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― 調査論に関する参考資料⑻

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資   料

調査論に関する参考資料⑻

芳  賀   寛

はじめに

1  社会統計学の体系化―木村による素描的 試論をめぐって

2  社会統計学における統計=社会総体説の位 置

3  補   遺

はじめに

どのような時代,地域であっても人間の労働過 程(いわゆる「無償労働」過程を含む),社会的 生産過程は,人間社会の存続にとって必須であ る.人間の労働過程(いわゆる「無償労働」過程 を含む),社会的生産過程は,人間社会における 各種情報の創造・交換・共有過程でもあるが,こ れらの過程がどのような様式で現出するかは,実 際の社会的歴史的諸条件に左右される.この社会 的歴史的諸条件の変化,発展は,人間社会におけ る情報の創造・交換・共有過程に係る社会観察方 法,社会分析方法としての統計情報の生産方法に も影響をもたらす.第 2 次世界大戦後の日本にお ける社会科学としての統計学(以下,社会統計 学)の創設者の 1 人である木村太郎(以下,木 村)が想定する資本主義下の統計調査および統計 利用は,このような意味での社会情報の一環に位 置づけ得る統計情報の生産方法でもある.

2010年代後半までに筆者は,木村の研究1)を中

心に,社会観察過程および観察方法に係って重要 な調査論,統計情報の生産をめぐる社会統計学で の論議を顧みる作業を,次のとおり継続してき た.すなわち,初めに木村の調査論自体に係っ て,( 1 )社会調査および統計調査の目的,対 象,方法,( 2 )社会調査としての一部調査,統 計生産のための一部調査,典型調査,( 3 )静態 観察と動態観察,統計調査論の課題と内容,を振 り返った2).次に,調査論の形成において重要と なる木村の統計学体系論に注視して,( 4 )統 計,統計生産過程,統計利用過程,補助科学とし ての社会統計学,( 5 )統計対象と統計方法,統 計と社会集団,( 6 )統計学における集団論,観 察単位集団とその諸属性,静態集団と動態集団,

に関連するその見解を纏めた3).さらに,これら 1) 木村太郎(1977a)「統計の歴史的性格と統 計学の体系化に関する研究」(北海道大学博士 学位論文),同(1977b)『統計・統計方法・統 計学』産業統計研究社,同(1992)『改訂 統 計・統計方法・統計学』産業統計研究社.

2) 芳賀寛(2013)「調査論に関する参考資料」

『経済学論纂』53―3・4,同(2014a)「調査論 に関する参考資料 ⑵」『経済学論纂』54―5・

6,同(2014b)「調査論に関する参考資料⑶」

『経済学論纂』55―2.

3) 芳賀寛(2016a)「調査論に関する参考資料

⑷」『経済学論纂』56―5・6.,同(2016b)「調 査論に関する参考資料⑸」『経済学論纂』57―

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の作業も踏まえつつ,( 7 )統計生産の歴史的形 態,( 8 )社会統計学の概念規定に係る所説を改 めて敷衍してみた4).これらにおいては,統計史 および統計生産の歴史的形態に関連する研究が,

従来の統計調査論から独自の統計生産論への展望 を暗示し,木村の統計学体系の形成にも影響を与 えていることを確認した.またその統計学体系全 体で重要であると考えられる,社会統計学の概念 規定をめぐる基本問題を中心に多面的に検討し,

統計=社会総体説に沿って提示された社会統計学 体系について,近時の社会情報にも関連する課題 も顧慮しながら暫定的な評釈も行った.

今回の本資料は,木村が展開した「社会統計学 の体系化に係る素描的試論」5)のうち,社会統計

学の学問的性格をめぐって1960年代に関係の論者 が提示した論議に対して,当時の木村によって行 われた統計=社会総体説の見地からの評価に関連 する箇所に,筆者による見出しを新たに挿入しな がら叙述内容を多少修正,整理して紹介するこ と,を第 1 のねらいとする.第 2 のねらいは,統 計=社会総体説に基づく木村の社会統計学の特徴 について評釈も加えながら改めて確認すること,

そして2010年代後半までに継続してきた筆者の作 業に一区切りをつけ,統計研究参考資料に係る次 の作業段階への新たな起点とすることである.

1  社会統計学の体系化―木村による 素描的試論をめぐって

A 素描を試みる理由

(91頁)本稿は,統計学の体系について,私6)

なりにかねがね考えているところの素描的な試論 である.試論というのは,私の考究がなお統計学 の全体系について完成されておらず,未熟な部分 を少なからず残しているからである.にも拘らず このような研究ノートに過ぎない試論を敢えて公 表するのは,私なりのかなり大胆な統計学体系化 の試みに対して予め同学諸氏の辛辣な批判を得,

1・2.同(2017)「調査論に関する参考資料

⑹」『青山経済論集』69―3.

4) 芳賀寛(2018a)「社会統計学に関する参考 資 料 」『 北 海 学 園 大 学 経 済 論 集 』 65―4, 同

(2018b)「社会科学としての統計学における概 念規定をめぐって」『2018社会情報学会大会報 告論文』,同(2019a)「調査論に関する参考資 料⑺」『経済学論纂』60―2,同(2019b)「人間 社会における統計の生産と利用をめぐって」

『日本労働社会学会第31回大会報告』.

5) ここでの「社会統計学の体系化に係る素描 的試論」は,木村太郎(1998)『統計学あれこ れ』産業統計研究社〔非売品〕の「第Ⅰ部 

5 統計学の体系に関する素描的試論」(91―154 頁)に相当する.本資料で重点的に取り上げ るのは,「第Ⅰ部  5 統計学の体系に関する素 描的試論( 4 )統計学の体系化」における

「 3 )私見に対する諸批判について」である.

なお,木村(1998)の全体構成(章レベルま で)は,第Ⅰ部( 1  統計=統計調査結果説 批判, 2  典型調査論考, 3  一部調査論 考, 4  統計調査法の諸概念について, 5   統計学の体系に関する素描的試論),第Ⅱ部

( 1  インフレ物価の構造, 2  日本国家資本 主義の動向, 3  独占資本と物価政策),であ り,社会統計学での問題に留まらず,今日の

社会経済問題にも関連する重要なテーマも論 じられている.また,「第Ⅰ部  5 統計学の体 系に関する素描的試論」の元になった初出論 文は次のとおりである.木村太郎(1965a)

「統計・統計方法・統計学( 1 )―統計学の体 系化に関する素描的試論―」『國學院大学政経 論叢』13―2,同(1965b)「統計・統計方法・

統計学( 2 )―統計学の体系化に関する素描 的試論―」『國學院大学 政経論叢』13―4,同

(1970)「統計・統計方法・統計学( 3 )―統 計学の体系化に関する素描的試論―」『國學院 経済学』18―3・4.

6) 以下の引用文中における「私」は,特に注 記しない限り,全て著者(木村太郎)を意味 する.

(3)

全体系の構築に過誤の無いことを期待し,あるい は補強の資としたいがためである.忌憚ない御批 評と御教示を得ることができれば幸いである.

