鄕士
制度
の構
造と
機能
︵二
︶
徳 永 新 太 郎
五 ︑
泰平が永く抗いた︒それは封建制度による泰平であったと同時に︑また封建制度にとつての泰平でも打った︒
この間︑身分制度は時と共に益々整備し硬化してゆくかに見えた︒社食の国割は︑上下にも左右にもいよいよ封
鎖性を加へ︑互に準え難い溝東をめぐらし︑それぞれ自らの株をひたすら守り鎮けて行くかのやうであった︒
横の移動や身分の下降さへ容易でなかつたとすれば︑上昇が困難であったとて不思議はない︒殊にその身分制
皮は︑主として上犀の者の手によって︑上暦のものの利害を中心として︑立案もされ励行もされたのであるか
ら︒︵註こ
然し故もむづかしかつた百姓町人から侍にゆく途も︑全く抱えてゐたのではなかった︒武士への途は︑武功や
文武の革術や勘功やまた寸志その他奇特の行為やによって︑開かれて居ないのではなかった︒そして蟻の欠から
堤も崩れると下世話に主旨ふ︒封建的な鏡壁についた幾つかの小さな通路は︑やがて封建制度を崩漬せしむる一
郷士 倒産 の構 造と 機構 ︵ ニ︶
一二九
\
商 業 と 経 済
一三
O
因として小さからぬ意味を有つやうになった︒
然し何と言つでも泰子無事の世に武功は建てにくかつに︒兵長未分の古へと遣ひ︑図民皆兵の今日とも異り︑
専業的武士の地位の安固さこそ位舎秩序保持の第一義とされた営時に於ては︑﹁百姓共武義を閥単び︑又は百姓同
士相集り稽古致﹂すなどは︑﹁農業を妨候計にも無之︑身分を忘れ︑気がさに成行候基﹂(詑ラごであり︑やがて
は﹁下々に市営捕を組︑公濯をも不陣様に成行可申哉﹂(註一プニ﹀と懸念され︑総じて﹁竪く相止可申﹂筋であった︒但
し百姓が在方に浪人なNこを留め置いて武術を墜ん︑たりすることが厳禁されたといふことは︑反面から言へばか﹄
る事賓がかなりにあったことの反映であり︑事賓﹁近年は剣術修業杯と銃し︑諸落士或は浪人等在々を立廻hJ︑
百姓
共右
之風
儀を
墜候
者多
く﹂
(註
一プ
一一
一)
.ぷ
りゆ
き︑
他面専業的武士のみによる閤防の完壁が期し難くなった事情
と相侯って︑やがては諸藩に農兵論の擾頭となり後年の徴兵制にまで後展するに至ったのであるが︑
﹁官
姓共
武
萎御制禁﹂を原則とす治封建制度下に於て︑この途を通って侍となることはやさしい事ではなかった︒如何にも
﹁武萎心懸能︑数4M相倖茂相済︑剣術鰻術測量算術者同門之倍出精いたし候に付﹂といふやうな事例が︑郷士先祖
附の中に見出だされはするが︑それとて干の百姓に就てではなく︑概ね他の通路を経て郷士に召し加へられてゐ
大者の重ねての昇進の僚件であることが多かった︒また年毎に御手永寄又は数千永寄の武術仕合が郡代見分の下
に行はれ︑成績優秀の者は段上り巻させられることもあった.か︑これも亦郷土の重ねての昇進の保件であること
が普通であった︒
..'
‑
思惑によって苗字帯刀を許され︑郷士ともなり藩士ともなった者もないではない︒例へば後年肥後の碩墜とし
て安井息軒や躍谷宕陰などとも親交があり︑門下からは梧陰井上毅︑・井々佐添進一郎・古妊嘉門などを翠出せし
めた木下犀淳も︑元来は無十回一無刀の一農民であっk︒
木下宇多点倍︑交政九年四月早同心懸能致出精侠に付︑官出ナ帯万御苑御郡代直鰯一夜仰付︒天保四年六月居制御心附米拾俵宛五
ヶ年間被下置︒六年四月御留守居御中小姓列︑十石三人扶持御足二人扶持︒御次に被召加︒註一一一)
印も二十二歳にして器開中時脅館の試験に抜群の成績を得て︑稽氏帯万を許され︑御郡代直備の席に加へられ︑
三十一歳擢でられて藩主の伴讃となり︑御中小姓列に加へられ︑やがて世子の侍譲︑府撃訓導などをも勤めるや
うになった︒然し﹁営時落の風俗専ら武を重んC師門の完欣四つを得ぎれば家禄を襲︑ぐことを許さ宇︒故に武技
に長
ホ
Jる者は一一港之を推命し︑文塞有て武技足らぎれば士林之を蔑視して日く︑汝書物を冠にし来れ︑我一槍之
を努んのみと︒故に是時に蛍り讃書を以て身を起すは資に難しとする所︑世の段春を顧み
‑ AT
特立して道を墜ぷに
志さ
ぎれ
ば能
はざ
るな
り︒
﹂註
四)
これは後年の侍講元田永字翁の述懐であるが︑士人の間できへかゃうであった
の冗から︑野人の境遇としては︑それは二重にも三重にも困難であった︒木下犀涯のやうな事例は︑文教の振興
を怠らなかった肥後藩に於ても︑寧ろ異例に開局するものであって︑間単萎によって士分に抜擢される他の人々の場
合に
も︑
一つ
の限
度と
して
引用
され
た・
りし
てゐ
る︒
なほ自身阜蓄の諮詣が特に深かったのではないが︑地方教皐の振興奨聞に力︑をいたし吹かrによって一領一疋
郷士制度の構造と機能
,戸、、
一'‑' 一
一一
一一
一
商 業 と 組 湾
に擢でられた場合もある︒(詰五)然しこれとて単に教事に墨痔したといふ理由︑たけでかL
る﹁
殊恩
﹂を
受け
たの
で
はなく︑既にそれ以前に︑多年の勤功や少からぬ寸志やが積まれてゐたのである︒
それでは如何なる勤功が如何なる昇進を約束したであらうか︒先づ村民の中から選任されて村政金胞の中植と
なったものは庄屋である︒庄屋に就ては︑﹁其ノ時代(聖武天皇ノ御宇)ハ農兵不分︑武士土渚ノコトナレパ︑此
ノ長
ハ今
ノ名
主庄
屋一
一ハ
具リ
︑
一邑五十戸ノ軍役ヲ勤ル将タリ︑
ル斑官名主職モ百姓一一ハアラズ武官ナリOL然し﹁其ノ後時代押移リ士農分裂シテ︑村里ハ農家ノミ一一ナリユキタ 貞永ノコロマデモ農兵分ラザレパ︑式目ニア
ルユ
ヱ︑
一邑ノ内家柄正キ田園等多ク所持シタル百姓ヲ一村ノ長トシ斑官名主ト定メ︑村中致支配コト一一ナリタ
