【 論 文 】
Life に立つ哲学 ― 西田幾多郎と芸術 ―
浅 倉 祐 一 朗
はじめに一 ﹃善の研究﹄の頃 二 フィードラーとの出会い三 芸術観から芸術論へ
四 歴史的世界と芸術おわりに 〜可能性の開示〜
はじめに
﹁西田哲学 ︵1︶﹂の呼称をもって知られる西田幾多郎 ︵2︶の哲学は︑また﹁純 粋経験の哲学 ︵3︶﹂とも﹁自覚の哲学 ︵4︶﹂とも﹁場所の哲学 ︵5︶﹂とも︑延いては﹁絶対矛盾的自己同一の哲学 ︵6︶﹂とも呼ばれる︒これらがいずれも
誤った呼称でない事は︑西田哲学が一般的な意味での展開︑すなわち一から二へ︑二から三へといわば平面的に進展もしくは拡大してゆ
くものでなく︑螺旋的・重層的に刻々と深化してゆくものである事に依っている︒自己の脚下を掘りゆく覚悟は︑﹁学問は畢竟
life
の為な り︑life
が第一等の事なり︑life
なき学問は無用なり ︵7︶﹂という日記の記述にも表れている︒life
とは自己の生命であり︑またそれを育む日々 日常の生活である︒そこにこそすべての基点があると考えてよい︒そして西田は自らのlife
に添うようにしばしば芸術への言及を繰り返すのである︒さて︑西田哲学展開の時期区分には諸説あるが︑ここではもっと
も総括的な視点を有していると考えられる四つの時期区分︵純粋経験︑自覚︑場所︑弁証法的世界︶を採ってみたい ︵8︶︒まず第一期﹁純粋 経験﹂の立場は︑一九一一︵明治四四︶年に出版された﹃善の研究﹄及び一九一五︵大正四︶年出版の﹃思索と体験﹄にあきらかである︒
﹁純粋経験﹂とは主観と客観が未分化な意識の直接的状態であり︑﹁直接経験﹂と言うに等しいが︑単にたとえば初生児の無意識的・直接的
な経験を指すものではない︒そこから反省的思惟が立ち上がり︑意識的・意図的に現出させる事さえ可能と考えられる芸術家の無我の境地
までもが︑﹁知的直観﹂として広義における﹁純粋経験﹂に捉えられるのである︒いわば
life
という具体的現実に直接する経験論の理想的立場であったと言ってよい︒これに対して第二期﹁自覚﹂の立場は︑一九一七︵大正六︶年の﹃自
覚に於ける直観と反省﹄から一九二七︵昭和二︶年の﹃働くものから見るものへ﹄前編までとなる︒ここにおいて西田は︑単に理想的事態
として語られていた経験のありようを論理的・哲学的︵認識論的︶に一歩踏み込んで解き明かそうと努めた︒﹁直接経験﹂から反省的思惟
を経た﹁知的直観﹂まで︑﹁純粋経験﹂の幅は広いものであり︑それを統一するものとしてそれらの根底には根源的統一力としてのある普
遍的意識が考えられ︑この根源的統一力を徹しゆく先に﹁自覚﹂に至るのであるが︑しかしこうした﹁自覚﹂の体系は最終的立場にはなり
得なかった︒なぜならば︑当の﹁自覚﹂の体系そのものを成り立たせるところの根拠として︑いわば自覚の自覚 00000という立場がいかにしても
求められる事になるからである︒西田は︑結局それを﹁自覚﹂を超出したところにある﹁絶対自由の意志﹂に求めざるを得なかったが︑そ
れは論理的ならざるところのもう一つの﹁直観﹂と呼ぶべきものにほかならず︑新たな問題を提示する事となった次第である︒
第三期﹁場所﹂の立場は︑﹃働くものから見るものへ﹄後編から一九三三︵昭和八︶年の﹃哲学の根本問題﹄までとなるが︑そのよう
にして至った﹁絶対自由の意志﹂に論理的根拠を与えるものとして捉える事ができる︒すなわち﹁場所﹂の立場とは︑所謂対象認識として
の認識論を超え出たところの︑西洋的思考の枠組みでは捉えきる事のできない東洋的思考における新たな認識論の確立に向かう立場と言え
よう︒すでに﹁純粋経験﹂と言った時点から︑西田は所謂西洋論理的対象認識においてそれを見ていたのでない事はあきらかである︒未だ
稚拙な表現ながら︑主客合一等と繰り返し説くのはその故であった︒芸術への度重なる言及もまた︑自己の言う﹁純粋経験﹂が単なる従来
の対象認識ではないと自覚しながらも︑それを超え出る論理を明確に構築し得ないところに起因する面もあったに違いない︒﹁場所﹂の極
限である﹁絶対無の場所﹂︵これこそが真の﹁場所﹂であるが︶において︑﹁絶対自由の意志﹂は包容されその影として見られるものとな
るのである︒換言すれば︑﹁絶対無の場所﹂は﹁絶対自由の意志﹂を包み込み︑それを自己の影として見るものにほかならない︒﹁絶対無
の場所﹂は働くものを見るものとして把捉されるのである︒この見る 00
という事態は直観する 0000とも言われるが︑それは︑ここにおいては所謂 主述の関係における主語が見る 00000という意味はなく︑その主述の背後に 000000
ある述語的なるものが主語として見る 00000000000000000事を言わんとして直観する 0000と言
うのである︒﹁絶対無の場所﹂とは対象的認識においては無と言う以外にないものである︒その故に︑自己が自己において自己を見ると言
われるのだが︑それはすなわち︑直観するもの 000000と於てある場所 000000と於 0
てあるもの 00000が同一である事を意味するにほかならない︒このような考 え︑つまり︑﹁絶対無﹂という形ですべての事態の根底に無を考える思考は︑到底従来の西洋的論理において捉えきれるものではない︒西
洋において無とは︑
no th in g
という語からもわかるように物がないという不在を意味する否定的な事態である︒しかし西田は︑そこで言われる無とはあくまで有に対する相対的な無であり︑両者を成り立たせるところの絶対的な無=﹁絶対無﹂とは根底的に異なるものだと考え
たのである ︵9︶︒このようにして西田は︑いわば東洋的論理とも呼び得る独自の認識論をもって﹁絶対自由の意志﹂を﹁場所﹂の立場において
捉えたのち︑あらためて私たちにもっとも近い対象的世界の一般者から﹁絶対無の場所﹂へ至る過程︵往相︶を形而上学的に論じ︑さらに
その﹁絶対無の場所﹂から今度は現実世界へ至る過程︵還相︶を弁証法的に論じる事になる ︶10
︵︒ここにおける種々の一般者のありようは決
して単純なものではなく︑時として西田自身も錯綜している感を完全には否めないものの︑具体的現実世界と﹁絶対無の場所﹂との関連を
徹底して探求し叙述しようとする意図はあきらかである︒そして同時に︑﹁絶対無の場所﹂へと向かう階梯が自ずと形而上学的論を尽くす
事となるに対して︑逆に﹁絶対無の場所﹂から現実世界に向かう階梯が弁証法的となるところに︑次なる立場へのあらたな深化が予感され
るのである︒そして最終的な﹁弁証法的世界﹂ないしは﹁絶対矛盾的自己同一﹂
の立場 ︶11
︵は︑一九三四︵昭和九︶年の﹃哲学の根本問題 続篇﹄から最終論文の﹁場所的論理と宗教的世界観﹂までとなる︒﹁場所﹂の立場 における西田は︑現実世界を私 0と汝 0と物 0とによる相互限定の世界と考えていた︒物とは所謂環境を指し︑その意味で基本的にはあくまでも
