探偵小説と諷刺錦絵と﹃リア王﹄ ― 条野伝平﹃三人令嬢﹄ ― D et ect iv e S to ries, N ishi ki - e C aric atu res, a nd Kin g Le ar : J ono D en pei’ s San nin Mu sum e ︵ Th ree Dau gh ters ︶
近 藤 弘 幸
要旨
条野伝平は︑今ではほぼ忘れられた作家であるが︑幕末には山々亭有人の号で人情本の作者として人気を博していた︒明治維新後の条野は︑一旦創作活動から手を引き︑新興の新聞界に身を転じる︒彼が﹃東京日日新聞﹄を経て一八八六年に創刊した﹃やまと新聞﹄は︑連載小説を売りにする典型的な小新聞として大成功をおさめた︒同紙では条野自身も採菊散人の号で創作活動を再開し︑ふたつのシェイクスピア物を残している︒本論は︑そのうちのひとつである﹃三人令嬢﹄︵一八九〇︶と題された﹃リア王﹄を読み解く試みである︒幕末・維新の動乱期を経て新聞界へ転身する条野の生涯を素描したうえで︑﹃三人令嬢﹄の概要を紹介し︑同作が︑探偵小説という当時の最先端の流行を取り入れて新しい読者への訴求を図りつつ︑戊辰戦争期の諷刺錦絵的手法を援用して旧幕以来の古い読者のノスタルジーにも応える︑したたかで豊かなテクストであることを明らかにする︒
キーワードシェイクスピア︑日本︑明治︑翻訳︑翻案
は じ め に
一八九〇年︵明治二三年︶七月二九日︑三遊亭円朝の高座の速記連載があたり︑当時東京で一︑二を争う発行部数
を誇っていた﹃やまと新聞﹄紙上に︑次のような告知が掲載された︒
⃝三人 にん令 むすめ孃 眠 みん氣 けの爲 ために久 ひさしく筆 ひつ硯 けんに據 よらざりし採 さい菊 きく散 さん人 じんも早 はやく出 でぬかと讀 どく者 しやの御 ご催 さい促 そく頻 しきりなるに圖 はからざりき一筆 ぴつ庵 あんも病 やまひ に由 よつて小 せう説 せつに從 じう事 じする能 あたわざれバ明 めう日の紙 し上 ぜうより題 だい號 がうの如 ごとき小 せう説 せつを強 しひて散 さん人 じんに筆 ふでを採 とらせ續 ぞく々 〳〵貴 き覧 らんに呈 ていし候 間 あひだ相 あひ替 かはらず御 ご愛 あい讀 どくの程 ほど伏 ふして奉 こひねがひあげたてまつり冀上候 ︶1
︵
﹃三人令嬢﹄は︑予告どおり翌日から九月二五日まで︑全四九回にわたって﹃やまと新聞﹄紙上に連載されたあと︑
一二月二六日には鈴木金輔によって単行本として出版される ︶2
︵︒新聞連載︑単行本のいずれにおいても︑それがシェ
イクスピア物であることや︑そもそも翻案であることは触れられていないが︑一読すればそれが﹃リア王﹄に基づ
くものであることは明らかである︒
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
本論は︑このあまり知られていない明治の﹃リア王﹄翻案を︑当時の歴史的文脈において読み解く試みである︒
作者の採菊散人こと条野伝平は︑江戸時代には山々亭有人の号で人情本﹃春色江戸紫﹄などを著して人気を博し︑
維新後は新興の新聞界で大成功を収めたが︑今ではほぼ忘れられた存在となっている︒そこで本論ではまず︑幕末・
維新の動乱期を経て新聞界へ転身する条野の生涯を素描する︒次に﹃三人令嬢﹄の概要を紹介し︑明治の新聞にお
ける探偵小説の流行︑および条野自身も親しんだと思われる戊辰戦争期の諷刺錦絵というふたつを手がかりに︑こ
の奇妙なシェイクスピア翻案を読み解く︒坪内逍遥以来の正統なシェイクスピア研究において完全に無視されてき
たテクストの︑思いがけない豊饒さを明らかにすることが︑本論の目論見である︒
一 粋狂連から日報社へ ― 条野伝平略伝①
旧幕時代の条野伝平は︑戯作者の仮名垣魯文や落語家の三遊亭円朝︑浮世絵師の落合芳幾などとともに︑有力商 人の庇護のもと︑粋狂連という遊興集団を形成していた ︶3
︵︒このグループは︑聴衆から集めた三つの題で即興の落語
を演じる三題噺の流行をもたらし︑興画合せという判じ絵遊びを生み出した︒興画合せとは︑次のようなものである︒
此遊びハ先づ會日を定め其前に兼 けん題 だいを配り置きて當日其趣向を持寄り衆 しう議 ぎ判 はんにて之が優 いう劣 れつを定め高點の部へハ 夫々賞 しやうひん品を配るといふ方法なりき其興畫の認 したゝめ方ハ兼題の品物を畫中にあらはさず故 こ事 じ又ハ古歌等の意を取り 他の景 けい物 ぶつを描き出して夫となく兼 けん題 だいを利 きかする趣向にて例 たとへバ寄月水といふ兼題の出たる時は薄 すゝきの原と富士の
遠 とほ見 みのみを畫きて武藏野と見せ月と逃 にげ水 みづとを隠して夫となく兼題を利かせ又養在深閏人未識といふ詩の句を兼 題に取りし時ハ室 むろ咲 ざきの梅を描きて餘意を示すがごとき趣 しゆ向 かうなり ︶4
︵︑
こうした粋人としての条野の優雅な生活は︑動乱の時代を迎え︑その根底から揺さぶられることとなる︒
徳川慶喜の大政奉還によって倒幕の大義名分を失った薩摩藩は︑旧幕府側を刺激して武力衝突の口実を作り出そ
うと︑江戸市中でテロ行為を繰り返した︒さらに江戸に入った東征軍︵新政府軍︶は︑﹁軍とは名ばかりで︑そのほ
とんどが︑ただの無法者﹂であり︑﹁官軍であることをかさに︑私利を私欲で追い求めた﹂ ︶5
︵︒彰義隊が敗北して庶民
