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教育においてアセントを得る? : 教育の場における 説得、その再考
山岸, 賢一郎
九州大学大学院博士後期課程3年
https://doi.org/10.15017/12410
出版情報:飛梅論集. 8, pp.53-67, 2008-03-31. 九州大学大学院人間環境学府教育システム専攻教育学 コース
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教育においてアセントを得る?
一教育の場における説得、その再考一
山 岸 賢一郎*
はじめに
被教育者を強制的に従わせることや、被教育者に知識や行為を押しつけることは望ましいことで はないのだから、教育は非強制的な方法によって行われなければならない。学校教育における教育 の在り方を批判する文脈で、しぼしばこのような主張がなされる。そしてまたしばしば、このよう な主張において、r対話」や「説得」が望ましい教育方法として掲げられるD。
本稿は、上に素描されたような主張のうちに現れる、教育方法としての説得に着目する。教育方 法としての説得に着目した先行研究には、山田雅彦の論考[200朗がある。山田は、説得という 教育方法が近年重視されている背景には、1980年代以降顕著になった「児童生徒の教師に対する 公然たる不服従」[山田2002:96]があると指摘する。その上で山田は、「説得の重視は、自分に納 得できるように説明せよという児童生徒の要求(納得できない支持に対する門限従)を促し、教師 自身が説得の根拠をどこまでも遡って言語化する事態を招く」のであるから、「児童生徒の教師へ の不服従を克服する手法とはならない」と主張する[山田2002:108]。このように山田は、「不嚴従」
の克服という観点から説得という方法を論じ、「不脹従」の克服のためには説得は必ずしも有効な 方法とはならないということを明らかにしている。これに対して本稿は、ポストモダン的状況に対 応するための手続き的倫理という観点から説得という方法を論じ、この観点から説得という方法の 有効性と限界と探ることを目的とする。
このような目的のもとで、本稿の課題は、相互に関連し合う以下の三つのことがらを明らかにす ることである。(1)説得という方法は、諸善行の基礎づけが不可能となった、現在ないし将来の ポストモダン的状況においては、教育者の善行を正当化するために必要なものであること。(2)
説得という方法は、教育者の諸善行を問い直し、より被教育者の最善の利益に適つた教育を行うた めの契機となり得ること。(3)説得という方法は、学校教育においてその方法が採用されるとき、
被教育者に「させなければならない」ことの画一性を前提としながら、被教育者に「させなければ ならない」ことの多様性を志向するという、ジレンマをはらんだものであらざるを得ないこと。
以上の目的および課題を達成するために、本稿は、インフォームド・コンセント(赫◎鍬磁
。◎麹se就:以下豆Cと略記する)と、その子ども版とも言えるアセント(Asse翻を巡って、医療・
☆九州大学大学院博士後期課程3年
生命倫理学の領域でなされてきた議論を参照する。後の議論に示されるように、夏Cやアセントは、
諸善行の基礎づけが不可能となるポストモダン的状況において、説得が教育の世界で担わなければ ならない倫理的な役割を、医療の世界で担おうとしているからである。つまり、ICやアセントが 医療の世界で必要とされるようになってきた構造的な背景や、ICやアセントが現在医療の世界で 担おうとしている役割を参考にすることは、説得という方法が教育の世界において必要となる構造 的な背景や、この方法が教育の世界で担い得る役割を明らかにするのに役立つからである。
調.教育方法としての説得
まず、本稿が考察の対象とする、教育方法としての説得について、それが如何なるものであるの かを明確にしておく必要があろう。以下では、主に教師の手によって1980年代以降に生み出され た諸テクストを素材としながら、説得という教育方法を明確化する作業を行うこととしたい。
「説得」(以下では、本禰の主題となる「教育方法としての説得」という概念と区別するために、
必要に応じて、一般的な意味における「説得」に括弧を付すこととする〉とは、一般に、言語的手 空によって被説得者を納得させようとする試みを指す。本稿が扱う教育方法としての説得も、おお よそこの定義的説明に漁ったものである。ここで「おおよそ」という語を付け加えた理由の一つは、
