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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

文学教育について

著者 横田 利平

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 4

ページ 59‑68

発行年 1968‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10105/6146

(2)

文学教育について

横  田  利  平

(目 次) はじめに。 r形象について。 (以上本稿。以下衣稿) r文学樹こついて。

     ミコトパについて。 円創造性について。 異心情について。 むすび。

 はじめに

 文部省の学習指導要領が示す小学校および中学校における国語科の総括的な目標は、それそれ「目穏 の第1項に要約されている。すなわち、「日常生活に必要な国語の能力を養い、思考力を伸ばし心清を 豊かにして、言語生活の基礎をきずくようにする」(小学校)、「生活に必要な国語の能力を高め、思 考力を伸ばし、心清を豊かにして、言語生活の向上を図る」(中学校)。これを別の表現で要約すれば、

(1〕日常生活のための言語技術・能力をそだてる教育、(2)思考の道具としての言語教育、(3〕いわゆる文学

教育一この三本の主なる柱がこんにちの小・中学校の国語科の教科構造を支えているといってよい。

(目標の第4項に掲げられている国語への関心と自覚を養い深めること、ひいてはいわゆる「美しい日 本語」の問題は、この三本の柱に共通的に含めて考えられるぺきものである。)

 このうち、(1)の言語技術の教育は、戦後の国語教育を最もティピカルに特徴づけている部面であり、

それは戦前の国語という教科に何んとなくまといっいていた感傷的億緒主義を拭い去って、コミニュケ

ーションの媒体としてのコトバ(言語)の社会的機能を明確に洗い出し、日常の社会生活と密着させつ

つ「聞き・話し・読み・書く」能力を児童・生徒の身につけさせる点において大きな前進を示したので

あるが、その反面、教育観の底を流れるアメリカ流の実用主義・能率主義・合理主義・技術主義のため

に人間形成の教育という観点からはマイナスの面もまた無いとはいえないのである。国語・国字問題が

大きく社会間題化して今日なお未解決のままに置かれていることもこのことと決して無関係ではないと

思うのであるが、そのことよりもわたくしの最も気にかかることは、機械・技術文明の極度に発達した

現代の社会生活の中で、いわゆる「人間疎外」とか「人間性の喪失」とかいわれる現象がいろいろな面

で認められ、人間性の危機が問題にされる昨今、教育そのものまでが、創造性と直観力に富んだ人間を

育てる方向とはむしろ逆に、電子計算機に適応し得る人間を育成することに専念しているのではないか

とさえ疑わざるを榑ないような時代の風潮に国語教育も知らず識らずのうちに捲き込まれ、ある面では

それに拍車をかけるような一役を演じているのではたいかというおそれである。(2)の思考の道具として

の言語教育については、現代人がものを思考する場合、すべての場合といってよいほど、コトバを媒介

として思考しているのであって、その意味から明断で豊富なコトバを身につけさせることが基本的に必

要な事柄であり、小学校為よび中学校に恭ける国語科の教科としての性格と役割の中には、国語科本来

の目標のほかに他の全教科の基礎学力を育てるという面があるわけである。そこで小学校の殊に低学年

においては学習時間の大部分を国語科に割いてしかるぺきであるという意見すら一部にあるくらいであ

るが、その当否は今は問わないとしても、思考力を育てるための言語教育の自覚が持たれるようになっ

たことは国語教育にとって大変重要な意味があるといわねばならない。ただ同じコトバであ〕てもそれ

      一59一

(3)

が文章や話の中で女口何に用いられるかによって生きたコトバともなれば死んだコトバにもなることは周矢口 のことである。これは、わたくしの考えでは、各人がコトバを身にっけるそのつけ方の態度とその人の 現実への対し方とによって基本的に左右されるものなのであるが、こんにち国語教育の現場において、

このコトバの生き死にの問題、つまり如何にしセコトバを生かすことが出来るかにっいて、また一体生 きたコトバとはどんなコトバをいうのであるかについて、常に細心の注意と関心が払われ、適切な指導 がなされているといえるであろうか。r性能」と「経済性」という機械・技術文明の至上命令に制約さ れてコトバもこんにち極度に言己号化され、自然との対話を忘れ、陰霧(ニュアンス)を喪い、自然や現 実と人間のいのちの触れ合いによって生まれる実感の裏打ちを欠き、終局的には人間の思考の貧困化を 招来しているのではないだろうか。(3〕は、いわゆる文学教育であるが、学習指導要領には文学教育とい うコトバはどこにも使われていない。ただ、「楽しみを得るために」とか、「心情を豊かにして」とか、

i r鑑賞する態度や技能を身につけさせる」とかいった表現が断片的に用いられているに過ぎない。これ に対して国語教育研究家や小・中学校の現場の教師たちの間においては、ある面では文学づきすぎると 思われるほどに、r文学教育」の重要性が強調され、ある一部のひとびとは更に一歩徹底して言語によ