に愛された﹁上野のお山﹂が焦土と化し ︶6
︵︑江戸が東京となって慶応が明治に改元されたあとも︑人々の生活は脅か
され続ける︒徳川家が静岡移封となり︑参勤交代の義務が消滅した諸大名がいなくなったことで︑幕末には一〇〇
万人を超えていた総人口が︑およそ六七万人に激減したのである ︶7
︵︒これは﹁町方の商業︑運輸︑手工業の落ち込み︑
そして窮民︵物貰い︶の大量発生﹂を引き起こした ︶8
︵︒その荒廃は︑一八六九年六月六日︵明治二年四月二六日︶付の岩
倉具視宛書簡で︑大久保利通がこう認めざるを得ないほどのものであった︒
皇國危急存亡ノ秋切迫スルコト間不容髪抑昨年來兵亂漸平一時無事ノ形ヲ成トいえとも大小牧伯各狐疑を抱き
天下人心洶々然として其亂るゝこと百萬之兵戈動くより可恐して今日を平安ト心得候ハ床下之烈火燃出さゝる
を幸とするニ異ならす豈可不思乎々々々々東下後實地之情態厚見聞仕候處英公使要路之人を耻しめ兒童ノ如愚
弄し草奔士ハ政府を凌辱して奴輩之如蔑視し内外之侮慢至らさる所なし況乎天下人心政府を不信怨嗟之聲路傍
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
ニ喧々眞ニ武家之舊政を慕ふニ至る ︶9
︵
このような環境の激変が︑条野のパトロンや彼自身の境遇に大きな影響を与えたことに疑う余地はない︒
こうした東征軍のふるまいや治安の悪化を背景に︑幕末・維新期︑とりわけ戊辰戦争期の江戸・東京では︑新政 府や︑新政府側に寝返った旧幕勢力を揶揄する︑大量の諷刺文芸が生み出された ︶10
︵︒そのひとつが︑﹁当世三筋のた
のしみ﹂などに代表される︑着物の模様など︑画面に散りばめられた視覚的記号の高度な読み解きを必要とする︑
諷刺錦絵である ︶11
︵︒かつて平和な頃に興画合せを楽しんでいた条野は︑それらの作品に共感していたものと思われる︒
もしかしたら︑なんらかの形でその制作にもかかわっていたのかもしれない︒
しかし時代の変化には抗えない︒箱館戦争に勝利し︑廃藩置県を断行して中央集権体制を整備した新政府は︑一
八七二年六月三日︵明治五年四月二八日︶︑国民の創出・教化の基本方針である三条教則を発布する︒条野は︑仮名垣
魯文とともにいわゆる﹁著作道書キ上ゲ﹂を新政府に提出し︑﹁尓後従来ノ作風ヲ一變シ乍レ恐教則三條ノ御趣旨ニ モトツキ著作可レ仕ト商議決定仕候﹂と報告する ︶12
︵︒これは︑事実上の﹁戯作者としての廃業宣言﹂であった ︶13
︵︒実際︑
条野は︑上申書提出前にすでに戯作の世界からは手を引き︑語学書などの実用啓蒙書を執筆して糊口をしのいでい
た ︶14
︵︒さらに彼は︑新興の新聞界にその活躍の場を見出していくことになる︒
条野と新聞のかかわりは︑戊辰戦争期にさかのぼる︒﹁戊辰の變に際し︹︙︙︺非 ○恭 ○順 ○論 ○者 ○の ○一 ○人 ○にて維新の王師
に反對するの念を﹂抱いた旧幕臣︑福地源一郎は︑﹁竊に條野傳平廣岡幸助西田傳助の三人に謀り乃ち四月上旬を以
て新に江 ○湖 ○新 ○聞 ○と名けたるを發兌刊行﹂する ︶15
︵︒広岡幸助と西田伝助も︑粋狂連のメンバーだった ︶16
︵︒同紙が︑﹁着々維
新の政に反對したる而巳ならず紙上は自から幕府の脱兵等が勝を喜びて之を稱賛し甚しきは戰報の空説若くは政況 の虚聞を作爲して以て記載﹂した結果︑福地は逮捕される ︶17
︵︒福地の釈放に﹁最も奔走したのは江湖新聞發行に關係
した一人である條野傳平であると傳へられてゐる﹂
―
彼は最初本郷の伊 い豆 づ藏 くらといふ呉服屋の番頭をしてゐたが︑呉服物を背負うて歩くうちにも讀書を怠らず︑それ
に記憶が非常によかつたので︑そのうちに戲作に筆をとるやうになつたものらしい︒そして福地とも交り︑ま
た福地の知人でもあつた杉浦讓といふ幕臣出身の人とも相知る仲であつたのである︒この杉浦はその頃新政府
に出仕してゐたものと見え︑その人の仲介によつて木戸孝允を動かして助命運動をしたのだといふことである ︶18
︵︒
後述するように︑のちの福地は政府擁護に転じるが︑﹁彼の政論はすべて木戸の意見であるとまでいはるゝやうにな
った因緣は︑おそらく此處に深い根をおろしたのであらう﹂ ︶19
︵︒
かくして条野伝平の新聞とのかかわりは︑日本近代ジャーナリズム最初の筆禍事件として︑一旦幕を閉じた︒し
かし一八七二年二月一六日︵明治五年一月八日︶︑条野は︑西田伝助および落合芳幾とともに︑あらためて政府に新聞
の刊行許可を願い出る ︶20
︵︒こうして一八七二年三月二九日︵明治五年二月二一日︶に第一号が刊行されたのが︑﹃東京日
日新聞﹄︵現在の﹃毎日新聞﹄︶である︒後年の西田の回顧によれば︑新聞刊行を言い出したのは条野であり︑それを
勧めたのは︑筆禍事件で世話になった杉浦譲だった︒話は前年の一〇月にさかのぼる︒
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
條 でう野 のがいふには︑此 この間 あひだ杉 すぎ浦 うらさんの所 ところへ行 いつた時 とき︵此 この杉 すぎ浦 うらさんといふは其 その頃 ころ太 だ政 じやう官 くわんの權 ごん大 だい内 ない史 しを勤 つとめて居 をられまし た杉 すぎ浦 うら讓 ゆづる君 くん屋 や敷 しきは下 した谷 や五軒 けん町にありました︶稍 いろ々 〳〵の話 はなしから佛 フランス蘭西では新 しん聞 ぶんを賣 うるのに浮 うき床 どこといふものがあつて︑夫 それ
