近代における仏教界と仏画の制作
著者 崔 ?, 日比野 民蓉
雑誌名 美術研究
号 413
ページ 19‑42
発行年 2014‑10‑24
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006044/
近代における仏教界と仏画の制作一九
近代における仏教界と仏画の制作
崔 燁
はじめに一、近代における仏教界と居士仏教二、近代における仏画の制作動因三、近代における仏画の多様性
おわりに
はじめに
近代に制作された仏画の数は、現存する韓国仏画の中で圧倒的に大きな割
合を占めている。本研究は近代の仏画が数多く現存している理由が、ただ現
代に制作時期が近いためというよりも、実際に近代における仏画の制作活動
自体が活発であったためであるという点に注目し、その背景を探ることから
始めた。
十九世紀後半から一九四五年にかけては、朝鮮時代末の興宣大院君摂政期
を含む高宗の在位期から、大韓帝国時代、そして日帝強占期までの時期であ
る
)1
(
。朝鮮時代の儒学者は公に仏教を排斥していたが、そのうち一九世紀中葉から仏教に深い関心をよせ、信仰活動を行ういわゆる居士たちの活動が増加 し、時を同じくして一八九五年僧侶たちの都城入城禁止が解除され、仏教は大きな転換期を迎えた
)2
(
。このような状況は近代仏画の生産とも無関係ではなく、実際に多くの仏画が制作されるようになり、現在にまで伝わっていると
考えられる。したがって本論では、まず近代において仏教がどのような様相
で拡大しその勢力を維持したのかを探り、このことと関連した近代仏画の生
産動因と背景について考察する。次に、近代における仏画の多様性と、この
時期の仏画の見方について熟慮してみることにより、近代仏画に対するより
正確な認識を得ることを試みる。
一、近代における仏教界と居士仏教
朝鮮時代には、初期から一貫して崇儒抑仏政策がとられた。もちろん、王
室が抑仏政策を実施していても個人レベルでは仏教寺院を支援することがあ
ったが、この政策によって仏教界が被った困難は、たやすく克服できる程度
のものではなかったようである
)(
(
。特に、寺院に課せられた賦役義務とそれに伴う弊害は相当深刻であったことが、次の記録から窺い知れる。
日 比 野 民 蓉 訳
美 術 研 究 四 一 三 号
20
二〇
寺にとっての悩みの種は、頽落して僧侶の数が少ないということで、
これはどこも同じ状況です。その原因は、紙の献上、荷運び、下人の侵
害、肩輿を担ぐ軍政、石を磨き木を刻む等の賦役と、官庁への種々の貢
納でしたが、一昨年朝廷がこれらを廃止し、禁止しました。今取り除く
べき弊害は、紙地と草鞋等の上納だけで、これは私どもの監営でも禁止
することができます。しかし長安寺はこの道で最も古く大きい寺院であ
るにもかかわらず、頽落して僧侶が四、五人しかいません。そのため、
私どもの監営から物資と人力を供給し、邑に資金と米を工面させ、材木
を集めて工事を始める必要があります。この他に、僧侶たちが寺に住め
るような対策と寺を再生させる方法に関して、まず監営と邑で充分な議
論をした後、上奏するつもりです
)(
(
。この他にも次の記録からは、軍役の弊害もまた極度に達していたことが分
かる。
異端(仏教)は儒学者から非常な排斥を受けています。この国の僧侶
は身役を負った平民や組織化された軍卒と同じであり、その愛護も平民
や軍卒と同じでなければなりません。しかし南漢山城で上番すること
は、僧侶たちにとって辛酸を舐めることです。私たちの道では、大きな
寺であれば四、五人、小さいところでは一、二人ですが、一人の身なり
を整え送り出すのに約百金かかるので、ひとつの寺で毎年四、五百金の
費用を負担することになります。これでは、草衣木食して暮らす僧侶た
ちはどうして鉢嚢を背負って逃げ出さずにいられるでしょうか
)(
(
。 さらに実録は、寺院の疲弊を示す内容のみならず、仏教を牽制し批判する上疏が常に尽きなかった事実も伝えている。 このような状況は十九世紀に入ると徐々に変化をみせ、特に様々な上疏を差出し仏教を牽制してきた儒学知識人層の思想的、実践的変化が目立ち始める。もちろん、早くは栗谷・李珥(一五三六〜一五八四)、そして茶山・丁若鏞(一七六二〜一八三六)に至るまで、「外儒内仏」の知識人は僧侶たちと交流しな
がら性理学と仏教の共存を模索し、仏教界の内的発展に大きく貢献した
)(
(
。しかし十九世紀中葉以降、出家修行者ではない儒学知識人層、すなわち居士と
呼ぶことのできる人々によって仏教信仰が展開し、「居士仏教」という流れ
が形成されたことは注目に値する
)(
(
。秋史・金正喜(一七八六〜一八五六)は、十九世紀後半になって急に現れ
た居士仏教という潮流の先駆的人物の一人である
)(
(
。金正喜の仏教に対する深い理解は、『金剛経』『四十二章経』に記された後記をはじめ、白坡・亘璇(一
七六七〜一八五二)と交わされた禅学に対する論議を通じてもよく知られて
いる
)(
(
。さらに彼は、僧侶の草衣・意恂(一七八六〜一八六六)と非常に親しく親交していたことでも有名である
)((
(
。金正喜以降にも、月窓居士・金大鉉(?〜一八七〇)が儒学から仏教に転向し
)((
(
、『禅学入門』『述夢瑣言』を撰述するなど、居士たちは仏教研究を継続して行った
)((
(
。一八七二年には漢城に住む居士たちが観音信仰を背景に妙蓮社という信仰結社を結成し、居士たちの学術
活動と信仰活動が続けられた
)((