私と汝こそが世界の基本的要素であったと言ってよい︒それが﹁弁証法的世界﹂の立場においては︑世界が私 0と汝 0と彼 0という三者として︑
すなわち無数の個物の相互限定という形で認識されるようになった︒もとより個物は﹁絶対無の場所﹂においてあったわけだが︑ここにお
いて個物と個物︑個物と一般という形での相互限定があきらかにされると︑普遍的意識︑﹁絶対自由の意志﹂という文脈で少なからず超越
的意味合いを内包していた﹁絶対無の場所﹂が︑より現実的に個物と個物︑個物と一般の媒介者としての役割を前面に出すようになってく
るのである︒西田はこのような歴史的現実世界を分析する事で︑時間的には﹁非連続の連続﹂と考え︑空間的には﹁永遠の今の自己限定﹂
と見︑そしてそこに生きる主体としての私たちのありようを﹁行為的直観﹂と表現した︒換言すれば︑一方向的・連続的に流れゆくように
思われる時間とは︑実は一瞬一瞬が独立した非連続として︑前の瞬間を否定的に成立する次の瞬間という形で連続する事態にほかならず︑
同様に空間もまた︑一瞬一瞬を永遠の今として︑その今が瞬間瞬間に自己を否定的且つ場所的に限定するところに成立するものにほかなら
ない︒もとよりこれらは別個の事態ではなく︑いわば空間は時間的に﹁非連続の連続﹂としてあり︑時間は空間的に﹁永遠の今の自己限定﹂
に包まれたものとしてあると言ってよい︒芸術的創作に託して語られる私たちの﹁行為的直観﹂も単なる行為ではなく単なる直観でもない︒
直観が自己否定的に行為に直接し︑逆に行為が自己否定的に直観に展開するところに︑両者が絶対の否定を介在させた即︵﹁即非 ︶12
︵﹂︶として
一続きに﹁行為的直観﹂と呼ばれるのである︒西田にとってこの歴史的現実世界は︑このような形で﹁弁証法的 0000世界﹂として初めて意味を 持つものとして立ち現われてきたと言えよう︒一即多・多即一︑内在即超越・超越即内在等々︑この﹁弁証法的世界﹂の立場は様々の表現
で繰り返し説かれているが︑そこにあるものは徹底した自己否定である︒その場合の自己とは私たちの自己のみを指すのではなく世界の自
己否定でもあるが︑しかしそれは私たちの自己が真の自己となり得るための自己否定であり︑世界が真の世界としてあり得るための自己否
定にほかならない︒それが西田の言う﹁即﹂であり︑最終的に﹁即非﹂と言われるところの真意である︒西田哲学の代名詞のように使われる
﹁絶対矛盾的自己同一﹂という表現が︑こうした世界の構造を論理的に捉えたものである事は言うまでもあるまい︒
冒頭に私は︑西田哲学とは﹁純粋経験の哲学﹂とも﹁自覚の哲学﹂とも﹁場所の哲学﹂とも︑そして﹁絶対矛盾的自己同一の哲学﹂とも
呼び得る事を書いた︒それはその思索が外に向かって展開するものではなく︑自己の底へ底へと重層的に深化しゆくものであった故であ
る︒処女刊行の﹃善の研究﹄は唯一体系的にまとめられた著作であり︑その内容が﹁純粋経験﹂に始まり﹁宗教﹂で終えられるという点も含
めて︑西田哲学全体の一種のアナロジーと受けとめる事も可能だが︑それ以後の論文は常に直前の論文を受けて書き継がれ︑その事自体が
また弁証法的に見えもする︒西田はこの﹁弁証法的世界﹂において弁証法的に自己の底に徹し︑所謂哲学としてではなく︑その思索そのも
のを自らの
life
として生きたと考えられる︒本稿では︑こうした西田の思索過程において芸術がいかなる役割を担ったのかを︑ウィリア ム・ジェームズ ︶13︵︑ジェーン・E・ハリソン ︶14
︵︑アロイス・リーグル ︶15
︵︑ウィルヘルム・ヴォリンガー ︶16
︵︑そしてコンラート・フィードラー ︶17
︵といった
同時代を生きた思想家たちとの連関で論じたいと思う︒
一
『善の研究』の頃
一八七〇年︑明治三年に生まれ︑一九四五年︑昭和二〇年終戦の二ヶ月ほど前に亡くなった西田幾多郎は︑一九世紀と二〇世紀を生き
たというばかりでなく︑明治︑大正︑昭和と続く日本という国を生きた ︶18
︵︒一八五四︵嘉永七︶年日米和親条約において長きに亘る鎖国政策
が解かれた日本は︑西洋諸国を模範とした近代化政策に転回したわけだが︑日本が近代化に開かれてゆく明治時代を︑幼年期︑少年期︑
青年期としてまるのまま 00000生きたという事実は殊の外重要であろう︒一九一一年︑明治四四年に刊行された処女作﹃善の研究﹄は︑その意
味で象徴的に︵西田自身と日本にとっての︶﹁青春の書﹂と呼ぶ事が許されるものかも知れない︒折しもその前年に︑西田は金沢の第四高
等学校から一年ばかりの学習院教授︵東京︶を経て京都帝国大学文科大学に助教授として任ぜられ︑時に鬱屈する事も少なくなかった地方
暮らしと別れを告げ︑名実共に哲学研究者として本格的な一歩を踏み出したところであった︒西田の︵思想的︶青春期と近代化に向う日本
の青春期である明治が重なって見えるのは私ばかりではあるまい︒本来﹃善の研究﹄の大部分は︑かつて教鞭を執っていた第四高等学
校の講義に関わるテキストであったが︑そのような意味からも︑そこには一〇代から三〇代に至る西田の純粋な経験と思索が︑あえて言え
ば十分な反省の猶予も惜しむかのように凝縮されている︒﹁純粋経験﹂が純粋経験のまま 0000000そこにあると言ってもよいかもしれない︒明治期の 近代化とは学問が学問として自律する過程でもあり︑﹁哲学﹂という言葉も﹁藝術 ︶19
︵﹂という言葉もこの時期に訳語として生まれたわけだが︑
それはすなわち︑西田がすでに確立されてある体系に則して﹁純粋経験﹂を語ったのではないという事にほかならない︒そこには︑﹁純粋
経験﹂を語る困難そのものに加えて︑それをいかに哲学という形で語るべきかという方法論の問題が常に並存しており︑﹃善の研究﹄はい
わば内容と形式のせめぎ合いのなかから著された著作であった︒この点はいくら強調してもし過ぎるという事はない︒
おそらくいつの時代にあっても﹁純粋経験﹂の事実を語る事は困難を極める事であろうが︑当時の西田においては語り口の指標さえ判然
としなかったに違いない︒荒波を超えて大洋を渡ろうとする強固な意志とは︑自らと生死を共にする舟そのものを作り︑その操縦法をも創
造的に身に付け得るものであらねばならなかった︒西洋の論理を︵それに対する批判をも含めて︶無意識的に既存のものとして認識してい
る私たちが考える﹁純粋経験﹂と︑主客対立する西洋論理的世界を自らのものとする一方で︑それをその底に超え出て今一度それ以前に返
ろうとする当時の西田の﹁純粋経験﹂との間には︑﹁純粋経験 0000﹂を考 00
える 00という事態も﹁純粋経験﹂に含めて見るところに︑大きな懸隔が
あると言わざるを得ない︒そして﹃善の研究﹄を読むとは︑少なくともこの懸隔に絶えずフィードバックしながら理解を深めるという事で
ある︒﹃善の研究﹄はこのような意味において確かに﹁哲学﹂としては荒