で爺 じいさんとか婆 ばあさんとかゞ賣 うつて居 ゐる︑日 に本 ほんでもあれをやつたら賣 うれるだらうと話 はなしされたといふのが抑 そもそも日 にち々 〳〵新 しん
聞 ぶん發 はつ行 かうの始 はじめなんです︑
当初︑発行元・日報社の本局は﹁少 すこし曲 まがり掛 かゝつて丸 まる太 たで突 つゝかい棒 ぼうのしてある﹂条野の自宅に置かれた ︶21
︵︒
一八七四年︵明治七年︶一月に提出された﹁民撰議院設立建白書﹂を契機に自由民権運動が本格化すると︑日報社
は福地源一郎を招聘する︒福地は次のように述懐している︒
東京日々新聞の創立者は條野西田藤岡の諸人にて即ち七年前に余と倶に江湖新聞に從事したる輩なりければ往
日の緣故あるを以て此諸人が切に勸告せるに從ひ此の新聞社に入り執筆することを約して社長となり遂に明治
七年十二月一日を以て紙面を擴張し躰裁を改良し社説の一欄を設けて余が意見を世上に發表する事とは成りた
りき ︶22
︵
﹃郵便報知新聞﹄﹃朝野新聞﹄﹃曙新聞﹄が国会の早期開設を主張して﹁民権新聞﹂と呼ばれたのに対し︑福地は政府
擁護に転じ︑﹁太政官記事御用﹂を掲げた︒こうして﹃東京日日新聞﹄は︑﹁社説を掲げて政治を論﹂じ﹁卑俗の記
事は新聞の品位を堕すものとして掲載せざ﹂る ︶23
︵︑いわゆる大新聞としての道を歩むことになる︒
二 ﹃やまと新聞﹄創刊と作家復帰
― 条野伝平略伝②
福地源一郎が﹃東京日日新聞﹄を大新聞化するのと前後して︑条野伝平は︑同紙のこれまでの雑報記事
―
﹁卑俗の記事﹂
―
から︑とりわけ人々の好奇心を満たしそうなものを選び出し︑錦絵に仕立てる企画を始める︒錦絵版﹃東京日々新聞﹄である ︶24
︵︒﹃東京日日新聞大錦﹄と銘打たれた刊行予告は︑﹁多 た端 たんにより︒壬 おとゝし申已 このかた来揮 き毫 がうを断 たち︒
妙 みやうしゆ手を廃 すてし﹂落合芳幾が再び筆を採り︑﹁往 むかし昔に弥 いや増 ます巧 たくみの丹 たん青 せい︒写 しや真 しんに逼 せまる花 りう走 かうの︒新 しん圖 づ﹂が掲載されることを 謳っている ︶25
︵︒この錦絵版﹃東京日々新聞﹄は︑芳幾の錦絵に︑条野や転々堂主人こと高畠藍泉などの文章を添えて
発行され︑評判を呼んだ︒その最盛期は一八七四年︵明治七年︶一〇月で︑一九点の刊行が確認されているが︑一八
七五年︵明治八年︶四月には芳幾︑藍泉が小新聞﹃平仮名絵入新聞﹄を創刊してそちらに軸足を移し︑同年八月頃に
は錦絵版﹃東京日々新聞﹄は刊行を停止した ︶26
︵︒
条野が﹃平仮名絵入新聞﹄に関与した形跡はないが︑﹃東京日日新聞﹄の大新聞化とともに︑同紙での条野や西田 の居場所はなくなっていったものと思われる︒すでに本局を銀座に移転し︑﹁表 おもてつきはまるでお役 やくしよ所みたいな︑一枚 まい
繪 ゑにも出 でて御 ご承 しよう知 ちでせうが︑立 りつぱ派な石 いしくら藏の二層 そう樓 ろうで︑堂 だう々 〳〵たるもの﹂ ︶27
︵となっていた日報社の中心には福地源一郎が
おり︑一時期同社に在籍していた末松謙澄のような政府要人が出入りしていた︒それに対し︑
こちらは軟 なん派 ぱの親 おやだま玉が條 でう野 の傳 でん平 ぺいさんで︑古くは山 さん々 〳〵亭 てい有 ありんど人といひ︑其 その頃 ころは採 さいぎく菊と號 がうしてゐた︒廣 ひろおか岡柳 りうかう香︑塚 つかはら原
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
澁 じふ柿 かき︑南 みなみ新 しん二︑宮 みやざき崎三昧 まい︑會 くわいけい計には西 にし田 だ傳 でん助 すけ︑正 しやうめん面の左 ひだり側 がはに︑椅 いす子が並 ならんでゐました︒繪 ゑの方 はうが落 おちあひ合芳 よしいく幾で した︒コノ對 たい照 せうが面 おもしろ白ひといひませうか︑奇 き態 たいといひませうか︑彼 あちら方は政 せい治 ぢ家 かの鏘 さう々 〳〵たる人 じん物 ぶつ本 ほん位 ゐの連 れんちう中で︑
政 せい府 ふの爲 ため御 ご用 ようを勤 つとめて︑天 てん下 かに呼 こ號 がうしてゐる︒獅 ししく子吼してゐるのに︑こつちは寄 よると障 さはると軟 やはらかい方 はうで︑茶 ちやばん番 俳 はいかい諧︑遊 いうきよう興猥 わいだん談︑小 せうせつ説をかくといつた手 て合 あひ︑兩 りやう雄 ゆう相 あひ立 たたなくなつたが︑條 でう野 の氏 しを始 はじめ西 にし田 だ氏 し︑芳 よし幾 いく畫 ぐわ伯 はくは︑
創 さうげふ業の功 かうらう勞者 しやだから︑とう〳〵此 これ等 らの人 ひと々 〳〵へ︑功 かうらう勞金 きんを出 だして︑御 ご用 よう紙 しは御 ご用 よう紙 しで︑大 だいしんぶん新聞の體 たい面 めんでやつて行 ゆ
くこととなつたらしい︒
﹃東京日日新聞﹄を去った条野らは︑﹁其 そのころ頃警 けい視 し廳 ちやうの筋 すぢを引 ひいてゐた繪 ゑ入 いり新 しんぶん聞︹=﹃警察新報﹄︺を︑﹃やまと新 しんぶん聞﹄と 改 かいだい題して︑新 しん陣 ぢんよう容をとゝのへ︑軟 なん派 ぱ新 しんぶん聞を發 はつかう行することに﹂ ︶28
︵なり︑一八八六年︵明治一九年︶一〇月七日にその第一
