杜甫と房?(一): 杜甫「祭故相國清河房公文」訳 解
著者 谷口 真由美
雑誌名 長野県短期大学紀要
巻 53
ページ 133‑141
発行年 1998‑12
URL http://id.nii.ac.jp/1118/00000292/
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長野県短期大学紀要 第53号133−141貢1998年12月
杜甫と房常 ︵こ
杜甫﹁祭政相国清河房公文﹂訳解
は じ め に
至徳二載︵七五七︶︑杜甫は安禄山の叛軍に占領されていた長
安から命がけで脱出し︑鳳翔の行在所に駆けつけた︒その功によ
って粛宗に拝謁し︑左拾遺︵従八品上︶ の官を授けられる︒必ず
しも高い官職ではなかったが︑その職掌は皇帝の政治の誤りを正
すことにあり︑同官を拝命した喜びは︑杜甫にとって大きいもの だった︒ところが間もなく︑杜甫ほ宰相房靖を弁護して粛宗の逆 鱗に触れた︒辛くも罪を問われることは免れたが︑翌年には房常 のl党とみなされて︑華州司功参軍に出される︒そしてあくる乾
l空一年︵七五九︶︑杜甫ほ官職を捨てて秦州へと旅立つ︒官僚と
しての理想と人生は︑基本的にこのとき〝放棄″されたのである︒
後半生の漂泊はここに始まった︒
左拾遺の官を拝命して︑希望と使命感を抱いた杜甫が︑一転し
て挫折と失望を味わうこととなった原因が︑いわゆる﹁房常事
件﹂である︒その後の経過をみるならば︑この事件は︑杜甫の人 生を決定的に変えたということができる︒それは︑詩人杜甫を考
える上で︑決して避けて通るわけにいかない重要な事件である︒
にもかかわらず︑従来の研究においては資料的な制約もあり︑全
谷 口 真 由 美
面的な検討がおこなわれたとは言い難い︒その検討に際しても︑
対象とされている資料は︑﹃醤唐幸﹄・﹃新唐書﹄ の記載の範囲を出
ていないように思われる︒史書の記載が根本的な資料であること
は言をまたないが︑その範囲だけで論ずることは︑杜甫という一
個人の行動の軌跡と意味を明らかにする上で︑大きな限界を背負
うことになる︒新資料の発見がもとより難しい以上︑杜甫の詩そ のものをさらに詳細に考察することが勿論重要である︒しかしそ
れ以上に︑これまでその詩に比べて蘇られることが少なかった杜
甫の散文資料に︑より多くの光を当てる必要があるだろう︒
いわゆる﹁房館事件﹂とは︑どのような事件であったのか︒杜
甫にとって︑房常とはどういう人物だったのか︒本論﹁杜甫と房
常﹂では︑それを明らかにして︑杜甫の生涯の最大の転換点と言
えなくもない﹁房常事件﹂が︑彼の人生に対して持った意味を考
えたい︒この点を考察するために︑その基礎としてこの稿では︑
まず﹁条故相国清河房公文﹂の通釈及び注解を行うこととする︒
﹁条故相国清河房公文﹂は︑この文章の冒頭に述べられている
ように︑廣徳元年︵七六三︶九月二十二日に書かれたものである︒
鷺
〒 3 8 0
Ⅰ 8 5 2 5 長 野 市 三 輪 八
Ⅰ 四 九 l 七 長 野 県 虚 期 大 学
134
実由英
日谷
