印度學佛敎學硏究第66巻第1号 平成29年12月 (108) ― 385 ―
『法華経』「方便品」五千起去に関する
漢訳テキストをめぐって
―「有如此失」と「有知此失」―
冨 永 曜 子
1.問題の所在
周知のように,『法華経』「方便品」には五千起去と呼ばれる箇所がある.その 内容は,釈尊の会座にいる者の内,五千人の四衆がその場から退座するというも のである.退座の理由として同経は,獲得していないのに獲得したという思いを 懐き,達していないのに達したという思いを懐くという増上慢であるため1),釈 尊がこれから説こうとされる教説を聞かずに退席したという. しかしながら,五千起去が記される長行とそれに対応する第39偈を対比して 検討すると,増上慢の特性を加味した解釈がなされるため,以下のような問題点 が浮かび上がってくる. 第1に,サンスクリット本(Saddharmapuṇḍarīkasūtra,以下SP)と漢訳テキスト(鳩 摩羅什訳『妙法蓮華経』,以下『妙法華』)との対応の問題である.長行に関して,SPにta ātmānaṃ savraṇaṃ jñātvā2)(彼らは自らに傷(欠陥)があることを知ったうえで)と
ある箇所を,『妙法華』は「有如此失」3)(此の如き失あり)と訳出する.そのため,
漢訳では,増上慢の四衆が自らの傷(欠陥)を知っているとは断定できないこと
になる.偈頌に関しては,第39偈をSPはsaṃpaśyanta imaṃ doṣaṃ4)と読み,当
該箇所を『妙法華』は「不自見其過」5)と訳出する.すなわち,SPでは[増上慢 の四衆は]この過失を見るとあるのに対して,漢訳では[増上慢の四衆は]自ら その過を見ないとある. 第2に,『妙法華』における長行と偈頌の内容の不一致という問題がある.羅 什は,長行の「有如此失」(此の如き失あり)と,第39偈の「不自見其過」(自ら其 の過を見ず)との内容に関する整合性をどのように考えたのであろうか. さらにまた,SPと『妙法華』の比較に関しては,①羅什が使用したサンスク リット本の問題6),②『大正新脩大蔵経』(以下,T)に拠った検討が主であるこ
(109) 『法華経』「方便品」五千起去に関する漢訳テキストをめぐって(冨 永) ― 384 ― と,③長行と偈頌の前後関係をめぐる議論7),という従来からの問題もある. 本稿では,以上の問題点をふまえ,長行の「有如此失」と,第39偈の「不自見 其過」に関して,『妙法華』の諸版本ならびに日本古写経に伝承される諸写本, さらに敦煌出土写本の異同を確認する.そのうえで,五千起去における増上慢の 四衆は,自らの傷(欠陥)を知っていると解釈できるかに関して考察したい. 2.
長行の検討―「有知此失」の読みに関して―
ここではまず,『福州版大蔵経(開元寺蔵)』にのみ確認される,「有如此失」の 異読である「有知此失」の読みを考察したい8). 第1に,「有知此失」(此の失知ること有りて)は,Kashgar写本をも含むSPの読 みであるta ātmānaṃ savraṇaṃ jñātvāの漢訳として適当と思われる9).なぜなら,本来jñātvāは「知」と訳すことが好ましく,「[有]知」はjñātvāにほぼ対応す る.したがって,この観点に立てば,「有如」は羅什による文脈上の意訳か,あ るいは「有知」が羅什本来の訳語で,「有如」は写本伝播上の誤写と考えられよ うか. そこで次に,後者の可能性,すなわち「有如」は「有知」の誤写と見なせるか を考えてみたい. 『大智度論』の「自然人法者,声聞人亦有覚,亦有知.而従他聞.是弟子法」(T 25, 552b10–11)にみられる「知」の異読に関して,Tの脚注には「知=如(三,宮, 聖)」とある.「声聞人も亦た覚あり,亦た知あり」の方が適しており,「知」の 読みが相応しいであろう. 一方で,『法華経』「勧持品」に出る「若世尊,告勅我等持説此経者,当如仏教, 広宣斯法」(T 9, 36b11–13)10)の「如」に関して,Tの脚注には「如=知(博)」とあ る.「当に仏の教えの如く,広く斯の法を宣ぶべし」の読みが相応しいため,「如」 の読みが適しているであろう. 上述の2例からも分かるとおり,「如」と「知」の読みには,時に相互の異読 が見られる. 最後に,『福州版大蔵経(開元寺蔵)』に関して触れておきたい.周知のように, 宋版三大蔵経の開板・補刻の時期は継続,平行しておこなわれた11).宋版大蔵 経の1つである『思渓版大蔵経』の長行箇所は「有如此失」であるため,『福州版 大蔵経(開元寺蔵)』にある「有知此失」という異読に関しては慎重な検討が必要 である.
