学位研究 第3号 平成7年 6月 (論文)
〔学位授与機構研究紀要〕
日本 におけ る経済社会 の拡大 と学校教育
JapaneseSchoolEducationCopingwithEconomicGrowthofSociety
黒 羽 亮 RyoichiKurolla
Reseal・cIH'llArade/〝icDegrees,No.3(June,1995)[thearticle] TheJournalofNationalInstitutionforAcademicDegrees
日本 におけ る経済社会 の拡大 と学校教育
‑ 教 育 立 国の実 と虚 と‑
黒 羽 亮 一*
は じめかこ
Ⅰ.第二次大戦前 1. 初等教育
階層格差 のない教育制度の発達/義務教育 (初等教育)の普及/教員教成への格段の配慮/
師範学校の内容 と師範 タイプ/国定教科書の役割/国家教学の役割 2.中等教育
i
中学校 と高等女学校/実業学校/準中等教育 (高等小学校 ・実業補習学校 ・青年学校)/離 陸期の中等教育のモデル
3.高等教育
一 兵学的だ った帝国大学/専門学校 と私立大学/1918年大学令の意味/臨時教育会議 と枢密院 /高等教育の社会的評価
4. 教育費用か らの検討 i
公財政支出教育費/義務教育費の問題/1940年体制 と教育界
Ⅰ.第二次大戦後 I
1.633細 Jのもとでの拡大
第二次大戦後の概況/義務教育年限の延長 と単線型の学校体系/背景 としての農地改革 と労 I i
働基本権の確立/戦時社会政策の継続両 (中等教育 ・高等教育)/国民の教育要求 と政策の一 致 と矛盾 (政令改正諮問委員会答申 ・日経連の要求)
2. 経済の高度成長 と教育≡
国民所得倍増計画 と教育計画 ・実績/教育投資諭の内外の背景/人的能力政策 (マソパワー ポ リシー)の発想 と挫折
3. 教育拡大にはた した私学の役割 高校/大学 と短大
4. 教育拡大にはた した政策の役割
大学設置基準の運用加減/研究大学の大半は国立/国立大学における理工系の拡充/工業高 等専門学校/教員数成政策
5,地域格差の是正 中等教育/高等教育
*学位授与機構教授 ・審査研究部長
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は じ め に
19世紀末か ら20世紀前半にかけての 日本の発展の大 きな理由として, 日本の中で も,また外国に おいて も,その学校教育の効率的普及が賞揚 され ることが多い。そ して政府の学校教育政策が適切 な ものだ った として 「教育立国」 とい う言葉が しば しば使われている。 これはかな り古 くか らの傾 向だが,1960年代になってUNESCO (ユネスコ)やOECD(経済協力開発機構)などで教育 投資論的な見方が経済発展政策の課題 となると,相当程度に実証的に主張 され るようになった。
た しかに,教育政策 と行政のはた した役割は大 きか った。初等教育の普及充実に関 しては,国定 教科書を通 してのカ ])キ ュラム行政の適切 さ,教員の養成 と確保の徹底策など先進諸国に例を見な い行政が多か った。
中等教育では普通教育のほかに,実業教育 (職業教育ない し産業教育 と言 って もよい)や勤労青 少年 のための定時制の教育が きめ細か く行われて,多数の国民の基礎的な能力を開発 して行 った。
高等教育は この時代には量的な発展は乏 しか ったが,帝国大学 ・官立大学 と多数の私立大学及び 官公私立専門学校 との二本立,最近 よく使われる言葉でいえばノミイナ 1)一 ・システムが国家社会の 発展に効率的な役割を果た した ことは,各国 と比べて特筆すべ きことだろ う。
しか し,学校教育の効率的普及が近代化 ・現代化にはた した役割は大 きいに して も,その普及が, すべて 「教育立国」 とい う言葉に象徴 されるような政策展開に よったわけではない。国民所得 と対 比 しての公財政支出教育費の割合は,ほぼ欧米先進諸国なみで,多 くも,少な くもない とい うとこ
ろだ った。
学校教育の普及 と発展には,それを可能に した誘導政策はあったに して も,多 くは国民の教育熱 を反映 した地方 自治体の努力に よ り, また民間人の旺盛な教育事業 (私学)によって達成 されたの である。その旺盛な教育事業は,江戸時代末期の寺小屋の発達や識字率の高 さに象徴 されるような, 明治期以前の教育ス トック (蓄積) と,国民の実利主義的な教育観に依拠 して,可能だ った もの と 見 ることがで きる。
以下,そのことを示すに足ると思われ る事実を,初等,中等,高等各教育段階 ごとに紹介 しつつ, 論評 してい くことにする。 したがって, 日本教育史の概説的事項の記述は, この趣 旨に必要なこと 以外には言及 されていない。
Ⅰ 第二次大戦前 1.初等教育
(ア) 階層格差のない教育制度の発想
