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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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(1)

久留島武彦と奈良に関する史的考察   ─ 寧楽女塾 といさがわ幼稚園を中心に─

著者 渡辺 良枝, 松川 利広

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 56

号 1

ページ 71‑87

発行年 2007‑10‑31

その他のタイトル Kurushima Takehiko in Nara: An Historical Analysis Based on the Records of the

Narajo‑juku and Isagawa Kindergarden

URL http://hdl.handle.net/10105/640

(2)

1.はじめに

久留島武彦(

1874

(明治

7

)年

6

19

日〜

1960

(昭和

35

)年

6

27

日)は大分県玖珠郡森町(現在の玖珠町)

に、父通寛

みちひろ

、母恵喜の長子として生まれ、祖父は豊後 森藩最後の12代藩主通靖

みちやす

である。巌谷小波、岸辺福雄 と並ぶ、日本三大口演童話家とよばれ、明治中期から、

大正、昭和にかけて全国を行脚し、子どもたちに物語を 語って聞かせる口演童話

(1)

を行った。久留島らが開拓 した口演童話は大正期に飛躍的な発展をみせ「児童文化 の一大勢力」

(2)

となる。外山滋比古は久留島のことを

「近代百年で最も優れた話術」

(3)

と讃え、司馬遼太郎は

「口演童話の草分けをなした巨人」

(4)

と呼んだ。

元来、久留島は軍記物の作家としてデビューした。

1895

(明治

28

)年、日清戦争従軍中に書いた軍隊体験 記『近衛新兵』を尾上新兵衛のペンネームで戦地から投 稿した作品が、雑誌「少年世界」の主筆・巌谷小波に認 められる。戦地から帰還後は、小波宅に奇遇しながら軍 記物を書き続ける一方、童話の創作及び再話を行う童話 作家でもあった。

しかし、 久留島の活動は作家や口演童話家に留まらず、

多岐に渡っている。

1906

(明治

39

)年には口演童話を

久留島武彦と奈良に関する史的考察

─ 寧楽女塾といさがわ幼稚園を中心に ─

渡 辺 良 枝

*

・ 松 川 利 広

奈良教育大学国語教育講座(国語科教育)

(平成19年5月7日受理)

Kurushima Takehiko in Nara: An Historical Analysis Based on the Records of the Narajo-juku and Isagawa Kindergarden

WATANABE Yoshie*and MATSUKAWA Toshihiro

(Department of Japanese Language Education,Nara University of Education, Nara 630-8528,Japan)

(Received May 7, 2007)

Abstract

Takehiko Kurushima lived in Nara city from after the war 1945

(Year of the Emperor, Showa

20

until 1953

(Year of the Emperor, Showa 28 )

. During his days in Nara, he was involved in women s education as an advisor for the private school Narajo-juku , and for early childhood education as a founder of the Isagawa Kindergarden . He also went on many tours about Japanese fairy tales. This paper examined Kurushima s days in Nara based on his private papers and letters, along with the information obtained through interviews from those who are still involved in the Nara Fairy Tale Association; Narajo-juku ; and the Denkou temple. The data revealed that Kurushima took his Narajo-juku students on lecture trips, and also made the Jizo Ondo that is still used by the Denkou temple. His accomplishments during the eight years in Nara were the pinnacle of his life as a story teller.

Key Words: Kurushima Takehiko,Kouen do-wa,

Nara

キ−ワ−ド: 久留島武彦、口演童話、

奈良

*

奈良市学校図書館支援センター

(3)

中心とする人形劇、お伽芝居、手品などを交えた「お伽 倶楽部」を設立。日本各地に支部

(5)

ができ、児童文化 運動の先覚者となった。

また、婿養子久留島秀三郎とともに、日本のボーイス カウト運動の育成に参画する。1924(大正13)年にデ ンマークで行われた第二回世界ジャンボリーに日本の派 遣団副団長として参加した時、アンデルセンの生家と墓 地が放置されていることを憤った発言が現地の新聞に掲 載される。その結果、世論が喚起されアンデルセンの記 念館が建ち、墓地改修が行われた。デンマーク国王から ダンネブロウ四等勲章を受け、「日本のアンデルセン」

と呼ばれるようになる。

一方、久留島は自ら幼稚園を設立している。1908

(明治41)年には朝日新聞社主催世界周遊旅行に随行し た時、通俗講演などの研究資料に加え、欧米の児童文化 事業に関する玩具などを収集する。久留島は日本の子ど ものために在来の日本玩具の改革の必要を強く考えるよ うになり、研究機関として幼稚園の設立を希望した。世 界周遊旅行で親しくなっていた大阪の富豪家、野村徳七

(後の野村証券初代社長)の援助を得て、

1910

(明治

43)年5月5日、当時、東京府豊多摩郡千駄谷町字穏田

四番地

(6)

に「お伽倶楽部附属私立早蕨幼稚園」を設立 する。久留島は園長として子どもを指導する幼児教育家 でもあり、児童心理の研究家でもあった。

さらに久留島は、幼稚園で子どもと直接接した経験か ら、子どもの姿が実は母親の姿であることに気付く。

1911

(明治

44

)年に文部省の嘱託でアメリカを視察し、

「大衆に理解しやすい講話のし方、児童問題、および婦

問題などについて研究」

(7)

すると、帰国後は、女性 教育にいっそう力を入れ「小兒を導かんとするなら、先 づ母からして導かねばならない。 」

(8)

と早蕨幼稚園「母 の会」を結成する。久留島の経験論と実践論に基づいた 話材と巧みな話術とで、母親に対する講演は早蕨幼稚園

「母の会」に留まらず、世間一般の女性層に大きな反響 を呼んだ。講演依頼が相次ぎ、雑誌社から母親や家庭教 育に関する原稿依頼が多くなる。久留島には口演童話の みならず、学校教育関係、社会教育全般、親子関係、育 児問題、児童心理等、社会教育家、通俗雄弁家として多 方面からの講演依頼が殺到することになった。

また、 久留島は自分を慕い集まってくる弟子のために、

園舎を拠点に話術研究会「回字会」

(9)

を主宰し、多く の口演童話家を育てている。早蕨幼稚園は入園希望者が 相次ぎ、

1915

(大正

4

)年

10

月には東京代々木に早蕨第 二幼稚園が設立した。

口演童話家、通俗雄弁家として名を馳せた久留島であ ったが、1945(昭和20)年5月25日の戦災により、早蕨 幼稚園並びに久留島の自宅は全焼する。この時、久留島 は奈良県吉野郡十津川村に出講中、この報告電報を知っ

(10)

。その後、久留島は、福島県伊達郡霊山村

(11)

(現 在は伊達市霊山町)に疎開し8月15日の終戦を告げる玉 音放送の詔勅を村長と共に聞く。終戦となり、とりあえ ず3ヶ月ほどの予定で奈良へ戻ってきた久留島は、それ 以後1953(昭和28)年秋頃まで、奈良市に寓居するこ とになる。久留島が71歳から79歳のことであった。