教育方法としての説得という文脈においては、しばしば、特に言語的手段によらずに、例えば事実 を見せつけることなどによって被教育者の納得を得ようとする試みさえも、説得と同定されるから であり、そう同定されてしかるべきであるからである[c凱杉山璽986]。いま一つは、後に述べる ように、教育方法としての説得は、被説得者の納得を得られなかった場合のことも視野に入れたも のであらざるを得ないからである。ただし、もちろん、教育方法としての説得においても、被説得 者=被教育者の納得という要素は最重要視される。このことは、r説得の成否は、子供の自立的な 納得をつくれるかどうかにかかっている」[橋本1986:411といった言葉にも端的に表われている2>。
では、具体例を用いて、説得という教育方法を、この方法の採用が実際に叫ばれた文脈ごと捉え てみよう。例えば、当時中学校・高等学校の教師であった阿部昇は、その著作r教師のための説得 の技術』(1989年)において、「教師の指導が通らない」状況にある「今こそ、むしろ管理主義と は対極にある方法をとらねばならないのだ」として、説得という教育方法を採用すべきことを説い ている。
結局それは、一つ一つの指導の場面で、教師が「なぜそうした方がいいのかjrそのことに はどんな意味があるのか」を、丁寧に時間をかけて子どもたちに語り込む。そしてそれを切り 口に指導を成立させていくということである。
つまり、「説得」という教育方法である。説得とは、本来それをする側とされる側とが、r対 等」であるという前提で行なわれるものである。教師の子どもへの上意下達ではなく、対等な 立場という形で、教師が子どもと対話をしながら、説得をする。そして、子どもの納得を得て、
そこから指導を通していくというものである。[阿部1989:20−1]
阿部によれば、説得という教育方法は、理由や意味や根拠を提示することによって、被教育者の納 得を得て、その納得に基づいて教育を進める、といった手続きを踏むものである。そして阿部は、
このような教育方法を採用すべきことを、おそらくは阿部自身の思考においては未だ分離されては いない二つの異なった文脈から説いている。その文脈の一つは、徽師の指導が通らない」状況の 克服という文脈である。つまり、阿部によれば、上述の如き手続きを踏む説得という方法こそが、「教 師の指導が通らない」状況を打開することに繋がるのである。ただし、このような文脈における説 得という教育方法については、すでに山田[2002]による根源的な批判がある3>。もう一つの文 脈とは、強制的な教育の在り方に対する批判、つまり被教育者の納得に基づかない教育の在り方に 対する批判という文脈である。阿部の言葉は、教育者は接しつけ」や階理主義」と称され得る
r上意下達」の教育を行ってはならない、という文脈において嘱せられたものでもある。阿部の言 葉は、この文脈において理解されるとき、倫理的な主張であり得る。そして、本稿が論究するのは、
後者の文脈における説得という方法の有効性であり、限界である。
以上の議論を受けて、 本稿では、教育方法としての説得を、まずは次のような手続きを踏むもの、
かつ次のような手続きを踏むべきことを説くものと捉えておきたい。すなわち、教育方法としての 説得とは、(とりわけ被教育者が教育者に素直に従わないような場面においては〉教育者は根拠を 提示することで被教育者の納得を得るように努め、そのようにして得られた納得に基づいて教育を 進めるべきである、という手続き的な倫理である。
ここに定義的に説明された教育方法としての説得を、我々は阿部以外の多くのテクストの内に見 出すことができる。それは例えば以下のような嘆きとなって現れ得るだろう4)。
表面的には教師の言葉に従ったかのように見えていても(特に小学校ではこどもが小さいた めにこういうことが多いと思うが)、それは本当に納得したのではなく、教師の権威や威圧だ けで押しきってしまっている場合が多い。〔…〕
〔…〕いったい、どういう指導をしたら、子どもを説得しきることができるのだろうか。〔佐 藤1986:62−3]
あるいは、「対話」という語で名指されている教育方法の一部もまた、上述のごとき定義的説明を 与えられた、教育方法としての説得の一変種として捉えることもできよう。例えば、「対話」とい う概念に、「納得させえなければ実行しない、不合理な力で押し切らないという誓いの上に成り立つ」
[賑部1983:30]ような教育の在り方、といった説明を与えるならば、この概念は、外延が完全に 一致することはないにしても、本稿が扱う「教育方法としての説得」という概念とかなり類似した 概念であることになろう。
しかし、説得という教育方法を上述のごとく捉えるならば、すぐに次のような疑問も生じてくる。
教育者が被教育者にどうしても伝えたい、身につけさせたいと思うことについて、教育者がどんな に粘り強く「説得」し、理由や根拠を提示し続けても、被教育者の納得が得られない場合には、教 育者は一体どうするべきなのか。「説得」によって納得するか否かは、「子供の自立的な判断による」