(91―92頁)私がこのような統計学体系の再構 築を試みる直接的な動機は,社会統計学派におい て常に統計学成立の基礎とされてきた社会集団7)

の位置づけに少なからざる疑問を持ち,殊にそこ で通念となっている「統計は社会集団を語る数字 である」という考え方に対しては,積極的に否定 的な見解を発表したことに基づいている8).そこ で,もし統計が社会集団を反映する数字でないと すれば,それはいかなる数字的資料でなければな らないのか.また統計と社会集団との不可分説を 否定すれば,社会集団を前提して成立せしめられ てきた統計方法はいかに規定されなければならな いのか.そして統計方法と統計学はいかなる関係 の上に結合されるのか,つまり統計=社会集団説 への私の否定は,当然に私の統計学体系全体につ いて大なり小なりの変容を迫ることになるのであ る.たとえなお未熟であるとはいえ,提起した問 題に沿って体系を明らかにすることが,さし当っ ての義務であると考えられるのである.

B 試論の進め方

(129頁)本稿は,社会統計学により強固な理 論的基礎づけを与えたい念願の上に,敢えて社会 統計学における従来の定説の弱点を指摘し,その 克服の方向を素描という形で大胆に提示し,同学 諸氏の敲き台たることを意図しつつ執筆されたも

のであるが,その立論の未熟さにも拘らず,幸い にして同学諸氏に賛否交々の反響を与え,貴重な 御意見を多数いただいている.これらの御意見や 御批判に応えて,私なりの結論を提示しておくこ とは最少,果たさなければならぬ義務である.

ところで私が前節までに述べてきたのは,統計 および統計の生産過程についてであって9),これ とともに統計学体系の両輪をなすべき統計利用過 程の諸問題やあるいは統計利用論については,未 だ全く触れていない.これら諸問題の検討を経ぬ ままに統計学の体系化を試みることが,論理展開 上の飛躍であることはいうまでもない.だが目下 のところ,これらの課題を果たしている余裕がな い.これら,殊に統計利用論の検討と展開にはな お若干の時日を願うこととしたい10)

(130頁)このような論理的飛躍を敢えてする としても,私なりに素描している統計学の体系を 予め示しておくことは,私の全体的な構想を理解 していただき,また私の部分的な問題に対する見 解を批判,評価していただくために役立つものと 思われる.そこで本節の主題は,私の素描しよう とする統計学体系の全容を提示し,私見の構想を 明確にすることによって,従来の所説との異同を 明らかにすることにあるのだが,本論を初めて読 まれる方々の便宜を考慮して,次のような順序で 論述を進める.

最初に,社会統計学の理論的基礎とされていた 統計=社会集団説を私が批判し,その上に立って 私なりに統計学の体系化を試みざるを得なくなっ た経過を,統計学の学問的性格に関する問題とし て考察する11).この部分は,考察の視点は全く異 7) 木村(1998)91頁では社会的集団と記され

ているが,本資料では社会集団と記す.な お,同書では「社会的集団」と「社会集団」

という用語が散見されるが,同書における各 用語の意味に差異はないと考えられるので,

本資料では全て社会集団として統一的に記す.

8) 木村太郎(1964)「統計と社会的集団」『統 計学』12.

9) 木村(1998)第Ⅰ部「 5 統計学の体系化に 関する素描的試論」における( 1 )統計,

( 2 )統計方法,( 3 )統計の生産方法.

10) 統計学体系化に係る木村による統計利用論 の本格的な展開は未完である.

11) 木村(1998)131―135頁.

(4)

なるけれども,ほぼ拙稿12)において展開したとこ ろに相応する.

次に,統計,統計方法について論述してきたと ころを一応検討し,統計の利用過程についてはご く簡単な考察を加えるに留めて,一挙に私なりの 統計学体系を提示する.この統計学体系は,本論 に対して関心を寄せ諸種の教示を賜った経済統計 研究会(現 経済統計学会)の同学諸氏には初め てである.統計学の体系化という自ら提起した壮 大な課題は,この体系図を提示することによって 一応果たしたものと考える13)

最後に,私が発表した最初の試論に対して同学 諸氏が寄せられた所説,批判を検討し,そこから 私が汲み取り得る,または汲み取り得ない諸論点 を明らかにする14).そのことによって本稿が,よ り強固な理論的一致点を見出すための 1 資料たり 得ると考えるからに他ならない.

C 試論に対する批判について

(143頁)本書のもとに成っている論文15)を最 初に執筆した当時,同学諸氏から種々の感想や批 判をいただいた.これらの感想や批判の多くは私 信であり,しかも数年以前のものであるから,今 日ここで取り上げること自体,甚だ礼を失するこ とになるかもしれない.

(143―144頁)にも拘らず敢えて取り上げさせ ていただくのは,これらの所見が私の研究にとっ

て極めて有益な教示を与えてくれるとともに,統 計学を社会科学の領域に属する学問であるとする 点では基本的に研究方向を同じくする同学諸氏の 間において,その体系化の方向についてはなお一 致し得ない多くの論点を残していることを示して いるからである.プラグマティズム的思想土壌の 上に,形式主義的数理主義がいよいよ流行しつつ ある折から,社会統計学が,その理論的基礎を強 化する必要はますます増大しており,そのために はこれらの不一致を認めた上で,その理論的克服 のための努力が払われるべきである.敢えて好意 ある所見に検討を加える非礼を許していただきた い所以である.

(144頁)本稿における私見としての統計学体 系の展開が,統計=社会集団説の批判と統計=社 会総体説の提唱から出発したことは,既に論述し たところである.同学諸氏の私見に対する批判を 通じて現れてくる見解の不一致も,基本的にはこ の問題,すなわち統計学における社会集団の評 論,位置づけについての見解の相違に発してい る.私見に対する批判は極めて多岐に亘っている けれども,ここではこの問題に焦点を合わせ,諸 氏の見解を整理し位置づけてみる.

この問題について特に賛否の見解を示して下 さったのは,上杉正一郎,是永純弘,大屋祐雪,

安藤次郎16)であるが,前述したように私信として の形のものであり,その文面のみで所説を理解す ることは必ずしも適切ではない.そこで直接私見 に対する批判はいただけなかったが,この問題を 既にその著作において取り上げ,積極的な見解を 明示している大橋隆憲,内海庫一郎の所説を紹介 し,相対立する両氏の所説を基準として,上記諸 氏の見解そしてさらに私見を位置づけることとし たい.

12) 木村(1964).

13) 木村(1998)135―143頁.ここでは,1960年 代後半における木村の統計学体系図も提示さ れているが(142頁),この体系図は後に改訂 される.改訂された体系図については,木村

(1977b)67頁を参照.なお,改訂された木村 の統計学体系図を一部修正した社会統計学の 体系図については,芳賀(2018a)23頁.

14) 木村(1998)143―152頁.

15) 木村(1964).

16) 木村(1998)では各々に敬称が付される が,本資料では全て省略する.

(5)

D 統計=社会集団説(大橋隆憲)

(144―145頁)統計=社会集団説を,社会統計 学の伝統的な継承の上に,最も正統的な形で展開 しているのは大橋である.大橋は,統計,統計方 法,統計学の問題を次のように規定する17)

①統計学の研究対象は統計方法である.