(
。その後、開化期における居士仏教の流れを作った主要人物は、金正喜の影
響を受けた姜瑋(一八二〇〜一八八四)と呉慶錫(一八三一〜一八七九)、二人
の思想を受継いだ両班の子弟、そして訳官を中心とした中人階級の人物で、
彼らは中国を行き来しながら新しい文物に触れ、開化思想を積極的に受容し
近代における仏教界と仏画の制作二一 た。こうした開化思想家たちに共通していたもの、それが仏教である。初期の開化思想家、呉慶錫や姜瑋、劉大致(一八三一〜
?)、そして彼らから大き
な影響を受けた金玉均(一八五一〜一八九四)と朴泳孝(一八六一〜一九三九)
に至るまで、仏教はその思想形成と実践過程において重要な位置を占めた
)((
(
。金玉均を中心とする開化派は一八八四年甲申政変を起こして朝鮮の自主的近
代化を図り、この後には学者の李能和(一八六九〜一九四三)が、居士たち
と共に仏教振興会を設立し活動を行っている。彼らは自らの発行した『仏教
振興会月報』の記事「仏教振興は三十菩薩と無数の維摩居士」で、居士仏教
の活性化を声高に唱えた
)((
(
。居士たちの信解行証活動は、仏教が朝鮮半島に伝来して以来いくつもの時
代にまたがって粘り強く行われて来た
)((
(
。しかし開化期からの居士仏教は、在家信者が出家信者の補助的役割を担うのではなく、社会の近代化、仏教の近
代化、大衆化のための主導勢力として台頭したものであり、近代化の思想的、
実践的基盤として仏教を導入したという点が大きな特徴だと言える
)((
(
。一方、中国の清時代は仏教が最も沈滞していた時代だと言えるが、かえっ
てそうした時期に出家者ではない儒学知識人層が仏教を改めて認識した。彼
らは在家者でありながらも仏教理論に精通し信解行証にも優れ、居士仏教を
形成して沈滞した仏教を再び活性化の途へと導いた
)((
(
。特に朝鮮の開化期に当たる清末民初、楊文会(一八三七〜一九一一)、康有為(一八五八〜一九二七)、
章太炎(一八六八〜一九三六)らに代表される居士仏教が中国近現代仏教の
発展に大きく寄与した
)((
(
。居士たちの仏教学は中国の近現代仏教史において、一筋の輝かしい時代潮流を形成したのである
)((
(
。このように、中国仏教界の状況はわが国のそれと非常に類似しており、注目に値する。日本の場合は状況
に多少の差異があるものの、やはり近代に居士仏教が結社運動として展開さ れた。 居士たちは仏事にも積極的に参加したが、秋史・金正喜の場合は一族の者が代々にわたって仏事を執り行い、金正喜自身も寺院の懸板を直接認めるなどの活動を行った
)((
(
。自ら庵子を創建したり修復したりすることもあり、ソウルの三聖庵、地蔵庵、安養庵などがその例である。この他にも、安東金氏、
豊壤趙氏、驪興閔氏など、地域の権力者が仏事を支援したこともよく知られ
ている。安東金氏の家門では、十九世紀以後代々仏事を支援した。金氏勢力
の祖先にあたる金祖淳(一七六五〜一八三二)が一八二四年金剛山の表訓寺
仏池庵を再建し、息子の金逌根(一七八五〜一八四〇)と金左根(一七九七〜
一八六九)、孫の金炳冀が後を継いで仏事を支援した
)((
(
。また、金炳学(一八二一〜一八七九)、金炳国(一八二五〜一九〇五)、金炳冀(一八一八〜一八七五)
らも、坡州の普光寺における仏事を後援している
)((
(
。領議政を務めた豊壤趙氏である趙万永(一七七六〜一八四〇)は、一八四二年に金剛山長安寺の再建
に際して空名帖五百帖を奉納し、莫大な私財を布施して三百間に及ぶ大小の
堂を修復した。この仏事には、閔泳徽(一八五二〜一九三五)、閔泳煥(一八
六一〜一九〇五)ら驪興閔氏も参加している
)((
(
。居士たちの名前は、仏画制作の施主として画記に直接書き入れられる場合
も相当多かった。代表的な例として、一八五九年に慶尚北道聞慶大乗寺の
《神衆図》の施主となった安東金氏家門の金左根と金炳冀、一八八八年同じ
く慶尚北道聞慶にある金龍寺の仏画の施主となった閔泳翊(一八六〇〜一九
一四)、一九一六年少林寺の《独聖図》の施主で高宗の甥にあたる李埼鎔(一
八八九〜
?)らを挙げることが出来る。
「穏健開化派」であった金允植(一八三五〜一九二二)と池運英(一八五二
〜一九三五)は、写真のような再現技法で描かれた僧侶の真影に賛を残して
美 術 研 究 四 一 三 号
22
二二
を形成し展開されてきた仏教信仰と近代的性格の活動は、仏教を抑圧してい
た朝鮮の歴史を辿ってみると、非常に意味のある変化だと言うことができ、
この変化は仏事の活性化に大きな影響を及ぼしたと考えられる。
二、近代における仏画の制作動因
この章ではまず仏画の生産動因を探った後、その制作の様相を追ってみる ことにする。 近代における仏画の制作動因は、一九一〇年以前と以後に分けて考えることができる。まず、十九世紀中葉から一九一〇年までの仏画と仏事は、王室という強力な後援勢力によって主導されており、一九一〇年の日韓併合後には、朝鮮総督府が実施した寺刹令で大きな権限を持つようになった寺院の住持により、仏画の制作と仏事が全国の本山寺を中心として活発に行われた。 一九〇七年、王室が後援するソウル守国寺の仏事に関する記録には、仏事に対する後援過程が非常に詳細に説明されている。この記録によれば、針房尚宮である金氏が、洪月初和尚が主席する守国寺に仏事が必要な状況であると厳妃に進言し、それを厳妃が高宗に伝えたところ、高宗はその場で自身から五万両、故明成皇后と皇太子からもそれぞれ五万両、厳妃はその半額、皇子はまだ幼いという理由で五千両を下賜するよう取り計らった。また、高宗はこれだけでは不足であるとして、同日に入侍諸臣へ施主を勧め、これにより完順君・李載完、清安君・李載淳、輔国の閔泳煥、閔丙奭、参判の趙東完がそれぞれ一千両を出した。それでも高宗はまだ足りないとして各部の臣僚にまで勧善し、最終的には総額二十六万八千両に達したということである
