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真宗研究12号 016諏訪義譲「道釈の帰浄について」

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Academic year: 2021

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道 綜 の 帰 浄 に つ い て 一 五 八

道縛の帰浄について

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︵ 同 朋 大 学 ﹀ 道縛の帰浄とは中国の道紳禅師が如何にして浄土念仏の法門に入られたかを問題とするものである。通常、玄中寺 にあった曇驚大師の碑文を見て感激し浄土の念仏に帰入されたと伝えている。是れは一般仏教学者のみでなく相当に 文献を貴重視して取扱っている仏教史学者の聞にも何等疑いが差し挟れていないようである。大谷派の講師河野法雲 師は安楽集講録に﹁偶ま弁川石壁谷の玄忠寺に至る。寺内に驚師の行業を誌す碑文あり。師それを一見して歎じて日 く云々。忽ち担撲の広業を捌き浄土に帰し専ら弥陀を念、す﹂と言い、本願寺派の勧学鈴木法球師も安楽集概説の中に ﹁浬祭宗:::。恵斑禅師に随ふて空理を修習す。後石壁の玄忠寺に入る。土守は曇湾大師の住する所にして寺内に大師 の碑あり具さに大師の事蹟を刻す。禅師熟視その徳化を慕い浬繋の講説を捨てて浄土門に帰す同十八才﹂と述べてお らるる。塚本小笠原諸氏に依る中国仏教史には﹁一日曇驚の遺蹟である石壁山玄中寺に詣で曇鴛の碑文を見て浄土教 に帰依する事になった。時に大業五年四十九才﹂と見え更らに野上俊静師の続高僧伝考には﹁碑文を見て浄土の専修 行者になったと続高僧伝に見えている。道辞は碑文によって師曇駕を発見されたというのである﹂と出ている。

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元来仏教も宗教の一つとして伝統的保守的傾向を持つのは自然の勢いであるが、学問研究にあっては徹底して批判 的究明的でなければならぬであろう。道紳帰浄の機縁を専ら曇驚の一碑文に依ると言う従来の通説を一応根本に遡って 考 察 し て み た い 。 道辞の伝記としては唐初の道宣の続高僧伝が第一史料である事に間違いない。道紳伝の末尾に﹁紳今年八十有四。 一古川神気明爽。宗紹存五日向﹂と称しているから未だ存命中の記述である。それに果して碑文による帰浄の如く出ているか 否か確めねばならぬ。試みに伝文を次に掲げてみよう。 大担架部偏所弘伝。講二十四一組。晩事讃禅師修渉空理:::綜盲点服神味。弥積歳時。承土日驚法師浄土諸業。便甑筒権 実。想観幽明。故得霊相潜儀有情欣敬。巨在改水石壁谷玄中寺。寺即斉時曇機一法師﹂ノ∼所立也。中有驚碑。具陳嘉瑞。 右手口

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云 。 茸 寸 台 u m 口 : ノ J l 是れは甚だ了解に苦しむ同載である。が原文を卒直に受取れば道紳は既に何とたく曇驚の化風を承けて何時の頃よ りか玄中寺に止住するに至っていたようである。其の寺に曇鷺の碑文があって嘉瑞を迷ぶと言う。只それだけに過ぎ ないのであって何等碑文に依って感動し入浄したとまでは叙述されていないと思う。 併し明瞭ならざる部分もあれば迦才の浄土論を以て補ってみよう。事実、迦才の浄土誌は道紳の滅後間もないもの で続高僧伝の道紳伝と並ぶ価値がある。その巻下には 講呂町史径一部。毎常議嘆鴬法師智符高遠。白云相去千里懸殊。尚捨講説修浄土業。己見往生。況我小子。所知所解。 何足為多一将此為待。従大業五年巳来。即捨講説修浄土行。 一向専念阿弥陀仏。礼拝供養相続無関 道紳の帰浄について