る芸術教育としてこれを国語科から独立せしめるべきだとさえ主張しているのである。しかし、現在の 時点においては、文学教育はどこまでも国語科の教科の枠の中でその方法を確立させ、これを育てて行 くことによって、(1陣(2〕の問題とも関連させながら、文学による国語教育の実践を通して現代の国語教 育全体の体質改善を図るぺきであるというのが、わたくしの基体的な考え方である

r形象について

 一体、小学校および中学校における文学教育の目的は、こどもたちに何を教え、こどもたちのどのよ うた素質を伸ばし育ててゆくことなのか。学習指導要領では先ずr心情を豊かにする」という項目があ げられている。これは人間形成の教育の角度からみた文学教育の第一の目標とみてよいで赤ろう。

 文学とは何か、という定義づけほど、話す方からいっても聞く方の側にとっても、退屈で味気ないも のはないのであるが、論を進める出発点として極めて素朴単純に云ってみれば、文学とは日常の利害や 打算に汚されない純粋でハダカの人間の眼で人間性と現実(人生)の普遍性とリアリティを探求し、そ れを具体的・個性的なすがたにおいて表現したものであるといえるであろう。そしてこの純粋でハダカ の人間の眼は生命力の自然(原理)からしてそうあるのが当然である如くより良くあろうとする内面的 欲求、すなわち理想を内包しているものであるから、それが人間の普遍性や現実のリアリティに触れる 場合、美的感動が生まれるのである。この美的感動がすなわち文学的感動であり、これが読者の心膚に 働きかけ、心情を豊かにするのである。美的感動といっても、それは一描かれる対象がつねに美しいもの、

理想的なものであることを意味しない。醜なるもの、悪しきもの、滑稽なもの、あるいは不幸なもので あっても、純粋でハダカの作家の眼が自己の理想の立場からこれを批判の眼で、調剤の眼で、あるいは 悲しみの目でみるとき、美的感動はそれぞれの場合に指いて同様に生まれるのである。ゴーゴリは彼の 傑作調剤劇「検察官」について書いている。「わたしはわたしの戯曲のなかにいた誠実な人間に講も気 付いてくれたかったことが残念だ。そうだ、あの戯曲のなかに終始活躍する一人の誠実で高潔な人間が いたのだ。この誠実で高潔な人物こそ笑いであったのだ……人間のあかるい天性からとびだすところの 笑いであったのだ。」(註1)

 もっとも、こんにちのように文学の本質が複雑な時代性のために歪められ、ある面において崩解現象

       一60

(4)

を示してさえいる現代のすべての文学作品が上に述べた如きものであるとは限らないのであるが、少く とも小・中学校の文学教材として使用するに適した作品はこうした条件を具えたものでなけれぱならな いはずである。くり返して云えば、文学的感動は、人間性と現実(人生)の普遍的真実性に対する純粋 な感動であり、人間存在のかなしみを通して生きることの意味を知り、それを更にのり越えて生きてゆ く勇気を与えてくれるものである。純粋であることは、それ(文学)が無償の行為であることを意味し ており、その点にこそ文学作品を読むことによって心情が豊かに深められ高められる理由が存するので

ある。

 文学教育の目的は、しかし、単にそれだけに終わるものではない。第二に、そしてわたくしの考えで は、国語科という教科の性格にてらして最も重要であると思われるのは、文学作品を正しく読むのはど のようにすればよいのであるか、その方法を身にっけさせることである。それは単に文学を教えるため の教育であるばかりでなく、文学による言語教育を行い、それを深めてゆくことによって、入間にとっ て極めて重要な現実認識のためのある種の基本的な素質を育ててゆくことを意味している。では、文学 作品はどのようにして読まるぺきものなのか。このことを正しく理解するためには、何よりも先ず、文 学を科学や哲学やその他の精神活動から区別する文学の特質を知らなければならない。文学の特質とは 一口に云えば、その形象性にある。

 この文学の形象牲について、チモエーエフは、その著「文学理論」の中で、広狭両義があるとし、狭 義の場合は、たとえば《東はあたらしい朝焼けに燃えている》という一行の中にみられる形象であり、

これに対して広い意味での形象とは、芸術に内在する生活反映の独自の形式であり、云いかえると、現 実(人生)の種々様々な側面をそのなかに統一し交錯させている焦点とも.いうべき「人間」一この人 間の視角を通して捉えられた現実の絵図であり、しかし単なる模写としての現実の絵図ではなく、それ は現実の申にある普遍性と法則性を、抽象的・概念的にではなく一、具体的・個性的に捉え、かつ表現し た絵図であって、「形象とは虚構の助けによって創造され、美学的意義を持っところの、具体的な、そ

してそれと同時に普遍化された人間生活の絵巻である」と定義づけるとともに、文学理論の中において はこの広い意味における形象というコトバを使うぺきであって、前者の狭義の意味での使用を避けよう としているのである。もっともこうした考え方は、チモエーエフがソプエートという体制国の文学理論 家として文学における社会主義リアリズムを最高最良のものとする決定的な立場から文学の一切を規範 的に規定しようとする教条主義と厳格主義(リゴリズム)の狭さを感じさせたいでもない。たとえばこ こに一つの具体的な文学作品があるとして、その作者が書こうと思えばそれ以外にも幾通りもの可能性.

