――目次――
1,
ハルトマンの反基督教論, 飯野紀元, Hartmann’s atheism, Norimoto IINO, pp.1-20.
2,
ヨハネ伝におけるロゴスについて:その宗教史的背景との関係, 宇野光雄, On the Logos of the Fourth
Gospel, Mitsuo UNO, pp.20-43.
如く、聖書には全能 ルトマ ソ の 反 基音数 瞼 258
飯野紀元
い う 。これらの 理 論 である。 にしょう。
を 通して道徳的価
ゴ 0% 臣 Ⅰ 曲 ︶目ら曲の ゴ 曲軸 0
0 ︶ 0 的 げぎ Ⅰ ぬ の的のロロ す ③Ⅰ 0 二ロ︵︵︶笘の ゴ由幅 ・︵ し 田田オ・ べか 0. Ⅱ か円 ︶
批判
する者は、その 一
ないであろう。かか
概念をもつ故に宗教
教は善 なる神を信 ず
の 悲惨な死を止め え
ハルトマンの
反
基督教論
in Ⅰ 肝臣 Ⅰ 由ゴ ののⅠ e の ガ
ト ⅡⅠ 轄 @k 卜 b Ⅰ m 抹 ツ @ の・ 何 Ⅰ
告
Pp の誤訳 て、原キ 0 目 、かつ け ③ 臼 0 ㎎ せ
ある。故に決定的性
自由は神の 力 を制限
は 謙虚にこれを認め
ついて用いることは
も事実全体の物語る
を 定めるべぎであ
。基督教に関する 誤 度は正しくない。
言
しするか或は
トマンはい う 。︵Ⅰ ヴ日 :Ⅱ坤の・㍉ か 0 ︶
批判
越する神に根ぎす
糾援 Ⅱ ぃ ㏄ 甘 田島曲 ? 卜け
するならば、神が 道 一 わ
なく動機並びに性格までが っ の条件を有するのみ。㈲ 己 すること。㈲この標準に従 う をも尊重し 、よ り宏大な領 い 罪もまたより深いのである
信ずる者の罪の意識はます ある。
由を有する。 達成のプロセスはその第一
げる。第二段階は、この 日
達成に必要なる手段をもと
故にこの第二の段階は 、時 ハルトマ ソ の 反 基督教論 普遍的なる神の意志に反する時 罪 が生れ れが認める善の標準に達しえないこと。 能力を有すること。 域 において価値の実現をはかるべ き こと 。歴史の悲劇の深刻さとそれに対する 神 ます強くならざるをえない。ハルトマン 段階において、主体は時間の経過をとび 的のかかげられた未来の一点から、時間 め 、かくて、次から次へと手段を決定し 間の流れにさからりて進み、目的によ つ 一 "" 徳律 に反する命令を下すおそれは る 解釈をあたえんと念願するもの 彼は救済のアンティノミー を 犯した時にはそれを回避しては 神の恩寵とみなされ、両者の間に
批判
ょ、
のならは ア ( 色い であ る 力し であろ 。 レミ ぎ ないの ンティ ぅ 。我等は刻々増加しつ -0 ヨげ Ⅰ 印 Ⅱ 由 0% 肩レを に、宗教的には罪を恕さ ノミ 一 が存する。︵ ぎ呂 : つ あ るち の 類
経 @, し
が 貴 意 最 佳 美 も を 且 重 重 つ 要 ん 妥 な じ 当 る 罪 な 2 ㏄
張 する。第二一の段階
ャて れは普通の意味に Hp ぃ甲 Ⅰ ハ Ⅰ 叶 ︵︵︶ 害ヲづ ・Ⅱこ す円 Ⅰ ごト ベ肝 J 卍 ⅡⅡ︶ つて進む、とハル
間の流れに反して 運 に 必要な期待並びに 口 ハロ コ e きの e 由 oq 繍 さの ぅる 価値実現的決定 見出し、それが宇宙 ヨこ pH ︶であると力説する。︵宇田: H き 山田︶
批判
い 解釈ではない。 ている。学問の成就 とをもつこととは違 う
れを考えることによ こえて未来のある 時
