善と愛(キリスト教倫理概説)
一
Goodnessand中 揮 官
Jitsuro NAKAZAWA
fr;
m以
1 2. 下から
3. (西日幾太郎) I しE
て
り ん 円 J 4
&
プラトン) ニグレン)
ーレン・キルケゴール)
と支配
5.
2 IV. 告然、法
チャー)
あとがき
F予
カール・バルトは、 r1禽埋学とは包括的に詩えば、人間の善いと認められるべき行為に関する の瑚論的符えの試みである。ここで試みられる神学的倫理学は、この間いとそれに対する答えも の吉葉の中に見出すり神学的論理学は、山らを教義学の総合的構成要迭としてのみ、
る。神の言葉とは、その存在と行為との神人的統一におけるイエス・キワストである。神の言葉におい て中核を成しているのは、神と人間である。叩ち、入部との関係におし
において行為する人間であり、論理的問題を境野に入れて
および人間的行為の問題に満ちた許きである。神的替の尺度・要求‑指示は、持の言葉と神の戒め (Gebot)であるつまさに、神の言葉と戒めは、神学的愉理学の源泉であり規範なのである。そして、人 とその関舗において、〈善急行為l!JIち〈神的要求に対応し、神的決断に呼応し、
され、あるいは、昨きれないのかを見、かっ示すことに努 ると い る (I
める
宗寺と愛(キ1)ス卜教倫理概説) … ←Goodness and Love
一一
、ギリシャ哲学においては、アワストテレスの5ニコマス トテレス)を?子i賞的'性状という
の語
j
原は、ギリシャ語のエートスである。西洋の論理学はアリストテレスから始まったと てよし (L)という学問は、論瑚学、物理学のように修身学、道義学、人倫学などと吉われた が、[人需の学としての信理学jを
ともがらjの;意味で、人と人との
従って、倫理とは、人びとの行為の法則または規範に対する日党とか白津という
よると倫理学とは、「人間の学jと定義して、 r1命照の問題の場所は孤立的人間ではなくしてまさに 人と人との間柄にある。だから論理学は人間の学なのである。人と人との開柄の問題としてでなくては 行為の善悪も義務も京任も徳も真に解くことができないJと
、おおよそ、全ての宗教は神的なもの、超越的なるものと人間は関わるのである口 じであるU がが、キリスト教が、他の宗教と違うのは、神との関わりと[iiJじよ わりを大切にするのである。垂査との関わちと水平での関わりを大切にするのである
、H本を代表する禅宗の学者であるが、キリスト教について諜く学び、精通していて、日本 リスト教を学べjという奴文を書いている。「今日の仏教徒は、何京でもよし
しておかなくてはならぬのキリスト教を知ることはやがてn分を知
柵 IIJJらして自らを見ることになるからである。自分がひとりで存んではならぬり まして他を見下すなどとは以ての外であるO 日本が敗戦の憂き目に漁うで今日
ま与は、独与よがりの結果である。世界を知らなくてはならぬ0・・・仏教者は、上への繋がりは大いにあっ ても、横への拡がりは的ど皆無と言ってよし
h
これも封建的独裁主義の政治から出たのかもしれないの…禅者に辻般若の智慧はあるにしても慈悲の大願が欠けているの封よりも大事なの辻、
を 学 こ と に あ る と 信 ず る ( )と指摘している わ与を別の表現で訂えば、
ち、先ず、神と人との関わりであり、次に、人と人との関わ くし、精神をはくし、患いを尽くして、あなたの持である主を愛 しなさし
h
これが最も重要な第‑の誌であるの第三も、これと同じように重要であるの隣人を白分のよ うに愛しなさいoj(マタイ2 2
京3 7
節 以 刊 と 教 え ら れ た の マ ル コ に よ るを受け継ぐには、何をすれ
i
まよいでしょうか。イエスおひとりのほかに普い者はいなしづJ00
章
17長引。キリスト教檎湾の基準はこの言葉にPJii'l主するの を為すべきかJrいかに行為すべきかj
という向いに符えることであるが、[あるべき行 為Jの「価値jと「規範jを、 イエスとの関わり答えるのであるひきに分額しているの善、自由、意思、感情、良心、白口、歴
、キリスト教の社会的責任である。佐藤敏夫の場合は、
としての愛、普とは何か、穿
j
去の意義、良心について、徳について、出数民、心f言論理と責任論理、妥協についてである キリスト教論理の「あるべき行為jの規範は、
jレカ
‑ 2 ‑
る者であったの例えば、
わたしはほかの人
弘 前 学 院 大 学 文 学 部 紀 要 領43むな007)
たちのように、奪い取る者、不正な者、姦過を なく、また、この徴税人のような者でもない ことを感謝しますむわたしは週ーー
くに立って、 B を J天に r.~ f'ょうとも
ださいoj っておくが、義とされて家に帰ったのは、
い。Jと記されている。 従って、キリスト教のfあるべき 彼は、「神の古来uであり、 f啓示jそのものなので、あるの
注
います』りところが、
わたしを憐れんで、く
、イエス・キリストなのである
( 1)
K .
