• 検索結果がありません。

国際地域研究学会第10回研究大会報告 Report on 10th Annual Conference of AISRD in 2019

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "国際地域研究学会第10回研究大会報告 Report on 10th Annual Conference of AISRD in 2019"

Copied!
8
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

研究大会報告

国際地域研究学会第10回研究大会報告

Report on 10th Annual Conference of AISRD in 2019

報告者 小澤 薫

OZAWA Kaoru

1 第10回研究大会 プログラム

日時:2019年11月30日(土)14時~16時30分 会場:新潟県立大学4101講義室

開会のあいさつ 櫛谷圭司 学会長(新潟県立大学国際地域学部長)

企画セッション 司会:小谷一明 企画委員 テーマ「小さな声が紡ぎ出す世界」

水俣湾のほとりで小さな声に耳をかたむけてきた水俣病患者の相談員、永野三智氏と、法律の研 究者で新潟の小さな声を拾い集めてきた堀江薫会員(新潟県立大学教授)より、社会を変えうる小 さな声の力についてお話を伺っていきます。基調講演では、水俣市にある相思社に勤務し、一昨年 に『みな、やっとの思いで坂をのぼるー水俣病患者相談のいま』を出版した永野三智氏より、耳に してきた言葉からどのような「今」が浮き彫りとなるのかお話し頂きます。また、堀江会員からは 法律の点から共生社会の実現に尽力してきたこれまでについてお話し頂きます。

1

 基調講演 永野三智氏「聞いてきた声、そこから感じたこと」

質疑応答

2

 招聘発表 堀江薫会員「地域に学ぶ法律学」

3

 トークセッション 永野三智氏、旗野秀人氏(安田患者の会)、後藤岩奈会員、堀江薫会員 閉会のあいさつ 小谷一明 企画委員

今回の学会大会は、学会員だけでなく、多くの一般学生たちも参加した。また、大会終了後には 懇親会が開催され、そこでもゲストを囲んで活発な意見交換が続けられた。

以下は、基調講演、質疑応答、トークセッションの要旨である。企画委員長である小澤がまとめ た。堀江会員の招聘発表については、大会報告関連論文として本誌に掲載されているので、そちら を参照してほしい。

2 永野三智氏による基調講演報告

新潟にきて伝えたかったことということで講演は始まった。まず、「新潟の人には謝らなければ いかん、感謝せねばいかん」という80代女性の言葉の紹介であった。この言葉の意味、その背景か ら説明があった(報告にかかわる年表については表

1

の通り)。

(2)

(1)不知火海の風景と原因企業

いまの不知火海(御所浦)の様子、当時の水俣(干物づくり)の写真を示しながら、水俣病の原 因、経緯が説明された。水俣病が発見されたのは63年前(1956年)のこと、小さい集落でたくさん の患者が発生しそのほとんどが漁師だったこと、漁業を生業にしていたのは当時の市民の

3

%に過 ぎなかったこと、そこに大きな被害がでたこと。あわせて、水俣病の原因企業である「チッソ」は、

当時の水俣市にとって、さらに日本にとって大切な会社であったことが紹介された。

公式確認の翌年、熊本大学は水俣病の原因(重金属、魚)を究明し、食品衛生法の適用を提案し たが、国は「水俣湾内のすべての魚が有毒化している明らかな根拠がないため、食品衛生法の適用 はおこなわない」と回答した。その後の対応として、チッソは排水溝(百間港の写真)の位置を小 さい湾から大きな海へ変更した。その結果として、被害が不知火海全域に広がることとなった(食 物連鎖のスライド)。当時の熊本県知事が「47万人に被害が及んでいると考えて調査をすべき」と いう意見を示し、これが被害全容の現実的な数字ではないかと永野氏は指摘した。

生活の糧を奪われた不知火海全域の漁師がチッソに対して抗議し、対応を求めたが、チッソは回 答しなかった。最終的に漁師は、チッソに乗り込み、機材を壊したり、保安員をけがさせるなどし てしまった。50人以上の漁民が逮捕された。そのことが全国紙に掲載されたが、その内容は「漁民、