のだから、「子供によるr拒否』も覚悟しておく必要がある」[橋本夏986:41]。そうであるとすれば、
このような拒否を教育者が受け入れ難く感じるような場合には、教育者は一体どうするべきなのか。
この問いに対しては、我々はおそらく多くの教育者・教育関係者とともに次のような答えを与え るであろうし、また与えるべきであろう5)。教育においては「子どもたちが納得していなくとも、
させなければならないこともある」[阿部1989:27]。
とすると、教育方法としての説得とは、実は、暗に次のような但し書きを含んだものであること になる。すなわち、教育者は根拠を提示することによって得られた被教育者の納得に基づいて教育 を進めていくべきである。但し、「させなければならない」と教育者が考えることについて、どう しても被教育者の納得が得られない場合に限っては、納得に基づかない教育も許される。
説得という方法は、被教育者の納得を重視することで、非強制的な教育を実現しようとするもの である。しかし、この方法は、被教育者の納得が得られない場合には常に教育者に教育を断念させ る、といった類いのものではない。
2.教育方法としての説得麟Cに似ているのか
以上のように描いてみると、教育方法としての説得と、近年医療の世界で重視されているイン フォームド・コンセント(1漁蹴磁。膿se鉱以下IC)の間には、幾らか似通った部分があること
に気が付く。
どこが似ているのか。ICは、端的には、その名のとおり十分に情報を与えられた上で患者が医 療従事者に与える同意を意味するが、その全体像は例えば以下のように説明される。
医療におけるインフォームド・コンセントというのは、医師が患者にその病状をよく説明し、
それに応じた検査や治療について十分な説明を提供し、患者はそれを十分に理解し承諾したう えで、誰にも強制されない自由な立場で検査や治療法を選び取り、その同意に基づいて医師が 医療を行う、といった医療上での原則を意味する。
つまり、十分な説明を受けたうえで患者は納得・同意して検査や治療をうける原則が医療に おいて不可欠だとする考え方である。[森岡1994:10]6>
1Cが説得という方法に似ているとすれば、それは、亙Cが患者の同意に基づいて医療を行おうと するものだからであり、説得という方法が被教育者の納得に基づいて教育を行おうとするものだか
らである。加えて、亙Cは、それが重要であると主張されてきた文脈も一見して教育方法としての 説得によく似ている。つまり、ICもまた、いわば患者と医療従事者の問の「上意下達」の関係を
改善するために提唱されてきたものである。
しかし、亙Cと説得の聞には、大きな違いがある。教育方法としての説得においては、「させな ければならない」と教育者が考えることについて、どうしても被教育者の納得が得られない場合に 限っては、被教育者の納得に基づかない教育も許された。ところが、翌Cにおいては、いくら医療 従事者が「させなければならない」と考えていたとしても、原則的には、患者の同意なき医療は許
されない。
この論点は、具体的な場面を想定してみれば理解し易くなる。例えば、宗教上の理由に基づいて 輸血を拒否する患者と、患者の生命を守るためには輸血を「させなければならない」と考える医療 従事者の見解が対立した場面を考えてみよう。このとき、医療従事者がどんなに言葉を尽くして「説 得」したとしても7)、それでもなおも患者の同意が得られなかったとすれば、医療従事者は患者に 対して輸嘘を行うことができない81。噛律」(a掘轍鵬y:患者の自己決定を重視すること)と嗜 行」(わ磯e癒e翻ce:患者にとって最善の利益となると医療従事者が考える行為をなすこと〉という、
互Cを説明する際によく用いられる生命倫理学上の倫理原則を用いて換言すれば、亙Cはこのよう な対立の場面では患者の自律を重視し、医療従事者の善行を制限する原理として働くのである。
従って、生命倫理学上の術語を用いれば、我々は、互Cと説得という教育方法の違いを次のよう に表現できる。1Cが、自律原則と善行原則が対立した場合には最終的には前者を支持するもので あるのに対して、説得は、後者を支持する。
しかし、そもそもなぜ、善行原則よりも自律原則を重視する倫理である亙Cが、医療の世界で重 視されているのか。この問いは、教育の世界で説得という方法が果たし得る役割を考える上で重要 な問いとなろう。以下では、「行為主体jr意思決定主体jr結果発生主体」という3つの概念を使っ た後藤弘子の議論1加部・後藤1998:35f£]を参考としつつ、医療の世界で夏Cが要請される構造 的な背景について考察してみたい。
後藤によれば、通常の行為においては、意思決定主体と行為主体と結果発生主体が一致している ことが多いのであるが、医療という行為においてはそうではない。医療行為の畷大の特徴」[加部・
