• 検索結果がありません。

東ドイツ憲法史 一1949年憲法の政治的基礎過程一

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "東ドイツ憲法史 一1949年憲法の政治的基礎過程一"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

1

東ドイツ憲法史

一1949年憲法の政治的基礎過程一

@      }

田  村  武  夫

・一 ヘじめに一課題の提示       たとき,かかる論理の最終的実現に至る前過程で ニソビエト占領地区における政治的展開過程     所与の現実的な階級的力関係の下で,国家権力そ 三ドイツの国家組織的再建をめぐる連合国間の対立  れ自体の存在の正当性,組織原則,および権力行 四東ドイツ1949年憲法制定過程の粗描       使の手続,範域,制限,責任,等々を規律する最 高の拘束力をもつ特殊の法形式=憲法を創出した 一 はじめに一課題の提示       のである。国家権力に対する憲法の拘束性を究極 一定の歴史社会において,憲法は,如何なる意  的に担保するのは,人民の社会的実践であること 味をもっているのか。かかる問において対象とし  はいうまでもない・

ている憲法とは,実定法の体系の頂点に位置して   憲法は,従って,人民の自由のための闘争状況 いる一法形式としての実定憲法典である。この意  を示すバロメーターであり,第一次的に・政治文 味での憲法は,特定の歴史段階において,社会的  書であり,ついではじめて,法律文書である。

実践の産物として実現した特有の法イデオロギー   憲法が国家の基本法であるということは,法の 形態たる「人権」(Menschenrechte)あるいは「基  段階構造において,憲法が形式的最高法規性を有 本権」(Grundrechte)との関連でみた場合,かか  するということそれ自体を意味ならしめる憲法の る「人権」あるいは「基本権」保障のもっとも強  実体性に即して,憲法が,ω国家と社会の現在的 い法形式ということができる。      および将来的発展に関する政治的基本決定の規範 つまり,一定の歴史社会において,人間として  体系,(2)支配的階級関係の担い手による国家権力 生きる自由を無視され侵害された社会構成員がか  の行使を構造化し,方向づけている規範体系・{31 かる自由を「不可侵なもの」とする積極的な当為  国家意思の形成過程を規律する規範体系・である 観念を形成することによって,それを侵害するも  という意味で言われうるのであり・またそうでな の,就中,そのもっとも大きな可能性をもつ国家  ければならない。ωでいう政治的基本決定とは・

権力を拘束するために案出した形式である・かか  当該社会における社会的,経済的利害対立・その る形式としては,イギリスのように,議会制定法  本質上階級的利害対立が階級的力関係を媒介とし

=法律という形式をもって足る特殊な歴史的条件  て,一定の妥協点で決定されることをいう・まさ        、

ニ伝統を有する国もある。       にそのことから社会の基礎過程たる経済過程の変 しかし,社会構成員一歴史社会が階級社会で  化発展に照応した階級的力関係の変化によって・

あるという現実を認識の出発点とすれば,言葉の  「永遠の神聖な原理」と謳われた憲法の基本的価 厳密な意味で人民一は,国家権力が実際に自己  値原理も,いわゆる規範内容も,根本的に変更さ に帰属した場合に,はじめて自己の自由を実際  れざるをえない機会が生ずるのである。また・客 に確保することができる,という論理(デモクラ  観的,基本的に支配的階級関係が維持されている ティアの思想)を社会的実践の過程で獲得してき  社会構成体のなかにあって・憲法制定時に隼中的

(2)

に現象した特殊な政治状況,ずなわちその時代に  また主観的にも自覚化されてくるのに照応して,

特有な階級的力関係を反映して,憲法に表現され  民主主義は,まずは,国家的政治的諸関係を,つ るに至った社会経済的・政治的構造原理が・当該社  いで経済的社会的諸関係を規律し,正当化する原 会構成体に普遍的な支配的階級関係のその後の安  理に発展していく。

定的強化・発展に逆規定されて形骸化し,政治的   しかし,経済的に支配的な関係がイデオロギー 実効匹を喪失していく場合もある。それは,現代  関係に反映することから,資本主義社会にあって 資本主義社会に特徴的な憲法現象としての「規範  は,民主主義は,自由主義の前に,その本来的意

       一 ニ現実」の乖離現象の根本的要因であり・ワイマ  味を貫徹することができない。民主主義が皮相的 一ル憲法や現行日本国憲法にその典例をみること  に社会諸関係に実現するのは,自由主義の許容す ができる。裏返していえば・現代資本主義社会の  る範囲内,つまり民主主義の形式主義的側面であ 階級的緊張関係の強さを反映しているのである。  る。もちろん,それだけでも労働者,否,広く人 こうして,憲法の基本的属性を政治文書とし  民にとって大きな前進であり,それ故多大な犠牲 て,すなわち,一定の歴史社会における階級的利  を払わざるをえなかったことは,歴史の示してい 害対立の政治的総括の文書として認識したうえで  るところである(普通選挙制,組合結成の歴史を 近代憲法,現代資本主義憲法,および社会主義憲  みよ)。

法を,それらが属する社会の現実的な経済的・階   民主主義は,権力の人民への帰属の前提であり,

級的諸関係に照応したところの思想的形態という  かつ帰結でもあるところの,人間の社会諸関係に レペルで表現すれば,それぞれ,自由主義(1),自  おける平等の実現を,すぺての人間に社会的自由 由主義的民主主義(2),民主主義を思想原理として  の平等な享受を意味する。従って,本質的に,階 いるということができる。       級的支配従属関係から階級的差異に至るまで,そ

自由主義は,封建社会の非合理的身分制秩序を  れの根本的物質的基礎=・経済・所有関係と共に廃 打破する思想的武器としてあった限りで進歩的で  絶していく論理,階級そのものを止揚していく論

あった。しかし,そのことは,裏返していうなら  理を内包している。だから,民主主義は,階級とし ば,自由主義が資本の自由の思想的外皮であり,  ての労働者を固有の担い手としているのである。

資本主義経済の論理に適合的な思想原理であるこ   民主主義のための闘争がそれを用意し,歴史の とを意味する。その機能は,社会的,経済的諸関  弁証法としてそれに帰結するところの歴史的飛躍 係に規定された人間の階級的位置関係,すなわち  =社会主義的社会構成体への移行は,自由主義の 人間の現実の社会的,階級的属性を捨象すること  廃絶と,社会生活の全分野において民主主義を完 によって,自由の名において自由を否定すること  全に実現していく歴史的起点となる。

を本質とする。誰の自由のために,誰の自由を否   民主主義と自由主義の相剋,民主主義のダイナ 定しているかということは,超階級的に粉飾する  ミズムおよびその形態・発展をドイツ民主共和国 ことによって,逆に階級的イデオロギー性が貫か  (Deutsche Demokratische Republik,以下,東ド れるという自由主義の虚偽性の認識と共に,明ら  イツと略)の憲法の歴史的考察の内に探求してみ かにされてくる。       ようと思う。上述したように,憲法の特殊な法形