房常は︑同年八月四日に闇州で亡くなっている︒異郷での客死で ある︒房常の郷里︵河南省︶ の一族の基に正式に埋葬することが できず︑仮に同地に埋葬されることとなった︒杜甫のこの文章は︑ 中間の部分に野辺送りの様子が措かれていることからも︑埋葬に 当って︑またはその直後に作られたのであろう︒翌虞徳二年春︑ 再び杜常は房常の墓を訪れて﹁別房太尉基﹂︵房大尉の墓に別る︑ ﹃杜詩詳註﹄巻之十三︶を詠じ︑さらに永泰元年︵七六五︶ に雲 安で︑房環のひっぎが故郷に帰葬されることを伝え聞いて︑﹁承 開放房相公塞敬白聞州啓痍蹄葬東都有作二首﹂︵故の房相公の軍 機が聞州より濱を啓きて東都に辟葬せらるると東聞して作有り︑ 二首︑﹃杜詩詳註﹄巻之十四︶を作っている︒これらl連の詩文 からは︑杜甫の房塔へのなみなみならぬ尊敬の気持ちと︑朝廷に と
っ て ー ー 1 も ち ろ ん 自 分 自 身 に と っ て も 1
︑ か け が え の な い 人
を失った痛恨が読み取れる︒
しかし︑それだけでなく︑自己と房靖との深い交友関係︑及び
﹁房清事件﹂ についての事実認識や評価にも具体的に触れるとこ
ろがあり︑本論のテーマを追求する上で︑きわめて重要な資料で ある︒にもかかわらず︑従来の研究ではあまり注意されず︑適当
な注解がなされていない︒そこで本稿では︑その注解の作業から
出発しなくてはならない︒
この﹁祭政相国清河房公文﹂ の背景を把撞するために︑﹁房常
事件﹂以後︑その死まで︑房靖自身はどのような生を送ったのか︑
概観をしておきたい︒乾元二年︵七五八︶ の邪州左遷︵この時同
時に︑房靖と親しいとみなされた劉秩・厳武︑そして杜甫もそれ ぞれ左遷された︶を皮切りに︑翌乾元二年太子賓客︑さらにあく
る上l鱒元年春に一旦礼部尚書︑ついで晋州刺史︑八月には漠州刺
史に改められた︒このように中央と地方を短期間で往き来してい
る︒賢慮元年︵七六二︶︑玄宗・粛宗が相ついで亡くなった時には
漠州刺史であったが︑翌賓應二年︵七六三︶︑特進︑刑部尚書を
拝命し︑中央に召される︒その途中︑病に伏し︑八月四日︑間州
の僧舎に没した︒この文の中でも述べられているように︑玄宗・
粛宗亡き後の幼い代宗を補佐し︑国家多難の時期を乗り越える筋
道を示すことを嘱望された房語だったが︑中央復帰を目前にして
の 死
で あ
っ た
︒
︹原 文
︺
注 1
条故相国清河房公文
︵ 前 文
︶
注2
維唐虞徳元年歳次英卯︑九月辛丑沸︑二十二日壬戌︑京兆杜甫︑
注 3
敬以醸酒奈薙寺泊之集︑奉祭政相国滑河房公之婁日︑
鳴呼︑純撲既散︑聖人又没︒苛非大賢︑執奉天殊︒唐始受命︑
注 4
葦 公
聞 出
︒
注 5
不 墜
故 賓
︒
注 6
煩 塵
犯 閑
︒
注 8
揖 譲
倉 卒
︒
江1 0
空 間
泣 血
︒
注1 2
誅 終
不 滅
︒
在 困
爾 切
︒
君 臣
和 同
︑
百 飴
年 間
︑
王 風
喪 頓
︑
注 9
中 臣
用 権
︑
時 連
夜 診
︑
高 義
況 埋
︑
徳 数
充 溢
︒
見 有
輔 弼
︒
神 器
妃 裂
︒
尊 貴
俵 忽
︒
国 有
征 伐
︑
赤 心
蕩 折
︒
貌 杜
行 之
︑
及 公
入 相
︑
閲 輔
青 候