日本の学校教育制度は1872(明治5)年の 「学制」に始 まるが,その時期は当時の先進地帯であ った欧州に比べてもそ う遅いものではない。 イギ リスで政府が,庶民の教育に当る民間宗派団体に 補助金を交付す るようになったのは1833年で, これが学校教育への政府の最初の関与であるとされ ている。宗派立学校不在の地区に公立学校を設け,学齢児童全員に就学を義務づける初等教育法を 制定 したのは, 日本の学制の僅か2年前 の1870年である。 しか も日本では近代学校は宗派 と関係な
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く,その当初か ら地方 自治体が世俗的立場にた って,全国を均質 ・画一的に,義務教育 として発展 させ ようとい う発想に依拠 していた。
学制は,全国を8大学区に,1大学区を32中学区に,1中学区を210小学区に分けようとい うも のだ った。小学区 ごとに小学校を設けて,全国で53,760校 としようとい うものだ ったOそ して学制 前文では 「必ず邑 (む ら)に不学の戸な く,家に不学の人なか らしめん事を期す」 と,その希望を 表現 した。 この点,地域差が大 きく,宗派の影響 もあ り,また庶民大衆のための初等教育 と支配階 級のための教育 との相違が続いて,国家的な規模の統一学校思想 ・運動がまだ全国に及ばなかった 欧州主要国 との相違があった。
統一学校思想 ・運動は欧州教育史の常識的事項だが,本稿の理解の便宜に要約 しておこうO欧州 諸国では国民大衆の初等教育 と中 ・上流階層の高等教育 とは発生を異に していた。後者は中世以来 のもので,12世紀のポロエアやパ リの大学が よく紹介 されるように,まず高等教育が存在 していた。
中等教育はそのための古典語準備教育 として整 って行ったことは gammarschoolとい う呼称に残 存 している. さらにそれに初等教育を合わせた全寮制の学校 とか,あるいは家庭教師の援助に よっ て初等教育 も存在をあらわに した。いわば 「上か ら下へ」の学校化である。 これ よ り後に近世啓蒙 思想 の発生 とともに,国民皆学に よる生活文化の向上が課題 となって きた。 また経済の発展に よる, 盛業主導社会か ら工業主導社会への転換は,労働者大衆に 3Rs(reading,writting,arithemetic)
\ I ど
の習得の必要性を高めて,各国にvolksschule(国民学校, ドイツ)的な学校を発達 させた。 この
喜 J
大衆の初等教育は,社会の発展に伴 う個人の能力向上 と上昇指向 とか ら,中等教育への要求を持つ し \lI
ようになった。 「I‑ I 下から上へ」の学校 の発展である。統一学校運動 とは思想 としては,二つの学校̲ ‑ J の発達方向を合体 させ ようとい うものであると総括でき,各国に よりその展開方法を若干異に しっ; Ii (l L \ つ も,大体において19世紀末か ら開始 されている。第二次大戦中まで続 き,戦後漸 く労働者の子女
l
の大学進学が珍 しくな くなった。 しか し,なお統一学校運動を必要 とす るような国民の意識が残存 している。 (『新教育学大辞典』第‑法規など)
■
t(イ) 義務教育 (初等教育)の普及 し
就学年限については,学制は下等小学i (6‑ 9歳),上等小学 (10‑13歳)の計8年 として い た が これは理想だった。 よ り期間が短 く,定時制的な貴人小学,村落小学,女人小学なども併せて示 して, ともか くも学校教育の普及を図 って行 った。それで も普及の速度は緩慢なので,1879年の教
い
育令では 「4年間にわた り計16カ月」を最低基準 とした。1886(明治19)年の小学校令では,義務 制である尋常小学は3‑ 4年,それに高等小学が2‑ 4年 とした。
初等教育の普及状況をみると,1900(明治、33)年 ごろまでほ就学率は決 して高 くなかった(図1)0 6,7歳の少年はすでに家内労働力であ り,その就学を きちう父母 も多か った。 また不就学者の父 母には,江戸時代に寺小屋でおこなっていた ような 「読み ・書 き ・そろばん」の習得は必要 と考え て も,西欧的な近代学校を拒否するとい う姿勢の者 もあった。 ごく一部の地域では,徴兵拒否運動 のように,就学拒否運動 も見 られた。 また,行政の側に も必要なだけの学校を設置できかね るとい
1
う事情があって,神社 ・寺院 ・個人な どが経営す る私塾を代用小学校 として認めて,就学率の向上 を囲 った。
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図1 男女別の義務教育就学率の推移
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しか し経済社会の発展 とともに,近代学校教育の意義が国民に浸透 して きて,義務教育は普及 し た。 日本の産業革命の時期は1900年 ごろ といわれ る。その数年前には清国 との戦争 (日清戦争)が あって,台湾 とい う鏡土 と賠族金の獲得があった。 また数年後には中国 ・東北部 (満州)を戦場 と した ロシア帝国 との戦争 (日露戦争)で,辛勝 している。 この ような形での国際社会への進出に伴 った経済の拡大が,学校教育の普及を もた らした。 この時期になると市町村は学校の充実に格段 のi 熱意を示す ようになった。校地や校舎の材料の木材は,入会地 (公有地)や大地主か ら無償捉供 さ