②統計方法とは,社会認識の下に,統計対象を 統計結果として捉える過程の方法的諸規定の特殊 な結合形態である.統計方法は,統計対象と統計 目的によって規定される.

③統計対象(統計方法の成立基盤である統計方 法の適用対象)は,社会集団の運動過程(社会集 団過程または社会集団現象と略称)である.

④統計目的(統計方法の適用目的)は,社会の 具体的,数量的認識目的という以上に,一般的に 規定することは困難である.蓋し,統計主体の置 かれている立場と条件によってその課題が異なる からである.

⑤統計結果(統計方法の適用結果)は一般に統 計とよばれる.統計はその生産過程たる統計方法 過程の段階経過によって加工度と性格を異にす る.しかし,統計結果は統計対象を反映すべきも のであるが,統計対象から独立であり,統計対象 なしに存在し得る.ここに,統計結果が統計対象 と無関係に単なる数値として独り歩きし得る必然 性があり,社会認識を誤らしめる必然性がある.

(145頁)以上の大橋の規定は,敢えて説明を する必要もないほど明確であるが,ここでは特 に,統計対象が社会集団に限定されていること,

統計方法は統計目的と対象によって規定される

「方法的諸規定の結合形態」であるとすること,

の 2 点が重要である.すなわち,統計対象は社会 集団であるから,統計方法に諸種の形態があると しても,それは統計目的によって諸種の形態が採

られるだけであって,基本的には社会集団を対象 とする悉皆大量観察法を土台とすべきであるとす る,伝統的な社会統計学の立場がここに明示され ている.

E 統計=社会現象説,社会集団解消説(内海 庫一郎)

(145頁)このような社会統計学において伝統 的な統計=社会集団説に対して,内海は「統計対 象について(中略)我々が自然か社会かについて の区別よりもっと根本的に検討してみたいと考え ている点は,統計対象は『集団』かという疑問で ある」として,次のように述べている18).「統計 対象は社会的存在とその数量的規定であれば事足 りるのであって,単位を持たねばならぬというこ とはない.蜷川の所説から単位の概念を取り除い ても支障はない.たしかに統計調査は集団調査で ある.それは多数の個人の認識結果の総括,総合 である.それは,対象が集団であることを必要と しない.各人の知識と記憶が相互に重複せず,統 一を持っていればよいのである.社会的個体(国 家,会社,家計等々)の量的規定であれば足りる のである.確かに社会が人間の集団である限り,

どんな社会現象も単位を持つ面を持つであろう.

社会現象の本質はそれら単位の交互作用の結果と して本質的に非単位的なのではあるまいか」とい う問題を提出しつつ,次のように結論する.

(146頁)「統計対象は社会現象の数量的側面で あり,統計方法はその社会測量の方法であって,

集団性は客観的に存在する場合もあれば,ない場 合もある.それは,集団調査,多数人の調査結果 という意味で集団であるが,対象が必ず集団であ るわけではなく,個体である場合もいくらでもあ

17) 大橋隆憲(1961)『現代統計思想論』有斐 閣,63頁.

18) 内海庫一郎(1962)『科学方法論の一般規定 からみた社会統計方法論の基本的諸問題』(北 海道大学博士学位論文),117頁.

(6)

るということ」である19).これだけの引用文で内 海の見解を正確に理解することは困難かもしれな いが,統計対象が社会集団であることを積極的に 否定していることは明瞭である.内海によれば,

社会現象はむしろ個体たる人間の交互作用の結果 として生じる統一体(下線は引用者)であり,こ れを単に人間の集団を通じて測定するから集団観 察法なる測定方法が成立するのであって,社会現 象が集団であるか否かによるものではないからで ある.

この内海説における社会現象=集団現象の否 定,批判は「社会現象を人間集団に解消すること によって基本的な社会関係(生産関係)を隠蔽す るもの」とした,史的唯物論からの集団社会学批 判を踏まえた見解であると思われ,その点は今 後,社会集団を問題にして行く上で十分考慮され るべき問題の 1 つである20).ただこの観点から統 計と社会集団とを切り離すならば,統計はただ社 会測定値であるだけで,極めて無限定的なものに なってしまうことも確かである.そして専ら社会 科学の理論に依拠せざるを得ないことになるが,

如何なる社会科学の理論といえども認識目的にお いて無限定的な統計を,吟味,批判する基準を見 出すことは困難であろう.

(153頁)社会経済反映説(統計=社会現象 説,社会集団解消説)は,殊に統計と事例調査と の混同,同一視の傾向を生み出すことになる.だ が両者は社会科学的認識を部分と全体との関係に おいて,あるいは量と質との関係において補完し 合う,相互に別個の認識材料である.

F 統計=社会集団説および統計=社会現象説 について(木村の見地)

(146頁)内海説については,大橋からの独自 の批判が行われているが21),ここでは省略し,ま ずこの両氏の所説に対する私見の位置を明らかに しておくこととしたい.

(146―147頁)私見そのものについてはここで は繰り返さないが,私見が大橋説と内海説の中間 にあることは確かであろう.私見は,大橋説が統 計と社会集団とを密着させることに対して反対す る点では内海説に近く,内海が統計対象としての 社会集団の存在そのものを否定することに対して は賛意を表し難いからである.そこで大橋見解を 一応私見に対する右派とし,内海見解を左派とし て―いうまでもなくこの右,左という言葉は全 く便宜的である―私見はその中間にあるものと して,私見に対して同学諸氏が寄せられた諸批判 を検討し,その検討を通じて諸氏の本問題に対す る位置を推定することとする.ところで,これら の諸批判は,私の最初の試論に対して与えられた ものであって,ここでは先に示した私なりの体系 はなお示されていなかったし,また次に述べるよ うに,私見そのものにおいて明らかに論理性の一 貫しない部分も存在し,批判によって訂正したと ころもある.このような私見そのものの未展開と 不十分さが,大なり小なり批判者の批判焦点を定 めにくくしていたことは予め了解しておいていた だきたい.

(147頁)その批判によって修正した最重要な 部分が,自然統計に関する問題(下線は引用者)

である.私は最初の稿において「自然を対象とす る数字的資料もこのような政治的,場所的な限定 が与えられて,しかもその総量的,代表的な数字 的資料である限り,それは十分に社会的,経済的 19) 内海(1962)130頁.

20) Францов,Г.П.(1965)Исторические ПутиСоциальнойМысли,Мысль(石堂清 倫訳(1968)『社会思想史概論』勁草書房).

21) 大橋隆憲,野村良樹(1963)『統計学総論

(上)』有信堂,40頁.

(7)

意味を持った数字的資料である」から,「これを 統計と呼ぶことは必ずしも不合理ではない」とし ながら,にも拘らずこれらの自然統計は,それぞ れ固有の測量技術を持ち,特にその方法を統計生 産方法として規定する必然性がないこと,対物測 定たる自然統計の生産方法を統計方法に持ち込む ことによって,社会現象を対象とする統計生産方 法の独自性と重要性を捨象してしまうこと,の 2 点から,これを統計から結果的には除外してし まったのである22).このような論理展開自体に無 理があることは知っての上での一応の結論であっ たが,果たせるかな,上杉,是永,安藤から鋭い 批判をいただくことになった.