︑
公 賓
匡 救
︑
辛 駕
還 京
︑
定 官
厭 路
︑
夫 何
喜 一
︒
紀 綱
巳 失
︒
注7
乗 輿
播 越
︒
忘 餐
管 襲
︒
注1 1
朝 廷
就 列
︒
注1 3
詭 口
到 骨
︒
婁 宋
准 之
︑
絡 帥
千 把
︑
太 子
即 位
︑
累 抗
直 詞
︑
盗 本
乗 弊
︑
致 君
之 誠
︑
杜甫と房常(−)
Ⅰ
天道闊達︑元精茫昧︒偶生貿連︑不必際含︒明醜我公︑可去時
注1 4
代︒貢誼働突︑雑多顛滞︒仲尼旅人︑自有遣愛︒二聖崩日︑長兢
注 1 5 注 1 6 注 1 7
荒外︒後事所要︑不在針内︒因循褒疾︑麻額無悔︒矢死泉塗︑散
在1 8
揚風概︒天柱既折︑安仰巽戴︒地維則絶︑安放爽載︒
Ⅲ
豊無葦彦︑我心憎切︒不見君子︑逝水溶潜︒泄諾寒谷︑呑聾賊
注1 9
蒙︒有事宴送︑有誹套繰︒撫墳日落︑脱創秋高︒我公成子︑無作
爾努︒殆以素南︑付諸蓬嵩︒身痙萬呈︑家無一竃︒教子京過︑他
注2 0
人鬱陶︒水葬不入︑日月其惰︒
Ⅳ
州府救喪︑l二而巳︒自台所嘆︑竿聞知己︒轟著書札︑望公再
起︒今来薩数︑為態至此︒先帝松柏︑故郷粉梓︒憂之忠孝︑気則
注2 1
依俺︒拾遺補閉︑視君所履︒公初罷印︑人糞切歯︒甫也備位此官︑
蓋薄劣耳︒見時危急︑敢愛生死︒君何不聞︑刑欲加兵︒伏奏無成︑
注2 2
終 身
悦 址
︒
Ⅴ
乾坤惨惨︑財虎紛紛︒蒼生破砕︑諸賂功勅︒城邑自守︑聾鼓相
聞︒山東錐定︑濡上多軍︒憂恨展韓︑傷痛高志︒玄豊正色︑白亦
不分︒培墳満地︑崖容顔軍︒教条老酒︑陳情者文︒何普旅磯︑得
1 3 5
︵ 末 文
︶ 注 2 3
時 呼
笈 哉
︑ 尚
饗 ︒
︹訓 読
︺
故の相国滑河房公を祭る文
︵ 前 文
︶
推れ唐の虞徳元年︑歳は英卯に次る︑九月辛丑朔︑二十二日壬
戌︑京兆の杜甫︑敬しんで醸酒︑茶・薙・寺・鰍の臭を以って︑
故の相国清河房公の量を集り奉りて日く︑
鳴呼︑純撲 既に散じて︑聖人 又没す︒苛しくも大賢に非ず
んば︑軌か天秩を奉ぜん︒唐の始めに命を受けしは︑葦公聞出す︒
君臣和同し︑徳教 充盗す︒魂︵徴︶・杜︵如晦︶之を行ふこと︑
夫れ何ぞ一を画ける︒婁︵師徳︶︑宋︵壕︶之を潅ぎて︑放資を
墜ときず︒百飴年間︑柿弼有るを見る︒公の相に入るに及ぶや︑
紀綱 巳に失はる︒絡帥 紀を干し︑個塵 閑を犯す︒王風 棄
頓し︑神器妃裂す︒開輔 斎候として︑乗輿 播越せり︒太子即
位し︑揖譲すること倉卒たり︒中臣 権を用ひ︑尊貴 倹忽たり︒
公 賓に匡救せんとし︑餐を忘れて奮愛す︒累ねて直詞を抗げ︑
空しく泣血を聞す︒時に複珍に遭ひ︑囲 征伐有り︒串駕 京に
還り︑朝廷 列に就く︒盗は本 弊に乗じ︑誅するも終に滅びず︒
高義 況埋し︑赤心 蕩折す︒官を乾され路を厭がれ︑蔑口 骨
に到る︒君に致すの誠︑因に在りて爾々切なり︒
T ⊥
天道は聞達にして︑元精は茫昧たり︒偶々貿連を生ずるも︑必
ずしも際合せず︒明明たる我が公︑時代に去らるる可けんや︒貫
136
実由実
口谷
誼 働突するや︑多しと雉も顛滞す︒仲尼.旅人なるも︑自ら遺 愛有り︒二聖 崩ぜし日︑長く荒外に競ぶ︒後事を委ぬる所︑臥 内に在らず︒因循して疾に藩ぬるも︑頗額して悔い無し︒死を泉
