ソーシャル・キャピタルと実践的倫理学
著者 吉田 寛
雑誌名 文化と哲学
巻 24
ページ 55‑77
発行年 2007‑11‑01
出版者 静岡大学人文学部
URL http://doi.org/10.14945/00006783
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における共存@共栄のような利己的戦略に帰するものもある︒活においてであれ Eある程度長期的なピジヨ
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の学問体系の外に追いやることで九理論的で体系的な政策科学としての体 社会に貢献できる実
的な学としての地位を築いてきた面がある︒
パトナムは自らのアプローチと対比しつつ可制度を抽象的な次一で見ょうとする近年の観点を批判している︒彼は︑
現代の制度論の代表として﹁新制度論﹂を取り上げ︑次のように特徴づける︒
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ファク
ーであるというものである︒
たとえば九高度に分化した専門領域における専門家による判断や行為について九法や制度などハード的なファクタ ーのみでは︑
の誠実性や社会的妥当性を確保することは非常に難しいと考えられてい
︒これにはつぎの事情があ
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ば文献学的問題を中心に議論されるなら︑教養として倫理学を学ぼうとする者だけでなく︑政治学者や経済学者︑政
策担当者らにとってさえ︑倫理学における議論をトレースすることは困難になってしまうだろう︒こうして︑原理を
志向する理論的倫理学は︑それ単独ではその成果を実践に生かす道を自ら断ち︑そもそも理論的倫理学の存在根拠で
あったはずの分業そのものが成立しない状況に迷い込んでしまうのである︒
応用倫理学は︑おそらくこのような反省から︑あくまで分業モデルの上で︑倫理学に実践性を回復しようとする試
みであると言える︒すなわち︑理論倫理学においては︑従来どおり一般的な倫理学原理に関する研究を続ける︒ただ
しその研究は︑その抽象性と文献学的煩瑛のゆえに実践家にはちんぷんかんぷんなので︑応用倫理学者が仲介的にや
ってきて︑理論倫理学の成果を実践家と協力しつつ実際的な場面に応用する︒たとえば︑脳死に対して社会的にどう
対処するべきかという問題について︑伝統的な倫理学において議論されてきた功利主義や義務論などの議論を︑生命
倫理学者が現場の声を聞きつつ実践的状況に適用して︑実践家である医療従事者らに対して処方議を与えるという具
合である︒このような原理←適用モデルをベ
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スとして︑伝統的な倫理学の研究に従事してきた倫理学者の一部が現場の知識を得ること百あるいは実践家の一部が伝統的な倫理学理論を学ぶことで百応用倫理学者となり実践的な倫理
学的思考を体現しうると考えられてきた︒
先に定義したいみでの応用倫理学は︑一般的原理原則を利用して個別的問題に向かう思考である︒理論的倫理学の︑
個別的問題を手がかりにして一般的原理原則を求めるという思考とは︑逆の方向を向いている︒だが︑両者には九
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実践的倫理学として理解したい︒すなわち百問題に対して外側から接近し問題を取りさばく思考ではなく百問題の側
から要請され問題解決の営みの中で倫理的解を探る実践的な倫理学的思考である︒
そこから社会文脈と切り離さずに制度を考えていく思考が九まちづくりなどの分野におけ
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︒もし実践的倫理学の伝統的な理論的倫理学の成果を現場に適
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(中略)︒人びとは活動と一言論において︑自分がだれであるかを示し︑そのユニ
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極的に明らかにし︑こうして人間世界にその姿を現わす︒﹂
また近年︑リベラリズムやリパタリアニズムに対して︑個人主義批判の観点から共同体主義が論障を張っている︒
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や規範などの共同性によって ソーシャル@キャピタル論を超えた百より強い主張を支持しているのである︒
の社会がうまく機能するというのみならず百共同体における協力や信頼
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といった相互承認の関係のなかではじめて︑人はアイデイ
という論点である︒
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i一一一節で論じたように︑あくまで個別的な問題
おなじ内在的場所に立ちつつ九複眼的で批判的な視点に
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ソーシャル@キャピタル研究者や問題の
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そこから借りてきた原理をトップiダウン式に個別的状況に応用しようとする応用的倫理学でもない百問題に密着し たス
ンスに立つ独自の実践的な倫理学的思考であると言えるだろう︒
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訳
民主T
出版︑ニ
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については︑
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や世界銀行での取り組みについては︑宮
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判的議論から︑
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