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1. 冷戦期の核 ソ連の管理下にあった北朝鮮の核活動 UINR 1995: : : : Vol. 53,

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[特集:アジアの核開発と拡散防止レジーム]

北朝鮮核問題と 6 者協議

平岩俊司

はじめに

2006年 10 月、国際社会の反対にも関わらず朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮とする) は核実験を強行した。実験それ自体については、成功であったのか失敗であったのかを含 めてさまざまな評価があるが、少なくともこの実験の結果、国際社会は北朝鮮の核兵器保 有を前提とする対応を迫られることとなった。北朝鮮が核を保有したことを前提とすれ ば、東アジアの安全保障環境に重大な変化をもたらすこととなり、その結果、周辺諸国の 核保有についての議論さえ発生することとなったのである1) 。 後に詳述するとおり、北朝鮮に端を発するいわゆる核危機が最初に発生したのは、1990 年代初頭のことである。いわゆる第 1 次核危機であるが、この時の危機的状況は、1994 年 の米朝合意枠組みによって一応回避されたものの、2002 年に北朝鮮の核問題は再燃した。 同年 10 月に北朝鮮を訪問したケリー国務次官補(当時)は姜錫柱外務次官に対して北朝鮮 の高濃縮ウラン計画の存在についてただしたところ、北朝鮮側はこれを認め、その後北朝 鮮の核問題は紛糾し、2006 年 10 月、ついに北朝鮮は核実験を実施するに至った。いわゆ る第 2 次核危機である。国際社会は北朝鮮の核活動を管理することに失敗したと言わざる を得ない。 本稿では、これまで国際社会が北朝鮮の核を管理するためにどのような方法をとってき たのかを整理し、それがなぜ効果的に機能しなかったのかを分析し、北朝鮮の核活動を管 理するための課題について検討することを目的としている。そのため、まず、北朝鮮の核 に対する「意欲」について整理し、次に、1990 年代の核危機の経緯と国際社会の対応につ いて検討したい。続いて 2002 年以降再燃する核危機の経緯について検討し国際社会が北 朝鮮の核危機をどのように管理しようとしているのかについて考察する。その際、なぜ 1990年代に一応の落ち着きを見せた北朝鮮の核危機が再燃したのかをつねに念頭に置きつ つ議論を進めたい。

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Ⅰ 北朝鮮の核兵器に対する「意欲」

1. 冷戦期の核―ソ連の管理下にあった北朝鮮の核活動 国家の最高指導者にとっての核兵器に対する「意欲」は、その国の安全保障観と密接に 関係があると言ってよい。北朝鮮の核兵器に対する野心は、1950 年代に遡及することがで きるが、それは当時の東西冷戦を前提としたものであった。社会主義諸国では核兵器保有 は共通の野心であったが、その技術を有していたのはソ連のみであった。中国がそうした ソ連に対して異議申し立てを行い、核開発に野心を燃やしたことについてはあらためて指 摘するまでもない。北朝鮮にも同様の野心があったかも知れないが、当時の北朝鮮は依然 としてソ連の強い影響下にあり、それゆえ北朝鮮の核技術はソ連を通してのみ得られるも のであった。1956 年、ソ連は、合同核研究所(UINR)をモスクワに近いドゥブナ市に設立 したが、北朝鮮は当初からこの研究所のメンバーであり、研究員も派遣していた。初期の 北朝鮮の核関連技術はこの合同核研究所の研究に参加することによって得られていた(森 本、1995: 156)。その後、1963 年からは、寧辺核研究センターでソ連の協力のもと核開発は 行われていたという。ソ連は北朝鮮が核を平和利用することについては協力的であった が、北朝鮮が核兵器を保有することについては否定的であった。この点、北朝鮮は不満 であったと言う(オーバードーファー、2002: 296–298)。 とりわけ、ソ連が、1963 年 7 月 25 日に、米国、英国とともにモスクワで部分的核実験 禁止条約を締結したことについて金日成は不満を表明した。金日成は、1963 年 8 月 13 日 付けで核実験の全面禁止に関して中国に対して書簡を送り、米ソ英 3 カ国が部分的核実験 禁止条約を締結したことについて「アメリカ帝国主義の核戦争準備を拘束することが出来 ず、核戦争の脅威を除去することについての根本的な問題を解決することができなかっ た」とした(『朝鮮中央年鑑、1964 年版』: 6–7)。この書簡は、1963 年 8 月 9 日付けで周恩来 総理から金日成に対して送られた書簡に対する返信であったが、周恩来は、同書簡で、核 兵器の全面的な禁止、アジア太平洋地域、中央ヨーロッパ、アフリカ、ラテンアメリカに 非核地帯を創設することなどを提案していた(『労働新聞』、1963 年 8 月 9 日)。金日成は、周 恩来のこの提案を支持し、「アメリカ帝国主義者は、いま、引き続き平和を脅かし、社会 主義陣営に対する軍事的優勢を確保することについて、公然と騒いでいます。こうした条 件下では核兵器の全面的禁止と破壊を実現することは、世界の平和を強固にする重要な方 途の 1 つとなります」としていた。後の中国の核保有を前提とすれば、このときの中国の 北朝鮮に対する提案は、核兵器の廃絶ではなく、米ソ英が核兵器を独占することに対する 反対であったと言ってよい。 その意味で、この時点では、中朝間には微妙な温度差があったことになる。ソ連の協力 が得られない限り、北朝鮮が核兵器開発を行うためには、中国の協力が必要不可欠であっ たが、中国はそれに対して否定的であったという(オーバードーファー、2002: 297–298)。もっ

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とも、かりに中国が北朝鮮の申し出に応じたとしても、その結果ソ連との関係を破綻させ ることは、東西冷戦体制を前提として組み立てられていた北朝鮮自らの安全保障核政策を 破綻させることを意味した。結局、この時期の北朝鮮の核兵器にたいする「意欲」は、中 国が依然としてソ連に代わることができないとすれば、ソ連との関係を破綻させない範囲 内で追求されるものであったし、結局、技術的にも政治的にもソ連の管理下に封じ込めら れざるを得なかったのである。 2. 冷戦の終焉と北朝鮮の核 このようにソ連の協力と「管理」下にあった北朝鮮が、「IRT 原子炉」と言われる小型 原子炉の運転を開始したのは 1965 年のことであるが(キノネス、2003: 40)、そうした状況 は徐々に変化していく。1986 年 1 月、「IRT 原子炉」よりも大型で強力な寧辺の黒鉛減速 炉が運転を開始することになるのである。当然これもソ連の協力を前提とせざるを得な かったが、1985 年、ソ連は北朝鮮と原子力発電所の供給に関する経済技術協力協定を締結 し、結局実現はしなかったが北朝鮮の新浦に 2 基の原子炉を建設、供給することを約束し、 その交換条件として核拡散防止条約(NPT)への参加を求めた(オーバードーファー、2002: 298–299; キノネス、2003: 40)。NPT 加入がソ連からの核関連技術の協力の前提条件であった ことから、北朝鮮は 1985 年 12 月 12 日、NPT に加入した。それゆえ、同条約に従って、 IAEAとの保障措置協定を締結し、自国の核関連施設に査察を受け入れなければならな かった。ところが北朝鮮はこれを受け入れなかったのである。そもそも、NPT 加盟国は加 盟後 18 ヶ月以内に IAEA との間に保障措置協定を結ばなければならないが、北朝鮮は 1987年 6 月になってもその義務を果たさなかった。IAEA は署名にさまざまな前提条件を つける北朝鮮が保障措置協定に署名をするためにはまだ時間が必要との判断から、特例と してさらに 18 ヶ月の猶予をあたえた。しかし、北朝鮮はその期限が切れる 1988 年 12 月に なっても署名せず、保障措置協定への署名の前提条件として、米国が北朝鮮に対して核攻 撃をおこなわないことを明示的に保証する、朝鮮半島の非核化(韓国に存在するとされる米 軍の戦術核の撤去)を求めたのである。北朝鮮の頑な態度に IAEA は北朝鮮との交渉を米国 に委ねることとなり、1988 年 12 月 6 日から北京で米朝参事官接触が開始された(オーバー ドーファー、2002: 234–235)。しかし、米国側の積極的な働きかけにも関わらず北朝鮮は姿 勢を変化させることなく、1989 年夏以降、さまざまなメディアが北朝鮮の核兵器開発につ いての懸念を指摘し、90 年秋以降になると、日本、米国、韓国政府も公式に懸念を表明す ることとなる。たとえば、1990 年 11 月 8 日に公表された韓国国防部『国防白書 1990』は、 北朝鮮が 60 年代以降核開発を試み、64 年からは平安北道の寧辺地域に大規模な原子力研 究団地を作ったとして、「ウラニウム鉱山を開発し、製錬および核燃料加工施設を設置し たのみならず、65 年にはソ連から試験用原子炉 1 基を投入し、これを基礎に技術を蓄積し た結果、独自に第 2 原子炉を完成して現在稼働中である」とした。さらに「第 3 原子炉も 今年(1990 年)末に完成するものと予想される。とくに北朝鮮は同研究団地内に再処理施

