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ハチスン後期の倫理思想 : モラル・センスと功利主義の問題を中心に

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(1)

ハ チ ス ン 後 期 の 倫 理 思 想

――モ ラル 。セ ンス と功利 主義 の問題 を中心 に一―

横 山 兼 作 (昭和58年 5月20日受理) ハチスン(Francis Htltchtton)の 倫理思想 は

,著

作 を追 うごとに何程 か変化 し

,特

に後期 の『道 徳哲学体 系』や『道徳哲学序説])に至 って,時に別 ものになった とさえ言われ る程

,大

きく変 った こ とが

,し

ばしば指摘 されている?そ れ は

,主

に道徳の根本原理 をめ ぐる ものであるが

,特

にこの後期 において

,ハ

チスンは,「モラル・ セ ンス」

(Moral Sense)の

他 に功利主義 ない し最大幸福原理 を 強 く打 ち出 して来たように見 えるとい うのが

,そ

れである。 この二 つは

,功

利主義者の指摘 をまつ まで もな く

,簡

単 には両立 しがたい原理で

,ベ

ンサムなどの功利主義 は

,そ

のモラル・ セ ンスを拒 否する ところか らスター トした とも言 えな弘ここで,ハチスンのモラル・センスを「仁愛」(beneVOlence) 是認の力 とし

,問

題 を仁愛 と功利主義 の関係 として とらえ直 して見 て も

,必

らず しもその解決 には ならないであろう。仁愛 と功利主義 は

,一

致 する とは限 らない原理だか らである。 もっ とも

,こ

れは

,ハ

チスンにおいて

,必

らず しも後期 には じまった問題ではない。功利主義的 な考えは

,初

期 にも既 に鮮明に打ち出されていて

,い

わゆる「最大多数の最大幸福」 (The Greatest

Happiness of the Greatest Number)の 標語 も

,そ

の もとはハチス ンであった と言 ってよいであ

ろうんΨただ

,初

期の場合 は

,あ

くまでモラル・センス とその是認

,仁

愛 の徳 にその道徳論の中心が 置かれ

,功

利主義 はいわば副次的な原理 にす ぎないかの ようであった。 それが

,後

,大

き く表面 にあ らわれ

,そ

の道徳論 ない し道徳哲学の基本原理 となったように見 える点に

,問

題 があるのであ る。「 モラル・ センスはもはや不要 になった」 と見 られがち151なの も

,そ

こにある。 ただ

,ハ

チスンにおいて

,そ

の概念 はかな り多様 で

,視

点 も又

,一

つ とは限 られていない。様々 な解釈

,批

判 が見 られ る所以であるが

,以

下では

,主

に上記の著作 を通 して

,こ

の二 つの原理の間 について少 しく考察 を加 え

,そ

こか ら、ハ チス ン後期思想の特色 を明 らかに して見 ようと思 う

p

ll まず

,ハ

チスンにおいて

,上

の二つの原理が

,や

は り簡単には一体化 しがたい形で存在すること

(2)

46 れ煮

,た

しかめて お く。

ハ チス ンは

,た

とえば

,そ

の『序説』で,「 人 々が仲 良 く結 ばれて在 るこ とが

,全

員 の利 益 の ため に必 要な ことは明 らかで

,わ

れ われ は

,機

会 の許 す限 り

,人

々 の幸福 を促進 しな くてはな らない。

それが

,彼

らに対 するわれわれの義務のすべてである。?「 われわれは

,機

会の許 す限 り

,す

べての 人の共通善 (commOn good of a11)を促進すべ きである?などと述べているが

,

このような表現 に 見 られる功利思想 は

,ハ

チスン後期の道徳論全体 をおおい

,そ

の倫理思想の基調 をなしているとも 言 える。『体系』『序説』ともに

,初

期の道徳論 とはかな りその構成 を異 にし,「人間本性」(htllnan nature)の 考察 に続 く「 自然法」 (Law of Nature)と その体系化に圧倒的に多 くのスペースをとっ ているが

,功

利主義ない し最大幸福原理 は

,そ

の自然法の基本原理 として位置づ けられているので ある。た とえば

,そ

こで明確 にされている

,わ

れわれの道徳的義務 の一般的規則 (gtteral rtdes) の第一は,「他の事情が等 しけれ ば

,行

為の道徳的善 さ (mOral goodness)は 共通の利益に対 す るそ れ らの重要 さに比例す る」 と定 められている

p

ハチスン後期の道徳論を明確 に功利主義 と規定 し得るかは問題であるとしても

,そ

の方向に大 き く傾斜 したことは

,否

めないであろう。特 にこの自然法の考察 において,「モラル・センスは全 く無 視 され

,ハ

チスンは純然たる功利主義者になった」°と見 られた りするの も,そこにある。 ここで は, 行為の道徳性判別 の根拠 も

,以

前の感情の立場か ら

,理

性 の立場 に移 ったかの ような感 さえある。 たとえば,丹権利 」(rigllt)の規定 に当って

,次

の ように述べ られているの を見 る。「人類の多 くの権 利は

,人

々の心情 の自然 な感 じや欲求が

,各

人やその人 につ らなる者の幸福 に役 に立つ ものを追求 した り

,あ

るいは

,す

べての人 に有徳 なことをすすめた りす ることで

,は

じめ知 られるのだが

,そ

のような好みや欲求は

,ど

れ も

,み

なの最大幸福 (general good of all)の 見地 か ら

,正

しき理性 (right reason)に よって

,規

制 されな くてはな らぬ」°と。 ただ

,厄

介な ことは

,最

初に述べた ように

,こ

のような強い功利主義への傾斜 にもかかわ らず, なおそこに

,そ

れに解消 し切れない面が依然 として残 るとい うことなのである。 それは

,何

よりも

,わ

れわれの道徳的是認が

,決

して単なる行為の結果 に向けられるのではない ということに見 られ る。われわれが

,道

徳的行為 として賞讃 するものは

,主

に仁愛であ り

,そ

の動 機 (mOt

e)で

あって

,単

なる行為の結果 はほとん ど願慮 されない と

,ハ

チスンは至 るところで述 べている。 そ こか ら

,い

かに社会的に有用で

,全

体の幸福 に役立 つような行為や性質で も

,有

徳 と しては是認 され ないもの もあることになる。ある種の態度,更 には「真理愛」(ptlrsuits of knowldge) な どは最 も麗 しく

,尊

厳 な ものでさえあるが

,道

徳的徳 とはされない。それ らは,「道徳的是認 とは 感 じを異 にするΨか らである。 ヒューム と論争 になったいわゆる「自然的才能」(natural abilities) は

