はじめに
明治後期 における 私立東京女子体操音楽学校
注1)卒業体操科教員 の 実態 については , いくつかの 先 行研究 がある . それらは ,学校 が 東京府 に 1908 (明 治 41 )年 2 月 3 日 に 提出 した 規則改正願 に 添付 された
「本校卒業生人名及奉職一覧表」 によるもの (掛水,
1981 ) や 私立女学校・高等女学校 の 学校史等 を 出典 とするものである (掛水, 1982 ).前者 は 規則改正願 提出時 の 赴任先 のみが 明 らかにされ ,後者 では 私立 学校 のみを 対象 としたものであった .
掛水 はすでに ,本研究 で 用 いる 1904 (明治 37 )年 発行『諸學校職員録』
注2), 1906 (明治 39 )年, 1908
(明治 41 )年発行『中等教育諸學校職員録 』 (以 下, 『諸學校職員録』, 『中等教育諸學校職員録』 を
「職員録」 と 略 すことがある ) により ,明治後期 におけ る 高等女学校体操科受持 ち 教員 の 実態 を 明 らかに し , 1903 (明治 36 )年 3 月 の 高等女学校教授要目 で 示 された 「體操 ハ 成 ルヘク 女教員 ヲシテ 之 ヲ 教授 セシムヘシ 」 の 実現状況 を 検討 している (掛水・山 田, 2011 ). さらに ,明治後期 における 各種学校 として の 女学校 の 体操科受持 ち 教員 の 配置,男女教員数,
体操科受持 ち 女子教員 の 出身,職名,受持 ち 方法等 の 実態 も 明 らかにしている (掛水, 2010b ).
前者 の 研究(掛水・山田, 2011 ) では ,次 のことが 明 らかになっている . 「體操 ハ 成 ルヘク 女教員 ヲシテ 之 ヲ 教授 セシムヘシ 」 が 示 されたことにより ,体操科 を 受 け 持 つ 女子教員 が 必要 となったこと . しかし ,他 教科 を 専門 としながら 体操科 も 受 け 持 っていた 女子 高等師範学校(以下「女高師」 と 略 す )出身女子教員 は 体操科 を 担当 することを 嫌 っていたこと .一方,私 立体操学校出身者 は 短期養成 で 女高師出身者 と 同 様 に 高等女学校 の 教員 になることができたこと .学校 側 は 私立体操学校出身者 を 女高師出身者 よりも 低賃 金 で 雇用 できたこと .女高師出身者,私立体操学校 出身者,学校側 とそれぞれの 思惑 が 合致 していたこ と . こうして ,女高師卒業 の 女子教員 から 私立体操学
校卒業 の 女子体操科教員 の 受持 ちへと 移行 した 場 合 が 多 かったこと .女高師出身者 は 教諭 が 大多数 で あったが ,特化 した 「女子体操科教員」 は 助教諭心 得,嘱託 など 低 い 位置 に 置 かれ ,給料 は 教諭 の 三分 の 二 から 半分程度 と 低 いものであったこと .私立体操 学校 の 卒業生 は 「女子体操科教員」 としてその 数 を 増 やしていくが , この 結果 として ,高等女学校女子教 員 と 特化 した 高等女学校女子体操科教員 の 間 に 格 差 が 生 じることになったことなどである .
後者 の 研究(掛水, 2010b ) では ,各種学校 として の 女学校 は ,高等女学校令 によらない 学校 のため 教
明治後期 における 私立東京女子体操音楽学校卒業 中等学校体操科教員 の 実態 について :
『諸學校職員録』,『中等教育諸學校職員録』 を 手懸 かりに
A Study on Physical Education Teachers of Secondary Schools who Graduated from Tokyo Women’s Gymnastics and Music School in the late Meiji Era (1903 – 1908):
An Analysis of the List of Personnel of Schools (published 1904) and the List of Personnel of Secondary Schools (published 1906, 1908)
キーワード :女子体育教師、高等女学校、女学校、職歴、助教諭心得
掛水 通子
科 の 制約 はなかったので ,体操科受持 ち 教員 がいる , すなわち ,体操科 の 授業 があったと 思 われる 学校 は , 年 により 異 なるが ,過半数 から 三分 の 二程度 であった こと .体操科受持 ち 教員 の 三分 の 二 が 女子 であった こと .体操科受持 ち 女子教員 は 私立東京女子体操音 楽学校,日本体育会体操学校女子部,女高師出身者,
外国人教師等 で ,私立東京女子体操音楽学校出身 者 が 最 も 多 く ,外国人教師 の 割合 は 次第 に 減少 して 行 ったこと ,受持 ち 教員 の 約半数 はこれら 以外 である こと ,職名区分 が 高等女学校 より 厳格 ではなかったこ となどが 明 らかにされている .
本研究 の 目的 は , 1904 (明治 37 )年 の 『諸學校職 員録』, 1906 (明治 39 )年, 1908 (明治 41 )年 の 『中 等教育諸學校職員録』 の 分析 により ,私立東京女子 体操音楽学校第 1 期(明治 35 年 12 月卒業) から 第 12 期(明治 41 年 3 月 25 日卒業) までの 卒業生 が 体 操科教員 として 就職 した 全国 の 中等学校(師範学校,
高等女学校,各種学校 としての 女学校等) (以下「中 等学校」 と 略 す )学校名,各学校 での 受持 ち 教科,
教員職名,教員継続状況等 の 実態 を 明 らかにするこ とである .