のあった方法の中から唯一最適のものとして選んだ表現の中において、部分部分の言語形象や個々のイ メージは作品全体の形象性とのっぴきならたい必然性をもって緊密に結ばれているのであって、この部 分形象の正しい形象的な読みを抜きトして作品全体の形象性を正しく捉えることは不可能であり、時に は一つの主要なイメージが作品全体の形象を集約的に表現し象徴している場合もしばしばあるのであっ て、特に小・中学校における文学教育においては、この部分部分の形象や個々のイメージの正しい形象 的な読みの積み重ねこそが極めて重要な作業であると云わなけれぱならないのである。

 こ々にち、形象というコトバのほか、イメージ、心象、映像、表象等々、類似した用語がひとぴとに よって各人各様に盗意的に使用され、用語の混乱がみられるのであって、用語の明確な概念規定をする 必要をわたくしも感じている一人であるが、しかしまた一面から考えてみると・これも本論の最も主 要な問題としてあとで触れるつもりであるが一人間の現実認識の仕方の二つの基本的なパタニンのう

一61一

(5)

ちの、分析的・論理的・概念的なそれに対する綜合的・直観的・具象的な、いわゆる「図形認識」と呼 ばれるものにそれらはいずれも根を結びつけている点において極めて近似した類縁性をもった概念であ ることも事実である。ただイメージ(心象、映像も含めて)という場合は「像」に力点が置かれ(もっ ともイメージというコトバはこんにち社会生活のあらゆる領域で猫も杓子も使っている一種の流行語と なって為り・時には単にアイディアというほどの意味で使われる場合もしばしばなのであるが、)これに 対して表象というコトバはイメージを結像する過程的・作用的な面で用いられることが多く、イメージ に比してより観念的た概念であり、形象は、イメージが具体的なすがたを保ちながらも現在的には知覚 の対応物を持たず、その意味においては抽象的であり、虚構的であり、かつ普遍的であるそうした次元 性に重点をおいて用いられ、象徴というコトバと比較するとより即物的な概念として、わたくしは本文 の中では用いることにしたいと思う。

 わたくしは、最近、ある新聞でイメージというコトバが最もすばらしく、うつくしく、用いられてい るのを読んだ。それはrすさまじい秋色」と題して京都の高雄の紅葉について写真家の岩宮武二氏の書 いた文章の中で発見したのであるが、高雄に住む岩宮氏の友人が、「冷えこむ夜は、全山の樹々の紅葉 する気配がわかる」というコトバを引用して、長征高雄に住んでいるだけに、しんしんと紅葉する気配 を深夜鋭敏に感じとっている友人の心に描かれるイメージのすばらしさ、というよりもr種凄いような すさまじさに感歎しているくだりであるが、この場合、このイメージの実体は一体何なのであろうか。

      あや

それは主として闇にも彩なるすばらしい色彩の紅葉の視覚像が中心をなしていることは間違いないよう であるが、冷気が紅葉に沁み入るおもいは触覚とも連ながりがあり、深夜の黒暗の世界にじっと耳を澄

      柑〕り

まして紅葉のいのちの終焉のいとなみに聴き入っているさまは正に聴覚の世界でもあり、あるいは更に もっと神秘的で霊的な、むしろ精神的な何ものかであるようでもある。視覚像といっても、実際にはそ の友人にも、その話を聞いた岩宮氏の脳裡にも、紅葉の幹や、一本一本の枝や、一枚一枚の木の葉が明 確な映像となって結像しているわけではないが、それでありながら、肉眼で見る現実の紅葉以上にすば らしい実在感をもって紅葉そのものを実感させるのは、われわれの生活体験を通して記憶圏に蓄積され た紅葉の像と微妙に照応交感しつつ紅葉の普遍性を、紅葉の姓とでもいうぺきものを一種の鬼気すら伴 うおもいでわれわれに実感させるからである。記憶圏といっても必らずしも過去に体験したものだけを 想い出すというのではなく、コトバが記憶圏の鍵盤をたたくのに応じでわれわれの直観と類推と想像力 が刺戟され、全く新しい何ものかが創造されるのを感じるのである。これがこの場合のイメージの実体 であり、同時にまた文学形象の本質であるといってよいのである。文学教育はこどもたちをこのような 世界に導き入れ、紅葉のいのち、かつそれを通して大自然のいのち、そして更に自分自身の人間のいの ちに触れさせるとともに、またひろく入生や社会的現実のリアリティにハッとするおもいで触れさせる ためのものである。問題は、どのようにしてこどもたちをそこまで導いて行くか、という点にある。