,こ

こで も

,や

は り

,徳

か ら除外 され ることになるよ°反対 に

,仁

愛的動機 は

,た

とえ結果が不首 尾 に終 って も

,道

徳的には賞讃 されるわけである(1° 注 目されることに,この後期に至 って,ハチスンは,行為の動機の善 さを「形式的善」(fOrmal goodness) 作

(3)

ヽチ ス ン後期の倫理思想

47

として,これ を,動機 にかかわ らず単 に結果が全体の幸福 に資する「実質的善」(material goodness) か ら区別 し

,わ

れわれの有徳 として是認するのは

,主

にその前者だけだ として来 ているよ働 もっ とも

,ハ

チスンにおいては

,そ

の是認の対象である仁愛の情 は

,全

体の幸福 と密接な関係 に おいて考 えられ

,従

って

,そ

の動機の顧慮 と功用の原理 との間 には

,あ

るいは

,問

題 はあ り得ない のか も知 れない。ハチス ンは

,わ

れわれの仁愛の是認 は,「穏和 で」 (calm)「 広範 なJ(extens e) もの程

,高

くこれ を賞讃する としば しば繰 り返 し

,全

人類 に及ぶ ような広範 な仁愛 は最 も高 く賞讚 され るとしている。「最 もすば らしく,自然 に最高の道徳的是認 を得 るような性1青は

,す

べての人に 対する穏和で

,安

定 した

,普

遍的な善意 ない し最 も広範な仁愛である盟ハチスンは仁愛 ない しその 是認 と,功用原理 をほ とん ど一体的 と考 えているとしばしば評 され るのは 'つ これ によるわ けである。 行為の道徳的善 さは共通の利益 に対 するそれ らの重要 さに比例す ると定 めた先 の第一の規則 に続 け て

,ハ

チスンは,「行為の有徳 さは

,行

為者の能力 と反比例する」と定め

,更

には

,そ

の一般的規則 の最後 で

,道

徳的善悪 は

,何

よ りもその動機 に比例する(1動と加 えているのである。 しか しなが ら

,は

じめに もふれたように

,わ

れわれの仁愛の情 と全体の幸福 とは

,果

して完全 に 一体化 し得 る原理であろうか。仁愛 はた しかに,「真 に無私的で,他人の幸福 に向 うもの」9であるか ら

,当

然何程かの功用性 を含 むが

,そ

して又

,そ

れが穏和で

,広

範 な もの程普遍的 とな り得 るであ ろ うが

,

しか し

,そ

の故 に

,そ

の仁愛的動機の是認 と社会一般の

,あ

るいは全人類 の幸福 を顧慮す べ き最大幸福原理 を

,直

ちに一体 の もの と見なし得 るかどうか。 ハナスン自身 も

,そ

う単純 に考 えていたわ けではないように見える。ハチス ンは

,た

しかに

,わ

れわれのモラル・ センスの実在

,そ

の是認の普遍性 をしば しば語 っているが

,

しか し

,同

時 に

,そ

れが自然的には

,か

な り偏頗で

,必

ず しもすべての人の幸福 を顧慮 するものでない ことを認 め

,又

, その ように偏頗で も止 むを得 ない ともしているのを見 る。「人類の多 くは,も っ と直接的にすべての 人の利益 を追求する能力 も機会 も持 たないのである。写°あの,「全体 の幸福 に向 うような愛情 を心の 最 も崇高な もの とさせる写°ようなモラル・センスは

,そ

の最 も活気 ある (in itS fun

gour)状

態の

ことで

,必

らず しも自然の ものでない。そこで

,

この自然の現実 とのギャップか ら

,結

局次のよう にも言わな くてはな らな くなっているのである。「われわれが ここで言 っていることは,人類の通常 の状態 (ordintty condition of mankind)の ことではない。つまり

,こ

の ような穏和 な心の決定が,

あたか も一般 に行われ

,常

に個々の情緒(partiCular passions)を 統御 してい るということで はな く て,しかるべ き啓発によって,われわれの自然がその ようにな り得 るとい う状態の ことなのである甲 と。 そ こか ら

,わ

れわれは

,全

体の幸福 の観点か ら

,

しば しばねむっている(asleep)わ れわれのセ ンスを呼びさまし

,こ

れ を強化 (COrrObOrate)し な くてはならない とも言われ ている。 しか し, こ れは,「この点は

,万

人の心胸 に訴 える写°とするハチスン経験主義の基本の立場 と

,ど

うかかわ るの であ ろうか。 そもそも

,モ

ラル・ センスは

,単

に仁愛的動機の是認 にのみ とどまるものであろうか。必 ず しも

(4)

48 布贅

そ うで はない と思 われ る。 た とえば

,ハ

チス ンは,「 剛毅」 (fortitude),「 卒直 さ」(candour),「誠 実 さ」 (veracity)そ れ に何 よ りもモ ラル・セ ンスその もの とい った,「 われわれのすべ ての仁愛的情

緒と

,ュ

異なった

Yデ

「穏和で普遍的な仁愛や

,個

々の情緒とは別個な

!9も

のも

,道

徳的徳として直接

的に是認 され ると見ているのである。道徳的価値の独 自な美 しさが,この後期 において も,「すば ら しい」(eXcellent),「優雅な」(graCeful),「高貴なJ(nOble),「名誉ある」(hOnOurable)「独 自な」

(diStinct),「よ り高 き」(higll餅),「愛 すべ き」(10vely,amiable),「 正 しく

,美

しくJ ttght and

beatltift11),「ぃや しく

,み

に くく」(base and deformed,odious),「 当然の名誉」(merited glory),

「道徳的に恥ずべ きこと」(mOral turpitude),「道徳的威信J(mOral diglaity),「 真の価値 (trueSt

Worh)な

どの名 においてひん繁に語 られ

,

しか も

,そ

れ らが

,モ

ラル・センスない し「道徳的能力」

(moral faculty)に よって,「直接的に」 (immediately)是 認 され ることが言われているの を見 る。 初期の場合,その道徳的是認が

,多

,あ

る種の快苦の感 において語 られていたの とは対照的な程, ここでは

,客

観的価値の実在性が強調 されているかに見 える。 これをマルティノウ (J.Martineau) のように,「直覚的」(intuit e)と とる(2ωべ きかは問題であるが