BARTH rDAS CHRISTLICHEしEBENj天 野 有 訳『 ニ や
1)スト教的生J
1 (新車支出龍村 19981 f )3
釘 ( 2) W論理学機論j前川知腎(福村出版)14ti(3 )前川[主n賢{論理学概論
J
(福村出版掛式会社 1976J , f )
19I T
4)和辻村部Hi議理学j 上巻(17波書出 昭 和40年)12
頁
5)鈴木大拙 f
企 集 計 者J69j{以ト金 子 竹 崎 編I新論理1学 事 典
J
(弘文堂 開和初年)421 R1.善について
1.上からの鎗理(法則倫班) とiま何かということ
同じである。キリスト
るのその点はキ1)スト教倫理学においても ること
の芯;思なのである。マルコ福奇書:10
章
17節に「イスが旅にlHょうとされると、あるひざまずいて尋ねたり
f 普い先生、永遠の命を受けまI~ ぐには、 f可をすればよいでしょうかJ イエスは言
われた1rなぜ、わたしを普いと託うのかっ神ひとりのほかに、普い者はだれもいないの殺すな、姦濯す るな、盗むな、鵠証するな、奪い取るな、父母を敬え、という綻をあなたは知っているはずだiするとそういうことはみな、子棋の持から守ってきまし しんで言われた心[あなたに欠けているものが一つあるの行っ に施しなさいのぞうすれば天に富を積むことになるLその人はこ 立ち去ったりたくさんの財産 ていたからである
イエスは彼を見つめ、
ている物を売り払い、貸しい人々 に気を菩とし、悲しみながら
ひとりの
l
まかに、韓い者はいないj、これが、キワスト教倫理の原理であったのプラトンは最高のイヂアとして善のイデアについて語り、そ仇を神的存在とみなしているが、この思 想、はキリスト教とは違うのである口なぜなら、キリスト教の神は人格的な存在、であり、イデアと ではないからである。その人格的な神が「汝jとしての人間に対して意忠し命令する。その命令の内容 が善であり、ぞれと一致する き業なのであるのこれに対して、プラトンにおい
あって、神と善 るということである
轄とは、持の意思であり、命令であるといってきたが、問題は神の意思ないし
てよいのかということであるの出約の時代は、律法は神の意思を示すものと理解されてきたりしかし、
においては律法を否定するのではなく、律法主義と区別されてきた。律法主義は館法を神の意思と るが、このような律法主義を克服したところにキワスト教の愛の立場がある。善き行為とは、
自己の行為が律法に会致していることではなく、全人格的に神の召しに応CているということであるO
なく、人格が問題なのであるの
蕎と毅(キリスト教倫理概説) … …Goodness and Love‑
キリスト教においては、人が善とおれ、救われるのは、津法の行為によってではなく、悲みによって であり、信仰によってであるの善き行為は、この蕪条件な神の恵みに対する感謝の応、答から出てくる 救われるという目的のために蕎急行為につとめるのではなく、救われた結果として、善き行為が出てく
るのである。
2.下からの論理(功利主義的倫盟学)
を神の意思、 としてとらえる して当然下から
こってくる。昔からよく知られているのは功利主義倫開学である。この代表者は、].ベンサムと].
S .
、
I V\...切る。ベンサムは、愉理的規範を人~号の快楽から説明する。何が静であるかを決定するの辻
にとってのrutility J (効用)であり、効用の度含いを決定するのは、人関にどれだけ決楽をもたらすか であるのしかし、各of greatest
しつつこれに修正をくわえたの はミルであるのその特色は、快裂に質の│ズ;別を立てた点であるのベンサムには快楽には性貿砂上のRJJIJは なく、ただ分量 Lのi正号Ijがあるのみであるから、依級な快来を捨ててより優れた挟楽を求むべしとしたね
る豚よりも不満足なる人関たることが望ましく、満足せる恩人よりも不満足なるソクラテスた な言葉である は )
されるわけで、 ら説明する とは正反対のもので ある
3.