号が刊行された︒
﹃やまと新聞﹄創刊号には︑条野の筆になるものと思われる論説が掲載されている︒そこで条野は︑
﹁艶種と稱す
るもの﹂を中心に報道し︑﹁續き物と稱する小説を連載﹂する小新聞 ︶29
︵としての同紙のアイデンティティを︑次のよう
に規定する︒
されバ本 ほん紙 しを讀 よむ諸 しよくん君ハ此 これより毎 まい號 がうに載 のする︒放 はうたう蕩治 や郎 らうの情 じやう痴 ち談 だん︒凶 けうかん漢惡 あく婦 ふの曲 くせ物 ものがたり語︒新 しんぶん聞續 つゞき話 ものに論 ろんなく内 ないぐわい外 百般 はんの記 きじ事を見 みて︒善 ぜんに就 つき惡 あくを避 さけ利 りを取 とり損 そんを去 すて玉 たまへ俚 ことわざ諺にも云 いふ人 ひとの振 ふり見 みて我 わが振 ふり直 なほせと︒古 いにしへにハ演 しばゐ劇 をもて無 む筆 ひつの早 はや學 がく問 もん︒勸 くわん善 ぜん懲 てう惡 あくの仕 し方 かた話 ばなしと名 なづけたり︒我 わがはい輩ハ新 しん聞 ぶん紙 しをもて智 ちゑ慧の指 し南 なん車 しや︒取 しゆ利 り避 ひ害 がいの早 はや講 かうだん談
と云 いハんとす ︶30
︵
篠田鉱造は︑同紙を﹁小新聞の典型を具備した理想的の新聞紙で︑小新聞の完成したものと謂つてもよい﹂と評価
している ︶31
︵︒
この企ては見事に当たり︑﹃やまと新聞﹄は︑﹁創刊まもなく一万部に達し︑創刊翌年の二十︵一八八七︶年には号
当り平均で約一万六千部︑明治二十二︵一八八九︶年頭には二万を超え︑東京で発行される新聞のトップに躍り出﹂
る︒その人気の原動力になったのが︑連載小説であった︒﹁﹃やまと新聞﹄の成功は︑連載読み物の面白さこそ読者
をつなぎ止める最大の要素であると新聞界に認識させた﹂のである ︶32
︵︒創刊号では︑渋柿園主人こと塚原靖の﹃何 なに事 も金 かねづく欲 よく情 じやう新 しん話 わ﹄︑三遊亭円朝の高座を小相英太郎が速記した﹃侠 きやう骨 こつ今 いまに香 かんばしく賊 ぞく膳 たん猶 なほ腥 なまぐさし松 まつの操 みさほ美 び人 じんの生 いき埋 うめ﹄ の連載が始まっている︒同時に条野も採菊散人の号で﹃廓 さと雀 すゞめ小 こ稲 いなの出 で来 き秋 あき﹄を寄せ︑旺盛な創作活動を再開するこ
ととなる︒
採菊散人として文壇に復帰した条野伝平であるが︑﹃やまと新聞﹄に彼が発表した作品には︑かなりの数の西洋種 の翻案が含まれていた ︶33
︵︒同時代の吉田香雨は︑彼のことを次のように評している︒
散 さんじん人の小 せうせつ説は老 らうれん練なり其 その翻 ほんやく訳的 てきの味 あぢなきものを鰹 かつを魚と味 み淋 りんで煮 にころばして甘 うまく人 ひとに喰 くはせる手 て際 ぎわなか〳〵に感 かんず べし夫 それもその筈 はず散 さんじん人は以 もと前山 さん々 〳〵亭 てい有 ありんど人と稱 しようし昔 むかし把 とつたる筆 ふで柄 づかの力 ちからあまりて近 ちかごろ頃も續 ぞく々 〴〵新 しんさく作を物 ものさるゝ由 よしあゝ散 さんじん人 が舊 きう友 いうたる藍 らんせん泉氏 しは早 はや既 すでに世 よを去 さりぬ魯 ろ文 ぶん翁 をうは世 よにあるも今 いまは著 ちよじゆつ述の業 わざ絶 たえたり獨 ひとり散 さんじん人の壯 さかんなる維 い新 しん前 ぜんより
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
引 ひき續 つゞきて今 いま尚 なほ瞿 くわくしやく鑠たる健 けんぴつ筆を明 めい治 ぢの文 ぶんかい界に揮 ふるはるゝは最 いとありがたき名 めいじん人といふべし ︶34
︵
こうして﹁翻訳的の味なきものを鰹魚と味淋で煮ころばして甘く人に喰せ﹂た作品群のなかには︑ふたつのシェイ
クスピア物が含まれていた︒ひとつは︑﹃オセロー﹄の翻案である﹃花の深山木﹄︑そしてもうひとつが本論で取り
上げる﹃三人令嬢﹄である︒
三 ﹃三人令嬢﹄
﹃花
の深山木﹄は︑﹃やまと新聞﹄連載時にはそれがシェイクスピア物であることを明示していないが︑﹃痘痕伝七
郎﹄と改題して出版された単行本では︑﹁西 せいてつ哲の著 ちよじゆつ述に係 かゝるオ ︹ママ︺ロセーと云 いふ有 いうめい名の小 せうせつ説にて︑黑 こくじん人の軍 ぐんじん人に白 はくじん人の 令 れいぜう孃が想 おもひを懸 かけて遂 つひに夫 ふう婦 ふと成 なるといふ︑一 いち大 だい傑 けつさく作なるを猥 みだりに飜 ほん案 あん﹂したものであることを明かしている ︶35
︵︒これに
対し︑﹃三人令嬢﹄のシェイクスピア起源は︑新聞連載︑単行本のいずれにおいても語られることはない︒しかし本
論冒頭で指摘したように︑一読すれば︑それが﹃リア王﹄に基づくものであることは明らかである︒さらにその叙
述展開からみて︑シェイクスピアの戯曲ではなく︑ラム姉弟の﹃シェイクスピア物語﹄を種本とするものであると
考えて間違いないだろう ︶36
︵︒
第一節で述べたとおり︑維新直後の条野は実用書の執筆で生計を立てていた︒彼が著した語学書は︑漢語にかか わるものがほとんどだが︑英語に関するもの︵﹃童解英語図絵﹄﹃流行英語都々逸﹄︶も含まれている ︶37
︵︒しかしこれらは
いずれも入門的な単語集の域を出るものではなく︑条野にラムを読めるだけの英語力があったとは思えない︒条野