,単

純 に功用のセ ンス と見 るわけに はいかないであろう。「われわれは,その対象がすば らしいか らそれ を眺 めて喜ぶのであって,それ がわれわれに快感 を与 えるか らその対象がすば らしい

,

と判断するのではないVつとハチス ンも言 っ ているのである。 われわれの幸福か らモラル・ セ ンスを除 くわけにはいかない。われわれは

,そ

のモラル・ セ ンス

と有徳な生活においてのみ

,真

に幸福になり得るのだとハテスンはしきりと繰り返すが▼

Dそ

れも

, モ ラル・ セ ンスの功用 か らの一応 の独立性 を認 めな くて は

,あ

り得 ない ことではなか ろうか。 ハ チス ンにお いて

,わ

れ われ の道徳的是認 が

,全

体 の幸福 と密接 な関係 を有 して い るこ とは否定 され ないが

,し

か し

,そ

れが単純 に功用 の原理 と一体 化 され得 ない もの である こ と

,そ

の意 味 で, 一応独立 した原理 であ る ことは

,認

め られ な くてはな らない ことの ように思 われ る。 l_l では

,ハ

チ ス ン は

,結

局 矛盾 してい るの で あ ろ うか。 道徳 の根本原理 があ くまで二本立 てだ となれ ば

,た

しか に矛盾 といわな くてはな らないで あ ろう が

,た

,形

式 的善 と実質的善 とを明確 に 区別 しつつ功利思想 をも展 開 してい るハ チス ンで は

,問

題 はそ う単純 で はないようであ る。 何 よ りも

,そ

れ は

,ハ

チ ス ンの視点 によるので はなか ろうか。

(1)そ

もそ も

,ハ

チ ス ンにお いて

,そ

の功利思想 その もの は

,モ

ラル・ セ ンスの経験 的分 析 に よって もた らされ た もの なのであ ろ うか。必 らず しもそ うで はないので はなか ろ うか。 ハ チス ンは

,た

しか に

,そ

の倫理学的探究 に当 って

,経

験 主義的方法 を採 り

,か

な り実証 的 な, 作

(5)

ノ、チ スン後期の倫理思想

49

リアルな視点 において自然 と人間 を観察 しているが

,同

時 にかれはそれ を

,極

めて独 自な神学的 目 的論 において見直 してもいるのである。否

,結

局 は後者のための

,自

然全体の観察 なのである。た とえば,『序説』の第一章で

,ハ

チス ンは

,次

の ようにその道徳哲学探究の方法 を開陳 しているので ある。「 この世界 は

,そ

して特 に人間本性 は神の知恵 と計画 によって形成 された,と 信ず る者 はすべ て

,わ

れわれの組成 (struCture and ttame)に 何 らかの明 白な証 しを

,つ

まり

,創

造主の摂理 と知 恵 によって

,わ

れわれは

,い

かなる人生 を歩み

,い

かなることをなす ようにつ くられているのか, 又

,何

が真 に幸福 に役立 つ人生の義務であるのか を示す明 白な証 しを見出そうと期待するはずであ る。 そ こか ら

,わ

れわれは

,わ

れわれの自然の構造 を正確 に探究 し

,わ

れわれがいかなる存在 であ り

,自

然はいかなる目的にわれわれを形 づ くったか

,そ

して

,い

かなる性格 を保持す ることを創造 主たる神 が要求 しているかを見な くてはならない。……・従 って

,わ

れわれの義務の第一 の念 を神意 か ら引 き出 してはならず

,よ

り直接的に知 られ る

,わ

れわれの自然の構成か ら引 き出す こと。 その 十全 な知識 か ら

,わ

れわれの行為 についての創造主のデザイン

,意

図(intentiOn),そ して意志 を知 るであろうY9と。 ところで

,そ

のハチスンによれば

,自

然の全体 は

,い

わば一 つの有機体 にも比せ られ るべ き

,秩

序的相互連関の構造 をな している。星 しんの運行か ら生命体の活動 に至 るまで

,そ

の一切 は

,他

の もの と

,そ

して全体 と

,一

つの秩序的連関において存在 し

,又

,そ

の ように存在すべ く

,そ

の器官 の全構成がな されているというのである。人 もすべて

,そ

の誕生以来他の人の保護 。支 えにおいて 育 ち

,互

いに依存 し

,連

帯する関係 にあること

,そ

れ を離れては生 き得ず

,た

だそこにのみ幸福が あることを、ハチスンは至 るところで述べている。動植物 の間に も

,否 ,そ

れ らと人間 との間 に も, 同 じような秩序的連関

,共

生の関係が見 られ る とい う。か くて

,ハ

チスンによれば

,世

界 に悪 は存 せず '° )又

,ホ

ップス的 自然観 も

,全

く誤 った ものである1)世界の全体 は

,結

,す

べてを支配 す る 一つの絶対的精神 (all rulilag mind)の下にある

,秩

序的統一体 なのである∫剪

もし

,自

然の全体が

,こ

の ように

,一

つの秩序的相互連関の構成 をな しているとされるな ら

,そ

の中で,「すべて幸福 を求め,不幸 を避 けるような意志の構造甲 をな しているわれわれ人間に とって, 他に

,そ

して全体 に対 する配慮 は

,い

わば先天的に要求 されているわれわれの存在の条件 とも言 え ないであろうか。否

,生

存の条件 とさえ

,言

えるか も知 れない。事実

,ハ

チスンは

,こ

の ように言 っているのである。「人々の友好関係

,互

いの好意のかわ し合い

,そ

して多 くの人々の協力関係 とい った ことは

,人

間生活の楽 しみや

,便

宜のために絶対 に必要であるのみならず

,そ

れ を維持 してい くためにも必須なのだ。 これ は

,議

論の余地のない程

,明

白な ことだす°と。 ここでは

,必

らず しも モラル・ センスを要 しまい。ハチスンによれば

,わ

れわれに理性や言語能力が神か ら与 えられてい るの も

,

もともとは

,人

間が相互 に生 きてい くために必須だか らであるが '° 同様 に

,仁

愛 も

,他

人 の好意 を得

,自

利 を金 うするために も必須 なのである伊° これ を もう少 し追 って見 よう。注 目され ることに

,ハ

チス ンは

,モ

ラル・ セ ンスの是認の検討 に

(6)