塗に矢ひ︑風概を激揚す︒天柱 既に折るるに︑安んぞ仰ぎて異
戴せん︒地維則ち絶たるるに︑安んぞ放ちて爽載せん︒
l
豊 群彦無からん︑我が心切切たり︒君子を見ず︑逝く水は潜
潜たり︒洋を寒谷に泄し︑聾を賊濠に呑む︒車有りて墓に送り︑
耕有りて愛に操る︒墳を撫すれば日落ち︑剣を脱すれば秋高し︒
我が公 子を戎むるに︑蘭が努を作す無かれと︒赦するに素烏を 以ってし︑諸を蓬青に付す︒身は萬里に痙せられ︑家には竜も 無 し
︒ 教 子 京 過 ぎ
︑ 他 人 鬱 陶 た り
︒ 水 衆 入 ら ず
︑ 日 月 其 れ
傾 ぐ
︒
Ⅴ
州府の救喪するは︑l二のみ︒舌へより嘆く所︑知己を聞くは 竿 な り
︒ 轟 著 書 札 あ り
︑ 公 の 再 起 を 望 む
︒ 今 来 薩 数
︑ 態 を 為 すこと此に至る︒先帝に松柏あり︑故郷に粉梓あり︒室の忠孝な
る︑気は則ち依借す︒拾遺・補関︑君の履む所を視る︒公 初め
て印を罷めんとするや︑人 糞に切歯す︒甫や位を此の官に備へ
らるるも︑蓋し薄劣なるのみ︒時の危急を見ては︑敦へて生死を
愛しまんや︒君 何ぞ聞かざる︑刑 加へられんと欲す︒伏奏す
るも成る無く︑終身 悦祉す︒
Ⅴ
乾坤 惨惨たり︑財虎 紛紛たり︒蒼生 破砕せられ︑諸絡
功動あり︒城邑自ら守り︑聾鼓 相聞こゆ︒山東 定まると錐も︑
囁 上 軍 多 し
︒ 憂 恨 展 韓 し
︑ 傷 痛 高 畠 た り
︒ 玄 は 豊 正 色 な らん︑白も亦た分たず︒培境 地に満つれども︑盛暑 葦する無
し︒祭を致す者は酒︑情を陳ぶる者は文なり︒何か皆に旅磯の︑
江雲を出づるを得べき︒
︵ 末 文
︶
鳴呼︑京しいかな︒尚はくほ饗けよ︒
︹通 釈
︺
故の宰相清河房公を祭る文
︵ 前 文
唐の広徳元年︵七六三︶︑冥卯の年︑辛丑がついたちである九 ︶
月の︑二十二日壬戌の日︑京兆出身の杜甫は︑つつしんであま
酒・茶・蓮根・じゆんさい・ふなをお供えして︑今は亡き宰相︑
清河郡公であった房公の霊を祭り奉り︑次のように申し上げる︒
ああ︑純撲な太古の気風はもうすでに消え失せ︑舌代の聖人も
また亡くなってしまった︒だから大いなる賢人でなければ︑l体
誰が天の与えるさいわい︵天下を支配する権限︶を受けられよう
か︒唐がはじめて天命を受けると︑すぐれた多くの宰相が相い継
いで出た︒君主と臣下はやわらぎたずさえ︑徳に満ちた教えは天
下にあふれるほどであった︒魂徴や杜如晦が天下を経営すること
杜甫と房常(−)
137
は︑一の字を画くかのように何と明瞭だったことか︒婁師徳や宋
寛もそれを継承して︑古くからのきちんとしたやり方を失わなか
った︒百年以上の間︑皇帝を補佐するすぐれた宰相がいるのを見
ることができた︒しかし︑房公が宰相として入朝した時には︑す
でに綱紀は失われていた︒武将達は綱紀をおかし︑戦きの塵は︑
朝廷をおかしていたのだった︒王者の風気はとどこおってゆきづ
まり︑天子の力をしめす宝器は裂けこわれてしまった︒みやこの
ある閑中の地方はさびれほて︑天子︵玄宗︶ の御車は︵遠く成都
へと︶旅しておうつりになった︒あらたに皇太子︵粛宗︶が即位