後藤1998:35/は、それが、医療従事者によって行われる、患者という他者に対する行為である、
ということである。つまり、医療行為においては、行為主体(医療従事者)と結果発生主体(患者)
がそもそも一致しないのである。このような特徴を持った医療行為が、従来は、医療従事者の意思 決定に基づいて行われてきた。無論、医療従事者が決める医療行為の結果が、常に、患者の最善の 利益に適うものであると患者自身あるいは医療従事者に受け止められているならば、その意思決定 を誰が行っているのかということは問題として可視化されてこない。しかし、今や、(医療行為が 伴う、患者の身体に対する侵襲についての自覚も含めて)医療従事者が決定する医療行為が常に最 善の結果を生むわけではないのではないか、という疑念が、多くの人に共有されるようになってき た。「医療におけるr謝のゆらぎがなければ、結果発生主体にこれほどまでのまなざしが向けら れることはなかったであろう」[加部・後藤1998:3刀。こうした状況にあっては、行為主体でも意 思決定主体でもない患者が、それでも、医療行為の結果だけは引き受けなければならない、という
事態を正当化し難くなる。この認識に至って、患者を意思決定主体とすることの重要性、つまり善 行原則よりも自律原則を重視する倫理であるICの重要性が、医療の世界で盛んに叫ばれるように なるのである。
今酒類』のゆらぎ」という語を用いて展開した論点を、エンゲルハート[臨gel媛d重:1996]の 議論を用いて敷心しておこう。エンゲルハートの診断によれば、「最善の利益」は一体何かという ことについて我々の聞で道徳的な論争が起こった場合には、我々は健全な合理的議論によってはこ の論争を解決できない。理由は簡単である。最善の利益が何であるのかを立証するには、特定の道 徳観に訴える必要がある。しかし、そこで新たに持ち出されたところの当の道徳観は今だ正当化さ れたものではないため、この新たな道徳観を正当化するために、より高次の(しかし今だ正当化さ れていない)道徳観に訴える必要が生じる。この作業は延々と続くであろうから、巖善の利益を合 理的議論によって立証しようとする試みは結局のところ無限後退に陥り、決して成功し得ない[就 臨g紬a癒1996:66コ。要するに、多様な道徳観が混在し善がゆらいでしまったrポストモダン的状 況瞬s轍磁e難事)」において道徳的な対立が生じた際には、特定の内容を伴った道徳観 例えば、
「生命の危機を伴う場合にあっては人は輸血を拒否するべきではない」一を立証することでもっ てこの対立を解消することはできない。従って、この状況の下で、とりわけ道徳観を共有しない他 者(欝ral s総遡ger)に対する行為を正当化しようとするならば、「自由な、情報を与えられた上で の同意(倉¢ea鍛(蓬蓬簸fbr艶e《1 c(》簸se紀勢)」といった、特定の倫理的内容を持たない、手続き的な倫理に訴 えるほかない[c£臨調d轍翻996:轟我欝.2,c紘夢3]。
以上の議論を踏まえて、亙Cが善行原則よりも自律原則を重視するということを、我々は次のよ うに表現できる。亘Cは、医療従事者たちが抱え込まざるを得なくなった、〈この患者にとって最 も善いこととは何か〉という深遠な問いに対する最終的な回答権を、他ならぬその患者自身に委ね るものである、と。そして我々は今や、亙Cが医療の世界で重視されているということを、次のよ うな視座から捉えることができる。すなわち、患者の最善の利益を一義的に確定できないという嘔 療における繕遜のゆらぎ」が、亙Cの軽羅を不可避のものとしているのである。
3.教育方法としての説得繍Cよりもよリアセントに繊ている
前節の議論によれば、教育方法としての説得は、善行原則と自律原則が対立した場合には善行原 則を支持するものであり、icはその逆であるのだから、似ている部分もあるが異なったものであ る、ということであった。
このような相違の理由は、極めて簡単に特定できる。前節における議論で描かれたような亙C 一つまり、医療において善行が一義的に確定できないということへの対応策という側面を持った、
医療従事者の善行よりも患者の自律を重視しようとするものとしてのIC一は、原理的に、すで に十分な合理性や自律性を有している者、つまり十分な意思決定能力を有している者からのみ得る ことができるし、そのような者からのみ得られるべきものである。例えば、幾ら丁寧に説明しても、
どれほどの護身をかけて根拠を提示しても、一度きりの注射による一時的な痛みを理由に、多くの 利益をもたらすはずの医療行為を頑なに捲食する幼い子どもからICを得ることは、医療従事者に は求められていないし、また求められるべきでない。つまり、lCという手続き的な倫理は、原理 的に、十分な意思決定能力を有してはいない者をその対象外とするのである9>。それに対して、最 後の手段として強制力の行使を許す教育における説得は、原理的に、十分な意思決定能力を有して はいない者に適用されてこそ正当化され得る類いのものであろう。