)((
(
。この記録を通して、王の仏事に妃嬪だけでなくそれぞれの臣僚まで同調して
いることがわかる。十九世紀後半まで、王室の過度な仏事に対して自制を求
める臣僚たちの上疏が相次いでいたことと比べると、王室の仏事に対して反
感なく同調する臣僚たちの態度から、状況が大きく変わっていることが見て
取れる。
朝鮮王朝時代絶えることなく続いてきた庶民と婦女子の仏教信仰に加え、
十九世紀中葉以後は儒学者たちの好仏傾向と王室による頻繁な仏事、そして
ついに僧侶の都城入城禁止が解除されたこと等、仏事が活発化する社会的雰
挿図 1 居士たちの仏事関連活動事例 金允植の賛
《鴨谷寺万愚堂大禅師真影》
(20 世紀初め)
池運英の賛
《仙巌寺涵鏡堂斗雲大禅師真影》
(1(1( 年)
いる
)((
(
(挿図1)。中
でも池運英は、達磨
図等仏教を題材にし
た絵を描いただけで
なく、近代の仏教雑
誌へ挿絵を提供する
など、活発な活動を
行った
)((
(
。朝鮮王朝の仏教弾
圧策の下でも、庶民
と婦女子の信仰が
綿々と続いていたこ
とはよく知られてい
る。これまで見てき
た通り、特に十九世
紀中葉から儒学知識
人層の居士たちを中
心に、ひとつの流れ
近代における仏教界と仏画の制作二三 囲気が助成された。特にこの時期は、強大な勢力を持った王室と権力者の仏事が旺盛であったことがいくつもの記録を通して確認できる
)((
(
。つまり、寺院の厳しい経済状況を支援する後援勢力により、仏事がさらに積極的に行われ
たと考えられるのだ。このことは、次の南楊州興国寺に関する記録を通じて
も、推し量ることができる。
私たちの寺は、以前は非常に興旺し小さな宮闕と呼ばれたとも言いま
す。時折王室から文書が伝わり、尚宮や貴族夫人の色鮮やかな平轎子の
往来が途絶えなかったためです。これはすべて、寺域内に徳興大院君の
墓所があることで、王室から格別な待遇と崇奉を賜った恩恵でありま
す
)((
(
。今から三十年前、京山の各寺にこのような言葉が流行した。それはす
なわち「望月負木が告香偈を吟じ徳寺(※訳者註:興国寺の別名)負木
が十王草を描く」という言葉である。当時はどの寺も僧の数が多く敷地
も広かったため、魚山会も習画も行うと言えば、すべて仏家に正当な芸
術である、微妙な音聲供養であると賛成藉藉であったが、今や負木どこ
ろか沙弥僧がいてこそ習画ができるというものではないか。画員が多い
ことで有名だった徳寺に、沙弥僧をひとりも見つけることができない。
将来、仏画はおそらく古物商に行って手に入れるか、莫重な仏母の責任
を俗人に負わせることになりそうだ
)((
(
。以上の内容から、一八九七年頃には興国寺に相当な数の画僧がいたと推測
できる。そしてこのことから、当時は仏画の需要も多かったと考えられるの だ。この時期に制作された仏画は、一定の図像と端正で良質な画格、画風を備えており、施主を行う強力な後援層と仏画の制作を担う層がある程度確固たるものとして形成されていたようである。仏画の制作を担当した画僧たちは、仏画の需要に応えるべく集団で一心不乱に制作へ取り組まなければならなかったはずであり、この集団体制は、強力な後援勢力が多数存在していた一八六〇年代後半から一八九〇年代まで約三十年間興隆したと見られる。しかし、一九〇〇年以前に趙大妃、興宣大院君、明成皇后ら強力な後援勢力を形成していた人物がほとんど逝去してしまったため、一九〇〇年代には仏事が幾分少なくなって仏画の需要も次第に縮小し、画僧の集団体制も解体していったと考えられる。 しかし仏画の需要は一九一〇年に日韓併合が成されると再び高まる傾向をみせ、この状況は前述したように、一九一一年に実施された寺刹令と密接な関係にある。全国の寺院は寺刹令により三十の本山寺体制に再編され、朝鮮仏教界の人事権と財政権は朝鮮総督府が掌握した
)((
(
。寺刹令による本末寺体制では、仏教界が自律的に各本山寺を統括する中央機関を持つことができない
ため、朝鮮の仏教界は分割され、総督府のみが本山寺を統制することができ
た。そのため各々の本山寺住持をはじめとした指導的立場の僧侶たちは、自
らの権力と地位の保障を受ける対価として、日本帝国の政策に積極的に協調
しなければならなかった。このような状況にあって、総督府から任命された
本末寺住持らの権力は、きわめて強大であったとみえる
)((
(
。その程度が深刻であったため、当時の仏教関連雑誌では、仏教に危機をもたらす原因として住
持の専横と独裁が指摘され、「住持毒」という表現も用いられるほど辛辣に
批判されている
)((
(
。このような中で仏事を企画し主導したのは、仏教行政に強力な主導権を持
美 術 研 究 四 一 三 号
24
二四
っていた各本末寺の住持であり、彼らは競って仏事を実行した。張道煥(一
九〇三〜?)は、近代の雑誌『仏教』の「関北巡廻概感」という文章を通じ
て総督府の本末寺体制を次のように批判している
)((
(
。三十一の官僚住持をめぐる分散と乱舞は、どうしてなくならないのだ
ろうか。もう一度言えば、建物守護と守番が為政当局の唯一の主眼であ
