Joseph Andrewsの二重構造 : 三つの挿話の意義
著者 吉村 優子
雑誌名 主流
号 44
ページ 43‑61
発行年 1983‑02‑20
権利 同志社大学英文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014950
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J o s e p h A n d r e ωs の二重構造
一一三つの挿話の意義一一
吉 村 優 子
序
Walter Allenの言葉を借りて言えば, Fielding'sendless fertility of comic invention "1の証左である The Hi・storyザ theAdventures ザ Joseph Andrews, and 01 His Friend j1;[r. Abraham Adams (1742)は, 主人公が遭遇する個々の事件の滑稽な顛末,その躍動感に満ちた連鎖に大
きな魅力がある.著者 HenryFieldingがこの小説を comicepic‑poem in prose"2と呼び,構成のモデルを Hom邑rのOdysseyに求めるのも,ひ
とつには,この種の作品が, aseries of separate adventures, detached from and independent on each other, yet all tending to one great
end "3によって成り立っているからである. ひとつひとつの事件は, そ
れ自体の面白さもさることながら,小説全体の大きな流れの構成分子とし て,確固たる存在理由を持っている
しかし,本筋を逸脱しその流れを中断してしまうかのような挿話が,幅 をきかせて点在していることも見逃せない.例えばLeonoraの物語, Wil‑ sonの物語, LennardとPaulの物語などは,その内容自体,主人公が 体験する adventureではないし,彼らの行動に対して殆ど何の影響も及 ぼしていない.それらは飽くまで劇中劇としておさまっており,本筋の事 件展開に直接貢献しているとは言い難いのである. F. H. Dudden は Fieldingの挿話について, .. . [theyJ can hardly be justified on ar圃
tistic ground "5と言い切っているが, これらの挿話がアクション続きの
44 Joseph A沌drewsの二重構造
小説の中で持つ存在価値が疑問視されがちなのも無理はない.
しかしながら Jose.ρhAndrewsをJosephとFannyの愛が結実する 過程としてとらえる時,上記三つの挿話比主人公が体験する数々の事件
とは異なった次元で,有機的な本筋の展開に寄与しているように思われる.
主人公の生活空間を越えているとは言うものの,これらの挿話はそれぞれ に男女聞のトラブ、ノレを扱っており,テーマ上, Josephと Fannyの結び つきと対応させてとらえることができる.つまり9 読者がそれらを彼らの 愛の正当性を確かめる際のひとつの指針とみなすことができるのである.
如何なる試練を経て JosephとFannyが幸せな結婚に至ったか一一ーその 過程を,三つの挿話とのコントラストに於いて辿ることが小論の目的であ る.便宜上,小説を発端部〈始まり"‑'2巻12章),中間部(2巻13章"‑'3巻 8章),終結部(3巻9章 終的の三つに分け,各部に含まれる挿話を土 台にして考察を進める.
I
第一の挿話 (Leonoraの物語〉は, Josephと Fannyの再会までを描 いた小説発端部に配されている.Tow‑wouseの旅寵で出逢った Joseph
とAdamsが一緒に旅を続ける途上,馬車に乗り合わせた婦人によってこ の物語が始められるという設定である.第一の挿話が,女性によって語ら れる女性の物語であるということは注目すべきである.小説発端部に於い ては女性登場人物達が圧倒的な個性の強さを発揮しており,それはField‑ ingが女性の貞節を称揚した RichardsonのPamela(1740)のパロディ
ー化を狙って JosephAndrewsを書き始めたという状況をよく反映して いる.Leonoraの挿話は, Fieldingの女性調刺の極致であると同時に,
小説発端部の終りに登場する女主人公 Fannyの正体を評価する上で,重 要な試金石となっている.
若く美しい Leonoraは Horatioという誠実な青年と恋に陥り,婚約す
Joseph Andrewsの二重構造 45 るまでに至るのであるが, Horatioがたった三日間留守にする聞に, Bel‑ larmineというフランスかぶれの色男に浮気心を起こす:
How vast is the difference between being the wife of a poor coun‑ sellor, and the wife of Bellarmine's fortune!
I f
1 marry Horatio, 1 shall triumph over no more than one rival; but by marrying Bellarmine, 1 shall be the envy of all my acquaintance. What happiness! (p. 92)虚栄心に導かれて Horatioを裏切った Leonoraは,逆に彼女の財産をあ てにしていた Bellarmineに捨てられるはめになり, the unfortunate Jilt"として世間の瑚笑を浴び, 見る影もない人生を送るのである.