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設を建設しており、これから 1 ∼ 2 年後の本格的稼働時には大量のプルトニウムを抽出で きる。1995 年以降には、核兵器保有が可能になると展望される」と指摘した(大韓民国国 防部『国防白書 1990』: 87–88)。 日本でも、1990 年 11 月 16 日、時事通信が、米政府の核・軍事情報専門家が外務省など 日本政府当局者に対し、北朝鮮が核製造能力を有する大型原子炉や核燃料再処理工場を保 有していることを示す空中写真を提示したことを報じた。時事通信によれば、米政府の専 門家は、1990 年 10 月 31 日、外務省関係者に対して、一連の核関連施設は北朝鮮の首都・ 平壌の北方約 90 km の寧辺にあり、ソ連製研究原子炉、小型原子炉、大型原子炉、ウラン 濃縮工場、核燃料再処理工場、爆発実験場跡などから成っているとしながら、米国は、北 朝鮮と IAEA との間で核査察受け入れのための保障措置協定が締結されても、全施設を公 開しない可能性が強い、北朝鮮の核開発が南北対話推進の障害となる恐れがある、放射能 漏れ事故を引き起こす可能性が十分あり、その場合、日本を含めた近隣諸国への影響が大 きいなどの懸念を表明し、日本にたいしても同問題についての警戒を促したのである(『北 海道新聞』、1990 年 11 月 17 日)。 北朝鮮に対する核疑惑が高まる状況下、一方で朝鮮半島における冷戦体制はほころび始 めていた。そもそも、ソウル・オリンピックの成功によって韓国の国際社会での地位向上 は著しく、北朝鮮は劣勢を強いられていた。その後、1989 年からは東欧社会主義諸国で 次々と体制改革が模索され、ついにはソ連邦それ自体が解体し社会主義陣営が崩壊し、米 ソ冷戦体制が終焉してしまった。この過程で、1990 年 9 月にはソ連が韓国と国交正常化を はたし、北朝鮮の劣勢はもはや否定しえないものとなった。 北朝鮮は国際社会での劣勢を日米との関係改善で挽回しようとした。しかし日米との関 係を改善するためには韓国との良好な関係が必要とされることは言うに及ばず、核問題に ついても進展させる必要があった。こうして、1989 年 8 月末から、北朝鮮は韓国との交渉 を実質的に進展させることをめざし、90 年 9 月、第 1 次南北高位級会談がソウルで開催さ れ、朝鮮半島の南北で 2 つの政権が誕生して以来はじめて双方の総理が相対したのである。 この後、第 2 次会談は 10 月に平壌で、第 3 次会談は 12 月に、ふたたびソウルで開催され、 1991年 9 月には、北朝鮮は不満を残しつつも、南北国連同時加盟が実現したのである2) 。 ところが、北朝鮮の核開発疑惑をめぐって南北高位級会談は困難な局面を迎えるが、 1991年 11 月の韓国の盧泰愚大統領による朝鮮半島の非核化宣言を契機として事態は好転 し、12 月に開催された第 5 次南北高位級会談では、「南北間の和解・不可侵、協力、交流 にかんする合意書」が採択され、核再処理施設とウラン濃縮施設を保有しないとする南北 非核化共同宣言についても合意し、92 年 2 月の第 6 次南北高位級会談で同宣言は発効した。 この宣言に基づき、北朝鮮もようやく 1992 年 2 月に IAEA との間の保障措置協定に調印し たのである。これ以後、北朝鮮の核活動は IAEA の監視下に置かれるはずであった。 冷戦の終焉は、それまで東西冷戦を前提に組み立てられていた北朝鮮の安全保障政策に 根本的修正を迫る出来事であった。とりわけ、ソ韓国交正常化によって、北朝鮮は米国の

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脅威をそれまで以上に強く感じたに違いない。その意味で、米国の脅威に対抗し、自らの 体制を維持することこそが北朝鮮の核兵器に対する「意欲」の第一の意味であった。また、 韓国との関係で言えば、冷戦の終焉は北朝鮮があらゆる領域で劣勢に立たされる過程で あった。そうした劣勢を挽回するために、核兵器に対する「意欲」そのものを国際社会と の交渉カードとして利用しようという思いも北朝鮮にはあっただろう。北朝鮮の核兵器に 対する「意欲」にはこの 2 つの意味があったと言ってよいが、1992 年 8 月の中韓国交正常 化は、この 2 つの意味を北朝鮮にあらためて強く感じさせたに違いない。北朝鮮のそうした 思いは、次に詳述するように、核危機というきわめて極端な形で顕在化することになる。

Ⅱ 朝鮮半島の核危機と拡散防止の枠組み

1. 第 1 次核危機(1990 年代初め~)と米朝合意枠組み IAEAは 1992 年 5 月から 93 年 2 月まで 6 回にわたって特定査察を実施したが、その結果、 疑惑は解消されるどころか、逆に深まる結果となった。特に北朝鮮が申告していなかった 寧辺付近の 2 カ所の核廃棄物処理施設でプルトニウムを抽出している可能性が指摘された ため、IAEA は 1993 年 2 月 25 日に北朝鮮に対して特別査察の受け入れを要求した。北朝 鮮はこれを断固拒否する姿勢を示すとともに、3 月 8 日には全土に準戦時体制を宣布し、3 月 12 日にはついに NPT からの脱退を国連安保理事会に通告した(『労働新聞』、1993 年 3 月 13日)。1993 年 4 月、IAEA の特別理事会は、北朝鮮の特別査察受け入れ拒否を保障措置協 定違反として国連安保理事会に報告したため、北朝鮮の NPT 脱退問題と協定違反問題が、 国連安保理事会を舞台として議論されることになった(伊豆見、1999: 183–188)。 北朝鮮は、核問題について米国との直接交渉を主張しつづけた。当初米国は、米朝交渉 には否定的であった。しかし、北朝鮮が米国との交渉以外は受け付けないとし、また中国 がこの問題について表面的な行動を控える姿勢を堅持したため、国際社会の米国にたいす る期待が高まった。そして、1993 年 5 月に開催された国連安全保障理事会は、北朝鮮に対 して NPT 脱退宣言の撤回及び IAEA の核査察に関する協定の遵守を求め、すべての国連加 盟国に協力を要請したのである。このような国際社会の後押しを受けて、米国は北朝鮮と の交渉に望むこととなったのである(キノネス、2000: 142–143)3)。 こうして 1993 年 6 月、第 1 回米朝交渉がニューヨークで開催され、難航の末、米朝共同 声明の発表にまで至った。共同声明で米朝両国は、核兵器を含む武力による威嚇及びその 行使を行わないことの保証、相互の主権の尊重、内政不干渉等、非核化された朝鮮半島の 平和と安全、朝鮮半島の平和的統一への支持といった原則に合意し、また、米朝間で対話 を継続することにも合意した。これにより北朝鮮の NPT 脱退による朝鮮半島の緊張は一 応回避されることとなった。 そして、1993 年 7 月にジュネーブで開催された第 2 回米朝交渉では北朝鮮が保有する黒 鉛減速炉をやめて、比較的核兵器開発が難しいとされる軽水炉へ転換する問題について議