西田幾多郎の替
iこついてf
宗教
J普〔活動説〕、
ら考幣 'あるのか、これが倫理学の り、善とは、ただ意識のl付説的要求より説明すべきであるというの (3)それで、普 のものの性質にもとめねばならぬことは明らかであるの意思は意識の根本 ちにまた実在の根本たる統一力の発現である心意思は抱のための活動で誌なく、
はない。(4)普とはJW想の実現、要求の満足で、あるとすれば、この要求という ら起こってくる のか、善とはいかなる性践のものであるかりそれは意思の原出となる本米の要求あるし 自己の ちに自己 より起こるのであち、自口の力であるという。(日)かく考えてみれば、
の発脱完成となるので、
われわれの精神が種々
とは在己の発展完成 (self‑realization)であるということができる口すなわち を発展し円議なる発展を遂げるのが最上の普である〈アリストテレスのい わゆる完成作出が普である)。 松は松と各告の天}試を光分に発掘するように、
と近接してくる。美とは物が現
の意識と要 るかが問題だという口われわ
iてにおいて成立するのプラトンは他との調和が善であるというD アリストテレスは中 進化論の倫理学者スベンサーは能力の平均だというのこれらを批判して、同日は、
4 ‑
弘前学院大学文学部紀要
第
43号(2007)識現象は必ず観念の要求を具えているO すなわち、いかなる人間も観念的理想を抱いているO 人間は肉 体の上において生存しているのではなく、観念の上において生命を有しているのであるO 観念活動とい うのは精神の根本的作!日であって、我々の意識はこれによりて支配せられるものであるO すなわちこれ より起こる要求を満足するのがわれわれの真の善であるといわねばならぬ。では権力活動の根本的法則 は何か。それは理性の法則であるO 理性はわれわれの精神を支配すべき根本的能力で、理性の満足が最 上の善であるO 何でも理に従うのが人間の善である、と岡田はいう (6)人格とは、カントの言ったよう なまったく経験的内容を離れ、各人に一般なる純粋の作用というごときものではなく、意識の統一力で あるO 人格はその人その人によりて特殊の意味をもったものでなければならぬ。真の意識統一というの はわれわれを知らずして自然に現れてきたる純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主客の隔離な く独立白全なる意識本来の状態である。ゆえに人格は単に理性にあらず欲望にあらずいわんや無意識衝 動にあらず、あたかも天才の神来のごとく各人の内より直接に白発的に活動する無限の統一力であるO
われわれの善とは、かくのごとき偉大なる力の実現であるから、その要求はきわめて厳粛である(7)
i
主
(1)
r倫 理 学 概 論J
前川知賢(福村出版)19761f
95頁 ( 2) r功 利 性 原 理J干見 透(法律文化社)1992年 111頁( 3) r日本の名著J
I
菩の研究」西山幾多郎(中央公論社)昭和45年 183頁 (4 )前掲書 184貞(5 )前掲書 185頁 (6 )前掲書 188頁 (7)前掲書 190頁
11.
愛について
他者との関わりにおいて、キリスト教の最も重要な戒めは、愛であるo Iわたしはあなたがたに最高の 道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしい どら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じようと も、たとえ、山を動かすほどの完全な{言仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を 貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わ たしに何の益もない。J(コリントー13・1
~
3)。愛についての根拠は、「イエスは、わたしたちのため に、命を捨ててくださいましたのそのことによって、わたしたちは愛を知りました。世の富を持ちなが ら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にと どまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いをもって誠実に愛し合おう」であるo(ヨハネ
の子紙-3 ・ 16~
18)以下著名な理念を考察する。1.プラトンの『饗宴』における愛
キリスト教の愛について述べる前に、古典的な概念について考察しておきたい。プラトンについてで ある。プラトンは広い意味での「愛」を主題にした書物は三つの対話篇、[リユシスJr
饗宴
Jrバイドロ ス』である。その主tI艮は恋愛である。ただし当時の恋愛とは、男性と男性との愛、それも少年と稚児に 対する関係である。友情は同年配の同性問の愛情である。親子の愛や友情の愛は、原語も違うのである。例えば、友情はφ
l
Aω
、兄弟愛はゆl
Aα
d A φlα
、男女の愛はE
A0 σ
であるが、プラトンは、同性に対する愛も恋愛も全てエロースであるO ついでながら、ギリシャ語の「愛」という百葉を紹介し
‑ 5 ‑
愛 リ ス ト 教 倫 湾 機 説 )
一~
Goodness andておきたい。c.