久留島は晩年、 奈良を拠点とし口演活動を続けながら、

福田素

もと

を塾長とする私塾「寧

じょじゅく

塾 」

(12)

の顧問とな り、女性教育に力をそそいでいる。さらに、寓居先の伝 香寺では「宗教法人伝香寺 いさがわ幼稚園」の設立発 起人となり、その設立に寄与した。

久留島は

1958

(昭和

33

)年、話し言葉による童話を 確立し児童文化の向上に貢献した業績により紫綬褒章を 受章。1960(昭和35)年6月27日、逗子にある角田病院 において午後

9

40

(13)

内蔵癌のため永眠した。享年

86

歳。戒名 禅機院殿誠心話徳童訓大居士

(14)

1985(昭和60)年8月16日、奈良市小川町伝香寺の境

内に「童話家 久留島武彦 寓居の跡」の碑(写真1)

が奈良県童話連盟によって建立された。

1.1.先行研究

これまで、久留島について書かれた単行本を挙げると、

伝記・記録的なもので最も古いものは、巌谷小波の木曜 会で知り合った生田葵『お話の久留島先生』 (相模書房

1939.12)である。その後、これをもとに新たな事実を増

補するかたちで、大分県教育委員会編『広瀬淡窓・久留 島武彦』 (大分県教育委員会

1973.2

) 、また当時西日本新 聞記者の草地勉『メルヘンの語部 久留島武彦の世界』

(西日本新聞社1978.1) 、歴史研究家の勢家肇『童話の先 覚者 日本のアンデルセン 久留島武彦・年譜』 (わらべ の館・久留島記念室

1986.1

)、郷土史研究家・大成経凡

『海の来嶋 山の久留嶋 童話の久留島』(大成経凡

1999.3)

、元久留島記念館館長・轟義禮『童話の父 久留

島武彦翁の生涯』 (藍書房1999.5)等がある。勢家の単行 本には奈良に関する記述が年譜として記載されている。

また、久留島の婿養子である久留島秀三郎編『久留島武 彦 偲ぶ草』 (久留島秀三郎1960.11)は久留島の臨終の 床での様子が詳しい。近年では倉澤栄吉監修 後藤惣一

『大分県先哲叢書 久留島武彦』(大分県教育委員会

2004.3

)が学術的見地から、以前の文献を総括している。

総体的に言えることは、これらの単行本は郷土偉人久 留島武彦を主眼に置き、久留島の人生を記したものであ る。久留島は長命であり、

86

年という長い人生の中で、

晩年、奈良に寓居していた頃の概要はつかめるものの、

詳細な実状は、未だ研究の余地を残している部分が多 い。

奈良に関する文献としては、元奈良県童話連盟会長の

乾健治「童話家 久留島武彦と奈良」 ( 「玖珠郡史談」第

(4)

14号1985.8)が存在する。また、エッセイ風に記され

た、先述の乾健治「日本童話界の師父(上) (中) (下)

久留島武彦先生のことども」 ( 『奈良県童話連盟五十年史』

奈良県童話連盟

1975.8.)

、伊東挙位「奈良での久留島先 生」 ( 「童話研究」

52巻6号久留島先生生誕百年号1974.6.)

、 北村信昭「童心の久留島武彦」 ( 『大和百年の歩み 文化 編』大和タイムス社

1971.11

)等があるが、これらの文 献だけでは久留島の奈良での生活がすべて網羅されてい るとは言いにくい。2000(平成12)年10月10日にエ ル・ネットオープンカレッジで松川利広が「久留島武彦 と奈良」

(15)

を講演し、研究を始めたところである。

2001

(平成

13

)年

3

月には、大分県教育委員会発行、

大分県立先哲史料館編集の『大分県先哲叢書久留島武彦 資料集』第一巻・第二巻、2003(平成15)年3月には第 三巻・第四巻が刊行された。久留島の童話や論考が収録 され、久留島研究の基礎資料が整ったところである。

1.2.研究の目的と方法

本稿では、久留島が奈良に寓居した

1945

(昭和

20

) 年頃から

1953

(昭和

28

)年頃について着目する。

先にも述べたが、奈良に寓居した久留島の身辺につい ては、未だ明らかにされていない部分が多く、本稿では、

奈良県童話連盟の機関誌

(16)

「童心」「童話大和」「少子 部」を再読することで、久留島の奈良を拠点とした活動 の実態を確認する。さらに、大分県立先哲史料館に保管 されている久留島の手帳(行動日誌)

(17)

(写真2) 、及び 書簡を閲覧して、久留島自身による奈良に関する記述を 検証し、従来の研究内容をより詳細なものとしたい。

一方、過去、寧楽女塾の塾生であった方から聞き取り 調査を行った。 久留島と直接接した塾生の証言をもとに、

本稿では、これまで不明であった寧楽女塾の実態を明ら かにし、久留島の女性教育観を探りながら、久留島と塾 生に関するあらたな逸話を抄録する。さらに、寓居先、

伝香寺に残る「地蔵音頭」が久留島の発案であることを 指摘する。口演童話家としての久留島にとって、奈良に 寓居した期間が、いかなる意義をもっていたのかを考察 することを研究の目的とする。

聞き取り調査はまず、2006(平成18)年9月11日に伝 香寺において、 住職でありいさがわ幼稚園長の西山明彦、

副園長西山ひとみから行った。その後、当時、寧楽女塾 の塾生であった有山タマエ(82歳) 、依田久子(77歳) 、 東浦貞子(78歳)を紹介してもらい、同年10月4日に聞 き取り調査を行った。同様に、同年

12

20

日と

2007

(平成

19

)年

4

28

日に、元塾生の西野豊子(

82

歳)か ら聞き取り調査を行った。

また、2006(平成18)年9月21日に、いさがわ幼稚園 で行われた、奈良県童話連盟の理事・奥田明(

79

歳)

の口演童話を聞き、同年

10

13

日には大和郡山市立平

和小学校で毎年恒例となっている奈良県童話連盟の口演 童話を聞いた。同年10月19日には奈良県童話連盟の宮 前庄次郎(

96

歳)から聞き取り調査を行った。

2007

(平成

19

)年

1

6

日には久留島の子で、現在、

大分市在住の鈴木典彦(77歳) 、妻鈴木貞子(75歳)か ら聞き取り調査を行った。

なお、本稿は算用数字を基本とするが、久留島の手帳 等引用による文献は、原文のまま漢数字で表記すること とした。また年齢は、調査時点の年齢を記載した。

2.久留島武彦と奈良

2.1.久留島武彦の奈良での活動

久留島と奈良の関係は古い。すでに、1910(明治43)

1

26

日から二週間、博文館講話部主任として、「少 年世界」及び「少女世界」の宣伝の為に、小波と共に幻 燈機を携え、京都、大阪、堺、神戸、姫路、和歌山、奈 良、宇治山田各市の小学校を会場とし、巡回講演を行っ ている

(18)