(110) 『法華経』「方便品」五千起去に関する漢訳テキストをめぐって(冨 永) ― 383 ― 3.
第
39偈の検討―「皆自見」の読みと「不自見」の解釈に関して―
SPでsaṃpaśyantaとある箇所は,WTでapaśyanta(WT 41, 1)と校訂され,かつ, 漢訳『法華経』はいずれも「不自見」と訳出している.しかしながら,『俄蔵敦 煌文献』は第39偈を「皆自見其過」(Φ050)と読んでおり,この読みは他の写本 と異なり冒頭が「不」の代わりに「皆」と出ており興味深い12).ところで,羅什はKashgar写本にのみあるsvāni doṣāṇy apaśyantāś13)を「不自見
其過」と訳出したと考えられるが,羅什が「不自見其過」と読むことに少し触れ たい. 周知のように,三乗に関して有部が示す伝統的理解は,声聞の覚りと仏の覚り を明確に分け,声聞が目指す覚り(阿羅漢果)は仏の覚りとは別であるとし,声聞 は仏乗を志す必要がないという伝統があった14).要するに,伝統教団においては, 仏乗を目指さないことは過失と見る必要がないと理解されており,このような解 釈に立つばあいには,「不自見其過」も有意味になろう. すなわち,羅什が長行で「有如此失」と訳出したことは,第39偈の「不自見其 過」を念頭に置き,jñatvāの直訳を避け,偈頌の読みを重んじたとも推測できよ うか. 4.
結語
以上の考察により,以下の3点が明らかとなった.①『福州版大蔵経(開元寺 蔵)』にのみ,サンスクリット本に見られるjñātvāに対応する「[有]知」を確認 することができた.②第39偈をsaṃpaśyantaと肯定の形で読む点に関しては,一 致するとはいえないまでも,『俄蔵敦煌文献』にのみ「皆自見其過」という異読 が確認された.③「如」と「知」の読みには,文字の類似性もあって,時に相互 の異読が見られる. 『福州版大蔵経(開元寺蔵)』,ならびに『俄蔵敦煌文献』が異読を伝える背景は 必ずしも明らかでなく,現時点で,それぞれが伝承する「有知此失」および「皆 自見其過」の読みが本来的であると結論するのは早計であろう.本考察はしか し,サンスクリット本と漢訳テキストを―諸版本・写本に って―比較検討する ことが,従来の校訂テキストと解釈を再考するうえで,貴重な足がかりになるこ とを例証していると考えられる.(111) 『法華経』「方便品」五千起去に関する漢訳テキストをめぐって(冨 永)
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1)yathāpīdam abhimānākuśalamūlenāprāpte prāptasaṃjñino nadhigate dhigatasaṃjñinaḥ /(SP 38, 14–39, 1),『妙法華』「増上慢,未得謂得,未証謂証」(T 9, 7a9–10). 2)SP 39, 1. 3)T 9, 7a10. 4)SP 44, 9. svāni doṣāṇy apaśyantāśという異読に関して,脚注に表記はない.