小説発端部で Leonoraの挿話以前に登場する女性達は,多かれ少なか れみなLeonoraの虚栄心を分かち持っている.その代表格はLadyBooby
と Slipslopであり,虚栄心に裏打ちされた彼女達の激しい情欲は, うぶ なJosephに限りない当惑と恐怖を,読者には限りない笑いを提供するも のである.Fieldingは小説の序文に於いて, The Ridiculous only... falls within my province in the present work" (p. 10) と述べている が, Lady Boobyの錯乱は,その最初の標的となっている:
Love became his [Joseph'sJ advocate, and whispered many things in his favour. Honour likewise endeavoured to vindicate his crime, and Pity to mitigate his punishment; on the other side, Pride and Revenge spoke as loudly against him; and thus the poor lady was tortured with perplexity, opposite passions dis‑ tracting and tearing her mind different ways. (p. 36)
Josephをなんとか自分のベヅドに引きずりこもうとして失敗した Lady Boobyの煩闘は, hungry tigress" (p. 26) にたとえられる Slipslop にも共有されるものであり, Horatioをとるべきか Bellarmineをとるべ
46 Joseph Andrewsの二重構造 きかで思い悩む Leonoraの煩閣に相通ずるものである.
Lady BoobyとSlipslopという大物に圧倒される感はあるが,他の女 性達にも利己的な虚栄心が顕著にみられる.例えば,追剥に身ぐるみはが れた Josephが傷を負って苦しんでいる折,通りがかった馬車に乗ってい た貴婦人は,彼が裸であることに眉をひそめ,頑として彼を馬車に乗せて やろうとはしない.またJosephがようやく運びこまれた旅寵でも, Tow‑
wouse夫人は彼を浮浪者とみなして厄介者扱いし, 被が死んだら一体誰 がその葬式代を負担するのかと愚痴をこぼすのである Tow‑wouseの 旅 龍を出てからも, ]osephはまた Grave‑airs という(その名にふさわし い〉女性から,馬車に同乗することを拒絶される.社会的・経済的弱者に 対する被女達の無慈悲な態度は,財産のないHoratioを見捨てたLeonora の虚栄心と同類のものである.
これらの女性達の中にあって, Josephに対しただひとり親切心を見せ るのは Tow‑wouseの旅寵の女中 Bettyであるが,彼女の存在は読者の 女性観を一層損なうものである.傷ついた Josephの為に自ら外科医を呼 びに走り,なにくれとなく暖かL、心遣いをみぜる Betty‑一一他の女性達と 違って身分が低い乙女にみられるこの優しさは,虚栄心を離れた真の人間 愛として賛美さるべき筈である. ところが Bettyの隠された多情ぶりは,
突如その正体を現わして Josephに襲いかかるのである.そして彼女は燃 えあがった欲情の吐け口として,手近な Tow明 ouseの誘惑にすすんで応 じさえするのである. Fieldingは,先に引用した theRidiculous"の 源泉を次のように分析している:
From the discovery of this a妊ectation arises the Ridiculous‑
which always strikes the reader with surprise and pleasure; and that in a higher and stronger degree when the affectation arises from hypocrisy, than when from vanity: for to discover anyone to be the exact reverse of what he affects, is more surprising, and
Joseph Andト‑ewsの二重構造 47 consequently more ridiculous, than to五ndhim a little deficient in the quality he desires the reputation of. (p. 11)
「心優しき乙女」という仮面を永らく見事に被りおおそてきただけに,
Bettyの正体の暴露は読者に一層の驚きを与えずにはおかない.また, 21 歳の貧しい娘が, Lady Boobyや Slipslopなど身分の高さを権威とする 年増女と,本質的に同じ性癖を備えているということに,年齢や地位を問 わぬ女性全体の節操のなさが強調されているのである.
Leonoraの物語は,女性に純粋な愛を求めるのは無理だと言わんばかり のFieldingの女性描写の頂天であるが,実は, Josephが恋い慕う Fanny の出現の逆説的なイントロダクションともなっている Fannyが Joseph の一途な思いに値する女性なのかどうか,彼女もまたこれまでに登場 Lた 女性達と同様,虚栄心や欲情の虜なのではないか一一このような疑い抗 読者の中に徐々に形成されてゆくのである.Leonoraの挿話の後,初めて 新たに登場する女性が Fannyであるということは,その意味で非常に興 味深い.
山中で悪党に乱暴されかかったところを, Adamsによって無事救出さ れた Fannyは,読者が彼女の正体に対して抱く疑いを裏書きするかのよ
うな発言をする:
How, Fanny!" answered Adams: indeed 1 very well remem‑
ber you; what can have brought you hither?" 1 have told you, sir," replied she, 1 was tavel1ing towards London; but 1 thought you mentioned Joseph Andrews; pray what is become of him?"
1 left him, child, this afternoon," said Adams, in the stage事
coach, in his way towards our parish, whither he is going to see you." To see me! La! sir," answered Fanny, sure you jeer me; what should he be going to see me for?" Can you ask that ?" replied Adams. 1 hope, Fanny, you are not inconstant i 1 assure you he deserves much better of you/' La! Mr. Ad‑
48 Joseph Andrewsの二重構造
ams," said she, what is 1¥在r. Joseph to me? 1 am sure 1 never had anything to say to him, but as one fel1ow‑servant might to aロother." (p. 121)
女中 Bettyは21歳, Leonora は18歳,そしてこの Fannyは19議である.
