方法的
著者 深萱 和男
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 1
ページ 90‑96
発行年 1990‑06‑03
URL http://hdl.handle.net/10076/2605
方 法 的
高木市之助先生の人と学問について話してみたいと思います1先程司会の方が言われましたように、今年ほ先生の十七回忌の
年に当たります。亡くなって十七年もたちますとそれだけ菅 先生の年齢に近づいたわけで、年齢警量蘭距離はだいぶ締ま
りました。私は先生晩年の学生の一人で、当時すでに先生ほ大きな峰として、国文学界にそび、登っておられ、師弟と呼ぶに
ほ余りにも遠くはるかな存在でありました三方、私ほ先生が亡くなる前の十年余、先生の仕事や日常のことを身近に見てき
ました。この点では、先生との車間距離は至近であったと言え
るかと思います。車間距離というのは余り近いと追突の危険が
あります。離れすぎていても間に他の車がぁりこんできたり先
の車が見えなくなったりしせす。ようするに後続車が先行車を
追いかけるには適当な間合いがいるわけで、先生と私との車間
距離は先生の在世中はどちらにしても余り適当ではなかったか
も知れません。没後十七年、ようやくいくらか適当な距離で先
生を見ることができるさっになったと思います。
そうした個人的な事情とは別に、現在もっと学問的文学論的
深萱
に高木尭生を見苧必帯出てきてい曇、つに思います。それ
ほ一体どういうことなのだという質問がすぐ出てきそうですが、
その質問にほ、結局、今日これから話すことが私なりの答えだ
と由し上げるしかないようです。
早速本顕に入りますっ
高不先生の歌に、
管すがら貸しらぶるに雫まず庭の薮菅琶過ぎぬぺ
とい、つ作日野あります。一九六七年、先生八十歳の記念に建て
られた文学碑に刻まれた歌で、作られたのは完五四年、憶長 のことを考左記けておられた姿がしみじみと思い誉れます。
この歌ほまことによく先生の人と学問を表していますが、ここ
ではとくに「しら息二る)」という語に注目したいと思い与。
「しらぶ」ほ、言うまでもなく、一義的にほ、物事をほっき
り量るために観察したり検索したり研究↓たり探求したりす
ることです。こうい、つ知的科学的な意味と同時に、「しらぶ」には楽器をかなでるという芸術や創造にかかわる意味がありま す。
高木先生の学問ほ、この「しらぶ」という語のもつ知的科学
的と芸術的創造的の両義を兼ね備えたものでありました。学問
ですから観察模索研究探求は当然でありましょう。しかし、学・間がすべて「かなでる」面をもっているかどうか。学問、とり
わけ文学を対象とする学問は芸術的創造的でもなければならぬ、
これが高木先生の持論で、生前最後の著書『貧窮問答歌の論』
にはそのことがくわしく述べられています。そして『吉野の鮎』
をはじめとする先生の著作の一つ一つがその実践だったのです。もちろん歌作もそっした先生のもう一つの文学論的実践であ
りました。
あか星のかげをふみつつわれはただ世のすべなさを憶長にい
のる
これほ一九六九年歌会始の召人となちれた時の応制歌です。こ
の種の歌に「世のすべなさ」を詠み込むというのは極めて異例
のことのように思いますが、憶長を「しらぺ」つづけてきた先
生ほ、憶長の「愛語」と言ってもいい「世のすべなさ」を自ら
の歌のことばとします。ここでも「しらぶ」が両義的に実践さ
れていると言ってよいでしょう。「愛語」については後に触れ・
ます。
ところで、先生の自伝『国文学五十年』に、歴史学者石母田 正さんから先生の反骨精神の由来について訊ねられたという話が出てきます。たしかに先生にはアカデミズムに対する批判的姿勢があり享したし、そのものの見方や考え方には独特の弁証法がありました。『高木市之助全集第一巻』の解説に西郷信綱氏が、折口信夫
