近世近江地方の魚肥流入事情
‑湖東農村商人の相場帳の紹介(一)‑
鶴岡実技子
幕藩体制社会の桂道的解明が'戦後の日本近世史研究の共通の関心恥として'各分野の視角から相力的に取組まれ
てきたことは'こと改めて断るまでもないが、その進展に大きな障碍となっているものの一つに'同時代の統計的資
料が極めて乏しいことが挙げられる。特に'金銀銭三貨が地方的偏差を持ちつつ通用した投姥な増幣機船のもとで形
成された各地の連続的な物価資料の欠如は'商品流通史の分野に止まらず'各分野の障壁となっており、近時の物価
史研究の拾頭は'その部門の緊要性を痛感される発露にはかならないLt資料欠如に対する警告の役割を果してい
る。
小稿では'当館所蔵の近江国湖東地方の一袋村'蒲生郡銃村の米商人玉尾家(屋号は米臣)文雷中に発見された
「万相場日記」を整理することによって'地域的にも時間的にも限られたものに過ぎないが'全国的な物価資料整備
の間隙を埋める一系材に供したいと思う。
近世近江地方の魚肥流入事情(鶴岡)
史料館研究紀要第三号
一江州鏡村玉尾家と「万相場日記」 二〇八
近江八幡町の西南'野洲郡境に接して位置する蒲生郡鏡村(現在'蒲生郡竜王町大字鏡)は中仙道に沿った街道村
で'武佐・守山両宿の中間にあって'往古は鏡宿とも俗称され、宿駅の指定は‑けていないが'公用人馬の小休止所
として本陣・脇本陣も設けられていたという。蒲生・野洲両郡内で一万五'七〇〇石余(他に飛地として河内国交野
郡星田村の内に一'三〇〇石あり)を領知する仁正寺音(文久三年西大路藩と改称)市橋氏の所領に属し'杵高九五
第
1
表 元禄5
年玉尾家保有耕地「名等幌」による 二慶長六年検地、後再検地形跡)'耕地面積は六七町石四斗八合(以のなし
六 反 七 畝 歩
余'う
ち 田 方 が 六 五 町 二 反 六 畝 歩
余と
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九
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水 田 村
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江 戸
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年次は
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1
六九
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つ い て は 一 切 不明であるが'その
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年(
一七
二三)
二九
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九
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1合余(諸引高分を
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〓 1 年
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八 升 四
合と
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村内
で は 最高四五石余に次いで第の 二
位高の
持なていとっ る。
村庄
屋 就
任は
文 化
〓年後で'断片的村方史料か伝以のこなわなとらし
い
内での位置を知ることは困難である。屋号を米星と称し米商に携わり始めた年代も未詳であるが'同地における観主
の年貢徴取の形態は、畑地を含めて形式的には皆米納方式であるが、現実には月並金と称する先納金の徴収が街内の