リ︒
﹂(
註六
)
いま問題としてゐる時代の庄屋は閏より農民の出である︒然し農民とは一一日へ一村の代表者であり指導
者であり笠宮
である︒ところでか﹄る人物が古宇を名乗ることを許され御惣庄屋直鰯となるまでに要した勤功
は四十年以上であった︒御郡代直備となるには五十年以上︑地士となるには六十年以上である︒普通諸手永略手
は︑事鑑類に御家人と記されてあるのは地士以上であるから︑保りに齢三十にして庄屋に任ぜられた村の佐古
無く勤め過して九十歳を越えねば在中御家人にはその末席にすら連なれなかったわけである︒庄屋すでに然り︒
それ以下の村役人は推して知るぺきのみ︒村役人遣が勤功の賞として︑御家人の席に加へられたり︑或ひは御家
人の席には及ばないまでも古宇御菟になったり躍服や傘なEが御菟になっ土りするといふヲ﹂とが︑
身分上の意味を有ったかの説明は︑後に郷土の諸段階を一括して取上ける際に譲るとして︑此屍に一路︑それら 一樫如何なる
に要したといふ勤功年設を示して置く︒それは同より役の高下によって具る︒山の口といふのは御山支記役の下
に居て常に山林を見廻る役の名であり︑頭百姓といふのは部落毎の百姓惣代ともいふべき役の名である︒
勤功に針する賞服連席庄屋在勤年数山ノ口在勤年数頭百姓在勤年数 傘
御
免
十五年以上
二十年以上
四十年以上
f直
目 民 御 免
二十二年以上
二十七年以上 無苗御惣庄屋直偶一十年以上
五 十 十 五 年 年 以 以 上 上
首字御免御惣庄屋直鰯
四十年以上 御 郡 代 直 鰯
五十年以上
六十年以上 地
士
六十年以上
{註 七
孝行その他の善行によって首字帯万が許された例は諸園に散見するo享保五年幕府の﹁孝行之者︑主︿外行跡宜
﹁一孝行之者︒高持︒但無高に侯者︑下人を召使侯程之者は高持同様之
事︒銀拾枚︑帯刀古宇を名乗らせ可申事﹂{苛八﹄とあり︒その事例も孝義賞として諸園に見える︒肥後に於ても︑
霊賢公﹁入園のはじめ︑先づ善良の民をたづね︑孝子忠臣より︑勧業の者にいたるまで︑主(程々に随ひ恩賞あり 致者には御褒美可被下書付﹂の中にも︑
しより︑風移り俗易り︑恩賞に預るもの︑年々に多ぐして︑四十年計の聞に︑ほとんど六百人に及ぺりよその行
肌肌
在京
日︑
品川
﹂つ
ゾっ
たも
のが
︑﹁
肥後
孝子
倖
Lである︒主主然しそれらの褒美は︑多くは衣服金銀銅米穀等の賞賜であ
郷 土 制 度 の 構 造 と 機 能
〆F、、
‑'一‑ノ
商 業 と 経 済
一三
四
り或ひは年貢差兎なh乙であって︑孝行のふによって士席を差許される場合は寧ろ稀れであったゃうである︒たと
ひ孝行が理由とされて士席巻許される場合に於てもーその他に凶作水害などの際に村方を救値したり︑米銭を献
納したり︑印ち後に説明しようとする所謂﹁寸志1 一的な﹁奇特成取計ヒ﹂を伴ふものであることが普通であったらし
い︒
︿註
一
O)
また台訴賞としても﹁ととう(徒窯﹀の訴人銀百枚︑こうそ(強訴)の訴人同断︑てうさん(逃散)の訴人
同断﹂とある他に︑﹁その品により帯万古宇も御菟あるぺき﹂こととなって居り︑更に﹁右類訴人いたすものもなく
村々騒立候節︑村内のものを差押へととうにくは﹄らせ手︑登人もさしいだきさ争村方これあらば︑村役人にて
も百姓にでも重にとりしづめ侯ものは御ほうび銀下され︑帯万苗字御菟︑さしつどましづめ候ものどもこれあら
ば︑それよ¥御ほうび下じおかるぺまもの也﹂といふ明和七年の中央に於ける奉行の達︑かあり︑その事例も地方
に無いではないが︑告訴或ひは強訴押留の功による得氏帯刀御菟といふやうなことは︑その性質から言つでも決
して昇進の常道として数多いものではなかった︒(詰
註(一ノご農民より町家の者になる事骸禁なり︒虚弱不具 者の類出家沙門となる願は札方の上許さる
Lなり︒﹁官職
制度
考﹂
一一
一一
頁一
(一ノ一一)三浦周行博士﹁法制見の研究﹂中﹁祉舎を中心とせ
る江戸幕府の法制﹂
(一一ノご丈化二年五月廿三日附達︒(大蔵省編纂﹁日本財政
経済史料﹂巻二︑一O五八・九頁)その前年丈化元年九月に は町人の武器を脅ふものあ芯を戒しめてゐる︒(ニノニ・三)大山政夫郎氏﹁農兵論﹂就中﹁幕末における農
兵論の撞頭﹂所引幕吏木村政蔵・﹁農兵不可然﹂の意見書
(三ノご﹁胆後先哲偉蹟後鰐﹂春一・四七頁木下厚泣の保所
引﹁家士先祖附﹂︒徳富健次郎氏﹁竹崎順子﹂四八頁
(三ノ一一)荒尾手永野原八幡宮社司月田石見甥
回 銭 大 月
長 日
嘉永二年五月朔日︑問中間多年心懸厚侍別相準︑大勢之門人
数導出精いたし侠‑一付︑士席浪人格被仰付︑毎歳御米拾俵
宛被下電候︒
但銭太郎一代限被仰付侠︒
︹﹁肥後先哲偉蹟後篤﹂径一︑三八!四O頁︑月田蒙祷の候
所引﹁余議控﹂)これは皐惑を以て四十三歳にして士席浪人
に︑五十一歳御留守居御中小姓に仰付けられた例である︒
﹁自排を以江戸表選卒仕︑根元極貧乏者にて非常之按難を
凌ぎ︑数年刻苦仕﹂といふやうな熱心な研皐とその後の手
厚い敬導ぷりとは︑同書所引時習館訓導謹の推皐般に明か
であ
る︒
(四)元田永手翁﹁還暦之記﹂(山崎正萱博士﹁横井小楠﹂上巻
停記篇三ニ頁所引)
(五)徳富猪一郎氏﹁畑霞勝遊記﹂一九二︑=一頁︑辛島盟井撰
徳富久貞君墓碕銘
(六)﹁地方凡例録﹂(﹁日本経済叢書﹂巻三一)四O
一 一 一 一 良
(七)内村政光氏﹁肥後薄の農村制度﹂中﹁村役人﹂の候所引の
年数に擦る
(八)孝行之者︑其外行跡宜殿者には御袈美可被下書付 一 孝 行 之 者 高 持
但無高に侠者︑下人を召使侠程之者は高持同様之亭
銀拾枚
久、
部士制度の構造と機詣
;‑‑..
