外界の対象(bAhyArtha)」に相当するものを意味 していることが確認できる.このことから,一般的な意味での「所縁」は,ス ティラマティにとって否定対象であることがわかるのであるが,注意すべき点 は,先にも触れたように,虚妄分別自体は,それ自体よりも〈外に〉対象を構想 するはたらきを有しているため,そのような意味での Alambana と虚妄分別の構 想対象としての vijJeya(=遍計所執性)は全く同じものを指すことになる,とい うことである.また,スティラマティは,以下の箇所で「構想作用の対象(所縁) は,増益されたものであるから,非存在であると知られるべきである」という立 場を示しているのであるが,このことは,所縁が遍計所執性であることの有力な 根拠であるといえるであろう. しかし,対象が互いに異ならなくても,知覚する者に,相互に矛盾する知覚が見られるの である.しかし,一つのもの(一つの対象物)に,相互に,それぞれ矛盾した性質がある ことは適合しない.それゆえに,構想作用の対象(所縁)は,増益されたものであるか ら,非存在であると知られるべきである3).(Tbh, p. 35, ll. 22–25)
ここでスティラマティは, tasmAdadhyAropitarUpatvAd vikalpasyAlambanam asad iti(構想作用の対象(所縁)は,増益されたものであるから非存在である)というのであ るが,「増益された」といわれている時点で,それは,遍計所執性としての存在 性格を有するものであるということが確定しているといえるであろう.そして,
その 対象 を Alambana であるといっているのであるから,その Alambana
は, vijJAnAt pRkag arthAstitvam abhiniveCanti(MVT, p. 17, ll. 25–26)(識よりも別に(外 に)対象の存在性を執着)されたものである,ということになるのである.この場 合の「所縁」とは,認識内部の〈主観と客観〉における〈客観〉ではなく,フッ サールのいう〈内在と超越〉における〈超越〉に近い意味の 認識対象 を表し
ていると考えられ,それは上田のいう「所縁」に対応しているのに対して,認識 内部の〈主観と客観〉における〈客観〉とは,長尾雅人博士の重要視される「認 識内部の所遍計(parikalpya=依他起性)」に相当することになる.そのような点か らみても,上田と長尾の議論は,やはり,両者の間に完全に論理の〈ズレ〉があ ることが確認されるといえるのである.長尾には,意図的に論点をずらしながら 論理を展開しているようなところがある.そして,当然のことながら,その場合 の 対象 とは,「所取・能取」として,内と外との両方向に,それぞれ別個に, 構想されたものについてもいえるわけであるから,これは,『成唯識論』の伝え る安慧説,すなわち,「見分・相分は,遍計所執性であって,情有理無」である という考え方と一致しているといえるであろう. 次に,スティラマティは「構想作用の対象である事物は,存在性がないのであ るから存在しないのである.それゆえに,その事物は,遍計所執性に他ならな い」と明言している. この点についての理由をいって,「それは,存在しないのである」というのである.構想 作用の対象である事物は,存在性がないのであるから存在しないのである.それゆえに, その事物は,遍計所執性に他ならないのである.(Tbh, p. 39, ll. 12–14) ここでスティラマティは「構想作用(vikalpa)の対象である事物は,存在性がな いから存在しないのである」といっている.この箇所の表現からみると,スティラ マティは,依他起性としての存在性格を有するvikalpaと,その「対象」との間に 主観・客観4)の関係を認めた上で,「構想作用の対象である事物は,存在しない」 といっていることになる.それは,vikalpa自身の有する「識よりも外への対象志 向性」の向かう〈対象〉に他ならないものを意味している,といえるであろう.そ の場合の〈対象〉は無論,虚偽であるから,片岡博士による分類表の中の「2. 1. 虚偽形象論 alIkAkAravAda=無形象認識論者の立場 nirAkArajJAnavAdipakSa」に対応 し,無相唯識の立場にたっていることになる.それゆえ,スティラマティがアー カーラの存在を前提に説明を進めていたとしても,そのことを根拠として,ス ティラマティの唯識思想も「有相唯識であって,ダルマパーラの立場と同じだ」 などとは,決していえないことになるのである. 結論 片岡博士による「形象論の分類」に従えば,スティラマティ(=安慧)は, 唯識思想家であるから,「2. 有形象説 sAkAravAda: 瑜伽行派・経量部」の立場に 分類されることになる.また,古来,無相唯識の立場にたつとされるスティラマ
ティ(=安慧)は,片岡博士による分類表の中の「2. 1. 虚偽形象論 alIkAkAravAda= 無形象認識論者の立場 nirAkArajJAnavAdipakSa」に分類されることになる,といえ るであろう.すなわち,スティラマティは「有形象説の無形象認識(=無相唯識) 論者」の立場という,若干,ややこしい立場にたっている,ということになるの である.主として,初期唯識思想の中の唯識三性説を中心に研究を進めている研 究者には,「安慧は無相唯識である」ということは,古来,いわれるところの, 一つの常識的見解であるとして,「スティラマティが無相唯識である以上,ス ティラマティは,形象(AkAra)を認める立場を示してはならないのではないか」 という先入観に基づく一種の思い込みのようなものに支配されてきたところが あったと考えられるのである.そして,そのような考えをもったまま,サンスク リットのTriMCikAbhASyaなどを読んでいると,アーカーラ自体を認めて(前提) として議論を進めている箇所に遭遇するため,「実は,スティラマティは無相唯 識ではなく,安慧の一分説というのも,基が勝手に捏造した考え方なのではない のか」というような,(実は誤った)疑惑をもってしまうところがあるのではない かと考えられるのである. 1)片岡啓「有形象認識論の形象は非真実か?」『印度学仏教学研究』第67巻第1号,2018 年,pp. 374–367. 2)上田義文『「梵文 唯識三十頌」の解明』1987年,p. 68, ll. 8–10. 3)この場合の「所縁」は,明らかに(外界に構想された)「非存在のもの」を表しているよ うである. 4)このvikalpaと遍計所執性との関係は,現象学の用語にあてはめると,〈主観と客観〉と いうよりも,〈内在と超越〉に近い関係であるとみるべきかもしれない. 〈一次文献と略号〉
TK(Tbh) TriMCikAbhASya. VijJaptimAtratAsiddhi: Deux Traités de Vasubandhu, ViMCatikA (la
Vingtaine) accompagnée d’une Explication en Prose et TriMCikA (la Trentaine)
avec la commetaire de Sthiramati. Ed. Sylvain Lévi. I. Paris: H. Champion, 1925. MVT MadhyAntavibhAga-TIkA. Ed. Susumu Yamaguchi. Nagoya: Hajinkaku, 1934. Reprint,
Tokyo: Suzuki Research Foundation, 1966.
〈キーワード〉 スティラマティ,所縁の二義性,形象論の分類,安慧の一分説