資本主義の成熟と軌を一にして,一方で,自由  式としての存在理由からして・社会主義憲法は,

主義の虚偽性が露骨になり,堪え難い程になって  かかる民主主義の発展の諸姿態と可能陸を集中的 いき,他方で,かかる虚偽性を攻撃し,克服する  に表現していると考えるからである。なお,社会 ことを目的とする社会的実践の主体=労働者が自  主義国家が憲法を含めて,あれこれの法的形式を 由主義へのアンチテーゼとして,民主主義を主張  とることの必然性については既に述ぺた(3)。

してくる。労働者が歴史の主体として,客観的に   本稿では,東ドイツにおける憲法史の始発点が

(3)

田 村3東ドイツ憲法史       3 対象とされている。すなわち,1949年憲法の政治  klamation)第1号により,ドイツにおける中央最 的基礎過程である。憲法の政治的基礎過程とは,  高統治権力は・ 「連合国管理理事会」(All施rter 諸階級間の経:済的,政治的利害対立が客観的な階  Kontrollrat)すなわち管理理事会に代表として出 級的力関係を媒介として,一定の妥協点で決定さ  席する4ケ国(アメリカ・ソ連・英国・フランス)

れ,その内容が当為性を有する価値原理として抽  占領軍司令官によって担われることになった。

象化されていく過程である。所与の憲法の本質を   ポツダム協定は・ドイツの非軍事化・非ナチ化 刻印する過程である。      および民主化・すなわち「民主主義を基礎にして 註(1}初期市民国家における自由主義と,産業資本主義  ドイツの政治生活全体を最終的に変革すること」

段階の経済的レッセ.フェールに照応する自由主義  「ドイツの管理は・政治構造の分権化と地方自治 とは,内容上も機能上も異なることはいうまでもな  の確立発展の方向で実施されなければならないこ い。しかし,かかる相違は,客観的な歴史的条件に  と」(第三章A・3節皿,IV項)を要求していた。

規定されて生じたもので,本質的には,前者は,後   ポツダム協定は,また,とくに財政,運輸・外 者の論理的前提ともいうぺき関係にあることを看過  国貿易および産業の分野に関して,事務次官(Sta・

してはならない。本文のなかでの自由主義に関する  譜sekretaren)によって指導される一定のドイツ 評価は・そうした意味で述べたものである・     中央行政部と管理理事会によって行なわれる交通

(2)わが国では,かかる用語は,その意味規定を充分  および経済統制に協力するための「ドイツ行政協

もっと重視されてしかるべきだと考える.本文のな 現されていくことになった・このことから・国家 かでの現代資本主義社会における民主主義について  的機関の創設に対する民主勢力の主導性は,まず の評価は,そうした意味で述べたものである。これ  地方レベルで発揮されることになった。勤労人民 に関連して,いわゆる「近代民主主義」というそれ  は,ポツダム協定によっても認められた民主的権 こそ常識化した用語も再検討する必要があろう。こ  利を行使しはじめ,戦争の諸結果を克服するため れについては・当面,田北亮介「現代民主主義論序  に直接に反ファッショ・民主主義的措置を実施し 説」e・『龍谷法学』第4巻第1号が注目される。  はじめた。経済活動の再開,食糧分配・治安維持

{・}拙稿「社会議法蹴研究序説」『茨城大学政経 等の業務を購的に遂行するために噺い・市町

学会雑誌』第35号所収。       村。郡行政機関を形成していった(1)。

もちろん,かかる地方的行政機関は,人民代表 ニ ソビエト占領地区における政治的   議会によって認定された公式の執行機関ではな

展開過程       い。地域住民の自主的な経過的機関であった・最 ファッショ的ドイツ国防軍の完全降伏の後,連  末端の分野におけるこうした国家的・行政的機関 合国は,1945年8月2日,ポツダム協定において  の成功裡な発展は,ソビエト占領地区において・既 ドイツの経済・国家体制の再建原則を確定した。  に1945年9月に,ソビエト占領軍当局〔=在ドイ 1945年6月5日の連合軍「布告」(Bekanntmach一  ツ・ソビェ}軍政部(Sowjetische Militaradmini一 ung)および8月30日の管理理事会「宣言」(Pro− stration in Deutschlan4 SMAD)〕をして・県・州

(4)

行政機関の創設をも容認せしめるに至った。    る経済管理活動の分散化にたいして,さらには間 さらに,10月22日,ソビエト軍政部は,命令第  接的にその政治的活動の分散化にも歯止めをかけ 110号によって,ソビエト占領地区における州行  たのである。こうした役割が,後に見るように,

政機関に対し,「現在,ドイツ国に中央ドイツ政  ソビエト占領地区における1948年からの計画的統 府が存在していないこと,および県行政機関ない  一的経済政策の実施と国家的政治的統一に大いに し連邦の州行政機関という形態で存在している各  寄与したという意味で重要視されるわけである。

ドイツ行政当局の権限を拡大する必要があること   さて,前述したように,ポツダム協定に従って 等を考慮し,ならびにこれらの行政機関によって  1945年から46年末までの間に,ドイツの民主主義 実施されている諸々の民主主義的改革を法的に確  的再建が下から上に向けて実行されていったので 認する目的で,管理理事会の法律,命令およびソ  あるが,その際に,行政管理当局の指導者の専一 ビエト軍政部の命令に反しない限りで,立法権,  的決定権(官僚主義原理)は,住民の直接的共働 裁判権および執行権の各分野において法的効力を  という民主主義的行政原理によって,まず最初は 有する法律および政令を制定・公布する権限」が  協議機関(beratende K6rperschaften)で・後には 賦与された。各県・州行政機関は,この命令に基  選挙された民主的機関で廃棄されていった。

ついて,固有の法律,政令を自己の活動地域に公   1946年1月から・ソビエト占領地区の全域で・

布する権限を得たのである。しかも,その権限に  「自治体評議会」(Kommunale Beirate)(2)が各自 は,従前,ライヒの立法事項として留保されてい  治体の首長および州参事会のもとに設置され,そ た事項をも規律する権限が委任されたところの立  れには・認可された民主的諸政党が平等に代表者 法権を含んでいた。従って,各県・州行政機関は  を派遣することになった・この「自治体評議会」

この時代,ドイツ人の手になる最高の行政および  は・選挙される人民代表議会を通じての住民の共 立法機関になったということができる。     働がまだ不可能だったので,まず行政機関内部に 他方,1945年7月27日のソビエト軍政部命令第  おける住民と行政当局の相互協力機関として設置 17号に基づいて,ソビエト占領地区に,ドイツ中  されたのである。そして食糧問題,婦人労働,住 央行政庁が設置されていた。このドイツ中央行政  民問題等を処理する下部委員会を有して,当該自 庁は,ポツダム協定で要求されているドイツ中央  治体の区域で,公的行政機関の住民生活に直接係 行政部の性格と構成に照応していて,ソビエト軍  わる諸活動を支え,またそのことを通じて住民の 政部命令の作成と施行に参画するという形でソビ  多くの部分を自治体の行政活動に組み入れていく エト軍政部に協力することを主たる任務としてい  ことができた。