の実子で日本画家の鏑木清方は︑次のように証言している︒
落 らく語 ご家 かでは圓 ゑん朝 てうと親 しんみつ密にして櫻 あう痴 ちさんが飜 ほんやく譯して夫 それを父 ちゝが潤 じゆんしよく色して圓 ゑん朝 てうに話 はなして聞 きかせて續 つゞき物 ものの種 たねにした事 こと
がいくらもあつた樣 やうです夫 それから大 やまと和新 しんぶん聞の小 せうせつ説は大 たいてい抵櫻 あう痴 ち先 せんせい生が飜 ほんやく譯して父 ちゝが潤 じゆんしよく色したものでした何 なんでも今 いま
考 かんがへますと﹁オセロ﹂なども飜 ほんあん案された事 ことがある樣 やうです ︶38
︵
﹃三人令嬢﹄もまた︑福地源一郎が翻訳提供者だったと考えていいだろう ︶39
︵︒
﹃三人令嬢﹄
は︑ラムを種本とするものであるものの︑むしろそれを梗概とし︑自由に膨らませたもの
―
条野自身の言葉を借りれば︑﹁猥りに飜案﹂したもの
―
と言った方が正確である︒土谷桃子が指摘するように︑﹁元ネタだけは他から得て作品化に際しては自由に潤色するという手法は︑幕末江戸粋興人グループ内での常套手段であり
慣れたものだった﹂ ︶40
︵︒ラムの﹁リア王﹂は︑次のように始まる︒
Lear, king of Britain, had three daughters: Goneril, wife to the duke of Albany; Regan, wife to the duke of
Cornwall; and Cordelia, a young maid, for whose love the king of France and duke of Burgundy were joint suitors,
and were at this time making stay for that purpose in the court of Lear. ︶41
︵
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
条野は︑舞台を同時代の東京に移し︑登場人物にはるかに具体的で詳細な造形を施している︒リアにあたるのは水
島隆茂伯爵︑﹁以 い前 せんは西 さひ國 こくにて二十有 いう餘 よ萬石 ごくを知 しるよし行し官 くわんは從 じゆ四位 ゐ左 さ近 こん衞 ゑの少 せう將 〳〵にて在 おはし維 ゐ新 しんの際 さい抜 ばつぐん群の軍 ぐんかう功ありと て賞 せうてん典禄 ろく若 かくかく干を賜 たま﹂わった華族である ︶42
︵︒一〇年以上前に妻を亡くした隆茂には︑瑠璃子︑佐代子︑幸子という三人
の娘がいる︒
姉 あねの瑠 る璃 り子 こは同 おなじ水 みづしま島を名 なの乗れる茂 しげ樹 きと言 いへるを婿 むこと爲 なし茂 しげ樹 きは職 しよくを裁 さいばんくわん判官に奉 ほうじ別 べつきよ居して神 かん田 だ猿 さるがく樂町に居 をり次 じ女 ぢよ
の佐 さ代 よ子 こは同 どうぞく族小 こ宮 みや子 し爵 しやくの許 もとへ嫁 かし家 いへに残 のこれるは三女 ぢよの幸 さち子 こなり三孃 ぜうの中 うちにても幸 さち子 こは容 ようぼう貌の美 びなる心 こゝろばえの 優 やさしき二姉 しに優 まさる事 こと數 す等 とうなりさればにや吉 よし見 み武 たけ雄 をといふ陸 りくぐん軍の中 ちうぜう將又 また同 どうぞく族にて宮 く内 ない省 せうに奉 ほうしよく職せらるゝ間 ま宮 みや子 しゝやく爵 の兩 れう氏 しは或 ある高 かう等 とう官 くわんの園 えん遊 ゆう會 くわいに幸 さち子 こを見 みやりて懸 け想 そう爲 なし其 その熱 ねつ度 どは華 くわ氏 しの百度 ど以 い上 ぜうに昇 のぼりたり ︶43
︵
間宮は︑幸子の父︑隆茂に取り入るため︑その茶道の弟子となる︒吉見もまた︑小栗宗入という茶人の仲介で隆茂
に弟子入りする︒
小栗宗入は︑﹁茶 さ道 どうの巧 こうしや者のみならず大 だいの滑 こつ稽 けい家 かにして伯 はくの氣 きの結 むすぼれたらん時 ときは例 いつも洒 しやらく落の語 ごを吐 はきて鬱 うつ氣 きを散 さんぜ しむる事 こと屡 しば々 〳〵あり謂 ゆえを以 もつて伯 はくも又 また二無 なき者 ものに思 おぼさるゝ﹂ ︶44
︵と紹介されており︑ラムのʻthis poor fool clung to Lear after
he had given away his crown, and by his witty saying would keep up his good humour ︶45
︵’という道化の描写に基づいて造
形された登場人物であると思われる︒ラムの叙述では︑道化が登場するのはゴネリルによるリア冷遇が語られたあ
とであり︑道化が物語展開に寄与することはない︒これに対し︑パトロンの庇護を受けた粋人という点に旧幕時代
の自分自身と似たものを感じたのか︑条野は︑ラム版を大きく逸脱し︑この滑稽家に吉見と幸子の結婚を成立させ
るトリックスターとしての役割を与えている︒愛情テストと財産分与︑その後の遠藤保の諫言と追放のあと︑宗入
が﹁御 ご媒 ばい介 かい﹂ ︶46
︵となることで︑吉見と幸子の結婚話がまとまる︒そこに瑠璃子の横槍が入って事態は紛糾するが︑宗