されたが︑その礼儀の次第はあわただしくとりおこなわれた︒つ
まらぬ臣下は権力をほしいままにし︑貴い人々はたちまちおとし
められてしまった︒房公は心から国家を救おうとして︑食事も忘
れて奮闘しっとめられた︒度重なる諌言を奉り︑お聞き入れのな
いままに血の涙をまじえた言葉を天子に申し上げた︒その頃︑時
代は妖気に出会い︑国には戦いがうち続いた︒天子︵玄宗・粛宗︶
の御車は都長安にお帰りになられ︑百官みな朝廷の列位についた︒
賊軍︵安禄山・安慶緒ら︶ は︑もとより唐王朝の疲弊に乗じて反
乱を起していたので︑撃ちこらしてもついに滅びなかった︒房公
の気高い正義は沈み埋もれ︑まごころはうちくだかれてしまった︒
︵陣幕斜の敗北を理由に︶官位をおとされ︑路をふさがれ︑蔑言
は骨にとおるほど厳しいものであった︒しかし︑我が君にお捧げ 申し上げるまごころは︑このような困難な時においてもいよいよ
深くなるばかりだった︒
T−▲
天の道は広くはるかで︑天の根元の精気のはたらきははてしな
いがために理解しうらい︒賢く物の道理に達した人が偶然この世
に生まれたとしても︑必ずしもよい横会に出会うとはかざらない︒
明徳の我が房公は時代から退けられてよいものだろうか︵退けら
れてはならない︶︒漢の貫誼はいく度も働突したけれども︑つま
づき倒れてしまった︒孔子は各地を旅し︑遊説してまわったけれ
ど︑その仁愛はいつまでもしたわれた︒二人の聖人︑玄宗と粛宗
が崩じられた時︑房公は荒外にいつまでも泣きさけんだ︒玄宗・
粛宗亡き後の事を託すべき人は︑朝廷内にはふさわしい人がいな
い︒房公は病床についていつまでも留っていたが︑代宗の治政を
案じてやせおとろえることもいとわなかった︒死をも覚悟しっつ︑
その気高い風格を奮いたたせた︒しかし︑天を支える柱はすでに
折れてしまったのに︑どうして ︵主君を︶上にいただいてお助け
できるだろうか︒大地を維持するつなが切れてしまったのに︑ど
うしてそれを放っておいて左右から補佐することができよう︒
かならずすぐれた才徳をそなえた人々はいる筈だ︒だが私の心
はうれいで一杯になる︒︵房公が亡くなって︶立派な人物を見る
ことができない︒流れゆく水も潜潜と去ってかえらない︒常を寒
い谷に流し︑悲しみの声を賊軍に備える濠に呑みこまなければな
らない︒房公の棺を皐にのせてここに送り︑挽きづなをここに手
にとる︒︵棺を納めて︶墳墓をなで静めると日は酉に落ち︑剣を
はずしてみると秋の空は高い︒我が公は死ぬまぎわ︑子に戒めて︑
自分の葬儀に労力をかけないよう申しおかれた︒なきがらをおさ
めるのには白ぎねを使い︑棺は野原におかれた︒あなたのなきが
らは故郷から万里離れた地に埋められ︑家にはわずかな財産もな
かった︒あなたの子ども連は哀しみすぎて︵やつれ︶︑他人はあ
なたを患って心がふさぐ︒水や飲みものがのどを通らないままに︑
138
実由実
口谷
月日だけがどんどん過ぎてゆく︒
Ⅳ州や府からの葬儀へのたすけほ︑一二あっただけ︒昔から嘆か
れてきたのは︑其の友はまれだということ︒房公の死の前には書
札がよこされ︑房公が再びたって活躍することを望まれていた︒