S.ル イ ス は ゥ の 愛
j(J)では「ストルゲー
J(情愛〉、「ブイリア
J(友愛),
II.口…
ス
J(恋愛,
Iアガペー(聖愛〉の四つの愛をあげている
oP.ティワッヒは「エピスーミア
J口ース
j、「フイ
1)アム「アガペー
jの四つをあげている
ュムポジオン
t::、本来は
fともに飲む
Jを意味したのブド…濡を欽み交わしな をしたのである円この場面での工ロス辻「恋愛」であるが、
f誌に百う「ブうトニック・う については論じられていなし」アポル口ド口ス、アリストデモス、アガトン、ソクラテスをはじめ、多
くの友たちがそれぞれエロースについて持論を展開するのであるの
f饗宴
jでは、「
αyαπηjという 言葉は誰も能わない。そして聖書には「
εAωσjと い う 言 葉 は 見 当 た ら な い 。 望 書 の 著 者 は 、 ギ
1)シャ的な愛を避けて「神の愛
Jを証言したのである。
における
fヱロース
Jい。以下、断片を拾いあげること パンヂよそス・アブ口ヂスは、
fょにロス ものの方を愛するからして、男性のもと
多種多械である。
き込まれた人々は、本質的に
ただ恋にのみ動かされる。そういう人々が恋をするのは、年端のし
きな
;恵まれた
その少年たちがすでに理性を持ち始める時期、それはおおよそ髭の生える年頃の時期である。
(2)さら に 、 口 一 ス は 英 し い も の に 恋 を し 、 普 を 愛 す る
J(3)それは自分が幸福になるためとソクラテスはいう。
アワストパネスは「低俗な恋を
i裳く者、つまり魂よりはむしろ肉体を恋する者は、その恋の対象は永 続性のないものであるからよくない。それに反して、相手の人柄(ぞれが立派なとき¥日
続性があるから『飛び去って行かない
jJ(,1)エリツクシマコスは「エ口一ス辻神々の中
る。なぜ、ならいちばん美しく高設であり、年若いからである。エ口…スは老齢を生まれっき いる」という
ソクラテスはアガトンに尋ねる
o Iアガトン君、工口ースは知侍なるものを
答えてくれム
f欲求するものは、白分に欠けてしおるものかね
Joエ口一スとは、先ず第‑に、あ るものに対してであり、第二に、自分に欠けているものに対してであるり次に、美しいものへの恋であ る の
(6)そして、美しいものを手に入れるのは事福になるためである( )
ギリシャ神話によれば、エロ←スはポ口ス(笛)とベニア(貧)との間によ主まれた子であり、その本姓 と貧とのテンションの故に、たえず貧から寄へと追求せきやるを得ない。そのようなエ口…スを キリスト教は「神
Jと呼ぶ絶対者
aに用いることは出来なかったのキリスト教の神は、充足を求め を愛求するような賞者ではない。また、エ口一スは相手の語読(美と若さ)を愛する愛であるから を失えば、愛は消滅するのパスカルの
Iパンセ
jに次のような言葉がある
o識は 1 0 年前に愛した人をも はや愛さない。その筈である。後女は以前と判じでなく、彼も
l可とではない。彼も若かったし、彼女も 若かった。今や彼女は今は全く別人である
もしれない
J(H)注
1 ) C .
s.ルイス n!立つの愛』肘;沼寿雄投 新教問;証平!:1 9 6 1
ょうであったら、彼は今な
2) ~'世界の人生論島 3 J I
プラトン?饗事j角川占m昭如42
年 山本光男訳Fプラトン全集
5J f f
波;おお1 9 7 4
年 鈴 木 輝 建 訳 p,2 9 (3 )主主格書 P . 3 0
4 )前掲脅 P
. 3
4(5
)前掲欝P . 5 9 (6
)前謁書P . 6
お以下7
)前掲書、P . 8 3
8)
rパスカル斜想録Jl
I1木康訳(白水柱1 9 5 6
年1 2 2
民(パンセ1 2 3 J
‑ 6 ‑
るか
弘前学院大学文学部紀要 第43ザ(2007)
2. r
アガペーと工ロース
j(アンダース・ニグレン〉
プラトンのエロースに対して神の愛「アガペ…Jを取り上げたのは、アンダース・ニーグレンであるの ガベーとょに口…スJは、第ー在「キリスト教の愛の概念の研究J第二巻「キリスト教の愛の観念 の歴史 1J第三巻「キワスト教愛の矧念の歴史2Jという講成によって書かれているりブラトンのエ
ロースに しているのは第一巻で、ある。
一.ニグレンによる「ブうトンのエロース
Jの分析
彼はプラトンの広口一スの概念を次のーじ1,¥に要約しているので、 り上げる口
欲望の殺の
、あこがれ、努力である。人間は、持っていないものや、必要を感じるものを欲しがーハ ょうと努力し、ただ、日分が錨倍あると感じるものを毎るために努力することができるので ある。それは、現荘の必要の意識で、あるし、また、一層高い幸福な境紐における必要に瀧足を見出さ んとする努力である。必要j惑はエ口…スの欠くべからざる要素であるの欲望の愛を行動させるものは これであるのょに口一スは与えんとする欲望であるように見える時も、本質的に結局所有しようとする 意思で、あることは、注意しなければならぬu プラトンは欲望の愛以外の愛の形を知らないのであるの エ口一スを欲望の愛として特色づけることによって、プラトンは、我々がその中で愛を求めるべき