り目標であるため、寺院伽藍は総督政治によって制定された法の偶像化
した空閣で、自由芸術思想の型としての建物になってしまった。そのた
め、建物の維持はすなわち仏教の維持であり、建物の雄壮はすなわちそ
の発展として理解され、土木起工は住持職務の充実の尺度であり、すな
わちそれが郡道当局の本意を着実に履行するものとして、いまや平坦に
その道をのみ歩んでいる
)((
(
。これは、当時住持たちの中心事業が寺院建築と関係していたことを如実に
示す一節である。
一九一一年頃から三十本山寺の有力寺院を中心に、建築仏事はもちろんの
こと、それに伴い寺院の殿閣を荘厳に飾る仏画も引き続き活発に制作が行わ
れ、仏画の需要が増加していったと考えられる。実際に、本山寺である龍珠
寺、宝石寺、伝燈寺や有力人士と関係のある寺院で、注目に値する仏画が一
九一〇年代から集中的に継続して制作されたことが確認できる
)((
(
(表1)。十
九世紀末に仏画の制作層を動かしていたのが王室と権力者らの強力な後援勢
力だったとすると、日帝強占期が始まった後は、各寺院の権力者である住持
とその側近たちに主導権が移ったと推測できる。
ここからは近代における仏画の現存状況を探っていくことで、この時代に おける仏画の制作量について考えてみることにする。現存する近代仏画の数量がどの程度であるか正確に把握することは難しいが、朝鮮時代の仏画に対する調査を集大成した近年の成果である『韓国の仏画』をみると
)((
(
、収録された全三千余件の仏画中、七十%を越える二千三百余件が十九世紀中葉以降の
作品である。なお、ソウル地域だけでも、安静寺や安養庵の仏画など『韓国
の仏画』に収録されていない近代仏画も相当数あり、未発見の作品まで勘案
すると近代仏画の数は膨大なものであったと言える(表
2)
)((
(
。実際に、現在寺院に掛けられている大多数の仏画は近代に制作されたもの
である。ソウル、京畿道地域の例のみいくつか挙げてみると、華渓寺十四点、
ソウル 奉恩寺 南楊州 奉先寺 水原 龍珠寺 江華 伝燈寺 報恩 法住寺 公州 麻谷寺 大邱 桐華寺 永川 銀海寺 義城 孤雲寺 聞慶 金龍寺 慶州 祇林寺 陜川 海印寺 梁山 通度寺 釜山 梵魚寺 完州 威鳳寺 錦山 宝石寺 求礼 華厳寺 海南 大興寺 長城 白羊寺 順天 松広寺 順天 仙巌寺 平昌 月精寺
1(10 〜 20 年代
1
(
( 1(
2
2
( 1 1(
( 1
( 1 2
(
( 1(
1((0 〜 (0 年代 2
1
(
1 1
10 1
(
1 1
2
(
制作年不明
(20世紀前半)
2 2
(
(
(
2
21
(
2 12
( 2 2 1
計
(点)
2 0
(
( 1(
2(
( 1 1 2
( 11
((
22 1
(
( 1(
11
( 1(
1 表 1 日帝強占期における本山寺院の仏画制作
近代における仏教界と仏画の制作二五 守国寺七点、津寬寺十五点、開運寺十三点、慶国寺十五点、弥陀寺九点のように、ひとつの寺院内で短い期間に多くの仏画が制作されたことがわかる。特に守国寺の場合、現存する仏画は七点だが『奉先寺本末寺誌』の記録を見ると
)((
(
、一九〇七年だけで王室の支援を受け同時に十点の仏画を制作したという内容があり、喪失した仏画を考慮に入れると、近代に制作された仏画の数
は現存する仏画の数より相当多かったと考えられる。
近代仏画の数がこのように圧倒的な割合を占めている理由としては、まず
前述した通り寺院の改築と殿閣の新築等寺院の建築仏事が活発に行われ、そ
れにより仏画制作や仏事もまた頻繁に行われたことが挙げられる。その他に が、その実十中七八は名誉を買う為に檀家や私益を求める化主たちが不必要に彩りしているものである
)((
(
。また近代に西洋画法が伝来したことで、仏画にも西洋画法を用いたものが
人気を博したが、このような状況もまた、寺院にあった既存の仏画の代わり
に新しい仏画を制作する理由になったと思われる
)((
(
。現存する近代仏画の主題を見てみると、如来画は阿弥陀如来図と釈迦如来
図が最も多く、菩薩画は地蔵菩薩が最大の割合を占めている。また、熾盛光
表 2 近代仏画の現存状況 時期
数量 合計
1( 世紀 以前
1( 11 2(
((2
211 ((0 22( 1,11(
2,(1(
1,1((
1( 世紀 前半
1( 世紀 後半
1( 世紀 前半
1( 世紀 後半
1( 世紀 前半
1( 世紀 後半
20 世紀 前半
も、仏画が時間を経て古くなり退色したため、新しいもの
を制作して掛け、古い方の仏画は焼いてしまうという寺院
の慣行によって、財政的に余裕のあった寺では仏画を頻繁
に制作していたことも、ひとつの原因だろう
)((
(
。このことに関しては、近代の仏教雑誌にいくつか批判文が掲載されて
いる。
それはすべてこの類いの行為で、仏画が少しでも黒
ずむと火徳真君の祭物として封じて、ケバケバしく彩
色した新しい仏画に掛け替え、画面に埃ひとつでも付
くと新たに鍍金し、巨大な建築の椽ひとつ柱ひとつで
も傷つけば新しく建て直し、鐘鼎や古器に少しばかり
垢が付いたりヒビが入ったりしただけで壊して新たに
鋳造する等、一見すると金光が燦爛し彩色が色鮮やか
でこそ斬新な気分が出て信仰する甲斐があるようだ
表 ( 近代仏画の需要、主題別割合 数量(点) 12(
(.((
1(0
(.((
1(1
(.((
2((
12.(
2(2 11.((
1((
(.(
1((
(.((
2((
11.((
釈迦 如来図