2  社会統計学における統計=社会総体 説の位置

A 木村の見地への批判(上杉正一郎の場合)

(147―148頁)まずこのような論理展開に「無 理がある」と指摘されたのは上杉である23).だが 上杉は,「無理がある」から,社会的地域的に規 定された自然量,例えば国土面積,埋蔵資源と いった諸量に統計たる資格を与えてもよいという のではない.反対に除外すべきであるが,除外す る論理に無理があるというのである.つまり上杉 は,「統計は単なる数字ではなくて社会集団を語 る数字である」24)とする観点から,自然現象は統 計対象外におくべきであって,私見のように社会 的総体としての自然量の統計的資格性を一応認め た上で,その方法的独自性から除外するのは無理 があるというのである.

(148頁)統計=社会集団説に立てば,如何な る自然現象といえども,否一部の社会現象までも 含めて統計対象外に去ってしまうことは確かであ

る.だが統計=社会集団説が諸種の矛盾を含むも のであることは,拙稿25)において考察したところ であるから,改めて繰り返さない.ここでは,こ の上杉の視点が,大橋所説とほぼ近く,私よりは 少なくとも右に位置していることを確かめるに留 める.

B 木村の見地への批判(是永純弘の場合)

(148頁)是永,安藤の批判は,私のいう社会 的総量としての自然現象は,それまでの私見の論 理的展開からして当然,統計対象に含まれるべき であるとする立場からの批判であった.是永は次 のようにいわれる.「統計を統計学の枠内におけ る統計方法上の概念としてしか捉えていなかっ た,とする従来の統計学に対する御批判は,認識 論的には “方法による対象の規定” の批判を意味 するものと考えられますが,もしそうだとすれ ば,“統計” そのものを規定されるところでその 独自の生産方法を予料されるのは何故でしょう か.“対象による方法の規定” を貫徹すれば,“地 域的,場所的に規定された社会経済過程の諸局面 を,総量的かまたは代表的に反映する数字的資 料” という御定義が,論理的にも事実的にも先行 して,そこから “独自の生産方法” が導かれるの ではないでしょうか.この定義に際して除外され た “自然統計” も,“社会経済的意味” を持つ限り では,“社会経済過程の諸局面―それ自身が必 ず地域的,場所的に規定されている―” とみて よいのではないでしょうか」26)

(148―149頁)この是永の批判は,私が最初の 前稿27)において,統計から自然統計を除外したこ とを,私自身の論理展開の矛盾として指摘された ものであって,正当たることはいうまでもない.

22) 木村(1965a)485―486頁.

23) 上杉正一郎から木村太郎への書信.

24) 上杉正一郎(1959)『経済学と統計』青木書 店, 9 頁.

25) 木村(1964).

26) 是永純弘から木村太郎への書信.

27) 木村(1964).

(8)

前稿におけるこのような無理な論理展開が,従来 の社会統計学の伝統になお拘泥した結果であるこ とは確かであり,そうであれば,私が新しく統計

=社会総体説(下線は引用者)を提案することの 意味自体も大きく失われてしまうことになるので あって,明らかに私見の誤りである.すなわち,

既に本稿において訂正されているように,少なく とも私の体系は,社会的総体として規定された自 然量を含むことによってのみ,その論理一貫性が 保たれるのである.

C 木村の見地への批判(安藤次郎の場合)

(149頁)安藤も,統計=社会集団説に疑問を 提出しつつ,「木村教授は,統計の定義としては 自然統計を除外すべしとされるが,私は除外する 必要はないし,除外できないと考える」28)と述 べ,私見を批判されている.前述した意味におい て,そのことを承服せざるを得ないことは確かで ある.

しかし,是永が基本的には統計=社会現象説の 上に立ち,自然量が社会的に規定された自然量で ある限りは,社会経済過程たるものであるとする のに対して,安藤は,統計=自然・社会現象説の 立場から自然統計を除外すべきでないとされてい るのであって,安藤の批判論点は是永の批判論点 とは基本的に異なったものである.すなわち,安 藤は統計=社会集団説を批判するとともに,統計 を次のように規定される.「統計は自然界および 人間社会における多数の実在群についての,数字 で表されている情報である」と29).安藤はこのよ うに統計を自然・社会に跨った情報と規定される が,だからといって統計学が社会科学たることを 否定されるわけではない.自然統計たると社会統

計たるとを問わず,社会科学的に問題とするのが 統計学の課題でなければならないというのであ る.だが,少なくとも統計規定に関する限りでは 統計=情報説であって,統計=社会現象(無限定 な)説の内海見解よりも自然現象を含むだけ,さ らに広い対象領域を持つものであることは確かで ある.したがって前述した諸見解の序列からすれ ば,一応内海説よりもさらに左に属するとしてよ いと思われる.

D 統計=社会総体説に係る補足説明

(149―150頁)是永が自然統計を統計とみなす べきであるとされるのは,自然一般を以て統計対 象とすべしということでは決してない.国土面積 や石炭埋蔵量なる数字は,“日本の” あるいは

“フランスの” といった社会的規定性を与えられ た総量であり,その限りにおいて社会的な量たる 意味を持つから,統計とみなすべきだというので ある.そしてこのような自然統計の社会的性格を 主張しながら,その生産方法の相違から,これを 統計から除外してしまった私の非論理性を批判さ れたのである.したがって是永は,基本的には統 計=社会経済過程(社会現象―引用者)の立場 にある.安藤の所説よりも少なくとも右に位置す るものである.

(150頁)同時に是永は,私が統計を「社会経 済過程を総量的かまたは代表的に反映する数字的 資料」と規定し,統計の社会経済反映性に一定の 限定を与えたことに対して,積極的な賛意を表し て下さっている.その限りでは,統計=社会現象 説の内海よりも右に属し,私見に近いかの如くで ある.しかし私見に近いか内海に近いかといえ ば,むしろ内海に近いというべきであろう.

私見は,初出論文30)において必ずしも十分に伝 え得なかったかもしれないが,本稿の体系で示し 28) 安藤次郎(1967)「統計の概念規定と社会統

計学者の任務」経済統計研究会第11回報告資 料28頁.

29) 安藤(1967)13頁. 30) 木村(1964).

(9)

ているように,社会集団を抹殺するのではなく,

それもまた統計対象とするものである.統計対象 が全て社会集団でなければならぬとする従来の一 般的見解に反対しているに過ぎないのである.し かるに是永は,私の統計=社会総体説を,内海と 同じ意味における社会集団解消説と受け取られた らしく,またそのような観点から賛意を評された もののようである.そのこと自体を積極的に表明 されたわけではないが,次のような見解が,間接 にそのことを示しているといえよう.

(150―151頁)すなわち前稿において私が推算 の問題を取り上げ,「推算はその結果が正しく社 会経済過程を反映しているという保証を,悉皆大 量観察のように形式的に与えることはできない.