1924

(大正

13

)年には小波や久留島を顧問にして日 本童話連盟が創立されると、早速、奈良県では1926

(大正15)年に、奈良県童話連盟が創立される。小波、

久留島が顧問となり、

5

30

日に奈良県公会堂で発会式 並びに童話大会が開かれた。この時、久留島は「文覚上 人と鯨ともぐらの話」

(19)

を口演する。同年11月22日か ら 6 日 間 の 奈 良 県 童 話 連 盟 の 巡 回 講 演 会 に 参 加 し 、

1927

(昭和

2

)年

5

2

日から

4

日に奈良県立高田高等女 学校で行われた奈良県童話連盟の童話講習会では「実演 童話と幼少年教育」

(20)

を講演した。

また、久留島は奈良県大和郡山市稗田町の売太神社で 行われる阿礼祭

(21)

(奈良県童話連盟主催)の提唱者で もある。第一回阿礼祭は

1930

(昭和

5

)年

8

16

日と

17

日に行われた。久留島は小波、岸辺と共に出席する。祭 典、記念放送、記念お話大会、阿礼さま踊り、祝賀会等 が盛大に催され久留島は口演童話を行った。阿礼祭は現 在でも稗田町及び売太神社の定例行事となっている。

一方、自著『肇国物語 神武天皇の御東征』 (日向書 房1943.5)等の取材でも度々来県した。

さらに、久留島は奈良県師範学校

(22)

(現国立大学法 人奈良教育大学)にも訪れている。当時、全国の師範学 校と佛教関係の学校では口演童話の研究会が設立され、

奈良県師範学校では1928(昭和3)年から1932(昭和7)

年まで毎年童話教育講習会が行われた。

1939

(昭和

14

) 年から

1941

(昭和

16

)年頃は、講演部童話班がつくら れ、県下の小学校を巡回口演している

(23)

奈良県師範学校の童話熱の高まりとともに久留島も同

校を訪れた。

1941

(昭和

16

)年

2

18

日には奈良県・奈

良県童話連盟共催の話し方、童話講習会が同校で開催さ

(5)

れる。久留島は講師として参列し「国民学校と童話の使 命」

(24)

を講演した。

また、 「昭和

21

8

27

日 奈良師範藝術講座 童話」

(写真

3

)と書かれた久留島直筆の原稿が残されており、

1946(昭和21)年の久留島の手帳には8月27日「師範藝

術講座」と記述されている。対象は学生であったが、元 寧楽女塾生の西野はこの講座に参加した。講師は文楽の 桐竹文十郎、評論家の亀井勝一郎、辞書の編者として名 高い金田一京助、久留島武彦であった

(25)

。1人1日で 4日間続けて行われた。この時、金田一京助は友人であ る石川啄木の話をした。西野は立派な先生方にお目にか かれた思い出は今も忘れられないという。

これらのことからも、口演童話家の泰斗として久留島 は毎年のように奈良を訪れていた様子がうかがえる。

また、久留島は元寧楽女塾生の依田によれば、奈良に 寓居していた頃、月1回程度、定期的に奈良少年刑務所 で口演童話を行った

(26)

。高橋良和編『久留島武彦童話 五十年記念童話集 海に光る壺』(推古書院1949.6)に は、奈良少年刑務所から送られた感謝文が収録されてい る。 久留島は奈良における地域社会の児童文化活動にも、

多大に貢献していた。

2.2.久留島武彦の手帳と書簡

口演童話が隆盛期を迎えたころ、

1941

(昭和

16

)年

12月に始まった太平洋戦争は激しさを増し情勢が悪化

していく。1944(昭和19)年4月30日には学童疎開など により久留島が設立した早蕨幼稚園は閉園し、同年

7

2

日には岑子夫人が死去する。久留島は以前から親交の あった奈良県磯城郡織田村箸中(当時)の隈田嘉史郎

(27)

宅に一時疎開

(28)

した。久留島の子・鈴木典彦

(29)

によ れば、当時、久留島は「リュック一つ背負って知り合い の家をあちこち移動。 」

(30)

しており、閲覧した久留島の 手帳によれば1945(昭和20)年の正月は山城国相楽郡 山田荘乾谷 藤原邸(藤原正武)で過ごしている。藤原 正武

(31)

は教員であり、奈良県童話連盟の会員であっ た。また、織田有楽流茶道家元

(32)

であり、寧楽女塾の 元塾生、西野によれば、女塾が椿井町にあった当時、茶 道を教えていたという。称名寺に移った後(3.2.参 照) 、茶道は織田有楽流の祐森先生に変わった。

この当時、藤原は奈良に来た久留島のマネージャー的 役割を担っていた。しかし、久留島の手帳によれば

1945(昭和20)年7月10日に「山田川駅ニテ藤原破門」

と記されている。口演童話家で、当時奈良県立奈良図書 館に勤務していた伊東挙位によれば、藤原を通じて久留 島に伝えたい話があったことを久留島にいうと「何故、

藤原なんかを通じていうんだ。 」と機嫌が悪くなった

(33)

という。伊東はその「理由は、後にわかった」

(34)

とす るがここでは述べられていない。何かのきっかけで久留

島は藤原を破門し、その後、伊東が久留島のマネージャ ー的存在となって口演日程や謝礼のことまでとり計らう ようになった。 『奈良県童話連盟五十年史』 (奈良県童話

連盟

1975.8

)を見ると、藤原はこれ以降、奈良県童話連

盟を脱会したようだ。

手帳は1日刻みで詳細に記載され、久留島が大変几帳 面であったことが分かる。

1945

(昭和

20

)年の奈良に 関する記述をあげると、正月三日 談山神社、十三日 矢田村、十四日 菖蒲池遊園、四月一日 氷室神社、五 月一日 奈良ホテルと続き、奈良の各所を渡り歩く様子 がうかがえる。

特に注目すべきは、

1945

(昭和

20

)年の五月十四日 である。B29が四百機以上、奈良県を通過し、銀翼を 日光に輝かせ、悠々と進む姿が記載されている。同じ日 には、この月末(五月)に十津川郷に出講するための地 図を借用し、十津川の旅に思いを馳せている。手帳では 十津川村は五月二十九日から六月二日に訪れたことにな っており、その日程を一日ごとに記した久留島の記述が みられる(写真

4

) 。

1945

(昭和

20

)年

5

25

日は戦災のため、自宅及び早 蕨幼稚園が全焼していた。久留島は十津川村に出講中、

この報告電報を知る

(35)

。元奈良県童話連盟会長の乾健 治によると、久留島は「東京に帰っても焼き出されてい るので仕様がないナア」

(36)

と語ったという。

大分県立先哲史料館で閲覧した久留島の書簡の中には

1945(昭和20)年6月5日付けで、NHKの新井太郎に

宛てたものがあった。そこには「早蕨園も書庫も衣類も、

一切灰燼に帰したる報告に(中略) 、いよいよ裸一貫の 身の軽きに、いささかフワーリとした心地いたしおり候 ふ。 」また、 「その日その日の風まかせ」等の心境が綴ら れていた。この文面を見る限り、久留島からさほど落胆 した様子は見られない。

晩年、久留島は「チャンス」

(37)

