研究雑話
研究生活を振り返って
商学部教授 石 田 重 森
私の研究分野は、保険、年金、社会保障と広 範にわたるが、その端緒は大学で数学科に入り、
統計・確率論からゲームの理論とやや経済学に 近い分野の勉強をしたことである。そして保険 数理の専門家であるアクチュアリーを目ざした が、やはり経済学の本格的な知識の必要性を感 じ、改めて大学に入り直して経済学を学び経済 理論、経済政策や人口論、不確実性の経済学な どを勉強した。さらに大学院に進んで、数学と 経済学の知識を活用できる保険学・年金論の研 究の道に入った。
丁度その時代、保険による経済的保障の達成 が重要視されるようになり、また老後の生活保 障に関して、公的あるいは私的な年金について 論議され始めた頃で、まだ研究者も少なく、前 途に活躍の可能性を感じたからである。
やがて縁あって、東京から福岡大学に赴任す るのであるが、恩師・指導教授の庭田範秋先生 から、「福岡は酒も肴も旨いが酒はほどほどに、
また勉強し過ぎて死んだ学者はいないからス ポーツや趣味もほどほどにしないと学者として は大成しない」と教導を受けた。福岡大学に着 任して、保険学の泰斗・今村有元学長から、「余 計なことに煩わされず、思う存分研究しなさ い」と励まされた。両先生の教えは、ある程度 守り通したつもりである。
さらに後になって、商学部の先輩・藤本隆士 先生から、「学者として、40代で活躍したいな ら30代で勉強せよ、50代で活躍するなら40代で 頑張れ、60代でも活躍するなら50代で勉強しな
さい」と教示されたことが印象に残っている。
また、指導教授からは、留学と著書と学位が 学者にとって必要な3本柱だと教えられ、これ らに関して努力を傾注した。
お蔭で、福岡大学の在外研究員としてのロン ドン、シティ・ユニバーシティの留学では、イ ギリスの保険の歴史に関する難解な原典の翻訳 に、少人数の仲間と取り組み、成果を挙げた。
ところで、学問としての保険学や年金論は実 学とされ、実社会で保険事業・年金制度として 行われていて、人々との関わりが深い。学問的 には、その根底にある本質論、理論的考察が重 要なのであり、経済的観点や数理的観点から考 察を進め、分析を行った。
先人が論究した諸学説を検討し、保険・年金 の原理や仕組み、機能などを解明し、それが諸 外国を含め、現実社会にいかに応用・活用され て提供されているか、などを考究した。
そこから進んで、保険事業・保険経営のあり 方、年金制度の課題、さらに保険と金融、リス クマネジメント、年金改革などに及び、現実的
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な諸問題を理論的に考察することに努めた。
やがて、わが国の少子・高齢社会が急速に進 展する中で、年金、医療、介護、福祉などの社 会保障が財政窮迫から危機を迎え、これに対し 保険理論をベースに論究することが多くなった。
年金制度、医療保険、介護保険などのさまざま な問題につき、著書や種々の雑誌に解説、論評 を発表し、政策提言も行った。
こうして研究成果を公表することが、研究 者・学者としての責務であり、少しでも社会に 貢献できればとの思いで、保険に関して、NH Kのクローズアップ現代をはじめ、テレビ、ラ ジオ、新聞などで自分の意見・主張などを述べ てきた。また年金制度に関しては、2階建年金・
基礎年金の創設に関連して、衆議院社会労働委 員会・地方公聴会での意見陳述や、各地での厚 生年金基金に関する講演などの活動を行った。
その後も福岡市社会福祉審議会委員長や、福 岡県政府管掌健康保険運営懇談会座長などの社 会貢献活動を続けている。これも研究の延長の 一環と捉えている。
さらに、こうした研究、意見・見解の公表、
社会活動が、福岡大学の学生の教育に役立つこ とは、文科系の学問からして当然の事であり、
研究と教育が一体であるべき大学の一翼を担う ものと確信している。
したがって、学者・研究者として、論文や論 稿を執筆して発表することが大切な責務である と自覚して、晩年では、原稿を提出して書物・
雑誌などが未刊行のうちに次の論文を書くこと、
すなわち常に提出中の原稿がある状態を保つこ とをモットーとしてきた。
