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アメリカの広告倫理思想

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(1)

アメリカの広告倫理思想

その他のタイトル The American Advertising Ethics

著者 中濃 晶三

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 3

号 2

ページ 27‑41

発行年 1972‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00023221

(2)

中 農 晶

1841

年にポルネイ.

B•

パーマー

(VolneyB. Palmer)

が,広告代理店の原初的形態である 媒体買付代行機関としての代理店を,フィラデルフィアに開いてから,カールトン・アンド・ス ミス

(1864

年創立,

1970

年度世界第

1

位の広告代理店

J

・ウォルクー・トンプソンの前身),

•W ・エイヤー・アンド・サン (1868年創立)などの有力代理店が輩出し,ょうやくアメリカ社 会に与える広告の影響が増加しはじめた。 しかし初期の広告界には虚偽または誇大広告が氾濫 し,商品自体にも不正なものが多かった。その結果,消費者大衆の反撓を招き,これに対処する ため当時コカ• コーラのセールス・マネージャであったサミュエル・

C

・ドップスが主唱者とな って,虚偽,誇大広告の排除と消費者教育を目的とする民間の広告監視機圏 ペクー・ビジネス

ビューロー•

(Better Business Bureau) 1>

が ,

1912

年ニューヨークに設立された。

1929

年の大恐慌の際にも,広告は大きな批判と非難の矢而に立たされた。それにつづく

30

年代 の間,飢えと貧困に悩む民衆の産業界に対する非難は,企業の声である広告に向けられ,広告を 通じて企業が攻撃された。社会科学者,宗教家,評論家が,広告は浪費である,広告は独占を助 長する,広告は消費者に追加されるコストであるといった告発をつづけ,「

1

億のモルモット」

(100 Million Guinea Pigs), 

「ありふれた詐欺行為」

(The Popular Practice  of Fraud), 

「略奪のパートナー」

(Partnersin Plunder)

のような書物があからさまに広告を批判し,消費 者大衆の関心を集めた。この危機を乗り越えるために,当時ヤング・アンド・ルビカムの社長で あったチェスクー・ラロッシュや

J

・ウォールクー・トンプソンの上級顧門で,元シカゴ大学教 授のジェームス •W ・ヤングらがリーダーとなって,広告主,媒体,広告代理店の三者から成る

1) Samuel C. Dobbs

が創設した

BetterBusiness Bureau

は現在アメリカの

131

カ所にあり,その 本部である

CBBB(BBB

協議会)がニューヨークにある。活動賣金はすぺてその地域の会社,商 店,媒体と広告代理店の寄付でまかなっており,消費者の苦惰処理と消費者教育のために活動してい る。なお, BBB のスローガンは •Truth

in Advertising t•

"Investigation‑Before you in vest!"

である。「宣伝会議」

1971

6

月号,拙稿・なぜ,日本に

BBB

が必要か?・参照

‑27‑

(3)

関西人学「社会学部紀要」第

3

巻第

2

公共広告の奉仕機関“広告協議会•

(Advertising Council)2>

を ,

1942

年に作った。

このようにアメリカの広告はその初期からたびたび社会の批判にさらされてきたが,アメリカ 経済の発展につれて,ますます広告の社会に与える影唇が増大するとともに,社会的,経済的,

道徳的非難と批判が増えてきたのである。

20

世紀後半になって,広告批判の導火線のひとつにな ったのは,

1957

年に発刊されたヴァンス・パッカードの「かくれた説得者」

a)

である。 ここでは パッカードの著書が巻き起した広告倫理論争を手がかりにして,さまざまな視点からするアメリ カの広告倫理思想を探ってみたい。

「かくれた説得者」が1

957

年の半ばに,ニューヨークの無名の出版社から出版されて,またた く間にベストセラーとなった時期に,パッカードは綜合雑誌ザ・アトランティック

9

月号に「広 告人の増大する力」

4)

と題する一文を寄せた。内容はほぼ「かくれた説得者」の要約といってよ いが,「かくれた説得者」では, 消費者の潜在意識への深層アプローチによる販売, 宣伝活動の 操り手の事例を,消費者に啓蒙するのが目的であったのに対し,ここでは広告人が社会に与える 悪い影響力への警告に,)

J

点がおかれている。

彼はアメリカの広告界の幹部を,経済的運命の支配者,政治的キャンペーンの背後にいるエン ジニャ,社会科学者のパトロン,テレビ,ラジオの番組内容の独裁者,大雑誌のほとんどに生殺 与奪の権をもっている裁判官だと弾劾する。

20

世紀後半において,彼らはアメリカにおける社会 的コントロールの支配者になっており,善悪どちらに対する力も大きくなっているのに,彼らの 多くは無責任に力を行使していると非難する。

広告人の力が増加する第

1

の理由は,アメリカの GNP が年々増加するにつれて,企業にとっ て生産よりも販売が第一の課題となり,消費者が実生活上必要とするもの以上に,不必要な品物 まで買わせようとする。さらにいったん買った商品がたちまち流行遅れとなり,現在所有してい る自動車,電気冷蔵廊,洗櫂機,衣服などに不満を抱かせ,新らたに買い替えさせる必要がある からだ。広告人はこれを「心理的旧式化の創造」と呼んでいる。第 2は競合する商品の標準化が 進んでいることである。消費者大衆にはガソザン,ゥィスキー,煙草,ピール,インスクント食 品,洗剤などの競合商品間の差迩を見分けることはほとんどむつかしい。

事実,煙草,ウィスキー,ビールに関して行われた目かくしテストの結果では,彼らの好むプ

2) Advertising Council

ChesterLaRoche, James W. Young

らが主唱者となって1

94

砕三に設立 され,アメリカの主要な広告主,媒体,広告代理店で構成されている。その目的は広告を通じて公共 に奉仕することにあり,広告主は基金を,媒体はタイムあるいはスペースを,広告代理店は制作業務 を無償で拠出し,毎年公共奉仕のための広告キャンペーン(山火事防止,交通安全,精神衛生,大学 援助, ドル防衛等々)を展開している。

197

哨咽粒)キャンペーン藤額は

45,000

万ドルに達する。

なお,わが国でも近年高まってきた消費者運動に対処するため,アメリカの

A.C. 