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論された。ところが、1993 年 8 月になり、北朝鮮がこれまで受け入れてきた IAEA による 特定査察に制限を加え始めたため、米朝交渉も暗礁にのり上げかけた。その後、米国は、 非公式接触を通じて北朝鮮を説得しようとしたが、事態は好転せず、逆に、これ以上時間 が経過した場合、これまで行ってきた査察それ自体の意味がなくなってしまうとの懸念が 表明されはじめ、緊張はさらに高まることとなった。 さらに、北朝鮮は原子炉から北朝鮮の過去の核活動を検証するために必要不可欠な使用 済み燃料棒を抽出してしまったため、国連でも北朝鮮に対する経済制裁の是非が議論され るに至った。これにたいして北朝鮮は、「国連制裁は宣戦布告と見なす」、「対話には対話 を戦争には戦争を」として緊張はピークに達した。このような状況下、1994 年 6 月、かね てから北朝鮮訪問を希望していたカーター元米国大統領の訪朝が実現することとなり、国 際社会はこのカーター訪朝に最後の期待をかけることとなった。1994 年 6 月のカーター・ 金日成会談では、IAEA の査察を引き続き受けることと、軽水炉技術への転換などが議論 され、この会談をうけて米国も、北朝鮮が核開発計画凍結の用意があるのであれば、第 3 回米朝交渉に進む用意があるとした。こうして 1994 年 7 月から第 3 回米朝交渉が開始され たのである。ところが、第 3 回米朝交渉開催初日、金日成が急逝するという事態が発生し てしまった。 第 3 回米朝交渉は金日成の死去により中断されたが、8 月にはすぐさま再開され、10 月 になって「アメリカ合衆国と朝鮮民主主義人民共和国との間で合意された枠組み」(以下 「合意枠組み」とする)の妥結をみることとなる。「合意枠組み」では、黒鉛減速炉及び関連 施設の軽水炉発電所への転換、米朝関係の正常化、非核化された朝鮮半島における平和と 安全のための協力、国際的な核不拡散体制強化のための協力について定められ、これ以後 の朝鮮半島情勢はこの「合意枠組み」を軸に推移することとなった。 そして、1994 年 11 月、「合意枠組み」に従って、北朝鮮が黒鉛減速炉及びその関連施設 を全面凍結する措置を講じたとの発表をおこない、米国と日本及び韓国は、北朝鮮に軽水 炉の供与、および転換までの期間に不足するエネルギーを補填するための重油を北朝鮮に 供与するための国際的コンソーシアムの設立が模索された。そして、1995 年 3 月、日本、 米国、韓国が中心となって「朝鮮半島エネルギー開発機構(Korean Peninsula Energy De-velopment Organization: KEDO)」が発足することとなった。こうして核問題は一応危機的な状 況を回避することはできた。もちろん次に詳述するように、この「合意枠組み」によって も米国の北朝鮮に対する疑念は完全には払拭されたわけではなかったが、これ以後の北朝 鮮の核問題は一応「合意枠組み」の枠内で推移することとなったのである。 2. 第 2 次核危機(2002 年~)と 6 者協議 前節で考察したように、北朝鮮の核問題は、もちろん不十分ではあるものの、「合意枠 組み」と KEDO によって管理されていくが、2001 年にブッシュ政権が登場し、北朝鮮が 国際社会の監視を逃れて核開発をおこなっているのではないかとの疑惑が持ち上がり、ふ

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たたび朝鮮半島情勢が緊張することとなった。こうした状況下、2002 年 10 月にケリー国 務次官補が北朝鮮を訪問し、北朝鮮にウラン濃縮計画の存在を問いただしたところ、北朝 鮮側がこれを認めため、北朝鮮の核危機が再燃することとなったのである(船橋、2006: 146–211)。この北朝鮮の核危機は、その後、2003 年 4 月に米国、北朝鮮、中国による 3 者 協議を経て、03 年 8 月に開始された米中朝 3 者協議に日本、韓国、ロシアを加えた 6 者協 議で扱われることとなった。1990 年代の核危機に際して、中国はまったく役割を演じられ なかったが、このときの核危機については、その経緯から 6 者協議の議長国役として中心 的役割を演じることとなり、これ以後の北朝鮮の核問題は、米朝 2 国間の動きに加えて中 国の動向を軸に推移することとなったのである4) 。 第 1 回 6 者協議は、2003 年 8 月 27 日から北京で 3 日間行われ、議長国中国の王毅外務次 官は最終日の 29 日に記者会見を行い、核問題の平和的解決、今後の協議継続などを含む 6 項目をにわたる合意を会議の「総括」として発表した。中国は、会議での合意事項を共同 声明という形に纏め上げようとしたが、北朝鮮の拒否によって一定程度の拘束力のある共 同声明とはできなかった。その意味で、この「合意」ははきわめて危ういバランスの上に 成立した「合意」であったと言わざるを得ない5) 。 第 1 回 6 者協議終了後、中国は第 2 回協議開催のために積極的に働きかけたがそれは決 して容易な作業ではなかった。当初、2003 年中に第 2 回協議の開催が目指されたが、2004 年に入っても依然として調整作業が行われたのである。まず、2004 年 1 月 17 日から 20 日 にかけて王家瑞中国共産党対外連絡部長が訪朝し、続いて 2 月 7 日から 10 日にかけて金桂 官北朝鮮外務次官が訪中し、6 者協議開催を巡って調整が行われたものと思われる。北朝 鮮は米国との 2 者協議を強くもとめたが、米国が 6 者協議の枠組みの中でのみ北朝鮮との 2者協議に応じるとする姿勢を堅持したため、北朝鮮は 6 者協議に応じざるを得ず、2004 年 2 月 25 日から 28 日まで第 2 回協議が開催された。2 月 28 日に閉会した第 2 回協議では、 実務レベルで課題の検討を続ける作業部会の設置を決め、次回協議を 6 月末までに開催す ることで合意した。このときも中国は共同文書の発表を目指していたが、やはり米朝間の 認識の相違は埋まらず、前回に続いて中国による議長声明が発表された。議長声明では、 核兵器のない朝鮮半島を実現する、核問題に対処すべく調整された措置をとる、次回 6 者 協議を北京で 2004 年 6 月末までに開催する、作業部会を設ける、などの諸点について言 及された。 しかし、北朝鮮は第 2 回協議終了直後から、6 者協議の枠組みそれ自体に疑問を呈し始 めた。北朝鮮の外務省報道官は第 2 回協議終了日の翌 2 月 29 日、「会談が続けられるとし ても問題が解決されるという期待を持つのは難しい」「今後の核問題解決のいかんは、米 国の態度変化にかかっている」として米国の譲歩の必要性を強調したのである。そもそも、 米国は、まずもって北朝鮮が「CVID(完全で検証可能かつ後戻りできない核放棄)」の姿勢を 明らかにすることを求め、これに対して北朝鮮は「凍結」「放棄」をいくつかのレベルに 分け、それぞれの段階で米国から「見返り」を獲得しようとするなど、米朝間は姿勢には