 そこで、たとえば視覚的イメージ(イメージにはこのほか、先にもちょっと触れたように、聴覚イメ ージもあれば、嗅覚イメージ、触覚イメージ、運動イメージ等々、いろいろのものがあるわけであるが、

普通文学作品の中に最も多く現われるのは視覚的イメージであるといってよい)を例にとってみると、

それが文学作品の中に現われる場合最も特徴的な事柄は、絵画や彫刻のように肉眼の視覚に直接訴えて くる映像ではなく、コトバの意味が描き出すところの映像であり、虚像であるということである。そし てこのことがまた、わたくしの考えでは、文学教育の落し穴でもあるのである。それはなぜかといえぱ、

作者はイメージを表現しようとしているのに拘らず、読む方の側では、こんにち一般にひろく用いられ

       一62r

(6)

ている文学教材の「読解」という用語一わたくしはこの用語を好まないのである・が一が悪く暗示する ように、作品の文章の単にコトバの持っ意味だけを迫り、一にも解釈、二にも解釈、そしてrわかった か」式の読解作業によって何もかもがわかったっもりになり、かんじんのイメージそのものは素通りし てしまっている場合が案外少なくないからである。

 具体的な実例でこのことを説明しよう。本学の卒業生で県中央部の中学校ですでに数年間勤務してい る人の研究授業をみせて貰ったことがあった。教材は魯迅作の「小さなできごと」であった。それは、

「わたしがいなかを出て、ペキン(北京)へやってきてから、またたくまにもう六年たった。その問、

耳に聞き、目に見た国家の大事なるものは、数えてみれば、実に少なくない。だが、それはわたくしの 心に、いささかの跡も残していない。(中略)ただ、一つの小さなできごとだけが、わたしにとって意 義があり、(中略)わたしは今でも、それを忘れることができない。」という書き出しで書かれている 物語である。ひどい北風の吹きまくっているある日、作者が人力車にのって急ぐ途中、まもなく目的地 に行き着こうとするところで人力車のかじ棒にひっかかってゆっくり倒れた老婆があった。先を急ぐ作 者の制止も耳に入れず、老婆を巡査派出所へ連れて行く車夫のうしろ姿をみて、「わたしはこのとき突 然一種異様な感じに襲われた。ほこりにまみれた彼の後ろ姿が、急に大きくなった。しかも、去るにし たがってますます大きくなり、仰がたければ見えないくらいになった。しかも、彼はわたしにとって、

しだいに一種の威圧めいたものに変わっていった。そしてついに、毛皮裏のわたしの上着の下に隠れて いる『卑小』を絞り出さんばかりにたった。」というくだりであった。それまで生徒たちを物語の中へ ぐいぐいと引き入れてゆく学習展開ぷりをみて、これまでは主として教育実習生の授業を見馴れている わたくしは、数年の現場での経験がこれほどものをいうものかとひそかに感心しながら授業ぶりを注目 していたのであったが、この物語のやま場ともいえるくだりになって、すなわち「彼(車夫)の後ろ姿 が、急に大きくなった」というところを、単に「偉い人のように見えた」という説明だけですましてし まったのを聞いて、すっかり失望してしまったのである。ここは、どこまでも、作者白身に見えたよう に「大きく」「去るにしたがってますます大きく」みえた車夫の姿を、生徒たちの胸にイメージとして きざみ込み、焼きつける工夫をしなげればならないところである。イメージは説明したり、解釈したり するものではなく、感じさせ、心に焼きっけさせるぺきものなのである。ところがこんにち、文学教育 の現場において、作品の「主題」についていとも簡単に解釈され説明され勝ちであるが、文学作品の主 題はしかく簡単に説明されるぺきものでも、また説明され得るものでもなく、人間性や現実(人生)の 普遍性とリアリティが表現によって形象化されたものそのものが主題なのであり、それをその生きかた ちにおいてこどもたちの心や脳裡に焼きつけさせることが文学教育の作業の終局の目標でなけれぱなら ないのである。そしてこのようにして文学的感動をもって焼きつけられたイメージや文学形象は、こど もたちのこれから先の一生の道程において、その生長の折々、置かれる境遇の節々に、いろいろの意味 をもって語りかけてくるものであり、作者白身にとっても作品の主題は創作をすすめてゆく過程におい て次第に成熟し、形象化してゆくものであって、最初作者が予想していたものとはすっかり違ったもの に変ってゆく場合も少なくなく、また作品が完結した後においてさへ、その作品の主題の意味のすべて が作者自身によって知りっくされているとは必らずしもいえない、文学とはそのようた深さと多面性を もった、現実を超えた現実そのものであり、人問を超えた人間性そのものなのである。この物語の作者

(魯迅)が物語の結末で書いている次のコトバは、よく文学的イメージのもつ永遠性をいい得ていると

いえる。すなわち、

・63・

(7)