阿弥陀 如来図
地蔵
菩薩図 神衆図 熾盛光
如来図 独聖図 山神図 真影
割合(%)
如来図と神衆図、そして独聖図と山神図が相当数残ってお
り、当時の信仰傾向を想像することができる。この中でも
特に神衆図は二百八十七点、熾盛光如来図は二百七十二点
で最も多くの数が残っており、二千三百余点の近代仏画中
それぞれ十二・四%、十一・七%に達する数である。この
ことから、近代には神衆図と熾盛光如来図の制作がかなり
活発であったことがわかる。また、僧侶たちの肖像を描い
た真影は熾盛光如来図にひけを取らない数が残っている
が、これは近代において寺院の社会的位置付けを高めるた
めのひとつの手段として、法脈の系譜を真影によって視覚
化しようとしたためではないかと考えられる。
地域的には慶尚道地域に最も多くの仏画が残っており、
その次に全羅道地域、ソウル・京畿道地域、忠清道、江原
道地域が続く(表
()
)((
(
。朝鮮時代の仏事の後援層は、大きく王室と民間に分ける
ことができる。近代仏画の画記を調査してみると、王室、
美 術 研 究 四 一 三 号
26
二六
尚宮、官吏、両班、中人、庶民男女、比丘・比丘尼等各階層が全国的に施主
者として参加していることが認められる。その中でも特に、十九世紀中葉以
降は尚宮たちの仏画制作後援が活発であったことが注目される
)((
(
。絶大な勢力を誇った王室や、十九世紀後半主要施主勢力として浮上する尚宮、権力者た
ちの仏事が規模において最も大きかったが、その他にも一般の在家信徒や比
丘・比丘尼らの施主も、規模は大きくなくとも相当頻繁だったことが仏画の
画記を通して確認できる。
以上、現存する仏画は十九世紀後半から二十世紀前半にかけての時期に、
王室や官僚、儒学者、庶民、そして寺の僧侶に至るまで多様な階層の発願に
より活発に制作されたということが確認できた。このことから、はたして近
代仏画を朝鮮王朝後期以後の末期的廃退の現象として見ることができるの
か、疑問を抱かざるを得ない。
三、近代における仏画の多様性
この時期に制作された多くの仏画は、伝統を維持しながらも、図像と技法
の面においてはそれまでの時代に比べ非常に多様化していく傾向が見られ
る。これは、外国から輸入された新文物の影響はもちろんのこと、一八九五
年僧侶の都城入城禁止解除以後、漸次公式にその社会的位置付けを回復する
仏教と僧侶たちの地位向上によって、以前に比べ新しい要素を自由に仏画へ
導入し、制作者の創意性を発揮できる雰囲気が醸成されたことも、ひとつの
要因になったと言える。ここでは、このような仏画の図像と表現技法につい
て順に概観してみることにする。
図像は大きく、中国版画の影響と日本文化の影響という二つの側面に分け
て考察する。十九世紀中葉から、それまでには見られなかった新しい図像や モティーフを取り入れた仏画が出現した。これは、画僧たちの純粋な創作物というよりも、中国から輸入された版画や仏書の影響が大きいとみられる。十九世紀、中国の上海は近代文化の中心地として新興していた
)((
(
。特に一八八〇年代、上海の出版業は大きく発達して各種の画報類が大量生産され広く普
及しており、仁川―上海間の定期船が運航してわが国にも実時間で伝来する
ようになった
)((
(
。これによって、張承業、安中植、趙錫晋、池雲英ら近代の有名画家たちが各種画報の図像を借用し絵を描いたことは、よく知られている
事実である
)((
(
。同じように、中国仏教関連の出版物と各種画報、小説版画、民挿図 2 慶国寺《釈迦八相図》1((( 年、絹本彩色、各 1(0.0 × ((.((()cm
近代における仏教界と仏画の制作二七 間版画等が同時期に朝鮮半島へ輸入され仏画の制作に影響を与えた可能性は十分にあるだろうし、その影響が窺える仏画も現存している。 一八八七年に制作されたソウル慶国寺の《釈迦八相図》(挿図
2)は、中
国の通俗小説の版画のモティーフを借用して描かれた作品である。この作品
は双幅で、各幅が異なる画面分割形式をもつ独特な仏画である。釈迦八相図
には多様な眷属たちが登場するが、この作品では四天王の図像が目をひく。
四天王はチベットの五葉冠を冠り、肩から後ろに丸くはためく布裾が特徴的
だ。また、それぞれ琵琶、傘、剣、宝塔などを手に持っているが、このよう 慧寺南庵《阿弥陀三尊図》(一九
一九年)、陜川海印寺《熾盛光如
来説法図》(一九二五年)がある。
次に見る、ソウル弥陀寺香炉殿
の一九〇七年制作《観音菩薩図》
(挿図
()もまた、中国小説の版
画モティーフが借用された例であ
る。この絵では、主尊である白衣
観音が柳の木の枝を持ち、波濤を
背にして龍王と思われる人物に向
かって立っている。画面左側の龍
王は、観音菩薩に揖をする姿勢で
両手を合わせ頭の上に向け、武将
形の出で立ちで真横から描写され
ているが、龍王がこのように武官
装束で揖をする姿勢をとる例はこ
の作品ただひとつだけだ。このよ
うな図像は、中国小説の版画『三
国志演義』に類似例を見ることが
でき、その影響関係が推測される
(挿図
()。
このように、中国小説の版画に
見られる武将姿の神将は、忠清南
道麻谷寺霊山殿の《神衆図》(一
挿図 ( 中国小説版画のモティーフを借用した例 1
慶国寺《釈迦八相図》(部分)1((( 年 『封神演義』の四天王
な装束と持物は、中国の小説『封
神演義
)((
(
』の版画に登場する四天王の図像と類似し、注目される。『封
神演義』では、最後に魔家の四将