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埋めがたい溝が存在していた。米朝の認識に埋めがたい溝が存在する状況下、議長国中国 は、これ以後 6 者協議を少しでも実質的に進展させるため努力を続けることとなる。 3. 中国の影響力の限界 この後、2004 年の 4 月 19 日から 21 日にかけて、金正日が中国を非公式に訪問した。中 国政府は金正日の滞在中は、これを認めず、金正日が帰国した後に中国側報道官によって 訪中の事実が認められたのである。中国側の公式発表によれば北京滞在中、金正日は胡錦 涛総書記ほか、江沢民、呉邦国、温家宝、賈慶林、曾慶紅など中国側指導者と会談し、中 朝両党・両国関係、国際情勢と地域情勢、および朝鮮半島の核問題について意見交換を 行ったと言う。金正日訪中が 6 者協議再開にどのような影響を及ぼしたかは必ずしも明ら かではないが6) 、この訪中を契機として 6 者協議は再開の方向で動き始め、2004 年 6 月 23 日∼ 26 日にかけて第 3 回 6 者協議が開催されたのである。第 3 回協議では北朝鮮と米国が、 それぞれ核問題の解決のための提案を示し、それを受けて日本をはじめ各国から具体的提 言がなされたという。そして最終日の 26 日、議長国中国はこの時も議長声明を発表した。 もとより、中国は共同声明の採択を目指したが、北朝鮮側が共同声明を嫌ったため第 1 回、 第 2 回同様の議長声明という形態をとらざるを得なかったのである。結局、核問題解決の ための第 1 段階として、とられるべき措置(凍結)の範囲(ウラン濃縮を含むか否か等)と検 証の手続きについて北朝鮮と他の参加国とでは見解の違いは埋まらなかった。このような 状況下、北朝鮮には年末に迫った米国の大統領選挙の行方を見極めたいとの思惑があった ものと思われ、これ以後、6 者協議については消極的姿勢を示し続け、ブッシュ大統領の 再選が決まるまで 6 者協議をめぐる動きは見られなかった。 そして、2004 年末の米国大統領選挙の結果ブッシュ大統領の再選が決定したが、これを 受けて北朝鮮のとった行動は朝鮮半島の危機レベルをさらに上げることであった。北朝鮮 外務省は 2 月 10 日に「我が方は既にブッシュ米行政府の増大する対(北)朝鮮孤立・圧殺 政策に対し、自衛のために核兵器を造った」と核兵器の製造を初めて公式に宣言し、さら には第 2 期ブッシュ政権の対北朝鮮政策に変化がみられないとして、6 者協議を「無期限 中断する」とも発表したのである7) 。 このような状況下、中国の王家瑞中国共産党対外連絡部長が北朝鮮を訪問したため、国 際社会はこれに期待した。中国にとっては北朝鮮を非難することよりも、とりあえず 6 者 協議の枠組みを維持することこそが最重要課題であった。2 月 21 日に王家瑞は金正日と会 談を行うが、新華社は平壌発で、金正日が「条件が整えばいつでも交渉のテーブルに戻り たい」と述べ、6 者協議への復帰に積極的姿勢を見せた、と報じたが8)、その後も北朝鮮の 6者協議再開問題に対する姿勢は依然として頑なな状況で、結局、6 者協議再開をめぐっ ての実質的な動きは、2005 年 6 月の南北閣僚級会談を待つことになる。 北朝鮮に対する宥和政策を基本とする韓国は、厳しい姿勢で臨む日米との政策調整が難 しく、6 者協議開始以来必ずしも積極的な役割を演じ切れなかったが、このときの 6 者協

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議再開については積極的役割を演じることが出来た。2005 年 6 月 21 日∼ 23 日に開催され た南北閣僚級会談で北朝鮮は 6 者協議再開に意欲的姿勢を見せ、7 月末を目処に 6 者協議 が再開されることが明らかにされたのである(船橋、2006: 592–594)。2005 年 7 月 12 日∼ 14 日にかけて唐家璇国務委員が、胡錦涛国家主席の特別代表として北朝鮮を訪問し、6 者協 議再開の最終調整を行う。唐国務委員は、朴奉珠首相、白南淳外相らと会談をおこない、 中朝の伝統的友好協力関係が強調された。そして、唐国務委員の帰国後の 7 月 19 日、7 月 26日から第 4 回 6 者協議開催が正式に発表されたのである9) 。唐国務委員の訪朝に際して 具体的に 6 者協議再開をめぐってなにが話し合われたのかについては明らかではないが、 6者協議再会の具体的日時についての発表のタイミングを考えるとき、すくなくとも具体 的日程についての最終調整が行われたことは間違いない。ただ、再開それ自体については、 韓国、米国などとの連携によって実現したものであり中国が単独で北朝鮮を説得できたわ けではなかった10)。第 1 次核危機と比較するとき、第 2 次核危機における中国の役割が極 めて大きなものであることは間違いない。しかし、中国の北朝鮮に対する影響力が限定的 なものである以上、中国の役割に限界があることは間違いない。第 4 回 6 者協議再開をめ ぐる動きは、そうした中国の限界を示唆して余りある(平岩、2006: 185–187)。

Ⅲ 6 者協議による北朝鮮核問題管理の限界

1. 第 4 回 6 者協議における共同声明の意義 こうして 2005 年 7 月 26 日、第 4 回 6 者協議が開始された。このときの協議は、第 3 回 6 者協議から実に 13 ヶ月ぶりに再開される協議となり、6 者協議の枠組みそれ自体を存続で きるかどうかが試される協議となった。また、6 者協議の枠組みを維持したい中国にとっ ては、第 3 回まで採択できなかった共同声明をなんとしても採択し、6 者協議の実質的進 展を印象付けたいとの思いがあったと言ってよい。一方、米朝双方も、もちろん問題解決 のための具体的手順と内容については大きな隔たりはあるものの、6 者協議の枠組みそれ 自体については維持したい、という 1 点については立場を同じくしていたといってよい。 こうした状況を前提として、第 4 回 6 者協議は、第 3 回までと大きく異なった交渉経緯を 経ることとなる。第 3 回まで、米国は基本的に北朝鮮との 2 者協議にたいしては消極的姿 勢を示していたが、第 4 回ではむしろ米朝 2 国間協議を軸に展開するという状況となった。 これを前提として、中国が共同声明の取りまとめに全力を挙げるが、依然として米朝両国 の溝は大きかった。中国は協議の開始から共同声明原案の作成と修正を繰り返し、2005 年 8月 2 日には最終案を提示した。米国はこの最終案を受け入れる姿勢を示したものの、北 朝鮮が受け入れに難色を示したため、8 月 7 日から 6 者協議は休会に入り、代表団はそれ ぞれ第 4 次案を本国に持ち帰って検討することとなる11) 。 こうして 1 ヶ月以上にわたる休会の後、9 月 13 日に 6 者協議は再開され、19 日には、共