‑'一‑‑ノ
帯万苗字を名乗らせ可申事
一 点 乎 行 之 者 無 高 濁 身 同 様 之 も の
銀武拾枚
ノ右之遁御褒美可被下之万脇差免之侠儀は高持之者只今
迄名主同様程之者には万首宇をゆるし可申侯︒唯今迄脇差
帯侠事不成禄之者には︑脇差計り差克し可申侠︒尤万脇差
は一代切︑首字は子孫迄名乗らせ可申事︒
一高持之内にでも厄介等も多候者などは︑身上取積兼子細を
承居︑吟味之上其持高に・より年貢差克可申事
一正直にして行股宜しく︑諸人のためにも相成供者︑右同前
に侠事一百姓町人右同様に供︒但町人は万差克候儀は無用に候事
右百姓町人之内︑勝而孝行なるもの︑︐又は格別E直に農業
無慨︑詩人のために成相隠に人之見決をも致し︑悪殿者に
は異見倖をも加へ遠近之者迄も風俗直
n v候段︑他領迄も沙
汰に及び候程のもの於有之者︑建吟味可被申開侠︒子細承
届侠上︑右書付之逼被仰付にて可有之侠使︑其趣を可被存
候︑巳上享 保 五 年 民 子 十 月
‑
﹁日本財政経済史料﹂(巻二︑ニニ八一ニニ丸頁)
(九)﹁銀台遣事﹂一二一買︑中村忠享編﹁肥後孝子停前後続﹂圏
中すべて士は元主り農工商に至るまで︑孝悌惇朴力回精勤
五
、
、 商 業 と 経 済
.<' 6〆
の者あb
ば︑其支配々々より官に以聞すべき皆︑費暦六年
令あり︒其善行を換閲して賞賜あり︒(﹁官職制民考﹂ニO
一一
貝)
( 一
O)
﹁奇特者御褒美苗字帯万御免有之し近例﹂として﹁地
方凡例録巻七﹂(四二五!四一一一八頁)に詳細に特記され︑﹁日
本財政経済史料巻ニ﹂(ニ四O!二四八頁)にも亦引用され
てゐる信州高伊郡小見村百姓大右衛門も︑苗字帯刀御免の
理由の中に﹁至而孝行にて格別の儀﹂といふことが設へbれ
.晶画
ノ
、
一 一 一 二
ハ
てはゐるが︑なほその他に﹁先年より身上相躍にで沼治等
商頁仕﹂﹁水難等之節は度々米穀差出相救﹂﹁居村近郷へも
手営いたし﹂といふやろな︑即ち寸志的篤行が︑また有力
な一理由であったことが察せられる︒
(一一)強訴押留の功に主り苗字帯万許可︑明和一七年四月
﹁御鯛警新四十七︑替政府御建留八﹂(﹁日本財政経済史料﹂
巻二︑一九六・七頁所引﹀
残された途は.寸志による昇進である︒寸志は諸地方で冥加︑上け金︑用立金︑御才売上納なEと稽せられ︑肥
後落の記録ではしばしば入賞といふ文字が同様の意味に用ゐられてゐる︒例へば﹁入賞勤功婆術等ノ士族卒調﹂
﹁入賞士族同入賞二代目郡代直燭﹂などのやうに︒寸志といふ一一言葉は元来は藩裕への金穀献約そのことを意味し︑
やがては之に濁する賞美として百字帯刀御菟そめ他身分上の殊遇を絞る人々をも寸志又は寸志もの寸志の者とい
った︒民間で蔑稀与吉へないまでも一種の邦捻的稿呼として金上殿︑金上侍なE
とも
一言
M枯
れた
O
託ご他落では金(
郷士又は献金郷土なHことも稀せられたといふ︒俄侍といふのもこの類であったであらう︒(詰二﹄
か﹄る意味の寸志制度は何時の頃から始まったのであらうか︒或る人は寸志による郷士取り立てか}﹁細川家の
r
中世に於て家臣堀平太左衛門勝名と云へる人の後議に係ると一言ふ︒﹂と迷ぺ︑更に他の人は﹁賓暦の改革に営り︑
堀平太左街門の建策によるといふ口碑が残ってゐる所から考へると︑其の頃が最も多かったのではなからうか﹂
と推量してゐる︒(註一一一)事震はそれ以前からあった︒然し何故寸志制度の起原がかやうに堀千太左衛門と結びつけ
られるに至ったのであらうか︒営時の藩主は細川重賢公(天明五年二四四五年藷)で︑紀州の徳川治貞公と共に天
下の二名君として︑結州に除麟︑肥後に鳳恩と歌はれてゐた︒その下に居て獄替の功多かったのが家老堀千太左
街門勝名(寛政五年二四五二年夜)であって︑この賢君醇吏によって諸般の藩制が完備し︑特に疲弊してゐた藩の
財政が建て直され七︒これを肥後落では﹁資暦の改革﹂と呼び慣らしてゐる︒寸志の起原ちか﹄る事情と結びつけ
﹁官時の行政が貧民救助叉は借金棒引を命じ︑之在寸志に立て士の段階を奥へられた事は︑
如何にも妙策であっ穴と感中る﹂と﹁制度考﹂は述べてゐる︒
その上資岡崎の改卒に営つては︑盛んに人材の抜擢登用が行はれた︒即ち﹁すべて此頃ょの︑人の器用をゑらび られたのであらう︒
て︑あながちに践の多少︑放の盛衰によらやJO元より士・にらんものは︑いふにや及ぶ︒緒方何がし回添某といふ
ものは︑農民なりしかE
も︑
主(
道に
委かりければ︑侍となして︑領内の勧農を司らしめ︑後は所領をも給ひたb
わ︒か﹄る類あけてかぞへがたし︒﹂(註巴中で川も最も破格の抜擢を受けたのが堀勝名自身であって︑﹁小姓組の頭に
て︑勤仕しけるを︑用人に移され︑いく程なく資暦二年七月︑ぬけ出して大奉行になし給ひけるより以来︑
一閣
の
仕壁︑此人とはからひ給はざる事なく︑迭に中老を経て家老になし賜ひて︑三千五百石に至り︑図の政事を委任
‑守、
郷士制度の構造と棟︑能
'"一""
一
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七
商 業 と 経 済
一 一 一 一 八
し給