私立東京女子体操音楽学校初期 の 卒業生 の 体 操科教員 の 実態 はこれまでに 明 らかにされておらず ,
「職員録」 により 卒業生 の 体操科教員 の 実態 が 縦 断的,横断的 に 分析 されたことはない .本研究 により , 1902 (明治 35 )年 5 月 10 日 に 日本初 の 女子体育教 師養成機関 として 設立 された 私立東京女子体操学 校( 11 月 に 体操音楽 と 改称)第 1 期 から 第 12 期 まで の 卒業生 がどのようにして 体操科教師 として 定着 して いったのかが 明 らかにされる .
1 .卒業生数と卒業生名の検討
(
1)卒業生数の検討
最初 に ,明治期 における 私立東京女子体操音楽 学校卒業生数 を 再検討 しておく 必要 がある .草創期 の 私立東京女子体操音楽学校卒業生数 が 各種史料 により 異 なることは ,筆者 が 担当 した 学園史 の 記述 の なかで 既 に 明 らかにされている (藤村学園八十年史 編集委員会編, 1983 , pp. 64-67 ;藤村学園創立百
周年記念記録等作成実行委員会編, 2002 , pp. 15- 16 ).今回,明治期 の 卒業生数 を 下記主要史料(仮 に ABCD とする ) により 表 1 を 作成 して 再検討 する .
A 『明治二
マ マ七−昭和二一年卒業者名簿 東京女 子体操音楽学校』東京女子体育大学蔵 (筆者注:明治二七年 は 誤 りであり ,正 しくは
明治三七年 である )
B 公文書添付書類:明治 41 年 2 月 3 日規則改 正願 いに 添付 された 「本校卒業生名及奉職 一覧表」
C 公文書添付書類:大正 14 年 1 月 16 日体操科 中等教員無試験検定許可願 のなかの 「卒業 生 ノ 数並二其 ノ 概況」
D 東京女子体育大学・東京女子体育短期大学 藤栄会( 1992 )会員名簿,東京女子体育大 学・東京女子体育短期大学藤栄会:東京.
A (『明治二
マ マ七−昭和二一年 卒業者名簿 東京 女子体操音楽学校』) (以下, 「卒業者名簿」 と 略 す )
図
1『卒業者名簿』東京女子体育大学蔵
現存最初の頁は第五期から
は 1904 (明治 37 )年 から 1946 (昭和 21 )年 の 間 の 卒 業認定者 の 名簿 であり ,和紙 に 墨書 きされたものを 後 年製本 したものである .最初 の 頁 には 「第五期生以 降 卒業認定」 とある (図 1 ).製本時 に 背表紙 に 年 代 を 間違 えて 表記 してある .現在 まで 続 く 「卒業者名 簿」 のうち ,最 も 古 いものである . しかし , この 「卒業者 名簿」 は 第五期生以降 の 卒業認定 からの 記載 である ので , それ 以前 が 不明 である . また ,再興第 1 回第 13 期 1 部 と 記 してある 卒業生 からの 卒業年月日 が 記入 さ れていない . さらに ,割 り 印 が 押 してあったり ,押 してい なかったり ,仮卒業者 がそのまま 仮卒業 のままになって
いたり ,誤記 があったりという 不備 があるものの 最 も 信 頼 できる 史料 と 思 われる . 「卒業者名簿」 には , 17 期 1 部生 から 384 で 始 まる 番号 が 付 されている . これによる と ,第 16 期 2 部 までの 卒業生 は 383 人 ということになり ,
明治期 の 全卒業生 は 397 人 となるが ,他 の 名簿 と 一致 しない .第 5 期生 の 名簿 は 入学日順 に 記載 されており , それぞれが 卒業 した 日 を 記入 してあり ,入学日 は 1904
(明治 37 )年 1 月 20 日 から 8 月 30 日, 卒業年月日 は 1904
(明治 37 )年 7 月 31 日 から 翌年 1 月 28 日 までのおよそ 半年 に 亘 っている . 33 人中 10 名 が 1904 (明治 37 )年 4 月 10 日入学, 10 月 16 日卒業 である . B (明治 41 年 2
A B C D
卒業者名簿
公文書添付書類:
明治
41年
2月
3日規則改正許 可願いに添付された「本校卒業
生人名及奉職一覧表」
公文書添付書類:
大正
14年
1月
16日体操科中等 教員無試験検定許可願のなかの
「卒業生ノ数並二其ノ概況」
藤栄会 会員名簿 平成
3年
12月発行
卒業期 年月日 人数 卒業期 年月 人数 卒業期 年月 人数 卒業期 年月日 人数
第
1期 明治
35年
12月
15第
1期 明治
35年
12月
14第
1期 記入なし
21第
2期 明治
36年
6月
4第
2期 明治
36年
6月
4第
2期 記入なし
7第
3期 明治
36年
10月
11第
3期 明治
36年
10月
10第
3期 記入なし
8第
4期 明治
37年
4月
17第
4期 明治
37年
4月
16第
4期 明治
37年
4月
19小計
47小計
44小計
55第
5期 明治
37年
7月
31日から
明治
38年
1月
28日まで随時
33第
5期 明治
37年
10月
36第
5期 明治
37年
10月
35第
5期 記入なし
41第
6期
1部 明治
38年
4月
29日
35第
6