と題する講演で、チ ャンスは前からやってくる、前からやってくるチャンス をしっかり捕まえることが必要、と述べている。たとえ 逆境に立たされたとしても、前向きに何事もチャンスと とらえる久留島の姿勢は、早蕨幼稚園や自宅が焼失して も、前途を悲観したり失望したりしない。常に良い方向 へと考え、気持ちを切り換え次のステップに進もうとす る、久留島の姿勢があらわれている。

なお、この書簡の差し出し住所は、奈良市椿井町 福 田氏方となっていた(写真5) 。

2.3.久留島武彦と椿井町

その後、久留島は1945(昭和20)年8月1日に、福島

県伊達郡霊山村(現在は伊達市霊山町)に疎開する。村

役場の宿直室で

8

15

日の終戦を告げる玉音放送の詔勅

を村長と共に聞いた。終戦となり、村長の親類縁者が帰

(6)

り住んだので、やむを得ず3ヶ月の予定で奈良に移住す ることにし

(38)

、頻繁に利用していた奈良ホテルに着い た。しかし、進駐軍が来るのでことわられ、椿井町の寧 楽女塾の一室を借りることになる。

定説では椿井町の寧楽女塾に移住し始めたのは1945

(昭和20)年の終戦後とされる。しかし、この時久留島 が初めて寧楽女塾を訪れたのではないことが、久留島の 書簡からうかがえる。それ以前から、寧楽女塾の塾長福 田素江と久留島は交流があった。

前述の1945(昭和20)年6月5日の書簡と1945(昭和

20

)年

5

28

日の書簡(写真

6

)の差し出し元が「奈良 市椿井町 福田氏方」となっている。共にNHKの新井 太郎に宛てたものである。

1945(昭和20)年5月28日は久留島が十津川村に出講

する前日であり、

1945

(昭和

20

)年

6

5

日は十津川村 から、帰宅し

3

日後のことである。いわば、奈良市椿井 町から出発し、椿井町に帰宅したとも考えられる。

このことから久留島は終戦前から寧楽女塾の福田と交 流があり、

1945

(昭和

20

)年の

5

月、

6

月頃にはすでに 寧楽女塾を借宿としていた様子がうかがえる。

3.寧楽女塾について

3.1.寧楽女塾設立の趣意

寧楽女塾に関する資料は全くと言ってよいほど残って いない。元塾生の証言によれば、女塾には毎日通い、裁 縫と華道は塾長である福田素江から、茶道は織田有楽流 の先生から学んだ。女塾は

1943

(昭和

18

)年頃開校し た

(39)

とされ、福田が死去する1965 (昭和40)年1月7日

(40)

以前まで存在した。塾生は常に入れ替わっていたが、常 時

40

人くらいは在籍していた。女塾には女学校卒業後、

多くは紹介されて入塾した。例えば、女学校の先輩や知 人の紹介などである。

当時、奈良には、結婚までを花嫁修業の期間とし、裁 縫や茶道、華道を教える家塾が多数存在していた。しか し、家塾であるため公の資料にその存在は記されていな い。唯一、寧楽女塾が記載されている資料は、元奈良県 童話連盟会長の乾健治が当時の寧楽女塾の小冊子のよう なものを書き写したと推測されるものだけである。貴重 な資料であり、次に記す。

本塾は寧楽女塾と称し、女学校卒業の人格陶冶と、

家庭生活における実際的活用の裁縫的技能を基本と して、座作応対より室内装飾整頓の実務に修

せし めんことを目標とし、学校式の形式をとらず、どこ

こまでも家塾の面目を発揮せんことを主体とし た。和裁科・本科一カ年・専門部一カ年・洋裁科六 カ月(本科)・研究科六カ月・華道科週一回・料理

科月一回・実用英語科月二回・顧問久留島武彦先生 担当の下に、実用英語を教授。時代の必要と、将来 の国際生活にかんがみ、特科として刺繍・茶礼・習 字は寧楽女塾分室にて教授す。なお随時社会教養講 座を開き、久留島先生指導の下に、月二回以上社会 事象の解釈・文化諸問題の批判・女子教養に関する 実際問題に就き、塾友並

諸名士の講

を開き、各 科の入塾は四月・九月・一月の各学期始

す。教科 目を履修したるものは、卒業証書を授与す。月謝は 各科時宜に応じ、協議決定する。

【乾健治「童話家 久留島武彦と奈良」 ( 「玖珠郡史 談」第

14

1985.8 p.25

) 】

久留島は、単に家庭婦

としての女子教育を目指して いたのではない。社会教育や文化諸問題の解釈、批判を 行うために、講師を招いたり、国際生活にかんがみ、英 語が堪能な久留島自ら、実用英語を教授することになっ ている。元塾生の証言によれば、講師は多方面から依頼 していたようだ。塾生の西野によれば、久留島が舞踊家 の江口乙矢夫妻とその弟子数人を招き、塾生は江口の弟 子たちから新舞踊を見せて貰ったという。また、刺繍は 奈良で久留島のマネージャー的役割を担っていた伊東挙 位の妻が教えていた

(41)

しかし、塾生の久留島に対する一番の思い出は、久留 島の口演活動に随行し各地を回ったことである。久留島 自身、世界各国を渡り歩いた経験を持つ。自分の経験か ら、女性にも家庭内に留まらず、見聞を広め、実践的な 幅広い教養を身につけさせようとしていた。戦後の混乱 期にもかかわらず、先を見通した女性教育観であった。

3.2.寧楽女塾の移転(椿井町→称名寺→伝香寺)

椿井町にあった寧楽女塾は戦後、大家が帰郷する

(42)

など手狭になったため、1945(昭和20)年9月

(43)

に奈 良市菖蒲池町の称名寺に移ることになる。元塾生の西野 によれば、本堂に畳を入れて裁縫室とし、渡り廊下で繋 がった書院を襖で仕切ると、

8

畳と

6

畳の部屋になった。

本堂に近い8畳は華道と茶道の教室、奥の6畳は久留島 の部屋として使用した

(44)

称名寺は久留島が

1942

(昭和

17

)年

10

21

日に茶祖 珠光献茶式に出席

(45)

するなど、馴染みの深い寺であ る。また、久留島は寓居の御礼として、1949(昭和24)

年5月15日

(46)

に茶祖珠光像を寄進した。久留島は奈良 に来た理由と珠光像寄進の経緯を、以下のように述べて いる。

私は東京で戰災のため燒出されてから、たまたま

奈良へまゐりました。最初はコシカケのつもりで二

三ケ月厄介になろうと思ふてゐましたのが、當地の

(7)

歴史的環境、ゆかしい人情にあまへてとうとう三年 間、かうしてお尻を据えてしまつたわけです。 (中 略)茶の恩、茶祖の恩、茶祖ゆかりの當寺への報恩 の微意を表したい念願で彫刻家の吉川政治君と相識 つたのを幸ひ、まづ吉川君の創作的熱情にあまへて 珠光像の制作をお願ひしたわけです。