既に前二者によって若き乙女の純真さは信用を失なヮている.その上,
Leonoraがたった三日 Horatioと逢わぬ間に別の男に気を移したのに比 して, Fannyの場合は文字が読めも書けもしないため,なんと12ヶ月も の間, Josephと手紙のやりとりずらしていなかったということを考えれ ば,初登場に際しての Fannyのすげない素振りは読者をして rFanny
よ,おまえもか」と嘆息させるおそれ充分である.
しかしながら作者は Bettyの場合と正反対の経路を辿って Fanny の正体を暴露するのである:
Indeed, the fact was, that this poor girl, having heard of Joseph's misfortune. . . that instant abandoned the cow she was milking, and, taking with her a litt1e bundle of clothes under her arm, and al1 the money she was worth in her mvn purse, without con‑ sulting anyone, immediately set forward in pursuit of one whom, notwithstanding her shyness to the parson, she loved with inex‑ pressible violence, though with the purest and most delicate pas‑ sion. (p. 122, Italics mine)
Fannyの Josephに対する思いは, inexpressibleviolence"と表現さ れ Lady Boobyらの欲情を想起させないでもないが,作者は周到にもそ れを thepurest and most delicate passion に伴われたものと限定す ることによって, Fannyと他の女性達との間に明確な一線を画している.
そしてこの正体暴露にあたっては Bettyの hypocrisy"に対する純情 な Fannyの shyness"が強く印象づけられているのである.
それまで Josephには女難の相がみられたが,恋人 Fannyの正体は彼
Joseρh Andrewsの二重構造 49 の女性鑑識限を裏切るものではない.換言すれば, JosephとHoratioが 同類であっても, Fannyは Leonoraに象徴される女性達と等質でないと いうことが, rLeonora対 日oratioイコール Fanny対 JosephJという 式を無効にし, Josephと Fannyの結び、つきを祝福して正当化する第一 歩となっているのである.
E
Joseph Andrewsに於いてョ最も長く,またちょうど真中あたりに位置 する第3巻第3章は, 二番目の挿話 (Wilsonの物語〉に充てられている.
Joseph達が旅を続ける途中,親切な Wilson夫妻の家に一晩泊めてもら うこととなり,その主人が Adamsにこわれて身の上話を披涯するという 設定である.この挿話は,後に小説のクライマックスで, Wilsonが Jo‑ sephの実父であることが暴露されるための重要な伏線である.しかしそ れはいわば付帯的な意義であって,それと Wilsonの回想談全体との間に は, Sheldon Sacksが指摘しているとおり,何の integralconnection吋
もない.第二の挿話の力点ば,飽くまで若き Wilsonの愚行を描くことに おかれているのである.
vanityこそが whatleads us into more follies than you imagine (p. 173)とAdamsに語る Wilsonの身の上話は, Leonoraの物語が女 性の堕落を描いていたのと対照的に,男性の堕落を如実に措きだしている.
若くして父をなくした Wilsonは,相続した財産を資本として a 五ne gentleman" (p. 170)にならんとしてロンドンヘ赴く.そして大都会の華 やかさの中で放蕩三味の生活に溺れ,真剣な愛も持たぬまま次から次へと 女性を不幸にしてゆくのである.人間社会の虚偽に対する洞察力を欠き,
自己省察に努めるでもなく愚行を重ね続けた Wilsonは,まさにピカレス ク小説の主人公とも呼ぶべきである.現在彼の妻となっているHarrietの 深い思いやりによって,そのどん底の生活から救いあげられた Wilsonは,
50 Joseρh A刀drewsの二重構造
ょうやく自分の愚かさに覚醒し,田舎で素朴な生活を楽しむためにロンド ンを離れる決意をしたのであった.
Wilsonの挿話の意義は,それが対比的に ]osephの賢明さp 精神的た くましさを浮き彫りにしているという点にある.小説発端部では女性軍が 圧倒的な強さを発揮していたため,彼女達の猛攻撃に対する ]osephの必 死の防戦ぶりは, ともすれば滑稽なほど痛々しいものであった. しかし小 説中間部に至るじ 女性登場人物達が影を潜めるにつれ, Josephはその 成熟ぶりをいかんなく表わしている.救い難いまでに堕落した Wilsonの 青年期と較べる時, ]osephの堅実さはその輝きを一層強くするのである.