入の機転で話が収まるのである︒こうして吉見と幸子はめでたく仮祝言を挙げ︑吉見の任地である大坂に旅立つ︒
ここまでに条野は連載の第一三回まで︑全体の四分の一以上を割いている︒
その後︑さまざまな小さな逸脱をはらみつつ︑物語は大枠でラム版に沿って進行する︒事態を吉見に知らせる宗 入の手紙によれば
―
ここでも宗入が活躍する ︶47︵
―
以下のような展開である︒其 その大 たい要 ようを揚 あぐれば二孃 ぜうが伯 はくしやく爵に對 たいする浮 ふ薄 はくの爲 ていたらく体より附 ふ從 じう者 しやの減 けん員 ゐん賄 まかなひ料 れうの減 げんせう少食 しよくれう料の粗 そ惡 あくなる其 その他 たの待 たいぐう遇は 恰 あたかも厄 やくかい介の食 しよくかく客を扱 あつかふに異 ことならずとの顛 てんまつ末より遠 ゑんどう藤保 たもつに一日淺 あさくさ草にて出 しゆつ會 くわいし二孃 ぜうの伯 はくしやく爵に於 おける不 ぶ禮 れいの光 ありさま景を 語 かたりたること彼 かれが官 くわん階 かいの要 やう地 ちを辭 じし馬 べつとう丁となりて住 すみこみ込し事 ことより突 とつぜん然暇 いとまと成 なりし事 こと伯 はくしやく爵が暴 ばう雨 うを冒 おかして駈 かけ出 いだし今 いまは保 たもつ
が家 いへに逗 とうりう留爲 なし居 をる事 こと■ ︶48
︵
この知らせを受けて︑幸子は慌ただしく帰京する︒
ラム版では︑リアとコーディリアが再会したあと︑語り手のʻLet us return to say a word or two about those cruel daughters ︶49
︵’という言葉とともに︑ゴネリルおよびリーガンとエドマンドの不倫関係とその顛末
―
コーンウォール公の死︑ゴネリルによるリーガン毒殺と自殺
―
が︑一パラグラフで手短に語られる︒条野は︑ここでまたラム版探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
を大きく逸脱し︑連載第三七回から最終回まで︑やはり全体の四分の一以上の紙幅を割いてそれを描く︒
エドマンドに相当するのは︑片山冬三という︑﹁或 ある省 せうの高 かうとうくわん等官﹂を﹁會 くわいけい計上 ぜうに不 ふ整 せいとん頓﹂があったために免職に なった男である︒彼は﹁顔 かほの奇 き麗 れいなるに引 ひき變 かへ根 こんぜい生は頗 すこぶる穢 きたなく﹂︑もともと﹁某 それの藩 はんの留 るす守居 ゐ役 やくを勤 つとめし者 ものの三 男 なんなるが次 じなん男は世 よを早 はやくし長 てうなん男は丁 てうびやく百に足 たらぬ性 さがなるを以 もつて老 らうねん年の母 はゝを誤 ご魔 ま樫 かし父 ちゝの遺 ゐ言 げんと號 かうして廢 はいちやく嫡を爲 なし自 みづか ら家 かとく督となり父 ちゝが貯 たくはへ金 きんを使 し用 ようして紳 しん士 し社 しやくわい會に立 たちまじ交はる横 おうちやくもの着者﹂である ︶50
︵︒片山は︑佐代子︑瑠璃子と相次いで関
係を結ぶ︒
その後︑佐代子は夫の義直を卒中で亡くし ︶51
︵︑片山と再婚することになる︒それを知った瑠璃子は︑侍女の牧江と
謀り︑佐代子毒殺の計画を立てる︒牧江は︑姪のお北を脅迫し︑佐代子の食事に︑侍医の玄瑞に調合させた毒を混
入させ︑首尾よく佐代子を殺害する︒後日瑠璃子は︑夫の茂樹をも亡きものにしようと︑牧江に命じて食事の椀物
に毒を混ぜさせる︒ところがその日︑遅れて帰京した吉見が︑今後の隆茂の処遇を話し合うために︑遠藤を伴って
来訪し︑茂樹とともに食事をしていくことになる︒
思わぬ事態に瑠璃子と牧江は動転するが︑﹁毒 どく食 くはば皿 さらだ﹂ ︶52
︵と腹をくくり︑三人まとめて殺す決心を固める︒とこ
ろが︑﹁遠 ゑんどう藤は性 せいらい來豆 とう腐 ふを好 このまざれば此 この椀 わんに箸 はしを附 つけず吉 よし見 みは大 だいの酒 さけ好 ずきにて酒 さけを過 すごせし時 ときは例 いつも飯 めしを用 もちひざる程 ほどな れば始 はじめより椀 わんの蓋 ふたを明 あけねど茂 しげ樹 きは熱 あつい物 ものが好 すきなれば冷 さめぬ中 うちにと椀 わん中 ちうを悉 こと〴〵く盡 つくし尚 なほ緒 ちよ口 くの取 とりやり遣を爲 なせる中 うち茂 しげ樹 きは胸 むなさき先 が痛 いたむとて頻 しきりに苦 くるしめる体 てい﹂となり︑中座する ︶53
︵︒吉見はのどの渇きを覚えて椀に手を伸ばすが︑誤ってそれを取
り落としてしまう︒すると﹁這 こは如 いか何に春 はるの待 まち受 うけにとて昨 さくこん今敷 しき替 かへたる青 あを疊 たゝみが忽 たちまち色 いろを變 へんじ﹂ ︶54
︵︑吉見は毒物の混入を
疑う︒吉見と遠藤は︑茂樹・瑠璃子家中で信頼できる人物として︑菅沼吉弥という遠藤の﹁竹 ちく馬 ばの友 ともで怜 れい悧 り抔 などとい
ふ方 はうではござらんが如 いか何にも信 しん實 じつな男 をとこ﹂ ︶55
︵を選び︑疑念を伝えて去る︒その夜︑茂樹は息を引き取る︒
菅 すが沼 ぬま吉 きち彌 やは佐 さ代 よ子 こが俄 が然 ぜん死 ししたる事 ことに就 つひて探 たんてい偵を試 こゝろみたるに佐 さよこ代子は良 をつと人義 よしなほ直が存 そん在 ざい中 ちうより片 かたやま山冬 とうざう三に通 つうじ居 ゐ