【久留島武彦「稱名寺座談會 奈良人が語る茶祖村 田珠光」 ( 「茶道雑誌」河原書店

1949.5p.3

) 】

久留島は、奈良に老後の安住の地を得たことを感謝し て、称名寺に珠光像を寄進した。全国を口演行脚し、弟 子や知人宅をふらりと訪れては、しばらく滞在する。奈 良において久留島の食事等の世話をしたのは寧楽女塾の 塾生であり、 生活面を支えていたのは弟子や知人である。

久留島が立ち寄った先の人々が嫌な顔をせず、喜んで迎 え入れるのは、久留島のかざらない気質と、感謝の気持 ちに触れるからであろう。

その後1948(昭和23)年、久留島は東大寺長老清水 公照、仏師太田古朴、前大徳寺管長方谷光明らと共に奈 良市小川町にある伝香寺を訪れて、境内に一戸を新築し たい旨を申し入れ、翌年1949(昭和24)年4月頃、称名 寺から伝香寺に移転した。福田素江もまた、伝香寺を訪 問し、寧楽女塾も新座敷を建築して、久留島と共に移動 している。

「香積庵」と称した久留島の部屋は、本棚で囲まれ、

押入には久留島が揮毫した軸物が隙間無く詰まってい た。大量の本があり、称名寺から伝香寺まで移転の手伝 いをした塾生たちは大変だったと口々に語る。伝香寺に は、今でも久留島が購入した書物が数冊残っている。そ れらの書物にはすべて落款を押し、 購入年月日や購入地、

等が記されていた(写真

7

)。口演童話家で、当時京都 の児童芸術研究所を設立した高橋良和は、戦後すぐ椿井 町の仮寓を尋ねたときは長い六畳の一間にかなり大きな 机がおいてあり、本といえば、漢和大辞典と英和大辞典 とが重ねて机の上にならんでいた淋しい住居だった。そ れから、半年、二転三転、奈良から東京に戻りその後京 都に移転の際には、トラックにいっぱいの本になってい た

(47)

と驚く。当時、奈良県立奈良中学校(現奈良県立 奈良高等学校)を卒業し、天理語学専門学校(現天理大 学)に通っていた久留島の子・鈴木典彦は、 「東京の家 が焼け、落ち着いたのは伝香寺の家が建ってからだっ た。 」と語る。その後、久留島は1953(昭和28)年秋頃 まで、伝香寺を本拠地として口演活動を続けている。

4.寧楽女塾の塾生

元寧楽女塾生の有山タマエ、西野豊子、依田久子、東 浦貞子は、塾生から助手になった経歴を持ち、久留島と

の親交が深かった。ここでは元塾生の証言をもとに、久 留島の人間像と女性教育観を探っていくこととする。

4.1.聞き取り調査による寧楽女塾生との交流

西野豊子は椿井町時代に1年ほど塾生をし、称名寺で は助手となって2年半ほど女塾に通った。1946(昭和

21

)年

4

月から

1948

(昭和

23

)年

7

月までの寧楽女塾の 様子や久留島の口演活動に随行した時の口演題目等、克 明に記録を取っている。西野のメモによれば、久留島は 忙しい講演活動の合間をぬっては女塾の同窓会等の行事 に参加した。一例を挙げると

1946

(昭和

21

)年

4

9

日 に行われた同窓会では「イートン・ボーイ」の話をし、

女塾の繁栄と同窓会の意義を語っている。女塾では久留 島の誕生会が行われるなど、久留島は塾生との交流を深 めていた様子がうかがえる。

有山タマエ

(48)

は、椿井町時代から寧楽女塾の塾生と なり、称名寺、伝香寺は助手として長年に渡り塾生を指 導した。久留島直筆の額や掛け軸、短冊、色紙を玖珠町 立わらべの館に寄贈している。

依田久子

(49)

は称名寺、伝香寺時代の塾生であり、助 手となった。女塾に約10年間在籍し、久留島が依田に 宛てた直筆の手紙や色紙、サイン入りの著書など多数を 所有している。久留島は達筆であったし、絵も非常に上 手かった。塾生は、久留島が絵を描き、福田が揮毫した 合作の色紙を持っている。

塾生を経て助手になった人は久留島から書画や色紙を 頻繁にもらった。久留島が部屋で揮毫中、その場に居合 わせた時など「もらっておきなさい。そのうち価値がで るよ。 」と気安く何枚も書いてくれたという。久留島が 奈良を離れ、東京に戻った後に専属秘書となったのは赤 木要女

(50)

であった。久留島はその赤木に、「淡雅」と 揮毫している

(51)

。元塾生の西野には「静観」(写真

8

)、

有山には「蘭風」と揮毫した。その言葉について久留島 から特に説明はなかったようだが、推測するところ揮毫 の言葉は、貰ったその人の、人となりをあらわしている ように思える。久留島の座右の銘は「継続は力なり」

「身動かざれば、心動かず」

(52)

等であり、口演童話関係 者にはこれらの言葉を多く揮毫した。しかし、女塾生に は、各々にふさわしい言葉を選んでいたようだ。気軽に 揮毫しているように思えるが、実は、久留島の洞察力の 鋭さと思いやりが垣間見える揮毫である。

久留島のことを「 足まめ、口まめ、筆まめ で几帳 面」

(53)

と評したのは福田素江であるが、西野によれば、

久留島はいつも身近な所に筆を置き、塾生に伝言を頼む

ときは、筆で用事を記した紙を手渡していた。塾生は先

方でその紙を読みあげ、要件を伝えたという。久留島は

暇があれば各地の友人、知人、世話になった人々に手紙

を送った。後の専属秘書赤木によれば、久留島は短時間

(8)

に何枚もの葉書をかきながら、 「字は下手でも、文面は 短くとも、出さぬよりましだ。いくらこちらで感謝の気

を忘れないでいても、相手の方に通じなければ、それ は忘れていることと同じだからね」

(54)

と述べていたと いう。女塾生も、頻繁に久留島から手紙を貰った。主に 旅先から自分の所在を伝えるものが多かった。西野は女 塾を辞めた後も、久留島から近況を知らせる手紙をもら い長い交流が続いていたという。

また一方、女塾生は久留島から、しばしばコーヒーを 飲みに連れていってもらった。久留島がコーヒーを好ん だことはよく知られている。東浦貞子は伝香寺時代、洋 裁の助手となった。女塾に通った期間は短かったが、久 留島から奈良市角振町にある友楽(現在のシネマデプト 友楽)の最上階にあった喫茶店によく連れていってもら ったという。当時の久留島は

70

歳代(伝香寺時代は

70

歳代後半)であるが、白いスーツに山高帽をかぶり非常 にモダンでおしゃれな印象であった。久留島は1952

(昭和27)年9月22日には、奈良市西寺林町にある文珠 庵という喫茶店で文珠庵倶楽部を結成する。コーヒーを 飲みながら仲の良い同志や奈良の文化人と語りあう会で あった

(55)