幸いにも、福岡大学には研究生活に適した環 境が整っており、若い時期に思う存分、自由な 研究を出来たことが、後の研究の広がり、深ま り、そして継続に大変役立ったと、大学関係者 の皆様に深く感謝する次第である。
研究生活を振り返ると、年金保険、死亡保険 などの生命保険から自動車保険、火災保険、海 上保険などの損害保険、さらに年金・医療・介 護などの社会保険そして社会保障とじつに研究 対象が広がった。これらを土台に、生活保障、
生涯生活設計、さらにリスクマネジメント、保 険デリバティブと多方面に及んだ。
時代の変遷とともに学問も移り変わるが、研 究姿勢・研究態度は変わることも少なく、保険 学・年金論の発展を次世代に託すのに、本稿が 少しでも役立てば幸いである。
最後に、福岡大学での研究・教育の総まとめ としての最終講義では、「知らないと損する保 険・年金」について話をさせて頂いたが、多く の教授や事務の方々、それに全国各地から参集 してくれたゼミOB、現役の学生諸君など多数 のご参加をいただき、盛況のうちに終ることが できたことは、この上ない喜びであり、感謝の 気持ちで一杯である。
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研究雑話
4 5年間の大学での研究生活を振り返って
工学部教授 宮 本 徳 夫
昭和38年に徳島大学工学部電気工学科を卒業 と同時に、九州大学工学部通信工学科マイクロ 波研究室に助手として就職した。この研究室で は修士、博士課程の院生と教授全員が電磁界の 境界値問題の解析をやっていた。赴任してその 現状をみて、学生時代は会社への就職のみを目 指して勉強は程々にし、基礎的な学問の勉強は 殆んどしていなかった為、自分が彼等と対等に 同様な研究をすることにはとても自信がなかっ た。ところが、昭和35年にレーザ光が出現し、
世界中の研究者がレーザ光とその応用に関する 研究に集っていて、九大でもその方向の勉強を するよう研究室の教授から指示された。自分と しては同じ零から勉強するのであれば優秀な先 輩の沢山居る電磁界の理論解析でなく、新しい 分野を一人で開拓していくことに興味と闘志が 湧いた。更に幸運なことに、昭和38年から文部 省の機関研究として電気工学科の放電研究室の 宮副教授と二人で「ルビーレーザの発振特性の 研究」に取り掛かることになった。もちろん、
九州では初めての研究であり、早速その発振装 置を全く素人の自分が製作しなければならな かった。当時、レーザの研究は日本ではそれ程 ポピュラーでなく、物理学会を中心に東大の霜 田教授、東北大の稲葉教授、計量研の田幸氏等 が先鞭的研究を始めていた。そこで、極力それ らの先生方にお会いして質問などを通して学習 することを心掛けた。手探りの状態で発振装置 の製作を始めて、やっと一号機を仕上げ、九州 で初めてレーザ光を発振させた。続いて、その
発振特性の詳しい解明の為の実験を進め、昭和 39年10月には日本物理学会で多くのベテランを 前にして初めて発表した。その後、ルビーレー ザの発振特性の解明も一段落ついたのを機に装 置は放電研究室の院生にバトンタッチして、自 分は本来の通信工学科に戻った。そこでHe-Ne ガスレーザを購入して、通信への応用の為の研 究に取り掛かった。テーマは「レーザ共振器か らの出力ビームの近似表現に関する研究」であ る。これには、精密光学装置を揃え、レーザビー ムの位相を干渉法で詳しく測定することができ、
レーザビームの実態も掴めてきたので、昭和42 年位から電子通信学会を中心に発表を続けた。
ところが、昭和45年4月には、福岡大学工学部 電子工学科に講師として就職することになった。
幸いなことに、研究はこれまで通り九大の同じ 研究室で続けることが出来た。研究も順調に進 行し、昭和48年までに国内外の学会論文誌に4 編、福大工学集報に2編を発表することが出来 た。これらをまとめて九大へ学位を申請しよう としたが、研究室の教授からは意外なことに「弾 性波導波路のモード整合法による解析」をやっ てくれと突然指示された。あまりにも唐突な話 であったのでびっくり仰天し、暫くは返事も出 来なかった程であった。一人で零から10年かけ て実験主体の研究をまとめた時点で、それを全 く無視して、基礎学力の不足を気にしている自 分がこれまで避けてきた理論・解析の分野の先 端的研究を完遂できる自信はなかった。更に問 題は、弾性場は6×6のテンソルを扱い、電磁