期 明治
38年
4月
46第
6期 明治
38年
4月
45第
6期
1部 明治
38年
4月
29日
35第
6期
2部 明治
38年
7月
29日
12第
6期
2部 明治
38年
7月
29日
12第
7期
1部 明治
38年
10月
25日
23第
7期 明治
38年
10月
48第
7期 明治
38年
10月
48第
7期
1部 明治
38年
10月
25日
23第
7期
2部 明治
38年
11月
16日、
12
月
27日、
39年
1月
31日
25第
7期
2部 明治
38年
11月
16日
25第
8期
1部 明治
39年
4月
24日
29第
8
期 明治
39年
4月
41第
8期 明治
39年
4月
41第
8期
1部 明治
39年
4月
24日
29第
8期
2部 明治
39年
7月
7日
12第
8期
2部 明治
39年
7月
7日
12第
9期
1部 明治
39年
10月
28日
38第
9期 明治
39年
10月
61第
9期 明治
39年
10月
49第
9期
1部 明治
39年
10月
28日
38第
9期
2部 明治
39年
12月
20日
22第
9期
2部 明治
39年
12月
20日
22第
10期
1部 明治
40年
4月
13日
24第
10期 明治
41年
4月
35第
10期 明治
41年
4月
35第
10期
1部 明治
40年
4月
13日
24第
10期
2部 明治
40年
7月
23日
9第
10期
2部 明治
40年
7月
23日
9第
11期
1部 明治
40年
10月
30日
20第
11
期 明治
40年
10月
28第
11期 明治
40年
10月
29第
11期
1部 明治
40年
10月
30日
20第
11期
2部 明治
40年
12月
25日
10第
11期
2部 明治
40年
12月
25日
10小計
292小計
295小計
282小計
300第
12期 明治
41年
3月
25日
16第
12期 明治
41年
12月
16第
12期 明治
41年
3月
25日
16第
12期研究科 明治
41年
10月
2再興第
1回第
13期
1部 記入なし
8第
13期第
2部 明治
41年
9月
8第
13
期 記入なし
9第
13期研究科 記入なし
2第
13期第
1部 明治
42年
3月
7第
14期第
1部 記入なし
7第
14期
1部 記入なし
7第
14期第
2部 記入なし
8第
14期
2部 明治
42年
9月
8第
14期
2部 記入なし
8第
15期第
1部 記入なし
7第
15期 明治
43年
3月
12第
15期本科
1部 記入なし
7第
15期第
2部 記入なし
5第
15期本科
2部 記入なし
5第
16期第
1部 記入なし
4第
16
期 明治
44年
3月
6第
16期本科
1部 記入なし
4第
16期第
2部 記入なし
2第
16期本科
2部 記入なし
2第
17期第
1部 記入なし
7第
17期 明治
45年
3月
14第
17期本科
1部 記入なし
7第
17期第
2部 記入なし
7第
17期本科
2部 記入なし
7小計
75小計
71小計
72注)・卒業者名簿には
17期
1部卒業生から
384で始まる番号が付されている.これによると明治期卒業生は
397人となる.
表
1明治期における私立東京女子体操音楽学校卒業生数:各種史料の比較
月 3 日規則改正願 いに 添付 された 「本校卒業生名及 奉職一覧表」) (以下「明治 41 年本校卒業生名及奉 職一覧表」 と 略 す ) と C (公文書添付書類:大正 14 年 1 月 16 日体操科中等教員無試験検定許可願 のなかの
「卒業生 ノ 数並二其 ノ 概況」) (以下「大正 14 年卒業 生 ノ 数並二其 ノ 概況」 と 略 す ) は 第 5 期 を 1904 (明治 37 )年 10 月卒業 としているが , 入学日 と 卒業日 は 必 ずし もその 日付 ではないことが 明 らかとなった . B (「明治 41 年本校卒業生名及奉職一覧表」) と C (「大正 14 年卒 業生 ノ 数並二其 ノ 概況」) は 6 期以降 の 一部,二部 の 区分 が 書 かれていない 期 がある .
したがって ,第 1 期 から 第 4 期 までの 卒業年月 は B (「明治 41 年本校卒業生名及奉職一覧表」) と C
(「大正 14 年卒業生 ノ 数並二其 ノ 概況」) が 同 じで あるのでこれによることにする . しかし ,前述 したように ,
「卒業者名簿」 には , 17 期 1 部生 から 384 で 始 まる 番 号 が 付 されているから ,第 16 期 2 部 までの 卒業生 は 383 人 ということになる . 「卒業者名簿」 の 5 期 から 16 期 の 卒業生数合計 は 353 人 であるから , 383 から 353 人 を 除 いた 30 人 が 4 期 までの 卒業生数 となる . この 30 人 は 他 の 何 れの 名簿 とも 一致 しない . したがって , 4 期卒 までの 卒業生数 は B (「明治 41 年本校卒業生 名及奉職一覧表」) (明治 41 年 2 月 3 日規則改正許 可願 いに 添付 された 「本校卒業生人名及奉職一覧 表」) によることとする .