それなのに今の葬儀の礼の等級は︑そのありさまと言えばこの程
度︵の低いもの︶ である︒先帝の陵墓には松柏が植えられ︑房公
の故郷にはにれやあづさが植えられている︒房公の霊は︑先帝の
︵陵墓の︶松柏に忠孝をつくそうとし︑他方房公の気は故郷のに
れやあづさに帰ってよりそおうとしておられる︒私が拾遺に︑卑 参が補関の官職にあった頃︑あなたの行われた仕事を拝見してい
た︒房公が︵罪を得て︶初めて官をおやめになった時には︑心あ
る人々は本当に歯ぎしりをしていかっていた︒その頃︑私杜甫は
左拾遺の官を頂いていたが︑思うにそのつとめを充分果している
とは言えなかった︒あなたが重い罪を被るという危機に立たれる
のを見ては︑︵あなたを弁舌することで︶死も辞さない覚悟であ
った︒しかし︑天子はお聞き入れにならず︑あなたに刑を加えよ
うとなさったのだった︒天子に伏してあなたの無実を奏上しなが
ら︑聞き入れて頂くことがかなわなかったことは︑一生溢恥しく
思 わ
れ る
︒
Ⅴ
天地は暗く心をいたませ︑山犬やとらのように欲深いものども
が乱れ起っている︒うち続く反乱のために︑人民はうちくだかれ︑
一方諸将は戦きでてがらをたてた︒まちは自衛するはかなく︑攻
めつづみがあちこちから聞こえてくる︒山東は平定されたという
が︑滞上ではいくさがまだ多い︒私はうれえうらんで︵眠れぬま
ま︶寝返りをうち︑いたみ悲しまないではおれない︒玄はどうし て本来の色であろう︑その上白でさえも見分けがつかない状態に
なっている︒小さなおかは地に一杯あるが︑漫谷山のような高い
山は決して群をなさないものなのだ︒お祭りするのに酒をさし上
げ︑この文章に私の思いを陳べた︒いつの日にか︑旅先にある公
のひっぎは長江の雲を出て故郷に帰ることができるだろうか︒
︵ 末 文 ︶
ああ︑なんと哀しいことだろう︒どうかこのお供えを受けて下
さ い ︒
︹ 注 釈
︺
テキストには︑清︑仇兆究注﹃杜詩詳記﹄ ︵中華専属出版︑
一九七九年十月第l版︑巻之二十五︶を用いた︒清︑楊倫集
注﹃杜詩鏡鉄山︵所収﹁読書堂杜工部文集注解﹂巻之二︑上
海古籍出版社︑l九八〇年︶︑清︑銭謙益集注﹃銭在社詩﹄
︵巻之二十︑上海古籍出版社︑一九七九年︶と校勘を行った
ところ︑本文Hの﹁不必際合﹂ の﹁際﹂字を︑﹃杜詩鏡鐙﹄
F 鏡
注 杜
詩 ﹄
で
は ﹁
臍 ﹂
に
作 り
︑ ま
た ﹁
安 仰
巽 戴
﹂
の ﹁
異 ﹂
字を﹃杜詩鏡鐙﹄ では﹁初﹂に作っている︵﹃鏡注杜詩﹄も
﹃杜 詩詳 証し に 同じ
︶︒
︵ 前 文
︶ 2 杜甫の他の詩文には﹁京兆杜甫﹂という自称は見えず︑珍
しい述べ方である︒﹁京兆﹂は︑もと漠代に京畿の行政区域
杜甫と房環(−)
139
を表す名称であった︒今の駅西省西安以東で華県との間の地
に当る︒唐代は︑都長安を指した︒
3 ﹃馨唐蕃山巻l百二十l房常伝に﹁︵天資︶十五年六月︑玄
宗蒼黄幸凝︑︵中略︶常独馳萄路︒七月︑至普安郡謁見︑玄
宗大悦︑即日挿文部尚善︑同中書門下平牽事︑腸紫金魚袋︒﹂
とある︒同中書門下平章事は︑唐代の官名で︑宰相をいう︒
また︑同じく﹃醤唐蕃山房常伝に﹁其年︵至徳ll戟︶十一月︑