削りではあるものの︑しかしながらそこでは︑宗教︑道徳︑哲学︑そして芸術を貫通する実在のありようがしっかりと見定められている事
も事実である︒その事は︑私たち自身がその場に留まっていたのでは︑つまりあくまで対象的に﹁純粋経験﹂を捉えようとしていたのではお そらく気づかぬ事であろう︒私たちは︑私たちが 0000﹁純粋経験 0000﹂を考え 000
る 0というその事自体をも含めて︑西田と共に﹁純粋経験﹂を生きなけ
ればならない︒それは結局のところ︑西田と共に﹁純粋経験﹂から﹁自覚﹂へ︑﹁自覚﹂から﹁場所﹂へ︑そしてこの私たちが生きる﹁弁証
法的世界﹂へと帰着する道を一歩一歩進みゆく事である︒そこにおいて初めて﹃善の研究﹄は刻一刻とその深みを開示するにほかならない︒
もとより芸術の問題もその例外ではない︒﹁純粋経験﹂の立場における芸術への言及は︑それまでの西田の芸
術体験や知識が直接的に反映したものと言う事ができる︒哲学者である西田が︑おそらくすでにその時点で自らの哲学的核心であると直観
していたであろう﹁純粋経験﹂を語る上で︑その実際的検証をあきらかにしないままに芸術という事態を援用した事は︑おそらく無意識で
あろうが︑むしろその故に︑芸術に寄せる根源的な信頼を感じないわけにはゆかない︒西田はここで︑芸術とは何か 000000を問うていない︒芸術
とは﹁純粋経験﹂︑就中﹁知的直観﹂だというのは︑﹁純粋経験﹂を芸術を例に取り説明した事の裏返しに過ぎない︒つまり︑西田にはすで
に芸術に対する直観的な理解があった︒それは論理的なものではなかったが︑より正確に言えば︑論理化する必然は置き去りにされたま
ま︑ただ芸術作品という事態を直観していたのである︒それが︑﹁純粋経験﹂として自己の哲学を語るに際して︑無造作に援用・引用され
るところとなった︒しかしながら︑興味深い点は︑当時の西田が日常的にもっとも身近 に接していたと考えられるのは文学作品であるが︑そして実際具体的作家名が頻出するのも文学関連であるのだが︑にもかかわらず︑所謂
概念として芸術を引用する場合の多くは﹁美術﹂という表現を用いている事である︒つまり︑その﹁美術﹂という概念を裏書するところの
実際的な作家や作品がほとんど見える事なく︑ただ唐突に﹁美術﹂という言葉のみが出現するのである︒もちろん︑現在のように﹁文学﹂︑﹁美
術﹂︑﹁芸術﹂という言葉が一般に馴染み深く明確に区分されて使用されていたわけでないのは事実であるが︑すでに一八八七︵明治二〇︶
年には﹁東京音楽学校﹂や﹁東京美術学校﹂が設立されており︑芸術を論じる西田自身が﹁美術﹂と﹁芸術﹂を単に混同しているとは考え
づらい︒考えられるとすれば︑むしろ意図的に︑文学作品を中心とし 000000000
た 0諸芸術から感じ取った事態を概念化するに際して︑﹁美術﹂という
表現を選び取ったという事である︒西田が実際に多くの美術作品に触れていたとは当時の状況から考え
る事はできない︒それはやはり圧倒的に文学作品の方が多かったであろう︒それを﹁芸術﹂という表現と同様︑もしくはそれ以上にしばし
ば﹁美術﹂という表現に帰すのは︑ある意味で直観的判断と言う事もできようが︑今少し正確に言うならば︑それは読む 00︵文学︶︑見る 00︵美 術︶︑聴く 00︵音楽︶という人間の行為のなかから︑﹁見る﹂という事態により 00多く自己の﹁純粋経験﹂の真意を重ねていたと考える事ができ
る︒しかしここで西田は︑﹁見る﹂もしくは﹁美術﹂という事態の分析はもとより︑いずれの芸術作品についても掘り下げた具体的な解釈
という事をしているわけではない︒﹁純粋経験﹂の事実を芸術を用例にして補完するような形を取りながら︑実際には︑芸術は 000﹁純粋経験 0000﹂
だ 0と言うのである︒これは︑いわばAはBだ 0000と言うに等しく︑Aの内実もBの内実もそこではあきらかになっていない︒翻って見るならば︑
むしろそこでは︑一般に私たちが芸術に対して持っていると思われる共通したイメージ︑すなわち︑感覚的であるとか︑理屈ではないとか
という事が︑無意識の内に援用されているとも考えられよう︒西田が﹁純粋経験﹂を﹁純粋経験﹂として明確に認識した背景には︑
禅体験はもとよりジェイムズやエルンスト・マッハ ︶20
︵の具体的な影響があったが︑芸術体験もそうしたものの一つであった事は疑いない︒そ
れを再び芸術に帰す要因の一は︑おそらく宗教や哲学に対して芸術が持つ一般性に依るであろう︒そして西田の考える芸術の持つ一般性と
は︑読む事でも聴く事でもなく見る事にあったと考えられる︒もとより西田自身がこの事を意識していたと明言する事はできないものの︑
この時期の西田の思索が︑西洋の哲学や禅と共に︑しかしそれらとはまた異なる形で︑深く芸術に関わっていた事はあきらかである︒この
事は︑のちのフィードラーとの出会いを準備するものと言ってよい︒そして︑このような﹁純粋経験﹂の立場では︑反省的思惟の扱いと︑
それをも﹁純粋経験﹂の一と見る事を可能にする背後の普遍的意識が論理的に把捉されておらず︑結果的にそれが次の﹁自覚﹂の立場へと
導く事になるのだが︑それは同時に︑ただ直観的かつ︵ある意味では︶無自覚に言及されていた芸術のありようが︑一個の認識として論理の
俎上に載る事でもあったのである︒その意味において︑時に﹁純粋経験﹂の論理化の過程とも言われる西田哲学の深化とは︑芸術認識の論
理化の過程という側面をも併せ持つものにほかならない︒それは︑たとえば芸術との比較から宗教や道徳との特質を導き出そうとするなか で︑結果的に芸術のありようそのものを語る事に力が入れられるような場合が少なくない事からも言えよう︒
二 フィードラーとの出会い
﹃善の研究﹄︑及びそこに至る過程において︑西田は様々の芸術家
︵文学者︑美術家︑音楽家等︶の名前を挙げ︑また名前を挙げずとも﹁小説家﹂︑﹁詩人﹂︑﹁美術家﹂といった形で繰り返し芸術への言及を
おこなって来た︒ヘーゲルなどの哲学者が引用されるのはごく自然であるにしても︑一般に自己の哲学を語るに際して芸術への言及がこれ
ほどに多い事は珍しいと言ってもよいだろう︒もちろんこの事実がすぐに芸術的 000という事に繋がるわけではないが︑しかし少なくとも︑そ
の思索の核心部分である﹁純粋経験﹂という事態が︑芸術のありように深く関係していると言う事はできる︒
後年西田は自分の哲学が芸術的と言われる事に神経質になっていたところがあるが︑この時点では未だそのような事もなく︑エクス
キューズを介在せずに大らかにと言ってもよいほどに芸術を援用している︒そのようなところから︑﹃善の研究﹄を素直に読むならば︑私
たちは西田幾多郎という人間が芸術に親しく暮らしていたであろう事を容易に想像できるのである︒そして︑親しむ 000とは︑所謂論理的とい
う事とは別の事である︒﹁純粋経験﹂の論理化︑﹁自覚﹂への動因とは︑少なくともその一は︑親しみの対象としてあったものが論理の対象と
