茨城大学教育学部教育研究所紀要20号(1988)ユ49−157 149
スポーツ教育学に関する検討
Zur Prob lematik Uber die Sportpadagqgik
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三 浦 忠 雄 Tadao Miuraは じ め に
今日,スポーツが極めて隆盛していることは誰もが認めるところである。例えば,文部省が秩序ある スポーツ(競技)活動の指針として定めているr児童・生徒の対外運動競技の基準」は,年を追うごと に緩和され3)中学生の全国大会はもとより,教育機関が直接所管はしないが,小学生の全国規模の競技 会まで出現してきている。また国際的な競技力向上への要請を背景に,早期訓練の一環として,一部の 種目であるが,中学生の国民体育大会参加も論議されている響また学校ばかりでなく,老人のゲートボ
ールや家庭婦人のバレーボール等,老若男女を問わず,スポーツ活動に参加し,運動に親しむ機運は,
増々強くなってきている。他方,従来にはなかったスポーツに関する様々な論議が出てきているのも事
ヨノ
実である。一つが,野球肘やテニス肘,膝の傷害等,激しい運動によるスポーツ障害の問題や,スポー4)
ツマンの突然死の問題等,健康増進や生活を豊かにするために行なうはずのスポーツ活動が,傷害さえ もたらす様々な危険性を持っていることが改めて指摘されてきている。もう一つが,スポーツの本質的 な問題への論議である。オリンピック大会のオープン化を中心としたアマチュアリズムの問題や,有名 選手の賞金問題は,スポーツ(特にアマチュア・スポーツ)を神聖視してきたこれまでの考え方を,根
底から揺るがすものとなった。
学校の体育もこの様な「スポーツの波」を強く受けているのは確かである。今や学校の体育の授業
(体育科)は「スポーツ科」と呼んでもおかしくない程,スポーツ種目化している。人間とスポーツや 運動実践との関係の変化により,学校の体育は変化をせまられてきた。すなわち,学校体育は「体育の 授業は活発な身体運動を手段とする教育である」という運動手段論から,生涯スポーツ論を背景にした スポーツそのものを学習する方向へ変容してきている?この様な状況の中で,「体育」あるいは「体育 科教育」はどのように対応していけばよいのであろうか。例えば,最近のとび箱運動でのいわゆる「法 則化輪論みても,体育は湘・授業等の実践やその方法論は,少しも近代イヒされていないという事 実を示しているのではないか。このことは,体育の科学的研究が叫ばれて久しい中で,体育の理論的研 究,特に体育実践に連結する体育教授学や体育方法学の明確な定立を得ていないこと,あるいは体育の 科学的研究の成果が,具体的な体育実践やその方法論に,有機的・有効的に反映していないことを示し ていると考えられる。本研究は,体育需要の変化や,スポーツ状況の変容を踏まえて「スポーツ科学」
の定立を足がかりにして,体育実践の理論的基盤である「スポーツ教育学」や「スポーツ教授学」のあ
り方,課題について考察するものである。
・茨城大学教育学部体育科
「体育」の変容
学校の体育は,社会のスポーツ状況を色濃く反映するようになっている。かつては,授業の中で,体 力づくりが強く主張された。近年は,いわゆる「生涯スポーツ」が叫ばれ,生涯にわたる自発的・自主 的な翻参加を特徴とする翻需要?・対応する鮪の授業づくりが求められるようになった.この考え 方は学校の体育にいろいろな影響を及ぼしたが,ひとつは学校の体育がより「スポーツ化」あるいは
「スポーツ種目化」したことだろう。生涯にわたりスポーツの生活化をはかり,スポーツに親しむ為の 能力や技術を学習するのが,学校の体育の目的となり,従って,学習する内容もスポーツ種目そのもの であり,教師が,児童・生徒の運動の教育の為に,直接,教材や運動財を工夫する領域はかなり少なく なっているのが現状である。つまり,わが国では「スポーツ科」とは呼ばないまでも,実質的には,ほ ぼ同じという状況になっている。従来の体育科(体育の授業)がスポーツを教育の手段としていたのに 対し,スポーツの自己目的性を重視する考え方に変化してきたのである。ちなみに,東ドィッや西ドイ