をモデルにして,

1971

7

月に「関西公共広告機構」が生れた。

3) Vance Packard, T. 

HiddenR町 泣a

s.New York, 1957 

林周二訳「かくれた説得者」(ダイ ヤモンド社)

4) Vance Packard, The Growing Power of Admen, in T. 

Atlantic,September, 1957. 

‑28

(4)

ランドをいい当てることができない。だから消費者の心に強い興味をそそるような差違を植えつ けるのは,広告人の才能による。第 3にスーパーマーケット,自動販売機その他これに類する自 動販売の増加によって,製造業者はもはや商人,店員の言葉による販売に頼ることができず,消 費者が購買を行なう時点で,すでに深く心に刻みこまれた商品のイメージをもっているように,

広告によってあらかじめ売りこまれていなければならないからだ。

影響力を増してきた広告人は,消費者の購買動機についてますます深く知ろうと望む。こうし て広告界に登場してきたのが,彼らが作るセールス・メッセージに,より大きなインパクトを与 えるための「モーチベージョナル・リサーチ」という調査テクニックである。消費者の購買動機 を調ぺるのに使われるテクニックは,精神病理学,心理学,社会学の分野から借用されている。

すなわち深層インクビュー,主銀を反映する絵と言葉の連想テスト,ウソ発見機,催眠術と社会 の階層の分析等々。

リサーチの結果に基づいて消費者を誘引するために考案される一般的な戦略には,製品の中に 消費者自身についてのイメージを確立すること(遊び好きの人のための遊び好きのガソリン),

消費者の不安な感情につけこむこと,性的な安心を売りこむこと,衝動買いを鼓舞すること,地 位のシンポルを売ること,流行を意識させそれから流行を変えることなどがある。モーチベーシ ョンのアナリストは,またどのようにすれば製品に対する理由のない偏見を克服できるかを,広 告人に解明して貢献した。この点に関する古典的な仕事として,アーネスト・ディヒクー

6)

の動 機調査研究所が乾しぶどう産業のために行なったものがある。乾しぶどうの売行きがなぜかかん ばしくないので,調査が求められた。ディヒクーの深層調査員は乾しぶどうがアメリカ社会で,

不幸にまつわるいろんな連想がもたれていることを発見した。アメリカ人は乾しぶどうを,ひか らびて年老いた女中,下宿屋,便秘,魔女というような言葉で述想した。ディヒターの指将の下 に乾しぶどうは,カリフォルニャのすてきな果物として見直され,広告人はそれをはなやかで若 々しく,カラフルな状景の中で提示し,通じをつけるという見方をする人はごく小数に減って,

乾しぶどう産業は見事に復興した。

しかし,一部の広告人が消費者に対して使うテクニックには,樹心を払わざるを得ない。それ は消費者の意識的なガードが無防備の状態のときに,消費者の心を捕えようと計画されたテクニ

ックである。

パッカードはこれに関していくつかの例を挙げているが,その中から一,二を拾ってみよう。

(a) 

シカゴの代理店が婦人により効果的にケーキミックスを売る目的で,婦人の生理のサイク ルと感情の状態の精神病理学的な研究を行なった。それはサイクルの高い段階(創造的で,性的 で,興奮しやすく,ナルシス的で,外向的で,愛情のある状態)にいる婦人たちと,たまたま低

5) Ernest Dichterはニューヨーク近郊にある Institutefor Motivational Researchを主宰してい

る。動機調査の権威者で深層イソクピュー

(depthinterviews)は彼の造語である。

‑29‑

(5)
(6)

釈して寄稿した。コーンは広告代理店の幹部としてのみではなく,当時彼はアメリカ広告代理業 協会と広告協議会の両方の会長をかねていたので,広告界のリーダーとしてもパッカードの批判 に反駁する責任を感じたのだ。

コーンは広告界に無責任な人々がいるということは,建築家,製造業者,小売鹿,医者や法律 家にさえ,ふらちな人がいるのと同様に反論することはできない,と断った上でパッカードの意 見にいちいち反駁を加えた。パッカードの警告の中心をなす動機調査についていうと,コーンの 反駁の主旨は,標題通り「広告は策略ではない」と主張する。

大部分の広告人はずるい策略家ではない。彼らは印刷と電波によるセールスマンである。そし て個人としての善良なセールスマンが,見込客についてできるだけ知ろうとつとめるのと同様 に,製造業者と広告のセールスマンも見込客について,なるべく知ろうと努力する。モーチベー ショナル・リサーチは原理的に