た。その意味で,このドイツ中央行政庁は,県・   これにつづく民主化の歩みは,1946年5月〜6 州行政機関と異なって,自己の法律もしくは政令  月に,法律もしくは政令によって,各自治機関 を制定・公布する権限を有していなかった。しか  (市町村・郡)および各県・州行政機関に「協議 し,経済の領域で,それに調整機能の可能性が認  会」(Beratende Versammlung)(3)が設けられたこ められていたことにより,ソビエト占領地区にお  とである。この「協議会」は,その構成員が形式 ける経済の統一的発展が促進されたということは  的に行政機関の理事者側によって任命される建前 重要視しなければならない。      となっていたが,任命行為に先立って,各政党お

すなわち,ドイツ中央行政庁は,各県・州の諸  よび社会団体に推薦権の行使が留保されており,

経験を一般化し,ソビェト占領地区における経済  しかも従前の行動によって反ファッショ・民主主 生活を正常な状態に回復させるための諸施策の起  義的信念の持主で,ドイツの民主的再興に全力を 案と決定に関してソビェト軍政部に助言する活動  尽くす人間であることが証明されたものしか,そ を通じて,いわば上から,各県・州行政機関によ  の構成員になれないとの要件からして,かつ行政

(5)

田 村:東ドイツ憲法史       5

機関から相対的に独立した機関として,行政理事  第5回会議で,この選挙結果について次のように 者側と対等の協議権,および提案権を有するとい  評価されている。

う点でも,数ケ月後に選出された人民代表者議会   「市町村議会選挙は,ドイツ社会主義統一党に への架橋的役割を果たすものであったということ  とって大きな政治的成果であった。それは,ドイ ができる。      ツ社会主義統一党に投ぜられた票の高率に示され

1946年7月には,ソビエト占領地区の各県・州  ている。投票参加は,平均して90%に至った。こ 行政機関によって,民主的な「市町村選挙令」  の高率の投票参加は,ドイツ社会主義統一党が他

(Gemeindewahlordnung)が公布された。それは,  の民主的諸勢・力と結合して,多数の人民の政治的 自治体の広範な民主化を必然的に伴うものであっ  無関心を克服することに,ならびに民主主義的責 た。例えば,市町村代表議会の設置,2年毎の首  任意識を覚醒させることに成功したということの 長選挙と有権者の単純過半数による随時の解任,  証明である。高率の投票参加は,同時に,勤労人 市町村議会および郡議会に対する監督機関として  民の多くが反ファッショ・民主主義的建設,恒久 の州議会,等々。      平和および民主主義への願望を告白したというこ

かかる法制的整備を基礎にして,1946年9月1  とでもある。これは勤労大衆の意識の発展におい 日〜15日,ソビエト占領地区の各県・州において  て獲得された重要な一歩である。」(6)

普通,平等,直接,秘密の投票制に基ずく最初の   地方の勤労者。農民の利害と一致した政策展開 民主主義的市町村議会選挙(Gemeindevertretun一  によって,ドイツ社会主義統一党は,市町村選挙 gswahl)が行なわれた。この選挙結果は,ドイツ  でかかる住民の票を獲得することができたといえ 人民が戦後の再建方向に関してどのような選択を  る・それは第一次的に土地改革の成功裡の実現に なしたか,また,その判断の基底としての政治意  貢献したこの党の絶大な役割に遡源する。市町村 識が如何なるものであったか,換言すれば,当時  選挙の時期に・ブルジョア民主主義政党は,地方 の階級的政治的力関係の現実を国内外に知らせる  に少数の党員および若干の基礎組織しか有してい

ものであった。国家的憲法的秩序が当該社会の階  なかった。

級的政治的力関係に決定的に規定され,またそれ   選挙に関するすべての申請,例えば,候補者名 を反映するものであると考えれば,その後,ソビ  簿の提出は,許可された政党および反ファッショ エト占領地区,すなわち東ドイツで歴史的に形成  ・民主主義団体によってのみ提出することができ されていく国家的憲法的秩序の基本方向が既にご  ると定められていた選挙令によって,基礎組織を の選挙結果に示されていたということができる。  有していなかった市町村では,ブルジョア民主主 ドイツ社会主義統一党(Sozialistische Einheits一 義政党は,自党の候補者を立てることができな partei Deutschland・SED)(4)は,総投票数の58.5  かった。そのことによって,これらの政党の保守

%を獲得した。ソビエト占領地区で選出された  的反動勢力は・地方の住民に影響力とスローガン 132,376名の市町村議会議員の内,ドイツ社会主義  を浸透させる可能性をほんのわずかにしか与えら 統一党は,100,886名(76.2%),ドイツキリスト教  れなかったのである。

民主同盟(CDU)は12,525名(9.5%),ドイツ自   しかし・市町村議会選挙の結果は・直後に控え 由民主党(LDPD)は,10,935名(8.3%),農民  ている郡議会および県・州議会選挙に向けて・諸 互助同盟(Vereinigung der gegenseitigen Bauern一  勢力間の政治的,イデオロギー的対立を増幅させ hi1魚VdgB)は,6,983名(5.2%),婦人委員会  る要因ともなった。例えば,反動陣営は,民主主

(FrauenausschUssen)は,821名(α6%),その他  義勢力の進出を直接に防止するために,民主主義 の議員は,226名(0・2%)であった(5)。      的大衆団体による,固有の候補者名簿の提出を禁

1946年9月18日のドイツ社会主義統一党幹部会  止せよとの行動から,オーデル・ナイセ国境問題

(6)

に関連して,反ソビエト主義,反民主主義,そし  が出された。

て反社会主義を煽動するキャンペーンへと,選挙   「ドイツ社会主義統一党は,勤労人民の中に確 運動における政治的スローガンの焦点をいわば体  固たる基盤をもった。選挙の結果は,ソビエト占 制選択の次元に上昇させていった。       領地区の過半数の住民が,反ファッショ・民主主 こうして,将来の政治的,社会的方向性がラ  義的発展に対して明確な判定を下したものといえ ディカルに選択されるという緊張した政治状況の  る。労働者党への投票は,ドイツ社会主義統一党 下で,1946年10月20日,郡議会(Kreistag)およ  の綱領と政策に対する多くの勤労者の明白な信任 び県・州議会,ならびに特別市議会(Bezirksver一  であり,郡・州議会における議席分布は,労働者 ordnetenversammlung)大ベルリン市区議会(Sta一 党の明白な指導的地位を示すものである。」(8)

dtverordnetenversammlung in Gro昼Berlin)の選挙   新しく選出された県・州議会は,1946年11月末 が行なわれた。      までに第一回議会を開催し,選挙前に設置されて