I
れ,大工をは じめ,無償の労務捷供が行われた。 1
1908(明治41)年に,義務制の尋常小学校が6年制にな り,それに2年制の高等小学校が接続す ることになった。 さらに1920年代 (大正中期)か ら,義務教育を8年制にすべ きだ とい う意見が各 方面に強 まった。 この時期には実体 として も12,13歳児の8割程度は中等教育諸学校や高等小学校 に進学す るようになっていたo Lか し政府 の財政事情 のために,戦前期の旧学制時代にはそれは実 現 しなか った。1941(昭和16)年に小学校令は国民学校令に改め られ,義務教育年限は この時期 に
8年 と定め られた。 しか し, まもな く太平洋戦争 となったために これは実施 されなか った。
(ウ) 教員養成への格段の配慮
教育立国の成功を強調す る立場か らほ, 日本が教員養制制度 の確立に成功 していた ことが,往 々 に して指摘 され る。1945年以前 (戦前) の 日本の学校教育制度は,学制開始か ら10余年 の試行錯誤 を経たのちに,1886(明治19)年に初代文相の森有礼に よ り制定 された諸学校令に よって,その骨 格が定 まった。そこには帝国大学令,小学校令,中学校令 とともに師範学校令がある.森有礼は文 相就任直前に埼玉師範学校で行 った演説で, 「師範学校で生徒を完全に教育で きたな らば,普通教 育の事業は9割達成できた といえよう,教育は教員に人を得 なければ,資金があって施設設備が よ
くて も成功 しない」 とい う趣 旨を述べている。教員養成学校 について独立の勅令を設けたのはその
現れである。
政府は教員養成について,初期か ら計画養成,兵役上の特典,給費制度 とい う3点の配慮を行っ ていた。1883(明治16)年の師範学校通則で 「学齢人 口1,500人に1人」 の割合で,師範学校の入 学定員を定めることに した。 「1学級70人 ・平均在職20年」 として必要な教員数を計算 した もので ある。 この ような計算方法は,若干の修正はあったが,1945年以降に旧制度が廃止 され るまで存続
した。
兵役は一般には陸軍で現役2年間だ ったが,満26歳以下で師範学校を卒業 して教職にある者は, 6週間で よかった。 しか も除隊後は,普通の者な らば召集 され る可能性のある予備役なのに,教員 の場合はその可能性のきわめて薄い国民兵で よか った。
給費制度 としてほ全員授業料免除の他に,学費 ・生活費の給与制度が取 られていた。 「私費生を 置 く場合は,設置者である知事は人数を定め文部大臣の認可を受ける」(文部省令) とされていた ほど,給費が原則だった。ただ,その代償 として給費期間の1.5倍の就職義務年限があった。不景 気の時期に金額が減 じられるなどの変動はあったが, この制度 も旧制度の最後 まで存続 した。
第二次大戦後はこれ らの制度はな くなったに して も,文部省は現在に至 るまでその精神を受け継 いで,教員の養成 と行政には格段の配慮を図 っている。
(エ) 師範学校の内容と師範タイプ
次に師範学校の内容の特質 としては,第1に教授方法の練習 と研究,第2に教育者的な人格の形 成 と教養の滴糞の 2点があげ られる。前者について見れば,師範学校の教育課程は,普通教科につ
.I
いては中等学校程度の教育を行 うほかに,倫理学 ・教育学 ・心理学を課 し,さらにI 3カ月以上の教 育実習を行 うとい う過密なものだ った。ただ,外国語 (英語)の授業時間が中学校 よ り少な くて,
これが将来人文 ・社会科学系の研究者 となる場合の‑ソデにな りがちだ った。
師範学校には附属小学校が設け られていた。その教員は当該師範学校の設置 されている府県内の
j し
すべ七の教員の模範的教員 とされ,附属学校の教育を通 して県全体の教授方法の水準の向上を囲っ た。附属学校は師範学校生徒の教育実習の場であるだけでな く,府県のカ リキ ュラムセソクーであ
∫ 〜
り教員研修セソタ‑だ った。師範学校令には 「師範学校長は府県の学務課長 (教育行政の責任者) を兼ねることを得」 とい う規定 もあった。
高等師箱学校は,その師掩学校の上級学校であって, 「教育の総本山」 と称 された。東京高等師 範の附属小学校が1903(明治36)年以来発行 している, 『教育研究』 とい う雑誌が残 っている。そ の初期の ものを見ると,教育方法や教材の研究が, 「既に完成段階ではなかろ うか」 と思われるほ ど,特赦 になっているさまが窺える。 また,この雑誌には高等師範学校教員の海外研修の報告記な どが, しき りに掲載 されているが,それ らによると,師範教育の中心にいた人 々の能力 と研究意欲 のきわめて高いことが明 らかになる。