。女塾生もよく文珠庵に連れていってもらっ た。塾生にとって、塾長の福田は堅実で厳しい印象であ ったが、久留島はいつもやさしかったという。

4.2.久留島武彦の行動力と相談役 

久留島は忙しい口演活動の合間をぬっては、塾生とよ く旅行や見学に行った。称名寺時代の塾生、西野は室生 寺(

1946

(昭和

21

)年

8

5

日〜

6

日)や武田尾温泉と宝 塚歌劇(1947(昭和22)年6月27日〜28日)を観劇に行 った。また、奈良県生駒市高山茶筅の里も久留島ととも に見学した(

1946

(昭和

21

)年

11

13

日) 。有山は京都 大原の寂光院、依田は参加できなかったが長野旅行など が行われ、東浦は参加したという。久留島は情報を知っ たり、人づてに聞いただけでは落ち着かない。多忙な口 演活動の中、たまの休みがとれたとしても、自分の目と 耳で確かめなければ納まらず、塾生を連れて常にどこか に出かけていた。知識欲旺盛で行動力があり、人をまと める才能をそなえていたようだ。

一方、久留島は行動的な面を持ちながら、腰を据えて じっくりと塾生の話を聞く相談役も務めている。西野の 称名寺時代のメモには、女塾生がよく縁談の事で久留島 に相談したことが綴られてた。久留島は話す人であった ため、活字として残っているものが少なく、当時、久留 島と直接接した西野のメモは貴重な資料として注目に値 する。西野のメモには次のように記されている(原文の まま) 。

・昭和二十三年一月十六日 金 

塾生のキヨノさんの縁談の事で来客あり。

高橋良和先生も縁談の事で、久留島先生が御 よびに成った様だ。

塾生はよく縁談の事で先生に相談しました。

いろんな例をあげて注意、アドバイスをして 下さいました。

・昭和二十三年三月一日

塾生、宮本さんの結婚御祝に行った。仲人さ れた西瀬夫人、塾生二人。

久留島先生は、モーニングを着られて、式日 の代りに御祝いに来られた。御一緒に食事を 御馳走に成りながらのお話。結婚したら「ね ま着」は主人と一緒に居る一番長い時間だか ら美しくする様に

○先生の初めての夫婦ゲンカの話

文金高島田の美しい若い先生の奥様を表に待た せて、一膳飯。関東煮を食べて、先生は奥様に も、この味を味わせてあげようとされ、竹の皮 にアツアツのテンプラを包んで出られた。待っ て居られた奥様が、だまって居られるので、先 生はサッサと歩いて家迄帰られた。そして、机 に向かい合って座られた奥様は、シクシク泣き 出され「今日のような恥ずかしい事は御座いま せんでした。どうして、あの様な人の行く處へ 行かれるのか」と云われた。先生は折角この揚 げたてのうまみを味わわせてあげようと思った が、奥様はいやしいと思われたのだ。 「ほしく無 いのならやらぬ」と云って、それをつかんで庭 へなげられた。其の夜は「背中合わせの寒さ」

だった。

久留島は親身になって相談にのり、時には自分の体験 を交えながら、アドバイスしている。上記の久留島と岑 子夫人の逸話は、これまでの久留島の伝記的文献の中に は出てこない。 他人であった二人が共に暮らし始めると、

食い違いが多々おこる。しかし、これを乗り越え、思い を共有できるようになってこそ良い夫婦となれることが 久留島の話からよく分かる。久留島自身の体験を語った この話は、今後、結婚し家庭を営む女塾生にとって興味 深く、真実味を持って受けとめられたことであろう。久 留島は聞き上手であり、話し上手であった。これは、口 演童話家として、また、教育者として重要な要素であっ た。

また、久留島は大変面倒見がよく、塾生の結婚式にも

快く参加している。実際、西野の結婚式の写真には、参

列する久留島の姿が写っていた。久留島は自分のことの

(9)

ように喜んでいたという。久留島は、西野の夫(西野健 次郎)にも気さくに接し、自ら描いた書画(写真9)や 手紙(写真

10

)を送った。

塾生にとって久留島は師であり、父親でもあった。久 留島は子どもが生まれたら名付け親になって欲しいとよ く頼まれた。そのような時、久留島はいつでも快く引き 受けたという。一生涯「子供の膝の前の友達」

(56)

にな ることを目指し、子どもたちと直接触れあう場を求め、

全国を口演行脚していた久留島は、寧楽女塾生に対して も非常に身近な人物であったに違いない。久留島は寧楽 女塾生をはじめとする女性層に対しても、生涯、膝の前 の相談役であった。

4.3.寧楽女塾生の随行

内 山 憲 尚 は 『 日 本 口 演 童 話 史 』( 文 化 書 房 博 文 社

1972.3.)の中で「久留島武彦は小波と別に童話口演専

門家と各地を巡回し、女性マネージャーを帯

し、身の 廻

ママ

りの世話をさせていた」

(57)

と記載している。後に専 属の秘書となって各地の口演活動に随行したのは赤木要 女であったが、赤木以前に秘書として、各地に随行して いたのが寧楽女塾の塾生である

(58)

寧楽女塾では久留島の講演活動に合わせて、随行する 塾生の名前が組まれていた。久留島は、女塾に戻っても、

滞在するのは数日で、すぐまた次の講演地へ出かける生 活である。西野によれば、そんな多忙な中でも久留島は 随行する塾生の親に宛てた手紙を、塾生に手渡していた という。そこには、何月何日、何処何処で講演を行う予 定が記されていた

(59)

。若い娘さんが何日も家を留守に すると親御さんが心配するといけないからという久留島 の配慮である。

聞き取り調査を行った塾生も、それぞれ歴史に残る重 要な行事に随行していた。例えば、有山は、

1947

(昭 和22)年6月14日に東京JOAKで午後1時半から行われ た巌谷小波祭の中継放送に随行した

(60)

。東京の宿泊先 は、婿養子久留島秀三郎宅が常であった。

西野は称名寺時代、久留島に随行して

1947

(昭和

22

) 年10月に愛媛県北条市下難波、安楽山大通寺の難波女 塾

(61)

の式典に出席した。また、1948(昭和23)年3月

19

日から

31

日まで、京都から福岡の小倉、久留米回り で大分県日田、玖珠の森町に入り、別府へと随行してい る。西野は久留島から渡された直筆の「九州下り日程」

(写真11)を所有している。そこには、大分県玖珠郡森 町には三月二十六、七、八日に滞在し、久留島が名誉校 長をしていた鷹巣実践女学校(後の梅香女子専門学校)

(62)

を訪れた様子がうかがえる。西野は玖珠の森町では久留 島の祖先森藩8代藩主道嘉が天保年間に造営した末廣神 社

(63)