ドイツ社会主義統一党は郡議会選挙において総  いた「協議会」(Beratende Versamm!ung)を廃止 投票数の50・3%・県。州議会選挙では・47・5%を  すること,および従来の県・州行政機関を,首相 獲得した・ソビエト占領地区の郡議会議員6,045 (Ministerpr註sident)を頂点として諸大臣から構成 名中・3,124名(51・7%)がドイツ社会主義統一一  される県・州政府(ProvinziaL und五andesregie一 党の党員であり,1,494名(24.7%)がキリスト  rung)に組織変更することを決定した。そして,

教民主同盟に,1,053名(17.4%)がドイツ自由  1946年11年月27日のソビエト軍政部命令第132号 民主党に,374名(6.2%)が農民互助同盟に,そ  により,1945年10.月22日の同命令第110号によって れそれ属する者であった。州議会選挙については  委任されていた立法権がソビエト占領地区の県・

ドイツ社会主義統一党は,519総議席の内,249議  州知事から,県・州議会に委譲されたことに伴っ 席を,キリスト教民主同盟は,113議席を,自由民  て,各県・州議会は,まず「郡令」(Kreisordnung)

主党は,121議席を,農民互助同盟は,15議席を,  を制定した後,当該県・州憲法の制定作業に入っ 文化同盟(Kulturbund)は1名をそれぞれ獲得し  た。様々の理論上の対立と階級的利害を背景とし た(7)。       た角逐を経て,各々の県・州憲法は,1946年12月 この時代一1949年10月7日にドイツ民主共和  から47年1〜2月の間に県・州議会で採択されて 国臨時人民議会(Provigorische Volkskammer der いった。県・州憲法の制定過程および内容につい Deutschen Demokratischen Republik)が開設され  ては,1949年憲法に直接的影響を与える重要なイ るまで一一各県・州議会は・ドイツ人の手にな  デオロキー論争に当然言及しなければならないの る最高立法機関であって,連合国管理理事会法お  で,紙数の制約上,別稿で述ぺることにする(g)。

よびソビエト軍政部命令に反しない限りで,当該   民主主義的行政および憲法制度の確立と並行し 県・州の社会生活全般を法的に規律する権限を有  て,ソビエト占領地区では,非ナチ化,非軍事化 していた。その意味で,県・州議会の政治的構成,  が徹底的にすすめられた。行政,とくに警察,お すなわち諸政党間の政治的力関係は,その最初の  よび司法や教育施設,とりわけ経済活動等の諸分 立法作業である県・州憲法制定において採用され  野からナチ活動家と軍国主義者を一掃しただけで る社会経済的,政治的構造原理の内容を,またそ  なく,公的生活の全領域で,とくに経済秩序の分 れを基礎とする全体としての国家的,憲法的秩序  野で抜本的な民主化のための諸措置もとられた。

一この終極的確定は将来の中央議会の課題ではあ  就中,土地改革は,100ha以上の大土地所有を廃 るが一を直接に規定する決定的な要素であった。  止し,ドイツ軍国主義の基盤であったユンカー的

1946年10月22日,ドイツ社会主義統一党中央書  大土地所有制を除去した。

記局によって・選挙結果について次のような評価   ナチ犯罪人および戦争犯罪人の企業は,まず

(7)

・田 村:東ドイツ憲法史       7

1945年10月30日,同31日のソビエト軍政部命令第  力分立制原理により形骸化されて,政府,行政お i24号,第126号に基づいて強制差押え処分に付さ  よび司法における官僚主義の優越性が温存もしぐ れ,その後1948年4月17日,同23日のソビエト軍  は再生される結果となった。

政部命令第64号,第76号の規定に基づいて人民所   西側三占領地区とソビエト占領地区の間で,ポ 有経営に移行された。独占資本は,工業の分野で  ツダム協定に規定された戦後ドイツの再建方向に も,銀行・保険業の領域でも解体された・     関する諸原則の実行水準に明瞭な差異が現われつ

新しい警察,人民警察が誕生し・また勤労者階  つあったが,いずれの占領地区にせよ,経済上,

層出身の新たな裁判官および検察官に対する特別  行政上の必要性からドイツ中央政府の樹立を主張 の修習課程が実施され,ならびに全く新しい民主  する声が次第に強まってきた。

主i義的職務執行方法が導入されたことによって司   ソビエト占領地区では,既に1945年9月以来,

法の民主化も始まった。      主として経済問題の処理に関与する「ドイツ中央 これら全措置は,一部はソビエト占領軍の命令  行政庁」が存在してきたことは前述の通りであ に,一部はソビエト占領地区の「ドイツ中央行政  る。アメリカ占領地区では,1945年11.月6日に,

庁」の指示に・究極的には県・州行政機関の法律  各州の立法を調整均質化するために,占領軍管理

・政令に従って実施された・ソビエト占領地区の  局の指導下にある「諸州評議会」(Landerrat)が 各県・州憲法は,これらの諸措置を有効と認め・  シュテユットガルトに設けられていた。イギリス 新しい民主的な憲法内容として・これらの諸措置  占領地区では,イギリス軍政部と協議したり,同 の結果を自己の内に定着せしめたのである。    地区内の各県・州行政機関の諸活動を調整するた ドイツの米英仏占領地区においては・ポツダム  めに「地区協議会」(Zonenbeirat)が設けられて 協定の諸原則が同様の徹底した方法で実現に至ら  いた。

なかった。確かにこれらの地域でも・1946〜7年   本質的に経済的理由から,とりわけ人民所有の にかけて,「市町村令」(Gemeindeordnung)およ  工業を占領地区全体の連合体に統合していくため び「郡令」(Kreisordnung)が制定され・アメリカ  に,ならびに経済計画および投資計画を定立する 占領地区の各州では州憲法が決定されている。し  ために,1947年末;ソビエト占領地区の中央経済 かし・土地改革も・産業改革も行なわれず・それ  管理機構一主要には「ドイツ中央行政庁」が「ド どころか,むしろ従前来の大土地所有制や独占資  イツ経済委員会」(Deutsche Wirtscha丘skommi一 本は・完全に放置されたままであった。     面on, DWK)に再編成された(、o)。「ドイツ経済

いわゆる「ナチ犯罪裁判所」(Spuchkammerve卜  委員会」は 一般的に,すなわち,県・州に対す fahren)を通じてすすめられた非ナチ化も・茶番  る特別の自己抑制なしに,ソビエト占領地区の全

劇としかいいようのないものであった。その裁判      域に係わる命令を拘束的に発する権限をソビエト

では・指導的なナチス党員および軍人は・放任さ  軍政部より賦与され,以後,かかる命令権を経済

れていて,主要には小ものの活動分子が断罪され      生活の全分野において広汎に行使した。「ドイツ

たにすぎなかった・行政および司法においては・  経済委員会」の命令が新しい法的準則を含む場合 以前のナチス党員の大部分がその地位や官職を保  は,この法的準則が県・州法に優越する効力をも 持していた・       つとされた。「ドイツ経済委員会」の決定.命令