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同声明が採択されたのである。共同声明では、北朝鮮はすべての核兵器と核計画を放棄し、 核拡散防止条約と国際原子力機関の保障措置への早期復帰を約束すること、米国は北朝鮮 に攻撃・侵略を行う意思がないことを確認し、北朝鮮の核平和利用の権利を尊重して適当 な時期に軽水炉提供問題を議論すること、米朝は相互の主権を尊重、国交正常化のための 措置をとり、日朝は平壌宣言に従って、懸案の解決を基礎として国交正常化のための措置 をとること、さらに適当な場で朝鮮半島の恒久的な平和体制について協議すること、など の諸点について言及された。 しかしここで注意しなければならないのは、共同声明が採択されたにもかかわらず、米 朝双方が自らの立場を譲ったわけではなかったことである。とりわけ、北朝鮮が主張した 軽水炉提供問題については大きな問題を残した。そもそも、米国は、北朝鮮に対して軽水 炉提供を約束した 1994 年の米朝合意枠組みは、北朝鮮自身が破棄したとして、北朝鮮に 対して軽水炉を提供する意思はなかった。もちろん、米国は、NPT 体制を受け入れる国家 については核の平和利用の権利があることは認めつつも、NPT 体制に対して重大な挑戦を 行った北朝鮮に一定のペナルティが課せられるのは当然との立場をとっており、NPT 復帰 の見返りとして軽水炉を供与する、という点については受け入れられるはずはなかった。 それゆえ、共同声明では、「朝鮮民主主義人民共和国は、原子力の平和的利用の権利を有 する旨発言した。他の参加者は、この発言を尊重する旨述べるとともに、適当な時期に、 朝鮮民主主義人民共和国への軽水炉提供問題について議論を行うことに合意した」との文 言に落ち着いた。こうして 11 月初旬に第 5 回 6 者協議を再開することが約束されて第 4 回 6者協議は終了した。実質的な合意とは程遠いものの、第 4 回 6 者協議の結果、一応共同 声明が採択できたのである。6 者協議の枠組みを維持できたのは、米国が積極的姿勢を示 したことがその第 1 の要因ではあるが、既述のようにその影響力には一定の限界があると はいえ、中国が是が非でも共同声明を採択しようしたことが大きかったといってよい。 第 4 回 6 者協議が終了した後、10 月 28 日から 30 日まで胡錦涛国家主席が北朝鮮を訪問 し金正日と会談もおこなわれた。当然、6 者協議について議論されたものを思われるが、 胡錦涛が帰国した直後の 11 月 3 日、中国外交部の孔泉報道局長は、第 5 回 6 者協議を 9 日 から北京で開くと発表した。協議では、第 4 回 6 者協議の際の共同声明の履行に向けて、 北朝鮮の核放棄への手順や査察・検証措置の具体化が目指されることとなったが、北朝鮮 と他の参加国が具体的合意に達することは難しく、11 月 11 日には、中国が議長声明を発 表して協議は休会となった。議長声明では、9 月の第 4 回 6 者協議で採択した共同声明の 履行が確認されたものの、そのための具体策は盛り込まれず、問題解決に向けた実質的な 議論は再開後に持ち越されることとなった。また、協議の再開時期についても「できるだ け早い時期に開催することで合意した」とし、具体的日程を決めるまでにはいたらなかっ た。6 者協議の枠組み維持のためにはかなり具体的な成果が必要とされた第 4 回 6 者協議 とは異なり、すでに第 4 回 6 者協議に際して共同声明という具体的成果を得たのちの第 5 回協議では、とりあえず会議を維持さえ出来ればよいという認識がすべての参加国の共有

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するところであったことは間違いない。それゆえ、会議それ自体に対する参加国の積極性 は見られなかった。 ところが、これ以後、北朝鮮が米国の北朝鮮に対するいわゆる金融制裁を理由に 6 者協 議の再開を拒否する姿勢を堅持することとなり難航することとなる。2005 年 9 月、米国が マカオのバンコ・デルタ・アジア(以下、BDA とする)を北朝鮮の資金洗浄の疑いがある金 融機関に指定し、銀行にあった北朝鮮関連口座が凍結されたのである。北朝鮮は、第 5 回 6者協議の場で制裁解除のための首席代表級の「本格交渉」を求めたのに対して、米国は 理由説明にとどまる「実務接触」を打診したため、北朝鮮が反発し、6 者協議は膠着状態 に陥ったのである(船橋、2006: 653–654)。共同声明にのっとって北朝鮮の核放棄のための 具体的措置について検討されなければならない段階に至り、6 者協議が具体的成果を見せ ることはますます難しくなっていった。 ところで、既述のとおり第 4 回 6 者協議が一定の成果を上げた要因として、米国が北朝 鮮との 2 者協議に応じたことを指摘できる。周知のとおり、ブッシュ政権は北朝鮮との 2 者協議には消極的姿勢を示してきた。第 1 次核危機に際して北朝鮮は米国との交渉を望ん だが、クリントン政権は国際社会の要請にこたえる形で北朝鮮との交渉に応じ、「合意枠 組み」が成立した。にもかかわらず、北朝鮮の核活動を管理できなかったとの思いがあっ たからである。それ以上に、ブッシュ大統領をはじめとするブッシュ政権の北朝鮮に対す る不信感が、北朝鮮との 2 者協議を避ける理由であったが、第 3 回 6 者協議までの経験か ら、北朝鮮から核計画の放棄のためのより具体的な約束をとりつけるためには、米朝 2 者 協議が必要であるとの認識から米国は米朝 2 者協議に応じたと言ってよい。第 4 回 6 者協 議は、米朝 2 者協議を残りの 4 カ国が見守るという形態で進展した。ところが、北朝鮮の 立場からすれば、第 4 回 6 者協議での共同声明にもかかわらず、BDA に対して働きかけ、 北朝鮮の資金を凍結するという行為は、米国に対する不信感を募らせる結果となったので ある。これ以後、北朝鮮は、BDA 問題での米国の姿勢変化を 6 者協議復帰への条件とする。 北朝鮮にとって BDA 問題は、米国の北朝鮮に対する姿勢を試すリトマス試験紙として の意味があったといってよい。すなわち、6 者協議での共同声明にも関わらず、BDA に働 きかけて北朝鮮の資金を凍結する米国の姿勢は、一方で北朝鮮と交渉しながらも他方でそ れを反故にする危険性があることを示唆するものであり、北朝鮮の立場からすれば、米国 にたいする不信感の象徴となる問題だったのである。それゆえ、これ以後、北朝鮮の米国 に対する姿勢は BDA 問題を軸に推移することとなる。 その意味で、2006 年 4 月に東京で開催された国際会議は重要であった。4 月 10、11 の両 日、米カリフォルニア大学サンディエゴ校の研究機関主催の国際会議「北東アジア協力対 話(NEACD)」が東京で開催されたが、この会議に米国首席代表ヒルと北朝鮮首席代表の 金桂官次官が参加し、BDA 問題をめぐる米朝 2 国間協議の機会となったのである。ところ が、ヒル国務次官補は、北朝鮮の要求に応じず 2 者協議は実現しなかった。北朝鮮の金次 官は、「6 者協議(の再開)が遅れるのも悪くない。その間に我々はより多くの抑止力を作