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道綜の帰浄について 一 六

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と見えている。専ら浄土念仏の一行に入られたのは如何にも大業五年四十八才の時であった。だがそれ以前に浬奨経 を講じつつも曇驚の智徳高速なる事を讃嘆敬仰されていた様子が窺われる。 ﹁毎に常に﹂と称されているのが吾々を 強︿心打って来る。それにしても玄中寺にあった碑文を読んで入浄されたと少しも述べていないのに気付くべきであ る。抑も迦才の浄土論はその本質的性格として入浄の動機や帰依の様相など特に関心事であらねばならぬ。それ等に 聯かも触れていないのは寧ろ奇異の感なきを得ないもので、碑文が必ずしも入浄の機縁でなかった事を示すものでな かろうか。そして曇驚の浄土念仏には既に己に道紳は相遇うていたものの如く想う。 認に至って吾々は曇鷺の化風を改めて考察してみたい。今少し反省を廻らして見るならば、道縛を早くから感化す るに充分なるものがあった。 北は井川の大厳寺、南は平遣の這山寺、西は交域の玄中寺、内は介休の驚公厳などを抱く地方が正しく教化圏であ った。勿論その名声は東識の鄭都、革期梁の建業まで聞えていた。道辞はその教化圏の真只中に生誕したのであった。 道縛は井州投水の人とも井川晋陽の人とも伝える。晋陽は井州の治城で概括的な伝聞であり、精しくは決水の生れ と定むべきであるう。自分は嘗って昭和十三年の初夏、南方の沿陽より現今の文水県に一歩足を踏み入れ、漸く道紳 禅師の生誕地に足跡を印し得たと喜んだものであった。が帰り来って地誌類を調査すると清唐の文水県は只今の丈水 県よりも北方に延びていた事を知った。即ち現今の

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玄中寺のある H 交城県は晴唐の頃、文水県の中に含まれていた の で あ る 。 顧るに文水の県名は文水の流域に名付けられたもので又文水は水源を西北の﹁孝文山﹂に発するが故であったろう。

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それより石壁谷を通り南方に出で扮河に注ぐものであった。惰室聞の地理士心中に依れば太原郡の十五県の中に﹁文水 制知一紘一品澗皇十年改鷲。﹂と見え正に隔の開皇十年の設立であった。と同時に交城県も出ていて開皇十六年の創設であ った。但し注意すべきは当時の交城県は﹁古交城柑机一の一肌﹄即ち今の交城より這かに北方、約百余里の地点に位すれ る交城山附近に置かれたものであった。それが唐の中期天授元年に至ると現在の交城県治その項の﹃却波村﹂に移さ た。従って其れまで文水県であったのである。 続高僧伝に道綜は﹁恒在設水石壁谷玄中寺﹂と称し迦才の一浄土論に道綜の一教化﹃弁士晋陽太原汝水三県道俗﹂に及 ぶと言うのは是れを明かに証するものであろう。 してみれば道紳は曇驚の住止した玄中寺と同県同郷であった。現在の県名の相違を以て隔絶の感を懐くべきでない。 或は石壁玄中寺の極めて近く生誕したものであったかも知れぬ。何づれにするも﹁曇驚の唱導する浄土念仏の中に成 長し得た﹂のであった。 道宜は曇鷺が五台信仰の影響で出家した如く伝えている。若しそれを認めるとするならば道縛は曇驚教化の余慶で 出家したと見倣して如何であろう。五日々は後者の比重の方が大きい事を切に想うものであるが、史料の手懸りを発見 せぬままに暫らく措いて主張しない事とする。が一位の嘉瑞を現わした曇驚の滅後、僅か二十年にして出生し来れる 道紳に、早くから念仏の洗礼が擢らなかったとは信ぜられない。 四 か様にして考察の歩を進めると再び思い浮んで来るのは続高僧伝や迦才の浄土論の中に鵬気乍ら必ずしも曇驚の碑 文に依らずして既に巴に念仏に辿り着いていた様相である。 道縛の帰浄について