]osephの特質を分析するにあたっては,彼に対する Adamsの役割の 変化に在自する必要がある.小説発端部に於いて Adamsは ]oseph と Fannyの良き保護者であった.]osephがLadyBoobyや Slipslopの誘 惑に屈しなかったのは, thespotless example of the amiable Pamela, and the excell巴ntsermons of Mr. Adams" (p. 43)のおかげであった
し, ]osephが追剥に受けた傷で苦しんでいる折も, Adamsはロンドンへ 行く自分の用事を引き延ばして彼の面倒をみたのである.Fannyが 山 中 で悪党に襲われたのを救ったのも Adamsであり,また被女が ]osephと の再会に際して驚きと感激のあまり失神した時も, Adamsは命ほどに大 切にしていた Aschylusの本を火中に放り出してまで,彼女の介抱に努 めた. ところが小説中間部になるや否や, Adamsは立て続けにその無能 さを表わして, ]osephとFannyに対する保護者的役割を喪失してしま
うのである.例えば旅費に困った挙句,同業の牧師に助けを求めることを 思いついたまではよかったが,強欲牧師 Trulliberを説き伏せるどころ か,逆に浮浪者呼ばわりされて追い払われてしまうのである.また偶然出 会った紳士のうまい話を何の警戒心もなく信じこみ,この男を,
ぺ . .
you are indeed a Christian of the true primitive kind, and旦nhonour to the country wherein you live" (p. 147) と絶賛するが, 結局はすっかJoseph Andrewsの二重構造 り敷かれてしまうのである.
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非常に単純で,世間知らずであることが Adamsの弱みである.確かに 幅広い学識を備えてはいるが,その学識が実際生活上,設に鋭い洞察力を 与えているとは言L縫い.書物に対する Adamsの絶大なる信頼7は,T.仰
Jonesに於ける Squire¥Vesternの狩猟に対する執着同様,彼の喜劇性を 高めているに過ぎない.Wolfgang IserはAdamsの限界について次のよ
うに述べている:
This explicit affirmation of the value of literature involves im‑ plicitly imprisoning oneself in a fabric of phantasy and delusion. This in turn prevents one from making a correct assessment of empirical situations, since these are generally far too complex to be dealt with in accordance with one set formula. . . . Fielding's hero [AdamsJ becomes quite absurd whenever he tries to supply
乱 literaryreduction of some empirical problem and believes that he has thus found the solution.8
作者も Adamsのことを現に小説の冒頭で entirely ignorant of the ways of this world as an infant just entered into it could possibly be" (p. 17)と紹介しているが,小説発端部ではさほど目立つものでもな かったその特性は,中間部になると俄然顕著になるのである.現実の人間 社会の慶偽に対する洞察力を欠いており,また経験から学ぶということが ないために,何度も何度も窮地に追いこまれるという点では, Adamsと 若き Wilsonは互角であると言えよう. Lady BoobyゃSlipslopが, Leonoraの物語の現実的な投影として Fannyのひきたて役になっていた のと同じように,若き Wilsonの浅見を分かち持つ Ad昌msは,日常的な
νヴェノレで ]osephをひきたたせる役割を担っているのである.
具体的にストーリーを追うと, Adamsが幼碓な洞察力を露呈する一方 で, Josephの適格な判断力が着実に働いている場面がいくつもある. OU
52 Joseph Aπdrewsの二重模造
えば Wilson夫妻の家へ辿り着く直前,真夜中の道中で怪しげな一団に遭 遇した時, Josephは即座に戦闘に及ぼうといきりたっ Adamsを制して,
まず、は Fannyを安全な場所へ移すことが先決だと主張する.また,その 難を逃れて川辺までゆきっき, Adams は泳いで渡りきれるかどうか心配 するのに対して, Josephは,対岸に家の明りが見えることからして近く に橋があるに違いないと見事な推理を働かせる. Wilson夫妻が彼らに持 たせてくれた食料の包みの中から一枚の金貨を発見した時も, Adamsは 何かの手ちがいだろうと単純に考えるのだが, Josephはそこに, Wilson 夫妻の彼らに対する奥床しい思いやりを察するのである.このように,小 説中間部に於いて旅のリーダーシyプをとっているのは Josephである.
Adamsが衝動的に物事を判断して行動するのに対して, Josephは非常に 用心深く,適切な判断力を備えていることがわかる.
Josephの賢明さは,被の実生活での経験から育まれたものである.う まい話で Adamsを簡単に欺いた悪党について, Josephは語る:
1 was never much pleased with his professing so much kindn邑ss for you at first sight: for 1 have heard the gentIemen of our c10th in London tel1 many such stories of their masters. . . . it is a maxim among the gentlemen of our c1oth, that those masters who promise the most perform the least. . . . (p. 150)
都会での生活の中で色々なことを見聞きした Josephは,その経験から逐 次教訓を得ていたのである Josephの視野の広さは, 教 育 に 関 す る Adamsとの討論に於いてもよく表われている.Wilsonの 過 去 の 不 行 跡 について, Adams は短絡的にそれを publicschoolに於ける教育の悪さ に掃するのだが, Joseph は設の元主人 Sir Thomas Booby が public school出身であったけれども立派な紳土であったことを例にひき, どう いう場で教育を受けるかは,必ずしも人格を左右する要因とはならないと 反論する9 Adamsがしばしば牽強付会的なものの見方をするのに対し,
Joseph Andrewsの二重構造 53 Joseph は自分が実社会で体験したことをもとに,本質を見極めて公正な 判断を下そうとするのである.