       しのたまわ

 「この数年来の文治も武力も、わたしたちにとって、子どものころ読んだことのある『子日く』や

『詩にいう』と同様、一言半旬も記憶に残っていたい。ただこの小さなできごとだけが、いっもわたし の眼底を去りやらず、ときには前にまして鮮明に現われ、わたしを恥じさせ、わたしを奮いたたせ、さ

らにまた、わたしの勇気と希望を増してくれるのである・」

 それは、あの時「大きく」見えた車夫のイメージそのものであったはずである。作家の井上端も、中 学生のころ読んだ芥川龍之介の「トロッコ」の感銘を次のように書いている。

 r芥川龍之介の短編『トロッコ』を読んだ時の感銘は、私が文学作品から得た感銘の最初のものであ る。雑誌で読んだのか、作品集で読んだのか、あるいは副読本のようなものに収められたのを読んだの か、全く覚えていない。中学二、三年生の時ではなかったかと思う。(中略)この作品を読んで、作中 の少年が全く自分であるという驚きは大きく、その驚きは、いまもかなりあざやかに思い出されてくる。

少年の気持ちも、少年の行動も、全く目分のものであり、自分がかってやったことが、あるいはいっか 自分がやるかも知れないことが、ここには書かれてあるといった気持ちだった。『母を恋うる記』や

『鼻』はおもしろかったが『トロッコ』はおもしろくなかった。ひとごとではないという気がした。少 年の私はこの作品によって、初めて人生に触れたのかも知れない。」

       (2〕

 しかしこの感想は、「トロッコ」を初めて読んだ中学二、三年のころの感銘そのままではない。その 後の半世紀に近いこの作家(井上)の人生経験の分厚い歳月のレンズを透して語られているのである。

 話は元へ戻るけれども、なぜこの研究授業のように、説明と解釈のためにイメージが素通りされるよ うなことが一しかもこのような例を、わたくしは教生の研究授業では始終見せっけられているのであ るが一起るのであろうか。それは、簡単に一口に云えば、科学的な文章は記述し説明するものである のに対して、文学の文章は「表現」するものであることへの理解が徹底していないからである。

   荒海や佐渡によこたふ天河

 この芭蕉の俳句は、単に嘱目の情景を説明しただけのものではない。荒涼たる小宇宙を表現している のであり、同時にその下に停む作者の人間存在と、作者の内面の詩を、「荒海や」 「佐渡に」「よこた ふ」「天河」と、はずみとリズムをもったコトバをつみ重ねてゆくことによってイメージに造型し、つ まり「表現」しているのである。(七夕の伝説に結びつけて佐渡の流人に想いを寄せる芭蕉の働突の詩 であるという見餅あるが・ここでは通説こ従って為 )ここではコトバは説明語ではなく・表現語と

して生かされており、イメージを結晶させるためのバネや電気ボタンの役目を果しているのである。現 代詩や現代短歌のいわゆる「前衛派」といわれるひとびとが叙述語を極度に切りすて、直輸や暗愉の象 徴語法による名詞のづみ重ねや衝撃によってイメージの表現効果を高めようと試みているのも、「説明」

への陥穽に落ち込むことを極力避けんがための努力であるに外ならない。

 文学を楽しむということは、文学作品に形象化された人間性や人生の真実に触れる感動であるととも に、作者とともに表現の内側から作品を形象化してゆく表現のよろこびを味わってゆくところにあるの であって、表現を離れ、表現とは別に、文学作品の意味や内容があるのでは決してないのである。この ことを更に文学教育に即して云えば、文学作品は説明してわからせるものではたく、こどもたちの胸の 扉をたたいて感じとらせるものであり、それへの過程的手段としてコトバの意味を解釈したり文脈を説 明したり、人物の心理を解剖したりすることはあっても、必らずその都度文章の表現まで立ち戻ること を忘れてはならないのである。そして終局の目標はこどもたちの脳裏に作品の形象を焼きつけ刻み込む ことであって、それを解釈することではないことを忘れてはいけないのである。

一64一

(8)

 教育実習生の研究授業の指導案をみると、紋切型のように「表現に即して人物の心理の変化を読みと る」といったことが学習目標として掲げられているのであるが、さて実際の授業をみると、残念ながら、

かんじんの表現のポイントをはずしている場合が甚だ多いのである。具体的な例を、今一つあげてみよ う。学級は附小六年生、教材は新美南吉の代表作「おじいさんのランプ」。教生は女子学生で、平素か ら文学に関心をもっており、授業もや椚出走気味のきらいはあったが、国語科にふさわしいキメの細か さと明断さをもって物語を展開して行った。やがて物語の最大のやま場ともいうべき箇所にさしかかっ た。主人公のランプ屋の巳之助が村に電燈がひかれることに決ったことに逆上して区長の家に火をつけ ようとするが、ある転機によって目が覚め、文明開化の時代に順応して生きて行こうとする心健転換の 場面である。ここのところは、作家としても最も力を入れなければならない正念場であって、この尤澤 転換の必然性が緊密に表現しきれなければ作品は単なる作りものとなり台なしになってしまうところで ある。先ず原文を引用してみよう。