従粛宗達京師︒十二月︑大赦︑策動行賞︑加常金紫光線大夫︑
進封清河郡公︒﹂とある︒
4 貌教と杜如晦︒ともに麿王朝創業の功臣︒貌教は高祖︑太
宗に仕え︑敢諌することしばしばであった︒官は太子大師︑
封は鄭国公︵宰相になったことは実際にはない︶︒︵﹃奮唐害し
巻七十l︑﹃新唐書﹄巻九十七に伝がある︒︶杜如晦は︑官は
尚書右僕射︑封は菜園公︒房玄齢と共に朝政を管掌し︑当時
の人々から良宰相として﹁房杜﹂と称された︵﹃蕃唐書﹄巻
六 十
六 ︑
﹃ 新
唐 蕃
山 巻
九 十
六 に
伝 が
あ る
︶ ︒
5 婁師徳と宋環︒婁師徳は︑則天武后の時︑同平章事となり︑
辺塞経営に手腕を揮った︵﹃馨唐書﹄巻九十二︑﹃新唐書﹄巻
二百八に伝がある︶︒宋環は︑開元の初め︑刑部尚書を拝し︑
後︑眺崇の薦めで宰相となり︑玄宗を眺崇と共に助けて開元
の治を実現した︒賢相として﹁眺宗﹂と称される︵﹃馨唐書﹄
巻 九
十 六
︑ ﹃
新 唐
審 ﹄
巻 一
百 二
十 四
に 伝
が あ
る ︶
︒
6 天資十四載︵七五五︶十l月に安禄山が反乱を起こし︑天
資十五載︵七五六︶ 六月には撞関を破り︑長安は陥落した︒
7 天資十五載︵七五六︶ 六月︑玄宗は長安を後にして︑萄
︵ 今
の 四
川 省
︶
へ 豪
塵 し
た ︒
至徳元戟︵七五六︑七月至徳と改元︶八月︑皇太子が霊武
︵ 今 の 甘 粛 省 霊 武 県 の 北 西 の 地 ︶ に 即 位 し ︑ 粛 宗 と な る ︒
﹃杜詩詳註﹄ に引用されている趨次公の説によると﹁小臣
二語︑蓋謂李輔園也︒﹂という︒﹁小臣﹂二句は︑在官李輔園
のことを述べているというのである︒李輔園は粛宗擁立に働
きがあったため︑粛宗の寵が厚かった︒粛宗が房碑を重用し
たことを怨んで策動していたことは︑﹃新唐書﹄及び r馨唐
書﹄房靖伝に見える︒今︑﹃巷唐書﹁房靖伝から引用する︒
雀鳳本局中井相︑粛宗串扶風︑姶来朝謁︒常意以為国縫
到︑営郎党相︑故待圃薩薄︒囲厚結李輔園︑到後数日︑頗
承恩渥︑亦憾於靖︒靖又多構病︑不時朝謁︑於政事簡惰︒
時議以帝京陥賊︑串駕出次外郊︑天下人心備恐︑営主憂臣
唇之際︑此時常為宰相︑略無匪僻之意︒但輿庶子劉秩︑諌
議李韓︑何忌等高萩虚論︑説得氏因果︑老子虚無而巳︒此
外︑則聴童庭蘭弾琴︑大招集琴客超宴︑朝官往往国産蘭以 見落︑自走亦大招納貨賄︑姦臓頗甚︒顔虞卿時蔑大夫︑弾
何忌不孝︑常眈嘗何忌︑遽託以酒酔入朝︑腔為西平郡司馬︒
憲司又実弾董庭蘭招納貨賄︑常人朝自訴︑上叱出之︑困蹄
私第︑不敢鮨預人事︒諌議大夫張鏑上疏︑言常大臣︑門客
受臓︑不宜見累︒二年︵至徳二載︶五月︑乾烏太子少師︑
偽以鏑代靖為宰相︒
﹃新唐書﹄房常伝に︑第五埼を粛宗が江准租庸優に任命し
た時︑敢えて反対し︑諌言したことが見える︒
第五埼言財利幸︑蔑江推租庸使︒常課目﹁往楊園息果敢︑
産怨天下︒陛下即位︑人未見徳︑今又寵埼︑是一国忠死︑
一国忠生︑無以示達方︒﹂帝日﹁六軍之命方急︑無財則散︒
140
実由実
口谷
卿悪埼可也︑何所取財︒﹂舘不得封︒
11 至徳二載︵七五七︶十一月︑粛宗は都長安に還御した︒ま た上皇︵玄宗︶は同年十二月に萄郡より長安に帰って興慶官