Adamsと比較することにより直接的に観察できる Josephの賢拐さは,
Wilsonの回想談との比較によって極めて簡潔に印象づけられている.
Wilsonはちょうど Josephと同じ年頃に,虚飾にまみれたロンドンで女 性問題を中心とした数々の難儀にあい,その後,真に愛する女性とともに 田舎へ戻る決心をした. Josephもまた災難続きであったロンドンでの生 活を離れ3 恋人 Fannyとともに生まれ故郷へ帰る途上にある.実の親子 であることを考慮せずとも,若き Wilsonと]osephがたどった経路は アイデンティカノレである. しかし,都会生活の中でその虚飾を自ら受け容 れ,自身を堕落へ追いやった若き Wilsonと,飽くまで自己統制に努めp それによって真のたくまLさを得てきた Josephとの聞にはp かなりの漏
りがみられる.Adamsとの教育談義に於いてp .. . if he be of a right‑ eous temper, you may trust him to London, or wherever you please‑
he討11be in no danger of being corrupted " (p. 195)と語ったJoseph には,無意識のうちにも,自分自身'がその言葉にたがわぬ生活を送ってき たことに対する自信がうかがえるのである.軽はずみな若き Wilsonと賢 明な Josephとの関係は,不誠実な Leonoraと純粋な Fanny との関係 に等しい.そして,小説中間部で明らかにされた Josephの成熟ぶりは,
彼が麗しい Fannyの恋人たることを正当化しているのである.
車
第三の挿話 (LennardとPaulの物語)は, Fannyの 誘 拐 事 件 か ら Josephと Fannyの結婚までを描いた小説終結部に位置している.愛息 Dickの勉強ぶりを披露する為, Adamsが彼にこの物語を朗読させると いう設定である.この挿話の直前, DickはJ!lで溺れかけ Adamsは狂乱 の体であったのだが,そのほとぼりも冷めきらぬうちに Adamsが Dick
54 Joseρh A拝drewsの二重構造
に朗読を強いていること,また LennardとPaulの物語は幼い Dickが 朗読するにはあまり適当と言えないストーリーであることを考えると,第 三の挿話はその設定上いくらか無理があるように思われる.更に, Dick
の朗読はある騒動がもちあがったため完結せぬまま中途でさえぎられてし まうので,この挿話が意図する「教訓fJも暖昧である.換言すれば, 第 一・第二の挿話に較べ第三の挿話の導入は一段と唐突であり,またその内 容は自立性に欠けている.しかし,そうであるからこそ第三の挿話は,
Josephと Fannyの動き!こ照らし合わせてみて初めてその存在意義を把 握することができるのである.
挿話の主人公 LennardとPaulは幼溺1Iじみであるが, 15年ぶりに再会 して旧交を暖める機会を得る. ところが, ともに片意地な Lennard夫妻 は些細なことで口論ばかりしており, Paulはふたりの仲裁役としての労 をとることとなる.服装の色をめぐる第一の口論の後, Paulは 夫 人 が い ないすきに, Lennardに対し彼のかたくなな態度を答めsubmissionの必 要性を説く.夕食の材料がヤマシギかヤマウヅラかをめぐる第二の口論の 折には夫人に対してその誤りを指摘し,彼女にも submissionの徳を教え るのである.このように, thedoctrine of submission" (p. 275)でも って夫婦の和解を導いた Paulは,第三の口論にあたっては前のふたつの 口論の際と異なった仲裁方法をとる.つまり,一方にその非を反省させる のではなく,夫婦両方の肩をもってしまったのである.その矛盾に気づい た Lennard夫妻は, とうとう結束して,彼の仲介工作はむしろ夫婦問の 愛情を損ねる障害であったとして Paulを非難するのである一一二
第三の挿話は,夫婦問の不安定なつながり,第三者がそのつながりに及 ぼす影響を示している.そしてそれは,小説終結部に至って,いよいよ結 婚を目前にひかえた,いわば夫婦候補生である JosephとFannyの愛情 のあり方と対照的にとらえることができる.Lennard夫妻のつながりは非 常に屈折しており,第三者を仲介としてかろうじて保たれている.彼らは
ゐsephAndrewsの二重構造 55 仲介者 Paulが提唱する thedoctrine of submission "を安易に受け容 れはするが,それもうわべだけの一時的効果をもたらすに過ぎず,彼らの 自分本意な性癖を矯正する薬とはなっていない.それに反して Josephと Fannyの率直な愛は3 仲介者を必要としないばかりか, ふたりの間に立 ちはだかる障害を, どんな絶望的な状況下にあっても自力で乗り越えてし まう強さを持っているのである.