ならざるを得なくなったところにあったと言えよう︒西田は﹃善の研究﹄刊行直後にフィードラーの著作を読んだと考えられるが︑その意
味で芸術学者 0000コンラート・フィードラーとの出会いは必然であった︒すでに金沢を離れ東京を経たのち京都にあった西田は︑同時代の多
くの哲学を知る事となったが︑それらと同等に︑もしくはそれ以上にフィードラーに感化されたところの要因は︑自らの芸術認識に自覚
的になっていた証左であろう︒半ば無意識に言及していた芸術に対して︑﹁純粋経験﹂を哲学として論理化する必要を重ね見る事の内に︑
フィードラーの意味するところをより深化したところで捉え得たのである︒﹁純粋経験﹂を論理化するとは︑芸術のありようを論理化する
という事態を必然的に伴うものにほかならず︑とくに﹃善の研究﹄における芸術言及に着目し得る限り︑フィードラーを他の哲学者のなか
に埋もれさせる事はできない︒﹃善の研究﹄における芸術言及こそがフィードラーを呼び込んだと言っても過言ではあるまい︒その意味で
言う必然 00である︒とくに西田が︑芸術のなかでも美術作品に﹁純粋経験﹂を託す傾きがあった事から︑直接的には造形芸術︑すなわち﹁見
る﹂ところの芸術作品を論じたフィードラーとの出会いは着目されねばならない︒
フィードラーはあくまでも造形芸術について論を展開した︒彼が芸術学者である所以である︒しかしながらそれは単なる芸術のた
めの芸術理論ではなく︑生の根源から湧出する必然に導かれての芸術論であった︒フィードラーの代表作は
Ü be r d en U rs pr un g d er kü ns tle ris ch en T äti gk eit
で ︶21︵あるが︑それは決して単なる﹁芸術活動の 00000
根源﹂ではない︑﹁芸術活動の根源 00﹂である︒私たちの眼から見れば︑
フィードラーが必要以上にその論を造形芸術に限定しようとするのも︑フィードラー自身がその根源性に自覚的の故である︒先にも触れ たように︑むしろそれとは逆に︑後年の西田が自分の哲学と芸術との連関に厳しくあった事と対照的である︒フィードラーは自分は造形芸
術について語るのであってそれ以下でも以上でもない事を再三繰り返し︑西田は自分の哲学が芸術のありようと単純に直結して考えられる
事を憾んだのである︒しかしフィードラーのそれは︑芸術を透かして見た生︵
life
︶の根 源への問いであり彼自身の答えにほかならない︒西田がその芸術論をより 00根底的に実在に敷衍して論及するのは︑ご都合主義でないのはもちろんであるが︑安直な流用でもなく︑フィードラーの真意をそこに読み取ったがためである︒フィードラーにおける芸術︱哲学という連
関と︑西田における哲学︱芸術という連関は同一のものではないが︑しかし彼らと同様に私たちが常に直面しているこの
life
という事態から見直すならば︑それらが二であって同時に一なるものである事がわかる︒フィードラーは芸術というものを︑私たちに﹁不可欠な生の
表明 ︶22
︵﹂と捉えていた︒なによりこれが第一義である︒一般にその特色は︑純粋視覚としての眼から手への連続に見出されるが︑そして西田
もまたそこに﹁行為的直観﹂に至る能動性を読み取るのであるが︑しかし︑暗闇から明るみに向かう︑カオスからコスモスに向かうその生
の必然的ありようを見過ごす事があっては︑フィードラーの真意ばかりか︑西田自身の真意をも見失う事になってしまう︒
それは︑たとえばフィードラーの次の一文にあきらかであった︒﹁どの瞬間においても︑われわれは無に立ち向かっているのであって︑
われわれが存在するとか実在するとか呼び得るようなものは︑じつは刻々の瞬間に産出されているのである ︶23
︵﹂︒これは西田の言葉ではなく
フィードラーの言うところであるが︑私たちはここに西田の﹁永遠の今﹂や﹁非連続の連続﹂といった概念を読み込まざるを得ない︒もと よりフィードラーの場合は芸術を前面に出して論じる文脈での展開である︒ここで言われる﹁無
N ich ts
﹂を西田の﹁絶対無﹂に直結させ︑﹁実在
w irk lic h
﹂を西田の追究する﹁実在﹂と安直に重ね合わせる事はできない︒しかしながら︑フィードラーと西田との連関を︑純粋視覚と﹁行為的直観﹂との連関だけにおいて捉えようとする事は︑より重要な両者の共通点に目を瞑る事となるのはあきらかである︒
フィードレルの云つた如く我々が視覚に純一となる時︑そこに
無限の発展がある︑純粋視覚の世界は芸術的創作の世界である︒フィードレルは他の感覚に於ては此の如き発展を認めて居ない様
であるが︑程度の差こそあれ︑余はすべての感覚に於ても同様であると思ふ︒純なる知覚作用はすべて無限なる発展でなければな
らぬ︑意識内容それ自身の発展でなければならぬ ︶24
︵︒
フィードラーは芸術学者として 0000000造形芸術における可視性の問題を論じたわけだが︑西田は哲学者として 000000それを芸術以前のところから問い
直そうとしたと言ってよい︒それはフィードラーが芸術学者であり︑西田が哲学者であるからにほかならない︒両者の背景には同様に世界
に対峙する
life
の存在があるのである︒フィードラーにとって造形芸術表現も概念化も共に混沌たる世界からの離脱であったが︑芸術学者として前者の究明に徹底したに対して︑西田は哲学者としてその芸術を思惟の下に︑つまり直観を反省の内に捉えるべく悪戦苦闘した結果 が自覚の自覚 00000としての﹁絶対自由の意志﹂の立場であった︒純粋知覚は絶対的肯定として︑思惟は否定的側面として見られ︑肯定と否定の
統一︑直観と反省の統一が﹁絶対自由の意志﹂の統一とされるのである︒別言すれば︑認識以前の所与が視覚に純一になる事がすなわち芸
術であり︑それを経験的知識として認識するのが思惟という事である︒前者は﹁絶対自由の意志﹂の発展的方面である﹁純粋経験﹂とし
てあらゆる事態に敷衍され︑後者がその反省・統一的側面として捉えられるという形で︑両者の根底に﹁絶対自由の意志﹂が考えられるの
である︒西田はフィードラーの言を曲解したのではなく︑その芸術論と自己
の﹁純粋経験﹂に通底するところを見たのであるが︑その徹底した解釈は次のような表現にもなった︒
フィードレルの云ふ如く我々の精神作用がすべて表現的動作に発 するものとするならば︑道徳的行為は理性の表現作用であつて︑我々の道徳的社会は理性の芸術品に比すべきものであらう ︶25
︵︒
先の引用箇所では︑﹁フィードレルは他の感覚に於ては此の如き発
展を認めて居ない様であるが﹂と前置きをしているが︑ここではそのような事はいっさい省かれている︒正確に言えば省かれているのでは
なく︑フィードラーの真に言わんとした事はこうだという確信が見て取れる︒芸術論を通しつつも芸術を超え出たところで語られるこうし