5)T 9, 7c14. Cf.『正法華』「不自見瑕穢」(T 9, 70a7). 6)石田[2006]. 7)伊藤 [2007]. 8)未収録である『高麗大蔵経(初)』『洪武南蔵』,「序品」「方便品」を欠く 『趙城金蔵』を除き,『七寺一切経』『興聖寺一切経』『房山石経』『應縣木塔遼代秘蔵』『思渓 版大蔵経』『高麗大蔵経(再)』『宋磧砂大蔵経』『磧砂大蔵経(北京)』『永楽北蔵』『乾隆大蔵 経』『大正新脩大蔵経』『中華大蔵経』『英国国家図書館蔵敦煌遺書』(「有如是失」,「有此如失」 の異読あり)『国家図書館蔵敦煌遺書』(「有此失」の異読あり)『法蔵敦煌西域文献』『俄蔵 敦煌文献』『上海図書館蔵敦煌吐魯番文献』『上海博物館蔵敦煌吐魯番文献』『天津市芸術博 物館蔵敦煌文献』『北京大学図書館蔵敦煌文献』『甘粛蔵敦煌文献1–2』『甘粛蔵敦煌文献4–5』 『浙蔵敦煌文献』『敦煌巻子』『敦煌秘 影片冊』『世界民間蔵中国敦煌文献1』『敦煌宝蔵散』 は,「有如此失」と読んでいる.『七寺一切経』『興聖寺一切経』『思渓版大蔵経』の閲覧にあ たっては,国際仏教学大学院大学日本古写経研究所にご配慮を頂いた.記して謝意を表す.
9)Lokesh Chandra [1977: 45a5–6]: te ātmānaṃ saṃvraṇaṃ jñātvā. 10)Cf. Lokesh Chandra
[1977: 260b2–3]: asmākam api bhagavān adhyeṣyaty asya dharmaparyāyasyānāgate dhvani saṃprakāśanatāya. 11)野沢[1999: 38]. 12)注8と同様に『高麗大蔵経(初)』『洪 武南蔵』『趙城金蔵』を除き,「不自見」の読みをとる.『甘粛蔵敦煌文献1–2』は第39偈相 当箇所を欠く. 13)Lokesh Chandra [1977: 52b7–53a1]. 14)藤田[1969: 388–389], 横超[1969: 33],平川[1980: 168]参照.
〈一次文献・略号〉
SP: Saddharmapuṇḍarīka. Ed. H. Kern and Bunyiu Nanjio. Bibliotheca Buddhica X. Tokyo: Meicho-Fukyū-kai, 1977. WT: 荻原雲来・土田勝弥編『改訂梵文法華経』山喜房佛書林,1935. 『妙法華』:『妙法蓮華経』T no. 262. 『正法華』:『正法華経』T no. 263. 『大智度 論』:T no. 1509. 『俄蔵敦煌文献』:『俄羅斯科学院東方研究所聖彼得堡分所蔵敦煌文 献』2, 俄羅斯科学院東方研究所聖彼得堡分所,俄羅斯科学出版社東方文学部,上海古籍出 版社編,上海: 上海古籍出版社,1993. 『福州版大蔵経』:SAT大正新脩大蔵経テキ ストデータベース2015版(SAT2015),http://db.sido.keio.ac.jp/kanseki/flipping/007075-1391/#20. 〈二次文献〉
Lokesh Chandra. 1977. Saddharma-puṇḍarīka-sūtra: Kashgar Manuscript. Tokyo: Reiyukai.
石田智宏 2006 「法華経の梵語写本発見・研究史概観」『東洋文化研究所所報』10: 1–28. 伊藤瑞叡 2007 『法華経成立論史法華経成立の基礎的研究』平楽寺書店. 横超慧日 1969 「諸品の要旨と問題点」『法華思想』平楽寺書店,23–177. 野沢佳美 1999 「宋版大蔵経と刻工―附・宋版三大蔵経刻工一覧(稿)―」『立正大学 文学部論叢』110: 29–53. 平川彰 1980 「開三顕一の背景とその形成」『法華経の思想と基盤』平楽寺書店,133–177. 藤田宏達 1969 「一乗と三乗」『法華思想』平楽寺書店,352–405. 〈キーワード〉 『法華経』,「方便品」,五千起去,増上慢,『福州版大蔵経』 (国際仏教学大学院大学)