小説終結部で, Josephと Fannyはさまざまな形をとった権威により,
三度その中を引き裂かれそうになる.その一番手は,やくざな道楽地主で ある.Fannyの美貌に魅せられた彼は,遊び仲間を使って彼女の誘拐を企 てるのである。大格闘の末 Fannyを奪われ,悲嘆にくれる Josephに対 し Adamsは素直に運命に屈するよう雄弁をふるう:
. . . no accident happens to us without the Divine permission, and that ,;~s tIle duty of a man, much more of a Christian, to sub‑ mit. . . . ~oseph, if you are wise, and truly know your own inter‑ est, you wi1l peaceably and quietly submit to all the dispensa‑ tions of Providence, being thoroughly assured that all the mis明
fortunes, how great soever, which happen to the righteous, hap司
pen to them for their own good. (pp. 224‑25)
Adamsが説く submission"は, Paulが Lennard夫妻に説いた the doctrine of submission"よりも更に哲学的・理知的なものであるが,
Josephはそれを安易に受け容れようとしない. 幾分落ち着きを取り戻し てから彼はつぶやく: Yes,1 will bear my sorrows like a man / But 1 must also feel them as a man" (p. 226) 10. 人間の非力さに対する無 抵抗のあきらめではなく,過酷な運命に直面した人間が,その感情の奔流 を他にすりかえることなく,力の限り受けとめようとする緊張感がこの独 自に表われている.一方 Fannyも,か弱い身ながら悪漢どもに激しい抵 抗をみせている.悪漢の厳しい制止にも拘わらず何度も劫けを求めて叫ぶ
56 Joseph Andrewsの二重構造
Fannyには, Joseph同様,運命に submitすることなくなんとかそれを 乗りきろうとする力強さがうかがえる.
その難を逃れて無事再会することができた JosephとFannyは,続い てまた個々に二度目の試練を味わうことになる.Josephへの欲情が断ち 切れない LadyBoobyは,甥 SquireBoobyとその妻 Pamela(Joseph
の妹〉と結託して,身分の低い Fannyと別れるよう Josephに強く迫る のである.前の道楽地主の場合と異なり,今回は Josephが日頃尊重して いる人々による干渉であるが,それでも Josephは Fannyを見捨てるこ
とを断固拒否する:
1 am resolved on no account to quit my dear Fanny.... for all my pleasure is centered in Fanny; and whilst 1 have health, 1 shall be able to support her with my labour in that station to which she was bom, and with which she is content. (p. 259)
その間 FannyはBeauDidapperのしつこい誘惑に悩まされ,彼の使用 人にまで言い寄られるのであるが,それらを毅然とはねつけている:
. . . he [Beau Didapper's servant] told her, though he was a serv‑ ant, he was a man of some fortune, which h? would make her mistress of‑and this without any insult to her virtue, for that he would marry her. She answered, if his master himself, or the greatest lord in the land, would marry her, she would refuse him. (p. 260)
Josephも Fannyも経済的裕福さなどには目もくれず,ひたすら純粋な 愛の至福をのみ信じているのである.第三の挿話に於いて, Lennard夫 妻がそれぞれ個別に Paulの説得を受けることにより, うわすべりに自分 の考えを変えていたのと対照的に, Josephと Fannyは片方がいない場 でも第三者の意見に惑わされることなく,互いに対する率直な思いを保つ
Joseph Andrewsの二重構造 57 のである.
不当な手段や偏見でもって人為的にその仲を裂こうとする圧力には全く 屈しなかった Jos巴phとFanny 一一彼らを待ちうける最後の試練は,誰 の悪意によるものでもない自然の謀りごとであるだけに,抗い難いもので ある.夢にまでみた結婚を目前にした今になって,とある行商人が Fanny の親ば Andrews,つまり ]osephとFannyは実の兄妹であると言い出 すのである.この Oed
か
us並みの発覚に,これまで彼らの結婚を反対し てきた連中が有頂天にな忍一方, Josephと Fannyがこの上ない驚惇と 絶望を味わうたことは言うまでもない.しかしながら,彼らはこの試諌をも見事に乗りきろうとする:
. . . they had a long conversatIon together, the conclusion of which was, that, if they found themselves to be really hrother and sis‑ ter, they vowed a perpetual ce1ibacy, and to 1ive together a11 their days, and indulge a Platonic fr匂ndshipfor each other. (p. 290)
後に Josephが Wilsonの実子であることが発覚し,彼と Fannyに血の つながりがないことが証朔されるのであるが,そのような外からの解決を 待つまでもなく,彼らは上の引用に於いて既にこの試綴に打ち克っている のである. 第三の挿話に於いて, Lennard夫妻は三度目の口論に際し以 前とは違った方法で Paulに仲裁されたが,それが災いとなって,彼らの 身勝手さは押えきれぬものとなった.しかし JosephとFannyは,性質 の異なった第三の障害をも立派に克服するのである.彼らの愛はあまりに 強く深いものであるから,彼らはそれを純粋に精神的なレヴェルにまでひ
きあげることができるのである.