説得という手続き的倫理が教育の世界で果たし得る役割を明確にしょうとするならば、亙Cをモ デルとすることには限界がある。そこで我々は、未だ十分な意思決定能力を有さない者を患者とす る、小児医療の分野に醤を転じることとしよう。そこには、言わば夏Cの子ども版である、「アセ ント」(asse露ないしは1論禰鍵asse就しばしば贋意」と訳される)という概念が見出される。
まずは次の点を確認しておこう。小児医療において、十分な意思決定能力を有していない子ども が患者である場合、患者本人から得られる1Cの代わりに重視されているのが、親や保護者による 冒ンフォームド・パーミヅション」〈1蜘磁磁幹懸lsslo簸:以下ipと略記する)一「代諾」(μoxy co遡se號〉という語も夏Pと同じ意味で使用されている である。それを与えるのが患者ではな
くその親や保護者であるという点を除けば、豆Pを得る手順は互Cを得る手順と同じであり、小児 医療においてlPは、lCの場含と同じように、それに基づいて初めて医療従事者が医療行為に及 ぶことが許されるもの、と見なされている。
しかし、夏Pは、lCの代わりとなり得るのだろうか。互Pのみに基づいて医療行為が行わ紅る とすると、「子どもは医療において、行為主体でないばかりか、意思決定主体でもないにもかかわ らず結果発生主体であるという特殊な状況におかれている」[加部・後藤1998:37]ことになる。
医療行為の結果を引き受けねばならない患者が、その医療行為についての意思決定の場から完全に 疎外されてしまってよいのだろうか。
アセントは、小児医療において、こうした問いに答えるために要請されるものである。アメリカ 小児科学会(Am瓠。雛A㈱南鵬y o醤磁1簾ics:AA動の生命倫理学委員会の声明(隻995年〉は、「患 者はその発達に応じて意思決定伽¢量s胃腸慮i薮g)に参加すべきである」[AA猶995:鐡4]として、
患者の親や保護者から夏欝を得るのに加えて、患者本人からアセントを得ることを提案する。この 声掛におけるアセントの定義を参照してみよう。
アセントは少なくとも以下の4つの要素を含むべきである。すなわち、
璽23
4.
患者が、自身の状態について、その発達に応じた適切な認識を得ることを援助すること。
その検査や処置によって期待し得ることは何か、ということを患者に伝えること。
患者の状況に対する理解や、患者の反応に影響を与える要因を(検査や治療を受けさせよ うとする不適切な圧力がないかどうかということを含めて)臨床的に評価すること。
提案されたケアを受け入れる意思(w量臨9薮ess)を表してくれるよう、患者に求めること。
この最後の点に関しては、次のことに注意するべきである。すなわち、慎重に検討しよう
とする気もなしに患者の意見を求めるべきでない。異議を唱える患者に医療上のケアを施 さねばならないような状況においては、患者は事実を伝えられるべきであり、騙されるべ きではない。[AAP:315−6]
アセントを得るとはつまり、脅迫したり嘘をついたりすることなく患者に発達に応じた 鷹報を与え、
その上で患者に医療行為についての賛意を示してもらうということである。このようにまとめると アセントと至Cはよく似ているが、しかし、アセントと亙Cにはやはり大きな隔たりがある。アセ ントは、それが患者から得られないからといって、医療従事者に当該の医療行為を断念させるもの ではないのである。医療従事者は、親や保護者から璽Pを与えられている場合には、磨墨を唱え る患者に医療上のケアを施」すことが許されている。「診断や処置において、強綱は最後の手段で ある」[A鯉:雛6]のだが、強制を最後の手段とするための手続きが、患者からアセントを得る、
ということなのである。
教育における説得は、lCよりもよリアセントに似ている。教育方法としての説得は、教育者の 善行と被教育者の自律が対立した場面では、最終的には教育者の善行を優先する。そしてアセント
もまた、そのような対立の場面では、最終的には親や医療従事者が考える「させなければならない」
ことを優先するのである。
では、小児医療において、患者の自律よりも医療従事者や親の善行を優先されているにも関わら ず、・それでもなお、アセントを得ることが要請されているのはなぜなのか。より簡潔に問えば、小 児医療において、強制を最後の手段とするための手続きが要請されているのはなぜなのか。ここに はやはり、前節において議論された、豆Cが医療の世界で重視されているということの構造的な背 景が関係している。