の『舌代研究』の「追ひ書き」を引用しながら高木先生の「別
化性能」・に触れているのむこのことと関係があるように思いま
す。
折口は、人間の比較能力には「類似点を直観する傾向」すな
わち「類化性能」と、「突嗟に差異責を感ずる」いわゆる「別
化性能」の二種類があり、自分には「別化性能」が不足していることを反省しているのですが、西郷氏は、「渾化」を民俗学
や社会学の当然と認めつつ、文学研究ほそれとは趣を異にし「個体の表現に寄りそい」類同性よnノb独自性をおもな仕事と
すると言います。そして、その「別化性能←によって「作品の図柄をきわだたせるわざ」に「特にたけていた」のが高木先生
だというわけです。『吉野の鮎』に「二つの生」という論文が収められています。
憶長と旅人を文学的に好比させ、その個性の反税関係を論じたもので、晩年の『大伴棟人・山上憶良』
を大きくふくらませた一冊です。いずれも先生の.「別化性能」
がよく表れた仕事と言えるでしょう。
先生もこうした自分の特性を「二つのむのを対比させ相反的
に考えていノ畠心音法」というふうに呼んでいます。たしかに、「別化性能」は才能だけでなく「思考法」の問題でもあって、
その思考法が先生の場合P】うやって身についたかが石母田さん
ならずとも気にかかるところです。自伝の申で先生はそれを遍
歴体験に結びつけて語っています。
父の遍歴に伴う再三の転校が高木少年をいやおうなしに孤独
にし自他の区別に敏感にさせます。いつもそうであったさっに、先生の話ほつぎからつぎへとひ.
ろがってゆき、開く者を飽きさせません。しかし、先生の思考
法を遍歴体験にだけ結びつけてとらえるのほ危険です。遍歴以
上に先生の思考法を鍛えたものは学問で、これほ余りにもあたりまえの話ですから先生も言及しなかっただけのことでしょ、つ。
叙事詩論を専攻した先生は、得意を語学を駆使して読みあさった西欧の叙事詩論に導かれ、比較の視占首徹底的に身につけ
ていたはずです。あの三木清の『槽想力の論理』と先生との出
会いと共鳴もこうした思考法の訓練があってほじめて可能だっ
たと言えましょう。
「孤語」(「文学・試筆」一九五六年+二月発表・全集第三巻所収)は、先生のそうした対立的相反的思考法から生まれたまことに先生らしい論文です。
「孤語」というのは文字通りひとりぼっちのことばです。先
生は憶長を中心に孤語の問題を考えてい&のですが、万葉集に ただ一度だけ用いられた語を孤語と名づけます。孤語は日常語としては当然使われていたでしょ、つが、.辛か不幸か万葉集でほ他に用例を見ない特別な語です。先生は、その孤語が億長に多いことを指摘し、そこに億長の個性を発見しようとします。先生の「しらぺ」はここでも詳細にわたり、「憶艮孤語表」としてその調査結果がまとめられています。「憶艮孤譜表」によれば、億長の孤詰ほ集中八十三例、中で
も貧窮問答歌に二十九例(これほのちの『貧窮問答歌の論』でほ二十七例に訂正、数字の微細な異同ほ常にありつること、文学論的にほむしろ概数で考えるぺしというのがこれまた先生の持論やした)ときわだって多く、そこにふかれかいかわ億良的
特徴を見出されたのでした。そっした憶艮にくらぺて旅人には孤語がいかにも少く、しか
も憶長の孤諸に「貧し」や「盲人」といった現実的生楕的な語
が多いのに対して、旅人のそれは例の讃酒歌における「醜」に
見られるような美的浪漫的な傾向がつよく、そこにこそ「二つ
の生」のちがいが表れていると説く手並みはみごとというほか
はありません。
ひとりぼっちの孤語とほ反対に、万葉歌人たちによって頻繁に使われ愛用された語、それを何と呼ぶかが先生の懸案でした。
先生ほ名づけの名手で、『吉野の鮎』というのも論文離れし
たしゃれた名前で、釣り好きの人が題に釣られて買ったけれど
釣りの話がどこにも書いてないじゃないかと文句を言ったとい
