博 士 ( 医 学 ) 太 田 正 樹
学位論文題名
マウス海馬の長期増強による神経活動の空間的変化 ならびにトリクロロエチレンの影響
学位論文内容の要旨
緒言
長期増強(long‑term potentiation; LTP)は記憶と学習に関わる現象として近年注目を集めて いる.光 計測は 電気生理 学的計 測の限界 を補う ものとし て開発され,電位に依存して吸光 度が変化 する色 素で試料 を染色 すること で,脳 スライス などにおける電気的活動の時間変 化を画像 として 得ること ができ る.LTPについ ても光計 測を用い た研究 が行われ 始めてい るが,LTP誘導 の前後で 神経活 動を起こ す領域 が増大す るかどう かにつ いて定量 的な報告 はない, 本研究 ではLTP前後の 神経活動 の空間 的変化を 明らかにするため,128x128ピクセ ルの空間 解像度 をもつ光 計測法 を用いて マウス 海馬のLTPを観察 し,そ の特性に ついて検 討した.
さらに 、LTPに よる中枢 神経活 動の空間的変化におよぼすtrichloroethylene(TCE)の影響 を検討し 、急性 暴露によ るヒト の記憶障 害がLTPの抑制 によるも のかど うかを明 らかにす るために 、マウ スを用い てTCEを投与し 、24時間 後に海馬 を取りだし、in vitroでLTPを誘 導し,そ の抑制 の度合い につい て検討し た.ま た光計測 を用いた 実験も 行い,LTP誘導後 の神経活動の空間的変化におよばすTCEの影響について検討した.
方 法
LTP前 後の 神 経 活動 の 空 間 的変化 について は,4〜5週令の雄 性ddYマウスか ら海馬 スラ イス を作成 し,電位 依存性色 素で染 色した. 倒立型 顕微鏡の ステージ上で,通常の電気生 理 学的 方法に よりCA1領域で30秒おきに 一回のテ スト刺 激を行い ,それ に対する 細胞外 電 位を 導出し た.刺激 電極は2本用 い,一方の電極のみから高頻度刺激を加える(LTP経路)こ と で その 経 路 のLTPを誘 導 し た .光 計 測 はLTP誘導 前 お よぴLTP誘 導20分後に 行い, テス ト刺 激に対 する神経 活動を吸 光度変 化として およそ300ms,500枚の画像として記録した・
この 画像か ら吸光度 変化のピ ーク値 (ピーク吸光度変化)およぴ反応領域をLTP誘導の前後 で比較した.
反応 領域に ついてはCA1領 域以外の 吸光度変化を起こさない領域(バックグラウンド)を 選 ぴ, そのヒ ストグラ ムから半 値幅を 計算し,CA1領 域におい てこれ を超える 吸光度変 化 を 起 こし た ピ クセ ル を テス ト 刺 激3ms後 から33ms後 ま で積 算し反 応領域 とした. これを LTP誘導の前後で比較した.
TCEのLTPに 対す る 影 響 につ いて は,4〜6週 令のd(Nマウスを 実験群 とコント ロール 群 に分け,実験群はTCEの投与量によって,体重1kgあたり300mg(低濃度群)と100()mg(高濃 度群 )の2つの投 与群に分 けた. 実験群は 屠殺の24時間前にTCEを オリーブ油に溶解して腹 腔内 注射し た.コン トロール 群はオ リーブ油 のみを 腹腔内注 射した.テスト刺激に対する 細 胞 外電 位 を 導出 し , その 後 高頻 度刺激を 加えてLTPを誘 導した.LTP誘 導前の電 気生理
学 的 応 答 を100% と し た と き のLTP誘 導40分 後 の 応 答 を 各 群 に つ い て 比 較 し た . TCE投与 後のLTP前後 の神 経 活動 の空 間的 変化 につ いて も光 計測 を行 い検討した,4〜6 週 令 のddYマ ウ ス を 実 験 群 と コ ン ト ロ ール 群に 分け ,実 験群 は体 重lkgあた り1000mgの TCEを 上記 方法 で投 与し た. 電気 生理 学的 応答,光 計測による吸光度変化および反応領域 についてLTP誘 導の前後で比較した.
結果
LTP前後 の神 経活 動の 空間 的変 化に つい ては ,海 馬CAI領域 の高 頻度 刺激20分後に光計 測に よっ て得 られ た, テス ト 刺激 に対 する 反応として生じた吸光度変化はLTP誘導前と比 べて 増強 した .高 頻度 刺激 を 行っ たLTP経 路に 生じ たピ ー ク吸 光度 変化の平均 値はLTP誘 導前を100%と すると131.69士3.03%(平均土SEM)であり,有意に増加した.一方,高頻度 刺激を行わなかった経路(referece経路)では98.22土3.68%であった.反応領域はLTP経路で は107.78土2.10%であり,有意に増加したが,reference経路では99.41土2.21%と有意な変化 が認められなかった.