50 れ竜

先立 って

,仁

愛の情 について

,既

,こ

のように述べてい るのである。「 もし神が もともと全知全能 であった とすれば,かれ は互 いに利害 を及 ぼし得 るような存在 に親切心 を植 えつけることによって,

すべての人々の最大幸福 を図った ことになる

,

ということを予知 していたはずであるgのと。最大幸

福原理 は

,モ

ラル・ センスの是認 に既 に先立 っているかのように見 える。実際

,ハ

チスンは

,

この 後で,「同様 に」(in lke manner)と して

,モ

ラル・ セ ンスもまた最大幸福 に役立つ ものを是認す ると述べて くるのである。ハチスンにあって

,最

大幸福原理 は

,必

らず しもモラル・ センスか ら導 かれたものでな く

,わ

れわれの 自然の全体か ら超越的視点 において導かれた

,自

然の究極的 目的の 原理だったのではなかろうか。「全体の共通利益 を,われわれの主 として配慮すべ きもの としてすす めるのは

,心

の よ り高貴 な欲求 と

,わ

れわれのモラル・ セ ンスの双方であるよ°ともいわれている。 少 くとも

,単

純 にモラル・ セ ンスだけがそれ にかかわっているのでない ことは明 らかである。ハチ スンによれば

,そ

もそ も

,わ

れわれのあらゆる「センス」が

,そ

の究極 目的に呼応 しているものの ようであ る。『序説』のはじめで感覚一般 を分析 し,「自然 は

,そ

れに最 もよ く叶 い

,全

体 の幸福 に

最も役立つ活動力を是認するような

,あ

るセンス又は自然的好みを有している

(ザ )と

いゎれており

,『

系』でも

,わ

れわれのすべての感情は

,最

大幸福のために植えつけられているのだ, といわれてい

る。

敢 えて

,極

論 すれ ば

,ハ

チス ンが 『序説』『体 系』 ともに

,そ

の道徳哲学 を,「人々 の最大幸福 の ため に」役立 つ よ うな生 き方へ と導 くこと

,

として スター トした とき

,そ

こに既 に

,最

大 幸福 原理 が前提 され ていたので はないか。 モ ラル・ セ ンスの仁 愛是認 の事 実が

,ハ

チ ス ンの功利 思想の進展 に大 き く力 を貸 してい るこ とは 否 定 され な いで あ ろ うが

,

しか し

,そ

の功利 思想 その もの は

,上

に見 た よ うに

,必

ず しもその是認 の事 実か ら来 た もので はな く

,あ

る意味 ではそれ に先立 って

,あ

るい は

,少

くとも

,自

然 の構成全 体 か ら

,超

越 的 視点 の助 け におい て導 き出 され た

,い

わ ばハ チス ンの神学 原理 だ ったので あ る まい か。 これ は

,徳

の解音」家 (anatOmist)たる こ とに甘 ん じた初期 の ヒューム とは もちろんの こ と

,ハ

チス ンの助言 を容 れ て、徳 の画家 (painter)の 立場 に近 づいた ともい え る後期 の ヒューム とも根本 的 に異 な る方法 といわ な くて はな る まい。 ヒューム は

,そ

の後 期 において さえ

,あ

くまで

,わ

れ わ れのモ ラル・ セ ンスな い し現実 の道徳的感情 の分析 か ら

,そ

こに共通 す る性 質 として「功 用性

Jの

原理 を と り出 し,そこか ら逆 に,その道徳的感情 を全人類 に配 慮 する「 ヒューマニティ」(htllnanity)と 帰結 したので あ るか ら。

(2)ハ

チ ス ンの道徳論 は

,結

局 この よ うに

,現

実 的 自然 と超 越 とい う二 つの視 点 か ら成 る もの とせ られ るな ら

,先

に問題 として残 したわれわれの モラル・ セ ンスの是認 と

,功

用原理 とは

,そ

の 二 つの視点 の関係 が一 定であ る限 り

,必

らず しも両立不可能 で はない ことにな らな いか。 モ ラル・ セ ンスは主 に仁愛 的動機 にかか わ り

,必

らず しも功用 のセ ンスで はない として も,しか し,それ が, すべての仁 愛的行為 は結局 最大幸福 を欲す る神 の意 図 をあ らわ す と見 るハ チ ス ンにおいて

,究

極 的 兼

(7)

ハチス ン後期の倫理思想

51

にはその功用原理 と一体化 され得 るか らである。ハチスンは

,功

用か ら一応独立 して在 るわれわれ の道徳的是認

,特

に仁愛の是認 に深い神的意図 を見ていた と思われ る。 その有徳な行為 は

,わ

れわ れ自身に とっても最大の喜 びとなる。 モ ラル・ センスの是認 は

,か

くて

,ハ

チス ンにおいて

,究

極的には

,最

大幸福原理の一環 という ことも出来 ようが

,た

,現

実の道徳的是認の場面ではそれか ら一応の独立性 を有 している点 が, 注 目され るわ けである。 この関係 は、何 よ りも

,モ

ラル・ センスと自然法

,そ

の認識 に

,よ

くあ らわれているように見 え る。 ハチスンにおいて

,自

然法 は

,結

局 は神の最大幸福 の意志 をあ らわす もの として

,究

極的存在で あるが

,し

か し

,わ

れわれは

,神

の意志 を直接的には知 り得ず

,そ

の法 を

,結

局 自然の

,人

間本性 の構造 に求め ざるを得なか った ことは

,先

にふれた ところであった。ハチスンによれば,まずは「セ ンス」の

,そ

してモ ラル・ セ ンスの知覚 がわれわれにとっては必要であったのである。道徳的善悪 は

,モ

ラル・センスによって「第一 に」 (firSt,primary),法 の認識 に「先立 ってJ(previOtt to,prior to)なされ るのであ り

,決

して理性的判断ではない。これ は

,初

期か らの ものである。ただ

,そ

の こ

とは,セ ンスの知覚が必 らず しも絶対的,究極的認識 であることを意味す る もので はないのである。 た とえば

,先

に,「権利」に関することで引用 した箇所 に続 けて

,ハ

チス ンは次のように述べている のである。「われわれは

,わ

れわれの諸権利の観念が

,い

かにして

,法

や命令 のいかなる考察 にも先 立 ってわれわれに自然であるあの正邪のセンス (that mOral sense of right and wrong)か ら来た かを既 に十分 に説明 した。 しか し