軍が四天王に封じられるのだが、
この話の中で琵琶や傘が神秘的な
力を備えた宝物として現され、四
天王はこれらを武器として使用す
る
)((
(
(挿図()。
このように、四天王の図像に中
国小説版画の図像を借用している
作品は、京畿道華城鳳林寺の《熾
盛光如来説法図》(一八八七年)、
江華白蓮寺《熾盛光如来説法図》
(一八八八年)、麗水興国寺《三世
仏図》(一九二九年)の四天王
)((
(
、定挿図 ( 城北区弥陀寺香炉殿《観音菩薩図》1(0( 年、絹本彩色、
(1.( × 1(1.2cm 挿図 ( 中国小説版画のモティーフを借用した例 2
弥陀寺香炉殿《観音菩薩図》(部分)
1(0( 年
『三国志演義』の将軍
美 術 研 究 四 一 三 号
28
二八
挿図 ( 中国民間版画のモティーフを借用した例
挿図 ( 定慧寺南庵《阿弥陀三尊図》1(1( 年、綿本彩色、((.0 × 1((.0cm 挿図 ( 《六祖大師真影》(『仏教』
第 (( 号掲載、1((0 年 ( 月)
定慧寺南庵《阿弥陀三尊図》(部分)1(1( 年 《全相観音図》(部分)
中国・清時代
九一〇年)、忠清南道公
州定慧寺の《神衆図》(一
九一九年)等、近代の神
衆図に多数確認される。
定慧寺南庵《阿弥陀三
尊図》(一九一九年)(挿
図
()は、中国の民間版
画のモティーフを借用し
描いた例で、阿弥陀如来
の両脇侍である地蔵菩薩
と観音菩薩の姿が、一般
的な図像とは違う独特な
ものになっている。ま
ず、地蔵菩薩を見てみる
と、頭にはチベットの五
葉冠を冠って両肩と耳の
後ろから袈裟の前へ冠の
垂飾を長く垂らし、重ね
た両手の平には宝珠を載
せている。このような図
像は、年代は若干下るも
のの近代の仏教雑誌にひ
とつの例が紹介されてお
り、中国の仏教図像が媒 体を通じて知られていたことがわかる
)((
(
(挿図()。地蔵菩薩の眷属である無
毒鬼王もやはり既存の図像と異なり、両手に白い布を被せその上に宝珠を載
せた独特の姿をしている。これもまた中国の民間版画の影響を受けたものと
近代における仏教界と仏画の制作二九 考えられるが、その図像の典拠はまだ探し出せていない。観音菩薩は白い布を頭の上から全身に被った姿で、両脇には合掌する善財童子と龍女を描いており、このような図像も中国の民間版画に見つけることができる(挿図
()
)((
(
。定慧寺本の観音菩薩と中国の民間版画は、細部に差異があるものの、既存 の伝統的な観音菩薩の図像とは明らかに異なり、二十世紀前半に突然現れたという点で中国から新しく受け入れた図像とみて支障ないだろう。中国版画の観音菩薩が左手に杯を持っているのに対して、定慧寺《阿弥陀三尊図》の観音菩薩は左手に浄瓶を持っている点に違いがある。定慧寺本の観音菩薩は
右手の親指と人差し指の先を合わせているが、中国の図像を見ると元々は柳
の木の枝を持つ図像であったことがわかる。おそらくこの絵の作者が下図か
ら意図的に省いたか、あるいは柳の木の枝を正確に認識できなかった結果だ
ろうと推察される。
中国の観音菩薩は、戯曲または民間故事に登場し、壁や窓、戸に貼られる
年画として制作されたため、凡人のように世俗化されるようになった
)((
(
。このような観音菩薩の図像が国内に輸入され、定慧寺本の図像を作ったのであ
る。したがって、観音菩薩の慈悲深い神聖な宗教性よりも、親近感のある世
俗的な感じが強い。
中国清時代末期、寺院が次第に教育施設のひとつである学堂に変わり仏教
が停滞していく時期、楊文会によって南京に金陵刻経処が造られ、仏教典籍
に重点を置き刻経を行う以外にも、二十六種の仏菩薩の木版を制作した。そ
の中には、著名な画家が描いた数種の観音も含まれていた
)((
(
。このような雰囲気は民間にも伝えられ、多様な仏菩薩を取り入れた民間版画が制作されたも
のと考えられる。二十世紀前半、突如再び国内に現れた准胝観音も中国の民
間版画の影響ではないだろうか
)((
(
。二十世紀前半の木芽博物館所蔵《准胝観音図》(挿図
()が中国の民間版画の影響を受けている例だと思われる。画面
をびっしりと埋める構図と、主尊を大きく捉える形式、そして多少疎略で
擦れたような表現が中国の民間版画にみられる菩薩図に類似している(挿図
10)。
挿図 ( 《准胝観音図》20 世紀前半、綿本彩色、
1((.( × ((.(cm、木芽博物館蔵 挿図 10 《准胝観音図》中国・清時代、20.0 × 11.0cm
美 術 研 究 四 一 三 号
30
三〇
次に見る安城青龍寺の《釈迦八相図》(一九一四年)
(挿図
11)は、既存の釈迦八相図と異なり、近代に新
しく輸入されたと思われる清代の仏教版画『釈迦如来
応化事迹』を全面的に受容し、既存の図像を一新した
代表的作品である
)((
(
。わが国に現存する釈迦八相図は朝鮮前期には『釈譜詳節』(一四四七年)と『月印釈譜』(一
四五九年)を典拠として制作されており、以後朝鮮後
期から近代にかけての大部分の作品は、十七世紀に輸
入されたものとして知られる『釈氏源流応化事迹』の
図像に相当数依拠していることが知られている
)((
(
。しかし、安城青龍寺本は『釈氏源流応化事迹』ではなく十
九世紀初、中国清で刊行された『釈迦如来応化事迹』
を積極的に反映し、当時のソウル・京畿道地域で流行
した画面分割形式を適用した事例として注目される
)((
(
。この作品はひとつの画面をいくつもの区画に分けてお
り、このような形式は十九世紀末からソウル・京畿道