2

つの理由で行なわれる。第

1

は消費者が製品について知ってい ることを見出すため,第 2は消費者が製品(現存しないかもしれない)に求めているものを見つ けるためである。それは競合商品との

I

刻辿において,製品の改良と広告の改善に役立つ。パッカ ードも指摘する通り,今

1:1

では製品の標準化が進み,競合商品

II

りの差迩がますます少くなり,消 費者は品虹,機能または価値の大きな差迩よりも,むしろ個人的な選択の理山で購買するという 結果になっている。従ってモーチベーショナル・リサーチは,特定のケースにおける選択の要索 を発見し,それによって選択されるに価するように製品を補強し,広告計画を立案するために使 われるひとつの方法である。リサーチに使われるテクニックについていえば,深脳インクビュー は多くの企業で広く採用されている。主銀を反映する絵と言語の辿想テストは大学で極めて常識 的に実験されているし,産業界でも人員の雇傭と配置の際に使われている。そしてウソ発見機は ラジオ,テレピのコマーシャルの想起テストで,正確な反応を測定するために使われているだけ のものである。

消費者についてよりよく知り,彼らの考え方,彼らが望むものとその理由を知るのは,よりよ

<奉仕する広告を作るためである。そして奉仕の相手は消費者すべてに対してである。広告の役 割は同じ製品を同じ消費者大衆に何度も繰返して売ることにあるから, もしも彼らに嘘をつく か,偽りの約束をするなら,消費者は二度と買わず,それを作った広告人と広告主が失敗の結果 を背負いこむだけだ。コーンはこのように反論する。

パッカードとコーンの 2つの見解を並べて見て,おそらく消費者はパッカードに軍配をあげる だろうし,企業と広告人はコーンに賛同するだろう。深層アプローチによるモーチベーショナル

・リサーチのテクニックそのものは,純粋に科学的なものである。テクノロジーは,すぺてよい テクノロジーだという現代人の迷信はさておき,ここで問題になるのはそのテクニックの利用の 仕方の是非である。さらに,その結果に基づいて,大衆を消費活動に向って説得することが正し いかどうかである。パッカードとコーンの意見が分れるのも,実はその点にあると思う。この分 野に足を踏みこんだものにノースウエスクン大学のコミュニケーション担当準教授フランクリン

‑ 31‑

(7)

閲酉大学「社会学部紀要」第

3

巻第

2

s ・ヘイマンの評論がある。

ヘイマンは

1958

年1

2

月発行のクォークリー・ジャーナル・オプ・スピーチに掲載された「民主 々義の倫理とかくれた説得者」

8)

で , 人々の潜在意識に訴えかけて消費へと向わせることが,民 主々義の原理にかなうかどうかを論じた。ヘイマンによればその答はノーである。かくれた説得 者は楷在意識への暗示,群衆催眠,コンスクントな反復その他の大衆説得技術を使う。そして人 々に自動的で無思慮な行動を起させるような思考過程の短絡と示唆を植えつけたり,人々の意識 下の領域に圧力をかけるなどの方法によって,購買し,信じさせるようにたくらむ。これはパプ ロフの条件反射の実験と同じであって,無批判な反射行為を起こさせるのが,かくれた説得者の 目標である。

しかしアメリカ人はかくれた説得に関して,そこにはなにか間違ったものがあると漠然と感じ てはいるが,さてなにかと問われると明確な論拠を表明することができない。また自分だけは説 得されないと信じる人もいる。アメリカ人の代表的な見解では,テクニックはそれが使われる目 探の見地から評価され,もし結果がよければ手段は正当化される。人間が使う説得の方法は,そ れ自身では道徳と無関係であるという哲学,まじめで正しい考えをもち健全な製品を売るために 働く人は,彼の製品が広く受け入れられるために,どのようなテクニックを使っても正当化され るという哲学,それは悪事を企らむ人間が使う場合にのみ非難さるべきであるという哲学が,ァ メリカ人の大多数に支持される。潜在意識に暗示を与えるテクニックが行使されても,すぐにそ れを非難する基準がない。コーンが主張するようにまじめで正しい考えの製造業者によって使わ れるかもしれない。また潜在磁識への暗示といっても,それは従来からある説得の技術を一歩進 めたに過ぎず,途いはただ程度の問題である。パッカードの著嚇によってショックを受けた消費 者大衆は,こうして説得の倫理の問題に直面してジレンマにおちいる。

潜在意識への暗示のテクニックの行使に謁して,アメリカ人が姐くジレンマを克服するために は,まず第 1 に民主々義社会がその上に築かれている—結果は手段を正当化しないという原理 一の理解が欠けていることを誠識し,従って心理的操作について,なにが閲迩っているかが見 分けられなくなっている点を認めることから,出発しなければならない。アメリカ人は少くとも 民主々義は,個々の人間の尊厳の上に基碗をおいていることを知っている。こ

0)

概念は人間が本 能によって支配されることが少く,意識的な選択をする能力があることで,下等動物とは異ると いう前提を含んでいる。しかしこの前提は完全には認めがた<,人間には動物的な側面もある。

だが民主々義は人間が動物であり,個人は感情と反射作用の操作によって動かすことのできる本 能的な生物だという前提を拒否する。

かくれた説褐者は自身で気づいていようがいまいが,非民主々義的な策略に従事している。彼 らは人間が合理的に、意識的な選択をする能力をもっているが,また部分的に動物であり,そのよ

8) Franklin S.  Haiman, Democratic Ethics and the Hidden Persuaders,  in Quarterly Journal 

of Speech, December. 1958.  HaimanはSpeechAssociation of Americaの会員である。

‑32‑

(8)