界を定めている。その結果、愛は必ず語値を持っていると見られる対象に向けられねばならないし、
欲望と錨値は相閥的なもので、ただ価値を持っているものだけを愛し、欲求してよい、ということに なるのである。ぞれだから、欲求の愛は常に誘出があってひきおこされるし、その対象の価値によっ て明らかにされるのである
人間の神に至る道としてのエロース
プラトンがエロースを中間的なものと呼んでいることは、宗教的な外克を持っているのつまり、エ ロースは人間と神の金命との仲保者であるの不完全なものを完全な方へ引っ張り、死ぬものを
のは、エロースであるω だが、神々が愛を感じることはない。神々は何も感じないで、
幸いな生活をしている。 f人間はtj分が欠いているもの、得られなかったもの愛し、欲しがるのだjと プラトンは弓うが、彼が興味を持っているの辻、美の{間々の対象としてではなく、ただ、永遠の美の
を持っている範型としてであるつつまり、一つの美しい肉体から{むの肉体へ、それから霊魂の美 へ、それからあらゆる人聞の法律や軒境における英へ、また知識の柴へ、最後に、それ白
の、長J[ち、 i誌の千ヂアへ。エロース ら逃れることよりほかに救し
し r~ のペア
( 3 )
エロースは自← る。エ口一スが欲望の殺であるという事‑実こそ、
L
口一スの白なぜ、なら、白己のための需の欲求だからであるりしかし、エ口一スの自
もので、ある も明白な証
i
男i土、幸福との密接な結合であるり f饗宴
jにおける、ソクラテスとディオテイ?との対話をニグレンソクラテス、詰ってください、善いものを愛する人は、 111Jを欲しがるの 日分のものになるということだ、と夜、は言ったaム fそれでは、普いものを手に を得るのでしょう?ム「これはもっとたやすく答えることができる。jと
福になるだろうよりjり「であなたは、この欲明と愛がすべての人に共通していて、みんなが普いものを 伴ょう、いゥもそれを持っていようと望んで、いる、とお考えにな与ますか、それとも、どうお考えで
‑ 7…
事年と殺(キリスト教檎理機説 Goodnessand Love‑
んなが望んでいると思うムエロ…スが、あらゆる人に共通している自己中心の事訴 の追求であることが分かったとき、ぞれの〔終極〕に達するということを、ここで注目するねすべての 人が幸福になろうと望んでいる、と言うことは、彼らにとって蕎であるものを愛しているということ であるのまた、後らがこの善を得て、いつもそれ
減の欲望に変化するのでみるむそしてここでも自 ニーグレンによるエロースの批判について取り
ー キリスト教におけるアガペー
キリスト教におけるアガペーの観念の
ミているのであるという。 (1)
、アガペーについて考察す輸る
ニーグレンは、アガベ…の観念はキリスト教の桜本罷念として研究すべしという。 (2)何故なら、キ と人間とのうどわりの問題だからである。古代の信理学は、徹底的に悟入 った。 蓄の問題は、最高善の、個人の要求の究機的充足の問題だった。支配的
幸砲の観念だった。幸福は瞬需の快楽であるとする快楽主義、幸福は狩動と完全に達成にありとする アワストテレス、あるいは、事補は完全な平静で、人生の外面的変化に関わりのない個人の独立であ るとするストア派。だが、問題提示は、常に向 J なのである、すなわち、個人はいかにして幸福を獲
るかということであるとニーグレンはいう。
だが、キリスト教は革命的な変化を生じさせたり替の問題は、ここではもはや、孤立した偶人の観 らiま考察されずに、持と人聞の開銀や、人間同志の関係を包含するほど、拡張されているのであ るD 一個人の幸福の問題に対する答えとしては、アガペーの観念は揖意味である。キリスト教が宗教 の問題についてなした変化辻、きわめて広範関のものである。すなわち、永遠者の問題、神と人間の 交わりの問題である。宗教的問題が今や自己中心の見地からよりも、
ようになったほどの変化を記こさせたのは、実にキワスト教である。 抱のどんな宗教においても、そ
、白己中心の短向を克服することに成功していないのは
倫理の問題も宗教の問題も、キリスト教によって言い直された。催理上の問題は字詰説との絡みつ きから開放されたし、宗教上の問題は神中心のものとされたのである。問題のこのような言い直し辻 キリスト教の鋭遣力の愉きだ、ったり[私は、いかにして永遠者によって岳分の要求の満足を見出すこ と治
t
できるかj
という育会で誌なく、「神はf可かj
という新しキリスト教は[樽辻アガペーである jと答える。
か」というのではなく、「入期にとって普とは何かjという今の鵠理問題に対して、その容えは「人間 にとって善はアガペ…である!というのである口論理学の問題は、神を愛し、 i雑人を愛せよという めの中に、完全な答えを見出しているのそれだから、ニーグレンは当熱、アガペーの融会:はキリスト 教の一つの根本問題であるばかりでなく、すぐれてその線本問題だと三うO また、彼は、アガペーの 観念はキリスト教の新しい創造物で、あり、キリスト教全体のしるしを{すけている。それがなければ、