地域で新たに出現した方式である。それぞれの区画
は、既存の八相図に比べ核心的な部分のみを取り上げ
挿図 11 青龍寺《釈迦八相図》1(1( 年、綿本彩色、20(.( × 1(1.0cm
挿図 12 青龍寺《釈迦八相図》と『釈迦如来応化事迹』の細部比較
青龍寺《釈迦八相図》1(1( 年 毘藍降生場面(部分) 『釈迦如来応化事迹』1(0( 年 九龍灌浴場面(部分)
挿図 1( 『仏教』第 (2 号
近代における仏教界と仏画の制作三一 簡略に表現しているが、この中で釈迦誕生後九匹の龍が水を吹きかけて釈迦の体を洗う場面は、画面下段のふたつの水たまりのかたちと水面の表現ま
で、中国の嘉慶年間一八〇八年に刊行された『釈迦如来応化事迹』と非常に
類似していることがわかる(挿図
12)。
兜率来義相もやはり『釈迦如来応化事迹』の場面を簡略化して描いたもの
で、全体の構図と殿閣のかたちがほぼ同じである。このように、この釈迦八
相図の八場面中五場面は版画を全面的に導入して描いたものとみえ、残りは
版画の場面を組み合わせるか部分的に拡大して描いている。ただし、最後の
涅槃の場面はまったく別物と思われるため、他の版本の輸入可能性も残して
おかなければならない。しかし、青龍寺の《釈迦八相図》の化主が洪月芸だ
という事実は、『釈迦如来応化事迹』の輸入と関連して示唆するところが少
なくない
)((
(
。洪月芸に関して、金素荷は近代の仏教雑誌『仏教』で、自身の法師である洪月芸の四十九日に参列しようと会場へ向かいながら洪月芸につい
て記述している
)((
(
。これによると、洪月芸は法を求めて中国へと渡り一九〇六年から八年間滞在し、北京の円広寺で慶然律師から比丘戒を受け、上海の留
雲寺では頻迦精舎の大蔵経新刊の際校正法師として居ながら、朝鮮に連絡し
蔵経二十余帙を国内に輸入した(挿図
1()。その後、彼は一九一三年に帰国し、
翌年の一九一四年に安城青龍寺の《釈迦八相図》制作の化主として参加する
ことになった。このような事実から、洪月芸が所蔵していたか、あるいは国
内に入ってきた仏書の中に、青龍寺の《釈迦八相図》の図像的根源になる『釈
迦如来応化事迹』の版本があった可能性は高い。当時の上海における活発な
出版物刊行と仏書の刊行、そして実時間で国内に輸入することができた状況
は、『釈迦如来応化事迹』の版本の輸入に対しても、充分な根拠となる
)((
(
。この他に、近代には日本の影響を受けた仏画も制作された
)((
(
。これは、十九挿図 1( 《降三世明王》10(( 年、日本・来振 寺蔵
挿図 1( 《不動明王二童子像》(部分)11 世紀後半、日本・
青蓮院蔵 挿図 1( 《不動明王》20 世紀
前半、日本
美 術 研 究 四 一 三 号
32
三二
挿図 1( 伝燈寺《神衆図》1(1( 年、絹本彩色、1((.( × 2((.(cm
世紀末から日本仏教の各宗派の布教所が全国各地に競って作られ、日本仏教
の影響が拡大したことと無関係ではない。日本の仏教図像を借用した仏画が
制作されたもうひとつの原因は、日清戦争(一八九四〜一八九五)以後本格
的に韓国へ移住する日本人商人の数が増加し、特に都市を中心にして日本人
の数が増加したため、日本人の信仰や文化に接することが容易になったこと
もある。
このような状況で日本帝国の支配が始まる一九一〇年以後の仏画に、日本
仏教の図像はもちろん、日本を通じて入ってきた文化の影響が見え始める。
また、一九〇〇年代から始まる仏教視察は、日本の有名な寺院の訪問と宝物
の観覧が主な旅程として含まれていたため、視察に参加した僧侶たちを通じ
て日本の仏教図像が輸入された可能性も大きいと言える。
日本の密教図像を我が国の仏教図像と比較すると大きな違いが見られる
が、その中でも多面多臂の忿怒形の神将像(挿図
1()と不動明王(挿図
1()
の図像は、一目見ても非常に印象的である
)((
(
。特に不動明王は、日本では財物神として人気が高く、日本家屋の床の間に彫像あるいは掛軸(挿図
1()とし
て飾り礼拝するなど、磨崖仏として作られ信仰された
)((
(
。実際に弘法大師像と不動明王像が磨崖仏の形態で木浦儒達山に刻まれているのだが、この像はふ
たつとも日帝強占期の一九二〇年頃木浦へ渡っていた日本の真言宗により彫
像されたものと伝えられている。しかし、このような不動明王や多面多臂の
忿怒形の神将像である穢跡金剛が、わが国の近代仏画にも主要尊像として登
場する例があり、注目される
)((
(
。その代表的な作品として、水原龍珠寺《神衆図》(一九一三年)、江華伝燈
寺《神衆図》(一九一六年)、江華浄水寺《神衆図》(一九一六年)、ソウル安
養庵《神衆図》(一九二四年)、南原昌徳庵《神衆図》(一九四二年)等が挙げ
近代における仏教界と仏画の制作三三
挿図 1( 尋牛寺《一心三関門図》1(21 年、綿本彩色、21(.0 × 1(1.(cm
られるが、この五点のうち昌徳庵《神衆図》を除く四点はすべて二十世紀前
半に名を馳せた竺演という画僧が制作したという点で興味深い。一九一六年
に制作された伝燈寺《神衆図》(挿図
1()は、竺演の作品中、日本仏教図像
の影響を最も色濃く受けたものだと言える
)((
(
。この作品の主尊である穢跡金剛は、画面の中央に三面多臂像で表され、上半身には蛇を巻付け下半身には虎
の毛皮を纏って、火輪の上に立っている。挙身光のような火焔が全身を取り
囲んでおり、その図像は非常に印象的である。穢跡金剛の姿は、それに加え
てまるで光を放つような蛍光性の明るい朱黄色で火焔が表現されており、見