く 現在の意識のうち
化せしめることは 事 261
には不可能で
えられている
いて実現さる
ある。しかし
要 がある。 例
よ う 。そ う考
日 十枚だ け書
される。これ
の 出発点から
る 段階のどこ
も 、かかる あ
ハルトマ ソ の 反 基督教 稔
五 、かくして 準 備 ができたと よ いか、その て 現実の世界 がある。 マンの主張す する。しか し 意識 ある。 のま 、 べ き目 それと えゴ、 えるこ くとす はハル 目的へ にいつ らゆる 前日に る よ う 備が全 にお け L Ⅰ う 262
"""" /" Ⅹ
るもの 示 Ⅰしはない。地目
ことは正しくない。
ある思想家、例え
せの 臣侍偉品の 0 片 ⅠⅠ 0 曲の・
観的 観察並びに思惟
補説第二一、四九1人
であろう。
0 Ⅱ 由ゴ片 レ ︵ ︶ 仔 0 由 曲目Ⅰ せ 出口
0
すげ寺
0 さ す すお・ コ 。Ⅰトムの ノ Ⅱ いロ ヲ卜の⋮:安目
ヰの Ⅱのの ヰ 0 Ⅱののす㌣ コ由 。
が コネ 圧ゴ e Ⅰ年のの 0 片の 0 Ⅰ・ べ Ⅱ @ ㍉の︶
の 根源であるとみ
の 0 づゴぜ 0 片戸四曲 性 0 コ、
て ぎた。宇宙的 めレベ ・
るものではない。 S.
なければならない。
ト ・Ⅰ づ ・ か ︶ 263
ることが
る 必要は
叩るレ Ⅰ ナし ルトマ ソ の 反 基督教 苗
は 当然であ
、宗教の真 の 歴史をその を 見出すから 七
してそこに妥当な
ぃ幅 レ op 、のす 笘づ ・ べ ︶。
を 有するに心づくと
の 妥当性如何をここ
に 意識的な活動の遍
要請を禁じえたいの である。
関性 ︵尻口口 0 す仔ァ
関を有する無限にし
ち 神の概念を うれ 。
コロ二の コカ 屯田︶の意味
しないとハルトマン は 結論する。︵Ⅰ ヴぃ隼 : いに ・はⅠ㏄︶
批判
264265
氏 /
らの
葉
となすべ
きて
︶
域を超越して、
普
pO
ゴ ののの的
0 ヴ
0 戸すの
ざ
の
念を不当に普遍化し
色白
曲 のも
ガ田幅ぃ岸
・
隼 0
Ⅱ
荻
内曲
Eh &p
の巾のⅠの
0 ダ
臣 0
㍉
ロ ㏄︵・︵Ⅰ
圧
Ⅰ・・は
ド の︶
批判
ら
、もしハルトマ
るならば、如何なる
から始まる以外に道
まで押しすすめ、
神
がおの目印
0 口
0
のの曲Ⅱ
さ|
九 ハルトマ ソ の 反 基音数論 逆転しえたい︵ ヒョ| P 目のⅠ コがト ㏄の ゴ もくの 0 ゴ 0 Ⅰ
︵Ⅱ トゴ ⅡのⅡ めり ロロ拍の田の コ
% 相は質料にすぎな
師法則を逆転するの
の 曲 0 ぺ ㌧ ゴぴ臣 0 づ ︵ 0 コ 0 ︶。 中 に浮 き 上った人格
0@ ゅ N. ウトゅ 一之 げ黛主 、八章︶
批判
づ毛 0 ︶ コヘ 0 毘 ・ 礎 とし、生命は自トマンが指摘する 家例えば ド ウルフは 、
のあらゆる人類経験
︵ ト ・イ円がⅡ 0 ロ Ⅰしの | ㏄・ い い の ︶
批判
と ハルトマンはとな える。︵︵ ヴぃ & : いい の、 Se %. 判 に 反してハルトマ あると同じ意味に ︵ 由 めの 桂 コト セ 0 Ⅱの曲 40 ︶
で、
在
の
ゴ ぎゴの︵の毛の二︶は神によってのみ実現され ぅ ると主張する。 これ 一 O ルトマンの 範嗜め 人間以外の有機体や
的は 、ある程度まで 人の理想が冒険的に
示す よ りはるかに 広 は、 人の意識を通し
ンは 、より低いもの