キリスト教的な事柄は、 f可も、キリスト教的とはならないであろうというの(4
(2)神との交わりの新し
あらゆる大草会は内部から飴まっているとニーグレンは言うの(;))宗教改革もルタ…は最初から しい教会の建設を目指したのではなく、環境の力に強制されて新しい組織をつくるようになるまで、
できるだけ古いものを維持していたのである。イエスは、何か全く新しい新宗教の開祖として人々に 訴えたわけではないのイエスはIH約的敬廃によって作られた形態の中で行動されたのである。設は律 法と韻言者たちを滅ぼすために来たのでiまなく、成就するために来たのである。 18約の神、すなわち アブラハム、イサク、ヤコブの棒が彼の神であるひ彼の全活動は、人々を神との交わりに導くことを
8 ‑
弘前学院大学文学部紀繋 第43サ(2
川
的としている、とニーグレンは斤う。
との新しい交わりは、古い4':袋を絞らねばならなかったし、新しい宗教としてユダヤ教の 外に;去らざるを{!?なかった新しいブドー柄なのであるり従って、ユダヤ教との腔史的なつなが与や、
密接な関係にもかかわらず、キリスト教はユダヤ教と桜本的に相違しているのであるG そ ば次の、イエスの斤葉にあるの「わたしが米たのは、正しい人を招くためではなく、罪人 くためであるJ。イLスはこの首葉で、ユダヤ人の価値認準を逆転させたとニーグレンは言う( ) すべての人はざ然敬度な人や正しい人を称賛し、不信心な人や罪人を
を愛し、そして隷法は彼を高めた。 fいかに宇いなことか日千[.1に逆らう者の計らい金ゆ
ある者のi践にとどまらず、倣慢な暑と共に庵らず、主の教えを愛し、その教えを主主も夜も
r
Jず、さむi 章
1節)。このように、正しい人と知人の聞には、持と人の口から見れば、はっきりした かれていたのであるのしかし、今やイエスが来て、これを吹き飛ばされたのである。被は 耳元税人や罪人たちと一緒に飲み食いされた。罪人を呼(}¥披自身と和解せしめるために招く者、長IJち 'よってではなく、愛によって特鍛づけられた彼自身との,交わりに招く者は、神御自身なので あるG 人間に対する神御[p遠の態度は、応報的な正義の態度ではなくて、自由な、寛大なアガペーの 態 度 で あ る ゆ }アガベ←
ニーグレンはアブ
f
ベーの主要点を以下のように寺Hfるのしい特住で、イエスの中に明らかにな:されている通りであるの神の愛はf誘発きれないも る作勿論、これは神の愛が気まま
ら引きIUきれない。従って、神が入院を愛する、という どうであるかということの判断ではなくて、神がどう
であるじ失せたものを践し出し、取税人や罪人たちと交わるイエスの行動を、特設づけているもの は、この自発的な f誘発されないl神の愛である
アガペーは人の功績にかかわりないの
イ エ ス は し い 荷 で は な く 、 Mr人を招くために
j
と言われたのは、それが単な 転の問題であるように、正しい者と罪人が佐置を変えるということではなし凡人間く消え失せるということなのであるG 神が罪人を愛される時、そこにはいかなる
ない。神が罪人を愛するのは、彼の罪のためではなく、彼の罪にもかかわらず殺するのである
(支) アガペーは創造的である
これはネ111の愛の自発的な「誘発されないj される るものを神が愛されるということではないりその反対に、それ白部の中に価値のないものが、
神の愛の対象であるという事実によって舗棋を得1るということであるのアガペーは、そ
値によって引き出され、従ってその対象の偶値と魅力の承認とも言える愛とは、 ものであ る。神から愛される人は、みずからのうちに何らの制棋を持っていなしL 彼の価値はた
を
るという事実に在るのである。これはキリスト教のアガペ…概念の中心的な点である
9 ‑
と愛(キリスト教倫理機説)
一一
Goodnessand Love一一
アガペーは神との交わりの道を開く
キリスト教執念において、アガペーは持の人間に対する関孫の特鍛であるように、
な力として人聞のために持との交わりの道を開くのである。その結果、
んと努める飽のあらゆる道は、誤った道として棄てられる。第一に、律法の義と
れるが、史的の是正によって神に立ち帰らんとする罪人の努力もまた同様であるり人間の恨JIから に到達できる道はないのそこで、もしも人間と神との交わりなるものが明らかに符夜するならば、
これiまただ、神経JI自身の行為に法るべきであるの神が街l白身との交わりを人民に与えるため、
から入時のもとに来なければならなし このように、神が人間のもとに来るために作られた道、
ち、神のアガペーと ほか、 く道はないのであるの (9)
愛の戒め
キワスト教の愛は神から示された愛の中に模型を持っている。従って、それも自発的で誘発されな いで、非打算的で、拠出IJ浪でなければならなしL ニーゲレンは、 γタイ福二Ei‑‑丹
2 2 章 3 4 節 (
i ) 心 をくし、精神を尽くし、忠を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい
j
、及び(i i
)日礎入を白分のようi