したがって推算の結果は(中略)正しい社会科学 的認識の下に合理的な方法を採っているか否か が,厳密に吟味されねばならない」31)としている のに対して,是永は「推算についてのこの要求 は,そのまま大量観察にも当てはまり,社会経済 過程反映の形式的保証よりは遥かに根本的な,し たがって統計の生産全てに貫かれるべき吟味とな るのではないでしょうか.もしそうだとすれば,

悉皆大量観察が基本的であるということ,推算が 代用法であるという順位は理論的にも解消され,

“総量に対する” “代表的反映” としての統計の生 産方法たる推算の重要性,第 1 義性が前面に出て くることにならないでしょうか.悉皆大量観察を むしろ特殊な 1 方法とする推算の体系が,統計の 生産方法の体系を成すという方向に思考を進める のは行き過ぎでしょうか」32)と問い返されてい る.この問い自体は,いうまでもなく,推算と悉 皆大量観察との関係についての問題を提起されて いるだけであって,社会集団に関するものではな い.にも拘らず,是永の悉皆大量観察法に対する

このような評価が,その社会集団に関する評価と 関わり合っていることはいうまでもない.

(151頁)確かに私も,推算が一定の段階,一 定の対象について悉皆大量観察法と並んで独自の 統計生産方法であることは認めているし,また認 めるべきであると思う.しかし社会集団が,社会 的歴史的存在または現象である限りにおいては,

悉皆大量観察法が基本的生産方法であり,推算は その省略的な生産方法たらねばならぬと考える.

悉皆大量観察法と推算との一般的な同列化(下線 は引用者)は,このような意味において社会集団 解消説に帰一するものである.是永説が基本的に は内海説に近い所以である.

この他に大屋からも「統計を統計学の外部か ら,すなわち社会科学的認識方法から規定」する ことには基本的に賛成であるが,「その論理的追 求の仕方」においては反対との批判をいただいて いるが,結論そのものについては触れられていな いので,ここでは省略させていただく.ただ従来 の所説から推して―全く勘であるが―私見と 論理的筋道は異なっているけれども,ほぼ同じ位 置あるいはやや左といったところと思われる33)

E 統計=社会総体説に基づく諸家の位置づけ

(152頁)以上の私なりの諸家の所見の検討を もととして,一応大雑把な序列をつけてみると,

右から大橋,上杉,木村(統計=社会総体説―引 用者),大屋,是永,内海,安藤の諸氏といった 順序となる.この序列はもとより,私の立場から の,あくまで一応の序列であって,今後のより強 固な統計規定のための足がかりであるに過ぎない.

31) 木村(1965b)616頁.

32) 是永純弘から木村太郎への書信.

33) 大屋祐雪(1963)「統計論への序説」『経済 学研究』29―3,同(1966)「統計調査の社会科 学的考察」『経済学研究』31―5・6,同(1967)

「統計調査論における蜷川虎三」『経済学研究』

32―5・6.

(10)

(154頁)ここで大橋見解よりも上杉見解を左 とみたのは,大橋の社会集団概念が,上杉のそれ よりも統計対象として全面的であり,したがって より抽象的な概念となっているかのように思われ るからである.これに対して上杉の社会集団概念 は,統計対象に対して必ずしも全面的でなく,そ れだけ社会集団を具体的な範囲において考えてい ると判断されるが,この点は全く推量に過ぎな い.

(151―152頁)ここで私見より右側にある統計

=社会集団説の方に戻って,上杉,大橋の所説を 検討しなければならないのであるが,ここでは統 計対象を社会集団に限定してしまうのであるか ら,その点においては他の多くの論者を含めて全 く同様である.ただ社会集団を如何なる概念とし て捉えるかについての見解は必ずしも同一ではな い.そしてこの不一致は,一般的には社会集団 を,具体的,実在的な概念から,抽象的,理念的 な概念へと発展せしめる思考線上において,統計 に対して社会集団をどの程度結合させるかによっ て生じる.一部の統計について社会集団を対応さ せる限りでは,社会集団はなお具体的,実在的な 概念である.しかし,あらゆる統計に対して社会 集団を対応せしめれば,当然それは抽象的,理念 的なものにならざるを得ない.そしてそこに自ず から序列も生ずることになるのであるが,ここで は統計と社会集団との関連が直接の問題であるの で,これ以上は立ち入らないこととしよう.

(152頁)ただ私なりの統計規定についての問 題意識からすれば,統計と社会集団とを相互規定 的な関係として結合することは,社会集団自体を 抽象的,観念的な概念とするとともに,社会学に おける社会調査34)―この対象も社会集団と呼ば

れている―と統計生産とを混同させる危険性を 持つ点において賛成し難い.と同時に,統計対象 から社会集団を全く抹殺してしまう統計=社会現 象説にも反対せざるを得ない.それは統計生産に とって少なくとも基本的方法たる統計調査法の理 論的基礎を解消するとともに,社会経済の一般的 数量的認識手段としての統計と,社会経済の局部 的認識資料たる事例調査とを同一次元において価 値評価し,ひいては統計そのものを社会情報一般 と混同する傾向(下線は引用者)を導く危険を包 蔵するものだからである.

3  補   遺

今回の本資料で対象とした「社会統計学の体系 化に係る素描的試論」は,1960年代の半ばから 1970年にかけて木村が執筆した旧稿35)に基づいて おり,その中でも特に,当時の社会統計学界隈で その学問的性格をめぐって提示された各種論議へ の木村の評価に関する箇所を取り上げた36).木村

会,第 6 節社会的データの複雑性).

35) 木村(1965a),同(1965b),同(1970).

36) 木村は,この統計学の体系化に関する素描 については,松川七郎との関係で忘れ難い思 い出があるとして次のように述べている.松 川は「ドイツ社会統計学については,格別の 諸種の批判を持っておられた.その主な理由 は,ドイツ社会統計学が,自らを近代的統計 方法と位置づけ,統計学および社会統計学の 源泉といわれる政治算術学派に対して,統計 代用法とか,非統計方法といった従属的地位 しか与えていなかったからである.このよう な松川の強い社会統計学批判が,独自に形成 されていたことは疑いない.ところが彼(松 川―引用者)は,それを私(木村―引用者)

の諸労作の影響に帰し,私が統計学の森をそ こにみているからだという.彼は,この統計 学の森ということばを実によく使っていた.

また松川が最も多く取り上げてくれていたの 34) Lundberg,GeorgeA.(1929)Social Re-

search: A Study in Methods of Gathering Data,Longmans,GreenandCo.(福武直,

安田三郎訳(1952)『社会調査』東京大学出版

(11)

による「素描的試論」は,1970年代に「社会統計 学の体系論」としてさらに具体化することにな る.既述のとおり,この「社会統計学の体系論」

で木村が論じたさまざまな事柄について,筆者は 2010年代に継続的に紹介,評釈してきた.それら 作業の小括も兼ねて,以下では,統計=社会総体 説に基づく木村の社会統計学の要点,その現代的 な意味について整理しておきたい37)

A 統計=社会総体説に基づく社会統計学につ いて

【A-1】狭義の統計学と広義の統計学

統計=社会集団説に依拠する蜷川虎三(以下,

蜷川)の統計学体系38)すなわち蜷川統計学は,そ の影響の濃淡があるとはいえ,従来の社会統計学

(統計=社会集団説批判派を含む)の基盤を形成 してきたといってよい.統計=社会総体説を提起 した木村の社会統計学体系論は,集団概念を前提 に形成された蜷川統計学の形式,内容を超えよう とする試みでもあり,それは現在の社会統計学に とっても示唆的な内容を含む.20世紀半ば頃まで に展開された社会統計学における社会集団論を木 村は批判的に検討し,統計=社会集団説にみられ る社会集団概念の混迷を指摘した.その統計=社 会集団説批判はまた,観察単位とその量的属性

(標識)を軸に関連する概念を整理,体系化し,

独自の統計対象規定,統計学体系を論じる契機と もなっている.