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界には無い複雑さがある以上、対象が固体なの で固体論も零から勉強しなければならない。し かし、大学の教育・研究生活をスムースに遂行 するには是非とも博士号が必要である。今、も しノーと言って学位が取れるかどうか分らない。
悩んだ末、仕方なく引き受けて、清水の舞台か ら飛び降りる思いで固体論とモード整合法の勉 強を零から始めた。
電磁界の問題には無い難しい多くの問題に突 き当たりながら、どの学会にも出席せず、教授 と二人三脚でひたすら勉強を続けた。さすがに 教授も責任を感じてか、一生懸命指導して頂い た。それぞれの努力と熱意が通じたのか、零か らスタートして1年半で弾性場の境界値問題に も電磁界で成功しているモード整合法が適用で きることに見通しがつき、その解の収束性も証 明された。早速、その算法を具体的に各種の3 次元弾性波導波路の伝搬特性の解明のために適 用した。この計算には電算機に大きな容量と長 い計算時間を要したが、幸いなことに、その頃、
九大通信工学科が情報工学科に改組されたのを 機に、学科に専用の大型計算機が設置された。
昼間は使用者が多くてとてもその計算が捗らな いので、誰も居ない夜中に一人で専用して計算 を実行したので、意外と早くいろいろな導波路 の特性解析も終了した。取りあえず、学位論文 に必要な範囲で論文としてまとめ、1年半の間 に国内外の主要学会の論文誌に合計4編発表す ることが出来た。それらをまとめて、学位論文 として提出し、昭和53年2月九大より工学博士 の学位が授与された。零からスタートして3年 の早さでまとまった。その後、昭和54年までに 国内外の論文誌に4編の論文を公表できた。
以上、弾性波導波路へのモード整合法の適用 も成功し、国内外でも認知されたことを機会に、
次の課題として、「モード整合法による光導波 路の解析」に取り掛かることになった。この分 野でも研究は軌道に乗り、目途もついてきたの
で、昭和54年9月から1年間カリフォルニア大 学バークレー校に福岡大学在外研究員として家 族5人で出張した。その時の成果の一つとして、
IC実験のためのクリーンルームが福岡大学で 設置され、九州におけるIC教育、研究に友景 教授と共に先鞭をとることができ、シリコンア イランド九州の面目を保った。帰国後、昭和63 年にかけてモード整合法による各種光導波路の 解析に関する論文を国内外の学会論文誌、国際 学会発表など含めて10編程公表した。以上の モード整合法による弾性波導波路、光導波路の 数値解析結果は、国内外においてそれぞれの算 法の精度の検討に引用されている。
ところで、昭和63年から突然教務部長(8年 間)、続いて副学長(4年間)になり、その間 多くの入試改革、教育改革、各種大学運営制度 改革、11の新学科・研究科新専攻の増設などに 没頭する必要に迫られ、研究活動は完全にス トップせざるを得なかった。12年後、役職を終 えたときは既に61歳となり、学会でも浦島太郎 的存在であることを自覚させられた。このとき、
九大時代の研究室の同僚(九大教授)に「フー リエ級数展開法」によって光導波路の解析をし てはと勧められ、百田助手と二人で取り組んだ。
成果は平成19年までに国際学会発表10編、学会 論文誌4編、外国ジャーナル2編、福大工学集 報6編にまとめられている。
思えばヨチヨチ歩きの田舎者がエリート集団 の九大で7年、福大で38年の合計45年の長い間 大学での研究、教育、役職生活をまがりなりに も無事務めてこれた事は多くの師、友人、大学 関係者の方々の温かい御支援、御鞭撻の賜物で あり、心より感謝して大学生活を終えたいと思 います。
最後になりましたが、これまでの研究に対し て研究推進部からの御支援を長い間賜わりまし たことも申し添え謝意を表します。
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