第 5 期以降 の A (「卒業者名簿」) と B (「明治 41 年 本校卒業生名及奉職一覧表」) は 一致 しないが ,第 5 期以降 は A の 「卒業者名簿」 によることとし ,再興第 1 回第 13 期 1 部卒業 からの 卒業年月 は C (「大正 14 年卒業生 ノ 数並二其 ノ 概況」) によることとする .
(
2)卒業生名の検討
本研究 では , 「職員録」 に 記載 された 教員名 と 私立 東京女子体操音楽学校卒業生名 を 照合 することにより , 卒業生 の 教員 の 実態 を 明 らかにする . ところが ,卒業 生名 は 名簿 により 異 なる 場合 がある .同 じ 人物 であっ ても 漢字,平仮名,片仮名表記 が 使 われたり ,子 が 付 けられたり 付 けられなかったりということや ,全 くの 誤記 もある . さらに ,結婚等 による 改姓 もある . これらの 名前 とそれに 近 い 名前 を 「職員録」記載 の 名前 と 照合 した .
表 2 は 卒業生 のうち ,中等学校体操科教師 として , 1903
(明治 36 )年度『諸學校職員録』, 1906 (明治 39 )年 度, 1908 (明治 41 )年度『中等教育諸學校職員録』 の 何 れかに 掲載 されている 卒業生 のみ
注3)についての 各 種史料 による 名前 の 比較 である .
2 .『諸學校職員録』,『中等教育諸學校職員 録』について
(
1) 『諸學校職員録』,『中等教育諸學校職員録』
本研究 で 用 いる 『諸學校職員録』, 『中等教育諸 學校職員録』 は 1903 (明治 36 )年創立, 1940 (昭和 15 )年解散 の 中等教科書協會 が 発行 したものである . 各学校 から 寄稿 された 原稿 により 編集 されたもので , 教科書販売 の 目的 のために 作 られたと 思 われる .
第一版 は 1903 (明治 36 )年度 の 調査結果 が 1904
(明治 37 )年 1 月 24 日 に 『諸學校職員録』名 で 発行 された . 1906 (明治 39 )年版 は 『中等教育諸學校職 員録』 と 名称 が 変更 されているが , 1905 (明治 38 )年 版 の 所在 が 確認 できないため ,名称 の 変更年 は 不明 である . 1938 (昭和 13 )年 に 師範学校中学校,高等 女学校女子実業学校,実業学校 の 3 冊 に 分冊 され , 1940 (昭和 15 )年 に 最終版 となった .職員録 の 所在 が 確認 できるのは 明治期 3 ,大正期 3 ,昭和期 12 の 合計 18 年分 である .本研究 では ,明治期 で 確認 でき た 1903 (明治 36 )年度, 1906 (明治 39 )年度, 1908
(明治 41 )年度 の 3 年分 を 用 いて 明治期 における 私 立東京女子体操音楽学校卒業生 の 体操科教員 の 実 態 を 分析 した .
(
2)記載内容
「職員録」 には 学校名,住所,現在生徒数,創立 年,学校長名,教諭,教諭心得,助教諭,助教諭心 得,嘱託等 の 職名別 に 受持 ち 教科名,氏名 が 掲載 さ れている .図 2 は 1903 (明治 36 )年度版『諸學校職 員録』 の 島根縣立高等女學校 の 例 である .第 1 期卒 業 の 江原 ミツが 2 教科受持 ちで 記載 されている .教 科中一番目 の 記載 は 體操 で 二番目 が 音楽,職名 は
「助教諭心得」 であることがわかる .本研究 では , 3
年分 の 「職員録」 に 記載 された ,中等学校 の 体操科
表
2『諸學校職員録』 (明治
36年度)、『中等教育諸學校職員録』 (明治
39年度、明治
41年度)
いずれかに掲載された私立東京女子体操音楽学校卒業生名の比較 卒業期 卒業年月日 卒業者名簿 明治
41年公文書 藤栄会会員名簿
(平成
3年
12月) 文部省教員検定試験 試験検定合格者
(師範学校女子部 高等女学校体操科 教員免許状取得者)
(掛水,
1984)
4期までは明治
41年
2月公文書添付史料,
5期からは卒業者名簿 による
名前 名前 出身地
士 族 平 民
名前 改姓
1 1
期 明治
35年
12月 名簿なし 永尾 みな 長崎 平 田沢 みな 明治
37年
11月
12日合格
2 1
期 明治35年12月 名簿なし 江原 みつ 群馬 士 同
3 1
期 明治
35年
12月 名簿なし 林 まつゑ 福岡 士 林 まつ江
4 1
期 明治
35年
12月 名簿なし 小内 ひでよ 広島 平 山内 ひでよ
5 1
期 明治
35年
12月 名簿なし 勝山 静代 長野 平 同
6 1
期 明治
35年
12月 名簿なし 小林 ゑつ 兵庫 平 同 小野 明治
36年
11月
19日合格
7 2
期 明治
36年
6月 名簿なし 長尾 ワクリ 福島 士 長尾 ワタリ
8 2
期 明治
36年
6月 名簿なし 金田 よし 北海道 平 同
9 2
期 明治
36年
6月 名簿なし 松森 ときわ 岡山 平 松森 常盤
10 3
期 明治
36年
10月 名簿なし 森谷 愛野 岡山 平 同
11 3
期 明治
36年
10月 名簿なし 榊原 なかの 宮城 平 同
12 3