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一九
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であったが︑﹁堀犬夫の事︑他図にては足軽より御取立被成父闘は無名無万の
人に
有つ
ると
専申
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﹂(
話一
九三
一}
と言はれるやうな特別な事情とも聯想されたかもわからない︒なほその頃肥後
藩以外にも一般に農民の稀氏帯刀が少くなかったと見えて︑享保年中(二三七六│二三九六年)﹁以来一統無筋目
耳姓苗字相名乗儀︑念度御停止被仰出﹂註ムハノコ爾来寛延三年(二四一O年)十一月幕府は重ねて農民の濫りに氏
を稀し万を帯一ぶるを禁じ︑越えて安永二年(二四三三年)五月にも稀氏帯刀の農民庭理方在定め︑その他之に関す
る禁令がしばしば後せられ丈ゐる詮六ノニ・一ニ・巳ない乙のことがあり︑これら図内一般の政治的経済的批合的諸事情
とも庚く照らし合はせて︑その起因が明かにされねばならない︒
兎もあれ寸志制度の起原は右の所謂賓暦改革の時代よりも早い︒寛永十一年(一一一一九四年)印ち細川氏肥後λ図
第三年︑既越の一領一疋などの地侍が設けられたといふその年にー定められた寸志規程が残ってゐるo
﹁公
儀御
手
停又は非常之凶荒等格別之筋につき余議之上寸志差上之儀被差菟︑現金銀米銀御蔵御銀所へ相約め候ものは︑銭
五貫一口の営りを以て新に御扶持方被下置御加増をも被仰付︑新たに御蔵入米をも紋下置御蔵米御加増をも可被
仰付︑其外連席御賞服且軽輩より士挟にも可被仰付侯事︒﹂右は寛永十一年究めとして﹁在中寸志格例﹂中にあり︑
{詰さ細川公治下に於ける寸志制度のはじめであると考へられる︒然し肥後入園以前の細川氏にかやうな制度が無
かったか︑また細川氏入園以前の肥後にその濫傍が無かったかは︑今はなほ問題として後に残る︒喜八)
この﹁在中寸志格例﹂中にも示されてゐるやうに︑寸志としての金穀献納は︑一般に﹁公儀御手侍﹂のためであ
り︑また﹁非常の凶荒等格別の筋につき﹂差上けられたのであるが︑その事例を更に奮詑中より拾へば様々の場合
があった︒﹁江戸御館類焼寸志﹂﹁江戸表出火︑龍ノ口御屋敷御類焼の節寸志﹂といふ例はしばしば見出される︒
﹁上野寛永寺御偽殴建立御手停﹂﹁増上寺御霊屋御手倖﹂﹁日光御手営﹂﹁関東川筋御普請御手倖御用﹂﹁相州御備場
御用﹂﹁御軍器御買上ケヱ付﹂﹁抱器御製造﹂﹁太守様御入閣の節旦叉御婚躍の節﹂﹁若殿様俄に江戸御護駕の節﹂
﹁若
殿様
御出
府の
節﹂
な
Eは特別な使詮が明示された﹁公儀御手停﹂の場合であり︑﹁御才完寸志﹂﹁至極無御按御用
に付才覚銀指上﹂﹁御勝手方御用﹂﹁御手首米代寸志﹂﹁御預潰寸志﹂などもあり︑また﹁何町火災之節﹂﹁荷村洪水
之節水請塘石垣修築料1 一﹁何村目鑑橋御普請入目の内﹂﹁麻疹流行二一付食民救助として﹂﹁銭僅に付飢人救助とし︑
て﹂などのやうに﹁非常の凶荒等格別の筋につきL謂は作品位合事業的使途のための献納もあり︑一般に﹁貧民御取
救御用﹂﹁貧民生産料として﹂﹁至食中引立方として﹂或ひは﹁民力強として﹂はその例が最も多い︒
極めて特殊なものとしては﹁皐校(落費時習館﹀御浩替の問書籍二部(資治通鐙網目全百二十一冊二画︑康澱字典
金四十時六供一両)指上﹂といふのがあり︑また直接に落格への獄約ではなく民間に於ける借金棒引とも畳一口ふべき
﹁在中より典物に取置きし種籾並諸穀類(代銀拾受賞八百目録)凶年に付在中に貸渡﹂﹁借財質地拾方﹂﹁貸付置侯銭
辻拾方L等があり︑更には直接に自家の柴進を求めて﹁奉願寸志金五十雨指上﹂けたり︑﹁願之旨有之寸志銀拾貫目
指上﹂けたりしてゐる場合も見られる︒また一度寸志等によって郷土となった者が隠居したり死亡したりした場
合には︑無保件にその跡が相続せしめられたのではなく︑跡目相続のためには一定額の﹁種目の寸志﹂がその際に
郷土制度の博遣と機能
〆'、、
‑一'‑"
一三
九
商 業 と 経 済
もしくは強め必要とされたのである︒
一回
O
それでは如何なる寸志の額が如何なる郷土の段階を約束したのであらうか︒たとへば地士なか﹂は前に述ぺたや
うに︑庄屋として在勤六十年絵︑ゃうやくにして到︒得るこ占もあったといはれるが︑之に達するためにはどれ
程の寸志を必要としたのであらうか︒
その前にしかし凡そ郷士なるものの段階は如何様に分けられてゐたかを︑明かにして置くが便利であらう︒今
までも地士とか一領一疋とか御中小姓列とか︑郷土の段階を示す幾つかの名稽をあけたことがあり︑その若干に
就ては多少内容にも飼れたのであるが︑ここに一熔その全躍の序列について見通しをつけて置くこととしよう︒
註(一)山田熊三郎氏﹁制度考﹂四︑主頁
大竹虎雄氏﹁奮熊本藩の郷土制度﹂(農業経湾研究第一巻第
三按二ハ一頁)
(ニ)﹁水戸薄史料﹂(﹁日本設涛史辞典﹂金郷士の項)
ー菅野和太郎氏﹁日本合同社企業費生具の研究﹂四九五頁
会己前者は児島貞熊氏﹁陣内志談﹂一七了裏︑後者は山田氏
﹁制度考﹂四︑五頁