ている機械の部分品 かかる原理を知りえ 理 ではなかろうか。
q On 隼 コロコ 幅 ︶に よ 267
有する。
えば、現世は本質的 の さコ臣グ 名曲のむ ず の︵絡の
故に彼は宗教と道徳 と Ⅱ ぴ ㏄︶。
批判
勒 するものであるなら浴し感激にみちたる 新 る 。仏陀やキリストに 従 ハルトマ ソ の 反 基督教 譲 価値をもたず、 ゴの Ⅱ曲目㏄この コま 。 ユ の間にアンティ は 、来世のみで 生活に入り ぅ る って彼らの理想 なく現世も亦本質的価値をも ことは、他の如何なる体験に の証人となり、自己実現に 、 一一 ㏄ 2 , 現世を超えて ・彼の倫理学 ノミーをみる 来世に向 ぅ 傾向 にょ れば現世を ︵Ⅱ︵ ゴデ ・㍉の ぺ ・
トマンは正しい。
鮫 すればその道徳的 標準はより低いのである。
らも次の批判をも
して包括せられるな
を 取除く。㈲宇宙に
、 偽りとなりこの 経 いであろう。
験の正しい理解に基づくものではない。
Ⅱが コけい の 再年 e 臣い e ︶ 臣 観 性と大統性をもつ
が 宇宙大の恵みをあ
かる考察に鑑みて ハ
のような神の存在 認識せられえたい、 ︵ま田: ぎ 9 、と彼は力説する。
批判
価値の創造と保存
源 として、歴史を貫く人類の認識作用と思惟 能力の宇宙的喚起者
な 働をみる。更に自
ぃ由 : 0 ゴ曲づ p 目 目 、目 い 、
支持激励なくしては
る 。
︵のりのけ 0 ヴ ︶ 0 のの e Ⅱ : 一 6&
教 批判は人類宗教 体
・ ト のの︶ % 利 があることを認め 宗教は人生の神秘を
歩神秘をみる。神に は 慎重に考慮さる べ ある。 のロ の守ガ コ鰻コ Ⅰのの 優先的に考えること mN は ︶年のⅡ お 内臣 0 ︶ と と人のみに目的をみ マンは 弘 而二Ⅰ る 。︵Ⅰ ヴ田 : 吋お ・Ⅱ 8 ︶
批判
この点においてル一テル、バルト、 キ ヱル クゴ |ル 、プル ン、 ネル 超越的主権︵ 田 ︵ミ千 Aol ゅ丹め ︶これらの 思 、文明全体を根底か 活 が如何に罪深いか ルトマ ソ の 反 基督教論 一一一一 2 ア 0一四
知る。第二に 、 人が
遠の相において宇宙
る 。換言すれば、 ょ
越性 とを痛感せしめ る 。ル一テルならずとも
の毛
0 幅 0 ・の で由 0 す田 監 ㍉田田の 目 なる詩篇の句を思わずにはいられない。集中的に関心をも
果 をも神学や哲学と
見した数学的な首尾
より大なる感激をも
べ,あ ︶宇宙全体を高
日曲口 コミ。 土 ・の せ日,
Oh H& のりの・ HS 曲 ・︶
㌧ ゴ臣 0 の 0 づゴげ凹づゴ の |
鑑みて、一層感嘆 す 宇宙てある。 ガ玉
できない。世俗的
大慈悲が分裂して 個
︶、と主張する仏教
激的 体験を語るキリ
重 なる善にしても、
存する。神の召し
今日の世界情勢が最
、 召しの意義の個人
期することも不必要
源 に神の触発と イ由
レ ・Ⅱ・円のせ ロ 0 プづゴ の か ︶ことも可能であ
口 できない。
る 。しかしかかる
義 、秩序、自由の二 一
社会の秩序と正義は
よって乱されがちで
高い水準へ引 き あげ 一五 ハルトマンの 反 基督教論 牡 2
一 Ⅰ / 、
: p コ Ⅰ , 日の
ほ
の ぃ Duなぎところにおいて
ような暴君に変化す
者ではなく国民全体
保証するような憲法
有力者に、最も深刻
経済、社会生活に正
数曲信仰の下自己批
まちを除くべぎであ
してはならない。 神
、 日々に内的な意味