ツの高等学校では,1970年頃から,体育科の名称を「スポーツ科」と改めはじめた9)掃出によると?)西
ドイツのスポーツ化は「教科を構成している要素のスポーツ化の過程」と特徴づけられ,シュラークボ ールやファウストボールといった伝統的な遊びの位置づけが後退し,かわって,国際的な競技種目とし
て普及しているスポーツ種目が教材として取り入れられていった。
また,日本においては,スイミングクラブやスポーツクラブは,スポーツ産業として定着,普及し,
今日では,学校以外のスポーツ教育機関としての存在価値を十分に認めさせるまでにいたった。スイミ ングクラブ等のスポーツ指導は,誕生当初は,学校での体育学習内容と競合したり,学校の体育の補習 的役割を担ったりしたが,最近は,子供達は学校の体育との関連を特に意識しなくても,スポーツに挑
み,また親しむようになっている。一方,スポーーツクラブの早期トレー=ングシステムや,中学・高校
などの進学の避を越えた一貫体制は,優れた競技者の育成に画期的な成果をあげるようになり,先鋭的 なスポーツトレーニングによる能力開発の可能性を十分に示したばかりでなく,それは,中学→高校→大学という学校のクラブ活動を申心とした日本の競技者養成体制を根本から揺さぶるものとなった。い ずれにしても,スポーツクラブやその実践システムは,子供達にとって,スポーツを身近なものにし,
また子供達のスポーツ能力を相当に発達させてきた。そのような子供達の存在が,また学校の体育活動 をよりスポーツ化させていくのである。佐伯によるとρ長い間,「体育jは運動や身体に関する教育的 な営みのすべてを意味する言葉として使われ,家庭体育,学校体育,職場体育,社会体育等と分類使用 されてきた。従来は自発的な運動実践が少なく,教育的な意義による運動(すなわち体育)への参加が 主流であった。しかし人間と運動との関わりは変化し,多様化した。人々は様々な形で運動に参加する ようになり,その為,私的・個人的な営みと,公的・社会的な営みとを区別する必要が生じ,その結果
「体育」はより狭義にとらえられるようになった。現在では「体育」という言葉は,「運動や身体に関 する意図的・計画的・組織的な教育的営み」に限定されて使われるようになった。体育は「学校」や
「教育」の枠組みを越えて,多様化したニーズに応える必要が出てきたのである。そのf体育」の内容 の拡大を担って,出現してきたのが「スポーツ」であり,「スポーツ教育学」である。これからは,新
しい体育観や運動に対する考え方,新しい体育科教育への考え方が必要となってきたのである。
三浦:スポーツ教育学に関する検討
ユ51体育科学の変容
岸野によるどP身辺翻の教育学的研究の分野は,長らく「体育学」という名称で扱わtL,スポーツ 研究も体育学の一部に考えられていた。当時の体育学は教育学的研究を主流にしたものであったが,親 科学としての教育学が古いドイツ観念論の理論体系から脱皮して,教育科学的に拡大されるようになる と,体育学も体育科学的に拡がりを持つようになってきた。当時の体育学の「体育」とは,文字通りに
「身体教育」であり,体育学もすなわち「身体教育学」であって,それらは教育の領域以外の何もので
もなかった誓)スポーツ研究が,教育という枠から脱して,広い視野から考察されるようになるのは,第 2次大戦後である。石川によると1ρ)体育はそれまで,衛生学的・教育学的な視点から研究されてきたも
のが,1950年代以降自然科学,人間科学,人文科学等の様々な視点から総合的に研究されるようになっ た。1960年代に入ると,例えば,アメリカでは,学問的研究分野としての人間の身体運動の科学(Ki−nesiology)と,学校のプログラムとしての体育を概念を分けて考えようとしたり(C.ブラウン, R.