うなものとして利用できるという面につけこむ。人間は一定の限度内で,反射的に反応させるこ とができる。彼らの意識下に暗示を与え説得することで,行動を起こさせることができる。しか し人間をそのように動かすことができるからといって,動かしてよいことにはならない。そのよ うに人間を動かすものは,人間が未熟に反応する傾向を強めるだけであり,民主々義が目指して いるヒューマニティヘ向っての成長を,邪魔するだけである。

以上がヘイマンの論旨である。彼はパッカードの著書がひき起こした論争を倫理問題として捕 ぇ,民主々義の原理に照して批判し,アメリカ人に警告を発した。たしかに現代の高度に発達し た広告宣伝技術,さらには選挙宣伝に見られるような大衆説得の場合に,人間の動物的側面に働 きかける心理操作が許されていいものかどうかは, 重大な問題である。 この点はバッカードも

「かくれた説得者」と「広告人の増大する力」で言及している。しかし,ここでは特定の主題に 限って論じることはできないので,広告倫理の関題を追求するために,企粟と広告人が守るぺき 倫理はなにかに移りたい。

"

パッカードやヘイマンが憂慮したような悪い影唇力の行使から,消費者大衆を守るために,企 業と広告人がとるべき態度はどうあるぺきかの問題が生じる。アメリカ社会でますます増大する 彼らの力の行使に関して,倫理面が問われなければならない。ハーバード大学の経営学講師シオ ドア・レビットが,この点に関して一風変った考察を下した。広告業界誌アドバタイジング・エ イジの

1958

年1

0

6日号に彼が寄稿した「広告とマーケティングは社会を堕落させているか?そ

れはあなたの心配事ではない」

1)

で,レビットはまことに奇妙な論理を展開する。彼の論旨と,

文中でしばしば聖書の言葉を引用するところからみて,彼自身は熱烈なピューリンタンであるよ うにみえる。

「それはあなたの心配事ではない」というタイトルで指している「あなた」とは,掲オ誌の性 格からみて,この場合広告とマーケティングに関与するビジネスマンをいうのであるが, その

「あなた」の仕事がなんであろうと,あなたは社会的,経済的,人間的,文化的,心理的な道徳 と倫理の悪が増大する一因,すなわち堕落,放縦,物質主義,犬儒±.義,無直任,利己主義に大 きな貢献をしていると指摘する。仕事がなんであろうと,成功すればするほどより多くの悪が生 じる。その理由としてレビットは飛び出しナイフを売る男,消費者が必要としないものを売るか くれた説得者たち,犯罪と悪徳を助長する自動車のディーラーなどを挙げ,電力のような必需品 を生産する産業でさえ,人間を破滅に祁く武器製造工場に通じていることを強調する。現代の物 質主義にあきたらず,もっと原始的な生活に戻りたいと望む人々は,ぜいたくな生活をエンジョ

1) Theodore Levitt,  Are  Advertising  and  Marketing  Corrupting  Society It's  not  Your  Worry, in Advertising Age, October 6,  1958. 

‑ 33‑

(9)

関酉大学 r 社会学部紀要」第

3

巻第

2

イする人々よりも真実,知恵,良識に関して劣っているという論理的根拠はない。経済的な浪費 を犠牲にして, またたく間に旧式になる所有物を, 新型に買いかえることができるからといっ て,生活水準が高いとはいえない。そうぞうしい説得,あるいはかくれた説得者の巧妙な動機づ けのどちらにしろ,巧みな操りによって,アメリカ人は機械的な嗜好をもつロポット民族になる のではないか。過剰な品物といっしょに浅薄で低俗な欲望を生みだし,ぜいたくを必要に変え,

必要を実際の価値よりも形式的なものに変えて, ある種の豊かさを創りだすことに成功するな ら,アメリカ人はローマがたどった運命と同じく,衰微の泥沼に押し流されて行くだろう。

このようにレビットは文質文明のもたらす悪を鋭く糾断したあとで,ビジネスマンに関する彼 独特の見解を示す。ビジネスマンの行動の文化的,精神的,社会的,道徳的その他の影響は,彼 の職業上の関心とは関係がない。彼は魂を救おうが滅ろぼそうが,彼自身の目的達成のためにビ ジネスについているのである。彼の仕事はこれらの問題に関して,完全に中立である。それどこ ろか彼が自分の仕事の目的と結果に先入銀をもつようになると,彼はアメリカ人の生活の意志決 定者になる。アメリカ人にとってなにがよいものであり,悪いものであるか,なにを持つぺきで あり,持つぺきでないか, 見るぺきであり, 見るぺきでないか等々を意識的に決めようと試み る。彼は自分個人の価値と好みをコミュニティ全体に履行させようと,その強大な経済上の力を 行使する。そしてもしそれらが神の意志の表明だとしても,その結果は悪以外のなにものでもな い。ビジネスマンは彼自身の利益になる限り,価値をつくり出し,配給するというただひとつの 目的のために存在する。提供する商品が利益を生じて販売されるなら,それは正しいのだ。彼の 提供するものが実際に満足すべき価値を含んでいるかどうかのテストは,市場での完全に中立の メカニズムによって決定される。消費者は市場において自由に彼の好む商品を選択する権利をも っている。それは民主々義的な拒否権である。