た文脈は︑そこからあらためて芸術を捉え返す事にもなる︒フィードラーは芸術家にとってのこの現実世界を︑﹁つねに更新されてゆく努
力だけが存在 ︶26
︵﹂するいわば﹁無限の努力 ︶27
︵﹂の対象だと考えたのだが︑西田はその事を踏まえながら︑その都度作品という形で完成する芸術
的直観に対して︑最終地点を見定め得ぬ現実世界そのものに向かう道徳的意志にこそ﹁無限の努力﹂を見ている︒フィードラーの芸術論の
背景にある根源的事態を取り出し︑それを芸術を介せずに現実世界に重ねるところで︑﹁無限の努力﹂である﹁道徳の最終点における統一
は︑最早芸術ではなくして宗教でなければならぬ ︶28
︵﹂と説くのである︒哲学者としての西田はフィードラーがそれとしては論じなかったそ
の真意において捉えていると言ってよいだろう︒現実世界を混沌とした暗闇と見︑そこからの離脱を芸術の使命と考えたフィードラーであ
るが︑その特徴はそこに芸術家・準芸術家・非芸術家という形でヒエラルキーを想定したところにある︒それは芸術学者として造形芸術の
可能性に賭けた故である︒しかし︑西田はそのようなフィードラーの芸術論に対して︑芸術家を﹁真の我﹂と置き換える事で︑道徳の世界︑
宗教の世界へと深化させたと言ってよい︒﹁真の我﹂とは﹁創造的見者﹂であり﹁無限の発展﹂であり︑﹁動的統一﹂なのである ︶29
︵︒西田は
フィードラーの芸術論を単に芸術論として読んだのではなく︑その背後にある人間の根源的欲求を看取した︒
繰り返しのようになるが︑ここで言う人間 00とは芸術学者フィードラーにとっての芸術家 000である︒フィードラーはそこ︵芸術家︶から芸
術的直観に向かい︑西田はそこ︵人間︶から道徳︑そして宗教に向かわんとした︒西田が具体的に言及するフィードラーの芸術論とは純粋
視覚に限られているが︑それはあくまでも造形芸術において見る事 000を問うたものにほかならない︒それが西田自身の﹁純粋経験﹂に重ね合 わされ︑論の力点が直観的側面から行為的側面に明確に移行する事で︑フィードラーに対する理解もより 00本質的となったのである︒西田
は単にフィードラーの芸術論に傾いたのではなく︑むしろそうした芸術論を生むに至った根底にこそ共感し︑そこに自らの﹁純粋経験﹂の
真の可能性の一を見たと言える︒﹃善の研究﹄の時点で西田の芸術観は﹁純粋経験﹂に重なっていた︒
基本的に芸術とは﹁純粋経験﹂であり﹁純粋経験﹂とは芸術のありようであった︒そのような芸術の持つ重要な意義が西田を芸術学者
フィードラーに導き︑その芸術理論があらゆる実在の事態として捉え返された︑すなわちフィードラーにとっての芸術の事が西田における
実在の事に敷衍された︒もとよりそれは単なる西田の解釈なのではなく︑西田がフィードラーの真意を読み取り哲学者として開示したとい
う事にほかならない︒そして少なくともこの時点では︑西田の芸術観はフィードラーのそれに大きく重なっており︑純粋視覚の行為的側面
がたとえば次のように換言されていたのである︒
芸術の世界︑道徳の世界は︑此の如き純なる行為の立場に立つことによつてのみ︑現れ来たる創造的自己の世界と考ふべきであら
う ︶30
︵︒
三 芸術観から芸術論へ
﹃芸術と道徳﹄に至って︑実在界は﹁絶対意志が己自身を発展し行く無限の過程 ︶31
︵﹂として︑不断の創造的発展と捉えられた︒それは﹁純
粋視覚によつて芸術家が成形美術の世界を見出す ︶32
︵﹂ところの︑芸術的創造作用としての﹁行為的主観﹂であり︑﹁行為と結合した我 ︶33
︵﹂であ
る︒こうしたフィードラーからの直接的な影響は︑﹁場所﹂の立場になると︵少なくとも具体的には︶消失したかに見えるものの︑しかし
言語と芸術との連関がフィードラーの﹃芸術活動の根源﹄前半部を下敷きにしていると考えられるところなど︑むしろ潜在化していると
言ってよい︒従来のように純粋視覚に直接関わる部分でないだけに︑西田が﹃芸術活動の根源﹄そのものをいかに読み込んでいたかがわか
るところである︒また︑﹁自覚﹂の立場から﹁場所﹂の立場への転回は﹃働くものか
ら見るものへ﹄後編の第二論文﹁場所﹂であるが︑それに先立つ後編冒頭の論文﹁働くもの﹂において︑西田はフィードラーの名前を出す
事なく﹁純粋視覚﹂という表現を用いながら︑自らの考えとの相違を述べている︒それは︑フィードラーが芸術家と自然との関係を芸術家 000
からの 000﹁表現の関係
A us dr uc ks be zie hu ng
﹂ ︶34︵と捉えているのに対して︑西田は︑﹁表現﹂とは単に自己からというものではなく︑﹁映すものと
映されるものとが一とな ︶35
︵﹂るところに成り立つものであって︑それこそが﹁純粋視覚﹂であるとするのである︒ここにおいて西田は︑自己
の哲学への補強材として肯定的にフィードラーを持ち出すのではなく︑むしろ︑すでに自己の内に納められたその芸術理論を︑あらため
て批判的に捉え返すという方向性をあきらかにしている︒ところで︑先に︑フィードラーにとっての芸術家の﹁無限の努力﹂
を人間の道徳的意志としての﹁無限の努力﹂と見た西田は︑﹁場所﹂の時期にあっては︑道徳的実在を指して﹁永遠に未完成なる芸術品の 如きもの ︶36
︵﹂と表現している︒翻って見れば︑これは個々に完成する芸術作品に向かう芸術的直観に対して︑道徳的意志の無限性・未完成性
を言うものであり︑必ずしも芸術家そのものにおける非無限性・完成性を言うものではないと考えてよいだろう︒つまり︑フィードラーは
人間の本来的に持つ欲求を芸術学者として芸術家に託し︑芸術作品のありように収斂させたのであったが︑西田はここで︑その芸術家の本
来的なありようには従前と変らぬ共感を持ちながらも︑芸術作品に向かう芸術的直観にいわばフィードラーの不徹底を見ているのである︒
西田にとってそこにあるべきものは芸術的直観に留まるものではなく︑道徳的自己であり︑さらに宗教的解脱を経て至る﹁絶対無の場所﹂
でなければならなかった︒しかし別言するならば︑フィードラーが自分の論を造形芸術に限定すると繰り返すところの意味はこのあたりに
あったと考えられるし︑また︑西田自身がその事に気づかずにいたとは考えづらい︒むしろ︑フィードラーから得たものを自己の立場から
捉え返し︑あらためてフィードラーに返すというニュアンスがすでにここからは感じ取る事ができる︒
西田はこのようにして︑いわば道徳的直観と芸術的直観とを対照させながら︑また叡智的一般者における知的︵真︶・情的︵美︶・意志的
︵善︶という三者を比較しながら絶対無へと向かう過程で︑表現︵表現的一般者︶と行為︵行為的一般者︶というものにあらためて着目し︑
次のように言う︒
表現作用といふのも一種の行為である︑唯それは行為するものが自己自身の内容を見る行為である︒故に我々は芸術的作品を見る
時︑思惟して居るのではない︑表現しつゝ見て居るのである︒併 0