キャンディの研究,1963),1970年余に入ると,例えば,イギリスでは独自な学問分野としての人間
運動学(B:uman Movement Studies)の確立の試みが提唱され(J. D.ブルック, H.T. A.ホワイティ
ングの研究,1973)そして,ドイツ語圏では,体育の名称にかえて,スポーツ科学(Sportwissensh−
shaft)およびスポーーッ教育学(Sportpsdagogik) の名称が提唱されるようになってきたのである。
日本でスポーツ科学という名称に対する関心は,東京オリンピック大会前後から急激に高まってくる。
東京に「スポーツ科学研究室」が設立されたのはエ961年で,1963年にはそれが,日本体育協会の「ス ポーツ科学研究所」に発展した。西ドイツでは,フランクフルト大学に「スポーツ科学」という名称の
講座が1965年に設置された94)
スポーツ科学とは「身体運動を対象とした科学である。すなわち,スポーツ的運動と,そのような運 動をする人間に関する専門諸学から構成された科学であり,自然科学と社会科学にまたがる総合科学で
あるls)」と基本的に考えられる。すなわち,人間の行動様式としての,あるいは社会現象,文化現象と してのスポーツを,科学的・理論的に解明する為に,専門諸学の知見を統合していく研究体系である。
岸野の資料によると,スポーツ科学を支える専門諸学は,解剖学・人類学・生物学・生態学・民族学・
歴史学・衛生学・教育学・哲学・心理学・生理学・社会学等である。そして,それ等専門諸学との関連 で,スポーツ科学は,スポーツ医学・スポーツ教育学・スポーツ心理学・スポーツ社会学・スポーツ人 間学・スポーツ哲学等の分科専門学を保有する曾フエッッは,エルバッハの言を示して「スポーツ科学 は,発達の過程における心身の統一として,人間の身体的完成化の生物学的・社会学的法則性を研究す るのであり,本質的特質とこれらの過程の因果的連関を明らかにし,それらを社会の実践において検証 17)し,概念,カテゴリー,理論の形式において明示するのである」と,スポーツ科学の概念を説明してい る。エルバッハは,スポーツ科学を大きな複合性を持った多層科学ととらえ,その構成を3領域に分け
て,次のように示している。
(1)社会科学的基礎部門(スポーツ教育学,スポーツ心理学,身体文化の歴史など)
(2)身体文化(K6rperkultur)の哲学的問題,スポーツ社会学,科学的身体文化の組織 (3)自然科学的基礎部門(機能解剖学,スポーツ生理学,スポーツ医学,生力学,生化学)
スポーツ科学事典によると璽スポーツ科学は「実践面で実現可能な分野」において,必要な知識の理 論的研究を課題としている。そして,その為にスポーツ科学の中で,運動実践に連結する,運動学・生 力学・トレーニング学・組織論・教授学・方法論のような特別な理論分野が成長してきている。
このように,従来の「体育」の概念から離れて,人間の身体運動を自然科学的,および心理学・社会 学的に追求しようとする動き,またそこに明確な人間的意味を含めて,これをあらゆる有効な側面から 追求しようとする動きが,新しいスポーツ科学の方向である曾石川の資料によると,西ドイツでは,ス ポーツの概念を「人間が営むすべての形態の運動」であると規定して,これを教育学的・科学的に研究 しようとする新しい構想が打ち出されてきた。例えば,ハーグ(H.Haag)は,スポーツ科学の構想と その発展過程を明らかにしたのであるが,そこでは,スポーツを科学するという場合には,スポーツは 単に運動競技とか,競技的スポーツだけでなく,すべての身体的活動を含むものとし,「スポーツ科学
は,スポーツの現象に関連する人文科学,芸術および科学を含む」という考えを提唱した90) H本のスポ
ーツ研究は,自然科学的領域の研究に傾斜を強めている。身体にいいからスポーツをする式のスポーツ 効用論から離れて,今後はスポーツのもつ人間学的・社会学的側面についても研究が進められるべきである。
スポーツ教育学の発展
従来の「体育学」を越えて,総合科学として,ドイツ語圏を中心に「スポーツ科学」の考え方がおこ ってきたが,そのスポーツ科学の申の一つの専門分科学として「スポーツ教育学」(Sportp5dagogik)
という概念が生まれてきたgi)スポーツ教育学は,従来の体育理論(Theorie der Leibeserziehung)を