時代における経済
解や対立の愚かしさ
もって、その宗教 そ の 宗派を評価する尺度とすべぎである。
に と も 実業家、政
よ う 、宗教は世界に
笏
"
平和を う ちたてる 第
なう み、共産主義の
ような協力の欠如に
ら 宗教八一同の怠慢
げつつあるのではないか。
イデオロギー的 汚
仏 、海印三昧等の叡
を 防ぎ 、 高 い 理想 達
の相 佐相待的関係を
除されえない神の くであろう。
ぎ 姿はあらわれは じめる。
は 不適当なものが る 神の存在を否定しえない。
のを否定すること にはならない。 ハルトマンの 反 基音数論 一七 274
︶ととのうちに、共に大なる神秘をみる。
る 。
す
沖ブ 甲
不滅
亦 、人の不死性を示唆丁る
とめることを要望する。
の
咀る 。
る
う な ろ う 。
白勺
ので
宇
明し
る神 め てもない。し ことはないであ の認識が深くな はないか。 宙 全体の時空を えたいものはな の目的を乱す 歴 る 。 観察せられた字 性を物語る, 経 保存と増加につ 歴史はこの道徳 八 汐 5
はたしてぎた役割 を 指摘しなければならない。
もっ ぎ ものてある
る 覇気を失うことな
確信と更に高ぎを ぎ
、皮肉な批判的な 、
二のル一テルが生れ 牡ゲ
教 の 功 ・積である。
たことがある。これ らんと努力しなけれ
る 芸術を うな 原動力 ある。
ればならない, 秋
にその例をみる。 あ 物語ったのをここに引用したい。 ルトマンの 反 基督教論 一九 を 痛感せずにはいられない。 ガ 6
ハルトマン紹介
㏄大学で教え、
て 教えた。著書
ぽ ・い の ㏄ 申 @ の ピつ H ら 一
己妻。 蛋 。 オガ 0 ぃ ︵・ レゅお 一之 e 目の旧の港 年 のぺ 0 コ ︵ opo 四 e. ︶のか 0 、その他。
ぐまれ、毛皮下
い 関心をみせなが
思われる。
ほ ついて論じた
とはない忙しさ。
たぅ 。刻々に 変
が 終りに近くねっ
めになる訓話がな
し、 聞く者の胸は 男主 田 し旦 9 き る 、であり ぅ るであろう。
の水泳、朝食後大 二 ① 打
により、大陸の堆
ヨハネ伝福音書の構成は廃ガ
グ ︵
ゲ
︵
@
︶には
ている。
た
点にあったと考えられる。
そして、この神学的色彩を鮮かに有する
キ
リ
ヨハネ伝に於けるロゴスについて
278 て ス あ 論 て か 福 展 ト閲読
し が 蚤 のィの
の ゴ で、 スあ
会 れ ら 、 5 色 る キ成るれ信に彩
5 。 リ 止 め る 仰 、 を ス 論 。て、 あ
@ な し ら し は こ そ の 著 響 ま 者
は 及 し の れ で る ぼ く
書た
も で め円、 し か は の 一 あ の た か 、 で つ ろか ス 、 に と て 仰 ア ら こ " し " 書 レ 成 キ ラ キ て 著 と キ 立 し り 見 者 見 サ し
11
その宗教史的背景との関聯
宇野光雄
ヨ / Ⅰ ネ 在、
耳
|
於
丁 壺,
る ロ コスにづ
い
て
279
一
一
。単なる﹁言葉﹂に
が 出来るであろう。
ば 、一切のものを
造
結局主人公は、この
論 をもつて安んじ
ウストの如く
、
先ず
一一一一 ス ・キリスト論の 薦 めに,この福音書のロゴス・キリスト論と、 その宗教史的背景と の 関聯を明らかにしょうと思 う 。ぎ なのか。然しそ う
﹂何故ならば、 ョハ
一話、又は一文章を
を 正当に言い当てて
り 、ますます問題の