(四)一一高本紫浜翁﹁銀台遣事﹂一一頁(﹁肥後丈献叢書﹂第一巻
所収)丈中︑田添某とあるは︑田添源次郎定斯︒徴践より 身を起して︑郡横目︑郡吟味彼等を勤め又薄内の田地を整
理し︑費暦七年上
n v明和六年まで十=一年間に及ぶ︒仰て食 名辞典﹂) 旅百石を賜はる︒寛政五年八月残す︑享年七十︒(﹁開後人
(五ノ一)﹁銀台遺事﹂九頁
(五ノニ)﹁銀台遭事﹂七O頁
(六ノ一)﹁地方凡例録﹂巻七︑四二三頁
(六ノ一一)寛延三年午十一月帯万苗字禁制の再告︑﹁牧民金
鍾八﹂﹁地方凡例録巻七﹂(﹁日本財政経済見料‑一巻一一︑一O
三四
i六頁)
(六
ノ三
)
一︑首宇帯万いたし侠百姓之事
諸問村々にて苗字帯万御克之者︑仕来直々に候問︑古宇帯
万御免之者は︑以来宗門人別帳︑御年貢米札等︑首字名前 を認︑都而堂大にて雨名不相名乗︑御年貢は勿論役儀外之 儀は︑村役人之差国請侠様︑銘々御代官闘賞分御預所村々
へ'
可被
申渡
侠
右之外︑先年より村々に致住居︑首字帯万致涼侠郷土等は'
仕恭之渇いたし置︑若及出入侠享有之侠者︑其節由緒得之 札之上可被相伺候︑以上 安永二年突巳五月
(﹁
日本
財政
経済
史料
﹂巻
一一
︑一
O三九頁所引)
七
︐(六ノ四)享和元年(ニ四六一年)七月百姓町人格氏帯万の禁
令︑﹁天保集成廿ニ︑令保秘録四﹂(同右巻ニ︑一O五八頁)
(士﹀熊本勝鹿﹁在中寸志格例﹂(内村氏﹁肥後落⁝に於ける金
約郷士制度﹂所引﹀
(八)久住郷士は今日の大分勝直入郡久住
r村︑蛍時の久住手
永に居住してゐた﹁寸志の者﹂﹁入賞士技﹂であったが︑そ
れが置かれたのは貞享の頃(二三四四!!ニコ一四八年)と惇
へbれてゐる︒(大竹虎雄氏﹁奮熊本藩の郷士制度﹂農業経
済研究第一巻第三強)
百字も有たホJ小脇差の一本も身に帯びることの許されてゐない百姓を︑俵りに︑純粋の或ひは翠なる百姓と言
ふならば︑古宇を稽へたり小脇差を帯びたりすることが許されることは︑既に郷土への一歩をはっきりと踏み出
てゐ
た︒
。F
したことになるであらう︒然し郷士の域に辿り着くまでには︑その前に幾つもの小刻みな設備的段階が横たはつ
萱北郡水俣千永の推定文久年間略手鐙一紙によかば︑竃数一五二コ一雷︑男女合計六六六八人の中に︑傘御兎と
いふ人達︑か三十八人︑士口凶躍之節白川上下小脇差傘御免といふ人が一入︑御惣庄屋一目備といふのが都合八人︑その
中で苗字の無いのが四人︑苗字御免が同じく四人︒次に御郡代直簡といふのが十八人︒その上に居るのが地士九
郷土制度の梼遣と機能
/ー、、
一一
、
、J
四
商 業 と 経 済
四 人
一領一疋十二人︑諸役人段六人︑御目見醤師一人︑御留守居御中小姓席一人である︒
その中で傘御免といふのは百姓ではあるが︑雨中には傘をさして差支へないもののことである︒江戸時代の農
民が︑政治家からも撃者からも一様に農は図の本なりと稽せられながら︑震際は如何に低い生活標準を強いられ
てゐたかを︑今こ﹄に繰り返して設くことはすまい︒それはすぺての近世農村史や農民史が読ま漏らすことのな
かった賠であるから︒此庭ではただ﹁一傘合羽下駄木履菅笠不成事﹂﹁一脇差傘合初菅笠ノ類直ニ取揚俣筈﹂(﹁官
職制度考﹂)などといふ禁制があって︑如何に雨が降らうと雲が積もらうと傘もさせ中合初も荒られ争菅笠もかぶ
れや
J︑雨具とではたロ袋と竹の皮笠︑履き物も下駄木履など思ひもよら歩︑草履か草軽かは︑たしかのほかし方の
なかった老幼男女が︑人口六千六百何十人中六千五百何人かであったことを指摘するに止める︒雨中に傘がさせ
一つ
には
前に
も一
一一
目し
たや
うに
︑七
竹吏
と
しての多年の勤功に封する嘉賞としてであった︒村庄屋としては十五年以上の︑﹁山の口﹂としては二十年以上の︑ る︑木履がはける︑僅かこれ詑けのと思はれる特椿が公認されるのは︑
頭百姓としては賓に四十年も以上の︒しかもその特権は家長一人花け︒これを家族にも及隠すためには︑更にそ
れ以上に長い勤めが必要とされに︒即ち三十歳で頭百姓に擢んでられた村め賢直有震な器目豆人が︑七十の坂巻越
えて‑初めて一本の傘をさし符七日の喜びの姿を想ひ見るとき︑私遣は︑彼にρ象徴される農民的人生め哀楽に深く
心中
ぜ打
たれ
ムヂ
には
居ら
れな
い︒
傘と木履の他に祭穂や葬式ないこかhとある時に限つては麻上下の踏服に威儀をた冗し︑小脇差一本をも帯びるこ
¥
とを許されてゐるのが︑一紙中に吉凶践の節腕上下小脇差傘御菟とある一人である︒彼がもし後に漣ぺるやうな
寸志献上の迭を選んだのでなかったとすれば︑彼は庄屋としてならば恒例に二十二年以と︑山の口£してならば二
十七年以上︑頭百姓としてならば賢に四十五年以上もの職匿を経てゐるものでなければならなかった︒しかし村
役人に選ばれる程の器号一と幸運とに恵まれるのは小教の百姓であって︑大多数の百姓達は︑傘を手にする喜びも木
履をはく嬉しさも遂に知らないま﹄に︑況して自らを呼ぶ古宇をも有たないま﹄に︑世︑申告去らねばならなかった︒
立(庭にしかし寸志の途がひらけるo動功幾十年の結果を︑寸法は直ちに彼の眼か前にも穴らしてくれるo