前段階あるいは基礎としているものであるが,体育の概念が,本来学校という限定された場所で行なわ れる身体運動を通して教育の課題を担うのに対して,スポーツ教育学はクラブや競技団体等のような学 校以外のあらゆるスポーツ実践の場における教育上の出来事や行為の科学的研究を含んでいることが特 徴的である劉ところで「スポーツ教育学」と「体育(教育)学」との関係についてであるが,例えばド イツ語圏では,「スポーツ」と「体育」は明確に概念の区別がされているが,それに比較して日本語で は「スポーツ」と「体育」は明確に区別されておらず,いろいろな意味で混乱をもたらしている。その 原因のひとつは,日本語の「体育」は相当に広い意味に捉えられているからである。一般的に体育の概念には,狭義のphysical education(身体教育)から,ヨ・一一 Mッパで用いられる広義のphysical Cal−
ture(身体文化)まであるが,日本語の「体育」は広狭両義に用いられ,同じ「体育」という語で,広
狭の区別を断わりなしに使用した場合,原語との混乱は避けられない劉璽方,.「スポーツ」という術語 もまだ明確な統一見解を得るまでには至っていないのが現状である。広義の体育(physical culture)
の下位概念としてスポーツを捉え,それをTurnenやGy mnastikのような概念と並べて,身体運動の具 体的な形態として狭義に規定する場合もあるし,これに対して,スポーツ教育学,更にスポーツ科学に おける「スポーツ」の場合は,それを身体運動の下位概念として狭く考えるのではなく,Turnenも Gymnastikも,それに狭義のスポーツをも含める広義の運動概念として捉えられているのである㌍
ウィドマー(K.Widmer)によるとそ6)若い世代をスポーツ活動へ促し,スポーツ活動の能力を持たせ
る,という学問的事実分野に対して,一般的に承認された用語はまだ無く,例えば西独では,スポーツ教育学(Spσrtpadagogik),体育(Leibeserziehung),身体修練(LeibesUbungefl)の用語は,しばし ば同義語をして用いられている。 (東独では体育〔K6rpererziehuag〕で統一されている)。ウィドマー によると,ヘッカー(Hecker)は,体育や身体修練の語を用いないで「スポーツ教授」(Sport㎜terri−
cht)という語を用いている。ヘッカーは,「スポーツ教育学」を包括的概念とし,「スポーツ教授」を 学校教育の教科名とするよう提言している㍗更にヘッカーは,体育や身体修練の概念を,「スポーツ,
三浦:スポーツ教育学に関する検討 153
スポーツ教授,スポーツ教授学,スポーツ方法学」に代えることを要求しているが,ウィドマーは,そ れぞれの概念のレベルが混在することに批判的で,特にスポーツ教授におけるカリキュラム等の問題は 教育の意図を切り離すことができないので,ウィドマーは「スポーツ教育学」を上位概念として用い,
「スポーツ教授学」を,スポーツ教育の形式的目的を具体的に限定する分野という意味において,総合
的なスポーツ教育学の一部であると解釈することを提言している18)
「体育」では,身体的要因に力点をおいていることは明らかである。しかし,体育という名称の中に 含まれているこの力点を強調しすぎると,誤った理解に陥る危険があるとする指摘がある。すなわち,
体育で問題とすべきは,あたかも,力・スピード・持久力・呼吸器と循環器の能力,そして測定できる スポーツ能力だけであるとすることになりかねない。体育に対するこのような誤解から,体育を一段価 値の低いものと見なされることも稀ではない。「習練」(Ub膿g)は,教授学的な概念であるが,教育
という大きな営みのごく一部分をとらえているにすぎない。習練は,お手本通りに繰り返して,条件づ けの結果,自動的にできるようになることを意味している響
ウィドマーは,「体育」と「身体修練」という用語が誤解と性急な評価の可能性が大きいのに比して
「スポーツ教育学」という表現は,理論以前の誤解を受ける度合いが少ないとしている。何よりも,こ の表現は包括的である。スポーツ教育学という用語は,原理的理論的な教育学的思考はもちろん,実践 面の内容も含んでいる。すなわち,人間学的な課題設定,目的設定の問題点,カリキュラム構成,更に スポーツ活動によって青少年の社会性と個性を育てようとする努力などを含んでいる。青少年をスポー ツ活動に促し,スポーツ活動の能力を得させようとする教育的努力のすべてを「スポーツ教育学」の語 に含みこませることができると主張している。メルロ・ポンティ(Merieau−Ponty)やシュトラウス