になるのではないで
帰ってテキスト・自身
であろう﹂ 察することから出発しょうと思 う 。
㈲の
0 の手 R 局 pE 降 ・ 口 ︵母の︵ づ臼 , 目 08 よ のハネ 伝 五章十七節
身も労働者であ
照 。
いる文章形態上の 二種類の箇所から。 成
であり、第二の形態 は 、散文的な且 つ 論争的なそれである。
子が全く変り 、第 一一一一一 ヨハネ伝に於けるロゴスについて 280
二四
形態になり、 文 十五
てくる。
あるが、更に今 第
である よう に思われ
十六節の㍉そのみち と 考えられるのである。
出すことが出来る
、第六節から第八節
更に、この福音書 の
のを借用して、それ
- 何故ならば、先ず
を 読者に説明を要し
|テの ファウストの
いては、著者の予想
の ,久章をどこからか
であろうか。
は 独自のキリスト
れに類似するものが 恭 1
ちに旧約聖書創世
八年 対ち * 勒 V と訳さ
プハ で。︵ け ・ 卸 ・ ロ ︵・ め p. ⋮⋮ し ョ ハヱ仏に於けるロゴスについて 二五 282 一 一
を 使用、 猶こ 、ではテキスト批評は省略する。
のむ︵︵∼ コ ㏄の コド の如の・の・ N
トマ ソ の上掲青二 頁 以下参照。
はせ ・ P ㏄ せ ・
淳
. く ・︶ ダせ ・ H 汗せミ
.H 空である。笘ヨ Ⅰ・ ロの Ⅰ 目 コト ゆつ の・の・ののの,の・ かのひ ・ ぃ援 ・Ⅱ・ 毛 0 の神 00 再 づオ のの 0 留 ︶曲ト c | 8% 住 Ⅰ臣位 圧 0 の ヴ目 0 ダ巨 ・Ⅰのめ ム ・ づ ・ め
、新約聖善解題、 新教出版社、昭和二八年・二八一 | 二九二頁参照。 p 一グ との関聯を考 察しなくてはならないてあろう。 鼻 をなしている 当 の福 土日書から︵ 田 ︶・ 笘 弘布されていたので はないかと考えられるのである。
な れ 在 の で、 そ 鉾 で 主 悶 え こ い て す Ⅱ こ あ さ れ ま 、 宰 旧 聯 る の 「
は
、
しり が び門口内
ロ くづ 宙のは あ そ の で 妹 人 神 人 次 な っ 口
個 の い 0 二
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し Ⅱ 。 ゴ 方へ ・ 、 -@ は
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の ム ダ 9神
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1 の 約寺 の り 、 。 円 コ が め 有 吉
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三ヨ す 葉 る - ・」 る 人 一 味 指 と し て し 詞 あ す
る
口 の 一 一 る ぃ 神 あ J ""'" @ 山 / Ⅰ と は と ろ グ は 考 私 共 ぅぇ 号 に か
る と は 。 貝 D 臣 か 又 こ し じ フ 。 コ 。 と
と て め 臣 ス の づ は 使 か ロ p@-@ "" 一 一 せ き 山 月 ら l と 応 ぜこ の 来 さ 存 ク
げ 0 者 283
しての歴史の把握 て
﹂実現の思想である。
ストに敵対する悪魔
る 外形上の関聯から
を 得ない。然らば 両
察する時、次の如 き
ということである。 エ ルに関係するとい
︶ 0.