 「已之助はマッチの代わりに、火打ちの道具を持って来た。(中略)巳之助は火打ちで、火を切り始 めた。火花は飛んだが、ほくちがしめっているのか、ちっとも燃え上がらないのであった。(中略)

『チエッ。』と、巳之助は舌打ちして言った。『マッチを持って来りゃよかった。こげな火打ちみてえ な古くせえもなあ、いざというとき、まにあわねえだなあ。』そう言ってしまって巳之助はふと自分の ことばを聞きとがめた。(傍点は筆者)『古くせえもなあ、いざというときまにあわねえ………古くせ えもなあ、まにあわねえ………。』ちょうど月が出て空が明るくなるように、巳之助の頭が、このこと ぱをきっかけにして明るく晴れてきた。巳之助は、今になって、自分のまちがっていたことがはっきり わかった。一ランプはもはや古い道具になったのである。それだけ世の中が開けたのである。」

 わたくしは、傍点を附した箇所がこの文章のかんどころであると考え、指導者(教生)はここをどの ように処理するか、固唾を呑んで期待していたのであるが、指導者は「聞きとがめた」というところを、

「自分のコトバを味わった」という風に説明して簡単に通り過ぎてしまった。わたくしはまたここでも 失望しなければならなかった。「とがめる」というコトバは、正しい者が間違っているものに対して用 いるのが普通である。ところがこの場合は、巳之助は自分の商売が駄目になるという自分だけの利害に 目がくらんで頭が間違ってしまっているのであるσそして思わず自分の口からとび出した「正しい」コ トバをおやと聞きとがめるのである。これは逆説的なコトバの使い方をしてあるわけであるが、この文 章の前の方で、巳之助は精神的に何回か「脳天に一げきをくらって」、「頭がどうかなってしまった」

ことが書かれているのである。これはかなりユーモラスな書きぶりであって、作者も読者も共に巳之助 にある種の親近感を持つように書かれているわけである。その雰囲気がそのまま尾を引いてこの逆説的 な「聞きとがめる」というコトバの使い方によって、主人公巳之助の邪から丘へ、狂気から正気への心 理の転換を極めて自然に、且つ必然性をもって、しかも人間的な温かみをもって表現することに成功し ているのである。更に附け加えて云えば、「聞きとがめた」というこの大切な表現を挟んで、主人公は

「古くせえもなあ、いざというときまにあわねえ」というひとりごとを三度くり返えしているのである が、三回ともそれぞれ違った気持をこめて云っているのである。すなわち第一回目は《思わず知らず

自然1こ口からとび出した無意識状態で》第二回目は《自分の無意識のコトバに気がついて、おや、

といぶかるように、自分で自分のコトバを味わっているようにゆっくりと》そして第三回目は《確 信をもって決然と》云い放っているのである。これが芝居であると、名優ならばハッキリ三通りに台 詞を云い分ける演技の見せどころであり、大向うの声のかかるところなのである。こうしたところも充

一65一

(9)

分こどもたちにわからせるようにしたいと思うのである。この表現の妻ともいうべきところを充分に押 えておかなければ、物語の最後の場面で五十いくつものランプに火をともして池の岸の上に吊るし、そ れを石で割って行く最大の劇的シーンもつくりもののようになって、物語の結末の感動が自然に盛り上 がって来なくなるのである。こうしたいわぱ文学作品の急所を見落として素通りしてしまうということ は、文学作品を作者とともに表現の内側から読みとる構えが出来ていないからなのである。文学作品の

「表現」ということがらについて、作家自身のコトバを一、二間いてみることにしよう。先ず、モーパ ッサンの言葉一

 r自分が表現しようと望む事柄を、未だ誰も見たり言ったりしたことのない側面をそこから発見する ために充分に長い間、細心の注意をもって観察しなければならない。どんな事柄にも未だ調べられてい ない点があるものだ。なぜたらわれわれは、われわれ以前にほかの人が、われわれがいま見ているもの にっいてどう考えていたかをただ思い出しながら自分の視覚をはたらかすことに慣らされているから。

きわめて微々たるもので参って.も何かしら未知のものを内包している。それを発見しようではたいか。

燃えさかる火を、赤るいは平野にある一本の樹を描くために、それがわれわれにほかの樹、ほかの焔に 似たものに見えることをやめるまで、この火、この樹のまえに立っていることにしよう。」(4)

 次に、フローベルのコトバ。

 「書くということ、自分というもののなかに閉し=こめられずに、目分の語ろうとする世界ぜんたいを 天翔けるということはなんとすばらしいことか。たとえば、今日わたしは同時に男であり女である、情 夫であり情婦である一秋の午さがり、もみじに黄はむ木のした道を騎馬で森に散歩にでかけた、そし てわたしは馬であり、木の葉であり、風であり、発音される言葉であり、そして恋になやむまなこをつ

ぶらせる真紅の太陽であった。」(5)

 文学作品を表現に即して読むということは、すなわち、作者と一緒になって想像の翼に乗り、男とな.