ピジネスマンが仕事の目的に先入観をもって行動するなら,ビジネスマンとしての成功に失敗 するだろう。彼のバイクリティを枯渇させたり,彼の目的をくもらせるような尚囲への気がねを 捨てるぺきだ。ちょうど科学者や哲学者がその分野でフリーであるように,彼の本能と才能が導 くところがどこであろうと,フリーであるぺきだ。それが彼の仕事の領域に関するものである限 り,神の正義と同じく,結果に対しては中立なものとして,彼の基本的な目的にだけ忠実である べきだと説く。

レビットの考察は文明論として鋭いものを含んでいるが,一般には理解しにくい点もある。要 するにピジネスマンは文化的,精神的,社会的,道穂的分野では,一種の禁治産者であるから,

その分野には無用の介入をすべきでないとして,その代りに禁治産者特有の免罪符を彼の仕事に 与えている。結果としてはビジネスマンを道徳的責任から解放し,擁護したことになるが,この ような擁護のされ方ではビジネスマンとしても寝ざめが悪いだろう。果せるかな, 現役のビジ ネスマンの側から反撃が起こった。同じアドバクイジング・エイジ

10

27

日号所載のクライド

・ベデル「広告とマーケティングが社会を堕落させている程度に—―—あなたは心配した方がよ

‑34‑

(10)

い 」

I)

がそれである。

ベデルはクライド・ベデル・インコーポレーテッドの社長で,また多くの会社のコンサルクン トとしても活踵している。レビットは,ビジネスマンは魂を救おうが滅そうが,自身の目的のた めに仕事に従事しているので,この問題に関しては完全に中立であるという意見を表明したが,

ベデルによるとこれからの社会では,他人の福祉に対して中立であることは文明人には許されな いことだと論じる。もしビジネスマンが魂を救うために仕事を行なわないなら,利益のために他 人の魂をそこなわないという理想から大きく後退する。これは中立性ではない。すぺての進歩に 個人の利益を敵対させる結果となる。消費者が市場において自由に商品を選択する権利をもって いるというレピットの断定は, レセフェールの主張といえる。彼は民主々義的であるとして買い 手の危険負担の理論を提出する。自由放任主義が目的を達することができないことは,民主々義 社会では当然のことである。この点はケインズが近代酒欧伝統の自由放任の終焉を唱え,国家に よる資本主義の修正を経済理論に荘入して以米,多くのケインジアンによって繰返し主張されて いる。

もし人が自由でありたいなら,彼は倫理的であらねばならない。各人が自分自身の最高の利益 を求めるとき,民主々義と自由主義の理論はたちまち信用を失い,社会は崩壊する。今日の大き なトラプルの一部は,レビット流のビジネス行為が,ビジネス全体の流れに大きくなりつつある 点に起因する。ビジネスマンが神ではなく,利益を目的とする競争は必ず無秩序に甜かれる。宗 教にはぐくまれた若干の要索だけが,その倫理,信用,奉仕の信条をもって,アメリカの産業社 会を発展させてきたのだ。ビジネスの第一の目的は利益を得ることではなくて,顧客をつくるこ とであり,利益は顧客をつくることの成功の目盛りである。ピジネスマンが正しく社会的な進歩 の道を歩みつづけるなら,彼らはますます奉仕の精神をもって,利益の動機を修正し,ついには すぺての人が豊かさとレジャーをもつにいたる。

要するにレビットがビジネスマンに与えた免罪符が,そのままビジネスマンの経済行為に適用 されるなら,アメリカの経済社会にはジャングルの法が横行する危険を,ベデルは指摘する。ビ ュリクンであるレビットは,広告とマーティングの技術を駆使するビジネスマンが,アメリカ社 会の文化,精神面に与えている悪い影響を深く憂え,彼らの目的意識から生じるその方面への影 響力を排除するために,利益だけを目的として行動するように一種の免罪符を与えた。レビット の意図はビジネスマンが,アメリカ人の生活の意志決定者となる資格を奪うことにあり,文明論 的な考察としてはユニークですらある。

しかしペデルが反論したように,ビジネスマンが道徳的責任からフリーになるなら,そこはジ ャングルの法が支配する世界となり,現代の経済社会ではとうてい通用すべくもない。だからペ

2) Clyde Bedell, To the Extent Advertising and Marketing  are  Corrupting Society

You'd

Better Worry , !in Advertising Age, October 27,  1958. 

‑ 35‑

(11)

関西大学「社会学部紀要」第

3

巻第

2

デルはビジネスマンが倫理的であらねばならないことを強調する。彼もその論旨からみて伝統的 なユダヤ・キリスト教徒であるらしく,宗教にはぐくまれた倫理感がアメリカの経済社会を発展 させてきたと判断する。しかしベデルの理論は宗教的倫理感がアメリカのビジネスマンに内在す る点を強調しすぎるきらいがある。もし現実がそうであるなら大変結構なことで,広告とマーケ ティングに関する批判も生じないだろう。またベデルはビジネスマンひとりひとりの倫理的責任 感に依存して,その理論を成立させている。われわれはもっと普遍的にアメリカ社会一般に広く 受け入れられるような,広告の倫理思想を求めなければならない。

]I 

ビジネスマンは彼の仕事の目的に忠実である限り道徳的にフリーであると,レビットは論じ,

ベデルはビジネスマンは倫理的であるべきだと主張したが, だいたい倫理は経済の一部ではな く,いつの時代にも社会の中に存在する。経済とビジネスマンだけを倫理から分離することはで きない。時代とともに進展する倫理のルールは,ビジネスマンの仕事の範囲とやり方を決定し,