に久留島とともに行った。末廣神社は旧久留島庭 園の中にあり、神社の一角には久留島藩主が城を模して

つくり、茶会や迎賓館的なものとして使用したとされる 二階建ての栖

せい

ほう

ろう

がある。西野はこの時の印象を「大き な石灯籠、先生の祖父様等が宴会された二階建ての別荘 の跡、庭先の石や池、塔等、面影がしのばれて寂しい」

とメモに綴っている。久留島は「幼い友達と木登りをし て、あの枝の又は俺のだ。これは自分のだと陣地をつく り遊んだ」と幼少期の思い出を語ったという。

依田は最長で連日

26

日間随行した。四国の松山から 出発して九州を一周し、1950(昭和25)年5月5日に大 分県玖珠町で行われた童話碑建立の除幕式に参加した。

この童話碑は、到津遊園長で口演童話家の阿南哲朗の発 案により、久留島の童話生活五十年を記念して、旧久留 島庭園前三島公園に建てられたものである。高さ7メー トルの巨大な碑で、除幕式と同時に第一回日本童話祭が 開催された。祭りは3日間に渡って行われ、のべ

38000

(64)

が参加した。子ども芸能大会、弁論大会、童話大 会、花火大会等様々な行事が繰り広げられ、この場に立 ち会った依田は「殿様のお帰りだ。バンザイ、バンザイ。 」 と地元の人々に迎えられて、 盛大な式典であったという。

久留島は

5

5

日「子どもの日」制定の提唱者でもあり、

玖珠町では現在でも毎年5月5日に、日本童話祭が行わ れている。

その他、依田は、新潟、金沢、岐阜、東京など、各地 を久留島について随行した。宿泊場所は主に大きな寺が 多かった。久留島の知人、友人宅が宿泊所になることも 多く、北九州では前述の阿南哲朗宅に宿泊した。依田は 久留島に随行して阿南宅を何度も訪れるたび、そこにい た娘と仲良くなり、その後も長いつきあいが続いたとい う。奈良県童話連盟によれば、阿南もまた、度々奈良を 訪れていた。

随行中、久留島が、汽車の中で地名の由来や、名所に ついて話す事があったらしい。また、洗濯や食事は主に 宿の人が世話をしてくれていた。後に専属秘書になった 赤木は「一日500円」のお小遣いをいただきました

(65)

と述べているが、依田によれば、その当時、久留島の講 演料が

3000

円で、4〜5日の旅行中、主催者の配慮か ら依田も500円もらえたことがあったという。塾生によ ると久留島は、講演料の入った封筒をすぐに破っては、

その場の雰囲気で惜気もなく使っていた。時には「福田 先生には内緒だよ」と言って、お小遣いとは別に装飾品 などを買ってくれたらしい。戦後まもない時代である。

女性が各地を自由に旅行することも少なかったであろ

う。塾生にとっても楽しい旅行であった。塾生は久留島

に随行することで交通機関の実状を知り、各地の名所旧

跡を見学して教養を高めることができた。さらに、各会

場での立ち居振る舞い等、自身の体験をもって社会勉強

することができたのである。

(10)

4.4.随行の理由 4.4.1.緊張感の緩和

久留島が秘書を随行する理由を、後の専属秘書赤木要 は次のように述べている。

久留島はかつて勝海舟と面会したことがあった。居間 に通され、息のつまるような緊張感の中、奥から赤い縮 緬の半衿か、手絡をつけた若い娘さんが、お茶を持って 来られた。その時、あの場の雰囲気がやわらぎ、自分の 緊張もほぐれて、救われたような気分になった。苦虫を 噛みつぶしたような老人と、娘さんのコントラストがい かにも対照的であり、美しく、自分もシワだらけの爺に なったら、あのような生活がしたいと久留島はねがって いた

(66)

奈良県童話連盟によれば、当時、久留島と言えば、

「芸能人を見るような感じであった」という。口演童話 のカリスマ的存在であった久留島は、初対面の人にとっ て、緊張と緊迫感を与えたことであろう。大柄な久留島 は、よく通る大きな太い声で語り、その風貌からしても、

威圧感は増すばかりである。秘書を随行させる理由の一 つに、自らその緊張をほぐし、その場の空気を和ませる という思いがあった。また、秘書を持つ人物になりたい という久留島の願いでもあった。

久留島は随行する塾生への配慮も忘れなかった。例え ば、西野は石川県に行ったとき、久留島に紹介状を書い てもらい、加賀千代女の寺を見学した。また、安芸の宮 島に行った時は、潮が引いていたため、一人で海の中に 立つ鳥居の足下まで歩いていった。久留島は「抜け駆け の巧妙だね」と言って笑っていたらしい。塾生は時に散 策を許され、気持ちを一新することができた。久留島の 大柄な体格からは想像できぬほど、些細な所にまで目配 り、配慮ができる人物でもあった。

4.4.2.口演童話家としての思い

一方、久留島は伝香寺時代の塾生であり久留島に随行 した依田に「僕が演台で倒れたら、いつでも名代できる ように、口演を聞いて覚えておきなさい。 」と言ってい たという。寧楽女塾生は久留島の口演活動に随行するこ とで、自然と童話を覚えた。

当時、久留島が好んで語った童話は「海に光る壺」

「足あとに咲いた花」 (塾生は「カリフォルニアポピー」

と言っていた) 、 「デモクラシーの話」が多かった。当時

70歳代であった久留島であるが、奈良を拠点としてい

た頃は、体力の衰えを知らぬほど元気であった。しかし、

常に自分が倒れても、子どもたちが楽しみにしている童 話を最後まで伝えたいという、口演童話家としての強い 思いを持ち続けていた。この思いを遂げるためにも、随 行してくれる人が必要であった。また、随行者を伴うこ とで、随行者は久留島の口演活動の貴重な証人となるこ

とができた。寧楽女塾生の随行は、久留島の名代として、

一方、久留島の活動の様子を語り伝える間接的な後継者 としてかかすことのできないものであった。

4.5.久留島武彦の女性教育観

称名寺時代の塾生である西野のメモには、久留島が婦

会の集まりで講演するとき、頻繁に語る言葉が残され ている。

例えば、1948(昭和23)年3月22日 黒崎小学校 八 幡市婦

会では「 「目」を見る母親にならなければいけ ない。目を見て人を迎え送り出す。子供、主人に対して 明るい目で迎えるべきである」と説き、同年

7

6

日 西舞鶴 舞鶴公会堂で行われた講演会では、 「台所の整 理によって子供の心がしまる。子供に魂を入れるのは母 親である。見せるともなく、自分の仕草を見せる。 」と 講演した。そして、同年

7

7

日 東舞鶴で午後一時か ら行われた講演会では「現世相に対する婦

と責務」と 題する講演を行い、「暗示教育−見るともなしに見る。

聞かせるともなしに聞かせる。 」必要を述べている。

久留島の教育の原点には暗示教育があった。見るとも なしに見る、聞かせるともなしに聞かせることが大切で あるとする教育観は、母と子だけではなく、寧楽女塾の 塾生や久留島の弟子に対する、久留島の態度にも当ては まる。久留島は、塾生に対して直接何かを教えるのでは なく、自分の口演している姿を見せて学ばせた。例えば、

口演活動に随行させることで、塾生は童話を覚えること ができ、 子どもに童話を語ることができる母親になった。

理論ではなく、実体験を通して勉強をすることができた のである。また、久留島が主宰していた話術研究会「回 字会」では、技術等を細かく教えるのではなく、態度を 学ばせることを重要視した