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道線の帰浄について 一 六 道綜は若冠十四才を以て出家したと言い伝える。それは北斉の武平六年に相当し北周武帝の建徳三年に行った廃仏 事件の翌年であり建徳六年北斉の廃仏よりは二年以前であった。謂わば廃仏の戦傑の中に出家した様なものであった。 是れが道紳の生涯特に信仰の上に大きな結果を与えた事は述ぶるまでなかろう。 ともかく所伝に従えばその後浬築経を研鎖し屡ぱ講述を行って廿四遍に及んだと称す。その項支那の北地には浬般市 の教学が盛んであって道縛もその風潮に乗じて一家の学匠を為したものであると思う。そして又慧墳禅師に就いてい る。師は続高僧伝巻十八の習禅篇に見ゆる如く戒律と禅定に勤めた実践法の大徳で﹃道振朔方。升名耳目土﹂と賞揚さ れ、北支那東西を風廃した高僧であった。道緯はこの禅師を随喜渇仰したのであるが所詮終りには曇驚の浄土念仏を 選び択って行った。道稗は当時仏教界の教学も行業も並び研尋したが、遂に曇驚の示す称名念仏の一行に帰着したと 一言ってよい。想うに幼少より教化に浴した驚師の高風、が浬奨を講じつつも習禅を修めつつも常に離るる事なく、自ら 曇驚の旧此たる玄中寺に居住するに至り、専ら弥陀仏を念ずる生活に入ったのであろう。是れ恐らく大業五年四十八 才の時であったと受取るべきである。 然らぽ続高僧伝の記述は碑文に関連はしているがその玄中寺に曇驚の碑文があって嘉瑞を陳ぶと言うのに過ぎぬ。 寧ろ史家としての道宣が碑文の﹁存在﹂を強調しているかに推察する。

併しそれにしても玄中寺の碑文を見て道緯が帰浄したと言う通説は如何にして発生したものか。五日々は元より無根 の学説だとは断定しない。実はそれは後世の住生伝の禍する所であった。往生伝としては唐代の中期に文誌少康に依 って纏められた往生西方浄土瑞応酬伝と名付くるものがある。是れには道縛が碑文に依って帰浄した事は未だ記して

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いない。処が北宋の戒珠の浄土往生伝に及ぶと左の如く見えている。 後聞璃禅師理行兼著。皐志事之。尋憩壁谷玄中寺。寺即後数曇驚法師之旧祉也。驚於其寺久菰浄業。至其亡日畳有 祥異。郡人奇之持掠其事。刻之子碑。紳臨其文。弥起深信。於是依附浄境。澄寂諸念。念弥陀仏不知其数。 是れに依れば道縛が偶ま玄中寺に憩い曇驚の浄業や奇瑞などが述、べられている碑文を読んで深信を起し浄土念仏の 一行に帰入した由を伝えている。と共に玄中寺に入る以前に曇驚の化風を受けていた様な記述は見当らない。是れが碑 文を見て入浄するに至ったと為す学説の発端であって、以後の往生伝に引継がれて殆んど定説の如くになってしまった。 併しこの通説を以て続高僧伝の原文を眺れぽ驚碑の存在を指摘し元来不明確な文体である関係からその様に解釈し てしまう杷憂なしとしない。是れ今日まで何唯一寸この通説に疑問が持たれなかった所以であろう。 戒珠の浄土往生伝には善導大師、が入寂されてから三百八十余年間未だ唱えられなかった、捨身往生の説が掲げられ た。是れは全く続高僧伝の善導念仏の条を誤むしたものであった。原文を忠実に熟読すれば善導自身の捨身でない事 僧伝の誤解に基くものである。 は容易に了解出来る。道縛の碑文を見て帰浄するに至ったと称する戒珠の新説もそれほど明瞭ではないが同様に続高 かかる難点が戒珠の往生伝にはあるのであって、結局は根本的な史料を虚心に味読す る 事 が 必 要 と な ろ う 。 ︵尚ほ紙面の関係で割愛した部分を挙げておく。付捕時碑の嘉瑞は道稗入浄の直接動機とならないにしても信仰増上 に役立った事事は認める。口道紳が幼少より浄土念仏に触れていた事は人生上の問題を論ずるにも近代教化の問題 を考えるにも大きな指準となる︶ 追記以上発表の予定を終った時、念の為め当ってみた山本 仏 骨 師 の ﹁ 道 綜 教 学 の 研 究 ﹂ の 中 に 、 帰 浄 の 問 題 が 論 ぜ ら れ て い た 。 が 自 分 の は 統 高 僧 伝 を 講 読 中 、 甚 だ 難 渋 を 覚 え た の が 出 発 点 で あ っ て 構 想 、 展 開 自 ら 異 り あ る 様 に 思 う て 弁 せ て 問 題 を 究 明 し て 頂 け た ら 幸 で あ る 。 道 紳 の 帰 浄 に つ い て 一 六

参照

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