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れるだろう。それが嫌なら金融制裁を解除すべきだ」「米国は敵視政策を行動で示した。 我々は圧力には屈しない。米国が圧力を課すなら、我々は超強硬(対応)に出る。我が国 の伝統的戦法である正面突破で解決を図る」「我々の参加なしに(朝鮮半島の)非核化がで きるのか」として強硬姿勢を崩さず、米国への強い不満を表明し(『読売新聞』、2006 年 4 月 14日)、次に詳述するように北朝鮮はミサイル発射実験をおこなうのである。 2. 核実験と国連安全保障理事会 2006年 7 月 5 日未明から、北朝鮮はミサイル発射実験を強行した。ノドン、スカッドを はじめ、長距離弾道ミサイルであるテポドン 2 号を含めて計 7 発のミサイルを発射したの である。ミサイルはすべて日本海に着弾したが、テポドン 2 号と見られる長距離弾道ミサ イルについては本来、カナダ、アラスカ西海岸までが射程に入るといわれ、このときの日 本海着弾が意図的なものか実験の失敗かは明らかではない。いずれにせよ、既述の通り、 BDA問題をめぐって米国に譲歩を迫っている状況下で行われたミサイル発射実験には、 自らのミサイル能力を誇示する目的があったと見られる12)。 この北朝鮮のミサイル発射実験に対して国連安保理は非難決議を採択し、北朝鮮に対し てミサイル開発、発射の中止を求め、2005 年 11 月以来中断していた 6 者協議への復帰を 促したが、北朝鮮は米国によるいわゆる金融制裁の解除を協議復帰の条件とするという従 来の主張を繰り返した。ミサイル発射実験の翌日、北朝鮮外務省スポークスマンは「わが 軍隊がミサイルを発射したことに関連して今、米国とそれに追従する日本のような一部の 国が『違反』『挑発』『制裁』『国連安全保障理事会付託』などと言いながら大事でも起こっ たかのように騒ぎを起こしている。今回成功裏に行われたミサイル発射は、自衛的国防力 の強化のためにわが軍隊が行った通常の軍事訓練の一環である」としながら、「決議を全 面的に排撃し、これにいささかも拘束されないだろう」とし、米国の「敵対視行為」に対 抗するため「自衛的戦争抑止力をあらゆる面で強化していく」と警告して対決姿勢を強め た(『朝鮮通信』、2006 年 7 月 7 日)。 このような一方的主張にも関わらず、北朝鮮は依然として国際社会との対話の路を閉ざ したわけではなかった。北朝鮮スポークスマンは、「6 者会談 9.19 共同声明で公約したと おり、朝鮮半島の非核化を対話と協議を通じて平和的に実現しようとする我々の意志は現 在も変わりがない」として「わが軍隊のミサイル発射訓練はそもそも 6 者会談とは無関係 である」としていたのである。もっとも、それに続けて「わが軍隊は今回と同様に今後も、 自衛的抑止力強化の一環としてミサイル発射訓練を続けるだろう。もし、誰かがこれにつ いてとがめて圧力を加えようとすれば、我々はやむをえず別の形態のより強力な物理的行 動措置を取らざるをえなくなるであろう」ともしていた。こうした北朝鮮の頑なな姿勢を 受けて、国際社会はさらなるミサイル発射実験を警戒するとともに、北朝鮮が「別の形態 のより強力な物理的行動措置」との文言を使ったこともあって核実験についても警戒感を 強めていたのである。

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結局、この後も北朝鮮は対決姿勢をあらためず、9 月 26 日には、国連総会に出席してい た北朝鮮の崔守憲外務次官が「米国による根拠なき制裁の下で、自国の核(兵器)放棄に 関する協議に参加することは全くばかげている」と述べ、あらためて 6 者協議への無条件 復帰を拒否する考えを示し、金融制裁の解除に応じない米国が「6 者協議と朝鮮半島の非 核化を望んでいないことは明らか」としながら、米国の「敵視政策」が変わらないかぎり 「核抑止力を保有せざるを得ない」として核実験の可能性を示唆した(『日本経済新聞』、 2006年 9 月 27 日)。そして 10 月 3 日には核実験を予告するにいたったのである。北朝鮮外 務省は、「科学研究部門で今後、安全性が徹底的に保証された核実験をすることになる」 との声明を発表した(『朝鮮通信』、2006 年 10 月 4 日)。北朝鮮は、あえて核実験を予告する ことで国際社会の譲歩を期待したのであろう。ところが、国際社会の反応は迅速であり、 なおかつ北朝鮮の期待にそうものではなかった。10 月 6 日、国連安保理は、「深い憂慮」 を表す議長声明採択して北朝鮮の自制を促したのである。米国が北朝鮮の求める金融制裁 の解除などに応じる可能性はなく、また、2 国間対話にも応じないことが明らかになった のである。北朝鮮にとって、もはや米国をはじめとする国際社会の譲歩は期待できなく なったのである。 こうして北朝鮮は、ついに核実験を強行した。北朝鮮の朝鮮中央通信は、「われわれの 科学研究部門は 10 月 9 日、地下核実験を安全に順調に行った」としながら、「科学的計画 と綿密な計算により進められた今回の実験では、放射能流出のような危険が全くなかった ということが確認された」と発表した。さらに「核実験は 100 パーセント、われわれの知 恵と技術に依拠し進められたもので、強力な自衛的国防力を熱望してきたわが軍隊と人民 に大きな刺激と喜びを抱かせる歴史的出来事」としたうえで、「核実験は朝鮮半島と周辺 地域の平和と安定を守るのに寄与する」としたのである(『朝鮮通信』、2006 年 10 月 10 日)。 この核実験について北朝鮮は中国に事前通報していた(『読売新聞』、2006 年 10 月 11 日)。国 際社会の厳しい批判が予想されるため、中国に事前通報して中国への配慮を見せ、中国が 日米などともに厳しい姿勢に同調しないよう期待したようである。また、北朝鮮は中国に 対して 4 kt 規模の核実験をすると通報していたにもかかわらず、核実験の結果が 1 kt 未満 であったことから、核実験が成功であったのか失敗であったのかについても評価が分かれ た。 北朝鮮の核実験にたいして国連安保理は対応を急ぎ、厳しい姿勢で臨むべきとする日 本、米国と、北朝鮮を過度に刺激すべきではないとする中国、ロシアの間で調整が行われ、 最終的には 10 月 14 日、北朝鮮への制裁決議が全会一致で採択された。決議は強い拘束力 を持つ国連憲章 7 章に基づき、経済制裁などを定めた同章 41 条に基づく措置で、北朝鮮 に対し、核兵器と核開発計画、その他の大量破壊兵器、弾道ミサイルの計画を完全かつ検 証可能な形で放棄することを義務付ける内容となった。また、国連加盟国に対しては、核、 ミサイル関連物資だけでなく、戦車、戦闘機、軍艦、ミサイルなどの兵器も交換用部品を 含め、北朝鮮への輸出を禁止し、北朝鮮から核、ミサイル関連物資を調達することも禁じ、

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大量破壊兵器計画にかかわる人物や組織の資産凍結も規定された。制裁項目のうち、周辺 地域の緊張を高めかねないとの理由から中国などが修正を求めていた「船舶検査」につい ては、強制力を弱めた表現となり各国の判断に委ねられることとなった13) 。 これに対して北朝鮮は、同日、朴吉淵国連大使が安保理で「不当決議を全面的に拒否す る」とし、さらに、16 日には、北朝鮮の平壌放送が、金永南最高人民会議常任委員長が核 実験の成功と北朝鮮の正当性を強調した。平壌での記念報告大会を行った金永南は、核実 験について、「軍隊と人民を大きく鼓舞し、喜びを与えた歴史的出来事であり、朝鮮半島 と周辺地域の平和と安全を守ることに寄与した」と強調し、核実験が「米国の反共和国(北 朝鮮)孤立圧殺策動が極限点を超えた情勢のもと、核戦争挑発と制裁圧力策動に対処した 新たな対抗措置」だったと主張したのである(『日本経済新聞』、2006 年 10 月 17 日)。 3. 米朝協議と 6 者協議の維持 北朝鮮の核実験を阻止できなかったことは、北朝鮮の核活動を管理するための枠組みと して 6 者協議が必ずしも十分ではなかったことを示す結果となった。しかし、その一方で、 その後の展開は、国際社会が 6 者協議に代わる別の手段を持っていないことをも示す過程 でもあった。 北朝鮮の頑な姿勢に対して国際社会は中国の役割に期待をすることとなった。中国の唐 家璇国務委員が北朝鮮を訪問し、2006 年 10 月 19 日に金正日総書記と会談したのである。 唐国務委員は胡錦涛国家主席の口頭のメッセージとして、北朝鮮に対して核実験の再実施 を自制するよう求め、6 者協議への早期復帰を改めて促した。唐国務委員の訪朝には北朝 鮮に信頼の厚い戴秉国筆頭外務次官、6 者協議議長を務める武大偉外務次官が随行した。 唐国務委員は北朝鮮の核実験直後から胡錦涛国家主席の特使として米国とロシアを訪問し 米ロ両国と協議していたことから、米ロの意向を含めた国際社会の姿勢を北朝鮮に伝え、 北朝鮮の譲歩を引き出そうとしたものと思われる。この協議で、金正日総書記は「現時点 で 2 回目の核実験を実施する考えや計画はない」と述べる一方、「さらに大きく不公正な 圧力が加われば新たな措置を取らざるを得ない」と表明したという(『読売新聞』、2006 年 10 月 21 日)。唐国務委員は北京に戻り、日本、韓国に続いて中国を訪問していたライス国務 長官に北朝鮮との協議の内容を伝達した。ライス国務長官はこれに対して不満を表明しつ つも、その後、水面下で北朝鮮に対する 6 者協議復帰への働きかけが行われたのである。 そして、 2006 年 10 月 31 日、中国外務省は、米国、北朝鮮、中国の 6 者協議首席代表が 同日北京で非公式協議を開催し、6 者協議を「(各国が)都合がいい近い時」に再開するこ とで合意したと発表したのである(『読売新聞』、2006 年 11 月 1 日)。懸案となっていた米国 による金融制裁については、6 者協議の枠内で作業部会をつくって対応するとされた。強 硬姿勢を堅持していた北朝鮮が一転して 6 者協議への復帰に応じた背景に、米朝いずれの 譲歩があったのかに注目が集まったが、11 月 3 日、金永南最高人民会議常任委員長は平壌 を訪問中の韓国民主労働党代表団に対して、6 者協議への復帰決定は米国の「金融制裁」