第三の挿話に登場する Lennard夫妻のきまぐれな関係は,いよいよ結 婚を迎える ]osephとFannyのつながりと全く対照的である.些結なこ とで口論し互いを非難しあうが, Paulになだめられるとすぐ仲直りして
58 Joseph Andrewsの二重構造
彼を思人と崇め,かと思うとすぐまた別の口論を始め,挙句の果てには悪 意のない Paulにすべての罪を被せてしまう Lennard夫妻.その不安定 な夫婦関係は,自分達だけでなく第三者にも害を及ぼしている.それに対 して JosephとFannyは,その深い愛情と信頼によって強く結ばれ,ふ たりの仲を裂こうとする障害をひとつひとつ自分達の力で乗り越えるので ある.彼らの結婚が苦労の果てにも実現するのは rewardsof their con‑ stancy" (p. 297) としてであり,その結果,自分達のみならず彼らの幸 福を願う周囲の人々をも幸せにしているのである.
結 び
Jos
ゅ ん
Andrewsに於ける三つの挿話は,本筋の事件展開に不可欠なも のではなく,小説の登場人物達にとって一過性の時間つぶしに過ぎない.それらはすべて Adamsに促されて始められるのだが9 その Adamsの関 心も,挿話が終わるや否や別の事件に移ってしまう.JosephとFannyに いたっては,その場に居合わせなかったり他に気を散らしていたりで,三 つの挿話いずれをも最初から最後まで完全には聞いてさえいないのである.
登場人物達は,次から次へと巻き起こる現実的な事件に気をとられるあま り,これらの挿話にこだわっている余裕はないのである.
しかし三つの挿話は JosephとFannyの愛の結実過程と照らし合わせ てその意義を解することができる.第一の挿話 (Leonoraの物語〉は女性 の不誠実さを描いており,それは小説発端部に於ける女性登場人物達にも 普遍的にみられる性癖なのであるが, Fannyの誠実さを際立たせる効果 を持っている.第二の挿話 (Wilsonの物語〉は男性の人生に対する洞察 力の欠如を描いており,それはあまりに単純素朴な善人 Adamsにも愛す べき形で表われているものであるが, Josephの賢拐さを引き立たせる効 果を持っている.また第三の挿話 (Lennardと Paulの物語〉は夫婦関 係の不安定さを措いており,それは JosephとFannyの強い愛と信頼の
Joseph Aπdrewsの二重構造 59 幹を一層明確に印象づけるものである.小説発端部ではFannyがJoseph の愛を受けるにふさわしい女性であることがラ 中 間 部 で は Josephが Fannyの信頼を受けるに足る男性であることが証明され,終結部ではこ のふたりの愛が,周囲の人々との調和の中で,主幹ぜな結婚へとつながって ゆくべきものであることが示されているのである.
三つの挿話は JosephとFannyの関保のいわば反対命題であって》そ の存在は小説全体にふくらみを持たせているのである.JosephとFanny のラヴストーリーは次から次へとク戸ノロジカルに進展する事件の連鎖に よって支えられている. しかしながら一定時間の枠内で特殊な条件ー下に 実った授らの恋は,彼らの生活する時空間を越えた物語と対比されること によって,より普遍的な正当性を付与されているのである .TmηJonesの 特質を, a S)引ematic organization of contrasts"l1とみる Dorothy Van Gher誌 の 意 見 は,Joseph Andrewsにも該当してし3る. Josephと Fannyが現実に遭遇する数々の事件と三つの挿話一一 Joseph Andrews はこの二重構造の上に立って JosephとFannyのラヴストーリーを措い ているのである.
注
1 Walt巴rAllen, The English Novel : A Short Critical H istory (New Y ork : E. P. Dutton & Co., Inc , 1954 ,)p. 49.
Fielding had the gift which is the prerogative of great comic writers of being able to cap absurdity or situation on absurdity of situatIon in a single scene, and to go on doing it beyond what we expect to be the climax.
2 Henry Fielding, The History 01 the Adventures 01 •んseph Andrews, and 01 His Friend Mr. Abrahα悦 Adams
,
in Josψh Andreωsαnd Shamela,
ed. Martin C. Battestin (Boston: Houghton Mifflin Company, 1961), p. 7. 以下この版よりの引用はzその直後の括弧内にベ}ジを記す.