,万

人の幸福 に資するものはいかなるもの も要求 し

,す

べての正 しき理性の実際的命令 を含 んでいる神聖な る自然法の観念 に及 んだ とき

,わ

れわれの道徳的性質に 関する定義は

,法

に照 らして

,限

定(be abridgedlさ れよ」T)と。 自然法 を認識 す る一― もっ とも, それ も

,間

接的でしかないが

,一

―正 しき理性が

,モ

ラル・ セ ンスに優位す るのである。われわれ は

,た

しかに

,良

心(collSCience)の声 に耳 を傾 けな くては ならない。 それ に反することは

,神

聖な る法の軽蔑 を意味するか らであるようしか しなが ら

,法

に先立つ自然の善悪の念 は

,必

らず しも「全 体の最 も広範な利益 との関連 を含 むものでな く!り

,従

って

,誤

ったセ ンス

,誤

った良心には

,む

し ろそむ くことが

,よ

り正 しい場合 もあるのである押り 最初 に も下言ふれたように

,ハ

チスンにおいて

,モ

ラル・ セ ンスは不必要なのではないか と見 る 人 は少 くない。たしかに

,ハ

チス ンの道徳論 にはその面があることは

,否

定 されないか も知れない。 義務 の究極的大綱 は必ず しもモラル・ セ ンスか ら来たのでない とすれ ば

,そ

の限 りでは

,モ

ラル・ セ ンスは

,い

わゆる「余計 な もの

J(supernumerary)で

しかないか らである。実際又

,ハ

チス ンの モラル・ センスの認識 は

,受

動的知覚以上 には余 り出れない ともい える。 ただ

,ハ

チスンにおいては

,た

しかに

,義

務の大綱 は超越的に定 まっていて も

,個

々 の具体的行 為の評価の場 においては

,結

局 このセ ンスに

,そ

の一種独 自の秩序

,調

和 の感覚 に訴 えざるを得な

(8)

52 れ贅

いのである。ハテスンにおいて

,そ

の最大幸福 は

,単

なる全体的快楽主義を意味するものでな く,

自然の秩序的構造 をはなれてはあ り得 ない とは

,先

に見 た ところであった。モラル・セ ンスは,「卒申 の道徳的支配J(God's moral governmellt)に 深 く組み込 まれた

,そ

の独 自な構造の窓国の感があ る。 自然法の細 目決定 において

,モ

ラル・ センスが無視 されるどころか

,至

るところで

,そ

れが重 要なかかわ りを もっていることが散見 される。 た とえば

,あ

る限 られた範囲の仁愛 と社会全体の利 害 との間に葛藤のある場合

,大

綱 は最大幸福原理で決め られ るものの

,そ

の具体 的処理 は

,結

局, これの もつ美感 よ りあ り得ないのであ るよつ夫婦

,家

族間の義務の規定で も

,同

様 だ といえようよ° 度々述べたように

,ハ

チスンにおいて

,究

極 は神意 による最大幸福原理 であ り

,モ

ラル・ セ ンス は

,超

越的視点によれば

,そ

の窓口にす ぎないが

,し

か し

,単

純 にその功用原理 をその標準 とする ものでな く

,む

しろ

,そ

れか ら一応独立 した形で

,

しか し

,結

局 はその神意 に呼応す る関係 にある と言 ってよいようである。 た とえば,『体系』の中で

,自

己愛 と仁愛 との間の選択 とい う具体的場面 において

,結

局モラル・ セ ンスを要請せ ざるを得 ない として

,そ

の検討に入 るが

,そ

の直前で

,次

のように言われているのを見 る。「 ここで次のように申 し立 てることは

,即

,わ

れわれは

,理

性 と 反省 とによ り,われわれの感情の構成全体 か ら自然の主である神の意図が何 であったかを知 り得 る, つまり

,か

れ は

,明

らかに

,全

体の幸福 を意図 された とい うこと

,そ

して

,

この ことがわれわれの 規範であるべ きこと

,従

って

,わ

れわれは

,わ

れわれのすべての利己的感情のみならず

,す

べての 愛他的な個々の情緒 をさえも

,全

体の利益の限度内に抑 え

,統

御すべ きである と

,こ

の ように申し 立てることは

,実

際は全 く正 しいのだが

,た

,い

かなる心の決定

,い

かなる動機 によってわれわ れが神的意図に応ずる (COmply with)べ きかが

,は

じめに告げられない限 り

,問

題 の解決にはな ら ない!0と。

(3)ハ

ナスンの道徳論 は

,現

実的自然 と超越の二 つの視点か ら成 ること

,そ

の二 つの視点の関 係が一定である限 り

,モ

ラル・ セ ンスの是認 と最大幸福原理 は

,必

らず しも両立不可能ではな く, 独 自な関連 をなし得 ることを見て来たわけであるが

,た

,そ

の二 つの視点の関係 は

,実

際は

,ハ

チスンにおいて必 らず しも一定 しているわ けでな く

,時

に大 きく交錯することもあって

,結

,

こ れがハチスンにおいていろいろな問題 を生んで来ているのではなか ろうか。 人間の自然的感情 を冷静克明 に分析 し

,ほ

とんど快楽主義 に近 い立場 でこれ を眺 めた り

,プ

ラ ト ン国家論篇の考 え方は,「ただ一部のす ぐれた者の幸福のためで,大多数 はただ悲惨 な奴隷 にす ぎぬ]D と強い調子で批判する一方で

,生

の はかな さを説 き

,感

覚的快 を強 く否定

,自

己犠牲の美 しさを 高 く掲 げるハチスン碑 動物の自然的構造 とその生態 を リアルに見つめ

,そ

れが 自然の意図だ とする一方で

,あ

る種 の動 物 は他の動物 に食われるために存在 し

,あ

るいは人間に利用 され

,取

られることでその生 を全 うす るようにつ くられていると見 るハ テス ンよ9 現実の人間の堕落 をしばしば嘆 きつつ

,世

に悪 は存 しない と楽天するハチスン° 作

(9)