に 入
っ た
︒
12 至徳元載︵七五六︶︑房常が粛宗に自ら請うて︑長安を奪 回するため賊軍と戦い︑陳涛斜で大敗を興したことは︑﹃蕃
唐芋﹄房常伝などに記載がある︒また︑この時︑杜甫は長安
の賊中に軟禁されていたが︑この戦きを詠じた﹁悲陳陶﹂
︵ 陳
陶 を
悲 し
む ︑
﹃ 杜
詩 詳
註 ﹄
巻 之
四 ︶
︑ ﹁
悲 青
坂 ﹂
︵ 青
坂 を
悲
しむ︑﹃杜詩詳註﹄巻之四︶がある︒
13 ﹃杜詩詳註﹄ に引く清の朱鶴齢の注に﹁蔑口︑謂粛宗入賀 蘭進明之譜︑悪靖︑匿之︒事見﹃唐書﹄本俸︒﹂と述べられ
ているように︑賀蘭進明の蔑言を粛宗が聞き入れ︑房館を悪
み疎んずるに至ったことに言及するものであろう︒﹃新唐書﹄
房館伝には次のように記されている︒
北海太守賀蘭進明白河南至︑詔葦御史大夫︑嶺南節度使︑
入謝︑帝日﹁朕語靖除正大夫︑何簾揖邪︒﹂進明衝之︑因
日﹁陛下知育乳乎︒惟以薗虚名︑任王術薦宰相︑基粗浮華︑
不事天下事︑故至於敗︒方唐中興︑常用賓才︑而常性疏闘︑
大言無皆︑非宰相器︒陛下待之厚︑然執肯寅陛下用乎︒﹂
帝日﹁何哉︒﹂掛目﹁陛下頃麓皇太子︑太子出日撫軍︑入
日監園︑而常薦聖皇建遣諸王鳥都統節度︑乃謂陛下篤元子
而付以朔方︑河東︑河北空虚之地︑永王︑豊王乃統四節度︒
此於聖皇似息︑於陛下非息也︒環意諸子一得天下︑身不失 息︑又多樹私案︑以副戎権︑推此而言︑山豆骨壷誠於陛下
乎︒﹂帝人英語︑始悪靖︒以進明恵御史大夫︑河南節度使︒
l
T ⊥14 漢の貫誼は︑若くして博学で︑二十余歳の時博士の官に任 ぜられ︑一年のうちに大中大夫になった︒しかし︑暦法を改
め︑礼楽を興すなど次々と献策したことがもとで大臣達に疎
まれ︑長沙王の太樽に左遷される︒孝文帝の死を悲しんでl
年泣き続け︑年三十三歳で卒した︒﹃史記﹄屈原・買生列伝︑
﹃ 漢
書 ﹄
巻 四
十 八
に 見
え る
︒
15 玄宗は賓應元年︵七六二︶建巳月監朋御︒享年七十八歳で
あった︒その直後︑後を追うように四月丙寅の日︑粛宗は五
十 二
歳 で
崩 じ
た ︒
16 ﹃論語﹄泰伯第八に﹁骨子日︑可以託六尺之瓢︑可以寄首
里之命︑臨大節而不可奪也︑君子人典︑君子人也︒﹂とあり︑
まだ幼い君を託すことができるのは君子というべき立派な人
であるとの意味である︒また︑三国蘭の先主劉備が︑諸茅亮
に後主を託した故事に喩え︑まだ苦い代宗を託すべき立派な
人物が朝廷にいないことを述べる︒房常は︑賓鷹元年には漢
州刺史として漢州にいた︒
17 房常は資應二年四月︑特進︑刑部尚書を拝命して︑都へ召
されて帰る途中︑病いに倒れ︑贋徳元年︵七六三︶ 八月四日︑
蘭州︵今の四川省間中市︶ の僧舎で卒した︒﹃蕃唐書﹄房常
伝は次のように記している︒﹁賢慮二年四月拝特進︑刑部蘭
書︒在路遇疾︑虞徳元年八月四日︑卒於間州債舎︑時年六十
七 ︑
潜 太
尉 ︒
﹂
18 ﹃薩記﹄檀弓上に﹁孔子蚤作︑負手曳杖消揺於門︑歌日︑ 泰山其預乎︑梁木其壊乎︑哲人其萎平︒既歌而入営戸而坐︑
子貢聞之日︑泰山共演則膏格安仰梁木其壊︒哲人其萎則膏格
安放夫子殆絡病也︒﹂とあるのを踏まえる︒
杜甫と房常(一)
141