もっとも, これはiLi!J度の問題 とい うよ りは社会全体の発展段階にかかわ ることである。農業国家 か ら工業国家に移行 したばか りの段階では,知的に優れた者の職場はまだそれほどに多 くない。農 村の知能の高い者に とって,師範学校は中学校 に次 ぐ有力な進学先だった。教員の給与は決 して高 額ではなか ったが,徴兵制度においても特典があ り, 自宅の近 くに勤務で きる教員は,安定 した職
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業であった。社会のある段階では,教員は第一級の職業であるとい う傾向は,各国に多少 とも共通 しているが, 日本では と りわけ原著だ った。
∫〜
当時 の師範学校出身の優れた者は, さらに高等師範学校に進学 して,卒業後は師範学校教員や教 育行政家になった り,人文学 ・理学の諸学の研究者 となった者 も少な くなか った。中国では清朝 の 末期に近代学校制度を開始 したが,多 くの師範学校や高等師範学校卒業の日本人が,その教員 とし て雇用 され るとい う状況が約10年はど続いた。 これは地理的な近接 さと欧州人 よ りは 日本人の方が 中国の文化を理解 しやすいことに よろ う (阿部洋 『中国の近代教育 と明治 日本』福村出版)。
師範学校出身者の少数は,教育界を離れて,政 ・官 ・財界に活躍することもあった。 ごく一例を あげてお く。三土忠造 (1871‑1948)は高等師範教授,韓国政府参与官ののち1908年に政友会代議 士 とな り,昭和戦前期に文部 ・大蔵 ・逓信 ・鉄道 ・内務各大臣を 歴 任 した。 五 島 慶 大 (1882‑ 1959)は鉄道官僚か ら転身, 「東急」 とい う私鉄敷設,住宅地造成を軸 とした コソツェルソを形成 し,一時は運輸大臣に就任 した。大久保留次郎 (1887‑1966)は内務官僚にな り,第二次大戦前に 千葉県知事,東京市長を経験 した。俄後は代議士にな り国家公安委員長,行政管理庁長官等に就任
した。
第2の教育者的な人格の形成については, 「人を導 きて善良ならしめるは,多識ならしめるに比 すれば さらに緊要な り」(1881年,小学校教員心得), 「生徒を して順良 ・信愛 ・威重の気風を備え しむることに注 目すべ きもの とす」(1886年,師範学校令第1粂)などとい う表現が,その内容を 象徴 しているものとされている。 しか し, 「順良」は権力や上司への卑屈に連な り, 「信愛」は派 閥意識 とな り, 「威重」は生徒や父母に対する偽善やか らいは り粒な りがちと言われ る場合 もあっ た。 この特質に対 して, 「師範 タイプ」 とい う批判的な言葉 も流布 していた。
師範学校は当初は一般の学校嘩系 との接続がなかったがI ,1910年代に高等小学校に接続する5年 間の 「第1L部」 と,中学校に接続す る2年制の 「第2部」 の並存が標準形態 となった。いずれにせI よ修業年限は中等教育 よ りは長いが高等教育 よ りは短 く,その延長 と昇格が待望されていた。それ に1930年代にな り日本経済が発展 して,産業界に青年の需要が増大すると,教員はそれほど魅力の ある職業ではな くなってきた。師範学校進学者の競争倍率は低下 し,資質の高い者を多数集めるの は困難になった。 このため1943(昭和18)年に,師範学校は府県立か ら国立に移管 され,中等学校 に接続す る三年制の専門学校 となった。 この ような改革を したに もかかわ らず,戦後 の学制改革を 検討 した教育刷新委員会では師範教育は強い批判を受けた。人格の形式的面を重視 したあま り,一 般教養を身につけることは疎かにされた と批判 された。そ して,教員養成は一般の大学で行 うのが 原則 とされることになった。
(オ) 国定教科書の役割
教員養成 と並んで,戦前期において初等教育を成功 させたのは,国定教科書による教育内容 ・技 術の革新 と教学の統制が行われた点である。初等教育 (小学校)の教科書は1903(明治36)年に小 学校令が改正 されて,国定制度 となった。その前年に教科書の採択をめ ぐる全国的な汚職事件が摘 発 されたが,それが契機だった とも,国定化を前提に汚職の摘発があった とも,教育史上,真実は 確定 していない。いずれに しても翌04年か ら修身 ・国語 ・歴史 ・地理が,05年か ら算術 ・図画が,
11年か ら理科 の国定教科書が使用 された。 ほぼ同時 に,教員 のためには国定教科書に準拠 した,内 容 の きわめて豊富 な教師用書が作 られた。授業 にのぞむ教員は教材研究を積極的に しな くて も, こ の教師用書を活用すれば,十分に充実 した授業 を行 うことが可能だ った。
一種塀 の国定教科書に よ り,全国の児童 の意識が統一 され る状況は各国に見 られない ものであっ た。小学校1年次に使用 した国語教科書 の最初 の教材に よ り,世代を識別す ることが最近 まで行わ れた。 「タコ ・コマ ・‑ ト・マ メ」(1904年か ら)世代, 「‑ ト・‑ ト・マ メ」世代 (18年か ら,
「サ クラガサイタ」世代 (33年か ら), 「アカイ ・アサ ヒ」世代 (41年か ら)であ る。