し 0更に深く行為的立場に入る時︑即ち深いノエシス的限定の立場
に立つ時︑もはや自己の行為的内容と見られない行為的内容の表現を見る︑即ち自己の内容として限定すべからざる深いものが自
己の底から自己を動かすのである ︶37
︵︒︵傍点引用者︶
引用文中段の﹁併し﹂まではフィードラーの芸術論を下敷きにしている︒フィードラーは芸術家とは﹁表現しつゝ見て居る﹂ものであ
り︑非芸術家である私たちはそれに倣う事で現実世界の混沌から離脱する事が可能だとしたのである︒フィードラーにおける芸術家・準芸
術家・非芸術家を西田は﹁我々﹂と置き換えたにほかならない︒そして後半部分でより深化した立場から絶対無へと向かうのである︒これ
はすぐにまた︑﹁更に深く行為的立場に入る時﹂という表現が﹁歴史的行為といふ如きものに於ては﹂という表現に置き換えられて︑次の
ように換言される︒
芸術的表現作用の如きものに於ては︑自己自身の内容を客観的に見るといふことができるが︑歴史的行為といふ如きものに於て 000000000000000
は 0︑我々はもはやかゝる意味に於て自己自身の内容を見るといふことはできぬ︑我々は歴史のイデヤを見ることはできない︑我々 は不可知的なる客観的精神に動かされて行くのである ︶38
︵︒︵傍点引用者︶
後半部分において︑先に﹁自己の内容として限定すべからざる深い もの﹂とされたものが﹁不可知的なる客観的精神﹂とされる事で︑自 0
己から 000という事態に対して世界から 0000︵もしくは絶対無から 00000︶という視 点の一端がより 00明確に示されている︒絶対無の自覚において見るならば︑芸術的生命や道徳的生命の根底には宗教的生命があるという事に
ほかならない︒西田は歴史の背後に宗教的生命を見ているのである︒こうして後期の西田の思索は歴史的世界のありように展開するのであ
るが︑そこに向かう足場の一として芸術が機能している事がわかる︒﹁場所﹂の立場の時期は一般に芸術との連関が薄れたように受け取
られがちであるが︑しかしこのような形でその思索の深層に入り込むように重要な役割を担っていると言ってよいだろう︒芸術も道徳もい
わば身体的限定においてこの歴史的世界に見られるものである︒身体における行為や表現を問うところにまずは現実世界が見出され︑そし
てその身体的自己の底は無限に深いものとして捉えられるのだが︑西田はそこを超え出るところに﹁絶対無の自覚﹂に至る宗教的生命のあ
りようを見ていた︒換言すれば︑芸術的直観は超えられるべきものとして︑ここでは宗教に対比的に語られるのである︒しかしながら︑私
たちはたとえば西田の次のような言を見逃してはならない︒
真の直接なる内的自己の統一はノエマ的方向にあるのではなくしてノエシス的方向にあるのである︒而してそれは場所的統一とい
ふ如きものでなければならない︒芸術的直観の如きものでも︑その底に事実が事実自身を限定するといふことがなければならな
い ︶39
︵︒
西田は﹁芸術的直観﹂も﹁場所的統一﹂でなければならないと言うのである︒別の箇所ではまた︑﹁芸術は愛に基く ︶40
︵﹂と言い︑﹁絶対無の
自己限定として︑即ち絶対に非合理的なるものの合理化として︑ノエシス的には絶対の愛といふ如きものでなければならない ︶41
︵﹂としている︒
西田は所謂芸術のありようと︑その本来のあるべき姿とを区別するかのようである︒この事は︑﹁場所﹂の立場における著作中もっとも重
要な論文の一に数える事ができる﹁私と汝﹂で︑フィードラーに言及される箇所と関係している︒西田はフィードラーの芸術論をあらゆる
経験に敷衍して論じて来たが︑ここに至ってそこに否定的契機を読み込んでいる︒すなわち︑従来の西田のフィードラー解釈は︑視覚作用
が身体作用に発展する純粋視覚という概念にあったが︑それはあくまでも能動的な構成作用としてのものであり︑決して否定的契機を介在
させるものではなかった︒フィードラー自身の言からもそれはあきらかであり︑そこにあるのは﹁接続﹂や﹁継続 ︶42
︵﹂であった︒その意味で
西田のフィードラー理解に齟齬はなかったと言ってよい︒しかしここに来て︑西田はフィードラーの﹁接続﹂や﹁継続﹂に﹁絶対否定を媒
介とする絶対弁証法 ︶43
︵﹂を読み込むのである︒西田にとって芸術的直観とは内面的連続作用であったが︑それは見
る事と描く事とが絶対否定を媒介にして無媒介的に媒介され︑非連続的に連続するものなのである︒こうした事態を換言するならば︑西田
はそれまでの自らのフィードラー理解を自己の哲学の深化に即して捉え返す事によって︑その本来あるべき姿︵と西田が考えるところ︶を
提示したという事であろう︒ここには︑先に言ったような︑フィードラーから得たものをあらためてフィードラーに返すという事態が︑よ り徹底された形で表されていると考えられる︒素直にその著作から読み取る事のできる姿と︑西田の考えるあるべ 000
き姿 00との相違を︑単なる相違として片付ける事はできない︒むしろフィードラーの真意はそこにこそあったと看做す事もできよう︒なぜ
ならば︑両者の根底には決して一掃する事のできぬ一なるところがある故であるが︑西田自身のフィードラーへの傾倒もそこに起因してい
る︒それは
life
という一語に集約されるところの︑有り体に言えば混沌からの離脱という事にほかなるまい︒もとよりここで言う離脱に負の意味合いはまったくなく︑実在を把捉するという能動的意義以外のものではない︒しかしまた同時に︑西田が自己の哲学の根底を﹁悲
哀﹂に置いた事実も忘れてはならない︒西田は
life
に対する悲哀の念を背景に︑芸術という一個の事態をある意味で思索の出発点の一とした事でフィードラーと出会い︑それが芸術と実在とのあいだに論理の橋を架けた︒両者︵芸術と実在︶は
徐々に表層的には関係性を変えながらも︑西田は芸術を絶えずその思索の深化に伴走させるようにして絶対無への階梯を降りたと言って
よい︒そうした過程において︑当初フィードラーの芸術理論と西田自身の芸術観や実在論は重なり合うものであったが ︶44
︵︑そして少なくとも
﹁自覚﹂の時期までは三者に決定的な相違点はなく︑西田の芸術観はフィードラーの芸術理論と同一視されるものとしてあった︒その意味
において西田のそれは未だ芸術観 0を出るものではなかったが︑﹁場所﹂の立場に至って︑西田は自己の思索の到達点から導出された芸術理論
をフィードラー芸術論の根底に読み込み︑むしろそれこそをフィードラーに本来的なものとして捉え返した︒ここにおいて従来の西田の芸
術観 0は明確な芸術論 0として顕在化する事となったのである︒
四 歴史的世界と芸術
直観と直結的に考えられていた﹃善の研究﹄における芸術観は︑﹁自覚﹂を経て﹁場所﹂に至り︑﹁弁証法的世界﹂として具体的現実世
界に立ち返るに及んで︑世界の一様相としての芸術という理解に落着した︒西田が︑﹁芸術的創造作用といふものから︑表現作用といふも