ぅ逸話も残っているくらいですが、r.孤語」といういかにもぴ
ったりした名づけに匹敵するものを頻閑話の名称に求められ、
いろいろ曲折の未「愛語」に落ち着いたのでした。道元の用例
とは別の意味であることはことわるまでもないでしょ、つJ憶艮
や万葉歌人たちの「愛語」に「(世の)すべなし(さ)」があ
ることほ先にも申しました。
高木市之助全集全+巻の各巻末にある解説は、いずれも先生
の人と学問を深く知る方々による最長の高木市之助論です。中
でも第八巻担当のエ藤好美先生は英文学者で、『湖畔』を中心
とした同巻の解説ほその人柄がにじみ出た好論です。実は、工
藤先生は高木先生の重責時代の生徒で、高大尭生が高校生
の頃外人教師のおかげで英文学を断念したのとは反対に、五高
理科から英文学に転じたという異色で、現在も学界の最長老と
して健在です。
そのエ藤先生の解説に次のような箇所があります。少し長い
ですが引用させていただきます。
たとえば高木先生の文学論で重要な位置を占めているジャンルの観念にしても、それほ単に8本文学から抽出されたの
でほなく、世界文学的視野で、比較文学的方法によって獲得
され、みのり多きものとして発展させられたのであろ、つ。だから詩を考える場合にも、先生は抒情詩とともにそれと対立
し、それを補う詩の観念としで、叙事詩を想定する。叙事詩 は日本文学の創世紀に、単に断片的な痕跡あるいほ可能性として姿を見せているにすぎず、その「空白」ほ早く抒情詩にょって埋められた。にもかかわらず高木先生ほ、この国の文学史を一貫した歴史的展開としてとらえるためには、叙事詩の観念が英雄時代の背景とともに、必要として呼びだされねばならないと考えたのである。そして先生にほ、このような考えを発展ざせる思考の論理がそなわっていた。弁証法がそれである。弁証法は周知のように、テーゼからアンチテーゼに進み、さらにその対立を止揚するジンテーゼに進む。そしてこのジンテーゼがそれ自身つぎにはテトゼとなって、そこに新しい運動のサイクルが始まる。だから高木先生の書きものは、アリストテレスがギリシア悲劇につい‡言った言葉を借りれば、初めと中と終りという構造をもって、一つのまとまりをつくりながら、その終りが、多くの場合、閉じられているのでなく、つぎの新しい問題にむかって開かれている。先生の学者としての長い生涯がつねに新しい出発を含んだ成長と発展のものであったのは、一つには、先生の思考のこのような方法によるのであろう。高木先生の方法の核心をするどくとら、㌃ています。高木先生の学問が叙事詩論から出発したことほ前にも述べました。先生の叙事詩論の特徴は、叙事詩を生み出す精神すなわ
ち叙事詩的精神を、「ある民族・階級等がその勃興の段階をた
どるさいに生まれる文学に共通の精神」ととら、え、意欲的で創
造的で素撲な叙事詩的精神が人間社会にとって生命への原動力
となるものだとするところにあります(「軍記」「軍記物の本
質Ⅱ」など参照。いずれも全集第五巻所収)。
こうした叙事詩論につちかわれて、先生の人間観には意欲的で創造的でしかも素模な人間へのつよい思いが貫かれています。
世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらね
言うまでもなく貧窮問答歌に続く短歌です。この歌の解釈が ば
いかにも先生らしいものでした。「鳥にしあらねば」を鳥への
羨望とその裏返しとしての人間への絶望とうけとりやすいけれ
どそうではない、ここはむしろ、人間への信頼と誇り、それゆ
えのいきどおりと解すぺきで、決して人間否定の歌でほないの、だと先生は言います。同じ考え方は、有間皇子の歌に追和した
憶長の歌「鳥翔成ありがよひつつ見らめども人こそ知らね松は
知るらむ」(万葉集拳丁一四五)の下旬の解釈にも見られま
す。先生によれば「人こそ知らね…」ほ、人間の忘九っぽさを当然とするのではなく、皇子の悲劇を知っセいなければならな