ポツダム協定でその尊重と実現が強調されてい       の中でとくに重要なものは,1949〜50年経済2ケ

た政治的民主主義の基本原理たる国民主権も・イ  年計画,1948年9月23日の「経済刑罰法」(Wirt一 ギリスやアメリカの先例に従った「候補者個人へ  scha伽strafverordnung vom 23. September 1948)

の投票制と比例選挙との結合」という特別の選挙  および1949年3月19日の「ドイツの科学および文 手続により・また同時に古典的形式そのままの権  化の振興と発展に関する政令」(Verordnung aber

(8)

die Erha1㍑mg und Entwicklung der deutschell    Berlin 1948$7f・

Wissenscha丘und Kultur vom 1軌Marz 1949)  ㈲BeschluB des Parteivorstandes der SED v。m 14 であった。      Mai 1946 zur Bildung von beratenden Kδrper一

「ドイツ経済委員会」の外に,経済外的任務を   schaften bei den Landes−und Selbstverwaltun一 もった3つの中央管理機関一内務,司法,国民   9e叫in:Dokumente de「S°zialistischen Einheits一

      partei Deutschlands, Bd. I Berlin 1952, S.4α教育の3省一が創設され,これら全部の中央諸

       {4}ドイツ社会主義統一党は,1946年4月21〜22日に機関の地位は,組織的意味でも,実質的意味でも      開催されたドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民各県・州統治機関に比して強化されていった。他      主党(SPD)との合併党大会によって創立された

面で,ソビエト占領地区における政府の樹立,も      党である。

しくは,中央政治組織を創出して,ドイツ全体の  〔51Helene Fiedleらaa.0 S.8a

発展に先んずることは,意識的に差し控えられ   (6)BeschluB des Parteivorstandes der SED vom た。人々は,設定された過度的,暫定的制度を意   1&September 1946 zu den Lehren der Gemein一 識的に固執し,ドイツ経済委員会に各県・州政府,   dewahlen, in:D・kumente der S・zialistischen 諸政党,および民主的諸団体の代表機関〔ドイツ   EinheitsPa「tei Deutschlands, a a°Q S89f 経済委員会の総会〕を設けることでもって得心し  (7)Helene Fiedler・a・a・0・・&91・

ていた。       (8)Stellungnahme des Zentralsekretariats der 西側占領地区でも,同様に,行政および経済管   SED vom 22・Oktober 1946 zum Ergebn1s de「

      Kreis−und Landtagswahlen, in:Dokumente der理の面で中央化が進められた。1948年5月29日に

      Sozialistischen Einheitspartei Deutschiands. a.「両(アメリカ,イギリス)地区経済協議会」が

a.α,S.109−111.

フランクフルトに設置され,両地区の各州議会       (9}拙稿「東ドイツ憲法史一1946〜7年州憲法制定 は,それに代議員を選出することになった。かか      と国家組織・憲法論」『茨城大学人文学部紀要』社

る「両地区経済協議会」は・経済の全分野に関す    会科学篇,第11号所収。

る立法権を有し,その法令は・州法に優越する効   ⑯詳しくは,上林貞次郎編『ドイツ社会主義の発展 力をもっていた。フランス占領地区が統合して,   過程』(ミネルヴァ書房)52頁参照。

西側地区全体の中央行政・経済管理機関が実現し

欝溜黙頴謡形繭存の国家的機 三ドイツの国家組織的醜をめぐる 構における非ナチ化と表裏の関係にある。これにっ    連合国間の対立

いて次のような指摘がある。       ドイツ全体の行政機関,その頂点としての中央

「ソビエト軍政部(SMAD)の援助を受けて・行  政府および憲法構想をめぐる連合国内部での論議 政からファシストおよび戦争犯罪人を一掃すること  は,1947年3月のモスクワ外相会議が行詰って以

は,きわめて複雑な過程であった。というのは,国       来,連合国内のこ大勢力(アメリカとソビエト)家的,経済的行政機関は,高い比率で,戦争犯罪人お       間に次第に様々の形で顕在化しつつあった緊張状よびナチ党員ならびその支部や下部組織によって占

       態をますます鋭くする方向に展開していった。められていたからである。そのことは,行政事務の

,経験のない多くの新い、勢力が国家的機関に配置さ   かかる緊張状態は・始原的直接的には西側古領 れねばならないことを意味した。」Helene Fiedleち  国の外交政策の変更に由来するものだった。マー SED und Staatsmacht, Dietz Verlag, Berlin  シャルの外務大臣就任と共に開始され,トルーマ 1974,S2a      ン大統領も支持したアメリカ外交政策の新方向が

{2)Karl Schultes, Der Aufbau der Landerverfas。  それであり,いわゆる「トルーマン・ドクトリン」

sungen in der sowjetischen Besatzungszone,  および「マーシャルプラン」として表現されたも

(9)

田 村:東ドイツ憲法史       9

のである。これらによって提起された政策は,一  提案に基づいて,「『憲法制定の準備をなすべき 方で,マーシャルプランに連結された諸国をアメ  臨時政府の設立』に関する計画を立てること」と リカ独占資本に経済的に従属せしめ,アメリカの  いった指令が連合国管理理事会に発せられた。こ 方針全般に服せしめる目的と,他方で;ソビエト  の提案には,『勧告』という形式で,次のような に対する経済的,政治的および軍事的同盟を構築  イギリスの提案になる文章が付帯された。「連合 する目的とをもっていた。アメリカのかかる新し  国管理理事会と共同して,ドイツ中央行政機構お い外交政策は,ポツダム協定に基づく米ソ両国の  よび憲法の制定を準備する『ドイツ人顧問会議ま 協力関係を不可避的に破壊し,かつポツダム協定  たは協議会』を,この管理理事会に付置する」

に従って4連合国により,ドイツが全体として民   これに対しては,他の代表者から原則的な反対 主主義的に復興していけるように管理されなけれ  論が出されず一致をみた。しかし,これらの提案 ばならないという基本的課題をも不可能にしてし  の具体的執行に関連して,アメリカ外相マーシャ まうものであった。      ルは,連合国管理理事会がドイツ臨時政府の設立 1946年9月6日のシュテユットガルトでの演説  を計画し準備する上で,必要な決定を単純過半数 で,当時のアメリカ外相バーンズは,4占領地区  をもってなすぺきこと,およびイギリス,フラン の経済的統一を必要とみなし,その上 ドイツの  ス両外相と同様に,「ドイツ人顧問会議もしくは 連邦憲法を制定すべき「ドイツ国評議会」(Deuts一 協議会」は,各州政府の代表をもって構成するこ cher Nationalrat)の創設をも提唱していた。1947  とを要求した。それに対して,ソビエト外相モロ 年3月10日から4月21日にかけてのモスクワ外相  トフは,管理理事会の決定方法につき,連合国間 会議(1)一アメリカは,この会議に既にマーシヤ  の協力が損われるとの理由で,全員一致の原則を ル外相を代表として派遣していた一で,ドイツ  固守した。さらに「ドイツ人顧問会議もしくは協 の領土問題およびその将来の国家・政治組織上の  議会」も,「ドイツ臨時政府」も,州政府の代表 問題が詳細に討議された。4ケ国の提案は,個別  からではなく,諸政党,労働組合および反プアツ 的には様々の点で相互に異なっていたが,ドイツ  ショ的諸団体の代表から構成されるぺきことを要 臨時政府を可能な限り早期に創出しなければなら  求した。