ハチスン後期の倫理思想

53

度 々述 べた よ うに

,モ

ラル・ セ ンスは

,結

局 は神 の意 図で あ る最 大 幸福原理 の一 環 で あ るが

,直

接 そのセ ンスで はな く

,結

局 はそれ に向 う形 で

,

しか し一 応 の独立性 を持 っていた と考 え られ るの に

,そ

れ が

,直

接 的 に最大 幸 福 のセ ンスで あ るか の よ うに述 べ られ る とき。 あ るい は

,逆

,功

用 とほ とん どかかわ りないかの ように

,独

自な美 感 にお い てのみ是認 を行 な うよ うに見 え る場 合 。更 に は

,モ

ラル・ センス を一切無視 して

,理

性 的 に道徳 的判 断 を行 って い るか に映 ず る とき。 それ ら は

,表

現上 の問題 もあ るに して も

,ハ

チ ス ンの二 つの視 点 の関係 が一定 していない こ とに よ らない であ ろ うか。 ハナ ス ンは,「 その道徳論 において

,た

だ揺れ に揺 れ てい る」とい うマルテ ィノウの評 言6°は味 わ い深 い。 l_l

(1)ハ

チスンの道徳論 は

,二

つの視点によるものであること

,

しか し

,そ

の視点の関係 は

,必

らず しも一定 していない ことを上 に見て来たわ けであるが

,こ

れは

,実

,必

らず しも後期の道徳 論 に限 らず

,基

本的には

,初

期 にもそのまま言えることではなかったろうか。 ハチスン初期の道徳論 は

,モ

ラル・ セ ンスとその是認

,仁

愛の徳 を中心 に展開 され

,功

利主義 な いし最大幸福原理 は

,い

わば副次的に扱われていた とは

,冒

頭 にふれた ところであるが

,

しか し, これ もそこでふれたように

,そ

のことは

,最

大幸福原理が軽視 されていた ことを意味するもので は 決 してなか った。われわれの道徳的是認 は

,結

局 は人類全体の幸福 に通 じるものであるとは

,ひ

ん 繁に述べ られている ところである。従 って

,既

に初期 において

,後

期 と同 じ問題が存在 していたわ けである。否

,初

期 においては

,殊

の外

,徳

の美 しさが称 えられ

,仁

愛 の徳で も

,そ

の賞讃 は

,必

らず しも全体の幸福 に役立 つような

,広

範な ものにのみ向 けられていたわ けではない。従 って

,あ

る意味では

,後

期 の場合以上 にその間 に距離があった とも言 える。 しか し

,そ

れ に もかかわ らず, 両者 が一体的であ り得 るとすれば

,や

は り

,上

に見た二 つの視点 によるもの と考えるほかないので はあるまいか。ハチスンは

,こ

の初期の立場 で,「ここで言われていることは

,わ

れわれのモ ラル・ センスの知覚 に関 してだけで

,神

の啓示 によって要求 され るような徳の度合には関係 しないfうとし て

,そ

の超越 的根拠には余 り立 ち入 らないが

,そ

れで も

,は

っき りと

,次

のように言われているの を見 る。「いかなる人 も

,全

体 の幸福 のために

,そ

して

,そ

れに一致する限 りでの個人の最大幸福の ためにつ くられた これ らの法 に

,全

体 を愛する心 で

,従

っていかな くてはならない。 そして

,だ

れ もが

,神

の法 に従 う方が

,自

分 自身の最大の慎慮や慎重 さをもってするよりも

,

もっ とよ く

,そ

の 目的 を達成 出来 ることを

,確

信するであろう。善良で賢明 な神 は

,世

界 を統べる完全な権利 を持 ち, 人間 はすべて これに従 う義務 を負っている

Pと

。改めて言 うまで もな く

,法

が究極 にあるのであ り, すべては

,そ

こか ら来ているのである。

(2)モ

ラル・センス と功利主義 をめ ぐる問題 は

,基

本的には初期か らの ものであった とすれば,

(10)

54 布贅 では

,一

,後

,何

が根本的に変化 したのであろうか。 思 うに

,そ

れ は

,既

にふれ られて もいるように

,単

に功利主義 に大 きく傾斜 した とい うよ りも, む しろ

,ハ

チスンの道徳論 を成 している二 つの視点の力点が変化 し

,現

実的 自然の視点 よ りも

,超

越の視点の方によ り力点がおかれ るようになった ことではなかろうか。道徳の超越的根拠が

,よ

り 表面化する ことに もなったわ けである。 後期のハチスンは

,そ

の『体 系』『序説』ともに

,至

るところで

,神

の意図

,神

の意志 を語 り

,そ

れに従 うべ きことを説 いている。『序説』は

,聖

書 だけが唯―の頼 りであることか らはじまって

,神

の定める法の下 に

,み

な一体 となって生 きるべ きことで終わ り

,途

中の倫理 の各章 もほとん どすべ て,ネ申の意志 に従 うべ きことで結 ばれている。『体系』で も

,そ

の大部 を占める自然法 は

,結

局神の 法 として語 られ,「われわれに下 された 〈神 と汝の隣人 を愛せ〉に法のすべてがある(y)とせ られてい るのを見 る。 道徳的義務の根拠が神 であると明 白に述べ られるようになったの も