有力農民の負担に於て行なわれ'収納期に差継直段と称する領主の御定直段によって'定式の利息分を加えた額を返
済する形で先約分が年貢納入額から控除され'娩余の年貢米にっいては既金納や村払い若くは八幡町等に於て入札払
いに附され'郷蔵から直接領主・落札人の指定する場所(主上もて大津)へ廻送されることが多かったから、在村の
穀星の果す役割は可成り大きかったものと推測される。
このような地方市場における在地米商人の果した機能については、未だ倹討を経ていないので後考に譲ることとし
宝暦
5‑
明和3
明和
4‑
安永1 0
(天 明元) 天 明2‑
寛政1 1
冥政1 2 ‑
享 和 4 (文化元) 文化2‑同 6
文化
7‑同1 2
文化1 3 ‑
文政4
i+文政
5
「同10
天保1 1 ‑
弘化2
弘 化3‑同 4
宗永3‑伺 4
宗永7‑
安政2
安政3‑同 6
万相場 日記諸 色相場留 万相場 日記 万相場 日記 万相場 日記 (衰耗 欠) 万相場 巳記 万相場 El記 万相場 日記 万 相場 日記 万相場 日記 万相場 日記 万相場 日記
ヰ 文政 元年11月より大広相場が別帳 とな る
て'米商人玉尾家に残された相場帳の概要について簡単な説明を加えて
おきたい。
上述のように玉尾家が米星の屋号を称し始めた時期は許かでないが'
現存する「万相場日記」と題する帳面は全一三冊(他に文政元年‑安政
三年の「大坂相場帳」三七冊)で'その年次の編成は上掲の通りである。
みられる通り'文政一一年から天保10年までのl二年間'霜永元・
二・五・六年の四年分を欠き'弘化二年の後半部分は鼠害のため判読不
能であるが'各地の相場の報知を受けた同家で約一世紀に亘って書き継
がれた該相場帳の記載内容は時代によ.って変化し'相場報知の鞄域一品
目・銘柄等も必ずしも一貫していない。或る時期には一地方の相場が集
中的に頻出するかと思えは'後にははったり跡絶えてしまったり'1品目について数種類の銘柄の報知のあった地方
近世近江地方の魚肥流入事情(鶴岡)
史料館研究紀要第三号
地 名 記 録 年 次 ・ 品 ̲
敦 賀 宝暦
5‑
文政5
栄 .大 目豆 .魚肥 野州茂木町 宝暦
5‑
天明4
穀類 .銭江 戸 宝暦
7
年以 降穀類 .塩 .油 .銭
江 州 江 頭 宝
暦
6
年以睦 穀類 .魚肥大 坂 宝暦
9‑
文化5
魚肥 .建物米正 .帳合 油 .相類 .堤 .金銭
宇 都 宮 天明
7‑
弘化4
穀類 .垂菜.くりわた 其他各地書 化政期以降
∴
栄* 金沢・下関 ・努川津・須安川・兵庫・庄内酒田等 二10Lが'時期によって一銘柄だけ
の報知に簡略化するなど'また発信人名の記載の有無も一定しない。このような変
化が玉尾家の経営に如何なるかかわりを持ったかは興味のあることであるが'それ
は今後の課題とする。臥して云えは同家の米取引にとっ七重要な位置を占めていた
大津相場及び同相場を規制するところの大きかったところの大坂相場(文政元年以
後'大坂相場だけ独立して別帳となる)を中心とLt他は時期・品目等に精粗が著しいが'比較的連年に亘って相場報知の
記載のある地名を拾ってみると上掲の通りである。米と共に干鰭商を併わせ営
んだ同家が'敦賀・江頭や1時的ではあるが大坂の干鰯商から相場の報知を受けて
いたことは肯けるが'下野国茂木町や宇都宮などの報知を受けていた理由は明らか
ではない。ただ全国市場の形成が諸国相場見競べの風潮を可成り鋭敏に一地
方の在村商人の許へまで及ぼしていたことは窺える。これら各地の相場報知には
発信人の人名が記されていないものがあるが'乗に関しては玉尾家への直接的
情報源の大串は'大津の米問屋であったと思われる。享保1五年(1七三〇)大坂堂島に於ける帳合米取引の公認に
引続き'幕府は元文元年(一七三六)大津L・京都に放ても延米相場の立会を許可している。その後下関・伊勢津など各地で行われた延米売買の公認年次は詳かでない(1)が'堂島の商慣習を記した「稲の穂」に次の