萱Cは、隠善』のゆらぎ」に対する対応策として要講されるものであり、〈この患者の最善の利 益が何であるか〉という問いに対する最終的な回答権を、その患者自身一十分な意思決定能力を 有した患者自身一に委ねるものであった。もちろん、アセントは、この問いに対する最終的な回 答権を、当の患者自身に委ねるものではない。十分な意思決定能力を有さない患者、例えば一時的 な痛みを理由に頑として注射を拒否する幼い患者にこの回答権を委ねることは、患者の最善の利益 に繋がる見込みがないどころか、しばしば明らかに不利益に繋がるだろう。だからこそ、アセント は、患者に対する強制を許しているし、許さざるを得ない。とはいえ、我々はもはや、特定の内容 を伴った道徳観に訴えることによっては、患者に対する特定の医療行為の強制を正当化することは できない。強制の正当化は、特定の内容を持たない手続きに訴えることによってのみなされ得る。
その手続きとは、患者に適切な情報を与えた上で意見を求めたこと、患者の意見も慎重に検討した こと、患者の意見に従うことがその最善の利益に適うようには思われないこと、医療従事者よりも より多くの価値観を患者と共有しているであろう親ないし保護者の1Pも得ていること、強制を最 後の手段としたこと、等々であろう。
rr善』のゆらぎ」とアセントとの関係について、とりわけ次の論点には注意をする必要がある。
それは、先の引用に「慎重に検討しようとする気もなしに患者の意見を求めるべきでない」[AA勲 316]と表現された論点である。患者の最善の利益という概念は、もはや明確な内容が与えられた 概念ではなく、我々の眼前には〈この患者の最善の利益が何であるか〉という深遠な問いがある。我々 は、この問いに対する最終的な回答権を、十分な意思決定能力を有さない患者に委ねるわけにはい かないが、それでも、患者本人の意見は、この闇いに対して答えを出そうとする試みにとって重要 な役割を果たし得る。医療従事者や親は、患者の意見によって、患者の最善の利益についての考え 方を変え得るし、治療方針を変更し得る。
以上の議論を踏まえて、我々は、アセントが果たし得る役割を、次のように捉えることができよ う。アセントは、医療従事者や親が考える患者の最善の利益と、患者自身が考える患者の最善の利 益をつき合わせることで、今や揺らいでしまった患者の最善の利益を模索するためのものである。
そして、そのような模索をすることによって、行為主体でも意思決定主体でもない患者が、それで も、医療行為の結果だけは引き受けなければならない、という事態を正当化しようとするものであ
る。
尋.説得という方法が果たし得る役割と限界
アセントが以上のような構造的な背景のもとで必要とされ、また以上のような役割を果たし得る とすれば、教育方法としての説得もまた、アセントと同じような構造的な背景のもとで、アセント と同じような役割を果たし得るのではなかろうか。
行為主体、意思決定主体、結果発生主体、という3つの概念から教育という行為を見直してみれ ば、教育という行為は、実は、医療とよく似た特徴を持っていることに気が付く。つまり、医療行 為と同等程度には、教育という行為もまた、行為主体(教育者)と結果発生主体(被教育者〉が一 致しない。そして、医療行為の意思決定主体が永らく医療従事者であったとすれば、教育という行 為の意思決定主体は永らく教育者であった。もちろん、こうした構造の下にあっても、教育者が決 定する行為の結果が、常に、被教育者の最善の利益に適うものであると被教育者自身あるいは教育 者に受け止められているならば、その意思決定を誰が行っているのかということは問題として可視 化されてこない。しかし、高校進学率が90パーセントを超えた欝70年代半ばから80年代にかけて、
「学校での勉強の代償が見えにくくなってきた」[松下2003」55]。そして、「九〇年代に起こり始 めた社会の変化、すなわち雇用の流動化(年功序列・終身雇用制の崩壊)や少子化による受験競争 の緩和や教育情報産業の飛躍的成長等々に伴って、学校的〈学習〉のメリヅト(学力の交換価値や 使用価値)はいつそう低下しつつある」[松下2003:156−157]。こうした社会構造上の変化に合わ せて、現在、教育の世界においても、基礎づけ主義の終焉とともにポストモダン的状況が到来し、
価値が個人化し分散しつつあるのだとすれば[c£加藤2000]、我々はもはや、被教育者の最善の 利益を声高に語ることはできない。このような状況に置かれてみると、行為主体でも意思決定主体 でもない被教育者が、結果発生主体であるという事態はもはや正当なものには見えなくなってくる。
そして、強制を最後の手段とする手続き的倫理一被教育者をなるべく意思決定者の位置に近づけ るための手続き的倫理一が要請されることになろう。