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解除が前提としながらも、「米国が体面上、6 者協議の前に金融制裁を解除するのが難しけ れば、先に協議を開き、その中で解除の方策をとることにしようと言った。このような 我々の案に米国が同意したから我々は協議に出ることにした」と述べ、米国の譲歩があっ たことを示唆した(『読売新聞』、2006 年 11 月 3 日)。 こうして 6 者協議再開の方向性は決まったが、北朝鮮にとってさらに有利な展開が生じ た。米国の中間選挙の結果、共和党が敗北し、ブッシュ政権はイラク政策への対応に追わ れ、北朝鮮に対してこれ以上厳しい姿勢をとり続けることは難しい状況となったのであ る。北朝鮮の朝鮮中央放送は 11 月 11 日、「共和党の惨敗で終わり、これで米国で 12 年間 続いてきた議会両院に対する共和党支配が幕を下ろすことになった」と指摘したものの、 とくにブッシュ政権を批判することはなかった(『朝鮮通信』、2006 年 10 月 13 日)。北朝鮮は、 あえて直接的な批判を加えないことで、ブッシュ政権のさらなる譲歩に期待していたと いってよい。 このような状況下、2006 年 11 月 28 日から 30 日にかけて、米国、中国、北朝鮮の 6 者 協議首席代表が北京で協議をおこない、6 者協議が再開されることとなったのである。北 朝鮮が求めてきた金融制裁をめぐる米朝協議は、6 者協議と同時並行で開催されることと なった。こうして 2006 年 12 月 18 日、06 年 11 月以来休止状態にあった第 5 回 6 者協議の 第 2 ラウンドが開催されたが、北朝鮮の金桂官外務次官が全体会合の基調演説で「核保有 国」としての立場を強調し、2005 年 9 月の第 4 回 6 者協議での共同声明の履行について、 米国の金融制裁や国連安全保障理事会決議に基づく制裁解除が議論のための前提条件であ るとの姿勢をあらためて強調した。そのため、協議の行方は、並行して行われる米朝の金 融制裁に関する専門家会合の行方に左右される状況となった。2006 年 12 月 19、20 日、米 朝両国は金融制裁に関する初の専門家会合を開催し、金桂官外務次官が「米国が金融制裁 を解除すれば寧辺の核施設を廃棄してもいい」と表明したものの、実質的合意には至らな かった。結局、核問題の議論に入るためには金融制裁の解除が必要不可欠との立場を北朝 鮮が崩さなかったため、6 者協議では核廃棄に向けた具体的議論すらおこなえない状態が 続き、ついに 22 日、第 4 回協議における共同声明を再確認し、早期に協議を再開すると した議長声明を発表して、第 5 回 6 者協議の第 2 ラウンドは休会せざるをえなかった。 その後も、北朝鮮の姿勢に変化はなく、2007 年 1 月 1 日、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』 など 3 紙による新年共同社説では「われわれが核抑止力を持ったのは、不敗の国力を渇望 してきたわが人民の宿願を実現した民族史的な慶事だった」とされ、従来の主張が繰り返 していたが、水面下で米朝交渉は続いていたようである。2007 年 1 月 16 ∼ 18 日、北朝鮮 の金桂官外務次官と米国のヒル国務次官補がベルリンで 2 国間協議を行ったのである。北 朝鮮外務省スポークスマンは、「(米朝)会談が肯定的な雰囲気で真摯に開かれた」と評価 しながら、「我々は核問題における問題解決のため(北)朝鮮と米国が直接対話を開催した ことに注意を傾けた」としながら、米朝協議が「一定の合意に達した」としたのである(『朝 鮮通信』、2007 年 1 月 19 日)。この合意を前提として、2007 年 1 月 30 日から、北京で「金融

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制裁」に関する米朝専門家会合が開催され、2005 年 10 月から米国の働きかけによってお こなわれていた金融制裁について、一部解除する方向で合意に達した。徐々に 6 者協議で の合意の雰囲気ができつつあった。

おわりに

2007年 2 月 8 日に再開した第 5 回 6 者協議第 3 ラウンドは、当初、北朝鮮が核関連施設 の稼働を停止する条件として国際社会にかなり大きな見返りを要求したため協議は難航し たが、結果的には、13 日、北朝鮮の核放棄に向けた「初期段階の措置」と見返りのエネル ギー支援などが盛り込まれた共同文書が採択された。共同文書では、第 1 段階として、60 日以内に北朝鮮が寧辺の再処理施設を含む核施設の活動を停止し、監視・検証のための国 際原子力機関(IAEA)の査察官の復帰を受け入れる代わりに、5 カ国は重油 5 万 t 相当の 経済・エネルギーや人道支援を提供し、米国は北朝鮮のテロ支援国指定解除や敵国通商法 の適用終了の作業を開始するとされた。さらに第 2 段階で、北朝鮮が核計画を完全に申告 し、すべての核施設を無能力化した場合、最大重油 95 万 t 相当を追加支援するとされた。 一方、(1)朝鮮半島の非核化(2)米朝国交正常化(3)日朝国交正常化(4)経済・エネ ルギー支援(5)北東アジアの平和・安全メカニズム、の 5 つの作業部会の設置が約束され、 いずれも 30 日以内に第 1 回会合を開くとされた。さらに、初期段階措置の実施後、速や かに 6 カ国閣僚会議(外相会議を想定)を開くことも盛り込まれた。中国代表の武大偉外務 次官は閉幕式で、共同文書の採択によって「朝鮮半島非核化は重要で堅固な一歩を前に進 めた」と強調した14)が、今後の課題は多い。まず共同文書をめぐって北朝鮮と国際社会の 間には解釈の相違が存在する。6 者協議が閉幕した 2 月 13 日、北朝鮮の朝鮮中央通信は、 北朝鮮が核施設の稼働を「臨時中止」する見返りに、各国が重油 100 万 t 分に当たる経済・ エネルギー支援を提供することになったと報じたが、共同文書では 100 万 t 分の支援はす べての核施設を「無能力化」する際に実施するとされている。北朝鮮の「臨時中止」が「凍 結」を意味するものであれば、北朝鮮と 5 カ国の間には大きな解釈の相違がある。また、 北朝鮮が核兵器そのものの放棄を約束したものではなく、さらに高濃縮ウラン問題につい ては触れられなかったなど、さまざまな問題点が残されている。もっとも、この合意は、 まずもって 2003 年以来続いている北朝鮮のプルトニウム抽出作業を中止させ、これ以上 北朝鮮の核兵器保有能力を高めさせないということこそが第一義的な合意の目的であり、 第 4 回 6 者協議の共同声明を実現するためのきわめて初期の段階についての合意と言って よい。 以上の考察から明らかなように、第 1 次核危機、第 2 次核危機のいずれも、もちろん不 十分ではあるものの、米朝間の合意にもとづいて北朝鮮は自らの核活動を抑制してきた。 北朝鮮の核兵器に対する意欲が、米国からの脅威を除去することを目指すものである以