)第 の戒めの人は十ltのアガペーを敬鹿し、自分の無[ 1
!tii 1
自と全くのしさにもかかわらず、神 との交わりに導き入れられた時、当然彼は全く神に属するということになるるように、人聞のfliユ放棄も無条件でなければならぬの「あなたの神である主を愛しなさしづという を立味している。ここに辻「友情の愛jの予知も
るで、あろうし、 によって除外され ているのである
( i i
)第二の戒め口本賞的な問題として次の4点に要約するて〉心神への愛は宗教的なものであるが、隣人を愛すること る、という もはやキげ というのは、キリスト教の教理 ことは真実ではない。{可故なら
なくなるりこ
ると、しばし
しEるから キワスト
うのである日 表面上キリスト教の愛と類献を示している
としても、それら いて、キリスト教と いのである
つの戒めを一つに併合させることはできない。 i議人に対する愛は、神に対する
はないの第二の戒めは、第一の戒めの繰時返しでもない口愛は号1J1tdlの材象に向けられている ことを立味しているりイ
L
スは第一の大いなる戒めと、それに等しいものとして第二の戒めにつ いて語られた時に、二つの戒めを、それぞれの"JL!.の分野を持つものとしておられるのであるされないJもので、白発的であるとし、従って隣人愛も同様に「誘発されな もので¥自発的であるべきなのであるか隣人のうちに、彼を愛すべき軽自の説明を見出すため、
識の現実の状態の背後に躍されたいる何かfItlifl註ある性試を探す必要なんか少しもないの神御自身 の愛が充分な説明であるひ「これ天にいます汝らの父の子とならんためなりJ(γ タイ 5・
ぺ
〉
に対して、第三の戒めをそ えることはできなし 聖書は神への愛と について語っているけれども、 もプ口テスタント神学にも、 n口への愛の‑10
弘前学説大学文学部紀要
第
43ぢ(2007)については教えていないむ人間の自然 なのであるむぞれだから、 ffl全士を するように、│擬人を愛しなさい」と命じるのであるり
しかし、 fl議入を愛せ」は自 しながら、 し、自分を タイ 5 : 44')を
ということ
されないものjであろうりキリスト
が、神の愛の創造的な生命から溢れ出たものとして、持{持出身のアガベ…から生まれ出たことが、
すっか与IYJらかになるのは、この点においてである。丁度神の愛が罪人たちに注がれるように、
キリスト者は散を愛さなければならぬ。この両者は相互関係のものである。とニーグレンはいう (lO)
しなさいと古う持、!わたしたちが神を愛したので誌なく、神がわたしたちを愛して、わたし たちの罪を償ういけにえとして、得子‑をお遣わしにな持ました。ここに愛があります。J(晋ハネの子紙
‑4 : 10)必ずその前に、神が愛したのだから、を{,
j
陶け加えるつキリスト教のアガベ←は神の愛が先行 するのである注
( 1) Anders Nygren rアガ、ベーとエロ…ス
J
jF千年・大内弘助副新教出;反社 1965年 47.院 2)前拘書: 14長3
)詩~H詩書 PJ5
4 )前揚斉 PJ7 (引所
j
掲書 P. 3
3 (6 )前掲書 P.34 7)前掲雪・ P.35 心 部 損 害 P. 3
7 ( 9)時i j
掲欝P.44~49 (1 0) 前掲:十 P_64~71
3. C.S. ルイス『四つの愛
j
、英語には だけである。
(女子む)という三つの動両があるのに対して、ブラ というが、愛についてはどうだろうむルイスは愛 る口ぞれは「与える愛J(Gift love)と「求める愛J(Need love)と 的愛J(Appreciative であるの[与える愛jとは、例えば、入がその家族の未来の幸福のため 原動力となっている愛のごときものであって、その結梁については本人はラ‑ることもできないし、また
こともできなしsものであるの f求める愛」は、子供が母親を慕うがごとき愛である。 f経費的愛J,土、 の対象から何かを得るとか、対象に向かすl子えるとかに開係なく、対象立体がよいことを認める ものである心部論この三つは、まったく独立して期信!に存在することはほとんどなく、多少なりとも 互に混入しあっている。四つの替は、これら三つの基本形に関連しているとルイスはいう (1)
ギリシャ語には剖つの表現がある(1)
στO
ρyη、( 2 ) ゆ
1A
1α
、ε ρ
os、 αya
πηである 11‑定(キリスト教倫 }f~持説---
Goodness and Loveルイスはのこの四つの愛につい
(1)στO ρyηストルゲーは、
という語は人間
るのこ ( J )
であり、また、与える愛でもあるむしかし、愛情はそれ白身の
e基準.を持つのその対象をよく知ってい を与えない人にも吠えるが、見覚えのある入には、たとえ その入が犬に親切にしなくても尾を振るの愛情は、最も謙遜会愛である。それは気取引たりはしなし
、もし騒々しく、頻繁に表現されるならば、愛
111きではなくなるの愛'吊を公に出すことは、あた かもあなたの家の家呉を転惜のために外に出すようなものである