た瞬間に目を奪われてしまう。画面左で長い剣を上向きに垂直にして持って
いるのが不動明王で、わが国の仏画にはまったく見られない図像であるた
め、日本仏教の影響が確実にわかる図像である。竺演による龍珠寺の一九
一三年制作《神衆図》と、伝燈寺の一九一六年制作《神衆図》の証
)1
(補註
明僧侶 が、日帝強占期に活躍した李晦明だったという事実は、注目すべき点である。李晦明は、乾鳳寺の僧として一九二〇年代まで常に竺演と密接な関係を持っ
ており、有力寺院の僧侶であった李晦光が師兄であった
)((
(
。尋牛寺の《一心三関門図》(一九二一年)(挿図
1()は、竺演の仏画の中で
李晦光が証明あるいは監督として参加した作品のひとつで
)((
(
、日本の仏画の影響が窺えるもうひとつの例である。この作品は制作された後、当時のソウル
仏教中央布教所の説法殿に奉安されていた。地獄と極楽が三場面に分けて描
かれていたが、現在ではそのうちの一幅が失われている。尋牛寺の《一心三
関門図》は、波濤のうねる海を背景にした、非常に独特な構図と内容の絵と
して、その図像的典拠が議論されてきた。日本の《地獄極楽図》(挿図
1()
に非常に類似した点を見つけることができ、この作品の監督であった李晦光
は日本を何度も往来したことがあったため、その影響関係は十分推察できる。
李晦光は、日本視察団の主要メンバーであった。その時の出来事を、近代
の雑誌『朝鮮仏教叢報』の内容から簡単に検討してみると、次のようにな
る
)((
(
。「本山の住持をはじめとする寺院関連の者八名、雑誌記者一名、朝鮮総督府嘱託一名、計十名の人員が一九一八年九月一日下関に到着し、約二十日
間視察を行った。神社、大学等の施設や、寛永寺、総持寺、知恩院、妙心
寺、東大寺等、全十五ヶ所の主要寺院を回り、到着して間もなく日本の総理
大臣代理に謁見すると銀製の香炉を献上したのだが、当時海印寺の住持であ
った李晦光は特別に持参した画簇子一対を贈り、自由時間には他の同行者と
は別に鎌倉大仏を見学するなど、美術と仏教文化に関心を持っていたようで
ある」。親日傾向の強かった彼が日本の寺院や仏教文化に触れて帰国し、仏
画を制作する際に新しい図像を導入するよう要求した可能性は高い。
この他にも、大韓帝国期に制作された忠清南道公州新元寺《神衆図》(一
美 術 研 究 四 一 三 号
34
三四
九〇七年)には、日本の軍服に倣った大韓帝国の軍服を着た護法神が登場し、
よく見ると大韓帝国の紋章であるスモモの花をあしらっているなど、当時の
風俗や風物を取り入れて描かれている例も少なくない。ソウル興天寺の《甘
露王図》(一九三九年)(挿図
20)のように、全面的にはっきりと近代的素材
と技法を導入した仏画もある。近代仏画の技法については、西洋画法の使用
が著しく、真影には写真のように克明に対象を描写する写真式再現技法も使
用されており、注目される
)((
(
。ここまで、近代仏画の多様な側面を概観してきた。近代仏画が朝鮮末期の
衰退した様式のものであると認識されてきた最も大きな要因は、恐らく、擦
れたような表現と調和を欠いた色彩等、技法上の問題が大きく作用していた
と思われる。元々多数の作品が制作されたため、図像や技法が秀逸な作品も
数多くある一方、様々な面で相当粗悪な作品も多く残ってしまっていると考
えられる。特に二十世紀に入り、仏画が美術というジャンルに組み込まれる
と、テクニックの完結性が重視される職人の産物ではなく、個性と社会的機
能を重んじる芸術家の創作物として見ることのできる仏画が制作されるよう
になった。慶尚南道梁山通度寺の《十六羅漢図》のうち第十尊者を描いた一
幅から、このような側面が窺い知れる(挿図
21)。この作品を、十六羅漢図
であるという知識なしに初めて見れば、僧侶の真影だと思ってしまうだろ
う。この作品は、一九二〇年代中盤まで「全鮮界首範画師」として有名だっ
た竺演の作品である
)((
(
。伝統的な十六羅漢の図像からかけ離れ、技法も伝統的なものとは異なるこの作品をどのように理解すべきだろうか。生身の僧侶を
モデルにしたような羅漢の姿、一九一九年金圭鎭の書が刻まれた金剛山の九
龍瀑をそのまま描いた背景、印象的な色彩と表現など、これらの要素は当時
の社会、宗教、言論、観光、交通、美術、画僧の芸術観と哲学、人的交流関
挿図 1( 《地獄極楽図》1( 世紀、日本・金戒光明寺蔵
近代における仏教界と仏画の制作三五
挿図 21 通度寺《十六羅漢図》第 10 尊者、1(2( 年、
絹本彩色、22(.0 × 2((.0cm
係等、多様な物事と関連している。はたして、この絵は図像の的確さと表現
技法の優劣という基準からその価値を計れるものだろうか。伝統的な仏画の
価値基準から抜け出し、より多角的な面から接近し得るような方法論と、統
合的な視点によって、私たちは近代仏画の肯定的側面と否定的側面とを客観
的に認識する必要があると考える。
おわりに
十九世紀中葉から二十世紀前半にかけての百年近い期間に制作された仏画
は、数の上で現存する仏画の大部分を占めている。しかし、多数の作品が残
っているにもかかわらず、図像の混乱と技術的質の低下という点から、それ
以前の時代の仏画に比べ、近代仏画は衰退期の作品として価値の低いものと
考えられてきた。
筆者はこれまで近代仏画の研究を行いながら、はたして近代の仏画の価値
挿図 20 興天寺《甘露王図》1((( 年、綿本彩色、1((.2 × 1((.(cm