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上、北朝鮮にとって米朝間の合意がなければいかなる枠組みをもってしても自らの核活動 を制限することはできないことになる。すなわち、米朝 2 国間協議がなければ北朝鮮の核 管理はできないことを意味し、6 者協議についても、結局は米朝 2 国間協議が進展しない 限り実質的な成果を得ることはできない構造にあると言ってよい。6 者協議において中国 が議長国というきわめて重要な役割を担っていることは間違いないが、その中国ですら、 米朝間の直接交渉がない状況では、北朝鮮を完全にコントロールすることができない。も とより 6 者協議という枠組みには、北朝鮮の核を管理する以上の枠組みになりうる可能性 があるが、当面の課題が北朝鮮の核管理にあるとすれば、米朝 2 国間協議があってはじめ て 6 者協議という枠組みは機能するし、それを管理し得て初めてより大きな枠組みとして の意味を持ちうるのである。 (注) 1) 北朝鮮が 2006 年 10 月 9 日に行ったと発表した実験が実際に核実験であったと確認されたのは、10 月 16日のことである(2007 年 5 月 16 日、http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7000/news/20061016it16.htm より ダウンロード)。それに象徴されるように、この実験についてはさまざまな評価がある。実験の評価につ いてはたとえば、小山謹二「北朝鮮の核爆発実験は失敗か ? 成功か ?」(2007 年 5 月 16 日、http://www. iijnet.or.jp/JIIA-CPDNP/pdf/DPRKnuke_test1031.pdfよりダウンロード)を参照されたい。 2) このあたりの経緯については平岩(1994)を参照されたい。

3) 米朝交渉の経緯については、ケネス・キノネス(2000, 2003)、および、Joel S. Wit, Daniel B. Poneman, and Robert S. Gallucci(2004)などがある。

4) このあたりの経緯については、船橋(2006)で詳細が明らかにされているので参照されたい。 5) 以下、各 6 者協議の概要、議長声明、共同宣言などについては、とくに断らない限り、次のサイトの 各項目を参照されたい。http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/6kaigo/index.html(2007 年 5 月 16 日にダ ウンロード)。 6) 6者協議は、まさに中国の北朝鮮に対する影響力が試される場となっているが、中国の影響力について は平岩(2006)を参照されたい。 7) 『朝鮮通信』2005 年 2 月 11 日。以下、朝鮮通信については次のサイト内の各年月日を参照されたい。 http://www.kcna.co.jp/index-k.htm(2007 年 5 月 16 日にダウンロード)。 8) 2007年 5 月 16 日、http://www.people.ne.jp/2005/02/22/jp20050222_47759.html よりダウンロード。 9) 2007年 5 月 16 日、http://www.people.ne.jp/2005/07/19/jp20050719_51903.html よりダウンロード。 10) このあたりの経緯については、船橋(2006)に詳しいが、注目されるのは韓国の役割である。2005 年 6 月、鄭東泳韓国統一相が北朝鮮を訪問して金正日と会談を持ち 6 者協議への復帰を促し、その後 13 ヶ月 ぶりに再会された南北閣僚級会談でも北朝鮮に 6 者協議への復帰を働きかけた。もちろん、韓国の働き かけのみで北朝鮮が 6 者協議に復帰したわけではないだろうが一定の役割を果たしたことは間違いない。 11) 休会にあたって人民日報インターネット版日本語版では、休会にいたるまでの第 4 回 6 者協議を振り 返って、「第 4 回 6 カ国協議の休会は、調整して詳しく検証し、また英気を養うためでもある。しかし、 共同文書に署名するかどうかが、今回の 6 カ国協議の成否を判断する基準にはならない」としているこ とからも、共同文書の作成が難しい状況にあったといってよい(2007 年 5 月 16 日、http://www.people. ne.jp/2005/08/08/jp20050808_52516.htmlよりダウンロード)。 12) ミサイル発射実験についてもその目的と、実験それ自体が成功であったか失敗であったかを含めてさ まざまな評価がある。そのあたりについては、道下(2006)を、また、6 者協議の議長国役の中国側の反 応については船橋(2006: 728–729)を、それぞれ参照されたい。 13) 国連での制裁決議をめぐる経緯については次のサイト内の各項目を参照されたい。http://www.mofa. go.jp/mofaj/area/n_korea/abd/missile.html(2007 年 5 月 16 日にダウンロード)。 14) 2007年 5 月 16 日、http://www.people.ne.jp/2007/02/14/jp20070214_67851.html よりダウンロード。

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(参考文献) 日本語 伊豆見元(1994)、「米国の朝鮮半島政策―北朝鮮の NPT 脱退宣言後の政策を中心に」(小此木政夫 編『ポスト冷戦の朝鮮半島』、日本国際問題研究所)、175–201 ページ。 ―(1999)、「北朝鮮にとっての『平和と安全』の保障」(小此木政夫編『金正日時代の北朝鮮』、 日本国際問題研究所)、129–160 ページ。 ドン・オーバードーファー(2002)、『二つのコリア―国際政治の中の朝鮮半島』(菱木一美訳、原 著 The Two Koreas: Contemporary History は Perseus Book Group より 2001 年に刊行)共同通信社。 ケネス・キノネス(2000)、『北朝鮮―米国務省担当官の交渉秘録』(伊豆見元監修、山岡邦彦・山 口瑞彦訳、日本語版が原著)、中央公論社。 ―(2003)、『北朝鮮Ⅱ―核の秘密都市寧辺を往く』(伊豆見元監修、山岡邦彦・山口瑞彦訳、 日本語版が原著)、中央公論社。 倉田秀也(2007)、「6 者会談の成立過程と米中関係―『非核化』と『安保上の懸念』をめぐる相互 作用」(高木誠一郎編『米中関係―冷戦後の構造と展開』、日本国際問題研究所)、69–92 ページ。 平岩俊司(1994)、「『冷戦の終焉』と南北朝鮮関係―平和共存制度化への相克」(小此木政夫編『ポ スト冷戦の朝鮮半島』、日本国際問題研究所)、93–119 ページ。 ―(2006)、「朝鮮半島危機と中国」(小此木政夫編『危機の朝鮮半島』、慶應義塾大学出版会)、 165–189ページ。 船橋洋一(2006)、『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン―朝鮮半島第二次核危機』朝日新聞社。 道下徳成(2006)、「北朝鮮のミサイル外交と各国の対応―核外交との比較の視点から」(小此木政 夫編『危機の朝鮮半島』、慶応大学出版会)、69–111 ページ。 森本敏(1995)、「北朝鮮の核開発問題と不拡散」(今井隆吉・田久保忠衛・平松茂雄編『ポスト冷戦 と核』、勁草書房)、153–180 ページ。 英語

Joel S. Wit, Daniel B. Poneman, and Robert S. Gallucci (2004), Going Critical: The First North Korean Nuclear Crisis, Washington, D.C., Brookings Institution Press.

参照

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