(Str aus)等の解釈が示すように,人間学的な問題提起においては,スポーツ活動は,身体の教育より
はるかに多くのものを含んでいるのである妙「スポーツ」を前面に押し立ててのスポーツ教育学が定立する前提として,スポーツのもつ教育的側 面(意義)について確認されなければならない。ウィドマーが言うように,スポーツ教育学の研究上の 第1の目的は,スポーツ行動の中に陶冶可能性が含まれているか,どのような場合に含まれているのか
またどのような仕方で含まれているのかを問うことである誓)スポーツとは何かという大命題を論ずるの は本論の役割ではないが,窯出によると解)学校の体育のスポーツ化が進められた西ドイツでは,技能主 義に陥ることを危惧しての,「身体の再発見,あるいは身体の復帰」「身体経験としてのスポーツ授業」
等の主張がおこっている。例えば,フンケ(J.Funke)は,人間の身体が経験と情報によって築かれて いき,スポーツは身体を築いていく可能性を認め,スポーツ授業のテーマとして「身体の経験」を位置
づけて,スポーツが与え得る経験の可能性を次の様に示した。それは(1)身体の経験,(2)身体を用いてな される経験,(3)他人を介してなす自らの身体の経験,(4)自らの身体を用いてなす表現の経験並びに他人 の身体言語を解する経験,(5)文化の経験である。すなわち,運動が本来備えているであろう豊かな意味
の世界を認識し,技術の学習を記録の向上や競技とのみ結びつけて求めるのではなく,運動並びに身体 が人間に対してもつ広汎な意味の世界を視座に入れて,技術学習のあり方を今一度考えていこうという ことである。高橋は,スポーツの本質的価値を評価し,そこから新しい体育理論を打ち立てようとするアメリカのシーデントップ(D.Siedentop)の思想をとりあげている警)シーデントップは,これまでの
体育理論(身体の教育,身体による教育,運動教育等々)の限界を明示するとともに「プレイ教育としての体育」を構想した。体育教育としての意味の探求を,Fitness(体力)でもなく,Acti Vi ty(活動)
でもなく,Movement(運動)でもなく,プレイ (Play)に求めた。体育諸活動はプレイという本質的
特性に関わって意味形成の可能性をもつと考え,そこから体育諸活動は本質的に価値があると構想した。
シーデントップは更に,カイヨワやマイク・エリスによるプレイの発達性から,プレイが教育の対象と して,学習を必要とする論拠を示した。プレイとスポーツの概念については厳密に考えなければならな いが,「教育的」概念を越えるという意味で注目していくべき考え方である。ウィドマーは,スポーツ を通して学ぶことができる,教育的な側面についてまとめている響自然科学だけに傾斜しない人間学的
総合的な面でのスポーシの効果について論じている。 (表エ参照)
まとめにかえて(スポーツ運動学への展開)
社会のスポーツ指向を背景に,「体育」から「スポーツ」「スポーツ教育」への傾斜を強めていること を論じてきたが,,このスポーツ教育への主張は今後,定着,発展していくものであろうか。近藤はls) ge
近のスポーツ教育の主張に対して「このところ,特にわが国で活発なスポーツ教育の論調が,必ずしも スポーツの本質に視点を据えてではなく,もっぱら未来社会に向けての生活防衛的な生涯スポーツ論や 前提を措置しないスポーツ大衆化論の発想によって抽象化されているのが気がかりである」と述べ,ス ポーツに固有の文化的価値をふまえてのスポーツ教育が体育科教育の中核として教育課程の中に正しく 位置づけられなければならないと指摘している。更に近藤は「一般にスポーツは,人間固有の身体運動 を,特に遊戯性や技術性を基軸にして,社会的なものに整序した文化の一つのジャンルである」と捉え た上で,スポーツの文化的価値の側面,そして教材としてのスポーツの在り方を追求する必要性を主張 している卸小林633)近年のスポーツ指向に関して「たとえ,教科名を体育からスポーツに変えたとして も,いや逆に,変えればなお一層スポーツを,とりわけその技術を自己目的として教えるのだと云った 独善的な教科論が横行する危険性が予想される」と懸念を示している。小林は,共産主義国の論調だと 断った上で,東ドイツにおけるスポーツ授業の第一の課題は,スポーツの特性・本質をふまえてもなお 身体基礎形成(K6rperliche Grundausbildung)にあることを紹介している。やはり小田切のように璽 スポーツ教育の主張が,これまでの体育の授業に対してどのような独自性をもつのか,これまでの体育 の授業をどのように評価するのか,体育の授業がスポーツの授業に変るとみなす場合,それは授業の原 理が変ることを意味するのか,たとえば教育の原理でなくスポーツの原理というべきものに基づくのか 等の諸問題が討議されるべきとの指摘は当然のことであり,今後十分に検討していかなければならないだろう。