c家具はそれ白体の場所にある時は まことに結構であるが、ぞれが日なたに出されると、みすばらしく、安っぽく、グロテスクにはえるの
ql
をそっと歩くか、没透すると j まった
}jがよいの愛情は控え
11な、持段着の、ブライヴ ょにーやなことなのであるのげ)
リシャ・口一
γ入にとっ ち、それは、人生の栄冠であり、
すべての愛の
rflで対も
ったのこれに対し るとル
イスははう。
(:l)I日約一型書のダピデとヨナタンの友情は、良く知
lられている〈ザムエル記
'1,20京)のと ころで、人は実と家族以外に友人を必要とすることを認める。しかし、アリストテレスが態の
I干の
aつに数えた!愛情
jは、キケ口が書いた!友慎
j(Amicitia)とほとんど関誌がない。それは全く人生の 饗宴におけるメイン・コースではない
cこのような友情はどういうふうになってしまったのだろうかり
それは、友
i需を経験する/3'がほとんどないゆえに、友情を尊重する者がなし L そし
しに人I . ! : :を終わってしまうのである。友情は、愛の'1
1でも最もド
1知性のないものである。叩ち、最も なく、必然性のないもの、感情が激して魁戦がつかえ、肢動を H 1 . めるようなものはなし
必要としなし
次に、友情は同性愛と混同され、誤解されたという ができず、ただ恋没の変装したものと一考えたのであるり あるの新しく友濯になる者が真の友人と会る
わることを脊び、さらに ては、成熟した勇士と
にとって幅値がある。
まった
q数学は数名のギ 学仏まった。英同学士院は元来、
も背たなかったであろう。しかし、
を
ミないとし』うこと
えば、文化的宗教辻それぞれ友述の小さい なって数や線や角について語り合った 集まって彼らの好む事柄を論じた集まりで あった。共産主義、オックスブオード 、メソディスト運動、 文芸彼興
も恐らく
i司じように始まったと
ερ
os 恋愛は、特定の独り
恋愛は、
な、しかし、まったく 人を欲する
O窓愛は求める
も純粋 jであるのパウ口は
やめさせる以外に、そういうことについては何も語って
← 12‑
"ヘ¥
弘前学誌大学文学部紀繋第43号(2007)
いない。「未婚者とやもめに言いますが、持わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自 分を抑制できなけれらば、結婚しなさいの情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからですJ
(コリント 17: 8… 9 )。パウロの恐れたのは、慨trJになること、絶えず、配偶者を「喜ばせ
j
ょうと る、 HIlち、配f持者のことを考えようとする欲求、家庭l十二j
舌にますます気をとられることであったり かし、結婚における太きな誘惑法性欲への誘誌ではなくて、食欲への説惑であるとルイスは託う(13)の耽溺的な性格を
ルイスは エロスを性愛として州えて、このm全体は、 について
れわれを愛した、とし追うことに愛があるJ(ヨハネー
4
詞身の与える愛の分け前を人間に与えた。これは神がその告黙の,tJに組み入れたうえる愛とは異なるのそういう愛は愛する対象の曹のみを、
対象自身のために専ら求めるということを決してしない。それはその愛が自ら与えることの善、その 愛日体が最も好む持、その愛が対象にたいしてなしてlましいと思う生活の先入観に合った轄に都台の よい偏見を持っている。しかし、神の与える没、人間の中に働く愛ご自身は、まったく偏見がなく、
ただ愛する者にとって最善のことを欲するのまた自然、的な与える裁は、愛する者がなんらかの点で本 来的に殺することができると考える対象、愛情や恋愛や意見の共有によってひきつけられる対象に対 られる。しかし、持の与える愛は、人間をして、自然的には愛しえないもの、たとえば、
る者などを愛しうるようにする。そして、人が見知
i
ちぬ入に る場合には、その人たちはすべてキリストである。これは明らかに、人がこれを知ると かわらず、神に対して号える愛であるの愛ご白身できるり (7)
注
c. S. 1ス つ の 愛
i
幹:沼寿雄訳(新教出版社)1961年 19釘 48([1
1
な
t特許: 間五4) l I 川 崎 議 9 2
民(5 )前掲持 152U (6 )前掲脅 167JN (7)前掲脅 169口
ι {愛のおざ
i
キルケゴーん キルケゴールの著書 I愛のわがjは、と言われる三部作の一つである。愛のわ
釈は、いわゆる実存的解釈であるのこの解釈学は後に、ハイテ、ツカ…の実存論的認識とブルトマンの実 存 論 的 解 釈 (Entmytho!ogisierung.非神話化)に影響を与えたと日われているの実存とはexistentia
(ek外へ、sistere立ち現れる)というラテン語で、回世紀の教父マリウス・ピクトリヌスが官学m語と
して用いたのこの言葉を、人間の主体的な牛mき方を去す概念として、キルケゴールが初めて用いたので ある。彼は、人間が実任的ふ;体として歴史の現実の中で具体的に生きているということをExistentsと
‑13‑