ないという点では一致した決議が採択された。ま   モロトフは,全ドイツの経済的・政治的統一の た,西側3ケ国代表が連邦制原理を固執したのに  必要性と可能性について,詳細に,積極的に意見 対して ソビエト代表が単一制国家の構想を強く  を述べ,就中,西側に台頭しつつあったドイツ国 主張したにもかかわらず,将来のドイツ全体の中  家の分割解体への傾向に対して,さらにドイツ国 央政府と州政府との間の権限配分に関する問題で  家権力の弱体化を目的とした西側連合国のドイツ はちそれほど重大な相違は起こらなかった。    の「連邦化志向」(F6deralisierung就endenz)に対

外相会議の討議をみると,例えば,フランス代  して抗争した。モロトフは,ドイツの民主主義に 表が,ドイツの経済的統一に関する合意を前提条  とって,連邦化がどのような危険をもたらすかに 件とすること,その上で新しいドイツ連邦議会を  ついて指摘し,「そのような場合には,ドイツ人 各州議会代表から構成すこと等を主張したのに対  にとって明らかに貴重であるところの『ドイツの して,イギリス外相ベヴィンは,それとは逆に,  統一』という思想が,将来,ドイツ軍国主義者に 中央政府の設立をドイツの経済的統一の前提条件  委任されてしまうだろう。報復の思想が再生し,

にしなければならないと述べて,西側諸国の間で  ドイツに恰好の土壌をもっている偏狭過激な愛国 も意見が対立していた。こうした意見対立を調整  主義が再び咲き出し,そして新しいビスマルクも し,一定の合意的結論に達するために40日余の時  しくはヒットラーの出現の前提条件が生成してく 間が費やされたのである。最終的に,アメリカの  るであろう。」ωと述べていた。

(10)

モロトフは,暫定政治組織の形態と範囲に関し   5・正式の恒常的なドイツ憲法は,ドイツ人民 て,ならびにその後の正式なドイツ国家組織に関  によって承認されなければならない。

して,次のような提案を行なった。       皿 ドイツの国家組織について

「1 ドイツの暫定政治組織の形態と範囲に     1・ ドイツは,統一した平和愛好国家として一 関して      ドイツに一般的な二院制からなる国会と,ドイツ ドイツの暫定政治組織の創設の課題は,以下の  国家の領域に存在する各州にその憲法上の権限を 規定に基づいて遂行されなければならない。    保障する全ドイツ国政府と,を有する民主的共和

a) ドイツの政治制度は,民主主義的性格をも  国として一再建される。

ち,権力機関は,民主主義的選挙に基づいて確立   a ドイツ共和国大統領は,共和国議会によっ されなければならない。      て選挙される。

b)州議会および各州の自治制度を否定したヒ   3・ ドイツの全領域に,共和国議会によって確 ットラーの中央集権的国家主義的行政は,清算さ  定された憲法が適用され,各州においては,州議 れなければならない。同時に,ヒットラー体制の  会によって確定された州憲法が適用される・

出現前に存在していた行政権の地方分権制が回復   4・ ドイツ憲法は,各州の憲法も同様に・民主 されること。その際に,州議会およびドイツに一  主義の原理に基づいて構築される。これら憲法 般的な二院制(zwei allgemeindeutsche Kammer)  は,ドイツ国の発展を,民主的,平和愛好的国家 が回復されること。      として厳格に繋留する。

c) ドイツ暫定政府は,ドイツの政治的,経済   5・ ドイツ憲法および各州憲法は,すべての民 的統一を確保しつつ,同時に,連合国に対するド  主主義的政党および労働組合その他の民主主義 イツの義務を履行する責任を負うことのできる政  的な社会団体および施設等の自由な形成と活動を 府として創設されなければならない。      保障する。

上記から次のことが提案される。        6・すぺてのドイツ市民は,ドイツ憲法および 1. ドイツ暫定政府を形成するための第一歩と  各州憲法により,人種,性別,言語および宗教に して,財政,産業,運輸,通信,海外貿易のドイ  よって差別されることなく,言論出版,文化,

ツ中央行政部(zentra韮e deutsche Verwaltungsde一  集会および結社の自由を含むすべての民主主義的 partements)をポツダム会談の決定に従って設立  自由を保障される。

する。       7.国会および各州議会は,普通・平等・直接 2.民主主義的諸政党,自由な労働組合および  選挙権に基づき,秘密投票および比例代表制によ その他の反ナチ的諸団体,ならびに各州の代表の  り選挙される。

参加の下で,暫定の民主主義的憲法の作成を連合   8. 自治体の諸機関(郡・市町村議会)は,,各 国管理理事会に委託する。       州の州議会と同様の民主主義的原則にもとついて

3.この暫定ドイツ憲法に従って選挙を実施  選挙される。」(3)

し,それによって暫定ドイツ政府は形成されなけ   モスクワ外相会議で表明されたモロトフのかか ればならない。       る提案は,戦後ドイツの反ファッショ・民主主義

4.ポツダム会議の決定に従って,ドイツ政府  的再建というポツダム協定の基本原則に照してみ には,その主要任務として;ドイツ軍国主義およ  た場合,最小限の必要事項を述ぺたいわば常識論 びファシズムの残淳の払拭 ドイツの全面的な民  の範疇に属するもので,ワイマール憲法を基本的 主化の実現,ドイツ経済の再興および連合国に対  に踏襲するものだった。モロトフ自身も,その欠 する義務の無条件履行に必要な処置の実行,等を  陥と弱点を除去する下で,ワイマール憲法と結合 課する。      することを提案して,「我々は,ドイツの新しい

(11)

田 村:東ドイツ憲法史      11 憲法を制定する際に,ワイマール憲法において民  外相ベヴィンは,ロンドン会議の終了時に,「外 主主義的であったものを利用するならば,我々の  相会議は,そもそもドイツ問題をいつの日にか解 作業は著しく容易になり,重要な過ちを避けるこ  決できるような主務機関であろうか?」(4)との疑

とができるであろう。」と述べていた。      問を投げかけていた。

モスクワ外相会議では,あれこれ提起された問   ロンドン会議後,西側連合国は,公然と分離さ 題の困難さという面からみた場合,比較的に広範  れた「西ドイツ国家」の形成を促進する方向で動 囲の合意に到達したと思われる。連合国間の意見  きはじめた。ドイツにとってこうした非劇的展開 の相違は,管理理事会への連合国外務大臣の統一  は,1948年1月7〜8日のフランクフルト決定(5)