とすれば、教育方法としての説得は、次のような役割を担うべきものとして要請され得ることに なろう。すなわち、教育者が、剥き出しの形では正当化しがたくなった自身の善行を、被教育者の 納得を得ることで、あるいは納得が得られなかった場合には自身の善行を再検討することで、正当 化するということ。そしてまた、教育の世界が抱え込んでしまった〈この被教育者にとって最も善 いこととは何か〉という深遠な問いに対する回答を被教育者からも募り、その上で教育者が最終的 にこの問いに答えを出そうとすることである。
ただし、教育方法としての説得が、今現在、上に描いたような役割を十分に果たし得るか否かと いう点について、考えなければならない重要な問題が存在する。
その問題とは、教育方法としての説得が果たし得る役割は、それが現行の学校教育において採用 される方法である限り善かれ悪しかれ、かなりの制限を課せられる可能性が高い、という問題であ る。つまり、「学椥という語が、学習内容についてであれ、生活習慣についてであれ、あくまで も「共通の階段をみなで登るという制度」[加藤2000:258Po)を指すのだとすれば、学校における 説得はこの階段からの逸脱を許せない。そうであるとすれば、児童生徒がどうしても納得しない、
といった場面に立ち会った際に、学校教師によって拒否が「慎重に検討」[A醗:316]され得る範 囲は、この鼠殺を逸脱しない範囲に限定され、〈この被教育者にとって最も善いこととは何か〉と いう問いに対する回答も、この階段から逸脱しない限りのものとなる。最善の利益が多様化するポ ストモダン的状況において、教育者がrさせなければなちない」と考えること(考えるべきこと)が、
同じ年齢の全ての被教育者に妥当するとは限らないとすれば、学校における説得という方法には、
必ずこのような制限が課せられる。
この論点は、裏を返せば次のようにも表現できる。教育者が被教育者の拒否を「慎重に検討」す ればするほど、つまり〈この被教育者にとって最も善いこととは何か〉という問いに対する回答に 制限を設けなければ設けないほど、説得という教育方法は善かれ悪しかれ、現在のような学校の在
り方を崩壊させるものにならざるを得ない。
学校教育において説得という方法を十全な形で採用しようとすることと、学校教育制度を維持し ようとすること、この二つのことがらは対立した関係にあり、我々がどちらか一方を追求すること は、他方を損なう結果になる。「ポストモダン的状況が浸透すればするほど、人々は学問や教育を 共通の階段を登ることではなく、より個別化された固有の生きがいのために追求することになるだ ろう」[加藤2000:258]。この予想が当たっているとするならば、学校教育はいっかそめ姿を大幅 に変えていかざるを得ないように思われるm。それでも、少なくとも当面の聞は、学校教育におけ る説得とは、rさせなければならない」ことの画一性を前提としながら、「させなければならない」
ことの多様性を志向するという、ジレンマをはらんだものであり続けるだろう。
おわりに
特定の善行の基礎づけが不可能となったポストモダン的状況において、医療の世界では、更Cや アセントが特定の倫理的内容を持たない手続き的倫理として要請されてきた。教育の世界でも、こ れと同じように、説得という教育方法が特定の倫理的内容を持たない手続き的な倫理として要請さ れ得るだろうし、要請されるべきであろう。
今日ますます浸透しつつあるポストモダン的状況においては、我々はもはや、教育者の諸善行を 無批判に肯定し、それによって或る強制的な教育が正当化されたと考えることはできない。そして このとき、説得という方法は、教育者が、剥き出しの形では正当化しがたくなった自身の善行を、
被教育者の納得を得ることで、あるいは納得が得られなかった場合には自身の善行を再検討するこ とで、正当化するものとなる。同時に、この方法は、教育者の諸善行を問い直し、より被教育者の 最善の利益に懸った教育を行うための契機となり得る。
だが、説得という方法が学校教育において採用されるものであるかぎり、この方法によって問い 直される諸善行は限られたものであらざるを得ない。少なくとも当面の間は、学校教育における説 得は、被教育者の最善の利益が多様であるとすれば正当化し難い場において、被教育者の最善の利 益が多様であることに対応しようとするという、矛盾した試みであらざるを得ないのである。
〈注〉
はじめに
1)「対話」については、例えば、高橋[20021のとりわけU章および12章、森岡目9971、『教育選 No.姐亙誌上の特集「子どもとの対話」(嚴部[1983]等)を参照。「説得」については、例えば、
阿部[欝89〕、坂本[1988]、r現代教育科学』N。。35夏誌上の特集r教師の力:量を見直す②説 得の技術」(小田口986]等〉を参照。
墾.