ト ︶
四
、一切
は
づけ
0 田は光である。
が
住居をイスラ
ェ
口コ
ま甲
おさ
。
n
ゴ
oF
日の︵智慧︶
あるということ、
二八 285 る 永遠なる存在でされ、
至ったのであるが、 ョハヱ 仏に於けるロゴスについて で、 は ﹁ロゴス﹂は、神話的形姿を 二九 286 他の伝承を求めて 行かれ は ならないわ 0 対象から除外して レイトスに始まると
湘鑓
要旨Ⅰ
ゴ
0 グい
0 幅
om
目
田圃・
毛
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づ ・︶の
か
ることが出来るであろう。 ㈲ Ⅰの ゴ o ガ a5 1円 オ 0 ︵ 帥神話に起源を有して
は
、両者がその起源
の
如く
書
ぎかえて
見
ぅ 信仰 というような思想 を 旧約にその起源を求めることは出来ない。
囲
二頁、一五一頁、一五二頁。
コト
の 臣由の
・ つ
む ヴソコ的
e コ
・ 目ゆ
㎝ 円 ・の・
の の ぃ
㈲の
蚕 ︵︵の︶ "p.p.O. の L 簗 ・参照。者 と見られた。
に 至ったのでな く 、ロゴスは依然として概念なのである。
三ひ
肝 '
@ )
一 '" 一
の
法則性であり、
甚だしい相違のある
いる。一方は調和の
を意味している。
せ
﹁内在Ⅱ日日い下の
コぃ
﹂
。コス﹂は概念である
、ギリシャ
的
哲学的
スヒ
との関聯を考察する必要はないであろう。
四
その宗教史的背景との関聯を求めて、旧約、 ユダヤ教、並びに
つた。従って更にか
ことが便宜てある よう に思われる。 特徴を概観しておく
しくとった地盤
キリスト教は次第
ほ想 教養信仰に接触
たのである。このへ
のが、いわゆる八のせ コオ no ヰ雀 づ 岸の V に外なら ない。元来古代ギリ
て 自己のうちに摂取
イ オニュ ソス の宗教
け入れ、之を在来の
v の崇拝、 挨汲め
V 及び 八 卜の三の宮 0 のⅤ
し く 、東洋の密儀 宗
つた。このように、 一一一一 ヨハネ伝に於けるロゴスについて 288
グ に 現 で に ト 二 わ る 的 東 7 回 の 一 あ り " 形 で、 ユミ " て " " O 頁 l 日 に 参 、 ン 由 の @ Ⅱ 又 照 。 ヌ、 @ @4 よ の に 入 伸 も れ 話 取 ら な り れ マ 収 入 て の り れ %
入ら
れれ、
り 七二 ' 。 。 "た シ は 学 の 形
従 態
こノ ス オ は ょ 俺 、 有 っ の そ 河 ト リ 臭 う 想 な 宗 ン い 叩
289
ヨハネ伝に於けるロゴスについて 一一一一一一 。 " 0 グノーシスの地位につ
げればならない。 種々多様である。然し 元論勺
一フま、巨ヰ
白 モチ ︵Ⅱ共通せる思想であるから、 4 我々は 、 先ずこの際、 グノ を 進めて行こ うと 思 う 。 乃至火花である。音大 ﹂れらの光の片が悪霊 共のである。 かぅ して 造
たら、彼等の世界はも