TCEのLTPに対 する 影響 につ いて は,TCE投 与群 ,コ ント ロー ル群 のい ずれ も高 頻度 刺 激 の40分 後 にLTPが 誘 導 さ れ た . そ の 増強 の度 合い はLTP誘導 前の 電気 生理 学的 応答 を 100%とすると,高濃度群では116.18土8.17%(平均土SEM),低濃度群では134.22土6.97%,
コン トロ ール 群で は156.82土6.17%であり、高濃度 群とコントロール群および低濃度群と コ ン ト ロ ー ル 群 の あ い だ に 有 意 差 が 認 め ら れ た ( そ れ ぞ れpく0.05,pく0.002).
光 計 測 に よ っ て 検 討 し たTCEのLTPに 対す る影 響に つい ては ,高 頻度 刺激 の40分後 に TCE投 与 群 ,コ ント ロー ル群 のい ずれ もLTPが誘 導さ れ, その 増強 の 度合 いはLTP誘導 前 の吸光度変化を100%としたとき,TCE投与群(1000mg/kg)では130.74土4.11%(平均土SE), コン トロ ール 群で は164.27土9.11であ った .TCE投 与群とコントロール群の間に有意差が 認められた(pくO.Ol).一方、神経活動を起こす領域についてはコントロール群で120.86土 6.38%,TCE投 与群で128.42士11.33%と両者のあいだで有意な変化を 認められなかった。
考察
LTP前 後の 神経 活動 の 空間 的変 化に つい ては ,LTP誘導 後, フイ ール ド電位のみならず 光計 測に よっ て得 られた吸光度変化は増大し,さらに吸光度変 化を起こす領域も有意に増 加し た. これ は主 に刺激電極より海馬台方向への拡がりが増大 したためだと考えられる,
すな わち ,海 馬台 に近い神経線維の興奮が高頻度刺激前より増 大し,それが統合されて光 計測 によ って 観察 され るよ うに なっ たも のだ と考えられる.このことからマウス海馬CA1 錐体 細胞 のLTP誘 導後 に はLTP誘 導前 と比 べ大 きな 興 奮が 起き ,そ れが 嗅内皮質へ伝えら れる こと で記 憶と 学習 に影 響を 与え る可 能性 が示 唆 され た.
TCEのLTPに 対 す る 影 響 に つ い て は ,TCE投与 群で も高 頻度 刺激 後にLTPが 誘導 され る もの のそ の増 強の 度合 いが 低下 する こと から 、TCEによ る記 憶減 弱に はLTPの増強の度合 い の 低 下 が関 与す る可 能性 が示 唆 され た。 光計 測に よる 検討 でも 、TCE投与 群に おい て LTP誘導 後の 吸光 度変 化 が低 下す るこ とで 、電気生理学的計測 によって得られた結果が確 認 さ れ た 。 神 経 活 動 を 起 こ す 領 域 は 、TCE投与 群で もLTP誘 導 後に 増強 する こと から 、 LTP誘導 後に 生じ る神 経 活動 の空 間的 な増 大へTCEが 影響 を与 えな い可 能性も考えられる が、 これ につ いて はさ らな る研 究が 必要 であ ると 考 えら れた 。
結語
1. マ ウ ス 海 馬CA1領 域 のLTP後 に , 神 経 活 動 を 起 こ す 領 域 は 空 間 的 に 増 大 し た . 2. マウ スに 対す るト リク ロロ エチ レン 腹 腔内 投与 によ り, 海馬CA1領 域におけるLTP後の 神経 活動 の 増強 の度 合い は低 下す るが ,神 経活動を起こす空間的領域の増大には影響は 認め られ な かっ た・
3. トリ クロ ロエ チレ ンに よっ て生 じる 記 憶減弱には,トリクロロエチ レンによるLTPの増 強度 合い の 低下 が関 与す る可 能性 が示 唆さ れた .
学位論文審査の要旨
学位論文題名
マウス海馬の長期増強による神経活動の空間的変化 な ら び に ト リ ク ロ ロ エ チ レ ン の 影 響
長期増強(I´TP)は記憶と学習に関わる現象として,近年注目を集めている.光計測は脳 スライ スを電位依 存性色素 で染色す ることにより,多点の電位変化を動画として得ること が でき る方法で ある.LTPに ついても 光計測を 用いた研 究が行われ 始めてい るが,L1T誘 導後に 神経活動を 起こす領 域が増大 するかどうかについて定量的な報告はない.これを明 らかに するため, 光計測法 を用いて マウスの 海馬のL1Pを 観察し,その特性について検討 した.さらに,工業的に重要な有機溶剤であるtrichloroethylene(TCE)は,急性暴露により 人の即 時記憶が低 下すると 報告され ているが ,短期記 憶を司る と考えられるL1Tとの関連 に つい ては報告 がない. これを明 らかにす るために ,TCEのL1P誘導に 及ぼす影 響を電気 生理学的方法ならびに光計測を用いて検討した.