(67)

。知識を詰め込むのでは なく、肌で自分の足で実感させる暗示的な実践教育が久 留島の教育観であった。

西野のメモによると、久留島は「世界の事を、相手の ことをよく知らなければならない。 」 「日本の兵隊は戦争 をしたが、外国の事を知らなかったので負けた。皆は外 国の事を知らなければいけない」 とも述べていたという。

女塾生を、各地に随行させ、見聞を広げることは、相手 を知る、世界を知ることの第一歩でもあったようだ。

久留島は、女性講演の時「其の父賢にして其の子凡な るは少なからず、されど、其の母賢にして其の子凡なる はなし」 (西野のメモ1947(昭和22)年10月11日・1948

(昭和

23

)年

5

6

日)と常に語っていたという。江戸末

期の儒学者、安井息軒の言葉

(68)

である。

1910

(明治

43)年に早蕨幼稚園を設立し、子どもの姿が母親の姿

であることに気付いた久留島は女性教育に力を入れ始め

た。西野のメモからは、奈良を拠点とした戦後も久留島

の思想が変わっていないことがよく分かる。久留島は

(11)

1915(大正4)年に台湾を訪問したときも、この言葉を

述べ、台湾の聴衆を魅了した

(69)

という。明治、大正、

昭和と時代は移り変わっても、子どものために女性教育 の必要を説く久留島の教育観は一貫して変わっていなか った。それは国内にとどまらず国外にも通用する教育観 であった。

5.久留島武彦といさがわ幼稚園

5.1.いさがわ幼稚園の設立

久留島の目指すところは、 常に目の前の子どもに語り、

目の前の婦

に語ることであった。久留島の理想を実践 する場が東京青山穏田の早蕨幼稚園であり奈良市伝香寺 の寧楽女塾であった。しかし久留島が設立した早蕨幼稚 園は戦災のため焼失してしまう。

久留島の寓居先である伝香寺では、

1946

(昭和

21

) 年夏より、児童の愛護と教育のために境内を解放し児童 遊園を設け、子ども会をつくっていた

(70)

。久留島はそ の事業に全面的に協力し、また幼児教育の大切さを説い て、児童遊園を新たに幼稚園として設立するよう、当時 の住職徳田明本に勧める。久留島自ら「幼稚園建設趣意 書」の筆頭設立発起人になり、1953(昭和28)年4月10 日に「宗教法人伝香寺 いさがわ幼稚園」は開園した。

久留島はかねてから親交のあった岡崎女子短期大学の 創設者本多由三郎に「早蕨幼稚園の意義と早蕨幼稚園の 再興を強く語り明かした。」

(71)

という。久留島にとっ て、寓居先の伝香寺には児童遊園があり、子どもたちの 明るい声が響いていた。それは焼失してしまった早蕨幼 稚園と重なって見えたに違いない。幼児教育家としての 久留島は、早蕨幼稚園の代わりとして伝香寺に幼稚園を 残しておきたかった。また一方で、それは久留島らしい 寓居先の御礼としての感謝の気持ちであったとも考えら れる。

久留島の全面的協力を受けて開園した「いさがわ幼稚 園」であったが、久留島がその運営に直接的に参加でき る期間は短かった。幼稚園が開園した

1953

(昭和

28

) 年の夏、久留島は足首を捻挫する。久留島のことを心配 した婿養子久留島秀三郎夫婦の勧めで、一時、箱根で静 養することになった。その後、一旦奈良に戻って来たが、

秋頃から年末には、東京に帰ることになる。

後の専属秘書赤木要女が久留島から「近く自分は奈良 から東京に移住することになるが、いっしょに来てくれ ぬか」

(72)

と言われたのが、

1953

(昭和

28

)年の暮れで あった。同年の久留島の手帳には、

11

19

日の所に、

「明日 天ニ上リ」と書かれている。それ以後、注目に 値する奈良に関する記述は見あたらない。このことから 考えると、久留島の手帳に刻まれた

1953

(昭和

28

)年

11

19

日の記述は、東京に戻る、また、その覚悟を決

めたという記述であったと受けとめることもできよう。

寧楽女塾の塾生によると、久留島は何時いなくなると も知れず、女塾を去ったという。印象としては、出てい ったきり、帰ってこなくなり、久留島の部屋には山のよ うな書物が残された。それらのものを塾生がみな整理し て、東京の久留島秀三郎邸に送った。

久留島秀三郎夫婦の強い勧めに従って東京に戻った久 留島であったが、いさがわ幼稚園の開園を心待ちにし、

その行く末を楽しみにしていた時である。開園後1年も 経たぬまま、去っていかなければならないことは、さぞ 心残りなことであったろう。

5.2.いさがわ幼稚園に残した物

しかし、久留島は、いさがわ幼稚園に自分の足跡を残 していた。それは今でも園児が唄い、踊っている「地蔵 音頭」である。久留島はこれまで関わった先々に多くの 歌を残した。早蕨幼稚園には「早蕨幼稚園々歌」 (久留 島武彦作詞)及び「早蕨幼稚園園旗揚げの歌」 (久留島 武彦作詞) 。久留島が提唱者となった阿礼祭には「阿礼 さま踊」 (北原白秋作詞) 「阿礼様音頭」 (中川静村作詞) 、 日本童話祭には「童話音頭」 (久留島武彦作詞補導)等 がある。

伝香寺住職でいさがわ幼稚園長の西山明彦は、伝香寺 の「地蔵音頭」は久留島が作詞者安藤徇之介

(73)

に依頼 し、安藤の原稿に作詞補導をしたものであると見てい る。

伝香寺には

1951

(昭和

26

)年

4

2

日付で、安藤が久 留島と当時伝香寺の住職徳田明本に連名で宛てた書簡が 残っている。そこには安藤の直筆原稿が入っており、原 稿には、直接、赤鉛筆と毛筆で訂正した個所が数カ所あ った。例えば、 「今日はお盆の十五、六日」と安藤が記 した箇所を、 「今日はお寺のお盆の踊り」と、子どもた ちに分かりやすく、 唄いやすいように手直しされていた。

西山は起筆からみて、久留島が手直しをしたものである という。安藤の書簡が

1951

(昭和

26

)年

4

2

日付であ ることから、 久留島はすでに幼稚園が設立する2年前に、

「地蔵音頭」を依頼したことになる。久留島の伝香寺及 び、いさがわ幼稚園に対する思いが伝わってくる一方、

生涯、お話と歌と踊りを重視した久留島の教育観

(74)

が うかがえる。

いさがわ幼稚園は久留島の「メルヘンの心」が脈打つ 幼稚園とされ、教育理念は「仏教保育と共に、おはなし 童話の世界を具現せん」

(75)

とされている。

1956

(昭和

31

年)には「童話による保育に就いて」と題した研究 発表が行われた。幼稚園設立後4年目の事である。まさ に設立当初から久留島の思いを引き継いだ、童話による 保育が行われていた。

1982

(昭和

57

)年

5

(76)

には奈良県童話連盟が中心

参照

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