この よ うな教科書を作成す るために,文部省 の図書局 には,図書監修官 とい う専門職が配置 され ていた。多 くは帝国大学や高等師範出身で,それに現場 の優れた教育者が嘱託 として協力 した。作 成 された原稿は陸 ・海軍を含む各省,貴 ・衆両院,それに帝国大学教授 の代表 に よ り構成 され る教 科書調査会で審議 され正式決定 となった。 そ うい う圧力 もあ って 日本歴史 の教科書が,神話 ・伝承 を史実かの よ うに教 える 「皇国史観」 に よ り執筆 されていた とか,修身や国語 の教科書には軍国主 義を賞揚す る教材が多か った ことが,その特長 とされて,現在で も詳細に伝 え られている。
しか し,それ と同時に理科や算数な どの教育技術面で,優れた教科書が多か った ことが,わが国 の初等教育を充実 させを ことも無視すべ きではない。例 えば1934年に塩野直道 とい う図書監修官に よ り編集 された 『尋常小学算術』は,当時では珍 しい,挿絵 の多い,色刷 りで,児童の興味 と関心 に訴えなが ら数 の世界に導入 しようと試 みていた。 それでいて,従来5年次で教えていた分数を3 年次で扱 うなど,程度を高め ることに も成功 していた。 このため翌 々年 オス ロで開かれた万国教育 会議で,列 国の賞賛を博 したな どとい うこともあった。
(力) 国家教学の役割し 「
戦前 の 日本 の極端に国家主義的 な学校教育を特長づけ るもの として, 「教育勅語」 とそれに基づ く修身教育が強調 され るので,本稿が概説ではない としなが らも,それに言及 しないわけにはいか
r ない。
「学制」 に基づいた 「小学教則i 」では この教科については,「修身 口授」 に 「ぎ ょうざの さとし」
とル ビを付 って示 され,簡略に扱われていた。文部省が指定 した教科書 (教師用事)は,福沢諭告 が英国人 Chamberの 「MoralClassBook」を翻訳 した 『童素数草』 な ど,すべて翻訳書だ っ た。
しか し,宮中派 の元 田永字は1879(明治12)年 に 「教学聖 旨」 を発表 して, 「仁義忠孝」 とい う儒 教主義的復古思想に基づ く徳 目重視の教育を強調 した。 そ して,1890(明治23)年 に教育勅語が発 布 された。簡潔 な文章だが,冒頭 の忠孝一致 ・皇統 (皇祖皇宗)礼讃 ・国体強調 の部分,中間の儒 教的徳 目の列挙部分,末尾 の国体 とその国際普遍性 の強調部分か ら成 り立 っている。
文部省は発布 の翌91年6月に小学校令で,国家祝祭 日に御真影 (天皇 ・皇后 の写真)‑の拝 礼 と 勅語奉読を軸 とした学校儀式を法制化 した。 同年11月に文部省訓令で 「校 内の一定 の場所を選び最 も尊重に率置す る」 として,奉安庫 と奉安殿を設置 させた。 同時に小学校 教則大綱 (文部省令,現 在 の学習指導要領に当た る)がで きて,修身科は 「教育勅語 の旨趣に基づ く」 とされ, しか も筆頭 教科に位置付 け られた のである。 これが教育勅語 の法規範性 であ り,第二次大戦後はすべて排除 さ れた。 しか し現在で も,勅語の中間の儒教的徳 目の列挙部分には基督教 の聖書の よ うな,教典 とし
‑ 73‑
表2 1945年以前の中等教育機関学校数 ・生徒数 敬
計 I国立l公立l私立 計 997844676416456223.45557 8105059929384799369992日り l1222222l1233322 39150449504733.46223.4.4.45 7294208585413.4一8257979
19,563 98,000 131,946 246,739 343,709 327,261 380,498 607,114 3,020 25,719 83,287 239,401 359,269 371,807 479,425 756,955 2,869 31,160 80,922 179,860 267,043 316,845 507,629 794,217
14,881 81,941 104,069 194,431 277,529 272,649 300,506 454,†930 1,231 22,813 I
65,438 182,374 265,685 278,384 336,602 531,968 2,286 28,247 71,184 ) 1 147,74J8 196,701 222,761 341,724 517,819
4,506 15,720 27,173 51,454 65,178 53,638 79,037 150,985 1,503 2,573 17,036 55,755 92,214 92,152 141,526 223,730 524 2,785 9,530 31,964 70,204 93,915 164,829 276,398 注 高等女学校には実科女学校を,実業学校には乙種を含む。 出典 :『学制盲年史 ・資料篇』により作成 ての意味は存在 しているとい う意見は,一部に根強い.
