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追 悼

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Academic year: 2021

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追悼

引田稔

西口先生と私は大変古いおつき合いで︑本学の前身である長崎高商に偶然同じ年に入りました︒私の方が約半年ほ

ど早かったわけですが︑それ以来︑今日まで︑即ち亡くなられるまで︑永い問先生とおつき合いを続けて参りまし

た︒私にとりましては︑先生がお亡くなりになったということは︑公けの立場を離れて︑個人的にも︑格別悲しみがl︑

深いような思いがいたします︒心から先生の御福実をお祈りし︑在りし日の先生をお偲び申し上げるという意味

で︑本日︑私は︑私が先生から頂いたこの永い間の御交際の時間をふりかえって︑その懐しい思い出を︑心からここ

にぶちまけて︑そして私の追悼の言葉といたしたいと思う次第でございます︒

西口先生と私が︑たまたま同じ年に︑こちら長崎へきた︑長崎高商へきて職を奉ずるに到ったということが偶然で

あったといたしますと︑私の家がいわゆる中川町の官舎と同じ方向であったということ︑それからまた年令も近く︑

色々な話︑昔話をするような場合でも︑よく話が合ったということ︑これらはすべてこれまた偶然のめぐり合せであ

ったのでございます︒昔話の中には︑例えば︑二・二六事件︑あるいはその前の五・一五事件などがございました︒

それらは特に私たちが興味探く恩い出した事柄の一つでありました︒多くの場合︑私が先生の話を聞くという︑つ

まり聞き役に廻りましたが︑いわゆる国体明徴運動というようなことが盛んとなりつ〜あった一般的な社会情勢の中

(2)

で︑当時お互いに東京の学生であった私達としましては︑社会とか︑国家というものに対して︑否応なしに深い関心

を持たせられました訳で︑その頃の日本の状態を回想しながら先生のお話は絶えることがなかったのであります︒多

くの方々がよく御存知のように︑美濃部達吉博士のいわゆる天皇機関説をめぐって︑段々と軍部の力が拾頭するに及

び︑乙の美濃部学説は怪しからぬということで︑当時の貴族院議員でありました博士に対する攻撃が右翼団体から起

つまりあの国体明徴運動という旗印の下で進められた一連の事件︒乙の辺のとととなりますと︑聞き役の私も

実際の体験として知っている事件も多く︑お話を聞いていてもよく判るし︑また先生もこういう話を楽しく思い出し

ながら︑私に︑家路を辿る道すがら語りつづけるのでありまじた︒

私はもちろん法律は専門外であり︑先生はまた私の研究とは部門が近いというわけではありませんでしたが︑しか

しながら︑同じ時代を生きた︑同じ時代に︑学問の方向︑分野乙そ異なれ︑勉強をしていたということが︑いよいよ

この偶然の意味を深めて︑私達の交友の度を濃くしていったというのが︑自然の勢いであったのであります︒なお︑

新しい話題では︑東大のポポロ事件︑最近の砂川裁判の話とか︑大学の自治など︑いわゆる憲法問題に属する難しい

問題を一般の私たちにも判るように色々と話をして下さいました︒従って︑学校から家に帰るまでの途中の時間︑

のような話を伺いながら歩くというのは︑私にとって大変楽しい一日のしめくくりでありました︒

私達が学校から官舎の方へ帰って行く道筋というものは決っていて︑なるべく車の通らない裏通り︑即ち夫婦川の

道を通って行きましたが︑私が西口先生とおつき合いし︑私が知り得た西口先生の面というのは︑いわば表通りであ

る法学の面での先生の姿ではなく︑文字通り先生の裏側の面を眺めた思い出という乙とに終始するのであります︒そ

れだけに実に私にとって︑もうこのような楽しいお話を伺いながら家に帰ることができないのだということは︑淋し

さこの上もないものがあるのであります︒

(3)

私が同じ年代であったために先生のそのような話を一層興味深く展開させたのだと思いますが︑そのほか︑即ちこ

の法律問題のほかに︑色々と世間話があったことも︑もちろんであります︒

先生と私とのつながり︑と申しましでも︑今は遠く離れ︑はっきりした日付を申し上げることはできませんが︑先

生が長崎へお出でになってから暫くして︑先生が私たちの学校で︑ドイツ語をお教えになっていた期間があります︒

つまり独語の教官でもあったわけです︒専門の法律のほかに︑ドイツ語の方を︑私の仏語と並んで外国語の授業とし

て二重に負担を引受けておられたということがありました︒

今の図書館の隣りにも当時研究室がございまして︑その研究室の棟に先生も私も研究室をもっていました︒そこで

おつき合いしている聞に︑大いに勉強をしようという話から︑一つ互いに教え合いましょうということになって︑私

に対してはフランス語を教えて頂きたい︑私はその代りに法律を先生から教えて頂くということで話がきまりまし

た︒そして︑先生は私に︑まず判り易いところからと︑民法のお話をして下さいました口私は仏語のテキストを先生

に差し上げて︑フランス語をお教えしましたD交換授業だったわけです︒何れも︑勤務時間の終った夕方から︑私の

研究室で行いました︒仲々忙しいので永く常にというわけには参りませんでしたが︑そうした楽しい期間もあったの

であります︒このほど先生が亡くなった御自宅の書斎の拶しい法律書の中にくっきりと浮かび上っていた一冊の仏和

辞典を眺めたとき︑私はそぞろに懐旧の情がこみ上げてくるのを禁ずることができませんでした︒

さて︑日付は省略して簡単に申し上げますが︑高商から経済学部へ創立五十周年記念︑たしか昭和三十年ですが︑

それを全学的にお祝いして︑同窓会などが中心になりまして提灯行列が行われたことがあります口この時など︑私は

今もよく覚えているのですが︑先生が︑提灯を数だけもらって待っているから御自分の研究室へ子供さんを迫れてお

出でなさいということでしたので︑夕方︑そこに集合し︑共に提灯行列に参加しましたD西口先生は︑実は︑その研

(4)

究室に奥さんと共にお住いになっていたのであります口西口先生が提灯行列に参加したというのは︑今から考えると

思い出話の﹂つとなります︒私たちは︑先生の研究室で提灯をもらい︑一つ一つに火を灯し︑運動場から一周を組み︑

共に街へ繰り出して行きました︒

不便︑不自由な研究室住いからその後官舎に先生はお移りになりましが︑先生が着任されたのが昭和十八年の秋で

ありまずから︑それからついこの間お亡くなりになるまでの実に永い年月︑それは戦争︑学徒動員︑原爆という大き

な事件の連続を挟んでの年月でありますだけに︑私にとって︑まことに感慨無限なものがあります︒余りにも私個人

みたまと結びついた追憶に終始してしまいましたが︑今は亡き西口先生の御霊に限りない哀悼の怠を表する次第でありま

(昭和四十五年五月一目︑東南ア研究所会議室において行われた経済学部主催の西口先生追悼式において) す ︒

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