間の内に閉ぢ込められ ぅ とする。然し人間のあ いて、概観したのであるが、更に 、グノ| いずれにしても、その背後を流れている 二 一 シスの二元論的体系を明らかにする 為、 上 のこの光の原人が南の国の悪霊共の手中 にとって丁度 磁 尺の引力のような役をし られた世界は天上の元の世界の模造であっ との混沌へ顛落するであろう。そこで彼等 た 火花 | これが人間の自己である1 % 集中 るものは眠り込むが、あるものは、眼を醒 五
め ・の・いの
白
㈲
力 ・ 巾三
︵ ヨの
ココロがの
C
おゴ
︵巨の
コ 日ヨ・
ダトロ
一八一頁。
の ・ ゆ
いの﹁
0 年三・ミ
リ のののⅠⅩⅩ
せ Ⅰ︵ H,
Ⅱ・ ゆ
別
によって秩序づげられている統一体であり、
。ギリシャのクノー
て
闇が自分だけで
は
散々になった
光
てもとの原人の光
かる法則性こそが
寸兵
が
人間の死
り、伺う にかして、そこから 遁 めに、 己 れの子である天上の光 を 身にまとい、姿を変えて地上 に 故郷を思い出させ、帰り途を 捜 する。 数 に 人 れ え 下 を ょ る る 地 ぅ 。 上 と 三四 2%1 する。光の王である最高の に っ かわす。神の子は悪霊 神の子は光の片 共 1人間の そして宇宙の悪霊共の関所ヨハネ伝に於けるロゴスについて 三五
ない。此の世から
は神から遣わされた ㈹ される。
口 ︵月日・ p H のめ 参 照 。 一一八頁による。 ㈲ブルトマ ソ 上掲 書 一八四頁。 は、 此の世を肯定 し、か、る 人問 たと考えられる。 六頁、一八六頁、一八八頁。 ぅ 思想は存在し得ない。 の 創造 観 を除いて
乱 さ e ﹂との 会
の 自己が本来神約 領 ㈹ 牢獄であるからである。
打 ・の・のの 目 ︵・参照。 人は悪魔の子︵ 9 色じであり、蜀の奴隷︵ ダ 毬ム と てあり、 元 よりむ しろ闇を好む︵が︶の ハ ︶存在である。 ㈲ 力 ・ いヒ 年日 がココ @H リが の C Ⅰの オコ ㏄ ヰのコ侍仁ヨ ・の・㏄ め目 ある。 、円
の子 こ イェスの姿
を目 あぎにするもの し 、御子の任務は 、
ば て、 自 已の下に集
此の世から昇り、 彼 御子は神が此の世の 論の図式と、 グノ|
いように思われる。 おいて、プロローグ
への受肉が説かれ、
一一一
よ、ノ
杓
3
に
関しては、あとで
明に表わしているの
いることになるであ
ろ
う
。
ぅか
。既述の如く
光
る
理解、乃至は解釈
見ることが出来るで
の v
の結果、その
宗
如く、ペルシ
ャ
の
大王のぺ
ル
シヤ帝国
Ⅰ
ノ ノ 。
ろ
、神的なる存在
るものを
立
C
、この
ある。
ヨハネ伝に於けるロゴスについて
三七
鴉 4しても、その二元 である。 的 諸文献、並びに 名前で表現されて ㏄ V, 八あ 丈もち 巳 月白 切 V のである。 ㏄・ ネ のの 0 コ 円仁 の ・ 性ト ・︶ 笘 の で がⅡ 曲 ︵・ めせ が | 固 づ ㏄・ ついナト ㏄︶
信ずるものを解放 ㈲ せんとした 三八 295 が 天使,相続 天 た ⋮⋮。 と, 臣ゴス から 忘世 造り、そこに住ん 王 たらしめんとし
的 存在であり、 従
的 機能、救済論的機 、救済の為めに 此
、ここに 拾 いて、プロローグの口コ ゴス しが、 仝述べた、種々なる