暴力を振るう 保安員

6

人がけが」というような記事であった。

(2)永野氏の著書を読んで寄付金を持ってきてくれた70代男性

天草から車でひとりで、永野氏に面会に来館された70歳の方。「本ば読みました。読みたくな かった、でも読みました、全部読みました」と。「お祝いです」と言って、相思社に寄付をくださっ た。この男性は、10歳のときに漁民闘争に参加した父親が逮捕された。その後、家宅捜査で警察が くる、新聞に載る、クラスメイトからもいろいろ言われた。「父ちゃんが逮捕されて、家は貧乏に なった」という。考証館の展示をみながら、「この見舞金契約書は、うちの父ちゃんも持っていた、

チッソと交わした」と。漁民闘争に話が広がった際、男性は「父ちゃんも悪かったもんな、石を投 げたけんな」と。漁民闘争は、当時の漁民だけの問題ではなく、その人に家族がいて、その家族が どんな思いでこの60年を暮らしてきたのかということに気づかされた出来事であった。

こうした漁民闘争をきっかけに、チッソは通産省から濾過装置(サイクレーター)の設置を指導 される。そしてチッソは、濾過装置を作り設置した。その設置のお披露目式の際、チッソの社長が 濾過された水を飲んで見せることで、市民への安全を示した。当時の食卓の様子(桶に山盛りの魚 を家族で囲んでいる様子、公式確認から

5

年後の様子の写真)が紹介された。市民は安心して魚を 食べ始めた。しかし、実際には、サイクレーターに濾過機能はなく、その後

9

年間廃液がたれ流さ れ続けた。

(3)最近「話をきいてほしい」といって初めて訪れた親子3人

「話を聞いてほしい」といって訪れた親子。母は、昭和34年、魚の行商をしていた。サイクレー ターができたその年に、隣のおじさんから魚売りの道具、得意先を譲ってもらって魚売りを始め、

山間部に売って歩いていた。当時は、魚が飛ぶように売れた。現在、母自身も、手を火にかけても わからない、手が痛い、耳鳴りで寝られないという症状を抱えている。母が「私たちが売った魚が みんなを苦しめている、傷つけていると思うと」こぼした。永野氏は母親はこれをずっと言いた

(3)

かった、伝えたかったと感じたという。さらに、娘が胎児性水俣病患者と診断されたとき、母「私 が魚を売ったから、魚を食べさせたから」、娘「お母さんは、悪くない、生きていくためにしょう がなかった」、医者「悪いのは毒を流した人よ」と。いまも相思社には初めて訪れる人が途絶えな いということ、こんな思いでいる人の気持ちを考えることが必要である。

(4)17歳で、山間部から漁村へ嫁にきた女性

17歳で嫁いだ女性は、 5

人の子どもを授かった。結婚から10年後に10歳年上の夫(37歳)が亡く

なった(漁を生業として網元、チッソの行員)。夫が亡くなったあと、生計を立てるために土方の 仕事をはじめた。その最初の仕事がサイクレーターの装置を作る仕事だった。この仕事は、漁獲高 が減った漁師、夫を失ったもしくは家族を看病しながら子どもを育てている女性やその家族であっ た。こうした人たちが作っていたということ。

永野氏は、「食べても大丈夫と思わせた責任の大きさ」は計り知れないと強調した。それが安全 ではなかったと知ったときの家族の思いはどんなだったか。濾過装置ができたことで、これで汚染 はないと思わせた。チッソはそれを利用した。チッソは海水が原因であることを分かっていて、隠 蔽した。そのチッソの責任は計り知れない。なぜ、こんなことができたのか。人の命よりも優先さ れる経済活動とは何か。

(5)市民の意識と患者の思い

見舞金契約「原因がチッソであっても新たな保証金の要求はしないこととする」。これは、原因 がわからないが、地域の貧しい人が困っているから、チッソがお見舞いして差し上げますという趣 旨のもの。当時の漁師、患者の要求は、「チッソの排水を止めてほしい」これだけだった。本当は 殺された自分たちの家族を帰してほしい、補償してほしいと言いたかったはずだが、言い出せない でいた。その理由は、当時の水俣の市民は、チッソの排水が止まると仕事が止まる、自分の仕事が 奪われるという危機感で患者たちを押さえ込んでいた(このとき自分が市民だったらどう考えた か)。人口