期 明治
36年
10月 名簿なし 村田 あさ 福岡 士 同
13 3
期 明治
36年
10月 名簿なし 久保田 ふみよ 福岡 士 同 明治
37年
11月
12日合格
14 4
期 明治
37年
4月 名簿なし 富重 トモ 福岡 平 富重 モト
15 4
期 明治37年4月 名簿なし 相原 ちさと 宮城 士 同
16 4
期 明治
37年
4月 名簿なし 大内 ふみし 宮城 平 同
17 4
期 明治
37年
4月 名簿なし 佐藤 じん 宮城 士 同
18 4
期 明治
37年
4月 名簿なし 圓城寺 きね 宮城 平 同
19 4
期 明治37年4月 名簿なし 横澤 たみ 宮城 士 横沢 たみ
20 4
期 明治
37年
4月 名簿なし 池内 才子 愛媛 平 同
21 4
期 明治37年4月 名簿なし 松尾 モモヱ 福岡 平 同
22 4
期 明治
37年
4月 名簿なし 加藤 きみ 山形 士 同
23 5
期 明治
37年
10月
16日 吉田 ヌイ 同 山口 士 同
24 5
期 明治
37年
10月
16日 猪原 シゲ 同 愛媛 士 同 桑江 明治
40年
11月
15日合格
25 5
期 明治
37年
10月
16日 石川 ヨネ 同 栃木 平 同 田部井
26 5
期 明治
37年
10月
16日 橋田 テル 同 愛媛 平 同
27 5
期 明治
37年
10月
16日 森 亟子 同 大坂 平 同
28 5
期 明治
37年
10月
16日 久保 力子 久保 かね 香川 平 久保 力子
29 5
期 明治37年12月13日 小山 カゞ 小山 カガ 熊本 士 小山 カガ
30 5
期 明治
38年
1月
28日 木下 てい 木下 テイ 和歌山 平 木下 てい
31 5
期 明治
38年
1月
28日 帯金 キヨ 同 静岡 平 同
32 5
期 明治
38年
1月
28日 津田 ヒテ 津田 ヒデ 福岡 士 津田 ヒデ
33 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 加藤 よし 同 岐阜 平 同
34 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 稲岡 しげ 稲岡 シゲ 山形 士 稲岡 しげ
35 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 菊地 う 菊地 こう 宮城 平 菊地 こう 青木
36 6
期
1部 明治38年4月29日 太田 しめ 太田 しめ 宮城 平 太田 四女子 百足
37 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 光田 ナヲ 同 愛媛 士 同
38 6
期
1部 明治38年4月29日 針岡 ゆきの 同 宮城 士 同
39 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 長尾 ふく 同 宮城 平 同
40 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 石井 そで 古積 そで 宮城 平 石井 そで
41 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 志村 まさ 同 宮城 士 同
42 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 庄田 せん 庄田 せん 山形 士 荘田 セン 十河
43 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 伊藤 きぬへ 伊藤 きぬえ 三重 平 伊藤 きぬへ
44 6
期
1部 明治
38年
4月
29日 佐藤 しげ 同 宮城 士 同
45 6
期
1部 明治38年4月29日 杉 みつ 同 岡山 平 同
46 6
期
2部 明治
38年
7月
29日 武田 うめ 武田 むめ 山形 平 武田 うめ
47 6
期
2部 明治
38年
7月
29日 鎌田 とみよ 同 宮城 平 同
48 6
期
2部 明治
38年
7月
29日 入倉 明 同 香川 平 同
49 6
期
2部 明治
38年
7月
29日 三浦 れん 同 宮城 士 同
50 6
期
2部 明治
38年
7月
29日 日下 トモヨ 同 宮城 士 同
51 7
期
1部 明治
38年
10月
25日 江崎 ハツセ 同 福岡 平 同
52 7
期
1部 明治38年10月25日 江頭 キヨ 同 福岡 士 同
53 7
期
1部 明治
38年
10月
25日 長井 つね 同 愛媛 士 同
54 7
期
1部 明治38年10月25日 村上 近之 同 福岡 平 同
55 7
期
1部 明治
38年
10月
25日 山崎 ナカヱ 同 香川 平 同
56 7
期
1部 明治
38年
10月
25日 宮部 とき 同 岐阜 平 同
57 7
期
2部 明治
38年
12月
27日 福本 クン 同 鳥取 平 同
58 7
期
2部 明治38年12月27日 小原 秀 同 高知 士 同
59 7
期
2部 明治
39年
1月
31日 石川 さだ 同 宮城 平 同
60 7
期
2部 明治39年1月31日 福田 てる 同 兵庫 平 同