ような説明がある。懸合浜又懸合場共言大坂の米直
状昆(・めカ)(桁カ)国々米商内して居る懸合浜始の米怒りの向え'日々正米帳合米之直段井蔵々売もの出米高は'其余浜方之気配は
元方、他所他国舟申来る夏を聞合して申追ス'惣而米商内一切の事を昏認メて書状して渡世するにより状屋と言。
鷹合浜としての大津へ'堂島浜の商況を報知することを職業とする「状屋」が何時頃から存在したかは明らかでは
ないが'玉尾家文書中には、「状屋」と目される長崎昆与八から大枠の米問屋木屋久兵衛へ宛てた商況報知状が相当
塁残されているから'大坂以外の各地米相場の報知も'おそらく大枠の米問屋を経由して近江湖東位相の米商人に班
されたものと推察されるのである。
このような諸国相場情報化の趨勢はt「万相場日記」の記事にも反映している。各地相場雷の前後に書込まれた米
相場に直接・間接的に影響する幕府法令の写'地方的な作柄を探知するために各地で派遣される作見入から寄せられ
る諸国「作割」の交換の記事などがそれを示している。そして玉尾家自身米商人としての気象への関心の深さは'各
年次の巻頭に年間一月として休むことなく続けられた天候の記録によって窺うことができる。
前にも述べたように'該相場日記は'大津相場と、同地に直接的規制力を有した大坂相場を主体とするものである
が'大坂米相場資料については比較的整備され'従来から公開せれているので'別の機会に誠り、ここでは比較的数
表化が安易であった魚肥相場を主体とする敦賀と'極く一時期に限られてはいるが大坂の魚肥相場を併わせて紹介し
ておきたいと思う。
後掲の相場表にみられる通り'その記載は敦賀については宝暦五年からほほ文化末年まで'大坂については宝暦九
年から文化五年までに限定されている。この時問的限定がもつ意味を俄かには断じ難いので後考に供つとして'玉尾
家の相場日記に大坂・敦賀両港湾都市の魚肥価格が記載されていることの意味を'魚肥の消et市場としての江州出村
近世近江地方の魚肥流入事情(鶴岡)二二
史料館研究紀要第三号二一二
の農業横道との関連で若干触れておきたいと思う。特に敦賀では宝暦五年頭初から千廟と戯'大坂では初め千僧'明
和九年から働肥料が加わって‑るので'近世における畿内農業が魚肥の主要部分が千鰯から緋肥へ転化する凝過を'
相場表記載のなくなる以後の時期に直って'江州における肥料商人の動きに適わせて職述してお‑こととする。
近江農村への魚肥供給地としての前・中期の大坂
近世日本の農業にお廿る魚肥の果した役割の重要性の認識は、農業経営の地域的頬型化に金肥の導入如何を凋億に
求められた戸谷敏之氏の古典的業績以来'現在なお農村卑・地主制史研究に腰承されている。多肥賃約型農業t4よる
反当収量の増大、その生産費の中で占める肥料代の比重が、農家経常収支の余剰の有無に大き‑作用するし、また収
穫物を引当,てに前貸の形で服売される魚肥商人の高利貸的収奪が'農民経済に重要な作用を及ぼしたことは'従来か
ら指摘されるところである。′
このような魚肥の流通を担う干鰯商人の発生については'先進地畿内の棉作に呼応して、早‑も寛永年中'大坂の
新敬町・新天満町・海部堀町三町町人の願によって新たに開墾された堀川の堀留永代浜に「永代諸魚干鰯市場揚場」
の免許を受けたことが伝えられている。﹃大阪市史﹄に収録された「三町御開発塩魚干廟問屋由緒書井二椎喉場之由
来」によれば'
往古寛永以前迄、干潮荷物取潮致候ハ'摂州にて尼崎'泉州にて堺のみ、大坂表へハ参着不致候処'水上津出し
之弁利を得候ハゝ肥物干鰯引受候層リにて堀.Eを層、御免被仰付侯二付'魚商売周産業之者ハ'何れも浦々漁場
掛リニ候故、銘々手続を以'国々漁場網元江仕入先鋭差遣'新浦等見立、新規一l網株等取企、儲漁業相樺せ候
処、次第二荷物参着致候l‑付'五畿内ハ不及申'播州・丹波・伊賀・近江・紀州・阿州'都而拾壱ヶ国之官位商