木村は,蜷川が社会集団概念との関係で規定し た統計方法(統計調査と統計解析)に研究対象を 絞る社会統計学体系を狭義の統計学と称し,他方

で,広義の統計学―蜷川の社会集団概念を含む が,その集団概念を超える統計の生産過程一般と 利用過程一般へと研究対象を拡げる社会統計学

―の体系を提示した39).統計=社会総体説に依 拠する木村は,社会経済過程の特定局面を総量的 かまたは代表的に反映する数字的資料が統計であ る,と簡潔に統計を定義づける.その統計学体系 論は,数字的資料としての統計を統計学の首座に 位置づけた蜷川統計学の特質を継承すると同時 に,社会集団概念を前提に形成された蜷川統計学 の形式,内容を止揚せんとする試みでもあった.

A-2】集団的存在・現象と統計調査

木村が統計調査論を展開するさいの重要概念 は,数量的観察を行うに値する社会集団である.

社会経済過程に関する統計調査の対象,観察対象 である社会集団について木村は,集団的存在と集 団的現象に区分し,前者を対象とするのが静態統 計調査(時点的観察),後者を対象とするのが動 態統計調査(時間的観察)とされる.ここでは,

不断に変化,発展する社会経済過程を,存在と現 象,静態(時点)と動態(時間)に着目し,静止 空間に還元して数量的に観察する方法が統計調査 論で想定されている.社会集団の観察方法をめ ぐって行われる静態と動態とへの識別は,調査対 象となる社会集団を構成する単位を,静態統計調 査の場合には人間および企業・事業所として,動 態統計調査の場合には事象の発現(人間の出生・

死亡,事業所の新設・倒産,手形の交換,労働争 議,失業保険の給付等)として,すなわち存在と 現象という異なる次元での単位の規定へと繫がる.

ところで木村は,統計調査には量的社会経済調 査および統計生産の 2 つの側面があること,社会 経済調査の一環に統計調査を位置づけるべきこ と,も繰り返し強調される.量的社会経済調査と しての統計調査の対象は,社会経済の担い手であ

39) 芳賀(2018a)23頁の図 1 参照.

が,ここに掲載した落葉集ともいうべき統計 学の体系化に関する素描的試論であった」.

(木村(1998)208―209頁),

37) 以下の叙述内容は,主に芳賀(2017),同

(2018a),同(2018b)に基づく.

38) 芳賀(2018a)31頁の図 2 参照.

(12)

る人間,家計,企業・事業所から構成される社会 集団である.つまり,量的社会経済調査の対象で ある社会集団を構成する単位は,上記の静態統計 調査の対象である社会集団を構成する単位に相当 する.社会経済調査の観点からは,さまざまな事 象の基礎にある個人・世帯,事業所・企業(組織 体)が観察単位とされてよいだろう.

他方,動態統計調査において直接観察される事 象の発現は,経済統計に関連する統計調査を中心 に多種多様に認められ,特に経済統計の生産にお いては動態統計調査の役割,意義が大きい.この ような現実の下で,動態統計調査が対象とする社 会集団と,その構成要素である単位,さらに単位 と関連する標識について,木村は詳細に規定しよ うと企図された.だが,このことは,20世紀前半 のドイツ社会統計学に対する木村の評価と同様 に,調査対象としての社会集団概念の技術的な変 質過程であるとみることもできる.事象の発現お よび企業内部情報を得るための報告単位と,統計 調査の対象としての集団的存在を構成する単位

(社会経済活動主体)との並列は,単位について のみならず,木村の統計調査論自体にも未解決の 問題をもたらし,動態的観察単位集団に対応した 独自の観察方法については一層の考究が必要であ ると木村は示唆した.社会集団,単位,標識に 係って,その調査論と統計学体系論はどのような 道筋を展開し得たのだろうか.今となっては不明 であるが,統計=社会集団説から距離を置いた他 の研究と併せて省察してみたいところである.

【A-3】社会集団と統計対象

社会集団論を含む統計対象規定をめぐって20世 紀に行われた社会統計学における議論について は,その講壇的性格のために現在の社会統計学で は殆ど一蹴された状態にあるといってよい.社会 集団論議の講壇的側面は,木村の統計=社会集団 説批判でも散見される.たとえば,「人口統計調 査においては,個々人を観察単位(統計単位)と

する社会集団を対象とせざるを得ないのであっ て,世帯は,かかる単位を捕捉するための技術的 場所すなわち調査単位に留まる」と木村はい う40).この国の人口センサスである現行の国勢調 査では,世帯(単身を含む)を対象に統計調査が 実施される中で,世帯構成員である個人に関する 情報も収集されている.だが人口統計に結びつく 個人に関する情報は,世帯(単身を含む)経由で 調査,収集される以外にも,個人に対する直接的 あるいは間接的な調査・観察方法によっても収 集,取得することが可能である.個人が観察単位

(統計単位)で,世帯が調査単位(観察単位(統 計単位)を捕捉するための技術的場所)であると いう人口統計調査における単位に係る木村の区別 は,形式主義に幾分傾いているといえる.

木村はまた,全国工場労働者数なる統計が人口 統計調査の部分集団として捕捉される場合と,工 場統計調査における工場の量的標識として捕捉さ れる場合について述べられる.これは,特定の統 計が,観察単位集団そのものの大きさを示す統計 として生産される場合もあれば,観察単位の量的 属性の総和として生産される場合もあるという事 例の 1 つとして示されている.この事例に係って 私は,既存の複数の統計調査における観察単位が

(木村の表現に沿うなら調査単位も)異なると き,それら統計調査から直接得られる数量情報に 基づいて特定の統計を間接的に生産するための方 法が変わることを意味していると考える.もし観 察単位が工場労働者そのものであれば,社会的観 察単位集団は工場労働者の集団であり,同集団に 依拠して全国工場労働者数なる統計が直接に生産 できるであろう.また,観察単位が工場労働者で はなく,上の事例のように人口統計調査における 国民一般,工場統計調査における工場であるとみ るならば,全国工場労働者数なる統計は,上の事

40) 木村(1992) 8 頁.

(13)

例のような各々の方法,経路によって間接的に生 産されることになる.

A-4】観察単位

観察単位は,静態集団と動態集団に係る従来見 解を木村が検討するさいの鍵概念でもある.静態 的観察単位集団を構成する観察単位として示され たのは,人間,家計,工場,企業である.これら の観察単位は社会的存在そのものであり,当該単 位によって構成される社会集団は,時間的,空間 的存在である.