,大

きな変化である。 た とえ ば,「神が存在 し

,人

類 に義務 を命 じ

,人

々の保 つべ き性格 を指示する。写9「われわれのすべての徳 は神か ら来 るf°な どと至 るところで言われているが

,こ

の変化 は決定的 といわな くてはな らない。 もちろん

,初

期で も

,上

に見たように神の意志がないが しろにされていたわ けでは決 してな く

,逆

に後期で も

,わ

れわれの道徳的是認 は

,神

か らの期待感 とは異 なると二

,三

ケ所で述べ られている が,おしか し

,道

徳論全体 として見て

,そ

の力点の違 いは

,歴

然た るものがある。初期で も

,神

の法 が究極 にある ことは上 にふれた ところであるが

,

しか し

,善

悪の観念がその法 に依存すると考 える ことには強 く抵抗 し

,モ

ラル・センスと別 に神の法が善い とか

,正

しい とかい うことは,「神 は自分 の意志する ことを意志 している」 という循環論だ働ときめつけている。ぁるいは又

,あ

る行為 を見 て愛 らしい と感 ずるセ ンスを神が植 えつけた と考 えるなら

,で

,善

良なる神 は

,一

,

どんな行 為を是認するように定 めた というのか と

,問

いつめるハチスン '9『 モラル・ セ ンス例証』 の第

6章

は,「行為 を有徳 とさせるのに神への顧慮 はどこまで必要か」と題 され

,結

局全章で,有徳 な生活 は, 神の信仰 と直接関係す るものでないことが説かれているのを見 る。 モラル・ センスその ものが

,初

期の独 自な快苦の感 に代 って

,著

しく神格化 されたことは

,言

う まで もない。「神的センス」(divine sense),「ネ申的能力」(divine faculty),「聖なるセ ンスJ(saCred

sense),「崇高 なるセンス」(sublime sense)な どとして

,そ

の権威

,尊

厳感が至 るところで強調 さ

れるようになったわけである。 これに伴 うモラル・ センスの変化 は

,何

よりも

,そ

れが

,神

の道徳的支配 に組み込 まれ

,そ

こで の動的な遂行,実践の能力 になった ということに見 られるであろう。それは,「 もともと

,他

の ものを 支配するように と定 め られている聖なる能力」甲のあるいは,「もともと

,わ

れわれのすべての力 を規 制 し

,統

御するよ うにデザイ ンされている甲 な どと言われ

,規

制 (regulate),「支配」(govern), 「統御」(contrOul),「命令」

(COmmand)す

る力 として

,位

置づ けられて来 ているのである。モ ラ 作

(11)

ハチ スン後期の倫理思想

55

ル・セ ンスが道徳 的能力 とな り,「 良心と と呼 ばれ る ことが多 いの も

,そ

の意味 が あ るで あ ろう。 こ こで

,注

目 され る こ とは

,モ

ラル・セ ンス とほ とん ど同 じに用 い られて い るはずの良心 が

,他

方 で, 著 し く

,理

性 的能 力 の よ うに も見 られ て い る こ とで あ る。 た とえば,『 序説 』 で,「 良心 とは普通, 自分の行為の道徳性の判断ない し自分の行為が法 に一致 しているか否かの判断 と定義 され る」りと述 べ られてい るが

,既

に自然法が

,

ここでは

,前

提 され

,い

わゆる正 しき理性 を含 んだ もの となって いる とも言 える。事実,『体系』 で

,よ

り明確 に,「良心は

,時

,道

徳的能力 をあ らわ し

,又 ,時

には

,モ

ラル・セ ンスが是認 や否認 を加 える行為の動機や結果 についての

,理

性的半J断をあ らわす。 ……あるいは又

,良

心 とは

,い

ろいろな他の神法が

,い

ろいろと違 うことをわれわれに示す とき, 法 に照 らして

,わ

れわれの行為 について判断 を下す もの

,

と定義出来 ようザ°と。 ここか ら

,法

の見 誤 まりは罪 となることが

,

しばしば言われて来 るのであるよ° これに関連 して

,わ

れわれの 自然的な善悪の念の不完全なること

,誤

りやすい こと

,従

って

,そ

れを啓発 し(CultiVate),「訓練 するJ(train)必要が しきりと強調 され るの も特徴的である。 その基 準は

,言

うまで もな く

,神

的 自然法である。 ただ

,モ

ラル・センスが このように

,超

越的視点において

,実

践的能力 と見 られれ ば見 られ る程, その道徳的認識の面 は

,逆

,大

きく後退 した感がある。 その面が全 く失せたわ けでは決 してない が

,そ

れ も多 く実践 との関連 で語 られ るのを見 る。初期のモラル・ セ ンス も

,現

代 の分析的倫理学 の意味で果 して十分「認識的」 (COgnitiVoで あるかは

,問

題であるが '5)し か し

,初

期の場合 は

,ま

,モ

ラル・ センスの独 自性 がかな り残 されていた。後期 はそれが

,視

点の力点の変化で

,大

きく 神法 に従属する形 とな り

,一

見「認識的Jに なったようには見 えて

,そ

の実,「直覚的」認識か らは, 更 に遠 くなったように思われ る。 たしかに

,よ

り「直接的

Jに

価値 にふれ得 るようにはなったが, しか し

,そ

の直接的知覚 は

,必

らず しも絶対的

,究

極的な もので はな く

,又

,こ

れに優位す るはず の正 しき理性 も

,実

は間接的な認識能力 でしかないのである。われわれ人間の側の道徳的認識の限 界 をあらわ しているとも言えよう。 lul 以上

,モ

ラル・ センス と功利主義 との関係 を中心 に

,ハ

チスン後期 の倫理思想

,そ

の変化の面 を 見 て来たわ けである。ハチスンの変化の問題 は

,更

にバ トラーやギ リシャ思想 との関連 などか らも 究明 されな くてはならないが

,上

に見た ところでは

,ハ

チスンは常 に二 つの視点において自然 と道 徳 を見ていた こと

,

しか し

,そ

の二 つの視点の関係 は必 らず しも一定ではなか った こと

,そ

して後 期

,何

よ りも超越 の視点 に大 きく力点が移 り

,道

徳の超越的根拠が表面化 された ことをた しかめて 来たわけである。後期の功利主義への大 きな傾斜 は

,む

しろその視点の力点の変化 に帰せ られ るよ うに思 う。

(12)