それが経済の慣例と実践を形づくる。このような前提の下に広告の倫理を追求したのが,ハーバ ード大学の広告学教授ニール •H ・ポーデンである。彼はアメリカの有名な広告代理店オグルビ ー・アンド・メーザーの会長であり, 広告界のリーダーであるデビッド・オグルビー

(David  Ogilvy)

に「私は広告に関してたいていの人よりもよく知っている。私が本当にやりたい仕事 は,ニール・ポーデンのあとを継ぐことだ」

1)

といわせた人物だ。その彼が広範な消費者調査に 基づいて執筆した「アメリカ経済における広告」

2)

の中で触れている広告倫理の考え方が,もっ とも普逼妥当性のあるものと思われるので,簡単に紹介する。

ボーデンの倫理研究の背後にある哲学はプラグマティズムである。すなわち彼はプラグマティ ックな考廊が, 人間関係を支配する倫理の規則または基準の形成を決定するという結論に達す る。規則はその時代時代で,特殊な社会関係の中にいる人々の必要に見合うように作られる。ど の時代においても異った職業のための倫理の基準は同じではない。また倫理の基準は常に進化す るから,時の経過とともに変る。ある時点の必要に合致する規則は,他の時点には適さない。た とえばギルド・システムの下では,他のギルドの商品と競合する場合,売り手は組織に強制され て自己の商品を強引に売るために,非倫理的であった。彼はその時代の販売倫理を規定するギル ドの規則に従って,彼の商品がギルドの定める品質仕様書と価格に服従するよう強制された。時 の経過につれて販売行為を支配する規則が変り,売り手が価格を固定させることは非倫理的にな った。

1) MtinMayer, Madison Avenue, U.  S.  A., New York 1958. 

なお,オグルピー・アンド・メーザーは1

970

年代アメリカ第9 位の広告代理店である。

2) Neil H. Borden, Advertising in  Our Economy, Illinois 1945. 

‑36‑

(12)

これからいよいよ本論に入るわけであるが,広告と販売に関して生じた基本的な倫理問題は,

売り手の側に許される影署力と説得の程度である。広告の影響力の行使に関する見解のうち,極 端ではあるが一部のグループを代表する法哲学者マックス・レディン

(MaxRadin)

教授の意 見がある。彼によるともし広告主が完全に正寵であり,よい趣味をもつなら,イギリスのクエー カー教徒ジョージ・カドバリー

C<;;eorgeCadbury)

が行なったような広告のシステムに移行 するという。カドバリーは彼の会社のココアを,絵も図案もなく,推奨のコビーも使わず,ただ 単に「カドバリーのココア」という言葉だけで宣伝した。レディンはこの単純なアナウンスメン トを,買い手の購買意欲をそそるために,自画自賛をはじめ誇大広告のテクニックを駆使する一 般の広告主と対比する。事実以外のなにものも語らないこと,推奨の形容詞をオミットすること は,広告の道徳性の始まりであるが終着駅ではない。そこにはまだ事実をかくし,嘘を暗示する 不明瞭な形と,高度の熟練をもって成功に郡くようなテクニックを使う余地があると指摘する。

彼にとって,消費者の注意をひき購買の欲求を起こさせるように,心理学的技術を援用して買 い手に影轡力を与える売り手の努力は,こうかつなペテン師と見なされた。レディンの意見はな にが倫理であるかについて,完全主義者の見地から表明されたものである。彼は人々を説得しよ うとする売り手にとって,なにが適切なステートメントであるかというプラグマティックな基準 よりも,むしろ正直なステートメントと見なされるものはなにかという観念的で,厳格な定義を 適用している。このような見解を論理的におし進めると,売り手の適切な影轡力あるいは説得の 行使を否定することになる。おだやかな程度でさえこのような影轡力の行使は,不正直で悪趣味 であると見なされる。

自由経済において利益を追求する人に,影響力の行使を否定することは,経済そのものを否定 し,とくにダイナミックな局而を否定するのに等しい。広告と販売は安本主義体制下の企業にと って,欠くべからざる一部である。それらを除くことは体制を致命的に修正することになる。毀 木主義体制は体制を働かせる売り手と買い手の利己主義

(selfinterest)

に依存している。西欧 経済は交換活動の説得に頼って,販売を積極的に発展させてきた。従って必り手が自分の側の意 見を述ぺることは,本来非倫理的であると見なされていない。売り手と買い手の関係を規制する 倫理の規則は,ふたつの源泉に求められる。第

1

は習慣法と法律による法令であり,第

2

はビジ ネスマン個人あるいはビジネスマンの団体の倫理コード

(code)

である。倫理の規則は常に進 化し,時の経過とともに変化するとポーデンは述ぺたが,つぎにその見地から習慣法と法令,ぉ よび倫理コードの変化を見てみよう。

(a)

初期の植民地時代の習慣法では売り手と買い手が自分の利益を守ることにおいて,対等の立 場に立っていた。売買はセリにかけられ強い方が勝った。ところが最近では買い手の方により大 きな保護が与えられている。すなわち製造業者とディーラーの政府による認可,製品の登録と検 査,不当標示禁止,不正広告防止などの措置である。販売を規制する法令の変化をもたらした社 会的な力を,全部挙げることはできないが,もっとも重要な要索は経済環境の変化である。簡単

‑37‑

(13)

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巻第

2

な手工芸の経済から,今日の複合経済へ推移するにつれて,売り手がより強力な地位へと登って きた。かっては消費者の必買行為は,現在とくらぺてはるかに単純であった。現在入手可能な多 くの製品を判断する消費者の能力は,制限されている。彼が購入する商品についての判断は,ほ とんど売り手の説明に頼らざるを得ない。今日の売り手は,消費者よりもはるかによく組織され ている。だから,法律がますます買い手に保護を与えようとするのである。