いはずの人間がそれを知らないことに対する姦の表れです。 人間への積極的止是的姿勢があるからこそそのような轟をす
るどく読みとnJます。
意欲的創造的かつ素警人間生命の原動力ヘの先生の関心ほ、
民謡や歌謡にまで対象をひろげ、熱田裁断橋の刻銘の作者に代
表されるような無名の民衆にまで及びます。座談の名手で人間
大好きであった先生ほ、日常生活においても実にさまざまな人々と親しくしておられました。かといって俗衆にこびへつらっ
というのでほありません。人間の菅人間的ないとなみである
文化‑文学に無知無関心である者にはきびしい批判の眼を向
けています。
三木清の『構想力の論理』と高木先生の出会いのことに触れ草したが、構相や刀を人間の根源的総合的な力としてとら、え、人
間構造にある知と情その他の対立的二元的なものを統合するものとして技術を考えるlニ木清の論に亭不先生が深く並ハ感きれた
のも、その叙事詩論的人間観からごく自然のことだったように
思われます。高木先生にとって文字は人間の構想力の最もすぐ
れた表現のlつです。その文学を文学として(とい、つことほ人間として)うけとめ、その感動を伝えること、それが先生の文
学論のめざすところで⊥た。人間のいとなみとしての文学に視占が当てられている限り、それは人間の生命に向かって開かれ、
新しい出発を内にふくんだ学問として成長してゆくでしょ、つ。
エ藤先生の解説にあったとおりです。こうして高木先生は古典を現代に架橋することに一生をかけ
たのでした。
これは去る四月三日クラブ東海を会場に行った講演の草稿に
加筆したものです。いつものことながら、まことに舌足らずな
話で、とくに、高木先生の文学論を具体的にどこをどう継承す
るかとい、つことについて、全集第六巻の解説で益田勝実氏が出
しておられる課題(それは高木文芸学への批判でもあると思い
ますが)に私なりに応えようとしながら、うろうろとするばか
りで終ってしまいました。他日を期すと言うほかはありません。
(庚午立夏)
[本学教員] 受贈書目《その五)
『日本文学研究』(大東文化大学}『日本文学畠要』(法政大学)
『日本文学ノート』(宮城学院女子大学)『花園大学国文学論究』『福岡教育大学国語国文学会誌』『文化学年報』(同志社大学)『文学史研究』(大阪市立大学)
『文恵文学』
(広島文教女子大字)
『文莫』(鈴木脱字会)『待兼山論叢』日本学篇・文字篇(大阪大学)
『武庫川国文』
『武庫川女子大学言語文化研究所年報』『百舌鳥国文』(大阪女子大字)『山口大学文学会意』
『立教大学日本文学』『立正大学宮娼凶文』『外国人学習者の日本語誇用例集』
塁孟講習得及び異文化適応の理論的■実践的研究』一
(広島大学)『国文学研究資料館特別展示目録』
彙 報
一九八九年四月
中島孝幸講師(日本語日本事情担当)着任。
一九八九年五月〓ニ〜一五日
本学を会場に上代文学会大会が開催される。
一九八九年六月四日
三重大字日本語学文学会総会開催。
講演
清森太郎助教授「‑島焦の絵・蕪村の絵」
一九八九年九月一九〜二二日
大阪大学助教授・真田信治先生、集中講義に来学。
一九八九年九月二五〜二八日
上智大学教授・渡辺実先生、集中講義に来学。
一九九〇年三月二五日
三重大学卒業式。
一九九〇年三月
東辻保和教授が滋賀大学教育学部へ転出された。
一九九〇年四月
山本真吾講師(日本語学担当)着任。
〓九八九年量目一覧〕
古事記研究萱豊玉叱売物語の一考察‑
安部公房についての研究
御伽草子の研究
源氏物語研究十末摘花について‑
『平家物語』における源義経像について
梅沢本栄花物語の国語学的研究‑語詞の表現に注】目して‑
源氏物語研究卜紫上とまぁりの人々!
落窪物語切研究
現代日本語の研究‑長野県北信地方万言の甘同校生
への継承とテレビによる影響‑
和泉式部研究
有言佐和子研究