2>同種の指摘について、例えば、竹内口983:5]、小雷[1986:21]、坂本[B88』、阿部[1989]、
も参照のこと。
3>「はじめに」においても援用したが、山田の主張[2002]の眼目は、説得という方法が「教師 の指導が通らない」状況を打開することに繋がる可能性は低い、というものであった。
4)ただし、下に掲げた引用文も、阿部の場合と同じように、二つの文脈のどちらからでも理解可 能である。つまり、r子どもを説得しきることができるのだろうか」という嘆きは、被教育者 の納得に基づかない教育の在り方に対する嘆きであるとともに、教師に対する「不服従」につ いての嘆きともとれる。
5)少々長くなるが、この答えを「与えるべきである」とする理由を、ここで二つ挙げておきたい。
一つは、ゼさせなければならないこと」をさせるためには被教育者の納得を得ることを諦め
ざるを得ない場面がある、ということを想定せずに教育に望むことは、教育的関係を甚だしく 抑圧的なものにするからである。つまり、「させなければならないこと」は必ず被教育者が納 得できることであると考えて教育に望むことことは、単に無自覚的にr押しつけ」を行うこと だからである。この論点は、諏訪[199劔の次のごとき指摘と完全に合致する。(念のため補 足しておくと、次のごとき指摘等を論拠としてr管理教膏」を半ば露悪的に肯定する諏訪の議 論の全体は、多くの点で本稿の議論の全体とは合致しない。とはいえ、さしあたり次の指摘は 今提示された論点と完全に合致する。)ギ話し含いや納得を重視するr話せばわかる』という考 え方を私がおそろしいと思うのは、r話してもわからない』ことを想定していないからである。
自分はひとを説得でき、従わせることができると思い込んでおり、自分以外のひとが自分とは 異なる人聞であることへの畏れの気持ちがないのだ。r話せばわかる』という思想には、相手 が自分と同じ言葉の世界にいるはずであり、また、いなければならないとする抑圧的な姿勢が うかがわれるのである」[諏訪璽990:43−4娼。
いま一つは、「させなければならないこと」よりも被教育者の納得を得ることを重視するこ とは、教育方法としての説得を、単なる一般的な意味における「説得」に、つまりもはや教育 とは呼び得ないものに解消することになるからである。この二つ目の論点については、広田 [2003]のとりわけ247−8頁も参照のこと。
裳.
6),傍点は森岡による。
7)亙Cにおける「説得」の位置づけについては、Fa6錐凌脱農鵬撫即[ig86:c撫ジ.璽Olを参照の こと。
8)倫理的翻点から輸血を行うことができない、というだけでなく、法的観点からも輸血を行うこ とができない。2000年に下されたエホバの証人に対する無断輸血訴訟最高裁判決は、輸血を 行うか否かの最終的な決定権が患者にあることを示したものであった。
3.
9>ただし、十分な意思決定能力を有する者とは何者なのか、子どもの場含ならば、何歳から/ど んな子どもならば意思決定能力があるのか、という点については、様々な論争があり、明確な 決着は得られそうにない。この点については、例えば、F麟e盤&銑麟轟a艶p[婚86]、父木 [2000]、恥ss[199ア]などの緒論を比べてみよ。
謁.
10)傍点は加藤による。
紛しかし、本稿でなされた議論のみによっては、学校教育制度が縮小ないし廃絶されるべきこと は安易に帰結しない、ということは注意せねばならない。例えば、教育や学びについてr多元 論的であり多様性を認める立場」を自認する教育哲学者の中には、義務教育段階にある被教育 者の「学ばない権利」を法的に確認することによって、つまり現行の「強制就学〈義務就学〉
制度」を全廃することによって、個々人が学びたいことがらをr学ぶ権利」を擁護するべきで
ある、と論じる者もいる[cf井上1989]。このような教育学的リバタリアニズムとでも形容 されるべき過激な立場は、被教育者の最善の利益が多様化するポストモダン状況に適切に対応 したものである、と言い得るだろうか。明らかに不適切な対応であるようにも思われる。つま り、そのような制度のもとでは、経済資本や文化資本を背景にした自己決定(被教育者および その保護者の自己決定)が優i先されることで、現行の制度とは逆の意味で、被教育者の最善の 利益を実現する機会が損なわれるようにも思われる。多様化していくであろう最善の利益は如 何なる制度によって実現され得るか、というこの問題は、明らかに重要な問題であるが、本稿 が扱い得る問題の範囲を超え出ている。この問題の展開は、他日に期すこととしたい。
〈参照文献〉
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The puipese ofthis awicge is to deivgeRstrate the effieEency aRd iimits ef snch a perskaasSeit metked from an ethieal viewpeiRt. Referrgxtg to tke ciebate eit iitformed censefig and asseRt iit the field ef medicai scieRce aeeci bioethics, the foggowing three arguments wggi be fifyade e}ear:
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3. Therefore, it becemes clear that ofte wMiitg to use the persuasion Enethod te ensasre the ethgeaRegitigy}aeing of sckookeaching whlle wishing Åío epheld the presewt ÅíonditioR ef schookeachSng is bownd te fagR iit a serious dilemrrta.
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