節被仰付候寸志縫目叉者段上り井御扶持等より段々傘御兎迄笠多可有之︑若間違之銭高ニ而有之候ば倫申談︑多
ー
此っ
少によらムダ望も可有之︑寸志空しく相成不申相立候様に可申談事﹂といふ前書きにω拭いて﹁一傘御菟百五拾目以
一家内不残時々伺傘御免(寸志額記載なし)﹂︒これは亭
上
一傘小脇差御菟三百目以上︑
一鵡
服傘
八百
目以
上︑
和二年(二四六二年)預りの寸士山規短の一部でおる︒(註ごこれより少しづL値上りになってゐる規短︑﹁一傘御琵
二百
目︑
一傘
小脇
差五
百目
︑
一家内傘菅笠五百目︑一府上下傘小脇差一貫目﹂といふのは詮ニ)恐らくこの歳よりや
﹄後の究めであらう︒ともあれ右二つの規短によれば傘御菟は百五十目かご百目かである︒それが頭百姓として
四十年︑村庄屋としてきへ十五年以上の勤功に報いられた特擢をあがなひ得ぺま寸志額である︒銀六十白金一一聞
といふ一冗総八年(二三五五年)幕府公定の金銀相場によればそれは三雨内外である︒一ニ雨といへば九例へば世事見
問録に言ふ︑﹁告へば給金三雨を取る下男奉公在致しても︑其三隔は営時の相場に積りでは米八九俵に営るなり
o r 郷土制度の構造と機能
〆,、、
一、..J一
四
商 業 と 経 済
一四
四
在所
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作な
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︑八
九俵
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分も
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金の
三雨
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上身
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苦一
一)
勤功
と寸
志とこれで果たして樫衡を得て居たのであらうか︒とにかく寸志は若き百姓にも傘と木履を奥へ︑府上下をまと
はせ小脇差を帯びさせる︒更に一貫目以上(享和二年)もしくは一貫五百目以上(文政十二年)の寸志は︑彼をいは
ゆる御惣庄屋直備に昇格せしめる︒御惣庄屋は手永の長である︒手永の語原については諸設があるが︑いづれに
せよ行政直劃としての手永なるものは︑細川氏の治下を週刊りて豊前にも肥後にも行はれた︒肥後では寛政九年細
川氏入図と共に︑従来の郷が手永に︑大庄屋が惣庄屋に︑改稽された︒そして肥後藩十四郡が︑時により二一千永
の庭合はあったが概ね五十一手永に分かたれ︑一手永は普通二・三十ケ村から成り立ってゐた
oh
これより透かに
小さな手永もあったが︑大きい方では七十飴ケ村を・含み︑高ご高六千石鈴を超えるものもあった︒惣庄屋は郡代
(郡宰とも記される)の下に一手永を統ぺたのであるから︑中には七十鈴ケ村の庄屋達を支配する者もあり︑格式
は兎に角︑地方に於ける賓際の勢力はかなりに大きかった︒初めは惣庄屋は御山奉行を粂帯することが多かった
ゃうであるが︑後には概ね代官房﹃余帯し︑御山奉行は濁立して御山支配役と改稿された︒惣庄屋の知行は概ね二
三十石︑中には百五十石といふ異例も数人あった︒(詰問﹀村庄屋の直接配下たるに過ぎなかった干の百姓が昇格し
て︑この御惣庄屋直燭となるのである︒
然しそこでもま記官字を名のることは直ャには許されなかったwそれが無苗御惣庄屋直簡である︒古宇が庶民
に禁止されたことは既に鍋れたところであるが︑百字を許されるといふことが如何に重大な意味を有ったかは︑
寛永十一年将軍家光が京都に上った時︑特に大阪に入り恩威ならび施さんとし︑故老を招いて︑願ふところ必争
許すぺしと捺してその欲する所を聞いたのに封して︑三老は古宇を以って唯 v一の願ひとし︑直ちに諒許されいに
く光栄として喜んだといふ︑淀屋に︐からむ言ひ倖へによってもうかがはれる︒世が降ってそれ程ではなくなつに
までも庄屋や山の口でさへ四十年五十年以上の勤功がなければ許されなかった古宇であるが︑寸志ならば一貫五
百目(享和二年)かご貫五百目(文政十二年)によって許されたのである︒古宇御惣庄屋直簡がこれである︒
恩賞として万は百字より一暦重かった︒この段まではまだ小脇差が許されるだけで︑大小雨万を帯びるには︑
更に一段在昇らねばならなかった︒まに十回字帯万御菟の場合にも︑十回字は家族に及ぶ場合にも帯刀は本人限りと
か︑或ひは苗字は子々孫々まで許されても︑帯万は本人一代に限るといふ場合が少くなかった︒話一九﹄
百字御免御惣庄屋直儲からいま一段を昇ると御郡代直備となる︒間早に御直舗とも一日一口ひ︑郡宰百備とも誌す︒郡
政大局直飼といふ呼び方は明治初年になってからのものであらう︒郡代は各都に一人又は二人︑計十八人︑二百
石高知行取の藩士で︑郡方奉行の指揮巻受けて捲首郡の郡政一般を統轄した︒﹃註六ノ一)﹁惣庄屋己下の鮒防進退政
府の命中ぜ奉て指揮す﹂といふことになってゐたが︑賓際は殆ど郡代の考とほりになったものであらう︒