56横

山 兼 作 ハ チス ンは

,後

期 において も

,道

徳 にお けるモ ラル・ セ ンスの意義 を決 して否定 したわ けで はな か ったが

,た

,こ

れ を見 る視点 の力点 が変 ったため に

,そ

の道徳論 に占め る位 置 はかな り違 った もの にな った よ うであ る。 何 よ りも

,そ

れ は

,神

の道徳的支配 の窓 国 として

,著

し く実践的性格 の もの になった こ とは

,上

に見 た ところで あった。実践 的 な力 とな った こ とで

,初

期 のモ ラル・ セ ンスのか か える実践面 の弱

さをカバーすることになったともとれるが

しかし

,同

時に

,認

識面で後退することになったこと

,上

に見たところであった。少 くとも,そ の知覚が

,著

しく超越的な根拠を持つようになったの

,

,否

定 し得ない。先に も述べた ように

,ハ

チスンは

,初

期以来のモラル・ セ ンスの持 つ独 自な知 覚

,あ

るいはその現実 をよ く見 なが らも

,し

か し今

,そ

の背後 に

,神

的秩序 において最大幸福 を目 ざす

,創

造主の深い意図を見た ということであろう。 ハチスンの「ネ申の道徳的支配」の構造 は

,バ

トラーのそれ とは必 らず しも同 じではないが,「直覚 的」 とも評 された りす るバ トラーの良心の立場 において も

,

しか し

,わ

れわれの道徳的義務 はすべ て聖書が規定 すると言われているのを見 るD牧師補 としてスター トして間 もな く

,わ

れわれはその 良心 に従 ってさえいるな ら

,異

教徒で も神に救済 され ると説教 して教会の慣激 を買い

,次

第 に哲学 的探究 に向った青年時代6働か ら

,後

年の円熟 した啓蒙家に至 る°9ハチスン自身の魂の遍歴 を見 るよ うに も思 う。 度々述べた ように

,モ

ラル・ セ ンスの立場 をなお残 しつつ

,

しか し

,こ

れ を見 る視点の力点が大 きく変 って

,そ

の認識面は余 り顧慮 され な くなった という意味で

,ハ

チスンはもはやモラル・ セン スの立場 とは言 えな くなったように思われ る。 注

(1)A Systen4 0f MOral PhilosOphy 1755(Colected Works of Francis Hutcheson,Vol V,VI)以 下, System

と,又 ,本文 では,『体系』 と略。

A ShOrt lntrOduction tO h71oraI Phi10sOphy 1747 (Collected Works,Vol lv)以 下, Introduction 『序説』 と略。

なお,Systemは,ハチスンの没後刊行 にな った ものであ るが,その執筆 は,htrOductionょ りも早 く,1935

-7年

と見 られている。cfヽV R ttott,Francis Hutcheson P l13と B Peach,Preface tO Hutcheson'sHト

ustration on tlle Moral Sense p 6

なお,又 ,Systemと Introductionと の間に も多少の違 いが1旨摘 されているが (Cf SCott,op_cit p l13),

以下では,それを承知 しつつ,大体一体的 に扱 うこととしたい。

(2)W Frankena,Hutcheson's Moral Sense Theory」 ournal of the History of ldeas XVI(June,1955) ヽV R ttott,op cit p 210 ff

(13)

ヽテスン後期の倫理思想

57

J,Mirtilleau,Typcs of EthicaI TheOry.Vol,H,p.586 ff. │

(3) ci J.Belathami An lntroduction to the Principles Of h/1oralS attd Leg億 1-ation chap.xI 」。S N4til,Utili― taFianiЫni chap I

(4)HutCh確89■,An lntui,conCerning M。 重I GOod― and E∼ 11.(SelbyとBigge,e.d,BFitisll MOrarもヽ p.107),ci L.Stepllen,Histoり of Engli Tl10ugllt in he Eighteenth celltwy,Vol.H.p.61

(5) Cf,Martineau,o, clit,p.537i SCOtt,Op.Cit,p.222

9

ハチスンに関して以前考察 したもの と多少重複する点のあることを,お断わ りしてお きたい。参照

,拙

稿「モ ラル・ センスー自然に上着の道徳感覚―」(日本倫理学会論集『感情辺)(理想社)1975「 ^チスンのをラル・ センス と道徳的認識│の問題― フラ ンケナとノー トンの論争に関連 して一」(蔦取大学教養部紀要第14巻,1980) (7)IntrOduction, p.118 (3)ih o,117 (9)お.p.1“ lo L.Stephen,Op.cit,p161 11D Irltroductioni p. 119 CD Systtm I.pr 28 (10 ib,p,64ff,IntrOduction,p.9,16 1141 Syste,I I.0.53 151 ib.o. 232,IntroduCtio● ,p, 125f tO S,steltl p 69

(1, L Stepheni op cit.p ol.W.T.Blackstons,FFands Hutcheson and COlatermpo盟 り Ethical TheOry,p.38

(181 1ntrOduction,pl.38 191 ib,P. 52 120 ib.o. 138 90 System.I.o,77 1221 ibi 1231わ.μ 811,ci p.2″ 941 ib.pi 67 1251 ibl pl 16 90 Martineaぃ op.c■.p1537 1271 Systenl.I p 54 1281 ib p 24.52135,156.318,Sysに n,Ip.24,27 120 1ntroductiOn,p.2 00 働rStemi I.p.175

(14)

58横

山 兼 作 0む Introductiol,o.137,Syttem,I Chap IV 1321 ci ttstem.1.chVaュ 9 1331 111trodttcOOn,p.4 130 ib p. 121 1351 ibr p 177 1361 id p.82

u)in p 21

130 'bi p. 133. ① ib,p.19 140 ib!p.119 Qp ib.p.130 1421 ib. p. 12Ю 1431 ib p. 130 1441 Systen,I.cれ op.II. 80 Ci ln,Oduction,p.264,260 “ O SyStcm.II p.51f 1471 1ntrOductioL p.6,91,257f

10 ib!p42f102

留91 ib.つ,148f,Systeln,I.p121 1501 1ntrOductiOnt p.354280f,System,19f 150 Martineau,Op.citi p 563

1521 Hutc恥o■ ,111■就FatiOn on the Moral Sense,p.183(The Belknap Pressl lHll lnquiry,p.174(Brli Moralおts)

150 System.I.p.223

1rD51 1nttreductioni p 101

1561 ib.,105

1571 ibl p,19i System,I p 56

6D Illqtttty,p153(Brttisll Moralkた

o

691 ib. p. 157 160 1ntrOductiOn,p 44 16D Sb/Stem.I.p.61f 1621 1ntt OdttChon,p.125 ⑬

(15)

SyStem.I.p234-ハチスレ後期の倫理思想

50

60 ib,p.233i htroduction,ュ 128fl

1651 参照

,前

掲拙稿「ハテスンのモラル・ センスと道徳的認識の問題」

1661 Ci Hi」etten,MOt ation and the Moral Senseれ Francis Hitcllesontt Ethical Theory.p.186f 1671 」.Butlori The Analogbr of Religion(Blltlett work5 Ctarendon,p.205)

160 ct PeaCh o,cl,0.5 1691 ci Scott,Op cl.●haュ IX■I

(16)

参照

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ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を

身体主義にもとづく,主格の認知意味論 69

が有意味どころか真ですらあるとすれば,この命題が言及している当の事物も

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

(自分で感じられ得る[もの])という用例は注目に値する(脚注 24 ).接頭辞の sam は「正しい」と

「海洋の管理」を主たる目的として、海洋に関する人間の活動を律する原則へ転換したと