L1T誘 導前 後 の 神経 活 動の 空 間 的変 化につい ては,4〜5週齢マウス 海馬スラ イスを作 成 し, 電 位依 存 性 色素 で 染色 し た ,顕微 鏡のステ ージ上で, 電気生理 学的方法 によりC A1領域で レスポンス を得,高 頻度刺激を加えることでIJrPを誘導し,L11P誘導前後に光計 測を行 い,テスト 刺激に対 する神経 活動を吸光度変化として記録した.この画像からピー ク吸光度変化および反応領域をL1T誘導の前後で比較した.
TCEのL1甲 に 対す る 影 響に つ いて は4〜6週齢のマ ウスを実 験群と対象 群にわけ ,実験 群 はTCEを 体重1kgあ たり300mg( 低 濃度 群 ) と1,000mg( 高 濃 度群) の2つの投与 群に わ け, 屠殺の24時 間前に腹 腔内注射 した.海 馬スライ スのI工Tは高 頻度刺激 を加えて 誘 導し,L1P誘導前後の 電気生理 学的応答 を各群に ついて比 較した.また,高濃度群につい ては,別のマウスを用いて光計測も行い検討した.
I冊誘 導 前後 の 神 経活 動 の空 間 的 変化 に つい て はCA1領 域 の 高頻度 刺激20分後 のテス ト刺激 に対する吸 光度変化 はI´rP誘導 前と比べ て増強し ,ピーク吸光度変化の平均値は L1P誘導前 を100%とする と131.69士3.03%(平均 土SEM)で有 意の増加であった.反応
雄
弘
郎
和
充
和
藤 岡
嶋
齋
吉
長
授 授
授
教 教
教
査 査
査
主 副
副
領 域はLTP誘 導後107.78 +2.10%とLTP誘 導前 と比 ベ有 意に増加し,これは主に刺激電極 より海馬台方向への拡がりが増大した結果であり,海馬台に近い神経線維の興奮が高頻度 刺激前より増大し,それが統合されて光計測によって観察されたものと考えられた,この こ とか らマ ウス 海馬CA1錐 体細 胞のLTP誘 導後 には 誘導 前と比ベ大きな興奮が起こり,そ れ が 嗅 内 皮 質 ヘ伝 え ら れ る こ と で 記 憶 と 学 習 に 影 響 を 与 え る 可 能 性 が 示唆 さ れ た . TCEのLTPに 対 す る 影 響 で は高 頻度刺 激40分後 の電 気生 理学 的な 実験 にお ける 増強 の 度 合い は高 頻度 刺激 前と 比較して,高濃度群では116.18土8117%,低濃度群では134.22+
6.97%,対象群では156.82土6.17%であり,高濃度群と対象群および低濃度群と対象群の 間で有意差が認められた.光計測を用いた検討でも,I´1T誘導前を100%としたとき,高 濃度群では130.74土4.11%,対照群では164.27土9.11%であり,両者の間に有意差が認めら れ た. これ らの こと から ,TCE急性 暴露 によ り人 で起 こる即時記憶の低下にはL1Pの増強 の度合いの低下が関与する可能性が示唆された.一方,光計測を用いて得られた反応領域 については,高濃度群で128.42士n133%,対象群で120.86土6.38%と両者の間で有意な変 化 は認 めら れな かっ た. この ことか ら,L1ヤ 誘導 後に 生じる神経活動の空間的な増大ヘ TCEが影響を与えない可能性も考えられた.
審査にあたって,副査の吉岡教授から,腹腔内投与されたTIニEの吸収と代謝,半減期,
高 頻度 刺激 後に 神経 活動 を起 こす部 位の 拡が りの 意味 ,TCE投与によりL1P誘導後の空間 的拡がりの抑制についての解釈,それと記憶力低下との関連について,さらに副査の長嶋 教 授か らL1Tの誘 導を とら える 光計 測の 方法 と精 度,CA1から嗅内皮質までの経路の興奮 の光計測の可能性について質問があったが,申請者は何れに対しても研究結果と文献的考 察を加えて妥当な回答を行った.
本研 究は マウ ス海 馬を 用い てこれ まで 報告 のな かっ たL1Pの空 間的 拡が りを 明ら かに し ,さ らにTCEのL1Tに及 ぼす 影響を 求め ,TCEに よる 人の 即時記 憶の 低下 との 関連 につ いて検討を行ったものであり,審査員一同はこれらの成果を高く評価し,大学院課程にお ける研鑽や取得単位などを併せ申請者が博士(医学)の学位を受けるのに十分な資格を有 するものと判定した.