5

万人のうち

5

千人がチッソで働いており、市議会議員の半分以上はチッソ出身者、市 長はチッソの工場長であった。そういう状況のなかで、「誰の側に立つのか」ということが問われ ている。誰ひとり患者の側に立つ人はいなかった。当時、日本化学工業協会や東工大、農工大は、

チッソが原因ではないと必死で言っていた(農薬、爆薬、腐った魚を食べたからなど)。実際、い までも「腐った魚を食べていないから、俺は水俣病ではない」と思っていたという患者さんがいた。

新聞・マスコミは両論併記が原則のため、熊本大学が原因を示しても、そうではないという説が でると打ち消されてしまう。原因究明に12年の歳月がかかり、その間水銀がたれ流され続けた。こ うしたなかで、患者たちは1959年12月30日に見舞金契約をする。限界ギリギリまで追い込まれてい た患者たちの判断である。そして、これで水俣病が終わったとされた。

実際に、その契約書にサインをした方に理由を尋ねたところ、「だって字が読めんやったからね、

弁護士さんがいたら違ったよ、あんたらみたいな支援者団体ができたのはいつね、その10年後だっ た」と言われ、愚問だったと永野氏は振り返っていた。

(6)新潟水俣病の確認、相思社の設立

見舞金契約の

6

年後の1965年、新潟で水俣病が公式確認される。前年の新潟地震によって、保健 師、医師が歩いて地域を回ったことで、水俣病の患者がいることが分かった。1967年公害史上はじ

(4)

めての裁判となる。裁判で、昭和電工は原因を否定した。それに対して新潟の患者・支援者は、水 俣に助けを求める。新潟の支援のため熊本から

1

万円の寄付をしていて、その寄付を使って新潟か ら熊本にやってきた。でも新潟の人たちを受け入れる組織がない、患者を支援する組織がなかっ た。受け入れるために市民組織が生まれた。新潟の患者・支援者は「私たちは絶対に曖昧には解決 しない」と。水俣の人たちは、第

2

の患者を生んでしまった責任を感じた。新潟の人に「ともに闘 いましょう」と言われる。しかし、見舞金までなんとかこぎ着け、市民から抑圧され、ひっそりと 暮らしていた患者たちは、そう簡単には声を上げられなかった。市民組織の人たちは官庁に陳情へ 行くようなった。そうこうしているうちにメチル水銀の排水が止まった。

1968年、新潟は科学技術庁、水俣は厚生省によって公害認定される。公害認定を受けて水俣の人

たちは初めて声を上げることができるようになった。見舞金ではなく、得るべきは補償金というこ とで、裁判になった(第

1

次訴訟)。「新潟水俣病がなければ、熊本水俣病はなかった」とこれが、

冒頭の感謝の言葉になった。

四大公害裁判が終わった頃に、患者たちは不安を抱きはじめる。先行きを考えずに始めた裁判 で、他の公害裁判では原告が勝訴している。自分らも勝訴してしまうかもしれない。勝訴してし まったらどうなってしまうのか、町の人からの風当たりがさらに強くなってしまうのではないか。

そこで生まれたのが、水俣病センター構想(台風のときの逃げ場のような場所の必要性)で、相思 社はできた。実際、裁判で闘った人の周りには、同じように魚を食べて、水俣病になった人が多い。

多かれ少なかれ症状がある。声を上げる人が出始めた。

(7)「裁判できた人は幸せよ」

裁判への参加は、見舞金契約をした人の

2 / 3

。つまり、残りの

1 / 3

の人たちは、運動をしなかっ た、できなかった人たち。その人たちの資料が何も残っていない。そういう人たちの声は、その人 たちが亡くなったらなかったことになってしまうかもしれない。その人たちの声をどう残していく か。話を聞きに行くと「裁判できた人は幸せよ」、「夫をなくして、子どもをなくして

1

人で生きて いくので精一杯だった」、「父の看病で精一杯だった」と言われた。自主交渉派の川本輝夫さんによ る「すべての人たちが救われるべき」という運動もあった。この