(b)

商業の発展と成長は,ビジネスマンの利己主義が,かって売買行為が単純であったときとは 違った倫理コードの必要を求めさせる。ビジネスがスムースに行なわれるためには,売り手と買 い手の間に,信用と信頼の関係がなければならない。今日のアメリカ経済の莫大な量の販売は,

もし昔のように,値切ることとかけひきに依存して成立するなら,いちじるしく阻害される。さ らにビジネスは消費者のひいきを重んじる。

1

回きりの販売は,利益からみて大きくない。ひい きが継続すれば,販売量の安定をもたらすから,利益が継続することが約束される。だから利己 主義の見地からみて,ほとんどのビジネスマンは,消費者のひいきを危険にさらしたり,逆に悪 意を招いて顧客を失うようなやり方で,製品を偽って説明するのは,賢

l

月でないことを知ってい る。利己主義はまた,多くの指導的立場のピジネスマンが,倫理コードの制定や自己規制のプラ ンを通じ,高い水準の販売行為をビジネス共同体の中で,維持しようとする重要な要素である。

このような努力は政府規制を避けるためと,消費者団体からの批判を免れる意図も含んでいる。

彼ら自身の販売行為の倫理をみつけたいというリーダーたちの改革運動が,ベクー・ビジネス・

ピューローや,各業種ごとの協会の倫理コードを生んだ。利己主義はまた消費者団体と同時にビ ジネスマンの団体が, 消費者を迷わせるような広告のメッセージを,防止する法律の制定に努 力する大きな理由である。たとえば, 広告の詐欺と虚偽を防止するプリンクーズ・インク法令

(Printer's Ink Statute)

が , 諸州で成立した。

販売行為で倫理の基準を立てるのに,利己主義が大きな原動力となったが,ほかのたくさんの

)J

も適切な販売行為の方向に向って,ビジネスマンの理想を形づくらせた。宗教による倫理蔽,

道徳哲学によって教えこまれた規則,新聞,牧師,教壇から見聞する理想などが,それぞれ関連 している。

ではどのような場合に,消喪者を保護する法令が制定され,倫理コードが成立するのであろう か。疑わしい販売活動を行なうビジネスマンが,人々の福祉を損ったり,脅威を与えるときは,

いつでも社会団体が,ビジネスを規制する法律を制定させている。法律の制定者は公共の態度を 具体化するために,売り手を制限する法令を定める。これらの態度は自然に起こるのではない。

個人としては十分自分を守れない人々に対して,売り手が公共にとって危険と思われる行為をと るとき,指導者に導かれた消費者大衆の間に,道徳的怒りの運動が生じる。このような運動は既 成の法律とビジネスが,コミュニティの感覚よりもはるかにおくれているときに起こる。

20

世紀初頭のアメリカで雑誌,新聞の編集者が行なったキャンペーンは,薬品の中に粗悪品や 不当標示があまりに多いことに,社会の注意をひいた。その結果ごうごうたる非難が起こり,

‑38

(14)

1906

年に純正食品・薬事法

(PureFood and Drug Act)

が制定された。

1930

年に入って,法 律とビジネスが大衆の感覚よりおくれてきたために, 影響力のあるグループの運動によって,

1938

年に新しし・ヽ純正食品・薬事法が生れた。そのほか消費者にとってもっとも危険な業種である 食品,薬品,医薬外品と化粧品に関する虚偽広告を取締るウィーラー・リー法

(Wheeler‑Lea  Act), 

繊維に関する標示の条令を定めたウール・ラベリング法

(WoolLabeling Act)

など が,それである。これらのキャンペーンは法律を生んだだけでなく,ビジネスマンに,彼らの販 売方法を変える必要があるかどうかを再考させた。法律による倫理基準の制定は,誠実な販売の 倫理基準が次第に高まるように,ビジネスに反作用している。

ビジネスマンが自主規制する倫理コードについていうと, もっとも広く使われる倫理コード は,販売のステートメントの正直さを判断するのに,実利主義の基準を適用する。彼らは販売に おける倫理の原則と,利益を生む原則は同ーである,すなわちどのような販売でも成功するため には,売り手と買い手の相互の利益が,同時に存在しなければならないと考える。売り手はビジ ネスを続けるために,彼が望む価格を得なければならない。買い手は彼が支払った犠牲を償うだ け,使用の満足を入手しなければならない。満足をもたらす購買だけが,利益をつづけて生むた めの永続きするひいきと,良い評判を売り手に与える。従ってコードは正直な商品を提供するこ と,提供するものについて真実を語ること,本当の材料を知らせること,誤解を招くようなこと は慎しむことを,売り手に要求する。一方,製品を入手するための情報を与え,消費者の欲求を 満たすために行なう魅力的で熱烈な販売,または広告のプレゼンテーションは,製品が満足を与 える限り不正直だとは考えられない。彼は商品について熱心に述べること,製品が消費者にとっ て望ましい購買であり,満足を与えるものであるという信念を示すことを許されている。

ビジネスが切望する販売倫理のモデルとなるコードに,ナショナル・ペクー・ピジネス・ピュ ーローが作った,

10

項目の公正取引コードがある。

1 .   正直な価値をもって,公衆に奉仕すること

2. 