的指令等を仕上げる任務を負託された「調整委員  を具体的起点として,「西ドイツ国家」の「憲章」

会」(KoordinierungsausschuB)で調整されるこ  (Charta)を告知した1948年2月9日のクレイ将軍 とになった。「調整委員会」は,次の3問題に専  の「声明」によって,ならびに同年3月6日の西 ら精力的に取り組んだ。       側三連合国ロンドン会議の「勧告」によって,意

1・連合国管理理事会に付置される「ドイツ人  識的に促進された。このロンドン会議で,西側3 協議会」の設立       ケ国は,「西ドイツ連邦国家」の樹立に関して最終 2・新しい暫定憲法の基本原則         的合意に達した。ロンドン「勧告」は,ルール地 3・暫定政府の設立       方に対する西側3ケ国の管理機関の設置および西 かかる「調整委員会」においても・依然として  側占領地区における「憲法制定会議」(Verfassun一 意見の明白な対立があったにもかかわらず,1947  99ebende Versamm!ung fUr die westlichen Besat・

年4月8日・非公式の外相会談で・ドイツ中央行  zungszone)の召集についての決定を含んでいた。

政部の設立に関する原則的了解に達したことが確   1948年3月,ペルリンの連合国管理理事会は,

認された。それによって,運輸・交通,財政,お  その活動を停止した。1948年3月20日のソビエト よび産業,海外貿易,ならびに食糧・農業の各部  政府覚書には,「管理理事会は,事実上瓦解した」

門のドイツ中央行政部局が可能な限り早期に設立  と確認されている(6)。

されなければならなくなった。そして,これら中  註ωモスクワ外相会議についての以下の叙述は,次の 央行政部局の設立3ケ月後に,将来的に暫定政府   文献に拠っている。Karl Schultes, Zur deutschen に発展していくものとみなされた「ドイツ人協議   Verfassungsentwicklung・in:Neue Justiz・1950・

会」も創設されることになった。      Nr・1, S・3−5・

しかし,連合国間の意見対立は,1947年11月25  {21Ebenda・

日〜12月15日のロンドン外相会議で前面に押し出   {3}Ebenda

       ωEbenda.された。ここで,第4議題「ドイツ臨時政府の構        151フランクフルト決定とは,西側3地区占領軍司令成と任務の範囲」に関する討議が,経済問題の取

      官の同席のもとで,フランクフルトで開催された3扱いをめぐる対立,就中,西側連合国が明瞭に日

      地区の各州首相会議で採択された決定をいう。程にのぼらせてきた計画一西側3地区の経済的,       かかる決定は,3地区占領軍司令官の指示にもと

政治的統合をすみやかに促進するという計画一の      ついて,西側3地区だけの中央国家(西ドイツ国家)

故に,挫折してしまった。      の樹立および西ドイツの連邦憲法制定を準備するこ 西側連合国が外相会議を挫折させるという一致    とで全体的に合意に達した旨を明らかにしている。

した意図をもって,この会議に臨んだことは明ら   (6)Karl Schultes, a. a.α,&5

かであった。西側連合国は,外相会議そのものを

解消して,ドイツ問題の処理を外交的方法に委ね   四東ドイツ1949年憲法制定過程の粗描 ることを目指していたように思われる。イギリス   ドイツの進歩的民主主義勢力は,ポツダム協定

(12)

に違反した西側連合国の政策展開を傍観していた  る。そして,この人民請願および1948年7月のド のではなかった。      イツ人民評議会の特別要請にもかかわらず,再び

既に,1947年11月,ベルリンで「ドイツ人民会  開催されることはなかった。

議」(Deutscher VolkskongreB)が開催された。同   さて,ソビエト占領地区における憲法制定の課 会議は,ソビエト占領地区の民主主義的諸政党お  題で,イニシャティブをとったのも「ドイツ入民 よび大衆諸団体ならびに西ドイツ地区の代表か  会議」であった。1948年3月18日の会議において,

ら構成され・ドイツ全体に関係する問題,とくに  ドイツ人民会議は,人民評議会に対し,憲法草案 ドイツの経済的,政治的統一を実現していく闘争  の作成を付託した。人民評議会によって設立され において,新しい反ファッショ・民主主義原則に  た「憲法委員会」(Verfassungsau舗chu8)は,オ 拠りつつ指導性を担うことを決定していた。    ットー・グロテヴォール議長の下で,1948年6〜7

1948年3月18日,1848年3月革命の100周年記  月の間に「ドイツ民主共和国憲法要綱」(Richtli一 念日に開かれた第2回会議で,ドイツの入民会議  nien fUr die Verfassung der Deutschen Demokra一 は,後に「ドイツ人民評議会」 (Deut㏄her Vo!−  t観hen Republik)を作成し,8月3日の人民評議 魎rat)によって提出された憲法草案の基本思想を  会第4回会議に提案した。この「憲法要綱」の承 既に含んでいた『1848年3月革命の教訓』と題す  認後,ドイツ人民評議会は,憲法委員会に憲法草

る決定を採択し,ついで人民会議の閉会中の最  案の起草を委託し,その後10月22日の第5回会議 高決定機関および常設の執行機関として400名の  で憲法委員会によって提出された憲法草案の原案 代表からなるドイツ人民評議会を選出した。さら  を審議採択した(2)。この会議で行なわれたオット に・人民会議は,ドイツの統一に関する人民投票  一・グロテヴォールの憲法草案提案報告によると 決定を求める人民請願運動の実施について決定し  憲法委員会は,「憲法要綱」および「憲法草案」の た(・)。この人民請願運動は 次のような請願書を  起草に際して,ポツダム協定の諸原則との適合性 もって,1948年5月23日から6月13日までの間に  を最重視し,ならびにドイツ憲法の歴史およびワ 行なわれた。      イマール憲法の欠陥と過ちから教訓を引き出し,

「アメリカ合衆国,大英王国連合,ソビエト社  そして1946年11月22日のドイツ社会主義統一党の 会主義共和国連邦およびフランス共和国の各占領  憲法草案一ここには,1945年後初めて,真の民 軍司令官が自己の占領地区において,ならびに管  主主義を創造するという観点で,ドイツ全体の憲 理理事会の構成員としての資格において,下記法  法発展史からいくつかの結論が引き出されていた 律を決定もしくはこれに関する人民票決を命令す  一を参考としたり,また1946〜7年に施行され

ることを署名者は,ここに請願する。      た各州憲法を参照したということである(3}。

ドイツの統一に関する法律      1948年末から49年にかけて,この憲法草案は,

第一条 ドイツは 不可分の民主主義共和国で  経営・行政機関,学校,諸研究所,裁判官養成 あって,この共和国にあっては1919年8月11日の  所・大学等で・また政党や民主的大衆団体の集会

『ドイツ国憲法』が規定していた権利と同様の権  で,人民討議に付された。その結果,約ユ,500の 利が各州に属せしめられる。      決議,503の修正提案がドイツ人民評議会に寄せ