1

1

つをなかったことにしない ために、こうした声を残したい。聞かなければ、語られなければ、なかったことになってしまうこ とを残していきたい。

(8)未認定患者運動の支援をしてきた相思社

1990年代、チッソから和解を求められていた。「水俣病として認められることは、人間として認

められること」、「自分の体を返せ」などいろんな思いがあって闘っていた人たちにとって、その和 解は苦渋の選択であった(1.3万人弱が和解した)。苦渋の選択をすると決めた方たちを相思社は支 援してきた。それからおよそ10年後、1995年に和解しなかった関西在住の水俣病の患者が裁判で 勝った(水俣の患者は水俣だけでなく、東海関東関西に広がっている)。そのことがムーブメント を起こし、6.5万人が声を上げた。

(9)自分自身の経験から

永野氏は15歳で水俣を離れて、熊本市内に出た。そこで、水俣出身と言えなかった、言わなかっ た。患者がいるから自分がこんな目に遭うんだ、水俣病がなければいいのに、そう思っていた。20

(5)

歳の時、書道の先生が裁判していると聞いて傍聴に行った。それが水俣病の裁判だった。先生のお 宅に通っていたのに、先生の母が水俣病、息子が胎児性水俣病ということを知らなかった。そこで 傍聴に通うようになった。患者と思っていなかった近所の人たちが傍聴にきていて、みんなが患者 だった。それまで自分自身を鹿児島出身と言っていた。「(水俣出身を)知られるんじゃないかとい う不安」、「何かを隠すことは負担」があった。裁判後の集会では、隠さなくてよかった、水俣で生 まれた自分でいられた、自分でいられる解放感があった。

それから水俣に戻ってきて病院で働くようになった。病院の看護師が、ニセ患者、地域が疲弊し ている、裁判を止めてほしい、チッソが負けてつぶれたらどうするなど患者の悪口を言っていたが、

それに対して自分は何も言えなかった。そこから逃げるように相思社にきた。相思社にいたら、差 別していた人(看護師)が、自分の症状に耐えきれなくなって(手の先の感覚、頭痛など)、相思 社に来て話をするようになっていた。他人のことを批判していた人たちが相思社にきて自分のこと を話し、でも町に戻るとやっぱり患者を差別していた。この矛盾は何なのか。水俣出身と言えな かったこと、裁判後の集会での解放感など自分自身のことを整理していたら、合点がいくように なったという。

(文責:小澤 薫)

3 質疑応答

質問 最近、病名変更の運動が見られている。これは水俣病を過去のものにしてしまおうとする動 きと考えられるが、これについてどう考えているか。

永野 「水俣市民の会」として「病名変更」の運動がみられている。病名変更は、1950年代から何 度も言われてきた。チッソ側から水俣病は市民にとってマイナスだからという主張がでて、そ れに対して患者側からはチッソ、国、県、市民に対して不信感があるなかで、自分たちを批判 するものとして捉えられている。署名活動で有権者の

8

割を超える賛成を得たことがあった。

しかし、第

1

次訴訟、川本さんの運動を得て、終わってしまった運動とされてきた。それがい ま再熱したことの意味をどう考えていくか。いま、市議会、市役所において、水俣病、公害、

環境という言葉が部署名、書類等から削除されるなど改修作業が進んでいる。その一方で、認 定申請において年間300人ずつ棄却されている。もう水俣病が終わりという風土が作られてき ていると感じる。病名変更にあたって代表の松本さんは、水俣出身と言えなかったのが辛かっ たと言い、その気持ちは分かるが「それとこれとは違う」。

質問 「もやいなおし」という言葉について。

永野 最近、教育現場では水俣病を差別偏見の問題として捉え、差別偏見はいけないという教育に 終始している。いじめた側が水俣の市民で、その関係を取り戻していこうということで「もや いなおし」が使われ、地域の問題にされてしまっている。しかし、水俣病は、社会の問題、犯 罪であり、水俣病事件である。なぜ市民同士に溝ができなければならなかったのか、なぜこん な事件が起きたのかということが、差別偏見にしてしまうと隠されてしまう。もともとの意味 は「人間が侵してしまった罪」、その結果がいま、自然界に誠意をもって謝罪して、そこから 関係を作り直していこうというのが「もやいなおし」のはじまり。それがひとり歩きをしてし まっている状態と考えている。