り女となり、馬どたり、木の葉となり、風どたり、発音される言葉となり、真紅の大陽となることであ る。わたくしは先に人間形成の教育の角度からみた文学教育の現代の任務が「人間回復」の教育である ぺきであることをいったが、ここで更に一歩進んで、文学作品を正しく読むことによってわれわれは自 分たちひとりひとりの個人の殻を破って「他者」の立場に立ち、しかも自分自身の場合と同じ様に、も のごとを、世界を、見ることができるようになるわけである。これは「新しい人間関係」の可能性を約 東する、文学教育の第二の大きな任務であるといってよい。

 わが国において現在行われているいくっかの文学教育理論とその学習指導の実験・実践の試みの中で、

わたくしの知る限りにおいては、時枝誠言己氏の文章過程説を踏まえて横浜市立奈良小学校を中心に実践 されている「一読総合法」はいろいろの点で最も注目すぺきもののように思われる。その詳論はここで は避けるけれども・たとえば学習過程においてrテレビ化」(情景や人物をこどもたちにテレビの画面を 見るように想い描かせるイメージ 化の作業)や「話しかえ」(作中人物一心らずしも人間とは限らな い。動物でもよいのであるが、一の任意の一人になったつもりで、その人物の角度から物語を話しか えさせる) 「表現読み」(学習の最後の仕上げとして感情をこめて表現的に朗読させる)などがとり入 れられていることは、文学形象の正しい理解を前提とした学習指導の試みであることを暗示しているよ

うに、わたくしには思われるのである。

 以上述べて来たことによって、本章の冒頭においてわたくしが掲げた設問のうち、第一の、文学教育

の目的はこどもたちに何を教えるものなのか、についてのわたくしの考えを一通り明かにしたはずであ

      一6.6一

(10)

二が、念のために今一度・繰り返えして要約すれば・文学教育の目的は、日常の利害や打算や習慣性の 汚れを拭い去った純粋でハダカの人間の眼で文学作品に形象化された人間性や現実(人生)のリアリテ■

イを表現に即して形象として読みとる方法と能力をこどもたちの身にっけさせることであり、更に進ん でそのように現実を文学形象的に認識する眼を育てることである一、ということができる。そこでわたく

しは、第二の設問、こどもたちのどのような素質を伸ばし育ててゆくことなのか、について、論を一歩 進めなければならない。

 先にもちょっと触れたように、人間の現実認識の仕方には大別して二つのバターンがある。一つは知 的.分析的.抽象的な認識能力であり、今一つは直観的・総合的・.創造的なそれである。極めて常識的 で大雑把な云い方をすれば、科学や数学などの学問は前者に関連し、文学や美術などの芸術は後者の認 識能力を基盤としていると考えられている。そしてこの後者の直観的認識能力の一番根底にはたらいて いるものが・湯川秀樹博士のコトて許借りれば・図形認識能力と呼ばれるもので狐それはどういう 能力がというと、人間が一瞬にして人の顔を識別出来る能力のことである。われわれが生活経験を積み 重ねて行くうちに、図形認識による体験とそれに対するある種の知的操作をくり返えしてゆくことによ って、この図形認識力は次第に磨かれ、且つ層の厚いものに深められて行って、複雑な現実の本質をも 直観的に見透すことが可能になるのである。科学や数学はそれとは全く無縁がというと、決してそうで はなく、古来科学や数学上の大発明や大発見のそもそもの原動力をたしているものはこの直観的な図形 認識力であって、たとえばニュートンが万有引力を発見したきっかけはリyゴの落下現象を視たことで あるが、それは自然との直観的対話のうちにこの図形認識力がひらめいたからにほかならない。ただ二 流、三流の科学者はこの根源的な自然との対話を持たず、一大科学者の直観力が生んだ法則の結果だけを 土台に借用してそこから知識と数字の操作だけで先細りの道へ入り込んで行くのである。日本の科学者 の場合が多くそれで参り、今流行の技術革新も結局根無し草の改良主義の小手先芸が器用なだけで、真 の創造は何一っ生れて来ていないのカ:現状だと云われている。これとは少しくニュアンスが違うけれど も、数学のようだ数字だけの知的抽象世界においても、「数学の体系に矛盾がないというためには、ま ず知的に矛盾がないということを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者がみなその結果 に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学とはいえ狂いということがはじめてわかった」

