一八 五
商 業 と 経 済
一八
六
士のやうに︑農工商的要素を多分に併せもった人々︒か含まれてゐたのである︒そしてこの人々が士放としては下
級に属するものであることは事震である︒然し彼等は純粋な士挨中の下級者とは明かに具る性格を有ってゐた︒
彼等が新しい時代の新しい活動領域︑特に新しい産業の領域に進出し得大所以は︑間半に士放の下級であったとい
ふことだけでは︑十分の説明がつきかね右のではないか︒寧ろ一一回に於て士族的一位舎唐乃至社合図丈高し︑同時
に農工商的一位舎暦乃至吐舎圏にも属した郷士の複合的性格︑或ひは郷土そのものでないまでも︑何等かの因縁に
よって郷土に類するかLる複合的性格の所有者で彼等があったことに︑少からぬ意味があったのではないか︒こ
の意味に於て︑左の解決は傾聴に値する︒﹁明治年間殊に其の初年に於て我図の経済界中ゼ指導しにるものは主と
して士放出の賓業家であったが︑併し其等質業家の前身を見るに︑主(の祖先が商人であり︑或は若年の頃商業に
従事したる経験中ゼ有し︑或は又武士の身の上であり乍ら︑商業に関係争}有する地位にありし者である︒﹂﹁されば
o
F
こそ多くの士放が無経験のため﹁士放の商法﹄として失敗したるにも拘ら争︑前に掲けたるが如き人々は新進資業
家として実の名を揚ぐるに至ったのである︒﹂︑註吾郎ち維新後経済界を新しき方向に開拓し指導した人々は︑士人
にして商人であり︑或ひは商人にして士人である如き人々であった︒それは士と商との複合的・二重的・爾端的
存在として︑本稿の寸志もの︑入賞士族︑郷士そのものであるか︑さうでないまでも多分に之に類する性格を有
つものであった︒彼等はかつての複合的・二重的・雨端的性格の故に︑今や新しき時還の水先案内的役割りを完
うした︒この関係は阜に産業界に限らない︒政界にも思想界にも見出される︒かLる事例として︑今はただ﹁賢
参じ
た人
々か
}指
示す
るに
止め
る︒
(註
六﹄
早﹂の旗臓の下に高温の識見一世に鳴り︑肥後のみならホ中央にまで革新の策︑還を捲き起した横井小楠の門下に
註(ご﹁明治一一一年七月三日我藩中より徴集せる兵員を解欣
し桂三門家老以下諸家家来を本藩士族卒挨に採用す﹂(﹁肥
後国事史料﹂巻十︑五五回︑五頁)右に関する蒋臆よりの建
によれば︑等しく.中小姓と言ワても︑薄公直参や奮一族家
老の家系であったそれは落︒士族に︑その他の三千石以上 の知行取に仕へてゐたそれは薄の手放にといふ様に︑待遇
ム差別されてゐる︒それらの詳細は比良には省略する︒
(ニ)明治二年十二月熊本藩達によって大夫・士及びそれ以 下り面々の家総が定められた︒之によれば除制二十一等に
分れ士族に止まる︒規則に示された最高は︑一万総高石未満
九千石迄が現米二百五十石で︑最下は元禄四十石未満三十 石 迄 が 八 石
︑ 元 時 三 十 石 以 下 は 是 迄 之 語 と な っ て ゐ る
o
(﹁
制度
考﹂
四一
ユ︑
四四
頁)
(三)熊本肱議﹁明治七年家総奉還願﹂関係記録
(囚)﹁明治財政史﹂第八巻九九頁所引
(五)菅野和太郎氏﹁日本に於ける舎一此企業後生良の研究﹂特
に﹁士族と合祉企業﹂
(六)山崎正萱博士﹁横井小楠﹂上下︒ζ
の貼に関する詳細の質
詮は改めて之を取上げる︒
郷士制度の構遁と機能
(後記)先づそのE
睦を見届け︑それに焦貼を合せて問題問 考へようとした︒ところで郷士制度の構法と機能とは︑多︿
の人々の研究によって多分に明かにほされて来たものの︑な
ほ全貌が一訳されてゐるとは云へない︒一位A羽田範園錯綜の問題左
置接関係の乏しい貼にまで記速が及んだ所以である︒なほ諸 地方の郷土には共通性と共に地方的特性が少︿ない︒これら の地方に於ける具樫性を明かにするととは︑共通性を知る上
にも必要である︒路島で・は特に肥後藩のそれを取り扱づた︒
特に大竹貫一氏﹁菩胞後藩に於ける郷士制度﹂にも指摘されて
ゐるやうに︑従来公にされた資料込研究も甚だ乏しかづた葦 北郡方面の郷士に就ては︑比
h毘に幾らかその伎を補ひ得たと
思ふ︒然し特に末期的郷土として重要な町方寸志者宇︑明治維
新前後に於ける郷士の濁自なる丈化史的役割や︑階級周流の 典型的存在としての郷士などの諸問題は︑一瞥を奥へる乙と すら由来なかった︒賞面の問題とした社合範閏錯綜のそれさ
へ︑説いて未だ詳かならぎる怨みを克れない︒それちは凡べて
改めて之を取上げることとする︒命本稿の初めに掲げた資料 以外︑熊本勝隠及び熊本係国書館所蔵の奮記類を閲覧する機
合が奥へられた︒関係者各位の好意に封し深︿謝意を表する︒
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