61 7
期
2部 明治
38年
12月
27日 江口 ハツヱ 同 大分 平 同
62 7
期
2部 明治
38年
12月
27日 池部 アサ 池部 アキ 熊本 士 池部 アサ
63 8
期
1部 明治
39年
4月
24日 草野 ひろ 同 福岡 士 同
64 8
期
1部 明治
39年
4月
24日 佐野 さ以 佐野 さい 新潟 平 佐野 サイ
65 8
期
1部 明治
39年
4月
24日 岩淵 百枝 岩渕 百枝 岩手 平 岩淵 百枝
66 8
期
1部 明治
39年
4月
24日 大坪 しづ 同 福井 士 同
67 8
期
1部 明治39年4月24日 光峰 きしよ 光峯 きしよ 愛媛 平 光峰 きしよ
68 8
期
1部 明治
39年
4月
24日 徳永 たね 同 佐賀 平 同
69 8
期
1部 明治
39年
4月
24日 赤司 つる 同 佐賀 士 同
70 8
期
1部 明治
39年
4月
24日 小野 きし 同 群馬 士 同
71 8
期
2部 明治
39年
7月
7日 中島 キク 同 福岡 平 同 明治
39年
11月
19日合格
72 8
期
2部 明治
39年
7月
7日 澤野 ツル 澤野 ツル 岩手 平 沢野 ツル
73 9
期
1部 明治
39年
10月
28日 古賀 タカ 同 福岡 士 同
74 9
期
1部 明治39年10月28日 八木 カネ 同 佐賀 士 同 箕島 明治
40年
11月
15日合格
75 9
期
1部 明治
39年
10月
28日 石川 さつ 同 宮城 平 同
76 9
期
1部 明治39年10月28日 善谷 トモ 同 山口 平 同
77 9
期
2部 明治
39年
12月
20日 藤吉 ミサヲ 藤吉 ミサオ 福岡 士 藤吉 ミサヲ
78 9
期
2部 明治
39年
12月
20日 伊藤 トキ 同 新潟 士 同
79 9
期
2部 明治
39年
12月
20日 石井 みつ 石井 ミツ 静岡 平 石井 みつ
80 9
期
2部 明治
39年
12月
20日 岡田 ミヨ 同 兵庫 平 同
81 10
期
1部 明治
40年
4月
13日 海老原 壽 同 千葉 平 同
82 10
期
1部 明治
40年
4月
13日 乾 ヤスヱ 乾 やすゑ 大坂 平 乾 ヤスヱ
83 10
期
1部 明治40年4月13日 國澤 キヨノ 國澤 きよの 岡山 士 国沢 キヨノ
84 10
期
2部 明治
40年
7月
23日 古川 キミ 同 佐賀 平 同
85 11
期
1部 明治
40年
10月
30日 木塚 シカ 同 佐賀 平 同
86 11
期
1部 明治
40年
10月
30日 住田 アヤ 住田 アヤノ 広島 士 住田 アヤ
87 11
期
1部 明治
40年
10月
30日 平池 タカ 同 福井 士 同
88 11
期
1部 明治
40年
10月
30日 赤野 コト 同 山口 平 同 明治
41年
11月
19日合格
89 11
期
2部 明治
40年
12月
25日 森 伊野 同 岡山 平 同
90 12
期 明治
41年
3月
25日 乾 啓 一覧なし 同
注)・大きい枠に記入してある
6人の名前は表
3に記入した高等女学校と師範学校女子部(あるいは女子師範学校)との兼任者である.表
3で
2行用
いているため,比較しやすくするため太い枠とした.
・卒業年月日は
1期から
4期までは明治
41年
2月公文書添付史料,
5期からは卒業者名簿による.
図
2明治
36年版 諸学校職員録 島根縣立高等女学校の例
第
1期卒業江原ミツが助教諭心得の職名で體操、音楽の受持ちで記載されている
受持 ち 教員 を 抽出 し ,教員名,職名,受持 ち 教科数,
体操科 の 記載順番,併 せて 受 け 持 つ 教科名 を 記 し た 一覧表 を 作成 した 上 で 各学校卒業生名簿等 から 卒業学校 を 特定 した .
3 . 私立東京女子体操音楽学校卒業中等学 校体操科教員の実態
(
1)教員免許状の必要性の有無と私学の役割 周知 のように ,草創期 の 私立東京女子体操学校 の 修業期間 は 半年 であり ,卒業 することによって 教員免 許状 を 得 ることができた 訳 ではない .当時,中等学校 の 体操科 は 修業年限 4 年 の 女高師本科出身 の 他教 科 を 専門 とする 女教師 や 男子体操科教師 によってい たが ,女高師本科出身者 にとって 体操科 は 苦手 な 教 科 であり ,担当 することを 嫌 がる 者 があった .
本来,中等教員養成 は 高師,女高師本科 で 行 わ れ ,教員不足 に 応 じて 専修科 が 設置 された .女高師 本科 に 体育科 が 設置 されるのは 1937 (昭和 12 )年 と 遅 れる .本研究 の 対象期間 である 明治後期 において は ,国語 と 併 せて 女子体操科教員養成 のために 設置 され 1903 (明治 36 )年 4 月 に 授業 を 開始 した 国語体操 専修科 があった .同科 は 本科 4 年 に 対 して 修業年限 2 年 であり ,入学 した 生徒 が 卒業 すると 次 が 入学 する 制度 で , 1911 (明治 44 )年 3 月 までのわずか 4 期 8 年 間 に 88 人 の 卒業生 を 出 したに 過 ぎなかった .