には及びもないが︑せめてなりたや殿様に﹂といふ俗語が行はれたといふことによっても︑その樫勢の程︒か察せ
﹁御
郡様
られる︒この御郡代直備の段では︑稀氏と共に雨刀巻帯びることが許された︒この段の者は在中でも他の諸段階
の者に絞ぺて人数も多く︑殊に後世になるほどその増し方も著しかったゃうである︒この段で侍らしい形は一路
郷土制度の構造と機能
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一一
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一四
五
商 業 と 経 済
一四
六
整ったゃうではあるが︑普通に﹁おぢくれ﹂と言はれて︑この段あたりまでは手永の中でも飴り隼敬されなかった
百姓からこの段に昇るための寸志額は︑二貫五百目以上(享和二年)乃至四貫目以上
とも
一言
はれ
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る︒
詮六
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(文
政十
二年
)で
あっ
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その上が地士叉は地侍である︒この名は庚く郷士一般の汎稿として用ゐられることもあるが︑まに郷士中噌定
の一段階の名穏でもある︒そしてこれからが本来の在中御家人となるのである︒例へば推定文久年間久木野手永
略手鑑一紙中には霞数二三三軒の内諾として社司一軒︑御家人九軒︑御郡筒一一一一軒︑御百姓二O
五軒
︑
00
一軒
と記されてゐるが︑その九軒の御家人に含ま炉るものは︑御山支配役(在勤中諸役人段)一軒︑
士五軒であって︑御郡筒新奮合せて二十二軒はその外に置かれ︑御直燭二軒は御百姓中に加へられてゐる︒その
他の諸手永略手鑑類の一紙でも︑人口を三通りに大別して︑第一類寺社︑家内共︑第二類家人並に郡宰直備︑郡
筒︑家内共︑第三類影踏帳衆としてゐる場合が少︿ない︒﹃詰七ノご影踏帳衆は︑切支丹宗門改めのため年々影踏 一領一疋三軒︑地
,会
或ひは踏給を行はせられた一般の村百姓であり︑郡宰直備とその家内とは︑この影踏帳衆の中には含められでゐ
ないが︑明かに家人の外に数へられてゐる︒然し稀れには︑無役家人の中に︑諸役人段・一領一疋・地士と共に
郡宰直簡を含めた記載例も無いではなく︑その場合には惣庄屋直簡・惣庄屋支配浪人・郡筒奮古・同新・札筒な
どが
︑御
家人
の下
に列
記さ
れて
ゐる
︒﹃
註七
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﹄
百姓より地士たるためには︑寸志三貫目以上(享和二年)乃至五貫
目以
上(
文政
十二
年)
を要
した
︒
、
その上が前に兵・農複合の典型的な郷士として多少の設明を加へた一領一疋であり︑この段から鎧一領軍馬一
頭駕箆一一衆争許され︑ニれ以土は﹁地方でも相営の隼敬を受け旦穣威もあった﹂ことは上越の通りである︒御山支
配役(賓暦改革以前には御山奉行と稽せられ︑惣庄屋粂帯のこともあった)や惣庄屋粂代官なか﹂には︑この段の者
から選任されることが多'かったが︑惣庄屋や御山支配役在勤中は諸役人段に差加へられ︑その勤功によっては諸
役人段本席に加へられることもあったJ百姓より一領一疋への寸志は六貫目(享和二年﹀乃至八貫目(文政十二年)
であり︑金一雨銀七十目の比債や以てすれば︑百雨乃至百三十儀雨に相営する︒百雨といへば︑﹁今五百石の武
士は一ヶ年百雨の暮方は出来余るなおり﹂といふ﹁世事見開録﹂の言葉も思ひあはせられる︒数多い郷土の諸段階が
一領一疋で一陸上下に分けられたやうに見えることは︑前にも指摘したが︑(本稿第四節)それはまた寸志額によ
つでも察せられる︒印ちこれ以上の又は以下の諸段階に於ては︑寸志額の差等は比較的小刻みに定められである
一領一疋への寸志のみは︑その前段地士への寸志に較べて一躍倍額となってゐる︒然しこれ︑たけの寸士山中ぜ献
納しても︑直ぐこの段階に昇れたのではなく︑﹁やはり下より順次上位に進ん誌ので︑この間相営な年月を要し︑
一領一疋以上になるには三四代を浮なければ出来なかった﹂とも記されてゐる︒(註八)また阜に金穀献納だけでな i/'
く︑相営の武事文萎の修得等も顧慮されたらしく︑家系書や相緩願書等にしばしばそれらの遺諮の程が書き出さ
れてゐる︒服制などもその直ぐ下の地士とは差別されてゐ大︒特に家柄φ古さ故に隼ばれたといふ蛮古地士とさ
も
匝別
され
てゐ
大︒
(註
九}
郷士制度の構迭と機能
〆担、一 一、../
一四
七
商 業 と 経 済
一四
八
一領一疋の上は︑順次に諸役人段︑歩小姓列︑濁躍︑歩御使番列︑士席浪人格︑御留守居御中小姓列︑御留守
居御中小姓席︑御留守居御呑方を経て御知行取席へと進む︒これらの名稀は本来概ね城下に於ける家士叉は軽輩
の席次を示すもので︑これらの﹁本席﹂に準守るものとして﹁格﹂又は﹁列﹂等があったのである︒︐これらの在御家人