日本において「スポーツ教育」が発展していくには,様々な観点からの検討が更に必要である。特に スポーツ教授学的立場からみると,スポーツ運動学(Bewegungslehre des Sports)への基本的な考え 方を定着させる必要がある。人間の運動に係る諸現象は,運動学(Bewegungslehre)の研究対象となり 運動学はスポーツ,体育運動の科学の中核をなす重要な意義をもつものである卸その先達となったのは
マイネル(K.Meinel)の「運動学」(Bewegungslehre,1960)やフェッツ(F. Fetz)の「体育運動の 運動学研究」(Beitragen zur Bewegungslehre der Leibes肋ungen,1964)である。しかし, H本に
おいては,多々指摘されているように,「運動」に対する概念規定が曖昧であり,BewegungenもUbu−ngenも区別がなく,従って運動学の確立も遅れていると言わざるを得ない。マイネル等が構築した運 動学は,実践の場の運動問題を捉え,現象学的・人間学的立場からの構造記述に特徴を持つものだが,
しかし残念ながらわが国においては,運動モルフォロギーを,外形上の可視的な運動フォームの単なる 記述と取りちがえ運動の全体構造を問題にした「運動ゲシュタルト」の記述科学であることの認識は不
三浦:ス選一ッ教育学に関する検討 155
十分なままである曾金子の指摘ではSi)わが国では,個々の運動種目の方法学が,例えば陸上競技運動学
や舞踊運動学として名称づけられ,種目別に独自の運動方法学として発展している。 (H本ではしばしば,方法学〔Methodi k〕を運動学として表わすため,運動学〔Bewegungslehre〕の立場を曖昧にしてい る)しかし,ヨー一一 mッパのように,一般体育運動方法学の様な考え方が浸透していないため,スポーツ
の種目の枠を越えての討議の共通の場が持てないのが現実である。ましてや,一般体育運動学(allge−meine Bewegungslehre der Leibesttbungen)やスポーツ運動学の的な基本理論,一般理論は,金子等
の先駆的研究により,ようやく端緒を開いた段階であり,種目を越えて,スポーツの根幹である「運動 そのもの」について共通理解を得ることは大変に難しい状況になっている。この点に関しては,東ドィ ッの運動学専門グループのスポーツ運動学(Sportliche Motorik)についての論文が一つの方向を提示している曾それによると,学校におけるスポーツであれ,競技スポーツの選手のトレー一・;ングであれ,
スポーツの選手のトレーニングであれ,スポーツ教育学上の作用を効果的に及ぼそうとするのであれば スポーツ運動系(SPQrtliche Motorik)に関する知識・運動系の諸過程やその合法則性に対する深い洞 察が必要となる。そして身体文化とスポーツ活動の自標を達成するためには,スポーツ指導者に与えら れた課題は何と言っても,運動習熟と運動協調系能力の養成にある。すなわち,スポーツの実践におけ る技術一運動協調上の達成能力の習得とその教授学的諸問題こそが,スポーツ科学という研究・教授 領域の第一の課題なのである。そしてそれは,スポーツ種目の枠を越えた,スポーツ運動の基本理論を
ふまえてのスポーツ教授学定立の可能性を示しているのである。
スポーツは環境に適応して行う,能動的な身体性の独特の形態である。
1.スポーツ活動の基本 スポーツの各分野は, それぞれの決められた運動の順序をもっており,その順序は学 的特徴としての運動 習できるものであり, 試合,演技などの場において自由に使いこなさなければならな
い。
1)身体的機能と精 両者の有機的連関は,スポーツ教育学の精神身体的観点を構成 神的機能
する。2)スポーツと社会 スポーツ活動は社会的な相互作用の中で行われるかぎり,この 的共世界 点に対して,社会教育学と政治に関する観点から光を当てる必 要がある。 ※ 2.スポーツ活動の相互 3)スポーツと価値 規範,価値づけ,目標設定は教育学的考察の対象,スポーツ教