さらに ,中等教員 の 不足 に 対応 するため , 1902 (明 治 35 )年 3 月 28 日 に 勅令第百号「臨時教員養成所官 制」 が 公布 され ,官立 の 臨時教員養成所 が 設立 され ている .女子 の 体操科教員養成 も 女高師内 に 設置 さ れた 第六臨時教員養成所(以下「第六臨教」 と 略 す ) で 行 われることになる (掛水, 2010a ).第六臨教 の 修
業年限 は 当初 2 年, のち 3 年 であった .第六臨教 で は 女子体操科教員 は 単科 で 養成 されることはなかっ た . 1915 (大正 4 )年 から 家事科一部 で 裁縫科,家事 科,体操科 を 兼 ねた 教員, 1918 (大正 7 ) からは 体操 家事科 で 家事科 と 体操科 を 兼 ねた 教員 が 養成 され た .女高師 と 臨教 の 卒業生 は 卒業 することにより 教員 免許状 が 与 えられた .本研究 の 対象期間 である 明治 期 には 女子 の 体操科教員養成 をする 臨教 は 設置 さ
れていない .
私立女子体操学校 の 卒業生 は 大正末期以降無試 験検定出願 が 認 められるまでは 卒業後,難関 の 文部 省教員検定試験 を 受験 しなければ 教員免許状 を 取 得 できなかった .明治期 の 私立東京女子体操音楽学 校卒業生 およそ 400 人 のうち ,明治期 に 教員免許状 を 取得 したのはわずか 7 名 であった (掛水, 1984 ).
この 文部省教員検定試験 による 教員免許取得 は 臨教同様,臨時的措置 であった .検定試験 は 当初 か らの 試験検定制度 から 無試験検定制度 の 比重 を 増 やしていく .女子 の 有資格体操科教員 を 増大 させる ことになるのが , 1924 (大正 13 )年 9 月 13 日 の 「教員 検定 ニ 関 スル 規程」改正 である . これまで 許可校 に 3 年以上在学 せねばならなかったが , 「但 シ 体操科 ヲ 修 ムル 者 ニ 在 リテハ 二箇年以上 トシ 」 と 体操科 のみ 2 年以上 でよいとされた .許可校 では 1925 (大正 14 ) 年 2 月 24 日 に 私立東京女子体操音楽学校体操科本 科 に 対 して 1925 (大正 14 )年 3 月以後 の 卒業者 に 限 っ て 許可 されたのが 最初 である .指定校 として 女子 に 対 して 初 めて 認 められたのは , 1923 (大正 12 )年 4 月 21 日 の 日本体育会体操学校女子部高等科 であった . 1925 (大正 14 )年 3 月 の 卒業生 から 適用 されることに なるが , 3 月 の 卒業生 はいないので 12 月 の 卒業生 か ら 適用 された .
女子 の 有資格体操科教員 が 増 えるのは 大正末期 であるが ,教員免許状 がなくても 教員 になることがで きた . しかし ,教員免許状 を 所有 しない 者 が ,所有 す る 者 の 二倍 を 超過 する 場合 は 文部大臣 の 認可 が 必 要 であると 定 められ , (官報 第五一五五號 明治 三十三年九月六日 p. 81 )高等女学校 のみに 「第 二條 高等女学校 ニ 於 テ 第二學年以下 ノ 教授 ヲ 擔 任 セシムル 為小學校本科正教員免許狀 ヲ 有 スル 者 ヲ 採用 スルコトヲ 得」 (官報 第五一五五號 明治
三十三年九月六日 p. 81 ) と 定 められている . したがって 高等女学校 では ,教員免許状 を 所有 し ない 者 や 小学校本科正教員 の 免許状 を 所有 する 者 で も 教員 になることができたのである .女学校 など 各種 学校教員 には 教員免許状 は 必要 とされていなかった .
こうした 臨時的措置 は 体操科 に 限 ったことではな
く , また ,無試験検定指定校,許可校 は 私学 に 限 っ
卒業期
文 検 師 女 高 女 体 操 科 合 格 者 1903(明治36)年度の調査結果 1904(明治37)年1月24日発行『諸學校職員録』1906(明治39)年10月現在 1906(明治39)年11月28日発行『中等教育諸學校職員録』1908(明治41)年10月現在 1908(明治41)年12月5日発行『中等教育諸學校職員録』分析 363941363941 名前
道 府 縣
学校名職名
受 持 教 科 数 體 操 科 掲 載 順
體操 科科 目名
他 の 科 目 名
名前
道 府 縣
学校名職名
受 持 教 科 数 體 操 科 掲 載 順 體 操 科 科 目 名 他 の 科 目 名
名前
道 府 縣
学校名職名
受 持 教 科 数 體 操 科 掲 載 順 體 操 科 科 目 名 他 の 科 目 名