提供するものについて,事実を語ること

3. 

分析してみなくても,信頼によって理解されるように,率直な態度で事実を語ること

4. 

顧客が知りたがっていること,すなわち彼らが賢明に購入し,そして最大の満足が得られ

るように,提供するものについて, 彼らが知る権利があり, 知るぺきことを顧客に語るこ と

5. 

与えた保証には,約束通り逃げ口上なしで埋合せをするように用意し,喜んでそうするこ と

6. 

提供する商品,またはサービスの正常な使用が,必ず公衆の健康と生命に危険を与えない ようにすること

7. 

消費者の誤解を招く原因となる材料の事実を明かにし,偽りをかくさないこと

8. 

メリットに基づいて商品,またはサーピスを広告し販売すること。競争相手を攻撃し,ぁ

‑39‑

(15)

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るいは相手の製品,サービス,販売方法を,不当に非難するのをつつしむこと

9.  推奨文を使う場合は,商品について,彼らのいうことがまじめで正直な証人だけを使うこ

10.  欺詐的な下取り割引,にせの価格表,偽りで誇大な比較値段,えさで誘う広告,誤解を招 くフリーの注文,インチキ販売,そして人間の無知とだまされやすさを食いものにするよう な,あらゆるトリッキーな策略とたくらみを避けること

販売における影響力の行使は許されるが,コードは買い手に比ぺて,売り手の優位な立場を認 めて作られている。ポーデンは,多くのビジネスのグループが適切な倫理基準に従っているが,

一部のグループには注意が欠けている点を指摘する。そしてコミュニティの世論は,まだこれら の基準を強制するだけ強くないが,成長する消費者の感情が,コミュニティの倫理を代表するも のとして,いつの日か,そのような基準を其体化するという信念を表明している。

以上のように,ボーデンのプラグマティズムに立脚した広告と販売に関する倫理観は,たいヘ ん明解である。民主々義やキリスト教のプリンシプルで問題を追求すると,ある一而だけは捕え られるが,全般を覆いつくすことはできない。経済社会においてビジネスマンが倫理を求める動 機として,利己主義の視点を援用したことは,実情にかなっていると思われる。利己主義は経済 事象において,民主々義やキリスト教の原理よりも,はるかに強力に働く要因である。ただ利己 主義は,それ自体としては思想的原理ではないから,時代の変遷につれてその作用の仕方が異な る。かって経済社会にジャングルの法が横行したのも,利己主義が野放しの状態であったからだ といえないこともない。ポーデンが指摘しているように倫理の基準は,ある特定の社会関係の中 にいる人々の必要に見合うように作られるから,時代の推移とともに変化する。

1970年代のアメリカは,そういった意味で新しい時代が到来している。既成の法律とビジネス が,コミュニティの感覚よりはるかにおくれているとき,指導者に浮かれた消費者大衆が怒りの 運動を展開するとポーデンは述べたが,すでにラルフ・ネーダー (Ralph Nader)を先頭とす る広範な消費者運動が,欠陥車問題を皮切りにして産業公害に果敢に挑戦し,アメリカ政府に新 たな公害立法s)を制定させている。クイム誌は196912

月1

9日号で, 60年代から70年代への展 4)を特集した。その中でも, ビジネスはより厳しい雰囲気の中で行なわれ,利潤が主たる動 機であることに変りはないが,かっては株主のものと考えられた利益の一部が,社会の必要と,

汚染防止のために放出しなければならなくなるだろうと,予測している。

さらにアメリカの若者たちの社会における支配の過剰,組織化の過剰,工業化の過剰に対する 過激な反抗が挙げられる。自由主義を信奉する大人たちが,信ずべきものも反抗すぺきものも,

与えてくれなかったために,若者はその空白を独自の生活様式で満している。そこに見られる一

3)アメリカ政府の自動車産業に対する197

舷 F

規制基準は,自動車の有喜排気ガスを現在の水準より90%

減らすことを求めている。(マスキー法)その他種々の公害規制立法がある。

4) From the'60s to the'70s : Dissent and Discovery, in  TIME, December 19,  1969. 

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(16)

般的な傾向は,物質的動機の後退と,それとは逆説的に付随する快楽主義の増大である。今日の 若者はアメリカの消費者の一部であり,明日の消費者大衆である。企業の社会的責任に変化が生 じ,若者の価値観が今後ますます大きな比重を占める社会では,販売と広告の倫理&)も,それに 即応して変革を余儀なくされるであろう。

5) 70年以降のアメリカでは,広告が社会的,経済的制度として善であるか悪であるかがきびしくl関われてい る。すなわち,法的規制としては, 71年に FTC(連邦取引委員会)が自動車,カラーTV, , レームクー ラ,電気カミソリ業界の大広告主に,新しい広告のメッセージの内容を裏づける資料を, 3カJJごとに提 出するよう要求した。 72年にはこの措置はカゼ薬にも適用され,さらにガソリンその他の業種に拡大され る予定である。一方,消費者運動の側では,ラルフ,ネーダーを中心にゼネラル・モークースを相手に,

ー株株主運動「キャンペーンG M」を展開してきたグループ「企業責任に関する計画」は, 72年にはキャ ンペーンの対衆をフォード,クライスラーのほか電信電話会社ATTとプリストル・マイヤーズ,メルク 社など大手薬品メーカー6社にも拡大することになった。薬品メーカーを対象に選んだのは,薬の乱用を ひき起すような広告,販売活動を抑制することが最大の目的である。

‑41‑

参照

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