3 William Ernest Henl巴y,(ed.), The ComPlete Works 01 Henry Fielding, Esq・9
XVI, bk. U, quoted in Martin C. Battestin, The Moral Basis 01 Fielding' s
60 Joseph Andrewsの二重構造
Art: A Study of Joseph Andrews" (Middletown, Conn. : Wesleyan Univer‑ sity Press, 1959), p. 87. Henry Fieldingが,妹Sarahの小説D仰 idSimple (1744)に寄せた序文中の言葉である.
尚, Homerに対する Fieldingの関心は ,Joseth Andrewsの序文によく示 さ
n
ている:The EPIC, as well as the DRAMA, is divided into tragedy and comedy.
HOMER, who was the father of this species of poetry, gave us a patt巴rn of both these, though that of the latter kind is entirely lost; which Aris‑ totle tel1s us, bore the same relation to comedy which his Iliad bears to trag巴dy.And perhaps, that ¥¥唱 haveno more instances of it among the writers of antiquity, is owing to the los8 of this great pattern, which, had it survived, would have found its imitators equally with the other poems of this great original (p.7)
おそらく Fieldingは,Joseph Andrewsを失なわれた Homerの喜劇jに匹敵す るものとみなしているのであろう.
4 Dorothy Van Ghent は TomJonesについて次のように述べているが, 彼 女の意見は JosephAndrewsにもあてはまるものである.
Tom Jones has a far more elaborate plot than any we have yet en・
countered in thes邑 studies,elahorat巴 not only in the sense that the book contains an immense number of episodes, but also in the sense that all these episodes are knit, as intimate cause and effect, into a large single action obeying a single impulse from start to五ni8h.
(Dorothy Van Ghent, The English Novel: Form and Function (New Y ork : Harper & Row Publishers, 1953J, p. 85.)
5 F. Homes Dudden, Henry Field初g:His Life, Works, and Times (Oxford:
Clarendon Press, 1952), 1, 325, quoted in Martin C. Battestin, The Moral Basis of Fielding' s Art, p. 119.
6 The fate of the Wilsons' lost child, strawberry mark and all, prepares us for the discovery that the Wilsons are Joseph's parents; at the very least, we know we wi1l meet the vVilsons again after Adams, Joseph, and Fanny leave their country retreat. But there is no integral connection between the expectations thus aroused and the strayed‑lamh adventures of which お1r.i九Tilson'stale largely consists.
(Sheldon Sacks, Fiction and the Shape of Belief: A Study of Henry Fieldiπg with Gla托cesat Swift, Johnson and Richardso判 (Chicago:The
Joseph Aπdrewsの二重構造 61 University of Chicago Press, 1964J, p. 215)
F. Homes Duddenも同様に次のように論じている: Wilson'shistory, indeed, comprises some matter relevant to the plotυ. but it would have been de五nitelyan advantage had the greater part of it been omitted." (F. Homes Dudden, op. cit., p. 119)
7 彼をまんまと欺いた悪党が,表面上は善人そうな顔つきをしていたことを不思 議がる Adamsに,昔船乗りであった男は諮る:¥.. if you had travelled as far as I have, and conversed with the many nations where I have traded, you would not give any credit to a man's countenance." (p. 154) しかし Adamsは,白分の方がず、っと豊富な旅行経験を持っていると反論する:
. . the travelling I mean is in books, the only way of trave11ing by which any knowledge is to be acquired. . . there is something more neces‑ sary than lif巴 itself,which is provided by learning; I mean the learning of the clergy. (pp. 155‑56)
8 i九TolfgangIser, The Implied Reade
へ :
Patterns of Communication in Prose Fiction from Bunyan to Beckett (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1980), p. 45.9 Josephの考えを擁護するかのように,作者はこの討論のすぐ後で登場し Fannyの誘拐を企てる悪漢を, private educationを受けた人間としてわざわざ 設定している:
. . . he had been educated (if we may here use that expression) in the country, and at his own home, under the care of his mother, and a tutor who had orders never to correct him, nor to compel him to learn more than he liked. . .. (p. 206)
この悪漢は, Adamsが主張する理想的教育形態は必ずしも完壁でないことを証 明しているのである.
10 この詩句について,編者 Battestin教 授 は 次 の よ う な 注 釈 を つ け て い る Joseph's quotation is a rough version of Macbeth, IV. iii. 258‑62, where Macduff laments the murder of his wife and chi1dren." (p. 363)
11 Dorothy Van Ghent, The English Novel, p. 84.
Structurally, it [Tom Jones] is characterized, like Don Quixote, by a systematic organization of contrasts, a playing off of one attitude and one way of life against another attitude and another way of life, with a constant detail of contrast in the character relationships, scene relationships, and even verbal relationships. ; ・2