出身地と 赴任地学校 継続と移動 1 1期合格田澤 みな東京私立東京女學舘教員11體田澤 みな子東京私立東京女學舘教員22體理遠遠11 2 1期江原 ミツ島根島根縣立高等女学校女助教諭心得21體音出1 3 1期林 松枝福岡郡立柳河高等女学校助教諭心得11體出1 4 1期山内 ひでよ広島私立廣島高等女学校講師11體山内 ヒデヨ福岡郡立柳河高等女学校助教諭心得11體出遠12 5 1期勝山 静代子東京私立女子美術學校嘱託11遊體勝山 しづよ群馬群馬縣立高等女学校助教諭心得11體勝山 静代大阪府立清水谷高等女学校教員心得11體遠遠遠123 6 1期合格小林 悦子東京私立三輪田高等女学校教諭11體小林 ゑつ大阪府立清水谷高等女学校助教諭11體遠地12 7 2期長尾 わくり山形縣立山形高等女学校助教諭心得11體 長尾 わくり山形縣立山形高等女学校助教諭心得11體 地地11山形縣女子師範学校助教諭心得11體山形縣女子師範学校助教諭心得11體 8 2期金田 よし山形縣立山形高等女学校助教諭心得11體金田 よし山形縣立山形高等女学校助教諭心得11體遠遠11 山形縣女子師範学校助教諭心得11體山形縣女子師範学校助教諭心得11體 9 2期松森 常盤岡山縣立岡山高等女学校助教諭心得11體遊松森 常盤岡山私立玟瑰高等女学校嘱託教師11體遊出出12 岡山縣女子師範学校助教諭心得11體 10 3期森谷 愛野岡山私立山陽高等女学校教員11體出1 11 3期榊原 な可の和歌山縣立和歌山高等女学校助教諭心得11體榊原 なかの和歌山縣立和歌山高等女学校助教諭心得11體遠遠11 12 3期村田 アサ愛媛縣立今治高等女学校助教諭心得11體遊遠1 13 3期合格卒業年月日久保田 文世東京私立菊花高等女学校教員11體遠1 14 4期明治37年4月富重 モト奈良縣立奈良高等女学校教員心得11體富重 モト岡山縣立津山高等女学校助教諭心得11體遠遠12 15 4期明治37年4月相原 ちさと宮城私立東北女子職業學校教員11體遊出1 16 4期明治37年4月大内 フミシ新潟縣立柏崎高等女学校授業嘱託31體家、作地1 17 4期明治37年4月佐藤 じん大阪私立相愛高等女学校教員11體遠1 18 4期明治37年4月圓城寺 キネ香川縣立高松高等女学校助教諭心得11體遊遠1 19 4期明治37年4月横澤 たみ滋賀縣立大津高等女学校 助教諭心得11體遊 遠1滋賀縣師範学校女子部教諭11體 20 4期明治37年4月池内 サイ愛媛縣立松山高等女学校助教諭心得11體遊池内 サイ栃木縣立宇都宮高等女学校助教諭心得22體遊音出遠12 21 4期明治37年4月松尾 モヽエ福岡市立小倉高等女学校助教諭心得11體松尾 モモエ福岡市立小倉高等女学校助教諭心得11體出出11 22 4期明治37年4月加藤 きみ埼玉縣立浦和高等女学校 教諭心得11遊體遠1 埼玉縣女子師範学校助教諭心得11遊 23 5期明治37年10月16日吉田 ヌイ京都私立京都淑女高等女学校教員心得22體唱吉田 縫子京都私立京都淑女高等女学校教員心得22體唱遠遠11 24 5期合格明治37年10月16日猪原 シゲ兵庫町立柏原女學校訓導22體唱猪原 しげ愛媛縣立宇和島高等女学校教諭22體音遠出12 25 5期明治37年10月16日石川 ヨネ栃木郡立栃木高等女学校嘱託教員11體出1 26 5期明治37年10月16日橋田 テル大阪私立相愛高等女学校教員11體遠1 27 5期明治37年10月16日森 烝奈良奈良縣立櫻井高等女学校教員心得11體森 烝奈良奈良縣立櫻井高等女学校教員心得11體地地11 28 5期明治37年10月16日久保 かね子香川縣立高松高等女学校助教諭心得11體出1 29 5期明治37年12月13日小山 カ丶宮崎私立延岡高等女学校教員11體地1 30 5期明治38年1月28日木下 テイ熊本郡立八代高等女学校教諭心得21體音遠1 31 5期明治38年1月28日帯金 キヨ山梨山梨縣立高等女学校助教諭11體遠1 32 5期明治38年1月28日津田 ヒデ福岡私立技藝實習女學館教授11體出1 33 6期1部明治38年4月29日加藤 ヨシ神奈川私立横濱高等女学校教員21體音加藤 ヨシ神奈川私立横濱高等女学校教員21體唱遠遠11 34 6期1部明治38年4月29日稲岡 茂子神奈川組合立横須賀高等女学校嘱託11體稲岡 茂子神奈川組合立横須賀高等女学校嘱託11體遠遠11 35 6期1部明治38年4月29日菊地 こう香川縣立丸亀高等女学校助教諭心得21體唱遠1 36 6期1部明治38年4月29日太田 志め滋賀縣立彦根高等女学校助教諭心得11體遊遠1 37 6期1部明治38年4月29日光田 ナオ島根島根縣立高等女学校助教諭心得11體遠1 38 6期1部明治38年4月29日針岡 ユキノ新潟郡立高田高等女学校嘱託11體針岡 ユキノ新潟郡立高田高等女学校嘱託11體地地11 39 6期1部明治38年4月29日長尾 福子東京私立跡見女學校教師11遊長尾 福子東京私立跡見女學校教師11遊遠遠11 40 6期1部明治38年4月29日古積 そて山形縣立米澤高等女学校助教諭心得11體地1