 ン 岡潔博士も云っているのである。いずれも近代的合理主義精神の行詰りの自覚とそれからの脱出

(7)■

の方法としての直観的創造的な人間性回復への道が切実に探し求められていることを物語っているので

ある。宇宙ロケットが飛び、人間の計算能力の何千倍の速さをもって電子計算機が活躍する現代の文明

や文化も、これを巨視的にみれば人間衰弱の症候の覆うぺくもないという事実は、人間が自然から引き

裂かれているからだという自覚がこんにちほど強く痛切に感じられ出した時代はかってなかったといっ

てよい。一口に云えば「自然に還れ」ということであるが、もっともこんにち単純に自然に還ることが

ある面では現実からの逃避をしか意味しないという矛盾もあるのであり、そこに現代の不幸とその症状

の深さがあるわけであって、その病名は「人間疎外」といわれているものである。しかしいずれにして

も、人間疎外から脱出するためには引き裂かれた自然と人間との間に今一度橋を架け渡す車外に道はな

いのであって、この架橋の役目を果たす能力として、人間本来の直観的図形認識力が重視され出したの

である。つまり疎外された人間の視点から自然や現実の全体像を回復するためには、この図形認識力を

基底とした直観力によってイメージの橋を架ける以外に方法がないことがわかって来たのである。それ

       みつ ば宇宙空間の一角を落下するリンゴを凝視めたニュートンの眼をとり戻すことである。人間をその奴隷

      r67一

(11)

と化しつつある機械文明の最新の花形・電子計算機といえども、人間のもっているこの直観的図形認識 力だけは持ち得ないといわれている。云い替えれば、図形認識力こそ人間を真に人間として機械から区 別し、機械の主人の座にあらしめる唯一の能力だとさえ云えるのである。この図形認識力によって認識 される直観像は、最初は極めてぼんやりとした、薄明の中の物像のように不透明かっ流動的なものであ るが、その経験がっみ重ねられるうちに不用のものは捨象され補正され、更にそれに人間の知的思考の 照明がはたらいて、漸次明確な結晶をとげたものがイノージであり、その高度のものが文学的イメージ である。そしてこの知的思考はすべてコトバを媒体として行われるのであって、従って文学的イメージ は具象そのものではなく、何らかの意味で抽象的・虚構的であるとともに、コトバを媒介することによ って作者の世界観や思想を、そして更に作者の情緒をも含んでいるのである。エリオットの「イメージ とはバラの香りで包んだ思想の等価物で渉る」というコトバは正にこのことを云っているのである。文 学教育によってこどもたちの中に育てて行こうとする素質とは、正にこの図形認識力であり、それを基 底として直観・想像力と知性と情緒の調和のとれた全人間的な眼、すなわち「文学視」を育だてて行く ことこそが、文学教育の目標で赤るといえるので赤る。(ただし、「文学視」の育成といっても、何も 小説家や詩人だけを養成するという意味ではない。)

 テレビと漫画はこんにち教育ママたちの非難の的であり、こどもたちの知的思考力と学力の低下の張 本人の如く嫌われているけれども、罪はむしろ現在のそれらがもつ内容の貧困にあるのであって、テレ

ビや漫画がこどもの図形認識力に及ぼす影響にはプラスの面も決して動くないはずである。ただ先にも 書いたように、イメージの本質は現在知覚の対応物を持たない虚像である点にあるので参るが、テレビ や漫画はそれら自身f又象で赤り乍らも現に見る者の知覚に直接はたらきかける何ものかであって、見る 側ではそれによって主体的にイメーソを造型するというよりはむしろ受身的な姿勢をとり勝ちな性格の あることもまた事実であって、その点文学はコトバを媒介して伝達されるものであるために、読者の主 体性があって初めてイメージは生かされるので赤り、更に文学は、全人間学とか人間工学とか呼ばれる ように、直観的図形認識力を基底とした想像力に知的思考の照明と、情緒の潤おいとを加えた全人間的 な形象性を特質としているものであるが故に、現代のような人間疎外の時代における人間形成の教育と して最も望ましい教材であるにも拘らず、これまではややもすると文学の最も大切な特質であるところ の形象性やその基盤となる図形認識カベの関心が、解釈一点ばりの国語教育によって不当に歪められ、

等閑視されて来たきらいがあったのである。今や文学教育は、図工・美術などの関連教科と協力し、教 育学や心理学の援護を求めつつ、幼稚園から小・中学校および高等学校に至るまでのこどもたちの発達 段階に応じて、その図形認識力を伸ばし高めて行くための学習課程の系統化を考えなければならない必 要に迫られているのである。そしてこの学習作業はすべてコトバを通して行われるものであるから、わ れわれは全く新しい視角から「コトバ」の問題に当面して行かなければならないのである。(未完)

謡1〕チモエーエフ著、東郷正延訳「文学理論」(1〕90頁。(2廠売新聞大阪本紙版「わが青春の書」か

 ら。(3〕安東次男著r芭蕉」。(4〕チモェーエフr文学理論」(1〕72頁。(5〕64頁。(6腸川秀樹、市川

 亀久弥著「生きがいの創造」。(7)岡潔、小林秀雄著r人間の建設」39頁。

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参照

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