たる事 ことを探 さぐり得 え義 よしなほ直が病 べう死 しの始 し末 まつを醫 いしや者に就 つひて取 とりしら調べたるに全 まつたく劇 げきれつ烈の卒 そつちう中風 ふうにて別 べつに怪 あやしむべき事 こともなし依 よ
つて尚 なほ佐 さよこ代子が病 べうし死の爲 ていたら体くを探 さぐるに敢 あへて怪 あやしと認 みとむる程 ほどの徴 てうこう候もあらねど中 ちうどく毒たる事 ことは覆 おほふべからざる事 じ
實 じつの如 ごとし尚 なほ小 こ宮 みや家 けへ附 つきびと人として赴 おもむきたる老 らうぢよ女竹 たけかは川に青 あをやま山の墓 ぼち地にて出 しゆつくわい會すべき約 やくそく束を爲 なし佐 さよこ代子が死 しに 就 つきし當 たう時 じの爲 ありさま体を聞 きゝたるに疑 うたがふべき者 ものは牧 まき江 えと其 その姪 めひのお北 きたなる事 ことを査 み出 いだし菅 すがぬま沼の朋 ほうゆう友中 ちうに或 ある方 はうめん面監 かんとく督を奉 ほうしよく職 爲 なす者 ものありしかば一 あるひ日此 この事 ことを密 みつこく告せしに忽 たちまち其 その方 はうめん面より刑 けい事 じ巡 じゆんさ査を派 は出 しゆつせしめ件 くだんのお北 きたを捕 ほ縛 ばく爲 なしたり ︶56
︵
さらに牧江と玄瑞が連行され︑観念した瑠璃子は自害する︒
このあと︑ラムが三パラグラフにわたって語るリアとコーディリアの死の顛末は︑条野版ではすべてカットされ︑
物語はハッピー・エンディングに書き換えられる ︶57
︵︒牧江︑玄瑞には死刑判決が下され︑隆茂には安楽な余生が約束
され︑吉見が水島の家督を相続し︑﹁禍 わざわひ去 さりて芽 め出 で度 たく春 はるを迎 むかふる﹂ ︶58
︵結末となるのである︒
四 ゴネリルの奸計と毒婦物・探偵小説
﹃三人令嬢﹄
の結末の改変に︑勧善懲悪を是とする時代風潮の影響があったことは間違いない︒一八八七年︵明治
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
二〇年︶には﹃女学雑誌﹄で︑やはりラム版に基づく﹃リア王﹄の紹介が二度にわたって試みられているが︑その
うちひとつは﹁シヱクスピア理想コルデリアの伝﹂と題されており︑著者の関心がどこにあったかは明らかである ︶59
︵︒
第二節で見たように︑条野は﹃やまと新聞﹄を﹁智慧の指南車﹂と位置づけていた︒﹃三人令嬢﹄単行本化にあたっ
て添えられた序文は︑﹁小 しやうせつ説は敎 きやういく育の一 いつたん端なり﹂と主張したうえで︑同作が﹁敎 きやういく育の意 いをふくむ事 こと又 また十 しゆうぶん分なり﹂
とお墨つきを与えている ︶60
︵︒しかしながら︑条野の記述の重点は︑﹁勧善﹂︵手短に語られる幸福な結末︶よりも﹁懲悪﹂
に︑さらに言うならば﹁悪﹂そのものとその﹁悪﹂が暴かれる経緯を詳細に描写することにあり︑彼の改変はこう
した一般論だけで説明できるものではない︒
明治の新聞連載小説は︑実際の事件を報道する連続記事から誕生した︒そのプロセスにおいて大きな役割を果た
したのが︑高橋お伝に代表される女性犯罪者たちを描いた︑毒婦物と呼ばれる作品群である︒そこに描かれた﹁毒
婦たちは実録読み物が小説へと上昇する過渡期の悪のヒロインだった﹂ ︶61
︵︒﹁著作道書キ上ゲ﹂を条野とともに認めた
仮名垣魯文は︑﹃かなよみ﹄の連続記事として始まった鳥追いお松の事件報道を草双紙に切り替えて﹃鳥追阿松海上
新話﹄として発表し︑また高橋お伝を描く﹃高橋阿伝夜叉譚﹄を出版して︑大成功を収めていた︒
条野が関与した錦絵版﹃東京日々新聞﹄においても︑何人かの毒婦が取り上げられている︒高橋お伝︑鳥追いお
松と並んで明治三大毒婦と称される夜嵐お絹こと原田キヌは︑妾の身でありながら歌舞伎役者と愛人関係になり︑
旦那をヒ素で毒殺して斬首された︒この事件は︑一八七二年三月三一日︵明治五年二月二三日︶の﹃東京日日新聞﹄で
報じられ︑一八七四年︵明治七年︶一〇月に錦絵新聞化される ︶62
︵︒同時期には︑次のような︑﹃三人令嬢﹄の瑠璃子︑
佐代子︑片山を彷彿とさせる︵上回る?︶事件も錦絵新聞化されている︒
熊 くまがへ谷縣 けん下 かに︒孀 ごけ婦のおなつが長 むすめ女のお袖 そで︒次 いもうと女のお蝶 てう三人と︒輪 かはし交まくら川越 ごへの多賀町に住 すむ滝 たき次郎︒清 きよき流 ながれ
の名にも似 にず放 はうたう蕩無 ぶ頼 らいの悪 わるもの漢なれバ︒三婦 ぷに姦 かんする故 ゆへをもて親 おや子互 たがひに睦 むつまじからず︒平 つね日に葛 くせり藤の絶 たゑざりし が︒或 ある時 とき例 れいの口 いさかひ角より母を柱 はしらに縊 くゝりつけ︒其面 めのまへ前に戯 たはむれて姉 はらから妹も亦 また愉 ゆ快 くわいとす︒醜 しう体 たい言 こん語 ごに絶 たえたりし人 にん畜 ちくしよう生が挙 ふるまひ動 の︒官 くわんに聴 きこへて捕 とらへられ︒入 いる間 ま郡 ごほりの裁 さいばんしよ判所へ一 いちどう同送 おくられ致たりとなん ︶63
︵
これらの錦絵新聞で文章を担当しているのは高畠藍泉であるが︑条野も︑瑠璃子による夫毒殺を先取りするような
記事を残している︒