なお国家教学は,1910(明治43)年 の大道事件,その翌年 の南北朝正閏論提起以後,格段に強化 され,1941年 の国民学校化に よ り,その極点に達 した。
2.中等教育
(ア) 中学校 と高等女学校
中等教育の制度 と実態は,どこの国で もいつの時代で も,初等教育や高等教育に比 して,複雑で あ り変化が激 しい。 これは国民共通 の基礎教育である初等教育 と,社会 との接点である高等教育 と い う,下か らと上か らの,両方の影響を蒙 るためで,わが国で も第二次大戦後は処理 の もっとも難 しい学校段階 となっている。 しか し戦前期 にあっては,初期にあっては曲折を経 た も の の,1899
(明治32)年に中学校令が改正 され,高等女学校令 と実業学校令が制定 されて以後は,その学制の 最後 まで比較的安定 して,発展を遂げていた。 (表2)
1899年の中学校令ではその 目的を, 「男子に須更なる高等普通教育を為す」 (同 1粂) とし,当 時 の高等小学校2年修了 (尋常小学校か ら計6年)を入学資格 とし,その修業年限を5年間 とした。
公立中学校はエ リー ト教育の場 として考 え られてお り, 「北海道及び府県においては土地 の状況に 応 じて‑箇以上 の中学校を設置すべ し」 (同 2粂) とい うそれ以前の方針を依然 として原則 として いた。僅かに,そのあ とに 「文部大臣は必要 と認むる場合に於いて府県に中学校 の増設を命ずるこ とを得」 として,国民の教育要求に少 しばか り譲歩 した。 しか し,公立だけでは要求に応 じること は不可能で, 「私人は本命の規定に依 り中学校を設置す ることを得」 (同5条) とい う規定 もあっ た。 これがのちに フルに活用 されて,各地に私立中学校が多 く設け られた。
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2年後の中学校令施行規則に よ り,その教科は修身,国語及漢文,外国語 (英語 ・独語 または仏 請),歴史,地理,数学,博物,物理及化学,法制経済,図画,唱歌,体操 と定め られ,遇当 た り の各授業時間 も示 された。 この制度は大筋で戦後の学制改革 まで維持 された。 中学校の学校制度上 の位置づけほ,臨時教育会議答申に よる1918年 の改正で,その4年修了か ら高等学校に接続するこ とを原則 とす るよ うになった (同12粂)。 また学業が優秀で身体の発達が 充分な者は 小学校長の推 薦 があれば,5年修了で中学校を受験で きることになった。 このため, もともと競争倍率が高か っ た中学校の入学試験は さらに激化 した。 また中学校では上級学年になるにつれて,その進学準備教1 育 に よる弊害が強 まることにな った。1920年代に入 った ころには, ジャーナ リズムに よ り 「入試地
獄」 とい う言葉が出来た。 !
女子の中等教育についての政府 の対応は遅れてお り,法令に登場 したのは1891年 の中学校令改正
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がは じめてだ ちた。それ も 「高等女学校は女子に須更なる高等普通教育を施す所に して尋常中学校1ヽ の種炉 とす」 とい う表現だ った。そのころまで女子 の中等教育を担 って きたのは,篤志家や基督教【 系 の法知的裏付けのない私立女学校だ った。
しか し,1895年 の高等女学校規程を経て,1899年に高等女学校令 となった。その 目的は, 「女子
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に須更なる高等普通教育を為す」(同1粂) とされ,当時 の高等小学校2年修了 (尋常小学校か ら (
計6年)を入学資格 とし,その修業年限は4年間を原則 とした。 「但 し土地 の状況に よ り1箇年を 伸縮す るを得」 として, 3年制で も5年制で も差 し支 えないことに した。規定が整備 され るととも に,府県市立 の高等女学校が発展 した。東京の ように,明治期に私立女学校が先行 して発達 してい
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た ところで も,大正期になると東京府立校 の万が入学 の難 しい学校 となった。
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男女 とも中等教育は中流階級以上 の教育機関であることを,政府みずか ら述べていた。上記の高 等女学校令制定 の際の文部大臣は薩摩出身の樺山資紀だ ったが,彼は府県知事会議の訓示 の席で中 学校 の 目的について, 「中人以上 の生活を為すに須要なる智徳を得 しめるにあ り」 とした。 同時に 高等女学校については, 「その生徒を して他 日中人以上 の家に嫁 し賢母良妻た らしめるの素養を為 す にあ り,故に優美高尚の気風,温良貞淑の資性を滴養す るとともに,中人以上の生活に必須なる 学 術技芸を知得せ しめんことを要す」 と述べた。 この思想は1945年 まで,おおむね維持 されていた。
(イ) 実業学校
欧州各国の中等教育 と比較 した場合の 日本の特色は,職業教育 (または産業教育)関係の学校が 普通教育の学校 との遜色が少な く存在 した点にある。欧州各国の中等教育における職業教育は量的
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に少な く, またその学校教育 としての地位は低い。職業教育 (または産業教育) とい う用語は,節 二次大戦後 の もので,戦前は実業教育 といわれた。実業教育は学制や教育令では僅か しか触れ られ なか っ長が,1883年に幾学校通則が,翌84年に商業学校通則が定め られた。1984(昭和59)年は教 育改革のための臨時教育審議会が開かれた年だが, この年に文部省 と関係者は天皇陛下をお迎え し て,産業教育首周年式典を盛大に祝 った。