旗野 名前はどんな名前でもいい。水俣病でないならないでいい、この実態をみて、何らかの手立 てをすべきということ。根本の発想は、ニセ患者を認めないということ、実際はそういってい

(6)

る人も患者で、そう言っている人も認められるように、全員が救済されるべき。それでは困る という人たちが勝手にシステムを作ってきた。あの人は救済されて当たり前だよ、という世の 中にしていかなければならない。それをよしという世の中にしていくことが大事。「熊本の水 俣病は正しい、新潟水俣病は運動をやっている人がでっち上げた」と言われたことがある。救 済されるべき人がすみやかに救済されていれば、それを周りの人が認める世の中になっていれ ば、いまさら病名変更ということは出てこない。

(文責:小澤 薫)

4 トークセッション

堀江会員をコーディネーターとして、基調報告をした永野氏、安田患者の会の旗野氏、後藤会員 が登壇し、基調報告をもとにトークセッションを行った。堀江会員から(

1

)水俣病の患者とは誰 か、(

2

)初期の認定患者とその後の認定患者の間の差別、(

3

)現在ある差別について、

3

点の問 題提起があり、そのことについて話合われた。

(1)水俣病の患者とは誰か1

永野 原田先生の「不知火海沿岸に住んでいれば全員が被害者」ということについて同感。ただ、

初期の認定患者と特別措置法に関わる被害者手帳等を受け取った人との間に意識の違いがある ことも事実。初期の患者からみれば、それまで差別を受け、辛い思いをしてきた、多くの人た ちが自分と同じ立場にやすやすとなったという複雑な気持ち。しかし、現状として救われるべ き人が救われてこなかったことが問題。水俣病は自分で申請をすることが基本。本来は、毒を 流した工場があって、その周辺にいた人はみんなが救われるべきだった。そうではなく自分で 声を上げられる環境・状況ではなかった。現在、水俣市は医療費が県内ワーストワンで、全国 的にも高い水準である。そのことが患者の責任にされ、患者が病院に行くから医療費が上がっ ているという目でみられている。本来は、その周辺の住民には手帳でも何でもいいから救済、

補償されるべきである。

(2)初期の認定患者、そのあと認定された患者の間にある差別について。

旗野 敵味方ではなく被害者として共通している。汚染された魚を食べた人は同じ。世間が求める 患者像として分かりやすいことが求められる。熊本のような胎児性、劇症型の患者が水俣病と 捉えられている。新潟の場合は、胎児性の患者は

1

名のみで、さらにその認定は横雲橋の下流 に限定され、地域よっては適用外とされている。本来は

1

つの感覚障害だけでも適用されるべ き。それは本人の責任ではないし、認めてもらう側の都合ではない。あくまで向こう側(国、

医者…)の都合で線を引かれてきた。このことは水俣病だけの問題ではなく、本質的なことに 関わる。それが最終的にはお金に積算して示されることが問題の本質にあると考えている。

後藤 差別の問題について、学生時代の大学での学びのなかで「その人と結婚できるかどうか」と いう提起がなされ、それを自分のなかで「家族と思って接せられるか」ということに置き換え て、考えてきた。

(3)現在も目に見える差別はあるのか、それを解消するためのとりくみはあるのか。

旗野 ますます水面下になっているのではないか。実際、新潟でも提訴しようとしていた人が、そ

(7)

の職場の周辺から止められたことがあった。同じ患者でも、認定、未認定、医療手帳のみなど 状況は異なる。世の中は変わっていないし、未申請患者もいる。それでも医療手帳があること によって助かっていると思っている患者が出てきたことも事実。昔に比べるとよくなっている のではないか。