他方で,動態的観察単位集団を構成する観察単 位としては,人間の出生,死亡,事故,取引が示 される.これらの観察単位は事実の発生そのもの であり,社会的存在の運動過程において発生する 諸現象の発現を契機に認知し得る観察単位である が,木村によれば客観的な存在とはいえない.ゆ えに,静態集団は客観的存在であるが,動態集団

(社会的存在の運動過程において発生する諸現 象・事実の発現を,一定の時間的経過の中で回数 または件数として捕捉した集団)は客観的存在で はなく,これら 2 つの集団は本質的に異なるもの だとされる.木村の統計学体系では,統計の生産 が静態的観察単位集団に依拠する場合も,動態的 観察単位集団に依拠する場合もあり,観察単位の 相違が,統計を生産する方法,経路にも変化をも たらすことが確認できる.

静態集団と動態集団をめぐって展開されたこれ らの考察に留意するなら,「観察単位の移行・発 展の経過と方向を明らかにすることも統計学の 1 つの課題」とする木村の提言は,今なお有効であ るのかもしれない.とはいえ,静態観察および動 態観察を含む社会経済の数量的観察方法に関して は,より簡明に理解することから出発した方がよ いのではないだろうか.すなわち,社会経済の諸 過程を認識しようとする主体(一般の人々)に とって直接の観察対象とされる運動する存在は,

最も基本的には「個人・世帯」と「事業所・企業

(組織体)」の 2 つから構成される.人間(観察主 体)は,静止した状態(静態的側面)と,運動し た大きさ(動態的側面)とから,運動する存在を 数量的に観察する.運動する存在を数量的に観察 するこれら 2 つの形式を,静態観察と動態観察と 称する.運動する存在の静態的側面および動態的 側面は,それらが集団を形成しているか否かに拘 らず,数量的観察(静態観察および動態観察)の 対象となる.ここでは,統計=社会集団説から大 きく離れて,統計=社会現象説,社会集団解消説 へ傾斜せざるを得ないであろう.

【A-5】運動する存在

観察対象としての運動する存在は,集団を形成 する場合もあれば,個体(非集団)の場合もあり 得る.その何れであっても,社会経済過程の数量 的観察は,観察対象(運動する存在)を部分的あ るいは全面的に反映する統計の生産・利用を通じ て一般的に行われる.したがって統計は,観察対 象である運動する存在の静態的側面と動態的側面 を,数量的に反映(ただし,部分的か全面的に反 映)するものでなければならない.ここでの本来 の観察対象は統計ではなく,個人・世帯および事 業所・企業(組織体)から基本的に構成される運 動する存在自体であるが,運動する存在を反映す る統計もまた,個人・世帯および事業所・企業

(組織体)経由で基本的には収集,生産される.

以上の意味での個人・世帯および事業所・企業

(組織体)を,統計調査,統計生産における単位 としても規定できると,運動する存在の静態的側 面および動態的側面に関連する諸要素(木村によ る統計=社会集団説批判では明示されていない が,今日では数多く調査,生産されている「人間 の行動に関連する意識〔例:世論統計における調 査事項〕」も含まれる)は全て,単位の属性(標 識)として括ることが可能になる.社会集団論の 影響を受けつつ批判的考察を経て木村が提示され た観察単位,量的標識,静態的および動態的観察

(14)

単位集団等々について,このような概念の再調整 が許されるならば,運動する存在の何を(如何な る側面を)観察するのか,そのためにどのような 調査・観察方法を実施して統計を生産するのかと いう社会的実践への対応という意味で,さらに統 計生産のために対象を観察し記録する人間の行為 自体の変化(例:デジタル・データの収集,加 工,利用)を再考する上で,当該概念(単位と標 識)が活かし得るのではないだろうか.

B 木村の社会統計学体系と研究対象をめぐっ

【B-1】統計と統計方法

木村の統計学体系論では,狭義の統計学が直接 の守備範囲とする統計方法(統計調査法と統計解 析法)と,広義の統計学が研究対象とする統計と の関連,異同が提示されてもいる.社会経済過程 の特定局面を総量的または代表的に反映する数字 的資料である統計については,構成的統計表と誘 導統計値(代表値・構成的統計比率)が想定され る.ただし,広義の統計学の研究対象である統計 には,構成的統計表と代表値・構成的統計比率を 中心に置きつつも,統計の生産過程と利用過程全 般に関連する統計図表と統計値の全てが含まれ る.

統計対象論で木村は,総量的または代表的反映 性が統計に要求される理由に係って,社会科学的 認識目的に加えて,社会そのものが統一的集団的 な構成体的存在であり,社会的総体であることに おいてのみ,その数量的認識の意味があるからだ とされる.また,社会経済過程に関する偶然的あ るいは一部的数字資料が,社会科学的認識にとっ て相対的な意味しか持たないことも明らかである という.木村の統計学体系における統計(構成的 統計表,誘導統計値〔代表値・構成的統計比率〕)

は,社会的総体であることにおいてのみ数量的認 識の意味がある数字的資料に,また広義の統計学

の研究対象に含まれる統計図表と統計値の多く は,社会科学的認識にとって相対的な意味しか持 つものでない偶然的あるいは一部的数字資料に,

各々対応することが含意されている.

【B-2】総体反映性

上述のとおり,木村のいう統計の総体反映性と は,厳密には構成的統計表と誘導統計値(代表 値・構成的統計比率)に要請される事柄,特性で あろう.つまり,広義の統計学が扱う統計の生産 過程と利用過程全般に関連する他の統計図表と統 計値に関しては,社会経済過程の特定局面を総量 的かまたは代表的に反映する数字的資料であるこ とが,絶対に求められているわけではない.

ここで仮に,総体反映性を要件とする構成的統 計表と誘導統計値(代表値・構成的統計比率)を 統計,広義の統計学が扱う他の統計図表と統計値 を「統計」,さらに統計および「統計」も包摂す る,社会経済過程の特定局面を全部か一部反映す る数量的資料を統計情報と称するなら,統計,

「統計」,統計情報の現代的な意味,内容はどのよ うになるのであろうか.木村によって提示された 統計方法,統計対象と関連する問題と併せて興味 深い.方法と対象をめぐる木村の視点は,特に蜷 川の統計方法(統計調査法と統計解析法)と統計 対象(存在たる集団と意識的に構成された集団)

に対する批判的考察において重要である.木村の 統計学体系における統計(構成的統計表,誘導統 計値)が,社会経済過程の特定局面を総量的か代 表的に反映する数字的資料として定義される点 に,ここでは改めて留意しておくとともに,その ような定義が,人間社会における社会情報の創 造・交換・共有過程の発現様式からみて,どの時 代,地域でも普遍的な意義を有するのかについて は,なお検討の余地があるだろう.

B-3】統計,「統計」,統計情報

統計が社会経済過程についての数字的資料であ るとすれば,当然にも統計は,社会経済過程に関

(15)

する何らかの質的規定の下での量的規定でもあ る.統計の生産に係るこの質的規定は,社会経済 観察の基本単位(個人・世帯,事業所・企業(組 織体))を前提に,各種標識(例えば性,地域)

を媒介に具体化される.木村による統計の定義で は,質的規定にあたって社会経済過程の特定局面 を総量的または代表的に反映することが重視され るはずだから,媒介項となる標識が総量的な反 映,代表的な反映に繫がるように設定される必要 がある.そうでなければ,社会経済の数量的認識 手段としての意義を有する統計が生産,獲得でき ない.