戦後の学制改革 まで続 く戦前の制度が整 ったのも,やは り1899年の実業学校令に よるのである。
「工業農業商業等の実業に従事す る者に須更なる教育を為すを以て 目的 とす」(第 1条) とされ,
「その種類は工業学校 ・放業学校 ・商業学校 ・商船学校及実業補習学校 とす( 」(第 2粂) などとさ れた。実業学校令 と同時に制定 された上記の各学校規定では,入学資格は高等小学校卒で,修業年 限は 3年 となっていた。 しか し,やがて尋常小学校が 6年になると,その修了で 2年の予科を経て 本科に進むのが一般的にな り,結局中学校同様に尋常小学校 に接続す る5年間の中等教育機関 とな
った。
実業学校 は,中学校に進学が難 しい者が進学する二番手の中等教育梯閑ではなか った。商店主や 町工場主の子弟は,小学校での学習成績は トップ級で も,中学校 よ りも商業学校や工業学校を選択 す る傾 向が見 られた。 このため実業学校 とい っても普通教科が過半を しめ,実業専門学校への進学
1 を競 う候向 もあった。
(ウ) 準 中等教育 (高等小学校 ・実業補習学校 ・青年学校)
古い ことは さてお き本稿冒頭の 「義務教育の普及」で述べた よ うに,1908(明治41)年以降の制 度にあっては,6年間の尋常小学校 (義務教育) の上に2年ない し3年間の高等小学校が設け られ, そ こへの進学者の数は中等教育椀閑‑の数を上回 っていた。文部省の統計ではこの高等小学校を中 等教育機関 として扱 っているが, ここでは実業補習学校や青年学校 とともに,準中等教育機関 とし て扱 う。高等小学校か らは師範学校 と一部実業学校への進学 の道が開かれていただけで,中学校や
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高等女学校 との接続はなか った。制度的に とい うよ りも実質的に袋小路に近い存在だ った。 この点 か ら準中等教育 としたい。
しか し, 「高等小学校は普及は していて も暗いイ メージの学校だ った」とい うような,通常の 日 本教育史な どの書 きかたには,賛成 し難い面 もある。1926年以降は高等小学校 の教育課程には実業 (農業,工業,商業) の うちの‑科 目は必修 となるなど,一般教育 (普通教育) と職業教育の両立 に努力 した。都市部では,可能なか ぎ り高等小学校だけの独立校舎を設けて,その充実を囲 ってい た。国民の教養 と技術 ・技能 の向上にはた した役割は大 きか った。
実業補習学校は1893年に文部省令に よって成立 した定時制 の学校で,尋常小学校卒業後おおむね 16,17歳にいたる勤労青年 の教育機関 として設け られた。 しか し,専任 の教員は きわめて少な く, また校舎 も町村の小学校を併用 した。大正期の1930年には教育課程の標準を定めた り,専任の教員 養成所設置の規定を設けた りした。
実業補習学校は継続教育の場であった といって よい。職業教育の場であ り,学力の剥落防止の場 だ った とい うことも可能である。 「学力ほ どの程度身につ くものだろ うか」 の実験の場で もあ った。
陸軍 と文部省は1905年か ら,入営兵士 の学力検査を始めたが,その剥落が大 きか った。 このため,
実業補習学校 の普及に力を注いだ。
1925年か らは もう一つ,16歳か ら20歳 までの勤労青少年教育の場 として,青年訓練所が設け られ た。やは り大部分は町村 の小学校に,教員や予備役軍人を教員 とした,定時制の教育訓練機関であ る。 この方は在学 して,所定時間数だけ軍事教練を受ければ,徴兵年限を短縮で きるとい う制度だ った。 このため,制度的には煩雑 となるが,実業補習学校 とは別の看板を掲げたのである。
しか し,1935年に二つの教育機関は合併 して青年学校 となった。青年学校は男子は尋常小学校卒 I
か ら2年間の普通科,それに高等小学校卒か普通科修了後か ら5年間の本科 と計7年にわた り,毎 i
年200時間前後の教育を受ける機関 と定め られた (女子の本科は3年間だ った)。38年には,中等教 育機関に進学 した者以外には義務教育 とす ることが決定 された (戦争激化のために実施はされなか
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った)。その教員養成 のために,青年師範学校 も設け られた。
青年学校教育は完成 しない うちに敗戦になって,そのすべてが消滅 した。 しか し,そこに在職 し I
ていた教員に よ り結集 されたエネルギーは,職後6334制 のなかの新制中学校を実現 させ る原動力 と I
な り,その初期の教員層に多 くの割合を占めた府県 も多か った。校長に も青年学校教員が多か った。
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なお青年師簡学校は師範学校 と合併 して教員養成大学 (学部) とな った。 (赤塚重雄 『新制中学校 成立史研究』明治図書)i
これ らの準中等教育の諸機関に投資 された国の財政は, ごく僅かな ものだ ったが,第二次大我後 I
に63制を抵抗す くな く受け入れ られた よ うな,巾等教育 の裾野の拡大に寄与 していたのである。
(エ) 離陸期の中等教育のモデル
戦前期の中等教育,特に実業教育 と準中等教育の記述の終わ りに,創設期の国際連合大学 (国連 大学 ・東京)が行 った 「技術の移転 ・変容 ・開発‑ 日本の経験‑ 」 とい うセ ミナーの報告を要