のが考へられるのでなく︑我々の行動が固表現的であるといふことから︑芸術的創造作用といふものが考へられなければならない ︶45
︵﹂と言っ
たり︑﹁真の芸術は却つてこの社会的・歴史的世界の限定として成立するもの ︶46
︵﹂だと言うのはそうした意味である︒翻って考えれば︑西田
はフィードラーの芸術論を実在という実在に敷衍する事から自らの思索を論理化する端緒の一を得たのであったが︑最終的な﹁弁証法的
世界﹂の立場ではそれが逆転したかのように︑世界の自己限定の一として芸術があり得ると言われる事になる︒もとよりそれが単なる逆
転などでない事は言うまでもない︒なぜならば︑繰り返し言うようにフィードラーの芸術論自体が本来的に自己と世界との連関から出発し
たものであった︒フィードラーは芸術のありようを絶対化してはいない︒それどころ
か︑自分は芸術学者としてとくに造形芸術についてのみ論ずると言うのである︒より正確に言えば︑世界にある様々の事象のなかから︑そ
の一として自分は自分の専門である造形芸術にのみ限ってその可能性を論ずると言うのである︒その背景にはなにより自己と世界との連関 があった︒このあたりの事は︑西田の側にのみ立っていたのではわかりづらいところであろう︒他の哲学・思想に対する西田の読解力には
ときに我田引水的な点があるにしても︑晩年の著作にまで言及が続くフィードラーへの傾倒は通り一遍のものでなく︑その本質を十分に把
捉していたと考えてよい︒眼から手へという形で︑いわば自己から 0000という構成作用に芸術の可 能性を見ていたフィードラーに対して︑﹁物が我となり︑我が物となる ︶47
︵﹂と言う西田は自己と世界との相互作用において芸術のありようを
捉え︑真の直観とは﹁我が物を限定し︑物が我を限定する ︶48
︵﹂無限の過程にほかならないとした︒西田にとって︑芸術があって世界があるの
ではなく世界があって芸術があるという事態は︑自らの哲学を芸術的であると批判する立場に対しても強く主張せねばならない点であった
が︑それは同時に︑フィードラーの芸術論を深化させたところに成立した︑西田独自の芸術論の確立でもあったのである︒
﹁弁証法的世界﹂の立場において︑西田は美術史学者リーグルに初めて言及する ︶49
︵︒それは︑内在的動因としての個々の﹁芸術意欲
K un stw oll en
﹂を連続的な様式発展史に飛躍的に直結させるところのリーグルの美術史解釈に︑自らの﹁非連続の連続﹂としての実在のありようを認めるからにほかならないが︑その背景には︑フィードラーの純粋視覚を可視的表現の︵再︶構成として認識し︑それをリーグ
ルの様式論に連続させるという理解があった︒つまり︑フィードラーにおいて未だ孤立していた芸術的動因が︑リーグルにおいて連続的に
捉えられ︑﹁非連続の連続 00﹂として新たに認識されたのである︒そして西田は︑芸術家の創造作用を世界の自己限定として捉え︑﹁芸術家
の作品は唯彼自身の創造ではない︒それは神来でなければならぬ ︶50
︵﹂とし︑芸術家からの方向性と神からの方向性とが一となるところに芸術
作品の成立を見ている︒この芸術のありようが行為即直観・直観即行為という形で︑両者が
自己否定的に一であるところの﹁行為的直観﹂としての一個の事態にほかならない︒ここで西田は︑決して芸術的直観こそが﹁行為的直観﹂
であると言うのではなく︑それは﹁或場合 ︶51
︵﹂に過ぎないとしつつも︑しかし﹁フィードラの芸術家の創造作用の起源の論﹂や﹁リーグルの
芸術的意欲 ︶52
︵﹂を繰り返し﹁行為的直観﹂の立場で捉えるところから︑その創造的ありよう 0000000を説くのである︒﹁行為的直観﹂とは︑歴史的世 界の創造的要素として 00000000歴史的生命が満ちた歴史的身体に起こるものにほかならず︑その意味において﹁この日常性の生命そのものが一面に 芸術的 ︶53
︵﹂であり︑﹁芸術的作品は生命の表現である ︶54
︵﹂とまで言われるのである︒
フィードラーの純粋視覚やリーグルの﹁芸術意欲﹂からは︑少なくとも素直に読む限り否定的契機を看取する事はできないのだが︑西田
はそこに自己否定を介在させた﹁行為的直観﹂のありようを半ば強引に読み込んだ︒それは︑フィードラーやリーグルの理論の根底に芸術
以前の事態を感得した事に加えて︑私たちの本来的創造性を論ずるのになにより芸術が適していると考えた事に依ろう︒﹁生命﹂と﹁芸術﹂
を結びつけた先の説明がその事を示している︒しかしながら︑それはフィードラーやリーグルの理論がそのまま世界の実相に重ね合わされ
るという事ではない︒それはあくまでもそうあるべき 000000というに過ぎない︒ 西田にとって﹁弁証法的世界﹂としてのこの歴史的世界の実相は︑﹁行為的直観﹂として︑そして﹁絶対矛盾的自己同一﹂として捉えら
れるものであるが︑そしてそれこそが宗教の立場なのであるが︑芸術家の仕事もまた︑行為的直観的に実在把捉に向かう限りにおいて︑﹁絶
対矛盾的自己同一﹂の世界における形成作用なのである︒西田が︑﹁私は人間の歴史的形成の立場から芸術を見るのであつて︑後者から前者
を見るのではない ︶55
︵﹂と言うのはその意味である︒ここにおいては︑すでに成熟したと言ってもよいような西田の歴史的形成の立場が見られ
ると同時に︑独自の自律した芸術論がある︒そして西田は︑ここからあらためて芸術に向かう事となるのであ
る︒たとえば︑従来﹁制作﹂と言われていた事態は後期においては﹁ポイエシス﹂という表現に置き換えられ︑﹁プラクシス︵実践︶﹂と共に
語られる事になるのであるが︑ポイエシスとは所謂主観的な作用などではなく︑そこを超え出た歴史的世界の自己表現として理解されてい
る︒つまり︑歴史的世界の自己形成が個物の働きを通して為されるという事であり︑世界が個物を否定的に自己形成の媒介とするという事
である︒このような個物と世界との矛盾的自己同一的連関において︑芸術もポイエシスの一として﹁歴史的世界の自己表現でなければなら
ない︑歴史的真実でなければならない ︶56
︵﹂とされる事になる︒さて︑西田は自らの最終的とも言える芸術的立場を﹁歴史的形成作
用としての芸術的創作﹂であきらかにしているが︑その冒頭近くで︑﹁芸術を我々の内的生命の表現として︑生命の形成として見るならば ︶57
︵﹂
と言うのであるが︑ここにこそ西田の芸術に対する根本的立場があると言ってよいだろう︒それは﹁弁証法的世界﹂の立場においてのみ
言われるところではなく︑﹃善の研究﹄以来通底するところのものにほかならない︒ここで西田は︑﹁芸術的創作を表現的形成作用として︑ 最も深く考へた人はフィードレル ︶58
︵﹂であるとしながらも︑それが未だ自己から 0000という主観にしばられたものであったのに比して︑リーグル
︵芸術意欲︶やヴォリンガー ︶59