していると考えるこ
ことが出来るのであ る 。
盤 に求める事は出 来ない。
偉ガ v 神話にその
デイズム・オフ ノ ア 頁 参照︶
臣ンの ロゴス教義の
ウロ の書翰にも ︵㌧ 日 p. N. の 1 い トぃト 口 - ハ : 0@ ㎡ 舌 Ⅰ めロ : h 立ゴ qE コぬ 三九 ヨハネ伝に於けるロゴスについて 刃 6
いていたよさであ
が 出来るであろう。 り P 口 偉 ︶︵︵ コリ 3 コ。口お 目 qn ゴ 九の︵の︵︶ か ヒヨ・の・ NNo ㈲ 0. 臣 ︶ e は 宵宵 " ヂヂ 0, の ㌔㏄ ㈲㈲ ブ フライデラ 一 上掲吾一 0 一頁以下参照。
目 Ⅰ・︶㏄ 自
の ・ ト 。 ユ ・ ノ ・Ⅹ
なくては、なら へ
たのであるが、 こ なって現われるに至ったのであⅠ。・Ⅱ
︶ロゴス﹂は多くの
い 。・・ 顕簿絃串由 09 %0 |
0 のである。要する のである。︵の 色 ・旨 い抽コ ・㏄︶
ろ う 。プロ p ー グ 口 O 囲
な 同一を述べている
プロローグに中上 ち ヨハネ伝に於けるロゴスについて 四一 298 この な神性 且つ教 の人間 んでい に過ぎ ノーシ か 、トーの︶
多くの神秘的
の
脅威であり、
スに払
いて
真
ロゴス﹂と
呼
め
︵︶・︶
0 甘コ
からも
覗、フ
ことが出来るであろう。
曲の由の
,い
・めの,
収
兄人間としであら
では、イェスの名に
払
いて地上の人間として、
あらわれた乞目㏄
は敵
, 化
笑いって
人
る 。は 、歴史的人格と
ス とは別の姿をと っ ぇば
ヰ しの ぺ 目口・︶の斥の ぴ ・㏄の㏄
上場孝一 0 九頁参照。
帰
つで、このことを考察して見ようと思
う
。
にあらわしていること
話
てあることではな
モ
Ⅴという
語か
証明して
c 。ロゴス﹂の
先在
、此の世
ず
、
又
てめ 。
必要ばなかった
は
、神話を語。
臼
﹂とになって了ったてあろう。
八を借用
し、
而も神話か
あり、真の仲保者︵ロゴス︶
説かず、人間が伸
的
創造に
まても人間世界を注視して
-
で、
@. 一の福士日豊口は
、グノ
撃し、
且つキリスト教の教
したのも、その一つは
伊
は
既に述へた通りてある﹂︵不文二七頁︶。てして
-
このことをⅡ四節の八ぎ &ト ∼めてⅤ
㌔
固 研
,何故なら。語り手の主体が、神話にの
創造に関する叙述は、
全く 烏辮 的なもの 反省からではなく、おくまても、神の唯一る
、三苗
ぅ ことが出来るて
あろう。従って、
て
あろう,生月 し、そミノ 二リ
れば、プロ 口一グ ら 脱却して、一
イェスし
こそ、神の唯一の、
神の独子として、説 き 得たと息われる。よ
るにもかかわら す 、本来的に悪に属する 得た体験と、神に対する信仰から出発して|
シスの神話の図式によりながら、それと 義 上の危機を守り得たと思われる。叉
同時 かる点にあったてあろう。 四二ョ ハヱ仏石於けるロゴスについて 300 ㈲ ブ フラノ・デラ一円 拐 淳一 0 一頁 け 小参照。 ㈲ プ フライデラ l% 拐苦 四六二頁。 の ・ ト ギソ テル上掲 菩二 二四頁。 得たよ う に思われる﹂