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約 して,その評価に代 え よう。報告では 日本の1890年代 (明治20年代) の実業教育のい くつかを紹 介 したのちわ稔括 として,研究 メソバーの豊田俊雄は以下 のように述べているヽ 。1980年代以後のア ジア諸国の経済的発展はめ ざま しく,細部においては この豊 田の指摘を修正 しなければな らない点 もあるが∴大 まかな傾向の指摘 としては,♪今 日で も有効である。 (豊田俊雄 『わが国離陸期 の実業 教育』 国連大学発行,東大出版会発嵐 19g2年)
豊 田は,発展途上国の実業教育の問題点 として,教育 ピラ ミッドの逆転,基礎的な学力の不足, 非実際的なカ リキ ュラム,複線型学校体系,身分階層制,就職 のフp ソ テ ィ ア,motivationfor progress,dropout, 財政 の9点をあげ,1970年代の発展途上国 と,ほぼ首年前の 日本 とを比較 し
ている。
・教育 ピラ ミッドの逆転 ;教育の発展は初等‑中等一高等 の順で行われたが,途上国の1960年代の 計画 とその後を見 ると,高等 ・中等教育に比べて初等教育の遅れが 目立 っている。 日本 も初等教育 の就学率が低か った1880年代 までは,経済的な離陸に至 らなか った。■
・基礎的な学力の不足 ;日本で も1894年 の小学校 の就学率は実質では50%ほどで,それ までは実業
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教育を実施 して も教育効果を減 じがちだ った。
・非実際的なカ リキ ュラム; 日本の場合,教科書の翻訳ではない翻案 (日本化)が急速に進め られ たが,現在の途上国の場合は,それに欠ける うらみがある。
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・複線型学校体系 ;1899(明治32)年 の中学校令改正 と実業学校令制定 までほ,中学校に普通教育 と実業教育 との二つの性格があったが, ここでかな り分離 された。 また実業教育には実業補修学校
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・実業学校 ・東業専門学校 とい う3層構造がで きて効率化 された。途上国の場合は従来は複線型が 大勢だ ったが,近年単線化 (comprehensive化) の動 きを見せている。
・身分階層制 ;19世紀末の 日本には土盛工商の発想がまだあ り,筋 肉労働を厭わなか った。途上国 では普通教育には熱意を持 って も,技術 ・実業教育には冷淡 な懐向がある。
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・就職 のフロンテ ィア;東京職工学校 (現在東京工業大)の第 1回卒業生は就職 口に不足 してお り,1 実業教育には先行投資的な面があ った。途上国には今なお同様 な問題が存在 している。
・motivationforprogress;単 に個人 の出世 のためだけでな く,当時のナ ショナ 1)ズムとい うこと を無視で きない。
・dropout;世界銀 行の横断的調査に よると,途上国の途中放棄者は1/3以上に達 している。
・財政 ;1894年に実業教育費国庫補助法が制定 された ことは,画期的な ことだ った。 しか も, この 国の補助を受けるために町村が同額以上を準備す ることに した ことは, 自治体や住民の政策参加を 促す ことになった。
・日本には単一言語,同一人種,労働に向いた気性な ど,教育の進展に有利な条件が多 く存在 した。
これ らの点で途上国には逆 の条件がかな り存在す るので,そ こを十分踏 まえて計画を樹立すべ きだ
ろ う。 〜 ■
3. 高等教育 ,
(7) 実学的だ った帝国大学
日本の高等教育には1886年 の帝国大学創設 まで,その前身的機関の曲折の多い歩みがあるが,そ
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れには触れない。 ともか く 「斗tt 帝国大学は国家の須要に応ず る学術技芸を教授 し及びその蘇奥を攻究 す ることを以て 目的 とす」 と帝国大学令第1条に規定 されて,法科大学 ・医科大学 ・文科大学 ・理 科大学 ・工科大学で組織 されて発足 した。5年後に農科大学を加 えた。 「学術技芸 の蕗奥を攻究す る」す るのだか ら,国家で最高の研究枚閑であった。 同時に学生に対 してその成果を 「教授」す る のだが,それは 「国家 の須要に応ずる」 もの とされていた点に特徴がある。卒業生は当然国家の中 枢で働 くわけで,法科大学卒は総合職的な高級官僚に,工科や農科大学卒は技術官僚に,その他 も 国家的業務に就 くのが常態 と考え られていた。
帝国大学の設立は, ドイツの大学,特に Berlin大学が参考に された といわれ る。Berlin大学の 創設は1806年だか ら,当時は新興の大学だった。 しか し,ナポ レオ ンに破れた プロシャにおいて, 優れた教育官僚だ ったフンボル トに よ り国民精神作興のために と設立 された大学だ ったため,たち まちその実績を上げていた。 当時の ドイツ知識人には,英仏 と比べて政治的 ・経済的には弱体なる がゆえに,高貴な自由独立の精神が報 っていた。 その渦中で Berlin大学は 「研究の 自由」を確保 しつつ 「科学 の理念 と大学の統一」をはか り, 「研究 と教育の一体化」を 目ざした。 そのことが当 面は ともか く究極的には社会 ・国家のためになるとい う発想であ った。 Berlim大学 の刺激で,数 多い他の中世的な大学 も活性化 し, さらにBonnや MGnchenに も近代大学が新設 され,19世紀