︵︵抽象衝動︶はそこに世界から 0000という視点を持ったものと捉えた︒そして︑さらにそれらを包摂するものとし て︑すなわち﹁歴史的世界の自己形成 ︶60
︵﹂︑﹁歴史的世界の自己表現 ︶61
︵﹂としての芸術を論じ得たものとして︑古典学者ハリソンの﹃古代芸術と
祭式 ︶62
︵﹄に目を向ける事となる︒ハリソンは︑芸術とは﹁直接に人生から起らず︑われわれの祭式
と呼ぶことにきめたあの人生の要求と願望との集団的強調から起った ︶63
︵﹂とした︒芸術とは︑
life
から起こるところのem oti on
を︑祭式︵ドローメノン︶という形を経て表現するに至った事態なのである︒換言すればそれは︑個人的欲望から離脱したある種の平和な状態におい
て見る事のできる︑﹁高度に情 emotion緒化された直 vision視の写し ︶64
︵﹂を表現する事にほかならない︒そしてハリソンはこの事をより 00端的に﹁自我より脱
却 ︶65
︵﹂する事と説くのである︒芸術が本来集団的表現欲求である祭式に源泉を持つものとするならば︑その本質は個にではなく世界になけれ
ばならず︑その故に個人的欲求から離脱し解放されねばならないのである︒西田はこうしたハリソンの説く芸術のありようにおいて︑自我
からの脱却としてそこに個を通した世界の自己表現を読み取り︑それを﹁すべての原始社会の形態 ︶66
︵﹂に敷衍する事で︑ドローメノンとして
の祭式から宗教も芸術も生まれるというその見解に対して︑自らの矛盾的自己同一的歴史的形成の世界を重ねて見ていた︒しかしながらそ れは︑むしろそうした︵ドローメノン的︶世界の根底にこそ自己の哲学の必然を見出し︑すなわち︑ドローメノンから宗教が生まれるので
はなく︑宗教からドローメノンが生まれると逆転されるに至る︒西田にとって﹁絶対無の場所﹂としての﹁宗教はすべてを成立せし
める根本的立場 ︶67
︵﹂にほかならぬのである︒このような形で︑西田はいわばハリソンの芸術論を宗教論として超克する事によって再びヴォリ
ンガーに返るのであるが︑それはたとえば︑ヴォリンガーのリーグル理解の背景に︑﹁自己自身を救ふこと﹂であるとか︑﹁現実の不安を越
えて﹂というような形で ︶68
︵︑ヴォリンガー自身に内包されているフィードラー的側面を引き出す事となる︒つまりヴォリンガー︑リーグル︑
フィードラーと遡源しながら︑そこに一貫して流れる現実からの抽象衝動を掬い取ろうとするのである︒
私たちの自己が現実︵という不安︶を超えゆこうとするのは︑単に私たちの自己の主観性に依る事態ではなく︑世界の自己矛盾がむしろ
そのような形で私たちの自己を呼ぶと言い換えてもよい︒西田はそれがヴォリンガーの説く歴史的形成作用としての﹁抽象作用的衝動﹂の
真意だと考えており︑そこにおいて芸術は﹁一種の解脱 ︶69
︵﹂として理解される事になる︒ハリソンは﹁一切の大芸術は自我より脱却せしめ
る ︶70
︵﹂と言った︒西田はそれを︑﹁我々の身体が自己存在性を失つて単なる道具となる﹂と言い︑﹁我々の自己のポイエシスが天のポイエシ
スとなる﹂と捉え返すところにおいて ︶71
︵︑西洋芸術の文脈で言われる﹁抽象作用的衝動﹂を超え出た先に独自の芸術論を創出したばかりか︑
自らの哲学的核心さえも確信するに至ったと考えられる︒そして西田は︑フィードラー︑リーグル︑ヴォリンガーという展開
の底に通底するものを看取したその独自の芸術論において︑あらためてそうした西洋の芸術論に対象性の残滓を見出し︑真の解脱なるもの
はあくまで対象性からの完全な脱却において成り立つと考えるところから東洋芸術にその可能性を重ねる事になる︒
その空間は︑西洋芸術のように﹁自己に対する空間ではなくして︑自己の於てある空間と云ふことができる ︶72
︵﹂のである︒ゴシック建築の
空を突き刺す尖塔と黒楽茶碗との相違を︑物の空間を把握するか心の空間を把握するかの相違に帰し︑それぞれに非日常と日常を対照させ
る西田は︑後者を﹁平常心是道﹂と禅の公案に結びつけながら︑その芸術認識を日本文化の事 000000に収斂させてゆく︒そこでは︑本論文︵﹁歴
史的形成作用としての芸術的創作﹂︶が﹁日本文化の問題﹂と﹁国家理由の問題﹂に挟まれるようにして書かれたという時代背景も少なか
らず考慮されねばならないが︑ここにおいてはむしろ︑時局に直接するような問題を論じるに際しても︑西田が芸術に依ろうとするところ
に着目せざるを得ない ︶73
︵︒西田は︑西洋文化は歴史的生命の一個の特殊相に過ぎぬ事を西洋芸
術に重ねて論じ︑後者の根底にあるものを﹁芸術意欲﹂として︑そこから前者の根底に﹁歴史的形成作用﹂を見出すのである︒すなわち︑
芸術の根底に﹁芸術意欲﹂があるように︑文化の根底には﹁歴史的形成作用﹂があって︑西洋芸術も西洋文化もその特殊相の一に過ぎぬと
言うのである︒﹁芸術意欲﹂とは︑この意味においてすでに単に芸術の事ではないと言ってもよいかもしれない︒それは﹁東西文化の結合
点 ︶74
︵﹂としての日本文化︑日本精神に収斂されてゆくのであるが︑現実世界がある意味でもっとも現実 00を露わにする戦争という局面において 芸術が語られるという事態には︑西田における芸術の持つ意味の大きさがあきらかである︒
繰り返す事になるが︑﹃日本文化の問題﹄が出版されて一年後の一九四一年三月に﹁歴史的形成作用としての芸術的創作﹂は脱稿され︑
六月に﹁国家理由の問題﹂脱稿︑そして一二月七日が真珠湾攻撃である︒こうした時期に哲学者として 000000芸術に思いをめぐらせた事の意味は︑歴
史的世界と西田自身を結びつける紐帯としての役割を芸術が担うものであったという事にほかなるまい︒先に私は︑﹁芸術意欲﹂とはすで
に西田において単に芸術の事ではないと言ったが︑より正確に言うならば︑この時期の西田にとって芸術の事は単に芸術の事ではなかった 00000000000000000
のである︒芸術における表現・直観・創造という事態は︑歴史的世界における表現・直観・創造へと根本的に深化したと言ってもよい︒こ
の故に︑西田は表現即芸術とか直観即芸術という事を否定しなければならなかった︒なぜならば︑その事は西田の思索の出発点ではあって
も︑﹁純粋経験﹂︑﹁自覚﹂︑﹁場所﹂︑﹁弁証法的世界﹂と深化したところにおいては︑芸術そのものをも包み込む歴史的世界のありようとし
て捉え返されたのである︒芸術に出発したものがそれを超克し再びそこに至る軌跡は︑フィードラーからフィードラーに 000000000000000という軌跡にも重
なるものであろう︒出発点としての芸術と帰り着いた芸術がすでに位相を異にしているように︑﹃善の研究﹄刊行直後に出会ったフィード
ラーと﹁弁証法的世界﹂の立場におけるフィードラーも同じものではない︒私たちはそのような意味での芸術の展開︑そして転回から︑西
田哲学の一側面をうかがい知る事ができるのである︒