は知行所は国よりのことであるが︑扶持も受けないものが多かった︒例へば御留守居御中小姓列にしても︑た︑た
その座席︑そ主則されるだけで︑﹁御扶持方不被下電者﹂が普通であったが︑文化三年の﹁御留守居御中小姓列より御
蔵米百石︒九拾五貫目﹂といふ寸志内規に示されてあるやうに︑寸志によって永代相続知行取の席に差加へられ
ることもあったのである︒(徳富家﹁内分記録﹂)この御知行取席が郷士の系列の最高に位する︒この段は﹁近世に
至りて設けられたるもの﹂であって︑﹁重代相続の士格にして︑寸志昇進の極度とす1郷土は此以上に進むことを
許されやJ︒﹂(﹁陣内誌談﹂)こ﹄に至って軽琶の域を股して士族の段階に列し︑所謂御苑米の御知行取りとなるの
である︒御知行取席の内でも︑なほその上に二十七貫目以上の寸志を加へることによって︑﹁御蔵米百石之人倫
百石御加増﹂のことも行はれた︒(﹁内分記録﹂)更に寸志・申告重ねて加増される詮は閉ぎされては居なかったと言ふ
が‑今はそれに要した寸志の基準を明かにせ争︑且つ在方にあっては甚だ稀有の例に属するものであったであら
21ノO
因みに役と席とは具る︒役は官職に︑席は位階にも蛍たるであらう︒﹁一因一家の内にでも︑役と席とのこつは
さすがに定められやJしては︑事整ひが七かるべし︒きれば此家中には︑家老︑備頭杯の役席の外は︑昔より大概
段格を四品に分つ︒着座︑物頭︑千士︑軽堂︑各いへわ︒君(霊賢公)の御時に︑夫︑か中の等級をわけで︑着座に土
中比あり︒物頭は元来足軽五十人の頭よわ︑十人の頭まで次第す︒千士は所領あるものと︑中小姓といふものと
の遼ひあり︒回記在大概にして︑軽輩まで︑程々の等級を定めらる︒主(役を命ぜられて︑主(席につくは︑常の事な
︒︒或は席上りて役下り︑あるは役上りて席下り︑叉は主(職に泊ひにるものは︑役中ぜかへ・下して席︑をす﹄め杯せ
られ
しか
ば︑
選母
の道
自在
にし
て︑
大方
は主
(れ
八主
︿職
に泊
へわ
︒﹂
(﹁
銀台
遺事
﹂)
右に
あけ
た郷
土の
諸席
次は
概ね
家中
の軽自ヰの諸席次に営たり︑郷土中最も高い席次のものが︑家中の干士中の比較的下級に相官したのである︒そし
て家中でと同様じ在中でも席と役とは分別され︑席中佐同じうして役異り︑或ひは役を同じうして席を具にするなrのことがあった︒例へば︑席は等しく諸役人段であっても︑或る者は御山支配役を︑他は御惣庄屋を︑更に他
の者は唐物抜荷改方御横目を勤めた如き︑また御買上薪見締といふ同一の職に就きながph或る者は一領一疋の席
に他は諸役人段の席に居になE
の如
きで
ある
︒(
註一
七)
百姓から士席へ連なるこの系列は︑こまかく見れば之でつくされて居るのではない︒等しく浪人といっても︑
士籍浪人︑士籍浪人格︑軽輩浪人︑御惣庄屋支配浪人なEの差別があった︒諸手永一祇に於て士席浪人格は歩御
使番列よりも上席であるが︑御惣庄屋支配浪人は概ねそれより七八段も低い御惣庄屋直偶の次席に記されて居る︒
軽輩浪人はその中間で一領一疋の次座に附けられる定めであった︒その他それよ¥の段階にも重代のもの︑
代
限りのもの︑或ひは更に短く特別な職務在勤中に限られるものなどの別があった︒例へば御郡代末御手附横目唐
郷士制度の構造と機能
〆
‑
、一 一、.../
一四
九
商 業 と 経 済
一五
O
•
物抜荷改方御横目在勤中諸役人段︑紙楕請込在勤中叉は御米般改方詰込在勤中地士︑櫨格見締在勤中郡代御直燭
などの類である︒
その他御郡筒をこの系列中に教へる人がある︒謹一
O)
それによれば御郡筒の位置は御郡代直備の下︑御惣庄屋
直燭の上であるとされる︒諸手永略手鑑一一祇にも概ね御郡代直備の次席に記されてゐる︒郡筒のもので多年の勤
功によって郡代直備に仰付けられた事例もある︒またあらたに御郡筒に召し加へられるための寸志がもしそれら
諸書の示すやうに二貫五百目であったとすれば︑その黙から見ても大穏こ﹄に位させるのは安営であらう︒謹一一}
御郡筒はしかし明かに御家人ではなかった︒営時の諸記録にも常に区別されてゐる︒稽氏帯万を許されてゐたこ
と︑宗門改めの影踏から除かれて居たことなhとから見て︑明かに村人数から放れては居たのであるが︑その家内
は︑少くとも麗北御郡筒に於ては︑なほ村人数なみに影踏み}必要とした︒御家人に於ては本人は回より家内共影
踏から除かれてゐ穴か︑御郡筒に於ては後世寸志によって家内共影踏免除の途が開かれてからも︑その特構を受
くるに要する寸志高は百姓家内共に於けると同額であった︒然し同額であることに封する異議の申立も御郡筒の
側から出た程であるから︑その位置は寧ろ御家人と御百姓との中間にあったのであらう︒然し御郡筒は郷士たる
身分上の一段階︑即ち一つの席といふより寧ろ一種の役として扱はれて居るかに見える場合も無いではない︒印
ち席としては︑御家人より始めて御郡代直備︑御惣庄屋直閥︑士口凶躍之節腕上下小脇差御菟︑傘御菟なか﹂に至る
序列に記し︑御郡筒はその中には含まれてゐない︒そして別に御惣庄屋余代官を始め︑手代︑下代︑台所詰一一而