依存面 の領域 育学の倫理的側面を構成する。 ※※
4)学ぶ者と教える スポーツ活動は,学習過程をふまえて行われる。すなわちスポ 者 一ツの目指す行動は,学習しなければならず,.また教えなけれ
ばならない。
5)スポーツと公共 スポーツ活動が公共的な施設・団体の支持と規制の中で行われ 的な施設・制度 その運営や組織のあり方によって制約されるかぎり,スポーツ
教育学には,組織・制度に関する視点が含まれる。
43)
表(1)スポーツのもつ教育的な側面
※具体的には次のような社会的位置関係を示す。○トレーナー〜競技者関係,○先生一生徒関係,○試合における相 手方との関係,○スポーツ以外の活動におけるスポーツマン,○スポーツに対して与えられる価値づけの下にある スポーツマン等。
※※具体的には,○健康保待対病気,○フェアプレイ対スポーツマンシップの欠如.○没我的協力対好き勝手,○集 二丁散漫,○傾注対気まま,○情熱的打ち込み対怠情,○熟達対未熟,自制対エゴイズム,○謙遜対不遜等。
注
1)浦井孝夫「対外運動競技の基準の変遷」『健康と体力』第19巻(1987)pp.11−13 2)朝日新聞 昭和62年5月13日版記事
3)中嶋寛之『スポーツ外傷と障害』(文光堂,1985)pp.249 一405
4)川原 貴「スポーツによる内因性突然死」『月刊トレーニング・ジャーナル』第8巻 第83号(1986)
pp.32 一一 34
5)佐伯聡夫「体育科教育学の必要性」成田十次郎,前田幹夫編著『体育科教育学』(ミネルヴァ書房,1987)
pp.6−7
6)長澤靖夫「跳び箱論争をめぐる焦点」『体育科教育』第35巻 第3号(1987)pp.38−43 7)佐伯聡夫,前掲書 .p.6
8)西 専一「体育授業のスポーツの現状と問題」佐伯聡夫編著『スポーツ社会学講座・現代スポーツの社会学』
(不昧堂出版,1984)p.61
9)岡出美則「ドイツのスポーツ教育学」『体育科教育』第33巻 第14号(1985)p.79 10)佐伯聡夫「体育科教育学のプロフィール」成田十次郎,前田幹夫 前携書 p.2
11)岸野雄三「スポーツ科学とは何か」『講座・現代のスポーツ科学,スポーツの科学的原理』(大修館書店,
1980) p.87
12)岸野雄三,前掲書 p.88
13)石川 旦「体育・スポーツの学問的研究の分野」浅見俊雄,宮下充正,渡辺融編『現代体育。スポーツ大系・
第一巻』(講談社,1984)pp.135 ・一 137
14)岸野雄三「スポーツ科学とスポーツ史」『体育学研究』第19巻 第3,4合併号(1974)p.169 15)岸野雄三,「スポーツ科学とは何かjp.89
16)同書,p.90
フェッッの文献では,分科専門学として,このほかに,スポーツ生物学,スポーツ生力学をあげて,それらの 拡大と分化はいつでも可能であると説明している。(F.フェッツ著,金子明友,朝岡正雄訳『体育運動学』
不昧堂出版,1979,p.23)
17)F.フェッツ;金子明友,朝岡正雄訳『体育運勤学』(不昧堂出版,1979)pp.23−24
18)岸野雄三,日本語版監修『スポーツ科学事典』(Sport輌sseaschaftliches Lex ikon)(プレスギムナスチカ 1981) p.200
19)石川 旦,前掲書 p.137
20) 同書,p.13721)岸野雄三「スポーツ科学とは何かj p.94
22)岸野雄三rスポーツ科学事典』p.202
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23)岸野雄三「スポーツ科学とは何かj p.95 24)岸野雄三「スポーツ科学とスポーツ史」 p.168 25)岸野雄三「スポーツ科学とは何かj p.95
26)K・ウイドマー;蜂屋 慶,谷井 博,窪島 務,川村覚昭訳『スポーツ教育学』(東洋館出版社,1980)
p. 27
27)同書,pp. 28 一 29 28)同書,pp.30 一一 32 29)同書,pp. 30 一一 33 30)同書,pp.27 一一 31
31)同書,p.13
32)岡出美則,前掲書 pp.79 一一 80
33)高橋健夫「プレイ教育としての体育」「体育科教育』第29巻第1号(1981)pp.53 一・ 56
34)K・ウイドマー,前掲書 pp.13 一・ 19及びpp.192 ・一 19335)近藤義忠「体育科教育とスポーツ教育との間」「体育科教育』第29巻第1号(1981)pp。16 一 17
36)同書,pp.17 一一 18