第二条 本法律は,公布と同時に効力をもつ。」  られ・憲法委員会で,それらを参照して憲法草案 選挙権を有する全ドイツ人の37%,18,775,945  の52ケ条に修正もしくは補充が加えられた(4)。こ 名が人民請願書に署名した。連合国管理理事会は  うして出来上った憲法草案の正文が1949年3月19 人民請願によって要求された法律を公布せず,人  日のドイツ入民評議会第6回会議で採択され,ド 民票決も命令しなかった。管理理事会は,既に  イツ人民会議に,その承認を求めて送付された。

1948年3.月にその活動を停止してしまったのであ   1949年5月15〜16日に,ソビエト占領地区でド

(13)

田 村:東ドイツ憲法史       13

イツ人民会議の選挙が行なわれ,全有権者の95・2 立を取り決める有様であった。その必然的帰結と

%が投票し,ドイツ社会主義統一党を中軸とする  して,1949年8月14日に,連邦議会が選出され,

民主主義ブロックの諸政党によって提案された候  同9月20日に,西ドイツ連邦共和国政府の設立が 補者に対して,有効投票総数の66.1%が投ぜら  完了した。

れた。      国際法上の原則とポツダム協定を継続的に侵犯 新しく選出されたドイツ人民会議は,1949年5  し,ならびに既成事実をつくりだすといった西側 月30日に,ドイツ人民評議会によって提出された  3ケ国の政策によってもたらされた現実の政治状

「ドイツ民主共和国憲法草案」を賛成2,087票,  況は,ソビエト政府をして,ドイツの民主主義勢 反対1票で可決した。同時に人民評議会も改めて  力の民族的自立(Nationale Selbsthilfヒ)の運動を 選出された。      放任することに踏み切らせた。その結果,ドイツ

1949年5月23日・ボン基本法(Das Bonner 人民評議会および反ファッショ・民主主義プロッ Grundgesetz)が施行された・同日,半年余の休会  クに参加している全政党は,1949年10月5日,憲

の後・ドイツ問題に関する最後の連合国外相会談  法草案に従って,ドイツ民主共和国政府の創設を がパリで開催された。6月20日まで続いた同会談  決定し,同時に「人民議会」(Volkskammer)の でイギリス外相ベヴィンは・『ドイツの統一に関  選挙日を,1950年10月15日とする旨確認した。

する覚書』を提出し・「ドイツの東側地区は,ボ   10月7日,ベルリンで,ドイツ人民評議会は,

ン基本法に従うべきであり,かつ占領法規を受け  最後の会議を開催し,その冒頭で,ドイツ民主 いれるべきである・」との提案を行なった(5)。こ  共和国臨時人民議会(Provisorische Volkskammer れに対してA°J・ヴィシンスキーの指導の下に,  der Deutschen Demokradschen Republik)に組織 ソビエト代表は改めてポツダム協定の遵守・ドイ  変更した。臨時人民議会は,まず第一に自己組織 ツの経済的,政治的統一の回復および民主主義的  の構成法を決定し,その後, ドイツ民主共和国 なドイツ統一国家の樹立を前提的要求として・具  の臨時政府および臨時州代表会議(Provisorische 体的に「東側地区および西側地区に現存するドイ  Landerkammer)の設立に関する二つの法律をi採

ツの経済諸機関に基礎をおき・かつドイツの経済  択した。後者の二つの法律により,先にドイツ人 および行政センタ桝であって・経済的,国家的再  民会議(Deutscher Volkskongreβ)によって承認 興のために政府機能を遂行する全ドイツ国家評議  された憲法草案が「ドイツ民主共和国憲法」とし 会(Gesamtdeutscher Staatsrat)の創設  管理理  て施行されることになった。

事会の最高権力は・依然維持される条件の下に一   なお,10月7日には,臨時人民議会で「行政移 一」を要請した。(6)       管法」も決定され,これにより,ドイツ経済委員 しかし・ドイツ国に関する主要問題すなわち  会および三つの中央行政部(国民教育,内務およ 全ドイツ政府の創設・憲法の制定および講和条約  ぴ司法)の業務が臨時政府および当該主務大臣に への着手等について・結局・合意をみることがで  移譲されることになった。本法は,10月19日に施 きなかった・この外相会談では・「1949年9.月に  行され,同時にドイツ経済委員会もその歴史的使 開かれる国連総会第4回会議で,4ケ国政府は,  命を終えたのである。

『ドイツ問題を検討する』次期外相会議の日時と       註(1)ワイマール憲法第73条3項および1946〜7年に施 条件について意見を交換する」ということだけが       行されたほとんどすぺての新しい州憲法によって,

決定された(7)。この最後の頼みの網ともいうぺき   有権者の10分の1が請願した場合は,人民票決を行 決定にもかかわらず・西側三ケ国は・その間に,   なうこととされている。なお,この時の人民請願運 既成事実をつくりだす政策を継続させ,分離した   動については,Karl Schultes, Volksbegehren,

西ドイツ国家を最終的に樹立するために必要な手   Volksentscheid und das dem。kratische Selbst一

(14)

bestimmungsrecht・im Neue Justi乞・1948・N乙6・ 今後,かなりの時間を必要とするであろう。本稿 S97fLを参風      は提示した課題への最初の,しかも部分的な試み 12}東ドイツの1949年憲法の制定過程・特に憲法委員  である。

      年10月から1年程,ドイツ民主共和国のフンポル{3)Otto Grotewoh1, Verfassung−Grundfrage der

Nation, in:Deutscher Volksrat−Informations一  ト大学に留学する機会を得たことによっている。

dienst,1. J9. NL 6, S.8.      その意味で・本紙上をかりて・ここに,お世話を

(4}KlassenkampfLTradition−Sozialismus, Ber一  いただいた「日本・ドイツ民主共和国友好協会」

1in 1975, S.528 L      の宇佐美誠次郎理事長ならびに一条元美事務局長

{5)Karl Schultes, Zur deutschen Verfassungsent一  に謝意を表する次第です。また,フンボルト大学 wicklun9・in:Neue Justiz,1950, Nr.6, S.186f.  国家・法学部のK・ヴュンシェ教授およびT・リ

(6)Ebenda・       一マン教授には,私のBetreuerとして,研究上

(7}Ebenda       のみならず日常生活の面でも一方ならぬご指導と

〔後記〕      お世話をいただいた。ここに,とくに記して両教

「はじめに」で提示した課題を完結するまで,  授に深く感謝したい。

参照

関連したドキュメント

政策上の原理を法的世界へ移入することによって新しい現実に対応しようとする︒またプラグマティズム法学の流れ

ている。本論文では、彼らの実践内容と方法を検討することで、これまでの生活指導を重視し

 処分の違法を主張したとしても、処分の効力あるいは法効果を争うことに

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

「社会福祉法の一部改正」の中身を確認し、H29年度の法施行に向けた準備の一環として新

[r]

ロッキード裁判の開始当初︑ とになろう︒.