また,広義の統計学が扱う他の統計図表と統計 値である「統計」,さらに統計および「統計」を 包摂する統計情報が,木村の統計学体系では統計 に多かれ少なかれ依拠,連動していると考えられ る.よって,統計の生産に係る質的規定すなわち 標識の具体化は,「統計」および統計情報にとっ ても重要であり,「統計」および統計情報の有効 性=社会経済の数量的認識手段としての有効性 を,根本的には左右するといえよう.ただし,統 計に求められる総体反映性という要件,制約は,

「統計」および統計情報については統計よりも相 対的に緩和される場合も多いだろうから,「統計」

および統計情報の生産に係る方法は,近時喧しい この国の “データサイエンス” における数量情報 の生産方法に散見されるとおり,統計の生産方法 と異なる形式,内容となるのではないだろうか.

B-4】統計の概念規定

木村は,統計学の枠内で統計概念を規定するの ではなく,統計を必要とする社会的実践や諸科学 の側から統計概念を規定することを提起した.統 計史に関する内外の研究は,諸々の社会的実践,

社会経済過程への認識の必要にも迫られて,人類 が統計の生産・利用方法を探求してきたことにつ いても示唆している.人間社会の発展段階,社会 集団・階層の形成,社会経済に関する価値判断

等々,統計の生産と利用をめぐる実際の条件はさ まざまであるから,それらに対応する統計の生 産・利用方法にも改訂,更新が絶えず発生するで あろう.木村が述べたように,統計の概念規定が 統計学の中からではなく,統計を必要とする社会 的実践や諸科学の側から探索された方がよいのか もしれない41)

このことに係って,前記の統計だけでなく「統 計」および統計情報へ考察の範囲を広げてみるこ とも今日では重要であろう.統計,「統計」,統計 情報の各々の生産で前提となる質的規定が,上記 の社会的実践や諸科学の目的と深く関連すること が考慮されねばならない.方法を対象との関係か ら単純に評価すること,操作可能な数量データと して統計,「統計」,統計情報を安易に想定するこ とへの反省も求められよう.実際の社会的事情を 背景に設定される目的(統治,管理,監視,意思 決定,特定の理論,価値観等々)と連動せざるを 得ない質的規定の下での対象と方法に関する検 討,その一環としての統計,「統計」,統計情報に 係る研究を,社会統計学が顧慮せざるを得ない段 階が到来するように思われる.

B-5】統計生産・利用の目的

主要な観察主体でもある政府は,その統治目的 に沿って数字的資料である統計,「統計」,統計情 報を生産,利用する42).それら数字的資料が統治 41) このことは,補助科学あるいは統計実務学 として(その是非に関する判断を一先ず措い た上で)社会統計学を編成する道筋の 1 つで もある.

42) 日本における現統計法は,第 1 条で「公的 統計が国民にとって合理的な意思決定を行う ための基盤となる重要な情報である」,第 3 条 2 項で「公的統計は,適切かつ合理的な方法 により,かつ,中立性及び信頼性が確保され るように作成されなければならない」と規定 しているが,これらのことと,政府統計生産 の第 1 義的課題,目的が観察・調査対象であ

(16)

目的からみて有効であるには,数字的資料として の精度,対象反映性が統計,「統計」,統計情報に 求められる43).業務統計の意義,統計調査への行 政記録の活用は,このような文脈で唱道されてい るとみることもできる.またミクロデータ(個票 情報)の匿名化は,個人情報保護,基本的人権と してのプライバシー権への配慮によるものでもあ るが,従来の統計に比べての数字的資料としての 精度向上,対象反映性の改善に大きく寄与する可 能性を伴うミクロデータ(個票情報)が観察主体 の統治目的に沿う数量情報にもなり得るので,匿 名化の技法に関する研究が精力的に進められるの であろう.ミクロデータ(個票情報)の匿名化 は,旧来の強権的な独裁制の場合を別とすれば,

質的・量的社会情報の収集,管理,運用への支 持・同意を,観察主体(政府等の統治主体)が観

察対象である単位(個人・世帯,事業所・企業

(組織体))から獲得する上で必須の措置である.

観察対象(一般の人々)への配慮でもあるこの措 置が形式的なものに留まる(観察対象〔一般の 人々〕の観察主体への自発的隷従も含む)か,観 察対象の個人情報保護にとって実質的な意味を有 することになるかは,各々の社会的事情に左右さ れる.

こうした事情を顧慮して木村のいう統計の総体 反映性・対象反映性を再考することは,統計情報 の生産および利用におけるデータの精度問題(あ る種の正確性に局限される問題)への傾斜を回避 する上でも重要である.社会情報,統計情報をめ ぐって進行する今日の諸事情に留意すると,社会 経済の数量的認識手段としての統計が担うべき最 も重要な課題を社会的な総体の量的把握であると

る国民の統治・管理であることとは矛盾しな い . 総 務 省 政 策 統 括 官 ( 統 計 基 準 担 当 )

(2007)『統計法関係資料』も参照.

43) 政府統計調査による場合も含む公的統計

(OfficialStatistics)の生産過程では,観察・

調査対象は観察主体の統治・管理対象でもあ る.だが,社会情報の創造・交換・共有過程 における観察対象(客体)は,常に観察主体 の統治・管理対象として固定されるわけでは ない.この点は,研究者が観察主体となる

「社会調査」での観察対象が,一般的には統 治・管理の対象ではないことからも理解でき るだろう.社会情報の一環としての公的統計 の生産方法が観察対象の統治・管理を第 1 目 的として進められる点に,人間社会における 社会情報の創造・交換・共有過程に係る他の 方法との相違,特徴があるといえるのではな いだろうか.統計の生産過程における観察対 象への統治・管理の程度は,時代および地域 によってさまざまであるとはいえ,観察対象 としての人間(個人および法人)の観察主体

(統治者)からの独立性に左右される.木村が 述べるとおり,統計調査法は,この独立性が

一般的に認められる独占段階以前の資本制の 下で,すなわち観察対象への直接的な統治・

管理が相対的に暫時緩和された時代,地域に 適合する統計の生産方法ということになろ う.ただし,観察対象(個人および法人)に 対する統治・管理は独占段階以降の資本制に おいて変容し,社会情報の一環でもある統計 の生産方法へも影響する.この文脈から,現 在の資本主義体制(および旧社会主義体制)

における統計生産の諸相,すなわち観察主体 による観察対象(客体)への統治・管理強化 と並行して進む観察対象(客体)の分断(こ れらは同時に,観察主体に対する観察対象の 信任の欠如,観察対象相互の信頼関係の崩壊 を伴う),統計原情報に基づく観察対象(統計 単位)への操作,統計的標識による統計的単 位の再構成が生み出す半事実・虚像,管理統 計論・戦略統計論としてのDataScience,「統 計改革」におけるEBPMPBEM(PBDM)

等への転化,公的統計のneutralityと生産形 態等を顧慮するならば,統計調査法=統計生 産の基本的方法という木村の見解について,

筆者は評価を留保せざるを得ない.

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