深川西六間堀餅 もち屋 や渡世菖蒲與吉と云ふ者久しく病ひの床にありしが其妻いとハ本年廿五才糸と云ふ名に背かず して染り安かる水性にて夫 おつとの甘 あまえも鼻に附きいつしか小 こ僮 もの鹽 しほ田 た兼吉と人目忍びて寐の子餅契る数さへ重ね着る夜 るの衣の度 たび重 かさなり若しも本夫の全快なさバ二人りが中の自在餅此快樂ハ遂げられまじ唯さへ枯るべき菖蒲與吉毒 害なさんと膽 きも太 ふとくも二人りは法をかきつばた薬土瓶へ配 はいざい剤の毒ありしとハ此病者あやいもしらで飲むや否鼻耳 口眼より血を吐 はきて忽ち没命爲しけるを内に喜こひ表に患ひ形の如く野送りし誰れ憚 はゞかりの関守も泣 なく眞 ま似 ねなせしが 発覚し遂に警 けい視 しの支廳へ呼バれ嚴しく糾 きうもん問ありたるにありし次第を白状せしかバ本月九日東京裁 さいばんしよ判所へ送 そう致 ちせ
らる ︶64
︵
瑠璃子の描写は︑こうした毒婦物の系譜を引くものである︒
探偵小説と諷刺錦絵と『リア王』
毒婦物は︑海外から日本にミステリーを移植する土壌ともなった︒﹁探偵小説の父﹂と称される黒岩涙香の活躍は
多くの追随者を生み出し︑翻案・創作ミステリーが大流行することになるが︑﹁ミステリーが本格的に外国からもた
らされる前夜︑日本の読者は︑日本特有の実録犯罪譚である︿毒婦もの﹀を歓迎していた︒それはまさに︑江戸末
の裁判ものから︑洋物ミステリー受容への過渡期を形成していた﹂のである ︶65
︵︒
﹃や
まと新聞﹄創刊号から連載された三遊亭円朝の﹃松の操美人の生埋﹄は︑輸入ミステリーの受容において大き
な役割を果たした︒連載開始にあたって円朝は﹁此 これハ池 いけの端 はたの福 ふく地 ち先 せんせい生が口 くち移 うつしに敎 おしへて下 くだすつたお咄 はなしで︑佛 フランス蘭西 の侠 おとこだて客が節 せつ婦 ぷ助 たすけるといふ趣 しゆかう向︒原 げんしよ書ハベリツド︑ヱ︑ライフ︵Buried a life︶といふ書 しよめい名﹂だと述べている ︶66
︵︒原典
はいまだに突き止められていないが︵﹁Buried a life﹂は明らかに﹁Buried Alive﹂の誤りだろう︶︑江戸川乱歩がこの作品 に言及して以来︑円朝は︑涙香以前の翻案ミステリー史にその名を刻むことになった ︶67
︵︒乱歩以前には︑柳田泉も﹁随
筆探偵小説史稿﹂において円朝にかなりの紙幅を割いている︒乱歩は円朝の作品として︑﹃松の操美人の生埋﹄とと
もに︑お吉という悪女を描いた毒婦物﹃欧洲小説黄薔薇﹄を挙げているが︵やはり原典不詳︶︑柳田はこの作品につ
いて﹁十二分に探偵小説の素質がある﹂と評価する︒この作品は一八八七年︵明治二〇年︶に﹃東京絵入新聞﹄︵﹃平
仮名絵入新聞﹄後継紙︶に連載されたあと︑金泉堂から出版されたが︑﹁講談としては少くなくとも明治十二年から巷
間に傳はつてゐた﹂ものであり︑﹁涙香出現以前に於いて探偵小説趣味を鼓吹した先驅的作物の一つ﹂と位置づけら
れている ︶68
︵︒
鏑木清方の﹁落語家では圓朝と親密にして櫻痴さんが飜譯して夫を父が潤色して圓朝に話して聞かせて續物の種
にした﹂という発言に従えば︑条野はこれらの円朝作品に︑いわばドラマトゥルクとしてかかわっていたことにな
る︒条野自身︑円朝の追悼文のなかで︑﹁子 しが新 しんさく作を爲 なす都 つど度其 その相 さうだん談に預 あづかりたる事 こと毎 まい度 どありて同 どうほう胞も啻 たゞならざる契 ちぎ
り﹂と述べている ︶69
︵︒彼が﹃リア王﹄を勧善懲悪的に書き換えた背景には︑毒婦物における悪の描写の伝統と︑それ
を受けて発展し︑悪が暴かれる経緯に関心を寄せた探偵小説の流行があったのである︒
五 リアの厩と諷刺錦絵
毒婦物から探偵小説へ︑という流れが︑﹃三人令嬢﹄を読むためのひとつの文脈であるとすると︑もうひとつの補
助線は︑第一節で言及した戊辰戦争期の諷刺錦絵である︒当時の新聞連載小説には挿絵がつきもので︑﹃三人令嬢﹄
も︑その連載には毎回︑水野年方の絵が添えられていた︵その一部は単行本にも再録されている︶︒これらの絵に諷刺錦
絵的な記号は描きこまれていないが︑この作品では︑そうした視覚的情報においてではなく︑言語情報において︑
諷刺錦絵的手法が援用されているのである︒
隆茂が小宮家で冷遇されていることを知った遠藤は︑玉吉の名で﹁馬 べつとう丁と身 みをやつして小 こ宮 みやへ住 すみ込 こみ舊 きう主 しゆの先 せん
途 どを見 み届 とゝけ﹂ ︶70
︵ることを決意する︒潜入に成功した遠藤は︑彼が世話すべき厩の説明を受ける︒
デハ玉 たま吉 きち今 いま這 は入 いつて來 きた御 お庭 には口 ぐちから左 ひだりの方 はうへ突 つき當 あたつた所 ところが御 お厩 うまやで這 は入 いつて右 みぎの方 はうに居 をる仙 せんだい臺馬 うま二頭 とうが御 ご前 ぜんの御 お
馬 うまで左 ひだりの方 はうに四頭 とう居 ゐるのが小 こ宮 みや家 けの馬 うまで薩 さつ摩 ま駒 こまが一頭 とう跡 あとは奥 おうしう州駒 ごまで其 そのうち中の連 れんせん錢栗 くり毛 げが三 み春 はる駒 ごまだと言 いつて子 しゝやく爵 が自 じ慢 まんの馬 うまだが往 いつて御 ご覧 らうじろ立 たて髪 がみの工 ぐ合 あひは鳥 ちよつと渡良 よいが尾 を垂 たれの格 かつかう好は惡 わるし和 わ鞍 ぐらで駆 かけを追 おふと可 かなり早 はやあし足たが西 せいやう洋