永野 ①関西での娘の下宿探しの際、大家に住所(水俣出身)を伝えたところ、「家族に患者はい るの」と聞かれ、その口調が痛く刺さった。目とか、ちょっとした言葉の端々に傷ついてしまっ た。こうしたなかで、患者は生きてきたことを感じた。②水俣で公式確認60年の年に、新聞社 から取材対象の紹介があり、相談にきて話をしてくれる人に声をかけたら、「家では商売をして いて、近所の人には、ニセ患者と言われているから、とてもじゃないけど新聞でも話はできな い」と断られたことがある。③子どもたちは、いまだに外に出たら、水俣病がうつる、汚い、

さわるな、近くによるなと言われることがある。差別は簡単にはなくならない。これは、当事 者意識の希薄さからくるのではないか。長年、水俣病に関わってきて自分も当事者と思うよう になった。それは、この社会が、水俣病を引き起こした時代の延長線上に立っているから。そ の時代からいままで途切れたことがない、無関係ではないと考えている。 (文責:小澤 薫)

1

「原田正純さんインタビュー 水俣病患者とは誰か」(永野三智(2018)『みな、やっとの思いで坂をのぼる』こ ろから)153~164頁

表 1  永野氏の報告にかかわる水俣病の年譜

西暦 熊本 新潟

1956年 水俣病公式確認

1957年 熊本大学が原因究明、食品衛生法の適用をもとめる

国の回答「水俣湾内のすべての魚が有毒化している明らかな 根拠がないため、食品衛生法の適用はおこなわない」

1958年 排水溝の変更

1959年 漁民闘争

通産省が廃水浄化装置の設置を指示 廃水浄化としての「サイクレーター」設置 見舞金契約

1964年 新潟地震

1965年 新潟水俣病公式確認

1967年 第一次訴訟

1968年 アセトアルデヒドの生産中止、排水停止

公害認定 公害認定

1969年 第一次訴訟

1971年 川本輝夫さんの運動「すべての人が救われるべき」

原告勝訴の判決

1973年 原告勝訴の判決

1974年 相思社設立

1995年 未認定患者を救済する政府最終解決策を決定

2004年 関西訴訟で最高裁、国と県の責任を認める

(注)一般財団法人水俣病センターHP参照。

(8)

2019年度国際地域研究学会・研究大会の広報用ポスター

2019年度企画委員(五十音順)

小澤薫(委員長)、小谷一明、権寧俊

2019 年度 国際地域研究学会 第 10 回研究大会 テーマ「小さな声が紡ぎ出す世界」

くぼやままさこ[HUNKA]

水俣湾のほとりで小さな声に耳をかたむけてきた水俣病患者の相談員、永野三智氏と、法律の研究者で新潟 の小さな声を拾い集めてきた堀江薫会員(新潟県立大学教授)より、社会を変えうる小さな声の力についてお 話を伺っていきます。基調講演では、水俣市にある相思社に勤務し、一昨年に『みな、やっとの思いで坂をの ぼるー水俣病患者相談のいま』を出版した永野三智氏より、耳にしてきた言葉からどのような「今」が浮き彫 りとなるのかお話し頂きます。また、堀江会員からは法律の点から共生社会の実現に尽力してきたこれまでに ついてお話し頂きます。

ゲスト講師 永野三智 氏(水俣病センター相思社)

招聘講師 堀江 薫 会員

日時:11 月 30 日(土) 14:00〜16:30 (13:30 開場)

会場:新潟県立大学

(新潟市東区海老ヶ瀬 471)1 号館 A 棟 3 階 1313 講義室

*ご参加は入場無料です。定員に限りがございます。事前に下記、担当者までご連絡ください。

主催:国際地域研究学会(新潟県立大学) 担当:小澤薫(025-270-1189 / [email protected]

参照

関連したドキュメント

大きな要因として働いていることが見えてくるように思われるので 1はじめに 大江健三郎とテクノロジー

金沢大学学際科学実験センター アイソトープ総合研究施設 千葉大学大学院医学研究院

(2)特定死因を除去した場合の平均余命の延び

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

前回ご報告した際、これは昨年度の下半期ですけれども、このときは第1計画期間の

3  治療を継続することの正当性 されないことが重要な出発点である︒

社会学研究科は、社会学および社会心理学の先端的研究を推進するとともに、博士課

世界規模でのがん研究支援を行っている。当会は UICC 国内委員会を通じて、その研究支